第19話 五ヶ月後、同じ場所で


 朝になり私が目を覚ますと、ベッドに寝ているはずの唯君はいなかった。
 彼の手を握っていたはずの自分の手は何も握っておらず、気が付けば自分の背中には毛布が被せてある。
「唯君……?」
 確認するように声をあげるが、部屋のどこにも彼の姿はなかった。ベッドの上はもぬけの殻で、触っても温かみはなく、唯君が部屋を出て行ってから結構な時間が経っているようだった。
(どこへ行ったんだろう……)
 昨日高熱を出して寝込んでしまっていたこともあり、こんな風に急に彼が姿を消すととても心配になってくる。あんな身体で一体どこへ行ってしまったんだろう。不安になってきた私は部屋を出て彼を探すことにしたが、自室から出た途端、一階の方からなにやら複数名の話し声が耳に入った。しかも、結構盛り上がっている様子だ。
(なんだか、嫌な予感がする……)
 一階から聞こえてくるそれは自分の兄弟の声に違いなかったが、私の部屋で眠っていたはずの唯君がいなくなっていたことも相まって、なんだか嫌な気分になる。
 とにかくここでずっと立っているわけにもいかず、私は階段を下りて一階へ向かったのだった。
 私が警戒するようにリビングのドアを開くと、その先にいた一真お兄ちゃんと雅がこちらを向いた。二人はダイニングテーブルの椅子に腰掛けてくつろいでいる。
「お、真奈美やっと起きたか」
「おせーぞ姉ちゃん、いつまで寝てんだよ。もう10時だぞ」
 おはようの挨拶もされずに二人からそんなことを言われたが、それにいちいち反応している場合ではなく、私はリビングへ入り辺りを見回す。そして嫌な予感が的中するように、唯君がキッチンからひょっこり顔を出した。
「あ、藤森おはよ」
 そう言ってニコッと微笑んだ唯君の隣にはなぜか遥お兄ちゃんがいて、私を見るなり「よっ!」と気さくに声をかけてくる。ナチュラルにその場にとけ込んでいる唯君を前に私は全身の力が抜けた。しかしそれも束の間、彼がキッチンで食器を洗っていることに気付いて、すぐさま声を張り上げる。
「唯君何やってるの!?」
「え? 皿洗いだけど」
 信じられない光景に、かすかに残っていた眠気が一気にぶっ飛んだ。
 昨日高熱を出して眠っていたのだ。それなのに一体なにをやっているのだ。私が驚いて声を上げたが、唯君は特になんともないように平然としている。唯君が勝手に一階へ下りて勝手に皿洗いなんてやるわけない、という以前になんでこんなことになっているのか、全くもってさっぱりだ。
 私は唯君の隣で食器を拭いている遥お兄ちゃんを思いっきり睨み付けた。
「遥お兄ちゃん!!」
 この人なら何か知っているはず。というか、きっとこの人が絡んでいるに違いない。
 私に怒鳴られた遥お兄ちゃんはといえば、その声にビクッとして気まずそうに頭を掻いて苦笑した。
「あっ、いや、だって昨日の夜に唯のこと一真と雅に話したら二人して、見てみたいだの話してみたいだの言い出してうるさくてさ。で、今日の朝こっそり三人で部屋覗きに行ったら、コイツ起きてたもんだから……悪ぃ!!」
 たはは、と笑って気さくに謝ってくる兄を前になんだか頭が痛くなってくる。
「唯君は熱があるってこと遥お兄ちゃんは知ってたじゃないっ」
「あっ、藤森、俺は大丈夫だから! さっき遥さんに体温計借りて熱測ったらもう大分下がってたし」
 怒っている私を前に唯君が慌ててそう言って兄をフォローする。そんな彼の気遣いに遥お兄ちゃんは「唯、ナイスフォロー!」なんて言ってとても馴れ馴れしく唯君の肩を抱いている。
 しかし、唯君が兄をフォローしたこともそうだが、もう一つ大きなショックを受けたことがあった。
 いつの間にかお互い名前で呼ぶようになっているのだ。私なんて唯君から名前で呼んでもらったことなんて一度もないのに。私は一年の時に唯君と知り合ったのにずっと名字呼びで、昨日知り合ったばかりの兄のことを唯君は名前で呼ぶのだ。
