第20話 好きな人と恋心 |
『俺、高校卒業したら家を出るよ』 『ここから離れて、どこか遠くへ行く。誰にも何も言わない、ここには何も残さない』 彼が笑顔を見せてくれて、私に向かって微笑んでくれて、自分のことを色々話してくれて、少しだけどお互いの距離が縮まったような気がした。もしかしたら、少しずつだけど良い方向へ進んでいくことが出来るかもしれないと思った。ゆっくりでいい、少しずつ唯君のことを分かってあげられればと。 だけど、やっぱりそれは無理なことなのだと彼の信じられない言葉を前にして私は思った。 彼の前には誰も踏み入れることが出来ない一枚の壁がある。どんなに近づこうと頑張っても、彼はそれ以上誰かが自分の中へ足を踏み入れることを許さない。唯君の心の奥底には、誰にも知られたくない何かがあるのだ。 それが一体なんなのか、私には分からないまま。彼の突然の告白を前に私は何一つ言葉を返すことが出来なかった。ただ瞳から零れる涙を拭っていた。「いやだ」と言いたかったけれど、それでは余計に彼を悩ませてしまうと言葉を飲み込んだ。 彼から別れを言われて私は改めて、自分の、唯君への想いの大きさに気付いた。自分の中で、どれだけ彼の存在が大きかったのかということを。 それを彼に伝える勇気は、今の私にはないけれど。 ◆ 「藤森!」 昼休みになって、図書室で本を借りて戻ってきた私に声をかけてきてくれたのは他でもない唯君だった。 「あ、唯君。どうしたの?」 「これ、昨日借りた本。ありがと」 そう言って唯君が私に一冊の本を差し出してくる。それは昨日、私が自分の家に唯君を誘って放課後遊んだ時、本棚を漁っていた彼が手にとって読んでいたものだった。本自体はかなり分厚くて、中身も字がびっしりで、当然読むのには結構時間がかかるし読書があまり好きじゃない人は思わず遠ざかってしまうほど。 「もう読んだの? 唯君早いね」 「うん、俺読むの早いよ。でもそれ読むのに時間かかったけど」 私は本を読むのが好きでしょっちゅう図書室へ行って本を借りているから、普通の人よりも読んだ本の数は多いと思うし、読むスピードだって早い方だ。でも唯君はそこまで読書とか好きそうじゃなかったから、昨日「これ借りてもいい?」って訊かれた時は驚いたし、でもすごく嬉しかった。 「はいこれ、本のお礼」 そう言って唯君は手に持っていたココアの缶を私に差し出す。きっと購買の横にある自販機で買ってきてくれたんだろう、まだ温かい。 「ありがとう唯君」 「安っぽいお礼で悪いけど」 「ううん、そんなことないよ。ありがとね」 好きな男の子から飲み物を奢ってもらって、喜ばない子はまずいないだろう。私は嬉しくて、受け取ったココアの缶を握りしめる。 「嬉しすぎて飲むのが勿体ない……」 「いや、飲まないと駄目だから。藤森って大げさだよ」 にこやかにそう言い返してくる唯君に、私もつられて笑い返す。辺りにほのぼのとした空気が流れていた中、ふと彼に言っておかなくてはならないことを思い出して小さく声をあげた。 「あ、そうだ。ねぇ唯君」 「なに?」 私が言うと彼は首をちょこっとかしげる、この時の唯君の仕草は可愛らしくて好きだ。最近よく話すようになって気付いた彼の癖。ここ数日沢山彼と話していて、色々なことに気付いた。そしてその間に、最初は痛々しいほどだった彼の頬の腫れはほとんど引いて、僅かに痕が残っている程度にまで回復していた。他の箇所も、少しずつではあるが治ってきている。 あの、唯君から「卒業したら家を出る」という話を聞いた日から早くも五日が経とうとしている。 結局あの後彼は自分の家へ帰ると言い、私が懸命に止めたものの彼はそれを断って家へ帰ってしまった。無論、その後のことは分からない。父親に怒られなかったか、何もされなかったかと次の日の日曜日に携帯で彼と連絡を取ったが、彼は笑って「大丈夫」と言うだけだった。そしてさらに次の日の月曜日には普通に学校へも来てくれた。 しかし、学校へ来てくれたのはものすごく嬉しかったけど、その怪我をどうやって周りに説明するんだろうと心配していたら、彼は羽野君や北川君達に至って普通に「喧嘩した」と言って笑っていた。 彼のそういう所はすごく強いなと思うけど、実際は無理をしてるに決まっている。もし次、また今回と同じように手酷く暴行を受けたら、今度こそ危ないかもしれない。 「あのね、今日なんだけど……私の家に来ない?」 「今日?」 昨日も、一昨日も彼を誘って、遊びに来てもらった。それは彼をあまり家に戻したくないという思いと、残りの三ヶ月、出来る限り唯君と一緒にいたいという気持ちが交ざったもの。 『卒業するまでの二、三ヶ月……その間だけでいいんだ、藤森、……俺の側にいてくれないかな』 あの日、彼の二度目のお願いを私は聞き入れた。唯君がそれでいいのなら、と。そう言うしか私にでは出来なかったのだ。元々家を出ること自体には賛成だったから。 ただ、彼が誰にも行き先を言わずに一人でどこかへ行ってしまうということがショックだった。