第24話 閉ざされた扉 |
北川君はとても優しい人だった。だから言ってはいけなかったんだ。 冷静さを取り戻して、私がそう思った時にはもう遅かった。私が言ったことに対して、北川君はしばらくなにも言ってこなかった。愕然と俯いて、黙り込んでしまった彼。いつも明るくて、笑っていて、眩しい太陽のような人。そんな北川君がこんな風に黙り込んでしまうところを今まで見たことがなかったから、私は居たたまれない気分になった。 「北川君ごめんなさい……今の、無かったことにして……」 やっと口から出てくれたその言葉は、なんて無責任な言葉だろう。無かったことになど、出来るわけがないのに。 唯君は虐待を受けていることを誰にも言わないでなんて言っていない。けど、軽々しく言いふらしてはいけないということぐらい私にだって分かっていた。誰だって知られたくないだろう。実の親から暴力を振るわれて、性行為を強いられているなんて。 私だって唯君からされたことは誰にも知られたくないし、この先も言うつもりはない。唯君だってそれは同じだったはずだ。完全に消すことが難しい事実。だからこそ、そう簡単に言ってはいけなかった。聞く方も話す方も、辛い気分になる秘密だったのに。 (私……なんてことを) 一旦冷静になって考えてみると、本当に自分はいけないことを言ってしまったのだと後悔に苛まれる。部屋はしんと静まりかえったまま、北川君も私も口を開こうとしなかった。 どれくらい時間が経ったんだろうと、思わず時計を見てしまうくらいにその沈黙の時間は長く感じた。実質数分しか経っていない。けどこの重い雰囲気が苦しかった。 静かな部屋の中では、外での音一つ一つが鮮明に聞こえる。北川君は何も言おうとしない。その愕然としている中で、一体彼は何を思っていたんだろう。 そうして、それからさらにしばらく経った後、北川君は無言で立ち上がった。 「……北川君?」 「ごめん、俺もう帰るわ。それ、腹減ったら食えよ」 買ってきたコンビニの商品を指さして、彼はニコッと笑った。けれどその微笑みにはいつものような明るさはなく、まるで北川君じゃないような感じさえする。それも今話したことを思えば無理のないことだったのだが。 「うん……。わざわざありがとね……」 「それと藤森」 立ち上がった彼は部屋を少し歩いて、ドアの前で止まった。そして、私の方を振り返らずに言う。 「さっき言ったこと、全部本当なんだよな」 そう確認するように訊いてきた北川君に、私は応えることが出来なかった。 言ったことは全て事実だ。けど、この時の北川君はなんだか怖かったのだ。顔を見なくても分かる、声は落ち着いているように聞こえるが、実際は違う。いつものような優しい雰囲気は消えて、今は静かな怒りをたぎらせている。 彼のドアノブを掴む手に、異様に力がこもっているようにも見えた。 「ありがとう藤森、話してくれて」 北川君は、黙ったままの私の返事を待つこともなく、そうとだけ言って部屋を出て行った。 ◆ 藤森からの話を聞いて、全て合点がいった。 全部、アイツのせいだったんだ。唯が変わってしまったのは、全部アイツの。それを考えると、静かに怒りがこみ上げてきた。考えれば考えるほど怒りは重さを増して、自分の中で膨れ上がっていく。 ここまで人のことを憎いと思ったのは初めてのことだった。 唯が人には言えない何かを隠していることはずっと前から気付いていた。けれど、いくら訊いても唯は何一つ答えてくれようとはしなかった。訊くたびにものすごい剣幕で怒るだけ。いくら待っても本音を言ってくれることはなかった。だから、きっと俺じゃいつまで経っても唯の心の内を知ることなど出来ないのだと、いつの間にか無力な自分に嫌気がさして諦めていた。 そのうち誰かが現れて唯を救ってくれるだろうと、そのことに期待していた。全てを知った時には、なにもかもが手遅れになってしまっていることなどその時は知らずに。 ふいに俺は、唯が変わるきっかけとなったあの夏の日のことを思い出した。 ◆ 「話って何?」 