第25話 愛しい人へ


『……じゃあなんで、……なんでクリスマスの日、俺に……』
 クリスマスの日、どうして唯君のことを言ってくれなかったのか。北川君が言いたかった言葉はそれだろう。あの日、北川君から唯君のことを訊かれた時に本当のことを話せていたら、確かにもっと別の道を辿っていたのかも知れない。
 そうすれば北川君を傷つけることもなかった、唯君が事故に遭うことだって無かったのかもしれない。でもそんなことを考えてもそれはもう手遅れで、もう過ぎてしまったことを後悔したって虚しくなるだけ。
 だけどそれでも後悔は止まらなかった。あの時北川君が見せたとても辛そうな表情、それが今まで見たことがないほど悲しみに満ちていたから。
 北川君は、とても優しい人。人の痛みを、自分の痛みのように感じてくれる人。そんな人を傷つけてしまったから。



「今日もまた一段と顔色よくないわねー、保健室行って休んだほうがいいんじゃない?」
「大丈夫だよ、頼子ってば昨日と同じこと言って心配しすぎだよ」
「だってさー、言いたくなるくらい顔色悪いもん真奈美」
 学校へ来ると、また昨日のように頼子から同じことを言われた。けれど、自分の体調のことよりも昨日の北川君とのことが気になって、静かに私は自分の席につく。そして少し顔をあげて、教室の前方で友達と話している北川君の姿を見る。北川君は、まるで昨日のことなどまったく感じさせないかのように元気だった。
 でも、ただそう見えているだけで実際は違うのかもしれないけれど。
『じゃあなんで!!!』
 昨日、私が未だかつて見たことがなかった北川君がそこにいた。悲しそうに顔を歪めて、怒鳴り声をあげる。怖いというよりも、見ていて辛い気持ちになった。
 そんなことがあってか、私は彼に話しかけるべきかどうか迷っていた。昨日のこともあって話しかけづらい。それに、きっと彼は私に対して怒っているはず。そんな、一日で機嫌が直るほど簡単な問題じゃないと私自身も分かっていた。
 あんな大事なことを今までずっと打ち明けず、黙って隠し続けてきたのだから。人に隠し事をするということは、それなりのリスクが伴うことを私はこの時実感したのだった。
「あんまり無理しちゃ駄目だからね、気分悪くなったらすぐに言ってよ」
 私の隣の席に腰掛けていた頼子は、未だに私を心配している。
「本当に大丈夫だよ」
「そんなこと言ってるとそのうちほんとに倒れるよ。あ、ちょっと私手洗い行ってくるから」
「うん、分かった」
 頼子が教室を出て行った後、私は鞄から本を取り出して朝礼まで時間を潰すことにした。北川君に話しかけたいのは山々だが、せっかく楽しそうに話している彼を止めるのも申し訳ないし、なにより人前では話せない。
 後で、彼が一人になったところを見計らって声をかけよう。そう思っていた。北川君が許してくれるかどうかは分からないけど、きっちり謝って自分の気持ちだけは伝えておきたかった。



「北川君!」
 昼休みになって、一人で教室を出て行こうとした北川君の後を追い、私は彼の腕を掴んだ。私が呼びかけた途端、北川君は驚いたように肩を少し揺らす。そして、なんだか無理矢理作ったようなぎこちない笑みを浮かべて私を見た。
「なに?」
 前の唯君のように「放せ」と拒まれなかっただけ、少し安心した。
「……あのね、北川君にちょっと話したいことがあって……」
「ごめん……今そういう気分じゃないから」
 こんな風に北川君に拒まれるのは初めてのことだった。
 そういう気分じゃない、つまり、私と話したい気分ではないということだ。今まで優しくしてもらっていた分、その落差は大きかった。それを聞いた私は思わず凍り付いてしまう。
「じゃ、俺行くから」
 小さく一言、私に告げて北川君は教室を出て行ってしまった。私は数秒固まってしまっていたが、すぐに我に返ると急いで彼を追いかけて再度引き留めようとした。こうなることも分かっていたけど、北川君の言った言葉を信じたくなくて、なによりも拒まれてしまったという事実が辛かった。
