第26話 残した言葉 -will-


『唯! 唯!!』
 降り注ぐ冷たい雪の中。
 今でも鮮明に思い出す、ぐったりと力なく横たわった身体、至るところから流れ出る、生暖かい血。鮮血で染まった衣服、肌。そして閉じられた瞳。こちらが何度必死で呼びかけようとも、その声に応えてくれることはなかった。
 血がべっとりついた手を握っても、握り返してくれることもない。まるで死んでしまったかのように、ピクリとも動かなかった。
 どうして、こんなつもりではなかったのに。自分はただ、連れて帰りたかっただけだ。
 血まみれの我が子を必死で抱きしめながら、深い絶望感と喪失感で心がいっぱいになっていく。古い傷を抉られたような、激しい痛みと悲しみが自分を襲った。
『唯ーっ!!』
 あの日、私は再び大切なものを失ってしまったような気がした。



 もうどれくらいの時間が流れたのだろう。
 リビングのソファに腰掛けたまま、なにをするでもなく呆然としていた。疲れているわけではない、気力が出てこなかった。何もする気になれない。なぜこんなにも空虚になってしまっているのか、理由は分かっていた。そして頭に浮かぶのはいつも同じ言葉。
(どうしてこんなことに……)
 ついこの間まではあんなに近くにいたのに、今はいくら手を伸ばしても届かない。失くしてしまうのは本当に一瞬だ。失いたくないという気持ちとは裏腹に、その時はいつも残酷にやってくる。そんなことは由梨を失った時に身をもって思い知ったことだった。だから、あんな辛い気持ちはもう味わいたくなかったから、だから。
 だから自分の子供を手にかけた。大事だから、失わないように側に置いていた。言うことを聞かなければ、少しでも抗えば、手酷く暴力を振るった。痛めつければつけるほど身体はその時の痛みを鮮明に覚え込む。そして次第にそれを恐れて大人しくなってくれる、言うことも聞いてくれる。
 けれど、最初からこんな感情を抱いていたわけではない。
 最初は、ただ側にいてくれるだけでいいと思っていた。だから葬儀が終わった後、私が「側にいてくれ」と言ったら唯はいつもの笑顔で「いいよ」と言ってくれた。由梨を失った私に同情してくれたのだろう、唯は気遣いが上手で、親思いの優しい子だったから。そしてその時握ってくれた手が由梨のそれと重なって、微笑みも由梨のものととても似ていることに気付いて、それを見たら心の底から安心出来た。この子がいてくれれば他には何もいらないとさえ思った。
 それくらいの安らぎを、唯は私に与えた。
 しかし、そんな安らぎなど、所詮は唯がいてくれる間のほんの一時だけに過ぎなかった。



「唯……今までどこに行っていた」
「え? 北に呼ばれたから少し話をしてきただけだよ」
 葬儀が終わったその日の夜、ふと唯がいないことに気付いて家中を探した。唯は家のどこにもいない。私は愕然として、由梨に続いて唯までいなくなったら自分はどうすればいいのだと焦った。側にいてくれると約束した側からいなくなる、さっきまで私の手を握ってくれていた手はこんなにも簡単に離れていく、その事実に絶望した。
 結局、唯はただ友達と話すために外出していただけだったようで、さして時間のかからないうちに何食わぬ顔で家に帰ってきた。側にいてくれると言ったのに自分を一人にした。私の頭の中はそれでいっぱいで、帰ってきた息子を前に私は心底焦燥していた。
「側にいてくれると言ったじゃないか、どうして急にいなくなったりするんだ!」
「……そんなに怒ってどうしたの……? ……たった一時間家を出ただけじゃん、なにもそんなに……」
「駄目だ、お前は私の側にいないと駄目だ!! 勝手にどこかへ行くんじゃない!!」
「……お父さん言ってることおかしいよ。俺明日から学校行くんだよ。側にいるとは言ったけど、そんな一日中なんて無理だってお父さん分かってんだよね」
 怒っている私を前に、唯はかなり驚いた様子で、困惑したような表情を浮かべそう言ってきた。私はその言葉に尚更苛立ちを覚えた。家にいる間だけしか側にいてくれないというのなら、学校へなんて行かせたくなかった。
 心の内に、そんなどす黒い感情が芽生えてくる。それを抑えて、目の前にいる唯を抱きしめた。