(そりゃ……お兄ちゃん達のことも「藤森」なんて呼んでたら区別つかなくなるだろうけど……)
 なんてことないことかもしれないが、朝からショックは大きかった。兄に対して多少のジェラシーを感じながら、私は歯痒い気持ちを抑えられずにむくれた顔をする。
「だからって皿洗いなんてさせることないのに……っ」
「あ。朝飯も作ってもらったんだぞ。俺らが真奈美起こしに行こうとしたら『せっかく寝てるのに起こすのは悪いから』って。唯に感謝しろよー、真奈美」
 一真お兄ちゃんのとんでもない発言にまた私は愕然とした。
「唯君に朝ご飯も作らせたの!? ……っ、……遥お兄ちゃん!!」
 私が遥お兄ちゃんを再び怒鳴ると、「また俺!?」と言ってお兄ちゃんは肩を揺らした。
「だ、だってよ、母さんは休日出勤らしくて朝早くに家出ちまってたし。一真と雅は『朝メシ!』ってうるさかったし……。仕方ないから俺が簡単に朝飯作ってやろうと思ったらアイツらは嫌がるし」
 アイツらというのはここで言う一真お兄ちゃんと雅のことである。遥お兄ちゃんが口を尖らせて言った先にいる二人は椅子に腰掛けたまま、ふんぞりと頬杖をついていた。
「だって遥兄ちゃんの作るメシ、くそまずいし」
 と雅が言って。
「兄貴の作った料理なんて食えるかよ。つーかあんなん食いモンじゃねぇ」
 と一真お兄ちゃんが言った。それに対して遥お兄ちゃんは「ほらな!」と言ってお茶目に笑う。
 確かに二人の言うとおり、遥お兄ちゃんの料理はまずい。料理なんて滅多にしないのだからレシピどおりに作ればいいのに、変なアレンジを加えるものだから普通のメニューでもまずく仕上がるのである。それを、周りが「やめろ」と言っているにも関わらず「今度は大丈夫だから!」と変な自信を口にしてお兄ちゃんは止めない。非常にタチの悪いタイプだった。
「で、俺がまなを起こしに行こうとしたら唯が『俺で良かったらなんか作りますけど』って言ってくれるもんだからつい、ね。っていうかまな、コイツありえんくらいに料理上手……じゃなくて、俺は一応止めたんだからな! 病人なの知ってたし、お前はお客さんだからいいって。それなのにあの二人がアホだから」
「ちょっ、兄貴、自分だけ逃れようとしてんじゃねーよ!」
「つーか唯の作った朝飯見て『すげぇ!! マジすげぇ!』って一番バカみたいに興奮してたの遥兄ちゃんだろ! 大体ろくなこと手伝ってないくせになにちゃっかりエプロンなんか着けてんだよ似合ってねぇ!」
「それ俺も思った、マジできめぇよな」
「なっ……きめぇのはお前らだろ! いつも母さんとまながメシ作ってる時手伝ったりしないくせに今日に限って手伝いやがって、ぶりっ子してんじゃねぇぞ!」
 男が三人ともなると、言い合いになった時かなりうるさいことになる。我が家ではこれも慣れた光景だが、出来れば唯君にはこんなところを見せたくなかった。
(ああ、もうほんとに恥ずかしい……)
 自分の兄妹ながら情けなくなって、顔が熱を帯びていくのが分かった。
 唯君は「お客さん」なのだ。そんな彼に朝ご飯を作らせた上に皿洗いまでさせているなんて、とてもじゃないが血の繋がった兄妹のすることとは思えない。
「もういい!!」
 ともあれ、こんなところに突っ立っている場合じゃないと、私は喧嘩をしている兄と弟を前にして一喝する。私が怒鳴ったことに驚いたのか、三人はピタッと口論を止めた。
「唯君、行こっ」
「えっ? あ……、うん」
 丁度皿洗いを終えたらしい唯君に声を掛けて、タオルで手を拭いている彼の手を引くと私はリビングを出る。けれど、その前にくるりと振り返って、目を丸くしてこちらを見ている兄弟三人をキッと睨んだ。
「遥お兄ちゃんも一真お兄ちゃんも、雅も、大嫌い!」
 そうとだけ言って、私は唯君を連れて二階の自室へ戻った。