待ち合わせをしていたファミレスへ唯がやってきたのは、辺りがすっかり暗くなった夜の21時を過ぎたところだった。ここへ唯を呼び出したのはほんの30分ほど前だ。話したいことがあって携帯に電話をしたら、「忙しいから」と一度はあっさり断られてしまった。けれど、どうしても今日のうちに言っておきたかったからしつこく粘ると、唯は二つ返事で「分かった」と苦笑し、ここへ来てくれた。 季節は夏。7月に入って夏休みも一週間後に迫っていた。外はむしむしとしていて、夜になり日中よりも温度が少し下がったとはいえど暑かった。ファミレスに現れた唯も少し汗を掻いていて、「あっつー」と小さく呟いて俺の前の席に腰掛ける。そして店員さんに適当に飲み物を頼むと俺に向かってそう言ってきた。 それは、高校一年の夏の日。歯車が狂いだす、ほんの少し前のこと。 「話があったから俺を呼んだんだろ? 何?」 「あ、ああ……そうだけど……。……えっと、元気か?」 「は? なにそれ」 言った途端唯は笑った。言いたいことはあるのだが、最初になんと言ってあげればいいのか分からなかったからつい「元気か?」なんて、よく会う友人に対してアホなことを言ってしまった。けれど、それを笑う唯の顔を見たら少しだけど安心出来た。 でもその反面、よくこんな時にそんな風に笑えるよな、とも思う。本当は辛いはずなのに。目の前で何事も無かったかのように笑みを浮かべている友人の姿を見たらなんだかいたたまれなくなってきて、俺は俯いてしまった。 「北? どうかした?」 「……お前」 「え?」 「お前、こんな時にまで無理して笑うなよ」 顔をあげて、まっすぐに唯を見つめて言うと、唯は尚更分からないとでも言うように笑みを見せる。 「なんで? 北が変なこと言うからおかしくて笑っただけじゃん。駄目だった?」 「今日、お母さんの葬式だったんだろ」 それを口にした途端、唯の顔から笑みが消えた。そしてしばらく黙った後、唯はどういう反応をすればいいのか分からないような、困った顔をした。 「……あー……うん、そうだけど……」 一昨日唯が学校を早退した時からなにか嫌な予感がしていたが、その日の夜、唯の母親が亡くなったと親から聞いて、それからずっと心配していたのだ。唯は前から、辛いことや悲しいことがあっても、人前ではそれを見せずに我慢するようなヤツだったから。 だから今回も一人で泣いているんじゃないかと、ずっと気になっていたのだ。本当は唯が学校に来てから言おうと思っていたけど、明日学校へ来るかも分からないし、それを考えるといてもたってもいられなくなって無理を言って今日来てもらったのだ。 「だったらこんな時にまで、……そんな平然としなくていいだろ」 唯は何も言うことなく、少し目を伏せた。突然無言になったその様子を見て、やっぱり無理して元気に振る舞っていただけだったんだと胸が痛くなる。なんでいつもそんな風に我慢してるんだろう。そんなに人前では自分の弱みを見せたくないのだろうか。唯はいつも平然と笑っていた。 なんでそんなに我慢をするのかその理由は分からないし、そんなことをいちいちつっこまれるのも嫌だろうから、俺自身も今まで訊こうとは思わなかった。 だけど、今日ばかりはそうもいかなかった。 「唯?」 「……そりゃ確かにショックだったけど、でも俺、北が思ってるほど落ち込んでないよ。お母さんの病気のことは小学生の頃から知ってたし、それにここ最近すごく調子が悪かったからそれなりに覚悟は出来てたから」 小さく笑みを見せて、唯は言った。 でも、今までずっと一緒だった、自分を産んでくれた母親が病気で亡くなってしまったのだ。唯や俺はまだ高校入って間もないのに、こんなに早くに親を亡くして悲しくないわけがない。 今日唯を呼んだのは、友達としてなにか力になれないかと思って、少しでも話をしたかったからだ。 「俺になんか出来ることがあったら言えよ。出来る限り力になるからさ。その、家のこととかも大変だろうし。武丸とかつばさとか、みんないるんだから少しは頼れよ」 「うん、ありがと。でも家のことは俺大体出来るから大丈夫。