「!? お父さん?」
「由梨のようにお前まで失いたくないんだ……今は私の側にいてくれ……」
 高校一年だけど平均よりも背丈が小さくて体つきも小柄だった唯は、抱きしめていると本当に由梨を抱擁しているような錯覚に陥った。身体から伝わってくる温もりも、香りも、由梨のものととても似ている。親子なのだから似ていて当然といえば当然だが、唯は顔立ちまで完璧に母親似だった。どこまでも由梨とそっくりな息子の唯。
 だからなのかもしれない、自分が唯をこんなにも求めてしまったのは。
「唯……」
「……お父さんは一人じゃないよ」
 それなのに、唯はきっぱりそう言って抱きしめていた私の身体をゆっくりと突き放す。
「側にいるって言ったのは、家族だから。それに俺、お母さんみたいに身体弱くないし、急にいなくなったりしないから、お父さんも元気出してよ」
 唯からしてみれば私を元気づけようとして言ったつもりなのだろうが、それは私を突き放し絶望させるには十分な言葉だった。
 唯はニコッと微笑むと、何事も無かったかのように私から離れた。
「しばらくは放課後すぐに帰ってくるからさ。じゃ、そういうわけだから、俺明日から学校行くよ」
 呆然と立ち竦む私を置いて、唯はそう言ってキッチンの方へ歩いていった。
 離れていく。私は唯がいてくれないと駄目なのに、唯は私がいなくても大丈夫なのだ。思えば、由梨が亡くなった時も唯は全く泣かなかった。唯は由梨や自分がいなくなっても平気なのかもしれない。強くてしっかりした子。唯にずっと側にいてほしいのに、それは聞き入れてもらえない。
 どうすればいい、どうすれば、唯は側にいてくれる。頭の中はその考えに埋め尽くされ、唯が私に向かって何か話しかけてくれていたが耳に入らなかった。
「お腹空いたね、俺なんか作るよ。お父さん何が良い?」
「……」
「……お父さん?」
 何も言おうとせず突っ立ったままの私のところへ、不審に思った唯が戻ってきた。唯は私の顔を見た瞬間少し悲しげな表情をしたが、すぐに何事も無かったかのように笑った。
「そんな顔しないでよ。俺がいるじゃん」
 この時見せた唯の笑顔が、全てを壊すきっかけになったのかもしれない。由梨にそっくりなその笑顔。むしろ私には由梨に見えた。いなくなったはずの妻に。
「……由梨」
 そうだ、側にいてくれないのなら、無理矢理にでも側にいてもらえるようにすればいい。学校になんて行けないくらいに、めちゃくちゃにしてやれば。そう思ったら、止まらなくなった。唯を側に置くためならなんだってしようと、歪んだ想いが心を覆った。
 そしてその夜、全てをぶち壊した。壊すことなんて簡単だった。
 最初はただ手酷く暴力を振るった。抵抗もままならない自分の子供を殴り、蹴って、唯が「やめて」と言っても止めなかった。突然のことで唯には何がなんだか分からなかっただろう。それもそのはず、唯は何もしていないし、悪くなかったのだから。
 痛みを堪えながら苦しそうに床にうずくまる我が子を見ていたら、なんだかスッとした。罰だと思った。側にいると約束したのに、勝手に離れようとした罰。でも、それだけでは満足出来なかった。
 由梨を失ってぽっかり穴が空いたような心を、何とかして埋めたかった。唯が側にいてくれれば自分は救われる。この由梨にそっくりな子がいてくれれば。
 私はその隙間を埋める役目を、あろうことか自分の子供に押しつけたのだ。彼女と同じ温もり、香りを持っていた、彼女そっくりな自分の子供に。嫌がる相手のことなんてお構いなしに、私は一心に唯を感じた。行為にふけっている間、心の穴が埋まったような充実感で満たされていた。幸せな一時だった。
 そしてこの日から、私にとって唯は自分の子供ではなくなり、唯にとって私は父親ではなくなった。



 もう大事な人を失いたくなかった。そして穴が空いたような心を埋めたかった。
 その想いが起こした行動の結果がこれだった。失いたくないと思っていたのに、失ってしまった。大事な子だったのに。自分がとんでもない過ちを犯していたということは分かっていた。
