第23話 残酷な真実の目方 |
失うまで気付かなかったのに、失うことで始めて気付くものがある。 その人が、自分にとってどれだけ大切な存在であったかということに。 ◆ 「藤森、藤森」 遠い意識の中で、誰かが私を呼んでいた。 いや、誰かが、じゃない。それは私の知っている人の声だった。間違いない、この声は。 「……んっ……」 そこで意識が引き戻されたかのように、私は瞳を開いた。そして目の前に広がる光景、その場所にいた男の子。黒髪を風に靡かせて、ぱっちりとした黒目がちな瞳がこちらを見ていた。 「唯君……?」 「ん?」 真っ青と言ってもいいくらいの青空の下で、唯君が私を見て微笑んでいた。 私は辺りを見回して、ここが学校の屋上であることに気付く。そして自分の後ろにはフェンスの感触。どうやら私は屋上のフェンスを背に、腰掛けて眠っていたらしい。 「藤森も居眠りするんだ」 そんな私を笑って、唯君は座っていた私に向かって手を差し伸べてきてくれる。私がその手をとると、柔らかくて温かな、確かな感触と実感があった。これが夢なのか、現実なのか分からない。現実だとしたら何かがおかしく、夢にしてはリアルすぎる。夢と現実の境界線に立たされているような不自然な感覚の中、私は立ち上がって唯君を見つめた。 「唯君、……無事だったの……?」 「え? なにが?」 私の言葉に動揺することもなく、彼は不思議そうに問い返してきた。なにも知らないような自然な素振りだ。 「……なにがって、だって」 言おうとして私は言葉に詰まった。 (あれ……?) 自分で言った言葉なのに自分で疑問に思った。続けて言うはずだった言葉が浮かばない。私は今、彼になにを言うつもりだったのだろう。彼がここにいるということに違和感を覚えたはずなのに、言おうとしたことが思い出せなかった。 なにかが欠けてしまっているような、忘れているような感じがする。唯君に言わなければいけない大事なことのはず、そんな予感がするのに分からない。 (……でも、なんだかいやな感じがする……) 思い出そうとしていることは、なんだかとても悪いことのような気がした。 唯君に言わなければいけないという意志とは逆に、それは言ってはいけないような、そんな意志も孕んでいるように感じた。 「藤森?」 考えこんだまま私が何も言おうとしないのを気にして、唯君が声をかけてくる。 黒い髪に黒い瞳、年齢にそぐわない感じのする、ちょっと幼い造作と小柄な体格。笑うと余計に幼く見えて可愛いことを知っている。心が強くて、優しい人なんだということも。 (……唯君……) 突然、彼への愛おしい気持ちが溢れて、何も言えない代わりに私は唯君に抱きついた。温かい、お日様の香りがする彼の制服。とても安心出来る香りだった。 「藤森?」 今ここに、確かに彼はいるのだという感覚があった。いつも感じていた当たり前の感覚なのに、それが嬉しくて、それと同時にどこか苦しい。 「藤森どうしたの?」 「……ッ……」 唯君が私の名前を呼んでくる。その声を聞いてると喉元から何かが込み上げてきて、そしてふいに熱くなった瞳から涙が零れた。 「っ……ゆいくん……唯君……」 「なんで泣いてるの? なんかあった?」 彼の肩口に顔を埋めたまま何度も名前を呼ぶ私に、唯君が優しく訊いてくる。 なんで泣いているのかも分からない。今唯君が側にいてくれて嬉しいのに、どうしてこんなにも胸が苦しくて悲しい気持ちになるのかも。なにか自分は大事なことを忘れている気がするのに、それがなんなのか分からなくて気持ち悪い。 私はギュッと、ただ必死に彼を抱きしめていた。 「藤森……」 唯君の声が好き。普通の男の子よりも少し高めで、とても優しい声。 もっとその声が聞きたいと思った。なんでもいいから話しかけて欲しい。今は彼のこの温もりを感じていたい。確かな実感を私は求めていた。 「……行かないで」 「え?」 「お願い……どこにも行かないで、側にいて……」 なんで彼にそんなことを言ってしまったのか自分でも理解出来なかった。 でも怖いのだ。彼がどこかに行ってしまいそうで、消えていなくなってしまいそうで怖い。今ここに確かに彼はいるのに。唯君に対して、元から儚くて消えてしまいそうな印象を持っていたけど、それが尚更私を不安にさせた。 「唯君……」 彼には泣いてる顔なんて幾度も見せた、けどこの時はどうしても彼に顔を見せたくなくて、彼の肩に顔を埋めたまま。