 唯君は熱があったのに、それに怪我だって酷いのに、そんな病人であり客人である彼に家事をさせるなんて本当に信じられない。それに関しても頭にきていたのだが、もう一つ、私が知らない間に兄や弟が唯君とちょっと親しくなっていたことへの疎外感も不愉快であった。
(……それにしても唯君の手料理、食べたかったなぁ……)
 でもなんだかんだで一番ショックだったのは、これかもしれない。



 私が唯君を連れて部屋に戻りながらそんなことを思っていた頃、リビングに残された三人はといえば。
「姉ちゃんがあんなに怒ったの初めて見た……」
「あ、言われてみれはそれもそうだな。つーか俺ら、そんな悪いことしてねぇよな」
 してないしてない、そう言って三人は勢いよく閉められたリビングのドアを見つめていた。



「ほんとにごめんね……!!」
 部屋へ戻るなり私は何度も唯君にぺこぺこと頭を下げて謝った。本当に申し訳なかった。
「いや、俺の方こそごめん。ちょっと余計だったかも」
「ううんっ、そんなことないよ! ありがとうご飯作ってくれて、その、後片付けまで……」
 言っていると尚更申し訳なくなってきて、もう一度謝りたい気分になった。しゅんとしている私に唯君は幾度も「気にしなくていいから」と言ってくれたが、それでも私の気はあまりおさまらない。
「ごめんね……」
「ほんとに気にしなくていーから。俺だって家に泊まらせてもらっちゃったし、服も借りたからこれぐらいはしないと」
 そう言っている唯君の服は、昨日着ていたものから別のものへ変わっている。
「あ、服……着替えたんだね」
「遥さんが気を利かせてくれて。雅のだからって言ってたけど、後で洗濯して返すから」
 どうやら丁度いいサイズのがあったらしい、多分雅が着られなくなってしまっていた服を引っ張り出したのだろう。そこだけは遥お兄ちゃんにも感謝しなくては。
 部屋で立ったまま話をするのもなんだから唯君にベッドへ座るよう促して、私もその横に腰掛ける。互いの間には多少の間隔があるものの、やっぱり唯君とこんなに近くで話すのは良い意味で緊張した。
「ほんとにごめんね唯君……」
「藤森気にしすぎだよ。っていうか、俺も楽しかったから。藤森の兄弟みんないい人達だったし」
 客人兼病人に家事をさせる兄弟のどこが「いい人達」と言えるのか、唯君の寛大さに驚くところだ。けれど、とりあえず唯君の言葉に甘えて、このことは心の隅にでも置いておくことにする。
「いいな、藤森は兄弟がいて」
「唯君は一人っ子だもんね」
「うん。俺もほんとはお兄ちゃんがお姉ちゃんが欲しかったんだよね。藤森んとこ見てたら楽しそうだったし。っていうか藤森の兄弟、みんなでかいよな」
「でしょ? お父さんもお母さんも背高いんだよ。でも、なんでか私だけは小さいんだよね、なんでかなぁ……?」
 両親が二人とも長身なせいか、私の兄弟はみんな大きい。遥お兄ちゃんと一真お兄ちゃんは180cm以上あるし、雅だって中学三年とはいえど170cmはある。だが、男勢はすくすくと成長しているのになぜか家族の中で私だけは異様に小さかったのだ。
「それでね、昔私のお父さんとお母さん、ウサギとハムスター飼っててね。だから私はお父さんとお母さんからじゃなくてウサギとハムスターから産まれてきたんだってお兄ちゃん達がからかうの、酷いでしょ?」
「あ、でもそれよく分かる!」
 その話に唯君は笑って、速攻でそう返してきた。てっきり「そんなことないよ」と優しい返答を期待していただけに、このときの彼の返答はなかなか傷つくものであった。
「! 酷いよもう唯君までっ!!」
「ごめん、やっぱ俺だけじゃなかったんだと思ってつい。藤森って小動物っぽいイメージがあるから」
「嬉しくないよそんなのっ」