 けれど、どうすれば失わずに済んだというのだろう。由梨がいなくなってから、欠けてしまったような心はどうすれば元に戻ったというのだ。考えれば考えるほど、深みにはまって分からなくなっていく。なにもする気が起きない無気力状態の中、そのことを延々と考え込んでいた。
「由梨……唯……」
 どうして今側にいないんだ。こんなに呼んでいるのに、どうして二人は来てくれないんだ。頼むから側に来て欲しい。自分を一人にはしないで欲しかった。
 ソファに座り込み俯いたままずっと考えて、来てくれるはずがないのに心の中で何度も二人を呼んでいた、そんな時だった。今まで部屋を包んでいた冷たい空気が、一瞬にして変わったような気がしたのは。そして。
『……お父さん』
 声と共にゆっくりと伸びてきた、自分よりも一回り小さな手が、私の手に添えられた。顔を上げると、そこにいた少年はこちらを見つめてニコッと微笑んで見せる。
「……唯?」
 そこにいたのは紛れもなく事故にあったはずの自分の息子だった。
 これは幻か、それとも夢か。呆然とそれを見つめながら漠然と考えた。けれど、すぐに興味が失せてどうでもよくなった。どっちでもいい。幻でも夢でも、唯が来てくれたのだから。
「唯、……来てくれたのか……」
 自然と笑みがこぼれて、嬉々として話しかける。だが、話しかけても目の前にいる唯は微笑むだけで、こちらを見つめたまま口を開こうとはしない。けれどそれだけでも十分なほどに、心は満たされていた。
「いやいいんだ……、側にさえいてくれれば……。由梨のようにいなくならないでくれれば……」
 そう口にした時、その少年の微笑みと重なったのは、最愛の人・由梨の姿だった。



 それは夏休みも間近に迫った、7月のある日のことだった。
 朝目を覚まして、あくびをしながら階段を下りていくと、玄関で靴を履いている唯の姿があった。
「もう学校か、いってらっしゃい」
「あ、お父さん。おはよ」
 私が会社へ行く時間よりも、唯が学校へ行く時間の方が早い。だからいつも私が目を覚ます時には唯はもう朝ご飯を食べた後だったり、今のように玄関で靴を履いていることが多かった。
 声を掛けると唯はこちらを向いて笑みを浮かべ、それを見て私は思い出したように口を開いた。
「ああそうだ、今日は帰りが遅くなるから、ご飯は適当に作って食べていいから」
 由梨がいる時は彼女が食事を作ってくれていたのだが、生憎由梨は先日体調を崩して入院してしまっていた。以前からこういうことを幾度も繰り返していたためか、由梨が入院中は唯が食事を作って、私がその他の家事をする、と男二人で分担してそれなりに上手くやっていた。
「うん分かった。お父さんは? ご飯、ウチで食べんの?」
「ああ、一応そのつもりだ」
「そう、じゃあお父さんの分も作っておくから。お父さん料理下手くそで見てらんないし。あ、それと今日ゴミの日だからゴミ出しといてよ」
 なにか聞き捨てならないことを言われたが、言い返すスキもなく別の話題を持ってこられてしまった。それがわざとなのか、無意識なのかは分からないが。
「ゴミの日? ……そんなにゴミは溜まってないだろう。それにほら、お前学校行く途中にゴミ捨て場の前を通るじゃないか、ついでに捨ててきてくれたって」
「は!? ……ちょっとお父さん、こないだ俺にジャンケンで負けてゴミ捨て当番になったじゃん」
 唯から怪訝な顔をされ、そう言われて「そうだったっけ」と前の記憶を辿ってみると、そうだ、確かに一昨日ゴミ捨てのことで話を振られて、ジャンケンで決めようと唯が言うから言われるがままにジャンケンをして、まんまと負けてしまったのだ。
「ゴミ捨てか、……めんどくさいな。あれって家まで取りにきてくれるサービスは無いのか」
「ちょっと……いくら起きたばかりだからって、しっかりしろよ。取りに来てくれるわけないじゃん。ゴミ捨てちゃんとしといてよ。じゃあ行ってきます」
 息子から「夜ご飯作っておく」とか「ゴミ捨てしておいて」など言われる父親もそうそういるものじゃないだろう。そんなどうでもいいことを思いながら唯を見送って、しばらくそこにボーッと立っていたが、次第に眠気が覚めてきて頭も冴えを取り戻してくると、こんなところに立っている場合じゃないと慌ててリビングへ向かった。