唯君のことだから、きっと「誰も巻き込みたくない」と考えているのだろう。 誰にも秘密を知られることなく、誰にもそれを言うことなく。彼は、今の状況から逃げ出すことを選んだのだ。たった一人で。 父親からの暴力はそれで解放されるだろう。だけど、唯君は本当にそれでいいのだろうか。あの日以来、彼を見る度にそのことがよぎって私は考え込んでしまっていた。 「昨日ね、ケーキ焼いたの。唯君甘いもの好きだって言ってたし……一緒に食べない? それにお母さんってば、唯君のことすごく気に入ってて『連れてきて』ってうるさいの」 「藤森のお母さんが?」 「うん……」 恋人でもない人を毎日毎日何度も誘うのは、なんだか恥ずかしい。 私の兄弟との対面は先週の土曜日に果たした唯君であったが、私の母と会ったのもついこの間のことだった。放課後、唯君がうちに遊びに来ていた一昨日の日、唯君が帰ろうとしていたところへ丁度母が仕事から帰ってきて、二人は玄関でバッタリ遭遇してしまったのである。 唯君は人当たりが良いし笑った顔も爽やかで可愛くて、なによりとても礼儀正しい。初対面で彼に悪い印象など、大抵の人は抱かないだろう。その言葉通りに、母が受けた印象も大層良くて、さらには私の親であり好みが似ているせいもあってか母は唯君のことをとても気に入ってしまっていた。 「藤森のお母さん、今日仕事休みなの?」 「うん。今日は家にいるよ。それで昨日の夜から『絶対に連れてきてね!』って何回も言われてて……」 兄弟や母には「唯君は友達だから」と何回も言ったのにも関わらず、この人達は全くもって聞いてくれなかった。家族間ではすっかり唯君は私の彼氏であると認識されている。確かに彼が本当にそうであったら私としてはとても嬉しいが、実際は友達でしかない。 抱き合ったりキスしたり、身体の関係も持っている。だけど、恋人じゃない。ただの友達。いつかそうなれればいいと思っていたこともあったが、彼は三ヶ月後にはここからいなくなってしまう。 考えていたら余計に寂しくなってきて、暗い気持ちを追い払うように私は慌てて彼に話しかけた。 「ダメかな……? ごめんね私の家族みんな強引だから……」 今週になってから毎日のように唯君を家に誘っている。だから、こんなにも毎日しつこく誘っていると不安になってくるものである。 彼がどう返してくるのかドキドキしながら待っていたら、唯君は至って普通に微笑んだ。 「また遊びに行っていいんなら行くよ。藤森のお母さんがそう言ってくれてるのなら嬉しいし。じゃあ今日一緒に帰ろ」 「! うんっ」 家族のせいにしてみるものの、実際唯君と話したいのも一緒にいたいのも私だ。唯君の言葉に嬉しくなって私は一気に表情を緩ませてしまった。 「じゃあまた後でな」 そう言って彼は羽野君達の方へ戻っていく。それを少し見送ったあと自分の席に着いた私のところへ、一部始終見ていたらしい頼子が意味深に笑みを浮かべながらやってきた。 「真奈美ってばやるじゃん」 「! 頼子ってばまた見てたの?」 昨日も一昨日もその更に前の日も、頼子は今のような私と唯君の会話を聞いていた。 彼女はとても嬉しそうな面持ちで私の横の席に腰掛ける。 「いや、最近の真奈美の成長っぷりに私は感動してるわけよ。だって唯君って恋愛とか彼女とか、そういうのに関してはほんと難攻不落だよ。背小さいけど顔可愛いから結構もてるし」 唯君がもてるのはずっと前から知っていた。教室でよく羽野君達から「また断ったんだ」ってちょくちょく話題にされているのを見たことがあったから。 それに、唯君はそれくらい整った可愛らしい顔つきをしているのだ。けれど女っぽいというわけではなく、かといって男っぽいというわけでもない。丁度中間くらいの中性さが唯君にはあった。女の子が好きそうな容姿。多分、身長さえ平均あれば校内でも相当な人気だっただろう。 「私と唯君は友達だよ」 「ふーん、まあいいや。でもつばさには気を付けなよー、最近あんたと唯君がよく話してるの見て気にしてるっぽいからさ」 「え?」 頼子に言われて、私は教室の前方、左端にある唯君の席へ視線を向けた。そしてそこにいる、唯君達と楽しそうに話をしている紺野さんの姿を見つける。彼女はとても楽しそうに話をして、笑っていた。それは私の知っているいつもの紺野さんの表情だ。 (そうだった、紺野さんも唯君の事が好きだから……自分以外の女の子が唯君と話をしているのを見るのなんて、嫌に決まってる……) そう思うとなんだか紺野さんに対して申し訳ない気持ちになってきたが、自分も唯君のことが好きで一緒にいるのだ。たまたま想いを寄せている相手が一緒なだけ、それはしょうがないことだと自分に言い聞かせた。 紺野さんに対して申し訳ない気持ちと、自分も唯君の事が好きなのだという気持ち。その二つが混ざってなんだか複雑な気分になってしまい、それをなんとか振り払おうと私は先ほど借りてきた本を開いた。 ◆ 「ええーっ、また遊べないの!?」 