「待って! お願い北川君、私昨日のこと」
「藤森は悪くないよ」
 謝りたくて、と言おうとしたが私の口から出るよりも早く北川君が言葉を返して、私が謝る機会を消してしまった。
「北川君……」
「唯の性格からしても、誰にも知られたくなかっただろうし、ダチだっていってもそんな簡単に話せるようなことじゃないから。……そんなのは分かってるんだ」
 歩いていた足をピタリと止めたが、北川君は私の方を見もしない。
「昨日のは俺の勝手な八つ当たり。……ごめん」
「……そんなこと……」
「俺、一人で考えたいことがあるから。また今度な」
 それ以上、北川君に話しかけることは出来なかった。歩いていった彼を止めることも。まるで互いの間に見えない壁があるように、今まで近くに感じていた北川君の存在が遠い。手を伸ばしても、届かないように思える距離。
 私は昨日と同じ、誰もいない場所に一人取り残されてしまったかのような孤独を感じた。
(一人で考えたいことがある……か)
 北川君がここまで思い詰めてしまうなんて思ってもみなかった。やっぱり、彼にだけはもっと早くに話すべきだったのかもしれないと、こんな時にまで後悔している自分がいる。
 北川君とまともに話すことも出来ずに重い足取りで教室へ戻った私は、自分の席へ向かった。頼子はさっき別のクラスに行ってくると言っていたため教室にはいない。寂しくて、今は誰とでもいいから話したい気分だったが、そんな友人など自分にはいなかった。唯君や北川君、紺野さんみたいに私は友達が多くない。クラスでまともに話せる相手なんて、今は頼子しかいない。
 一人ぼっちな自分。けれどそれも、唯君を事故に追い込んでしまったこと、今まで北川君に黙っていたことを考えれば自業自得のような気がした。
 しかしそんな時、紺野さんと仲のいい女の子達の横を通り過ぎようとした途端に、その子達の一人が教室中に聞こえるような声で言ったのだ。
「唯君が入院中だからって今度は勇介なんだー? よくやるねー」
 思わず足を止めてしまうくらいに衝撃がはしった。
 それは明らかに私へ向けられた言葉だと分かったからだ。そして、その声には悪意のようなものが込められているのを感じたから。
「……っ……」
 無数の視線が自分に突き刺さるのを感じる。そして、なにかされたわけでもないのに、どこかが苦しい。私はギュッと手を強く握り締めて、言葉を無視して席についた。
「うわ、無視かよ」
「案外したたかなんじゃん」
 こんなことを言うほど私のことを嫌っている人なんて、一人しか心当たりが無かった。けれど、その唯一の心当たりである紺野さんは今教室にいない。
 それに紺野さんは言いたいことがあったら以前のようにはっきり本人に言うタイプの人だ。だからこれは彼女が指示したことではないこともすぐに分かった。
 なんとか無視しようと机から本を取り出して読もうとしていた私のところへ、先ほど声をあげた紺野さんのグループの子達五人が来て突如視界が陰った。昼休みとはいっても教室には半数以上人が残っていて、私の席を中心に殺伐とした空気が漂っている。
「つばさに謝りなよ」
 私の目の前を陣取った子がきっぱりとそう告げた。
 謝らなければならない理由もなんとなく分かっていた。けれど、本人から言われるならまだしも、彼女の友達からそんなことを言われるということがどうしても腑に落ちなくて、私は黙ったまま俯いていた。
「つばさがどれだけ唯君のこと好きだったかあんた知ってんでしょ。なのによく横からかっさらうよーな真似出来るよね。それで、唯君が入院したら今度は勇介に取り入ろうとして、都合良すぎじゃないの?」
 無神経な言葉を浴びせられ、ズキッと胸が軋んだ気がした。