 自分も早く会社へ行く支度を整えなくては。



 会社とゴミ捨て場は全く逆方向に位置している。
 それでもゴミ捨て場は家から1分とかからない距離にあるものの、朝からこんな一仕事はめんどくさいというものだ。学校へ行く途中に通るんだから捨ててきてくれたっていいのにこのやろう、と心の中で思いながら、身支度を整えた後、車に乗る前にゴミ袋を片手にゴミ捨て場まで走っていた。
 思ったとおり、ゴミはそんなに大した量ではなかった。多いか少ないかと訊かれれば、断然少ない方だ。
(この量で出せとは、どこまで細かい子なんだ……)
 のんびりしていてどこか抜けている由梨と、めんどくさがりな自分の子供にしては、唯はおかしなほどにしっかりした子だった。由梨のいない間、家のことはしっかりしてくれるし、料理だって私よりもはるかに上手い。学校でも成績は良いようだし、以前由梨の代わりに三者面談に行った時なんて先生からかなり褒められて驚いた記憶がある。
 しかし、いくらしっかりしているからとはいえど、この少量のゴミを出しておけとは、マメすぎるにも程がある。帰ってから唯に文句を言う気満々でゴミ捨て場へと走った。
「あら桜川さん」
 ゴミ捨て場のところで三人ほど固まって話をしていた近所の奥さん達に話しかけられないように、さりげなくゴミを捨てて去ろうとしたところ、不運なことに声を掛けられてしまった。
(……なんてことだ……)
 すぐにそう思った。早く会社へ行かなければならないのに、厄介な人達に捕まってしまった、と。こうなっては無視するわけにもいかずに、私は振り返って軽く挨拶をした。
「ああ森川さん、おはようございます」
 噂好き・おしゃべり好きで近所でも有名な森川さんと、他の二人は、彼女と仲のいいどこかの奥さんだろう。由梨と違って近所付き合いというものをあまりしていないせいか、どこの誰だか名前がさっぱり分からない。その中でも森川さんだけは、初めて会った時にすごい勢いで話しかけられ強烈なインパクトを植え付けられた事もあってか、完璧に覚えてしまったのだが。
「奥さんまた入院したんですって? 大変ですねぇ」
「えぇ、まぁ……」
「普段はとてもお元気なのに、いつも突然入院されてしまうから私達もビックリで」
「桜川さんも色々大変ですね。でもご主人もお子さんもしっかりしてらっしゃるし、唯君は愛想良くて礼儀正しいし、ほんとにウチの主人と娘も見習ってほしいくらいですよ」
「はは、そんなしっかりしてるだなんてとんでもないですよ」
 少なくとも、しっかりしているのは自分ではなくて息子の唯のほうなんですけどね、と口に出さずに心の中で返事をしながら、チラッと腕の時計を見るともう8時半。
(ああっ、会社に遅れてしまう……!)
 自分は早く会社に行かないといけないのに、目の前でペラペラとしゃべり出す森川さんとその取り巻き相手に愛想笑いを浮かべながら、適当に相づちを打つ。ようやく話に区切りがついたかと思い「じゃあ私はこれで」と言うものの新たな話題を振られて足止めを食らってしまうから、主婦の話術は侮れない。
 そしてようやく解放されたのは、それからさらに7分後のことだった。



「思ったより早く帰れるな」
 入っていた仕事が突然別の日にスライドになり、思っていたよりもはるかに早く会社を後にすることができた。仕事が予定どおりにいけば、病院に寄られるか微妙なところだったのに、会社を早く出ることが出来たおかげで病院へついたのは18時を回った頃だった。
 朝まではあんなに広がっていた青空もすっかりオレンジ色に染まって、夕焼けが眩しい。
 そして病院に入り、病院独特の薬品のような臭いに迎えられて、そのまま由梨のいる病室へ足を運んだ。仕事が終わったら病院へ向かう、そんな生活にももう慣れたものだった。
「あら、あなた」
 病室の扉を開くと、窓際のベッドにいた由梨がこちらを見て嬉しそうに微笑んだ。そんな彼女の側には唯がいて、ベッドに顔を伏せて眠っているようだった。
「唯も来てたのか」
「学校終わってからすぐ来てくれたのよ。それで少し話してたんだけど、30分くらい前に眠っちゃって」