放課後、ざわざわと騒がしい教室の中で、ひときわ大きな紺野さんの声が聞こえた。拗ねたような彼女のその声に、教室に残っていた何人かが何事かと紺野さんの方を見る。 彼女がむくれてそう言った先にいたのは、やっぱり唯君だ。 「ごめん、ちょっと先約」 「昨日も一昨日もだったじゃないー、もうすぐ冬休みなのにありえないよーッ」 やだーっと言って唯君の腕を掴み駄々を捏ねている紺野さんを前にして、唯君は困った顔をしている。紺野さんにどう言ったものか悩んでいるようだ。 「おいつばさ、唯は用事があるって言ってるんだから無理言うなよ」 そこへ助け船のように北川君が割り込んで来て、紺野さんを軽く注意する。 「だって私今週入ってから唯と全然遊んでないんだもんっ! 勇介もなんとか言ってやってよーっ!」 「や、俺は別に……。ほらつばさ、お前が無理言うから唯困ってんじゃん、唯を困らせたいのかお前」 「なんで唯の肩ばっかり持つのよ勇介の役立たず! あっち行ってよもうっ!!」 北川君に対し紺野さんは頭にきたようで、彼をドンッと軽く押すと再び唯君を説得しにかかる。彼女のパワーは本当にすごい。 そしてそんな紺野さんと、彼女に捕まっている唯君を交互に見ながら、側にいた羽野君がニヤニヤとしていた。 「つーか、藤森と一緒に放課後デートするって正直に言えばいーじゃんよ」 「!! デートじゃねーよ」 速攻で唯君が羽野君にそう言い返したけど、羽野君は全く聞き入れる様子がないように笑みを浮かべているだけだ。いきなり挙がった私の名前に、教室に残っていた人達がジロジロと私の方を見る。 「でも一緒に帰るってのはほんとだろ、昼休みに教室で堂々と約束してたし。なぁ藤森」 羽野君から急に話を振られて、どう言っていいものか困った。 恐る恐る紺野さんの方へ目をやると、案の定彼女はものすごい形相で私の方を睨んでいる。それを見た途端ドキッとして、私はすぐさま俯いてしまった。 「藤森を巻き込むな! お前いっつもそうやって余計な」 「唯ー! 大井先生が職員室に来るようにってさ! お前またなんかやらかしただろ」 突然廊下の方から声があがって、唯君は羽野君への言葉を止めて振り返る。教室のドアの所で、違うクラスの男子が唯君に向かってそう言っていた。 「大井先生が? ……樹、お前藤森に余計なこと言うなよ」 「だってさー、今まで誰とも付き合わなかった唯がさー」 羽野君は物足りないように何かブツブツ言っていたが、唯君は呆れた顔をしてそれを無視する。そしてそのまま私の方へ歩いてきた。 「唯君……」 「ごめん、ちょっと職員室行ってくるからここで待っててくれる?」 「うん……」 こくりと頷いてそう返すと、唯君は教室を出て行ってしまった。 唯君がいなくなった教室内、他の人も部活やら下校やらで教室を出て行ってしまう中、羽野君がこちらへやってきた。この人はどうも苦手だ、悪い人じゃないのは分かるけど、何を言われるのかが分からなくてちょっと怖い。 「なぁ、藤森って唯と付き合いだしたんだろ? すげーなお前、地味なくせになかなかやるな」 悪気がないことだと分かるのだが、どこか羽野君の言葉には気遣いというものが感じられなくて苦手だ。そんな興味津々の彼を前に戸惑っていた私に、羽野君の後ろからひょっこりと北川君がやってきて彼を軽く叩いた。 「おい樹! 藤森に失礼だろ」 「んだよ勇介、お前だって気になるだろ。あの唯に彼女だぞ」 信じらんねーよな、と言って笑っている羽野君に、北川君が呆れて再度彼を叩く。北川君が来てくれたことに少し安心していると、そこへ早足でつかつかと紺野さんまでやってきた。彼女は怒ってもいないし、笑ってもいない。そんな全くの無表情で迫られて、思わず私は一歩後ずさりしてしまった。 (なんだろう、なにか言われるかな……。どうしよう……) 唯君の事に関して言われるであろうことは分かっていたけど、実際彼女を前にすると怯んでしまう。紺野さんは私をジッと見つめていたが、しばらくして私の腕を掴んで引いた。 「!?」 突然の紺野さんの行動にビックリして、声をあげるのも忘れるくらいに驚いた。どこかへ私を連れて行こうとしているらしい、手を引いて教室を出て行こうとする紺野さんの前に、北川君がそれを止めるように立ちはだかった。 「つばさ、お前何考えてんだよ」 「勇介には関係ないでしょ。喧嘩はしないわ、ただ話があるだけ」 ただ話があるだけ、にしてはその表情はとても殺気立っているように見える。 「や、お前ちょっと怖ぇぞ。言いたいことがあるなら藤森じゃなくて唯に直接言えばいいだろ」 「勇介は黙ってて!!」 紺野さんの怒鳴り声に北川君は驚いて固まってしまう。その彼の横をすり抜けて、紺野さんはぐいっと私の手を引いた。 「唯じゃだめなの。藤森さんに話があるのよ」 紺野さんに手を引かれたまま、連れてこられたのは学校の屋上だった。 そこは私にとって馴染みのある場所、そして見慣れた変わらない景色。