そのせいで零れた涙が彼の制服のシャツに染み込んでしまった。 なぜ私が泣いてそんなことを言うのか、唯君は分からないはずなのに、それなのにしばらくして私を抱きしめ返してくれた。ふわりと、とても優しく。 「うん、側にいるよ。俺はいつでも藤森の側にいる。……だから、もう泣かないで」 彼の言葉を聞いて、余計に涙が止まらなくなった。 なんでだろう、嬉しい言葉なのに余計に苦しくなる。もっと唯君の声が聞きたいのに、聞くと苦しい。彼がいるという実感があればあるほど、私の中の何かが喪失する。涙が止まらない。 その理由は分かっているはずなのに、分からない。 私は何を忘れているんだろう。思い出したいのに、思い出してしまうと今この時が壊れてしまいそうな気がしてならなかった。 唯君が私を抱きしめてくれている、それが心地良い。 出来ることならずっとこのままでいたい。時間なんて、止まってしまえばいいのに。止まってしまえば、もう私は何も考えなくて済むのだから。このわけの分からない苦しみからも解放される。 「ずっとこのままがいいな……」 抱きしめたまま、私は小さく呟いた。 「どうして?」 「……唯君が側にいるもん」 唯君は「今日の藤森なんか変」と言って笑っている。 「いつも藤森と一緒だよ」 ゆっくりと顔を上げて彼を見ると、私に向かって唯君は照れくさそうに微笑んできてくれる。こんな風に自然に微笑む唯君を見たのは久しぶりのような気がした。 「本当に一緒にいてくれる?」 「うん、藤森となら。……ってか藤森なんか変だよ、どうかしたの?」 「……ううん、なんでもない」 一体自分が何を忘れているのか、それを思い出すことが出来なくてモヤモヤした心のまま私は唯君を見て微笑んだ。 そしてそんな中、チャイムが鳴った。授業の始まりを知らせる音が。 「あ、藤森早く教室に戻ろ」 慌てて唯君が私の肩を軽く叩いて教室に戻ろうと促してくる。唯君と話していてすっかり忘れていたが、ここは学校の屋上なのだ。そして先ほどの予鈴の音、もう授業が始まってしまう。急いで唯君と一緒に屋上を出ようとした時、私は一つだけ彼に言いたいことがあって振り返った。 「唯君あのね……」 けれど、振り返ったその場所に彼の姿は無かった。 最初からそこには誰もいなかったんじゃないかと思わせるほど、跡形もなく消えている。自分以外誰もいない屋上は、時が止まってしまったかのようになにもかもが動きを止めた。さっきまで吹いていた風も、流れていた雲も。 「唯君……?」 彼の名前を呼んだ瞬間、辺りは光を失ったかのように真っ暗になった。唯君の姿もない、見渡しても何一つない真っ暗な空間に私は立ちつくしていた。 (なに……、なにが起こったの? 唯君はどこ……?) 突然、自分がここに一人なのだということを知って怖くなった。 「唯君……唯君っ!」 あんなに晴れ晴れとしていて綺麗だった青空も、気持ちのいい風が吹いていた屋上も、ここにはない。彼もいない。さっきまであんなに側にいて、抱きしめてくれていたのに。私に向かって手を差し伸べてきてくれて、私はそれを握ったのに。声をかけてくれたのに。 微笑んで、くれていたのに。 「唯君どこ!? ねぇ唯君!!」 声をあげても彼の声はおろか、物音すら聞こえない。人がいるような気配も感じない。私は一人、なにもない暗闇の中に取り残されてしまったのだ。 「どこにいるの唯君……私を一人にしないでよ……。お願いここに来て……」 真っ暗な中私一人。何も見えない闇の中で、私は立っていることすら出来なくなり、怖くなってしゃがみ込んだ。手足がガクガクと震えている。暗闇がこんなに怖いと感じたことなんて今まで無かった。 どうしてこんなことになったんだろう。 「ゆいくん……傍にいて……怖いよ、助けて……っ……」 『……ごめん、巻き込んで……ほんとにごめん……』 その言葉にハッとして、私は目を見開いた。唯君の声。 私は知っているはずだ、唯君がそう言った日のことを。涙を零して、必死で私を抱きしめてきてくれた時のことを。 『……私のせいだよ、ごめんね……行かなきゃよかったね……ごめんね、ごめんね……っ……』 突如として頭の中に流れこんできた声。それは明らかに私のものだった。それと同時にゾクッと悪寒が走って、それ以上聞きたくなくて私は拒むように耳を塞いだ。けれどもその声は止まらない。 「やめて……やめて……」 思い出したくない。