「全くしょうがないヤツだな」
 由梨はクスクスと笑いながら唯の頭を優しく撫でている。それを見ながら側の椅子に腰掛けて、気持ちよさそうに眠っている唯を見て私も小さく笑った。
 唯と私はよく由梨のお見舞いに行っているものの、いつもは病院へ行く時間がお互い違うせいか入れ違いになってしまうことが多い。だからこうやって病室で三人揃うのも土日くらいのものだった。
 ここが病院じゃなくて、家だったら。自分と由梨と、唯の家族三人でいられる時間がもっとあればいいのに。いつもそう思っていた。
「……ねぇあなた」
 一人で物思いにふけってしんみりしていたところに、由梨が突然声をかけてきた。
「なんだ」
「……私にもしものことがあったら……唯のこと、頼むわね」
 穏やかで優しい瞳を眠っている唯に向けながら、彼女はそう言った。突然何てことを言い出すんだと思い、口にしようとすると、彼女はさらに言葉を紡ぐ。
「この子、良い意味でも悪い意味でも、気の利きすぎる子だから……。小さい頃から私達に心配かけさせないようにいつも頑張って。……本当に、優しい子」
「由梨……」
 名前を呼ぶと、目の前の彼女はギュッと弱々しく己の手を握りしめる。その時の由梨の表情は、とても辛そうで、今にも泣いてしまうんじゃないかと思ってしまうほど切ないものだった。
「この子見てるとね、私がこんなじゃなかったら、もっと一緒にいてあげられたら……って自分が憎くなるの」
 由梨と一緒にいられる時間が、もうあまり残されていないことは承知だった。
 数年前から聞かされてきた、「あまり長くは生きられない」と。それは息子である唯も知っていた。だからだろう、唯が私達に余計な心配をかけさせないように、自分で出来ることは自分で片づける、そんな周りに気を遣うような『良い子』になっていたのは。
「まだ高校に入ったばかりなのに、唯には無理ばっかりさせて、親らしいこともまともにしてあげられないんだもの」
「そんなことはないさ」
「いっそのこと怒って文句でも言ってくれればいいのに、わがまま一つ言わないでいつも笑ってて」
 由梨は長くは生きられない、唯にそのことを話したのは、唯が小学校に上がってすぐの頃だった。
 そして、そのことを聞いても唯は泣くことも、駄々を捏ねることもなかった。まだ子供だから状況がよく飲み込めなかったのか、それとも、ちょこちょこ病院へ行ってしまう母親を見て、なんとなく悟っていたのか。どっちなのかは分からない。
 側で眠っている我が子を愛おしげに見つめながら、彼女は私の方を向くと、いつものように微笑んだ。
「だから、この子がいつも笑っていられるように、大切にしてあげてちょうだいね」
 それが由梨の残した最後のお願いだった。
 この子が、唯が、いつも笑っていられるように、大切に。



「お母さんと何話した?」
 病院から帰る途中の車の中で、助手席にいた唯がそう尋ねてきた。
 あれから1時間ほど由梨と話して、そろそろ帰るかというところで唯を起こした。まさか私がいるなんて思ってもいなかったであろう唯は、私に気が付くと酷く驚いていた様子だった。
「え? あ、ああ……色々話したよ」
「その『色々』のところを訊いてるんだよ。何話したの? 仕事のこと? 家のこと?」
 隣から身を乗り出すような勢いで興味津々に訊いてくる唯を見ていたら「お前のことを話していた」とは言いづらい。言ったら言ったで余計に食らいついてきそうだし、なにより私自身あまり話したくはなかった。
「なんだっていいじゃないか。そんな大したことじゃないから」
「あー寝るんじゃなかったなぁ、まさかお父さんが来るとは思ってなかったし。なに話してたのか気になる。……あ、そうだ。こないだお父さんが作った黒いカレーの話をしたらお母さん笑ってたよ」
 さも可笑しそうに何気なく言った唯のそれに、思わず運転を誤ってしまいそうになるほど驚いた。そして自分の顔がみるみる赤くなっていくのが分かる。
「なっ、お前それは秘密だって言ったじゃないか!」
「いや、お母さんが『家でちゃんとお父さんは料理が出来ているのか教えて』って言ったから……」