ご飯も作れるし洗濯とか掃除も一人で出来るし。まぁなんとかなるよ、多分」 確かに唯は器用で要領が良い。大抵のことは苦労せずに出来てしまう。本人も言っている通り、本当に『なんとかなる』んだろう。だけど、それ故に心配になってくる。今まで一人でなんでもやってこられたことに過信しすぎて、絶対人には頼らない、人を信用しないようなヤツになりそうだから。 そんな不安に駆られて言う言葉もなく黙った俺に、唯は微笑んだ。 「もしかしてそれを言うために俺を呼んだとか?」 「ああ、そうだけど……」 「北ってほんとにお人好しっていうか……すごいよお前……」 唯はちょっと呆れたような顔をしつつ、苦笑いを浮かべて言ってくる。言いたいことは全部言ったが、なんだか結局余計な心配だったような気がして一人で落ち込んでしまう。 唯は店員さんが持ってきてくれたジュースを飲んで一息ついた。そして、相変わらず落ち込んでいた俺の方を見て、少し表情を曇らせる。 「でも、……俺は全然大丈夫なんだけど……」 「え?」 「お父さんがさ、ちょっと……」 言いにくそうに言葉を濁らせて、唯はグラスの中に入っている氷を見つめていた。 「唯の父さん?」 唯の家には何度か遊びに行ったことがあるし、唯の両親とも幾度か顔を合わせている。唯の親は、本当に誰が見ても羨ましがるくらい見目が良くて、それでいて人柄も穏やかで温かで、とても優しい人達だった。そして夫婦仲もものすごく良い。 そんな二人の間に産まれた唯は驚くほど母親似で、父親には全く似ていなかった。内面的に似ているところがあるかもしれないが、外見だけで判断するなら完全に母親似だ。 父親の方は背が高くてスラッとしていて、全体的にスタイルが良い。そして同性から見てもものすごく格好いいと思える整った顔立ちをしていた。唯も父親に似ておけば背が伸びたかもしれないのにと、唯の父親を見るたびに思っていたのだが、その人が一体どうしたというのだろう。 「どうかしたのか? お前の父さん」 「お母さんが亡くなってから、ほとんど口聞かないんだ。俺が話しかけても何も言わないし……めちゃくちゃ暗いんだよね」 あんなに夫婦仲が良かったのだ、よほどショックだったのだろう。無理もないと思った。唯もそれはちゃんと分かっているようで、そう言った後気を取り直したように苦笑する。 「今日葬式終えたばっかりだし、まだしょうがないよな。お父さん、お母さんのことすごく大事にしてたし、しばらくはこのまま様子見ようかなって思ってるんだけど」 「……そうだな……唯の父さんと母さんほんとに仲良かったもんな。でもほら、お前がちゃんとついてるし、きっと大丈夫だよ。別にひとりぼっちになったわけじゃないんだから」 きっとそのうち立ち直ってくれるだろうと思って唯に言うと、唯も考えは同じだったようで「そうだよな」と言って微笑む。 「北に言ったらなんかスッキリした。じゃ、俺そろそろ帰ろうかな。お父さんが心配だし」 そう言って席から立ち上がり店を後にしようとした唯に続いて、俺も会計を済ませると唯と一緒に外へ出る。あまり友人の手助けは出来なかったような気がしなくもないが、とりあえずは唯の話が聞けて良かったとホッとする。 「じゃあ北、ありがとな」 「おう、また明日な」 ニコッと笑みを零して、唯は俺とは反対方向へ歩いて行ってしまう。思っていたより大丈夫そうで良かったと、少し安心してその背中を見送っていたら、唐突にゾクッと悪寒が走った。 なんだか嫌な予感がした。 「唯!!」 急いで俺が呼ぶと唯は振り返って、小さく首を傾げて俺が何か言うのを待っている。 「……お前……、明日、学校来るよな?」 「? うん行くよ」 唯の返事を聞いても、ざわざわとした胸騒ぎはおさまらなかった。どうして急にこんなことを思ったのか、自分でも分からなかった。ただ唯の背中を見ていたら、なんだかもう会えないような、なんとも言えない不愉快さがこみ上げてきたのだ。引き留めなくては、と。 けれどそんなワケの分からないことで唯を引き留めるわけにもいかずに、俺は苦笑した。 