 まさか唯君にまで小動物として見られていたとは思わなくて、言うんじゃなかったと後悔した。少し拗ねたような顔つきをしていた私に唯君は未だに笑っている。
「でもゴリラっぽいとか言われるよりはかなりいいと思うけど。守江先生とかほんとゴリラっぽいし、あそこまでくるとかわいげないじゃん」
 四十歳の体育教師にかわいげを求めるのもどうかと思うが。
「それはそうだけどさ……」
「それに比べたら小動物は可愛いし、俺ウサギもハムスターも好きだよ」
 ニコッと微笑んで爽やかにそう言ってくる彼が可愛くて、多分唯君は今、自分がどんな顔をしてそんなことを言っているのか、分からないんだろうなぁと私は恥ずかしくなって俯いた。無自覚ってすごい。
(っていうか、唯君が「可愛い」って、「好き」って言ったのは小動物のことで……)
 私じゃない。と何度も自分に言い聞かせて胸のドキドキを押さえ込む。そうでもしないとそのうちこの高鳴りが唯君に聞こえてしまいそうで怖かった。
「藤森どうかした?」
 そんな気持ちを悟られないように俯いていた私を、彼は心配してひょいっと顔をのぞき込んでくる。いきなり彼の顔が間近にくるものだから私は心臓が爆発しそうなくらいに驚いた。ドキドキは治まるどころか余計に酷くなる一方だ。
「えっ!? あっ、な、なんでもないの、なんでも……!」
「なんか顔赤いけど」
 それは唯君のせいだと内心思ったが、そんなこと言えるわけもなく私は苦笑するしかない。唯君はそれを不思議そうに見つめていたけど、しばらくして思い立ったように「あ」と声をあげた。
「そうだ藤森、今からちょっと出かけない?」
「え?」
「せっかく休みなんだしさ、ダメかな」
 ダメもなにも、唯君の申し出を断るなんて選択肢は最初から私にはないのに。まさか唯君からそんな提案がくるとは思ってもみなくてすぐさま「行く!」と言ってしまいそうだったが、私はハッと我に返った。
「……でも唯君、身体大丈夫?」
「もう大丈夫、熱は下がったから」
「どのくらいまで?」
「37度。俺、このぐらいが平熱だから」
 それは平熱というには少し高くないだろうかと思ったが、昨日唯君が寝ている時にこっそり体温を測った時、体温計は40度というとんでもない数値をたたき出していた。それを考えれば、確かに下がったといえば下がっている。それにしてもなんて体温の変動が激しいんだろう唯君は。私が40度の熱を出した時なんか、数日しないと下がらなかったのに。
 内心少し心配だったものの、先ほどから唯君の様子を見ているからにきつそうな感じはしないし、汗も引いているから今は大丈夫だろうと、私は「でも熱が上がったらすぐ帰ろうね」と言って彼と出かけることにした。
 唯君の身体も心配だが、唯君がせっかく誘ってくれているのだから一緒に出かけたいという気持ちが少なからず私にはあった。本当は、彼の体調を一番に考えてあげなければならないというのに。
「藤森はどこに行きたい?」
 嬉しそうに笑みを浮かべてそう言ってくれる彼を見ていたら私も嬉しくなって、行き先をしばらく考える。
「うーん……実は私ね、ずっと前から唯君の歌声を聴いてみたいと思ってたんだけど……カラオケとか、ダメ?」
「え!?」
「……私はカラオケ行っても全然歌わないんだけど……、でも唯君は歌がすごく上手いってみんなが言ってるの何回も聞いたことあるし、一度聴いてみたいなぁって……」
 私の提案に唯君はなぜか顔をボッと赤くして、焦ったように否定した。
「無理無理! 藤森の前だと多分緊張して声裏返っちゃうから! それに藤森が歌わないのなら俺が一人でずっと歌うことになるし……! っていうか俺少し声枯れてるから今日はちょっと……また今度にしよ!」
 どうしてそんなに照れる必要があるのかと疑問だが、彼のその慌てる様子がやけに可愛らしかったからその顔が見られただけでもちょっと満足だ。