(違う。そんなつもりで北川君にいつも話しかけていたわけじゃない……)
 取り入るなんて、いつ私がそんなことをしたというのだろう。そんなの全部勝手な思い込みだ。
 すぐにでも言い返したい衝動に駆られたが、今は黙ったままの方がいいのかもしれないと私は下を向いたまま口をつぐんでいた。言い返せば彼女たちはもっと怒るだろう。そして結局自分が余計に傷つくことになる。黙っていた方が自分にも周りにも被害が少ないような気がしたから。
 私を囲んでいる子達は、何も言わない私に対してさらに毒づいてきた。
「一見地味なくせして、相当やな女だよね」
「生意気っていうかさぁ」
「藤森さんがこんな最悪な人だなんて思わなかったよ」
「ただ暗いだけの子かと思ってたのに、最低じゃん」
 唯君の側にいて彼の話を聞いて、北川君には相談にのってもらって、いつも助けられていた。それが、紺野さんから唯君をかっさらったとか、北川君に取り入るとか、周りから私はそんな風に見えていたのだろうか。
 ショックを受けると同時に、唯君や北川君に対して申し訳なくなってきて、私は泣きそうになるのを必死で堪えた。
「ねー、ちょっと聞いてんの!?」
「黙ってればいいとか思ってんじゃないでしょうね」
 下ばかり見ていた私に腹が立ったのか、口々に色々なことを言われたが私はなおも口を閉ざした。言い訳したところで、どうせ聞き入れてなどくれないだろう。もっと状況が悪化するだけだ。自分は、黙っている方がいい。
 だがそんなところへ紺野さんが教室へ戻ってきて、教室の殺伐とした様子と、女子数名に囲まれている私を見て驚いたように声をあげた。
「ちょっとなにやってんの!?」
 私を囲んでいた子達は、紺野さんの方を見るなり少し笑っている。
「あ、つばさ」
「だってさームカつくじゃん藤森さんて」
「そーだよ。つばさ、唯君取られそうになってんのに」
 以前、私が唯君と話しているところを見た紺野さんから、「唯を返して」とはっきり言われたことがあった。
 紺野さんが唯君に思いを寄せているのは学年間でもかなり知られていることだ。教室でも二人はよく一緒にいるし、なにより紺野さんの唯君へ対するアプローチはすごいものだったから。
 だからこそ、突然私が現れて唯君と仲良くしていることが紺野さんは気に入らなかったのだ。そして、彼女の友達も紺野さんが今まで唯君のために頑張ってきたことを知っているからこそ、私が気に入らないのだろう。
「や、だからって5対1とかありえないでしょ。ちょっともうやめてよ」
 怒って彼女たちにそう言うと、紺野さんはしゃがんで、俯いていた私の顔を見て申し訳なさそうな顔を見せた。
「ご、ごめんね藤森さん……。いじめようとか、そういうつもりじゃないから!」
 以前の屋上での出来事のように、紺野さんは言いたいことがあったら本人にはっきり言う。だから先ほどのことは、紺野さんの友達が勝手にやったことなのだ。紺野さんのことを想って。こんなにも真剣に想ってくれる友達を持つ彼女が、素直に羨ましいと思った。
 私から見れば紺野さんは、私が欲しいと思うものをなんでも持っているような人だった。人脈もあって、綺麗で、元気で明るくて、言いたいこともはっきりと言える、そんな直球なところが羨ましかった。
 それなのに、こんなにいい人が想ってくれているのに、どうして唯君は紺野さんの告白を断っているのだろう。いつかそういう話をした時に、それに答えてくれた人がいた。
 唯君と似た、温かな微笑みを見せる人。北川君。
『少なくとも、唯にとってはつばさは側にいてほしい人じゃないんだろ。だから毎回告白されても断ってるんだ』
 唯君にとって側にいてほしい人。自分の全てを知られても側にいてくれる人、感情を全部さらけ出すことか出来る、支えになってくれる存在。そんな存在に私がなってあげたいと思った。
 他の誰でもない、唯君のことが好きだったから。