「……だな。悪い、引き留めて」 「お前ってほんとに……、……まぁいいや。それじゃ、また明日」 唯はそんな俺を苦笑して、再び身を翻して歩いて行ってしまった。 ただ胸騒ぎがしただけだ、別に悩むようなことじゃない。どうせなにも起こらない。そう自分に言い聞かせて、俺はしばらくその場から動かずにずっと唯の背中を見ていた。 けれど、そんな俺の思いとは裏腹に、唯が次の日学校へ姿を見せることは無かった。昨日確かに「行く」と唯は言っていたのに。父親の様子がおかしいと言っていたから、まだ心配で側にいるのかもしれない。親思いなヤツだし、きっとそうだ。そう無理矢理自分に言い聞かせていた。 メールも入れたし電話もした、だけど、一切返事は無かった。それどころか、この後一週間唯は学校を休み、一学期の終了式を終えてそのまま夏休みに入ってしまった。 そして夏休みの間も、唯は一切俺たちの前に姿を見せることはなかった。 ◆ 消毒液のような、独特の香りが鼻をさす。 広い病院の中を、まっすぐに俺は歩いていた。やらなければならないことがあった。 藤森の口から告げられた真実は、とても残酷なものだった。あまりにショックで、聞いた時は愕然とした。そんな非現実的なことが起こっていながらも、今まで何一つ気付いてあげられなかった無力な自分が悔しくて、そして同時に怒りがこみ上げてきた。 あの時俺が怒っていたことは、藤森にはすぐに分かったかもしれない。「本当なんだよな」と俺が確認した時、彼女は何も言わずに黙ったままだったから。きっと、優しい彼女のことだ、言わなければ良かったと後悔していたのだろう。 このままじゃ藤森にすら当たってしまいそうな気がして、そのままふらりと藤森の家を後にした。どうして今までそんな大事なことを黙っていたんだと言いたかったが、今責めるべきは彼女じゃない。 止まることなく溢れてくる怒りを、静めることなど出来なかった。 『話したところでお前がなんとかしてくれるわけ? ただ聞いて満足したいだけだろ。北には関係ないよ。だから話さない』 酷い境遇の中にいながらも、それをずっと我慢して、何一つ話そうとはしてくれなかった唯。 『……本当にごめんね……』 その唯の秘密を唯一知っていながらも、一人で抱え込んで誰にも頼ろうとしてくれなかった藤森。 そして、全ての元凶である唯の父親。みんな同じくらい憎かった。だけどそれよりも、今まで何一つ真実を知らずに傍観していた自分自身が一番憎かった。 そんな思いを抑えつけながらしばらく歩いていくと、唯の入っているICUのすぐ近くにあるベンチでその男は力無く座っていた。こんな所にこの人がいていいはずがないと、それを見ると尚更怒りがこみ上げてきた。あの時、唯が事故に遭った日、藤森がこの男に向かって怒鳴っていた時の気持ちがよく分かった。 (だけど、俺は……) 俺は藤森ほど優しくはない。 謝るだけじゃ、絶対に許せなかった。 その男の目の前で足を止めると、俺は冷ややかに男を見つめた。すぐ目の前に立っているというのに、その男は反応すらしなかった。ただ黙ってジッと、ベンチに座り込んで俯いている。 「……よくこんなところに、のこのこと来られるよな……」 ギュッと、拳を痛いくらいに握りしめ俺は言った。声は怒りに震えて、うまく言葉にならない。 「……アンタ……自分が今までなにしてきたか、分かってんのかよ……」 何も言おうとしない相手にカッとして、そのまま男の胸ぐらを掴んで廊下の壁に叩き付けた。そして怒りに身を任せて、俺は相手に向かって拳を振り下ろしたのだ。 唯がこんなことを望んでいるわけではないことぐらいちゃんと分かっていた。 でも今俺がしてやれることは、これぐらいしか無かった。 ◆ 夢の中で、唯君はいつも笑っていた。私の名前を呼んで、とても楽しそうに。 屋上で眠っている私を唯君が起こしてくれる、いつも見る夢を繰り返す。けれどその時間だけは彼が事故に遭ったことを忘れていられて、幸せだった。彼は笑って、私の側にいてくれるから。 だけどそれは所詮、夢。