 でも彼の言うとおり、声が少し枯れているからそんな彼にカラオケとは結構無神経な提案だったと自分で自分を少し責める。
「とりあえずどこかで軽く朝ご飯食べようよ。俺もまだ食べてないから」
「うんっ」
 唯君と休日に一緒に出かけられるなんて、嬉しすぎる。半ば踊り出したいくらいだったが、その嬉しさをなんとか堪えた。けれどちょっとでも気が緩んだら、顔がヘラッと綻んでしまいそうだ。
「朝ご飯、藤森の分もちゃんと作ってたんだけど、一真さんに食べられちゃったんだよね」
「! ……み、みんな大食らいだから、ほんとに困ってて」
 少し苦笑して言った唯君になんとか私も平然を保ったが、内心では一真お兄ちゃんに対して怒りを覚えていた。唯君はちゃんと私の分も作ってくれていたんだ、それなのに。
(一真お兄ちゃんのばかっ……)
 しかしそんな兄の愚かな行動により唯君と朝ご飯を一緒に出来るのだから、それはそれでかなり嬉しい。むしろここは感謝するべきなのかもしれない。
 唯君と二人っきりでお出かけ。まるでデートみたいだと心の中で喜びまくりながら、私は珍しく上機嫌で支度をした。



 唯君と軽い朝食を済ませた私は、その後一緒に映画館へ行ったりゲーセンへ行ったりと、久しぶりにとても楽しい有意義な時間を過ごした。大体の休日、私は一人で買い物へ行くか部屋で本を読んでいるかのどちらかだったから、久しぶりに誰かと遊びに行けたことが嬉しかった。
 そしてその相手が唯君だったから尚更嬉しくて、幸せで、このままずっと一緒にいられればいいのにと何度も心の中で思っていた。無論、そんなこと叶うわけないと分かっていたのだが、それでもそう思わずにはいられない。
「唯君、次どこに行こうか?」
 昼間の、人通りが激しい町の通りを唯君と並んで歩く。
 そんな中、彼に訊いてみたのはいいが唯君からは何の返答もない。なにか考え事でもしているのだろうか、だが、その顔はどこか悲しげだ。
「唯君?」
「えっ? あ、ごめんボーっとしてた……」
 再度声を掛けると唯君はハッと私に気付いたようで、慌てて笑顔を作ってくる。気分でも悪くなったのかと私はそっと彼の額に手を触れる。けれどそこまで熱くはない。やっぱり無理があったのだろうかと心配げな顔をした私を見て、唯君は少し笑った。
「大丈夫、熱はないから」
「ならいいんだけど……。……ちょっと疲れちゃったね。少し休もっか」
 私は唯君の手を優しく引くと、丁度すぐ近くにあったカフェに立ち寄ることにした。その間、横を歩いている唯君をチラッと盗み見たが、やっぱり彼は思い詰めたような、悲哀混じりの顔つきをしている。
 思い返してみれば、映画を見終わって昼食を食べた後、ゲーセンで遊んでいた辺りから唯君はどことなく元気が無かったような気がする。一瞬「私が何かしたんだろうか」と思ったが、考えても心当たりは何もない。
(どうしたのかな……)
 もしかしたら昨日のことを思い出しているのかもしれない。それだけ昨日は色々なことがあったし、唯君の性格からしても色々考えて悩んでいそうだ。
 だからこそ、それを私にも少しでいいから話してもらいたかったけど、やっぱりそう簡単にはいかないものだ。それは唯君だけに限ったことではないし、きっと誰だってそうだと思う。
 考えたところで悲しくなるだけだから、私はそこで考えるのをやめた。
「唯君、気分悪い?」
「え?」
 カフェに入り適当に飲み物を頼んだあと、私は彼に尋ねた。休日のせいか、店内は少し人が多くて賑やかな談笑が耳に入ってくる。けれどそれはうるさいと思わせるものではなく、どこか心地良さを感じさせるものだ。
「だって、元気ないから……昨日熱があったんだもん、大丈夫かなって……」
「身体は大丈夫だよ。ごめん、なんか心配かけて……俺の方から誘ったのに、ほんと最低だよな!」