もう夕方だから辺りはうす暗くなっていて、ものすごく寒い。今日はいつもよりも風があるせいか、屋上は余計に寒かった。 そして時折吹く風が、紺野さんの長くて綺麗な髪の毛を靡かせていた。私は髪が伸びると「めんどくさいから」という理由ですぐに切ってしまうけど、彼女を見てると伸ばすのも悪くないかもと思えてくる。テレビのCMに出てくるような、サラサラできめ細かい、とても綺麗な髪の毛。そしてそれに見合う整った顔。 紺野さんは本当に誰が見ても『美少女』と呼ぶに相応しい容姿の持ち主だった。 「ごめんね、急にこんなとこに引っ張ってきて」 屋上へ着くと紺野さんはすぐに私の手を放した。そして安心させるように少し笑みを浮かべて見せたが、それはあからさまに無理して微笑んでいるのが見て分かるくらいのもので、逆に怖くなる。 それを見て私はつい言葉を詰まらせてしまった。 「ロングヘアーが好き」 突然何を言うかと思えば、どんな意味があるのか全くもって分からない、紺野さんの言葉。私は少し首を傾げる。 「……紺野さん?」 「しっかりしてて、元気で、優しくて、いつも笑ってるような子が好きだって、……唯が言ったの」 彼女は、とても寂しそうな顔をして、それでも口元には若干だが笑みを浮かべていた。きっと、その時のことを思い出しながら口にしているのだろう。 「中学の時、教室で唯が友達と話してるのをたまたま立ち聞きしちゃったのよ。唯のことが大好きだったから好みが聞けて『ラッキー』って思って、少しでもそれに近づけるように頑張った」 なんとなく、彼女の言いたいことが分かった。 「元々私どっか抜けてるところがあっておっちょこちょいで、頭もあんまり良くなかったけど、少しでも周りから頼って貰えるように努力した。勉強だって沢山したし。性格だって浮き沈み激しいけど、ムカツクこととか辛いことがあっても我慢して出来る限り笑えるようにしてた。……髪の毛だってずっと伸ばして手入れだってちゃんとした」 「紺野さん……」 「……全部全部、唯のためだった。いつか振り向いてくれるって信じてたから、そのために頑張ってきたの。何回ふられても『いつかは』って……なのに……」 目の前の私に対して、彼女は今まで見たことがないほどの怒りを露わにして、私を睨んだ。 「全然違うじゃない!!」 「っ……、……ごめんなさい……」 条件反射で思わず謝ってしまった。それが余計に紺野さんを怒らせるかもしれないのに、つい言葉が漏れてしまい自分で「しまった」と思った。 「なんでこんな、言ってたことと全然違うタイプの子を好きになるのよ……おかしいよ……」 ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる、その彼女の顔はとてつもない悲しみに満ちていた。 そして紺野さんは、私の両腕を強く掴む。 「ねぇ返してよ……、唯を返して!!」 「こ、紺野さん……ッ」 「私の方が小学生の頃からずっと唯のこと見てたのに、好きだったのに、……なんで……っ……なんでポッと出の藤森さんに取られないといけないのよ……!」 掴んでいる手の力は強くて、痛い。それくらい、紺野さんは必死なのだ。本当に唯君のことが好きだったからこそ。 けれど、それなら。そんなに唯君の事が好きなのなら、どうして彼の事に気付いてあげられなかったんだろう。もし私よりも早く紺野さんが唯君のことに気付いていれば、もっと違う道を辿っていただろうに。小学生の頃から一緒だったのなら、少しぐらいは彼の異変に気付いたってよかったじゃない。 そう言いたいけれど、言えなかった。 「唯のこと諦めてよ……ねぇ……」 身長も私よりずっと高くて、スタイルもよくて、顔も可愛くて、綺麗な長い髪の毛も似合ってて。彼女は彼女なりに、ずっと唯君に振り向いてもらいたくて頑張っていたんだ。 覇気のあった彼女の顔は徐々に悲しみに包まれて、今にも泣き出してしまいそうなほどだ。 「紺野さん……」 「……お願い、私から唯を取らないでよ……お願いだから……」 彼女は唯君のために今まで努力していた。それは痛いくらいによく分かる。だけど。 (でも、……私だって頑張ったんだよ……、唯君に本当のことを話してほしくて……) けど、それは言えなかった。必死で私に懇願してくる彼女の、その必死な様子を前に私は言葉を失くしてただ紺野さんを見つめることしか出来なかった。 『仮に唯が藤森のことを好きだったとしても、藤森は自分に自信がないから自分よりつばさを唯に押しつけんの?』 それはいつだったか、北川君が私に言った言葉。その時私は自分に自信がなくて、私よりも紺野さんの方が唯君への気持ちが強いんじゃないかって、勝手に不安になって自信喪失していた。 そんな時、北川君がそう言って私を元気づけてくれたのだ。 もしかしたら、本当に気持ちは紺野さんの方が強いのかもしれない、でも私だって唯君のことが好き。そして唯君が私に「側にいてほしい」と言ってくれた、だから私はそれに応えてあげたい。 