現実逃避。そんなもの長くは続かない、いつか覚める時が来る。唯君ともっと一緒に話していたいのに、現実へ戻されてしまう。 目が覚めると側に唯君はいないのだということを思い知らされて、その落差が辛かった。 そしてボーッと、ただなんとなく毎日を過ごして、食事もほとんど喉を通らずに家族に心配され入院まですすめられたが、それも拒んで私は一人で部屋に籠もっていた。 こんな空虚な冬休みなんて過ごしたことがないというくらい、何もない空っぽな日々だった。 それでも生きてる以上時間というものは過ぎて、短い冬休みも終わり、登校日がやって来た。 ◆ 「! うわっ、ちょっと真奈美大丈夫?」 教室へ入った途端、私の姿を見つけた頼子はこちらを見るなりビックリした面持ちで駆け寄ってきた。 「え……? なにが?」 「や、なにがって……あんた有り得ないくらい顔色悪いよ。しかもいつにも増して暗いオーラが」 「大丈夫だよ」 安心させようとニコッと微笑むけれど、安心どころか頼子は余計に驚いた顔をする。 「……いや、あんたヤバすぎ……。マジに保健室行った方がいいよ」 「……ほんとに大丈夫だから」 多少の身体の怠さはあったものの、まだ全然我慢できる範囲だ。私が再度言うと頼子は「うーん」と言いながらもしぶしぶ納得したようで、私の手から荷物を取りあげて席まで持っていってくれた。 「まぁ唯君がいきなり事故って凹んでるのは分かるけどさぁ……」 唯君が事故に遭い、未だ意識が戻らずICUにいるということはどうやらすっかり広まっているらしい。教室でもその事に関して話している人は結構いた。唯君の意識が戻らないまま、もう二週間が経っている。もうこのまま彼はずっと目を覚まさないんじゃないかと、そんな予感に蝕まれて私は顔を歪めた。 「でもほんとにビックリだよねー、クリスマスに事故ったんでしょ? かわいそー」 「うん……」 事故当日、唯君の傍に私がいたことはほとんど知られていない。知っているとしても紺野さん達くらいなものだろう。色々訊かれたりしたら大変だからと、紺野さん達には北川君が口止めしておいてくれたらしいが、当の北川君は教室にはまだ来ていない。 「あ、真奈美病院に行って唯君にキスしてきちゃいなよ! そしたら唯君目覚ますかもよ!」 こんな時でさえもふざけてそんな冗談を言える頼子の呑気さが今は羨ましい。とても笑える気分ではなかったが、私は小さく苦笑した。 「もう、頼子ってばこんな時に」 「だってさー真奈美、唯君といい感じだったじゃん。唯君の方も絶対真奈美に気があったって」 「……好きだったのは私の方だよ」 気があったのは唯君ではなく私の方。 唯君の事が好きだった。風に靡く柔らかい黒髪も、吸い込まれそうな黒い瞳も、笑うと幼く見える可愛い顔立ち、優しい微笑み、温かな手、その全てが愛おしかった。 俯いてしまった私を気まずげに見つめて、頼子は「うーん」と小さく唸る。 「……ま、早く唯君意識戻るといいね。真奈美もお見舞いくらい行ってあげたら?」 あんま気にしちゃだめだからね、と優しく気遣ってくれる頼子に私はコクリと上辺だけ頷いて、丁度教室へ入ってきた紺野さん達を見た。北川君もその中にいて、特に変わった様子もなく羽野君達と楽しそうに話している。 思っていたよりも、というかいつも通りの元気な北川君の姿を見て、私は心底ホッとした。北川君は強いから、私の言ったことでずっと悩んだりしないのかもしれない。私みたいにいつまで経ってもうじうじなんてしないのだ、そう思い私は安心する。 でも、あんなことを言ってしまったことだけは申し訳なかったから、後で彼に謝ろうと思いつつ、私は鞄から本を取り出した。 ◆ 始業式を終え、いつも通り授業が始まった。 とはいっても三年にもなると三学期は1月に少し授業をするだけで、テストが終わると2月からはほとんど休みになる。こうやって学校に来る日数もあと少ししかないのだ。唯君とのことがあってから、もうそんなに時間が流れていたのかと今になって考えて自分で驚いた。 