「私、……紺野さんから唯君を取っちゃおうとか、そんなこと思ってなかったよ……」
 気が付けば、私は俯いたままポツリと、紺野さんに向かってそう言っていた。そしてその言葉に対して、紺野さんは「え?」とでも言うように顔を歪める。
 私は俯いていた顔を上げて、まっすぐに紺野さんを見つめた。
「ただ、唯君はどう思ってくれてるのか分からないけど、私が側にいてあげたいと思っただけ」
 溢れ出した感情の高ぶりを、止める術など私は知らなかった。



 それは唯君の、たった一言の、ささやかなお願いだった。
 一度目は、雨の中。真実を知った私に、唯君はとても辛そうに顔を歪め、私を抱きしめて小さな声でそれを言った。側にいてほしい、と。
 二度目は、夕日の綺麗な屋上で。卒業したら家を出ると言った彼は、卒業するまでの三ヶ月間だけでいいから側にいてくれないかと私に頼んだ。
 一度目は自信がなくて逃げ出してしまった私だけど、秘密を知ってもなお唯君のことが好きだという気持ちは消えなくて、それどころかもっともっと強くなっていった。だから二度目に彼がそう言ってくれた時、悲しかったけど今度こそ彼の側にいようと決めて、私は彼のお願いを聞き入れた。
 唯君のことが好きで好きでたまらない。でも一度私が告白した時には、はっきり「大嫌いだ」と言われた。そして二度目、唯君が事故に遭うほんの少し前に「好きだよ」と言ったが唯君は「もういい」と言って私を拒否した。
 私といると落ち着ける、安心出来ると唯君は以前言ってくれた。キスもした、抱きしめてもくれた、だけど私の「好き」という気持ちは、いつも頑なに断られてきた。側にいてくれと彼は言ったけれど、それ以上は求めてこなかった。それが彼の限界だったから。
 だけど、ねぇ唯君……。
 少しだけ、少しだけだから……、貴方が私を必要としてくれたことに、自惚れてもいい……?



「唯の側には私がいるから、藤森さんはいなくていいよ」
 みんなの前ではっきりとこういうことを言ってのけてしまうところが、紺野さんらしいと思った。彼女は綺麗な笑みを浮かべて、負けじと私の方を見つめている。
「それに、私の方が唯との付き合いが長いもん。藤森さんは一年と三年しか一緒のクラスなったことないでしょ? 私、唯のことならなんでも知ってるよ」
 前に北川君から聞いたことがある。紺野さんは小学生の頃からずっと唯君と一緒だったということを。私は高校で初めて唯君と知り合ったから、紺野さんの方が唯君のことをよく知っているだろう。それは否定しないし、するつもりもない。だけど。
「じゃあ……紺野さんは辛そうな唯君を見たことがある?」
「は……?」
 紺野さんは「何言ってるの」とでも言うように怪訝な顔をして私の言葉に反応を示した。
「苦しいこととか悲しいことがあってもずっと我慢してきた唯君のことを、今まで理解してきた……?」
 こんな挑発的なことを言って、今の自分はすごく嫌なやつだと思った。でももういい、嫌なヤツだって、そう思われたっていい。唯君と一緒にいられるのなら。
「紺野さんしか知らない唯君がいるように、……私だって、私しか知らない唯君を知ってる!」
「!!」
 私に離れてもらいたくて必死で酷いことを言って冷たくしてきた彼。
 いくら痛い目にあっても誰にも言わずに嘘を重ねて耐えてきた彼。
 父親を殺してくれと叫んだ彼。
 けれど本当はお父さんもお母さんも大好きな、寂しがり屋な彼。
 痛い目に遭うことを、信じていた人から傷つけられる恐怖に怯えていた彼。
『藤森は俺とあの人との関係を知っても、軽蔑しないでいてくれて、変わらず優しくしてくれて……俺にとって藤森は、……初めて自分のことを分かってくれた、たった一人の理解者だった……』
 そして、どんなに苦しいことがあっても微笑んでくれた、本当はとても優しい彼。