 本当は笑えるような気分じゃないのに、強引に笑みを作ったような彼の仕草に私は胸が少し痛くなった。だが、私まで落ち込んでしまうと余計に雰囲気が重くなってしまう。ここは一つ、場の空気を変えなくてはと私は彼に向かってニコッと微笑んだ。
「そんなことないよ。私唯君と一緒にいるの、好きだから」
 その言葉に嘘はもちろん無い。唯君の前だと自分は素直になれる、誰かと一緒にいることでこんなにも幸せな気分になったことは今まで一度も無かった。相手の笑った顔が見たいと心から思ったのも、唯君が初めて。
「唯君といるとね私、すごく心が落ち着くの。安心出来るっていうのかな、唯君って前からそうだけど、不思議な雰囲気があるんだよね。他の人とはちょっと違ってて、それがすごく、惹きつけられるんだ……」
 そこまで言った後で、「ん?」と私は我に返る。場の空気を変えるためとはいえど、自分は今えらくとんでもないことを口走ってしまっていた。
「……って、急にこんなこと言われても困るよね! えっと今のは……、ご、ごめんなさいっ」
 勢いに任せて言ってしまって、恥ずかしさのあまりに私は顔が真っ赤になった。唯君の前だと本当に素直になりすぎて、この先もとんでもないことを口走ってしまいそうで自分がおそろしい。
「こ、ここケーキも美味しそうだよねっ、私何か頼もうかなぁ」
「俺も」
「? 唯君もケーキ食べるの?」
 メニュー表から唯君へ視線を向けると、彼の頬がちょっと赤い。なんだろうと私が見つめていると、彼は心底照れくさそうに笑った。
「俺も、藤森といると落ち着くし、安心出来るよ。……つーか藤森がそんな可愛いこと言うからこっちが照れるし! 俺もケーキ食べよっ」
 そう言って恥ずかしさを紛らわすためにメニュー表へ目をやった彼を見て、私は今日一番の胸の高鳴りを感じた。
(可愛い……)
 どうしよう。唯君可愛すぎるよ。なに今の表情。そんな言葉を頭の中で繰り返す。自分でもヤバイと思ったが、一瞬「写メ撮りたかった」と思ってしまったくらいにドキドキした。これでは女の子が「可愛い」と言うのもほんとに無理ないし、紺野さんが夢中になる気持ちもよく分かる。
(でも唯君。そんなこと言われると、私期待しちゃうよ……)
 私といると落ち着く、安心出来るって、それは私が唯君に抱いている感情と同じだと思ってもいいということだろうか。今知るべきことじゃないかもしれないけれど、唯君が私のことをどう思ってくれているのか、気になって仕方ない。
 唯君が私のことを好きでいてくれているのなら、それこそ私はこれからもずっと彼の側にいることが出来る。けれどそうじゃないのなら、彼にとって私はただの「理解者」だけの存在ならば、いつか私は彼から離れなくてはならない時が来る。
 どっちなんだろう、彼にとっての私は。
「藤森、ケーキどれにする?」
「! あっ、えーっとねどれがいいかなぁ……」
 やめよう。こんな時にそんなことを考えるのは。唯君は今それどころじゃないんだし、余計なことを言って困らせてはいけない。それに、彼がこうして私の前で笑ってくれることだけで今は満足じゃない。離れる時が来るなんて、まだ先のことだ。
 とりあえず先ほどより元気になってくれた唯君を見て、私は安心した。店員さんが持ってきてくれたジュースを飲んで、それからまたなんてことない話で彼と盛り上がった。先ほど自分の中にこみ上げてきた不安をかき消すように、私は彼との話に集中した。
 彼の笑った顔も、優しげに微笑む顔も、照れた顔も、全部全部、私のものになればいいのに。そんな独占欲を抱いている自分に気付いたのは、本当に最近のこと。
 ねぇ唯君、私ね、唯君のこと大好きなんだよ。
「藤森」
 しばらく彼と話で盛り上がった後、お互い話すことも特になくなって外の景色を眺めたりしていたそんな時。
「?」
 窓に向けていた視線を彼へ向けると、真剣だけれどどこか悲しげで、そして不安に揺れる瞳をして彼は私を見つめていた。