だから、ここで紺野さんの言葉を受け入れるわけにはいかないのだ。 「……紺野さん、私は」 「おいつばさ、お前その辺にしとけよ」 ギィッと古めかしい音を立てて屋上の扉が開いたかと思えば、そこに立っていたのは北川君と羽野君だった。そして羽野君が呆れたように紺野さんに向かって言う。 「しつこい女は嫌われるぞ、唯に」 その無神経な言葉に北川君が羽野君の頭をバシッと叩いて止める。羽野君はムッと北川君を睨み付けたが、北川君はそれを無視してこちらへ歩み寄ってきた。 「つばさ、そんだけ言ったらもう満足だろ。藤森を放してやれ」 北川君は紺野さんを落ち着かせるように至って優しい声で言ってきたが、私の腕を掴んでいた紺野さんは突然現れた二人を見てキッと睨みつける。 「いっつも私の邪魔ばっかりしてうるさいのよ!! 私の気持ちなんて知らないくせに!!」 「ハイハイお前は唯のことが好きなんだろー? そんなの分かってるっつの。だからちょっと落ち着けよ」 羽野君は紺野さんの言葉に対して、まるで子供をあしらうように返事をすると、こちらへ来るなり彼女の頭を軽くチョップした。 「……ッ……」 その途端ボロッと、涙腺が壊れたように紺野さんの大きな瞳から涙が溢れた。 とても悲しそうで悔しそうな顔をして、紺野さんは声を漏らさずに無言で泣き出してしまう。そして手を放すように北川君が彼女に促すと、紺野さんは力が抜けたように私の腕から手を放して、その場に座り込んだ。 止まることなく溢れてくる涙を、手の甲で拭って。 「……むかつく、……むかつく……っ」 小さな声だったが、そう言っているのが聞こえた。 「紺野さん……あの」 「藤森」 紺野さんに何か言わなくてはと口を開いたが、それは北川君によって止められた。そしてそのまま私の手を引いて、彼は私を連れて屋上を出て行こうとする。 「北川君っ……?」 「あとはいいから、行こ」 本当にいいのだろうかと振り返った先、屋上のドアが閉まるそのわずかな隙間から。 座り込んで泣き出してしまった紺野さんの肩を優しく叩く、羽野君の姿が見えた。 ◆ どうして好きになったのかなんて、そんなものは愚問だ。 可愛かったから。ただそれだけの理由。出会った当初に全てを持っていかれた。一目惚れだった。 『ねぇねぇ唯、今度の日曜日私と遊ぼうよっ、ね? ね? デートしよっ! おねがーい!』 中学生のくせに、そんな人目も気にせず教室で堂々と好きな相手を後ろから抱きしめてデートに誘ってくるような女、後にも先にもコイツ一人だけだ。こんな愛情表現の大胆なやつ、見たことない。 『つばさ、ビックリするからいきなり後ろから抱きつくなっていつも言ってるだろ』 『じゃあ前からなら抱きついていい?』 『……それも駄目だから』 『やだもー唯ってば照れちゃって可愛すぎ! そんな顔しないでよもうっ!』 興奮して尚更ギュッと抱きしめてきたつばさを前に、目で必死に「お前ら助けろよ」と訴えてくる気の毒な友人・唯であったが、その場に居合わせていた勇介も雅之もタケも、「また始まったよ」と言わんばかりにそれを傍観していた。こんなの、当時は日常茶飯事だった。 高校生になった今となっては幾分か落ち着いたが、中学の時のつばさは本当にすごかったのだ。 『ねっ、あそぼ? 今度の日曜日唯と遊びたい!』 唯だけに見せる甘えたような顔と声。唯だけに見せる笑顔。それがとても羨ましくて、何度自分のものになればいいのにと思ったことか。俺ならあんな風に抱きつかれても甘えられても大歓迎なんだけど。 『んー、日曜日か……』 つばさの想い人であり俺の友人でもある唯は、俺がつばさのことを好きなのだということは前々から知っていた。だから何度つばさから告白されてもこっぴどくふってくれているし、誘いを断ってつばさを俺の方へ誘導してくれたりもする。 しかしつばさの盲目的なまでの唯への想いは、ちょっとやそっとじゃ崩せなかった。 『ごめん、今度の日曜日、用事があるんだ。また今度な』 『えーっ、つまんないつまんなーいっ!』 『樹、お前日曜日暇って言ってただろ? つばさと遊んできたら?』 『えー、俺がこいつとー? しゃーねぇなぁ……かわいそうだからこの樹様がデートに付き合ってやってもいーけど?』 内心「チャンスだ!」と思って言ってみたものの、つばさは唯の口から俺の名前が出た瞬間、不愉快極まりない声を出して嫌がった。その目はギロッと俺の方を睨み付けている。 『ハァ!? やーよっ、なんで私が羽野なんかとデートしないといけないのよ、ばっかじゃないの!? べーっ!』 『おっまえマジ可愛くねぇ……!』 いっそ悲しくなってくるぐらい、唯の前での態度と俺の前での態度は違う。それは、彼女の中での俺と唯の格の違いを見せつけられているようだった。 『お前なぁ……可愛げない女は嫌われるぞ! つーか唯はお前なんか眼中にねぇんだよいい加減分かれ!! キモイんだよぶりっ子しやがってーっ!』 『むっ、羽野にそんなこと言われたくないんだけど! 