 涙と共に唯君に対する気持ちが溢れて、止まることを知らなかった。そして同時にバチンと鋭い痛みが頬に走って、私は紺野さんに叩かれた。ムカつかれて当然のことを彼女に言ったのだ。
「なにが言いたいのよ!!」
「……っ、……泣いてる唯君を見たことがある……? 本当は誰かに側にいてほしいのに、誰にも頼めなくてずっと一人だったのに」
 紺野さんは顔を赤くして、私を強く睨んでいた。
「……唯君は周りが思ってるほど、強い人じゃないんだよ……」
 誰の助けも必要としない強い人なんて、一人ぼっちで寂しいだけ。弱い所もあるからこそ人の助けを必要として、互いに支え合っていけるのだ。一人ではないということを知るのだ。
「だから……」
 そこまで言ったところでふと、自分の足下がぐらりと歪んだ感覚に囚われた。視界も、若干ぼやけてきたように思える。目の前にいる紺野さんが、どこか遠くに感じる。
 聞こえてくる声も、なんだか小さい。
「藤森さん……?」
「……だから、……だから私が……」
 その瞬間、ふらりとバランスを失って床に倒れて、私の意識はそこで途絶えた。



「……ん」
 ゆっくりと目を覚ますと、最初はぼやけていた視界が次第にハッキリとものを映していく。ここがどこなのか分からない。見覚えのない場所に自分は寝かされていた。
 そして横に目をやると、そこには紺野さんがいて、気が付いた私を見てニコッと安心させるように笑みを浮かべた。
「あ、目覚めた?」
「紺野さん……ここ……」
「病院。藤森さん教室で倒れたから、ビックリして急いで佐倉先生呼んで、病院に連れて行った方がいいって言うから病院に来て点滴してもらったの。私がいるって言ったから佐倉先生はもう学校に戻ったけど」
 どうやらあの後、私は気を失って倒れてしまったようだ。頼子と北川君からも「顔色が悪い」と体調を心配されてたのに、私は「大丈夫」って口だけで、自分のことだってよく分からないでいたのだ。
 情けなくなって、私は少し苦笑した。そして私が目を覚ましたことに安心したのか、さっきまで優しげに微笑んでくれていた紺野さんは急に怒ったような顔つきになる。
「ここ最近ご飯あんまり食べてなかったんでしょーっ、点滴終わったらもう帰っても大丈夫らしいけど、ご飯ちゃんと食べてゆっくり休まないと駄目だからね」
「うん……」
 紺野さんが付き添ってくれていたのが意外で、一瞬これは夢なんじゃないかとさえ思ってしまう。彼女の言葉には悪意がほとんど感じられない、自分の気持ちに素直で怒ると怖いけれど、普段はとても優しい人だからだろう。
「あ、佐倉先生が藤森さんの家に連絡したから、もうすぐ家の人が迎えに来てくれると思うよ。それじゃ、藤森さんも目を覚ましたことだし、私これで帰るね」
 椅子から立ち上がると、鞄を持って紺野さんは病室を後にしようとする。私の目が覚めるまで付き添ってくれていたのだ、重い身体を起きあがらせて、私は彼女を呼び止めた。
「あ、紺野さん!」
「? なに」
「あ、ありがとね……。それと、今日はごめんなさい……生意気なこと、ばっかり……」
 私の視線の先にいた紺野さんは、それを聞いてニコッと可愛らしく微笑んだ。病室の窓から夕陽が差し込んでいて、そのせいか尚更私の目には綺麗に見えた。
「私もごめんね。ついカッとなって叩いちゃって。私口よりも先に手がでちゃうから、いつも後で後悔すんのよね……! 今日のは全部私が悪いから、藤森さんが謝ることないよ。本当にごめんね」
 じゃあ、また学校でね。と手を振って病室を出て行こうとした紺野さんは、ドアのところまで歩いて足を止めた。そしてそのまま、振り返らずに私に背を向けたまま、言葉を紡いだ。
「ねぇ、藤森さんは……唯のこと好き?」
 とても真剣な、紺野さんの声。私に背中を向けているからどんな顔をしているのか分からないけれど、きっと紺野さんは笑っていない。だから、私も真剣に答えた。
「……うん、……好きだよ」