忘れているままでいい。 『本当は、全部分かってたんだ、……自分は親から愛されてなかったんだってこと……。……あの人にとって俺はお母さんの変わりでしかなくて、お母さんは、自分の変わりに俺を産んだんだってこと……。……でも俺馬鹿だから、そんなこと分かっててもあの人達のこと心のどこかでまだ信じてて、……前は優しかったから……いつか、いつかはって……』 震えていて弱々しい声。何かに怯えたように唯君は言っていた。 「やめてよぉ!!!」 聞くのが怖くなって私は大声で叫んだ。これを聞けば、思い出してしまう。思い出せば、自分が壊れてしまいそうで怖かった。なにか恐ろしいことが起こったのだけは確かだった。 けれど、自分の意志とは裏腹にその声が止まってくれることはない。 そして突然頭の中に流れ込んできた光景に、私は目を見開いた。 雪が降っている町中、私を強く抱きしめながらも唯君が泣いていた。そしてその口は必死に、縋るように私の名前を紡いでいた。 『……ふじもり、……藤森……っ……』 自分の耳に当ててた手からガクンッと、力が抜けた。 そうだ、どうして忘れていたんだろう。あんな大事なことを。 あの時私は唯君を助けるつもりでいた。もうあれ以上彼と父親を一緒にいさせると彼は完全に壊れてしまうと思ったから。それなのに、私は強く握っていた彼の手を手放してしまって、彼はその後すぐに事故に遭ってしまった。 そう、私は、彼を助けてあげることが出来なかったのだ。 ◆ ゆっくりと、瞳を開いた。 辺りは真っ暗で、だけど見覚えのある、馴染みある自分の部屋。部屋の壁に掛けられている時計を見たら、夜中の2時を回った頃だった。さっき眠ってから三時間ほどしか経っていない。 しばらくそのまま惚けていると、自然と涙が零れてきたのが分かった。 「……唯君……」 『うん、側にいるよ。俺はいつでも藤森の側にいる。……だから、もう泣かないで』 全て夢だった。憎らしくなってくるくらい、リアルな夢。彼の身体から伝わってくる温かな感覚や香りまで。夢の中で微笑んでくれた彼が切なくて、私は溢れてくる涙を手で拭った。 (あのまま覚めなければよかったのに、あのまま……唯君が抱きしめてくれたまま……) だって現実は、あまりに残酷だったから。 彼を抱きしめていた手をギュッと握り締めて、私は瞳を閉じた。 ◆ 「藤森久しぶり。大丈夫か?」 そう言って北川君が私の家を尋ねてきたのは、唯君が事故にあった日から10日ほど経ったある日のことだった。 唯君はあの後、たまたまそこを通りかかった人たちが呼んでくれた救急車によって病院へ搬送された。車から撥ねられたことにより全身を強打、私が急いで駆けつけた時、かろうじで息はあったものの彼の意識は無かった。 半ばパニックに陥ってしまった私が慌てて唯君に触れた途端、べたりと手に付いたのは、生暖かい真っ赤な鮮血。ねっとりとしていて、ものすごく気持ち悪い。それを見ただけで私は声を詰まらせて、ただ呆然と彼の前に座り込んでしまっていた。 そしてその場にいたもう一人の関係者・唯君のお父さんは気が狂ったような声をあげて唯君に駆け寄り、血にまみれ、ぐったりとしていた小さな我が子の身体を抱きしめていた。むやみに動かしてはいけないと周りの人が注意しても、父親の耳にそれは届いていない。 あまりに突然のことだった。突然すぎた。 全てにスローモーションがかかったように、私の目にはその時がゆっくりと流れて見えた。 その後病院へ搬送されすぐに緊急手術が行われ、かなり危険な状態であったがなんとか手術は成功し、唯君は一命を取り留めることが出来た。 だが、執刀医の先生の話によると、確実に意識が戻るという保証はないらしい。意識が戻るか戻らないか、あとは本人次第なのだと絶望的な台詞を吐いていた。 『……唯君……』 事故にあった時、あんなに血を流していたのだ。一命を取り留めただけでも奇跡に近かった。そしてそこから意識が戻るかどうかは、唯君次第。それは「お前に出来ることはなにもない」と言われているようで、悔しくて涙が出た。 でも、仮に意識が戻ったとしても、なんらかの形で後遺症が残るかもしれない。先生は頭を強打していると言っていた。無事だったとしても、普通の生活を支障なく送れるレベルに戻るまで、また時間がかかってしまうのだ。 『……どうして……』 どうして、こんなことに。どうして唯君ばかりが酷い目に遭わなければいけない。 