「真奈美、次移動教室だからさっさと行こ」 「あっ、ごめん頼子ちょっと待ってて」 休み時間になり、北川君が一人で教室を出て行ったのを見て私は急いで彼を追いかけた。軽々しく唯君のことを言ってしまい、心配させるようなことを言ってごめんと謝るつもりだった。北川君は人に言いふらしたりする人じゃないから彼から秘密が漏れるということはまずないけれど、それでも言ってしまったことに代わりはない。 それに、あの帰り際での彼の雰囲気が、とても気になっていたから。 「北川君!」 私が呼ぶと北川君は振り返って、こちらを見て一瞬驚いたがすぐに微笑んでくれた。それはいつもとなんら変わらない北川君の雰囲気で、私はホッとする。 「藤森」 「あ、あのね、北川君この間の」 「藤森顔色悪いぞ、ちゃんとメシ食ってる?」 私の言葉を遮るように、北川君は苦笑してそう言った。朝に頼子からも言われたが、そんなに自分の顔色は悪いんだろうか。 「え? あ、少し食べてるよ……あのね北川君」 「沢山食べないとそのうち倒れるぞ。顔色よくねぇからあんまり無理するなよ」 「うん。……あの」 「じゃあ俺ちょっと用事あるから」 じゃな、と手を振ると、北川君は走って階段を下りていってしまう。 「北川君……ッ!」 名前を呼んで止めようとしたが、それでも北川君は止まってはくれなかった。なにか急用だったんだろうか、そう思えば納得出来るけれど、なにかが引っかかる。 (なんだろう、今の……) 自分の言おうとした言葉が全て遮られた。違和感を覚えるほどに。何かが違う、いつもの北川君のはずなのに、なにかおかしい。なにか、自分は避けられているような感じがして、私はしばらくその場に立ちつくしてしまっていた。 『お礼はいーって。だからもっと笑えよ! 藤森が笑ってくれないとなんか俺まで暗くなるからさー!』 北川君はいつも私の力になってくれた。私が困っていた時には積極的に協力してくれて、彼のおかげで唯君と再び話せるようになったといっても過言ではなかった。いつもさりげなく唯君と話す機会をくれて、元気が無い時にはなぐさめてくれて、とても優しい人。そんな優しい彼だっただけに、今のそっけない態度が気になって仕方なかった。 そして、なによりも寂しさを感じた。 ◆ 「真奈美ー、帰り大丈夫? 私が家まで付き合おうか?」 「ううん大丈夫。ごめんね気遣わせて……」 一日の授業を終えてさっさと帰り支度をしている頼子が、私に声を掛けてきてくれた。朝からなにかと気遣わせてしまっていて申し訳なくなってくる。身体は相変わらず怠かったけど、それでも帰る前に一つ用事を済ませておきたくて彼女の申し出を断った。 「ほんとに? 大丈夫?」 「うん。それに私ちょっと用事があるから。ありがとね」 ちょっと不安そうに私の方をしばらく見つめていたけど、なんとか説得して頼子は教室を出て行った。 今日中に済ませておきたかった用事、それは言うまでもなく北川君に話したいことがあったからだ。それに今日の休み時間でのことが気になって、どうしても今日のうちに北川君と話をしたかった。 だが当の北川君は教室にはいない。先ほど唯君の委員会での仕事を代わりに引き受けていたから、それを済ませに行ったのだろう。現に机には鞄がまだ置いてある。 私は自分の席に腰掛けて本を開くと、北川君が教室へ戻ってくるまでそのまま待つことにした。 日は落ちかけていて、オレンジ色に染まった空と、窓から差し込んでくる光が眩しい。 みんな部活に行ったり下校したりで、30分と経たないうちにあっという間に教室は自分以外誰もいなくなってしまった。外で部活動をしているサッカー部を窓越しに眺めながら、私は北川君が戻ってくるのを待っていた。 (昼間のは、わざとじゃないよね……。ただ、本当に用事で急いでただけだよね……) そう言い聞かせて、私は自分を落ち着かせていた。けれどどんなに考えても、あれは故意にやったんじゃないかと不安がよぎる。北川君が故意に、私と話をしたくなかったから無視をしたんじゃないかと。 「……藤森?」 ふと背後から声がしてすぐに振り返ると、そこには委員会の仕事を終えたらしい北川君の姿があった。