 心の中で紺野さんに謝って、私は自分の気持ちを彼女に告げる。それを聞いた紺野さんは少し笑ったようだった。
「……っ、……そっか……」
「紺野さん……」
「あっ、でも勘違いしないで! 私、藤森さんに唯を渡すつもりなんてないんだから、……私はこれからもずっと、唯だけなんだから……」
 とても一途でまっすぐな紺野さんの気持ちが伝わってくる。唯君のことが好きなのだという大きな気持ち。私も唯君のことが大好きだけれど、この時の紺野さんの言葉と少し悲しそうな声が、胸に響いていた。
 思わず紺野さんから瞳を逸らして、俯いてしまう。
「それとっ、三階に唯のいるICUがあるから、帰る時に行ってみるといいよ」
 気を取り直したようにそう言った紺野さんに、私はすぐに顔を上げた。彼女は相変わらず私の方を見ようとはしない。
「え……?」
「まぁ、行ったって中には入れないんだけどね……」
 どうして紺野さんがそんなことを言ってくれるのか分からなくて、私はなんと言えばいいのか返事に困った。すると突然、紺野さんが振り返る。
「悲しそうな顔とか、辛そうな顔とか、泣いてる顔とか、……私、唯のそんな顔一度も見たことないよ」
 微笑んでいる、けれどどこか寂しそうな雰囲気を感じた。その綺麗な微笑みに、息をのんだ。
「すごいね。藤森さんは」
 嫌味など感じない、素直にそう言ったのが分かる声と口調。それを残して、紺野さんは病室を出て行ってしまった。



「まなが学校で急に倒れたって言うからビックリしたぞ」
 病院にいた私を迎えに来てくれたのは遥お兄ちゃんだった。私の荷物を持って病院の廊下を歩いていきながら、遥お兄ちゃんは笑っている。
「ごめんねお兄ちゃん……」
「だから俺と一真が言っただろ、お前最近ヤバイからゆっくり休んだ方がいいって」
「ん……」
 大丈夫と言っていたのに学校で倒れて病院のお世話になってしまった以上、兄から何を言われても反論は出来ない。私はしゅんとなって黙って兄の話を聞いていた。
「あ、そういや唯もこの病院にいるんだろ? 見舞いはしたか?」
「唯君は、……ICUに入ってるからお見舞い出来ないんだ……」
 私がボソッと言うと兄は「あっ」と気まずげ声を漏らして、「ごめん」と謝ってくる。私の兄弟はもちろん、母もあの日唯君が事故に遭ったことは知っている。遥お兄ちゃんは私の頭を軽くぐしゃっとすると、安心させるように微笑んだ。
「まぁ元気だせって、そのうち意識戻るさ」
「……うん」
「唯の意識が戻ったら家族全員でお見舞いに行かないとな。なんせ未来のまなの旦那だから大事にしないと」
「! い、行かなくていいから……!! っていうか違うから!」
 不意打ちともいえる兄の冗談に私はカッと顔が赤くなって、全然気分じゃなかったのにも関わらずつっこんでしまった。兄は嬉しそうに笑って、それを見るとなんだかはかられたような気がしなくもない。私は複雑な面持ちで兄の後をついていった。
『それと、三階に唯のいるICUがあるから、帰る時に行ってみるといいよ』
 紺野さんが先ほど教えてくれた、唯君が眠っているICUのある場所。
 事故にあったその日から、私はこの病院へは足を踏み入れていなかった。傷付いた彼に会いたくなくて、何も出来なかった自分が悔しかったから。そしてその気持ちは今もまだ変わっていない。
(ごめんね唯君、まだ行けないよ……。どんな顔をして貴方の所へ行けばいいのか私にはまだ分からない)
 あの時、私は彼になにもしてあげられなかった。それは揺らぐことのない事実。けれど自分が無力なのだと、認めたくない。私が彼のために出来ることはきっとあるはず、それをしてあげたい。
 もう怖い思いなんてさせないよ。辛そうな顔も、悲しくて流した涙も、全部全部笑顔に変えてあげたい。私に出来る精一杯のことをしてあげたい。
 そして、次来る時はきっと、きっと笑顔で彼を抱きしめてあげられるよね……。