「唯君?」
「……少し、話があるんだけど……大事な」
 彼のその言いにくそうな様子、言動からして、あまり良いことではないような、嫌な予感がした。



「唯君、どこに行ってるの?」
「ちょっとね」
 人が沢山いるここではちょっと、と唯君が言って、私と彼は店を後にした。そうして彼が私の手を繋いで歩いていく中私が尋ねたが、彼はニコッと微笑むだけで教えてはくれなかった。
 そしてそのままさらに歩くこと十数分、着いた先を見て私は驚いた。
「ここ……学校?」
「そ、休日だけど部活動はあるから学校は開いてるし、先生達は何人かしか来てないからこそっと入ってもバレないよ。見つかっても『忘れもの取りに来た』って言えばなんとかなりそうだし。でもその前に、絶対に見つからないけどね」
 まるで以前にもこそっと侵入したような言い方だ。いつも一緒につるんでいる羽野君達と来たのかもしれない。
 そしてその彼の言葉通り、休日の学校には先生達はほとんどいないようで、もう夕方だからだろうか、誰に見つかることもすれ違うこともなく唯君と私は目的の場所へたどり着いた。
 階段を上がっていった先にある、古びた鉄製の扉。そしてそれを開いた先に広がる、見慣れたような、けれどどこか懐かしいような光景。
 そこは真っ赤な夕日が照らす、夕暮れの屋上だった。
「やっぱり屋上だったんだ」
「うん、青空も綺麗だけど、ここ夕日も綺麗なんだ。つっても四階だから景色はあんまり良くないけど」
 もうちょっと高いところから見たら綺麗だろうけど、と彼は言って苦笑した。けれど四階でも十分なほど、夕日が街を染めている光景は綺麗なものだ。夕焼けなんて何回も見たのに、素直にそう感じさせた。
「綺麗だよね。私屋上好きなんだ」
「俺も好き。風が気持ちいいし、青空とか綺麗で見てて飽きないし、嫌なこと全部忘れられるから」
 ここで、彼の好きだといった屋上で、彼は今から私に何を話すつもりなのだろうか。不安と疑問が混ざって怖さがこみ上げてくる。私は彼を見つめ、口を開いた。
「唯君、話って……なに?」
「……藤森はさ、怖い夢って見たことある?」
 おそるおそる尋ねると唯君はすぐにそう訊いてきた。
 怖い夢。途中で目が覚めてしまうくらい、そして涙を零してしまうくらい、震えるくらい、もう見たくないと思うくらいの悪夢。
「……あるよ」
「それってずっと続いてる? 今も見る?」
「今は、もう見ないかな……それにずっと見てたわけじゃないし、ここ数ヶ月、時々夢に見たくらい」
 私が悪夢だと思ったのは、あの雨の日の出来事を繰り返す夢。あの時唯君を受け入れてあげていたら、どうなっていたんだろうと私の後悔が夢になって表れたもの。けれど、自分でも気付かないうちにその夢は私の中から消えてしまっていた。
 きっと唯君と一緒にいられるようになって、私の中でなにか心境の変化があったからだろう。私が言うと唯君は「そっか」と言って少し微笑んだ。
「唯君?」
「俺……ここ二年間半くらい、毎日同じ夢しか見てないんだ。しかも決まって、あの人から暴力振るわれてる時の」
 実際に起こったことを夢でもう一度見てしまう。酷いと思った。それでも彼は苦笑している。
「現実だけでもう十分なのに夢にまで出てくるとか、……ほんと最悪」
 決して望んでいるわけではないのに見てしまう悪夢。それはきっと、それくらい彼の中では心的外傷になっているからなのだろう。父親からの暴行で心に負った傷は、やはりこういう形で出てきてしまうのだ。
 グッと辛さを堪えて、私は彼の言葉を黙って聞いていた。
「そしたら昨日いつもと違う夢みて、でも今までで一番最悪な夢で……夢の中で色々なこと言われたんだけど、言われたことほとんど当たってて……。今日時々ボーっとしてたのは、それ思い出して凹んでただけ。ほんとにそれだけなんだ。心配かけてごめん」