「それであっさり言ったのか!? 父さんとの約束を破ってお前……!」
「ちょっ、お父さん少し落ち着きなよ……。っていうか、あれはお父さんが勝手に『由梨には内緒な、約束だぞ』って言っただけで、俺『分かった』とは言ってないから」
 面白そうにそう言ってくる唯の非情な言葉に、心の底から恥ずかしくなった。「家事は大丈夫、ご飯もちゃんと作って上手くやっているから」と由梨を安心させるために自信満々にそう言っていたのに、あの日私が作った大失敗のカレーの話を由梨が聞いてしまったとは。
 いつか由梨からもからかわれそうな気がして、それを考えると今から鬱になってきた。
「で、お母さんとはなに話してたの?」
「人の失態をチクるようなヤツには言えないな」
 突然話題を変えてきた唯にきっぱりとそう言い放った。唯は一瞬ムッとしたが、すぐに何かひらめいたような顔をするとニコッと微笑みかけてくる。
「あ、じゃあ明日から俺がゴミ捨てやるからさ」
「……、……そんなこと言っても話さないぞ」
「とかなんとか言って、今ちょっと揺らいでたじゃん! 少しだけでいいから!」
 なんでそんなに私と由梨が話していたことが気になるのか分からないが、週二回のゴミ捨て当番と引き替えというのはなかなかいい話でもある。
(しかしなぁ……)
 言ったら唯は絶対に「そんな暗い話するなよ!」と言って怒るに違いなかった。その怒る姿が容易に想像できる。自分の子供なのだからそれくらいは分かる。
 そうしてしばらく車を走らせて、ようやく唯が黙ったのを見計らってそれを口にした。
「由梨が、自分にもしものことがあったらお前のことを頼むって」
 それを聞いた途端、唯の顔から笑みが一瞬にして消えて、代わりにとても不機嫌そうな怒った面持ちになった。その一連の変化を横目で見ていたが、かなり険悪な雰囲気を纏っている。自分の子ながら怖いと思った。
「ほら怒った。だから話したくなかったんだよ」
「……なんでそういう暗い話するかな、病院で」
「私がしたんじゃない、由梨が言ったんだよ」
「どっちにしたって一緒だろ。そういう話じゃなくて、もうちょっと明るい」
「その続きは、今度病院に行った時に由梨に言うといい」
 話が長くなりそうだと感じて一言告げると、唯はさらにムスッとしたが言うのをやめた。唯の言いたいことも分かるが、そう上手くいかないことだって世の中にはある。それはここ数年由梨と一緒にいて分かったことだった。
「唯は由梨がいなくなったら寂しいだろう」
 しばらくお互い無言だったが、もうすぐ家に着くというところで私は唯に尋ねた。なにげない気持ちで軽く言ったつもりだった。けれども唯からの返事はない。もしかして、まだ由梨の言ったことに対して怒っているのだろうか。
「唯?」
「……寂しいけど」
「?」
「寂しいけど、別に一人ぼっちになるわけじゃないし。……友達もいるし、それに……お父さんもいるから……、……じゃなくて! そういう話はしちゃだめなんだって!」
 しまった、とでも言うように顔を真っ赤にしながらも「明日お母さんにも言っておかないと」と言って慌てる唯を横目で見て笑いながら、私は「ごめん」と謝った。
 けれど、先ほどかすかに唯が口走った「お父さんもいるから」という言葉に、素直に嬉しいと感じる自分がいた。



『この子がいつも笑っていられるように、大切にしてあげてちょうだいね』
 由梨のその言葉に呼び起こされたように、目を覚ました。どうやら自分は眠ってしまっていたようで、誰もいない静まりかえった部屋の中、一人ソファに横たわっていた。
「唯……」
 いきなり我に返って、横になっていたソファから起きあがると辺りを見回す。そこは見間違えるはずもない自分の家のリビングだ。何一つ変わらない自分の家。
 けれどそこに、以前はあった唯の姿は無い。
「唯……、どこにいるんだ、唯!」
 座っていたソファから立ち上がって、辺りを見回してその名を呼んだ。けれども返事はやはり無い。呼んだら来てくれた、さっきのは夢だったんだろうか。
 そう思ったところで、ハッとした。
(そうだ、唯がこんなところにいるわけないじゃないか……)