馬鹿でうるさい男は女の子からも嫌われるわよ』 ぷいっとそっぽを向いた後、再び唯に甘えだしたつばさを見て、心底苛立った。そしてすぐに我に返って、自分が言った言葉に対して反省する。 (ああ……また言っちまった……) どうやっても嫌味やとげのある言い方、最悪暴言を吐くことしか出来ない。ガキの頃から生意気ばっかり言って育ったもんだから、中学生になってもクセはなかなか抜けなかった。 そして、つばさにとっても俺はそういう『嫌味なヤツ』とインプットされているため、何を言っても冷たく返ってきてしまう。もっと勇介や唯みたいに優しかったら違う返事が来たんだろうけど。 (そんなん難しいよなぁ……) 好きな子ほどいじめてしまう。 俺は馬鹿だからいっつも怒らせたり泣かせたりすることしか出来ない。でも本当は彼女には笑いかけてもらいたかった。その大好きな人にしか見せない微笑みを、自分だけのものにしたかった。「不器用なお前には一生無理だよ」と周りからは言われたけど。それでも。 『なんで私が羽野なんかと』って、決まってるだろ。 お前のことが好きだからだよ。 ◆ 藤森と勇介が出て行ってしまい、取り残された屋上でつばさと二人。 涙を流しているところは幾度か見たが、ここまで子供みたいに泣き喚く彼女を見るのは初めてだった。いつも笑ってることが多かったし、からかっても最初は怒るけどそのうち勝手に機嫌直すし。 だから、こういう時何と言って慰めればいいのか分からない。そもそも慰めるのは苦手だった。俺の性分に合ってないから。 この時も俺は困って、少し頭を掻いた。 「お前さぁ……」 「ひどい……っ……酷いよみんなして邪魔ばっかり……っ、なんであの子にとられなきゃなんないのよぉ……っ!! 私の方がずっと唯の側にいたのに」 「ほんっとに唯のこと好きなんだな……」 「……好きだもんっ……なのに酷いよぉ……」 泣いているヤツを前にこんなことを思うのもなんだが、つばさは泣いている顔も可愛い。慰めることも忘れてボケッとそれを眺めていたら、自分も末期だなと思い焦った。 「でもなぁお前、唯が自分で選んだんだからしょうがねぇよ。藤森を恨むなんてお門違いってヤツだぞ。怒るんなら唯を怒れよ。『なんであんな暗いヤツにしたのよ私の方が魅力的じゃない!』ってお前の得意な自己アピで」 「……や、だ……っ、嫌われたく、なっ……」 しゃくりあげながら嫌々と首を振ってそう言う彼女を見ていたら、可愛すぎて俺の方がどうにかなりそうだった。抱きしめたいけど、流石にそれは殺されかねない。 困ったな、と内心思ってため息をついた。こういう時、なんて言えばいいんだろう。勇介や唯だったらもっと上手い慰め方をするんだろうけど、人を慰めた経験の無い俺にはさっぱりだ。そこんとこ、今度二人に訊いてみようと思った。 「まぁ、なんだ……元気だせよ!」 とりあえず、月並みなことを言って、ぺったりと座り込んでいる彼女の前に自分も腰掛けた。 「唯よりいい男なんていっぱいいるぞ、お前見た目だけはいいんだからちょっとは唯以外の男にも」 「唯以上に好きになれる人なんて、いないもんっ……!」 「たとえば俺とかさ、なんて!」と言おうとしたが、それよりも早くつばさが言い返してきた。最後まで言葉を言うことなくあっさりと玉砕してこっちまで泣きたくなってくる。 (ドンマイ俺……!) 落ち込んだところで誰も慰めてはくれないから自分で自分を慰めた。 唯と一番付き合いの長いタケから聞いた話によると、つばさは小学一年の時にこっちに引っ越してきて、当時はこんなうるさくも明るくもなく、どちらかといえば藤森のような暗くて人見知りの激しいヤツだったらしい。しかも転校してきたばっかりで話しかけられてもずっと俯いたままだった、とか。 そんな話を聞いても今のつばさに当時の面影など全く残っておらず、「は? 一体誰のこと?」と言いたくなるくらい信じられない話なのだが。 で、そんな地味系女子だったつばさを変えたのが唯。 唯は元々社交的で、一人になってるヤツ見るとそれが女でも男でもほっとけないようなヤツだった。だから別につばさに対して特別な感情を持っていたわけではない。つばさはそれをちゃんと分かっているようだったが、それでもやっぱり唯に優しくしてもらえたことが嬉しかったんだろう。それ以来ずっとつばさは唯の側にいるらしい。 「唯じゃなきゃヤダ……っ、唯がいいよぅ……っ」 「んなこと言ったって唯が藤森選んだんだからしょうがねぇだろ……」 「やっ、……は、羽野がなんとかしてよぅ……っ」 そして、相変わらず目の前で泣いている彼女の髪にゆっくり触れる。叩かれるかと思ったら、つばさは嫌がることもなく、ただ黙って泣いているだけだった。 触り心地のいい髪の毛。唯が言ってから、ずっと切っていないらしい綺麗な髪。 なんだかものすごく妬ける。 「なぁなぁ、……俺ロングヘアーよりもセミロングの方が好みなんだけど」 「うっさい! 今はそれどころじゃないのよ!!」 言ったら、彼女は怒ってベチンと頭を叩いてきた。