 けれどその夢は、彼の言う「それだけ」では済まされない内容だったのだということは、すぐに分かった。こんな時に無理して笑う彼が切なくて、私は片手を伸ばして彼の頬にそっと触れる。そこから伝わってくる温もり。
「怖い夢だったんだね」
「馬鹿だよ、たかが夢なのにすごくショック受けてるんだ俺。……所詮、夢は夢でしかないのに」
「唯君……」
 彼は頬に当てられていた私の手を強く引いて、そのまま抱きしめてきた。私の背中に回っている彼の腕の力はとても強くて苦しかったけど、その力の強さがどこか嬉しくて私も彼を抱きしめ返した。
「藤森……」
 耳元で聞こえる彼の声にドキドキして、心臓が張り裂けそうだ。身体が次第に熱を帯びていくのが自分でも分かる。心が満たされていく感覚も。彼を愛しく想う気持ちが溢れてきて、私は無我夢中で彼を抱きしめ返していた。
「俺、高校卒業したら家を出るよ」
 けれどそんな時彼の口から放たれた、突然の告白。彼の抱擁にうっとりしていた私の意識は一気に現実へ引き戻されて、自分の耳を疑った。
 唯君は今、一体何を言ったのだろう。
「……え……?」
「ここから離れて、どこか遠くへ行く。誰にも何も言わない、ここには何も残さない」
「私にも……?」
 ごめん、と彼はそれだけ呟いた。彼は一人で行くつもりなのだ。行き先も言うことなく、私にも黙って。
 抱きしめていた彼の手の力が緩んで、彼は私から離れた。体温が急激に冷えた気がした。
「卒業まであと二、三ヶ月だし、大丈夫。それくらいなら我慢出来るから。今までのこと考えたら三ヶ月くらいあっという間だよ」
「どうして……?」
「あの人とももう縁を切る。……あんなのもう親じゃない。俺の知らない人だから」
 あまりにも急すぎて、唯君の話についていけない。どうして突然そんなことを言うのだろう、彼はいつそれを決めた。一体いつ。何がきっかけで。私がなにか、彼を失望させるようなことをしたのだろうか。
(唯君ともう一緒にいられない……?)
 いや。そんなのはいや。家を出ること自体には反対しない、だけど、どうして一人で黙ってどこかへ行ってしまおうとするのだ。どうして急に突き放すようなことを言う。私は唯君の力になってあげたいのに、これからもずっと側にいたいのに。
 ダメだ、抑えきれない。瞳から涙がこぼれて頬を伝った。
「藤森の優しいところ、俺ほんとに好きだよ。藤森は気付いてないかもしれないけど、今まで俺、沢山藤森の優しさに救われてたんだ。……今までほとんどお礼言えてなかったけど、ありがとう」
 涙が止まらない。どうしてこんな時にそんな優しい言葉をかけてくるのだろう。彼の先ほど言った事がまだ信じられなくて、こんな話なら聞きたくなかったと心底思った。
「このまま藤森の優しさにつけ込んで一緒にいてもらうのもいいかもしれないけど、それじゃ自分のためにも藤森のためにもきっと良くない」
 私のことなんてどうでもいい。辛いときこそ人に頼って欲しい。ずっととは言わないから、せめて心から笑えるようになるまでは。いつか離れる時が来るとは思っていたけれど、私はどこかそれをもっと先のことだからと自分に言い聞かせて安心していた。
 まさか、こんなにも早く別れを告げられるとは思ってもみなかったのだ。
「でも、都合がいいって分かってるけど、これが最後。……これで終わりにするから……最後に一度だけ、藤森の優しさにつけ込んでいい……?」
 涙で前があまりよく見えなかったけれど、唯君がとても悲しそうな顔をしているのだけは分かった。唯君は少し俯いた後、すぐに私の方へ視線を戻して、とても言いにくそうに、それを紡いだ。
 それは彼の二度目の、お願い。
「卒業するまでの二、三ヶ月……その間だけでいいんだ、藤森、……俺の側にいてくれないかな」
 唯君は残酷だ。
 私は彼からお願いされたら、イエスと答えることしか出来ないのに。