 あの子は、事故に遭ったのに。今も病院で眠り続けているのに。さっきのは夢だったんだ。手を握ってくれたのも、全部。
「そうだ……病院に……」
 医者からは「手術は成功したが、意識が戻るかどうかは分からない」と告げられ、それから何日も経ったが未だに唯の意識は戻っていない。ICUの中で、身体のあちこちを包帯で巻かれ、死んだように眠っている痛々しい我が子の姿を見た。
(どうして、どうしてこんなことになったんだ。……由梨、すまない。私は……私は唯を……)
 守ってあげなければならなかった子を、自分の手で傷つけた。今でも鮮明に思い出すことが出来る、ぐったりと力無く横たわった小さな身体、至る所から血を流し、真っ赤な鮮血が白い雪を赤く染めた。
 自分が唯をあそこまで追いつめたのだ。私はただ家に連れて帰りたいだけだった、けれど唯はそれが嫌だったのだ。だから私から逃げて、唯を事故に遭わせてしまったのは他ならぬ自分のせいだ。
『……ねぇあなた』
 そこまで思った時に、脳裏に浮かんだのは彼女の姿と声だった。こちらに向かって優しく微笑む、自分が愛した女性の姿。
「由梨……?」
『……私にもしものことがあったら……唯のこと』
 由梨の言った言葉が頭によみがえった。あの日病院にお見舞いに行った時に、彼女の言った言葉が。
『……唯のこと、頼むわね』
「そうだ……私は」
 由梨から頼まれていたんじゃなかったのか。
 唯が笑っていられるように、幸せにしてあげないといけなかったんじゃないのか。由梨の分も、支えてあげないといけなかったんじゃないのか。それが親の果たさなければならない役目じゃなかったのか。
 今までずっと親の手を煩わせないように人一倍頑張っていてくれたその子に、親思いの優しい子に、言ってあげる言葉があったはずだ。「今まで無理をさせてすまなかった。そしてありがとう。二人きりになってしまったけど、私も頑張るから、唯はこれからは自分のために頑張りなさい」と。
 それなのに私は。私はそんな優しい子を手酷く痛めつけ、暴力で屈服させた。ただ側にいてほしいという理由だけで。そして由梨とそっくりで、同じ温もりがあって、ただそれだけの理由で自分の子にセックスを強要した。
 とてもありえないことを、酷いことをしてきたのだ。
「ゆい……っ」
 涙が瞳から溢れ、零れた。
 私はここ数年、唯の笑った顔を見ていない、その事実が胸を締め付けた。笑って冗談を言うところや人をからかってくるところ、料理が下手すぎて見てられないって笑うところ、そして、とても優しいところも、その全てがもう帰ってこないかもしれない。自分のただ一つの過ちのせいで。
 支えてあげなければならない子だったのに、支えられていたのは自分の方だった。今まで助けられていたのも、優しさに救われていたのも全て。
『この子、良い意味でも悪い意味でも、気の利きすぎる子だから……。小さい頃から私達に心配かけさせないようにいつも頑張って。……本当に、優しい子』
 由梨が死んだ時、唯が泣かなかったのは平気だったからじゃない、我慢していたからだ。今まで辛い顔一つ見せずに、親に迷惑かけないように頑張ってくれていた子だ、泣いているところなんて見せるわけがなかった。少し考えればそんなこと分かったはずなのに。
 本当なら私があの時に「泣いていいよ」と言ってあげるべきだったのに。
「……唯……」
 そんなところへ、何かの音が耳に入った。
 それは家のインターフォンの音だった。幾度も幾度も、「開けてくれ」と言うように鳴り続けていた。出られるような気分でも無かったが、あまりに何回も鳴るためにゆっくりと重い足取りで玄関へ向かう。
 夕方に、一体誰だろう。なおも鳴り続けるインターフォンの音に導かれるかのように玄関に向かい、鍵を開けてドアを開く。開かれたドアの向こう、そこにいたのは一人の少女だった。
「こんにちは」
 まっすぐ、自分に向けられている双眸。いつか見た、そう、「ふざけるな」と私に向かって怒鳴り、唯を連れて家を出て行った女の子。そしてあのクリスマスの日にも、必死で唯の側にいた子。その彼女が、そこに立っていた。
「……真奈美、さん……」
 そして悟った。
 彼女は、私を裁きに来たのだと。