大人しいかと思っていたら、いつもの凶暴性は健在のようだ。 ◆ 紺野さんに結局何一つ自分の思いを言うことが出来なかった。 屋上を後にして階段を下りていた私に、横にいた北川君はちょっと苦笑している。 「樹がさ、『気になるから着いていこうぜ』って言うから、悪いけど盗み聞きしてたんだ。ごめんな」 「ううん、私の方こそごめんね。私、紺野さんになんて言えばいいのか分からなかったから、北川君達が来てくれて良かった……」 あんなにも真剣に自分の想いを言ってきた彼女に対して自分は、なにも言い返すことが出来なかった。「私も好きなんだよ。だから譲れない」って、言えなかった。唯君が笑ってくれさえすればそれでいいと思ってたけど、私が唯君の側にいることによって紺野さんを傷つけていたんだ。 私よりもずっと昔から紺野さんは唯君のことが好きだったのだ。それをいきなり、横から出てきた私に邪魔されて、彼女が怒ってしまうのも無理のないことだった。 「ほんとに、何も言えなくて……」 「……まー、……なんだ。元気だせよ。藤森は悪くないんだし。つばさも悪気があって言ったわけじゃないんだ。あいつはもっとイイヤツなんだよ。さっきのはちょっといきすぎだと思うけどさ……」 「うん……」 紺野さんが本当はいい人なんだってことは知っている。ちゃんと周りのことを見ていて、唯君が無理しなくていいようにいつも見てて、重い荷物を持っていた私にもさりげなく「手伝うよ」と声をかけてくれたりしていた。 「藤森、最近唯とすごく仲良くしてるから、それで我慢出来なかったんだと思うし。あいつ、唯のことすごい好きだから、そこんところは分かってやってくれよ」 「……ありがとね北川君」 「お礼はいーって。だからもっと笑えよ! 藤森が笑ってくれないとなんか俺まで暗くなるからさー!」 私の背中を軽く叩いて、彼はなんとか私を元気づけようとしてくれていた。その彼の気持ちはいつも優しくて温かくて、そのたびに私は励まされた。本当に私には勿体ないくらいの、太陽のような存在。 「ほら、よかったじゃん! 唯とその……普通に話せるようになって! な!?」 「ん……、うんっ!」 北川君がそう言ってくれて嬉しくなり、私は微笑んで返事をした。 「おっ、なんだよなんだよーそんな嬉しそうにしてさー!! 羨ましすぎるぞコノヤロー! 俺も彼女が欲しいっつーの!!」 私の頭を撫でるように髪の毛をぐしゃぐしゃにして、北川君が笑っている。 「きゃっ!! ちょっと待って北川君! 髪が」 「うるせー!」 そうやって少しの間じゃれるように二人で騒いだ後、北川君は教室へ戻る私とは逆の方向へ向かった。 「北川君、教室に戻らないの?」 「あー、俺ちょっと用事があるから後で戻るわ。そんじゃ、藤森また明日な! もうすぐ冬休みだけどさ、なんかあったら言ってくれよ」 「うん、ありがとね北川君」 こちらを向いてニコッと微笑んだ北川君だったが、次には何か見つけたように目を丸くしていた。 「あ、唯」 「え?」 北川君がそう言うものだから振り返ると確かに、向こうから重そうな荷物を持って歩いてくる唯君の姿がある。こちらがジッと見ていると唯君の方も私達に気付いたみたいで、「あ」と声を漏らしていた。 「唯お前、なんだその荷物。重そうだな」 「重そうじゃなくてマジ重たいよ」 そう言う唯君は少しむくれているようだった。 「え? もしかして大井ちゃんに呼ばれたのって教材運びのため? うわ、かわいそー」 そう言いながらも北川君の顔はどこか笑っている。唯君が手に持っている荷物は教科書のようなものが大量に入っている段ボールで、本当に重そうだ。階段から落ちそうになった私を支えてくれた時もそうだが、こんな細くて小さい身体のどこにこんな力があるのか、気になるところだ。 その重い荷物を別棟の一階にある職員室からこの棟の三階まで運んで、怒りたくもなるというくらい唯君は不機嫌であった。 「大井のヤツ、呼び出したのはいいけど話ついでにまた俺に教材運び頼んできやがったんだ。『桜川は見かけによらず結構力持ちだって先生知ってるぞ!』って、ああー思い出すだけでもムカツクあの顔……!」 「……お前ほんっとに大井ちゃんからよく教材運び頼まれるよな……。しょーがねぇ、俺が手伝ってやるとするか。で、どこまで?」 北川君が手伝おうとしたところで唯くんは「あ、いいよ一人で大丈夫だから」と言ってやんわり断る。 「どうせ教室までだしもう着くからさ。で、二人はこんなとこでなにやってたの?」 「あ……」 どう説明したものかと、私は中途半端な声を漏らしてしまった。明らかに様子のおかしい私を見て唯君は怪訝な顔をする。そして疑われる前にと思ったのだろう、北川君が唯君よりも先に口を開いた。 「っていうか唯、お前藤森にちゃんと謝っておけよ。最近お前が藤森と仲良くしてるもんだからつばさがキレてさ、藤森を屋上に連れ込んで大変だったんだぞ。俺と樹が止めたからもう大丈夫だけど」 「は!?」 