彼は何も悪くないのに、ただ信じていただけだ。昔の幸せだった日々が戻ることを。お父さんが以前のような優しさを取り戻してくれることを。 それが、いけないことだったとでも言うのだろうか。 『……謝ってください……』 手術室のすぐ近くにあるベンチに腰掛け、呆然としていた彼の父親の前に力無く私は立ち、静かに口を開いた。その時に見たその人の手は、酷く震えていたのを覚えている。 『……藤森?』 北川君が怪訝な顔をして私に声を掛けてくる。 北川君は私からの連絡を受けてすぐに病院へ来てくれた。その顔は酷く蒼白で、病院へ来た途端、一体何があったのかと必死で私を問いつめてきた。でも私は何も言えなかった。 『おい、藤森……』 『謝って……』 私が唯君のお父さんに言っている言葉の意味が分からないのだろう、北川君が声を掛けてくる。だが、私はそれを気にも留めなかった。 ただ冷ややかに、目の前にいる唯君の父親を見つめていた。 『謝って……唯君に謝ってください。……ねぇ……っ……唯君に謝ってよ!!』 『藤森!? どうしたんだよ落ち着けって……!』 驚いた北川君が私の肩を掴んできたが、私は自分の想いを止めることが出来なかった。 だってそうでしょう……? 今までこの人が唯君にやってきたことは、謝って許されるものじゃない。どれだけ自分の子供を傷つけてきたと思っているのだ。どれだけ唯君が我慢し、恐怖に怯えていたか、そしてなにを思って父親の言うことを聞いてきたのか、この人には絶対に分からない。 唯君がどうしてあの時泣いていたのか、貴方は知らないくせに。 この人が唯君に謝ったところで、私はこの人を許すわけじゃない。でも、唯君がそれを望んでいたから。謝って、もう何もしないでいてくれればそれでいいと唯君が言っていたから、それなのに。 『聞こえてるんでしょ……? 今までやってきたこと全部……全部唯君に謝ってよ!!』 『藤森!!』 半分叫ぶように言ったが、唯君のお父さんからはやっぱり何の反応もない。返ってくるのは、私を止めようとする北川君の声だけ。 『私は絶対に許さない……!! ……どい……ひどいよ……なんでこんなことになったの……っ』 その場にいた北川君にはなんのことだかさっぱり分からなかっただろう。けれどそのまま泣き崩れた私の肩を抱いて立ち上がらせると、そのままベンチに座らせてくれた。 私はあの日から唯君を見ていない。北川君や紺野さん達はほぼ毎日病院へ行っているらしいが、私は一度も行っていない。家の自室に閉じこもったまま、外にすらも出ていない状態だった。 唯君は現在ICUで治療を受けているらしい。面会出来るのはごく僅かな時間、しかも家族や近親者のみとなっているため中に入ることは出来ない。だからみんな病室の外で少し話して、そのまま帰っているのだと北川君が言っていた。唯君の意識は、未だ戻らないまま。 「病院にも全然来ないし電話しても出ないから心配したぞ」 ベッドの上に座って丸まっていた私に北川君はいつもの調子で微笑むと、持っていたコンビニの袋をテーブルの上に置いた。 「これ俺とつばさからな。つばさ、藤森のこと心配してたぞ」 唯君は私のせいで事故に遭ってしまったと言っても過言ではない。私が唯君を父親に会わせてしまったからあんなことになってしまったのだ。それを考えると、紺野さんに合わせる顔がなくて私はキュッと唇を噛みしめた。 「来週から学校も始まるから……って言っても俺ら三年だしすぐにまた休みが来るけど、ちゃんとメシ食って元気になれよ。……えっと、……唯のことはさ……藤森のせいじゃないんだし、なにも悪くないんだから」 『藤森のせいじゃない、なにも悪くない』 北川君まで唯君と同じ事を言うのかと、私はクスリと小さく笑った。 そんなわけないのに、と。 唯君は生きている。だけど意識が戻るかどうかは分からない。 事故に遭った日から目を覚ますことなく、ずっと眠ったままなのだと北川君は言った。 「こうやって藤森と話すの、なんだか久しぶりな気がするな」 なんとか私を元気づけようとして笑ってくれているのだということが分かるくらいに、北川君の声は優しい。彼はいつもそうだ。相手を気遣ってくれているという気持ちが伝わってくる。そんな北川君の優しさにいつも励まされてきたけど、今は彼のこの優しさが辛かった。 