彼は目を丸くして、教室に一人残っていた私を見つめている。 「あ、北川君……私、話が」 「まだ帰らねーの?」 また遮られてしまい私は一瞬言葉を無くした。やはり私とは話したくないということなんだろうか。この間私が話したことと、今までの北川君の気持ちを考えれば、彼が私を無視したくなる理由だって分かる。 北川君は自分の席に戻って机の中にファイルをしまうと、鞄を取って帰る支度をする。このまま話も出来ずに去られてしまいそうな気がして、私は慌てて北川君の腕を掴んだ。 「藤森?」 「……この間はごめんなさい……」 「この間?」 「……本当は言うべきじゃなかったのに、余計に北川君に」 「言うべきじゃなかったって、なんでそう思うんだよ」 北川君が間髪入れずに言ってきて、私は俯いていた顔をあげて彼を見た。北川君は真剣な面持ちで、私から瞳を逸らさない。その妙な威圧感に私は圧されて、思わず黙り込んでしまう。 「……この間、藤森が唯のこと話してくれた日」 北川君は目を伏せて、その途端影が落ちたように悲しげな顔をする。 「あの後落ち着かなくなって、すっげイライラしてそのまま唯のいる病院に行ってきた」 彼が何を言おうとしているのか、分からない。けどあの時の北川君は本当に怖かった。声を掛けるのをためらってしまったほど、彼は静かに怒っていた。あの怒りを胸に秘めたまま、彼は病院へ行って一体なにをしたのだろう。 「北川君……?」 「それで……殴ってやったよ。唯のお父さん、思いっきり、何度も何度も」 「!?」 北川君が言ったそれは、常の彼ならば絶対にとりそうにない行動だった。だけどあの時だけは、本当に北川君は何をしてもおかしくないくらいに怒っていた。いつも優しく、人に親切な北川君が誰かに対して怒って、ましてや殴るなんて。本当なんだろうかと思ったけれど、北川君がそんな嘘をついたりするような人じゃないということぐらい十分承知だった。 そして北川君は、ハッと笑う。 「だって、ありえねーじゃん。自分の子供に何してんだよ……。そのせいで、唯がどれだけ変わったと思ってるんだよ」 「北川君……」 「毎日病院に来てるみたいだけど、あんなヤツ……唯に会う資格なんて無い。『二度と来るな』って、そう言ってやったんだ」 雰囲気こそ落ち着いているものの、いつもの北川君ではないみたいだ。今自分の目の前にいる彼はとても感情的で、怖い。 そんな彼を見て私は心底後悔した。 北川君は本当にいい人だ、だからこそ、やっぱり言ってはいけなかったのだ。私よりも遙かに唯君との付き合いが長い彼の方が、真実を知った時に後悔するから。 「……もういいよ」 「俺は絶対に許さない、あんなの父親じゃねぇよ!! 母親の代わりを唯に押しつけるなんておかしいだろ! ……変態だ、……親子なのに……!!」 「もういいから!」 もうそれ以上言って欲しくなくて叫ぶと、次の瞬間北川君は私を抱きしめてきた。彼は唯君の秘密知ってからずっと、一人で悩んでいたのだろう。北川君は強いから大丈夫だったんだと思っていた自分の考えの甘さに、胸が痛んだ。 「……中学の時からそうだった……。アイツ、悲しかったりとか、元気ない時があっても周りに悟られないように無理して平然装ってて。でも、それでもあの頃は俺が訊いたらちゃんと話してくれたんだ……」 「……うん……」 「それなのに高校入ってから妙に我慢強くなって、あんな不自然な怪我負って、学校も休むことが増えて、でもあんまりしつこく訊くとあいつキレるから余計なことは訊けなくなって、段々上辺だけの付き合いになって……それが全部、父親のせいだったんだ」 私の背中に回されていた彼の手がグッと私の制服を握りしめて、北川君は悔しそうに言葉を紡いだ。 「ごめん藤森」 「え……?」 「……唯のことずっと藤森に任せてて、本当にごめん……。そんな深刻な問題だったなんて知らなかったんだ。ただ単純に『唯の側に誰かいればいいのに』とか思ってただけで、……本当にごめん」 北川君の声は弱々しくて、それが余計に痛々しかった。