「……ほ、ほらなんか食えよ! ゼリー買ってきたし、おにぎりもあるしパンもあるし何か甘いのも買ってきたしー、ってか俺が牛丼手に取ったらつばさに思いっきり止められてさ、結局つばさに全部選んでもらったんだけど」 勢いに任せて話す北川君は、袋に入っていたコンビニの商品を一通り出して、私に食べるように促してきてくれる。けれど食欲がわかなくて、返って気分が悪くなってきてしまった。 「北川君……」 「えっ、なに!?」 やっと口を開いた私に嬉々として北川君は反応したが、私は彼を直視することが出来なくて俯いた。 「ごめんね、せっかく買ってきてくれたのに……でも今何も食べたくないの」 「あ……、あー……そっか……、そうだよな、凹んでる時って食欲でないよな……! 分かる分かる、俺もそうだし。……でも藤森、あの日からほとんど何も食べてないってさっき藤森のお母さん言ってたし……少しは食べた方が」 「ごめんね」 再度謝ると、北川君はそれ以上は何も言わずに黙り込んでしまった。 私は最低だ。心配して来てくれた北川君の優しさを棒に振るような事をして。ごめんねと何度も心の中で彼に詫びる。でももう自分は駄目なのだ、なにもする気になれない。今はなにも考えたくない。 (……唯君) 夜見た、あの夢から覚めたくなかった。 何も知らないまま、唯君と屋上で一緒にいたかった。抱き合っていたかった。いっぱい話して、笑って、普通の恋人みたいに。 「唯、意識戻るといいな」 呟くように、ぽつりと北川君は言った。 「唯がいないとつばさ超暗ぇし、いきなり泣き出すし、樹と近藤が騒ぎ出しても誰も止められないし、タケもめっちゃイラついてるし……藤森も、元気ないし……」 唯君は元々不安定だったのに、私が余計なことをしてしまったせいで全ては崩れてしまったのだ。あの日彼の家へ行くんじゃなかった。唯君を連れていかなければこんなことにはならなかった。いつも私のせい、助けるどころか彼を余計に苦しめる方向へ行ってしまう。 助けてあげたかったのに、助けてあげることが出来なかった。あの時強く彼の手を握ってさえいれば、彼が混乱して私から離れていくことなどなかった。 唯君が事故に遭ってしまったのは、他ならぬ私のせいでもあるのだ。 そんな私が彼の父親を責める資格なんてあるのだろうか。 「ほら、唯の意識が戻った時にさ、藤森がゲッソリしてたら唯もビックリするだろ! だからなんか食った方が」 「私のせいなの……全部」 「藤森?」 「私のせいで唯君……事故に遭って」 夢の中にいた、お日様の下で微笑んでいた唯君の姿が浮かんで、涙が出てきた。 でもどんなに思い出したところで、夢の中での光景と現実での光景が結びつくことはない。考えるだけ自分が悲しくなるだけだ。そんなことは分かっているのに、夢と現実の差があまりにもありすぎて辛い。唯君がこのまま目を覚まさなかったら、夢の中でのように微笑むことなど有り得ない。 全部、全部私のせいだ。 「……行かなければよかった……あの時……」 ぽつりぽつりと声を出す私に北川君は近づいて、優しく私の手を握った。夢の中で、唯君の手を取った時と同じような温もりがそこにはあった。 「……なぁ藤森。話してよ」 顔を上げた私の前で、北川君は微笑んでいた。 「なんか事情があるんだろ? ……唯は事故に遭って眠ったままで、それで藤森だけがこんな風に悩んでて……そんなのキツイじゃん」 私は、この時誰かに支えてほしかったのかもしれない。唯君が私の前からいなくなって、私のせいで更に苦しむことになってしまって。 この罪の重さを、誰かに分かってほしくて心は隙間だらけだった。 「俺で良かったら力になるし、一人よりも二人の方が心強いって」 そんな時に耳に入った、優しい言葉。この時の北川君が、なんだか昔の、唯君の秘密を知る前の私に見えた。何も知らなかった頃の自分に。 そういえば、前に思ったことがあったっけ。北川君や紺野さんが本当のことを、唯君の身に起こっていることを知ったら、その時二人はどうするんだろうって。拒絶するのか、受け入れるのか、と。 けれどどちらにしても、もう以前と同じような目で唯君を見ることは出来ないだろう。それでもいいというのだろうか。 「な、藤森……」 その優しい声に、心の中で誰かが「話してしまえばいい」と囁いたような気がした。 そして私は、絶対に言ってはいけなかったことをこの日、口にしてしまった。 唯君が二年半もの間ずっと頑なに隠し続けてきた、誰にも知られたくなかったおぞましい真実を。 |