唯君も北川君も、どうして謝らなくて良い時に謝るんだろう。二人は何も悪くないのに。全ては、私がいけなかったのに。 「でも……、本当はもっと早くに話して欲しかった……。もっと早くに知ってたら、こんなことにはならなかったかもしれないのに」 確かに北川君がいてくれたら、もっと別の道が開けたのかもしれない。けれど、唯君自身誰にも言えなくて二年以上も隠してきた秘密だったのだ、そんな簡単に人に話せたりはしない。いくら優しい北川君とはいえど。 それに、私が知ったのも唯君から直接話を聞いたからではない、たまたま唯君が父親から押し倒されていた現場を目撃してしまったからだ。唯君は「いつかきっと藤森には」と言ってくれたけど、あの時私が現場を目撃していなかったら、いつ話してくれたかどうかも分からない。 「……唯はバカだよ。ずっと我慢してた結果がコレで……自分が事故に遭ってからじゃ、もう遅いのに」 「……」 「……なぁ、……藤森と唯にとって、俺ってそんなに頼りなかった?」 「ちがうよ……言わなかったのは北川君が頼りなかったからじゃない……」 「じゃあなんで!!!」 怒鳴り声と同時にガッと肩を強く掴まれて、私は机の上に押し倒された。私が凝視した先にある彼の顔は、今まで見たことがないくらいに切羽詰まっているような、辛そうな顔をしていた。 「っ……き、たがわく……ッ」 「……じゃあなんで、……なんでクリスマスの日、俺に……」 その先の言葉は、言わなくても分かった。身体を強く机に押さえ込まれる、その苦痛はほんの一瞬だった。すぐに北川君の手の力が抜けたかと思えばそのまま手を離して、彼はそのまま鞄を持って教室を走って出て行ってしまった。 私はそれを追うことが出来ず、ずるりと、その場に座り込んで瞳を閉じた。頭に浮かんだのは、北川君への謝罪の言葉だった。 今まで優しかった北川君。いつも私の困っている時には力になってくれて、元気がない時には励ましてくれた私の友達。唯君とはまた違った、温かな微笑みをする人だった。その微笑みに、言葉に、今まで勇気を貰ってきた。北川君がいたからここまでやってこられたのに。 (それなのに……私は……) 北川君は真実を知ってショックを受け、その真実を何一つ知らずに自分は今まで過ごしていたのだという事実に傷ついていた。 最初は、やっぱり話すべきではなかったと後悔していた私だったが、今は、やっぱりクリスマスの日北川君から訊かれた時、唯君を説得してでも北川君に事情をちゃんと話すべきだったのかもしれないという後悔に変わる。 けれどそんなことを考えても、もう後の祭り。 ぼんやりとした意識の中で、家へ帰ろうとふらふらと教室を出て歩いていたら、気が付けば屋上への階段を上がっていた。まるで誰かに呼ばれているかのように、ゆっくりと足を進める。階段を上がるにつれて、屋上への古めかしい扉が見えてきた。 夢の中では、いつもこの扉の先に唯君がいた。青空の下で、いつも微笑んでくれていた。そう、この扉の先に。 「唯君……」 ノブを掴んで開こうとすると、いつもならすんなり開くのに今日に限ってそれは開かなかった。鍵がかかっていて、びくともしない。 「なんで……」 ポツリと呟いて再度ノブを回すが、鍵のかかった扉は開かない。一人になりたい時、考えたい時にはいつもここに来ていたのに、今日に限って開かない。この扉が開かない以上、唯君にすら会えない気がして私は必死でガチャガチャとドアノブを回した。 冷静になれば、鍵がかかっているのだから開くわけがないことぐらいすぐに分かったはずなのに、私は取り乱したように懸命にドアを開けようとしていた。 「……っなんで……なんで開かないのっ……なんで……っ……!」 開かない扉を前に私はそのままペタリと床に座り込んで、俯いた。涙がこぼれた。なんだか急に、自分が一人ぼっちになってしまったような気がした。 「……ふっ……ぅ……」 唯君に会いたい。もう私一人ではどうしようもなかった。 けれど、目の前の扉を開ける力なんて、今の自分にはなくて。 |