それを聞いた途端、唯君は目を丸くして驚いた。本人の全く知らないところで起きていたのだ、唯君が驚くのも仕方ない。 「なんで!?」 「なんでって、お前がそれを言うのかよ……。お前がつばさにもっとキツク言っておかないからだなー」 そこまで聞いて唯君は分かったようで、ばつが悪そうに小さく唸り気まずい顔をする。そしてとても申し訳なさそうに私にぺこっと頭を下げた。 「……藤森ごめん。っていうか、俺だって悪いけどいつまで経っても自分の気持ちをハッキリ言わない樹だって悪いんだからな」 私に対して謝ったのも束の間、すぐに北川君の方を向いてそう告げる唯君に、北川君は苦笑する。 「ま、それもそうだけどな。あいつ不器用だから」 「……いや、やっぱり俺が悪いのかも。ごめん」 「どっちだよ」 クスリと可笑しそうに北川君は笑うと、そのまま身を翻して、「じゃあまた明日な」と言って歩いていってしまった。そんな彼を少し見送って、私は唯君と一緒に教室へ戻ることにする。 その後北川君が振り返って、教室へ戻っていく私と唯君の背中を切なげに見つめていたことなど、私達は知らない。 ◆ 「そういえば、大井先生の話ってなんだったの?」 「ああ、進路のことでちょっと。俺元々進学予定だったんだけど、今の状況じゃちょっと無理だからそのことでさ」 私と唯君が戻ってくる頃にはもう教室には誰も残っておらず、二人きりだった。外では部活動をしている人たちの声が耳に入る。 「そっか……唯君大学行くつもりだったんだ。そうだよね唯君頭良いし」 「ちょっと勉強したいことがあったんだけど、少し予定を伸ばそうかなって。別に今すぐ勉強したいってわけじゃなかったから。そういえば藤森は進路ってどうしてんの?」 彼の勉強したいことが一体なんなのかちょっと気になったが、唯君の方が私よりも先に尋ねてきたため訊くタイミングを無くしてしまった。 「うーん、進学は最初から考えてなかったから、今の所は就職する予定」 「えっ? 藤森成績いいのに?」 「この辺りの大学、ちょっと私にはハードル高くて、遠いところにすると家を出ないといけなくなっちゃうしそれはそれで心細いから」 「あー……ウサギって寂しいの駄目らしいからな」 「唯君ッ!」 この間のことを掘り起こすようなことを唯君が笑って言うものだから、私は顔を赤くして彼を怒った。 怒る私を見て唯君は楽しそうに笑っている。そしてその彼の笑顔を見ているとなんだか胸が締め付けられるような、安心出来るような不思議な気持ちになった。 「ねぇ唯君」 「なに?」 「……本当に、それでいいの?」 窓から入る夕日が、とても眩しく教室をオレンジ色に染め上げている。その様子に、ここがまるで朝や昼間のそことは別の場所のようにさえ感じた。 「え?」 「……逃げることだって、分かってても……やっぱり行っちゃうの……?」 唯君は、特に不安な様子を見せることもなく、少し笑みを零す。 「ん。……なんの解決にもならないんだけどね。でも、このまま黙ってあの人の言いなりになるよりは良い。それに、こうでもしないといつか取り返しのつかないことになりそうだから。……だから今は、それでいいと思ってる」 「そう……」 彼の意志の固さに、私はそれ以上言葉が出なくて俯いた。 ここに残れば彼は父親の良いようにされてしまう、けれどどこか遠くへなんて行かないで欲しい。矛盾した考えが私の中にある。彼を止めたいけれど、止められない。 私は無意識に彼の着ていたブレザーをギュッと握りしめていた。 「もしかして藤森、ずっとそのこと考えてくれてた?」 優しく微笑んで私の顔をのぞき込んできた彼に、私は顔中真っ赤にして小さく頷いた。 「だって……せっかく、仲良くなれたのに……」 ここまで彼と親密になれたのに三ヶ月後には別れてしまう。本当はもっと唯君のことが知りたかったのだが、もうそれも出来なくなってしまうのだと思い私はまた泣きそうになってしまう。この優しい微笑みだって、もう見られなくなってしまうのだ。 私の頭を、唯君が優しく撫でる。 「……藤森と、なんでもっと違うかたちで会えなかったんだろうな」 とても落ち着いた、静かな声。それは呟くように彼の口から零れた。 私が顔をあげると、彼がニコッと微笑んでくるものだから思わず言葉を飲み込んでしまった。せっかく何か言おうとしたのだが、彼の笑顔を前にそれを忘れてしまう。 「でも、色々後悔はあるけど、今藤森と一緒にいられて俺は幸せだよ」 「……唯君ってそんなこと言うの、ずるいよ」 そんな風に微笑んで言われたら、何も言えなくなってしまう。私は口を尖らせて彼に言った。 「え?」 「なんでもない……、って……ああ! もうこんな時間……!」 ふと教室の時計を見るともう17時。帰りのHRが終わったのは16時前だ。いつの間にかこんなにも時間が経ってしまっていた。慌てて携帯を見ると、やはり、母からメールが何通か入っている。用件は見なくても分かった。 「唯君早く帰ろう! お母さんから『早く連れてきて』ってメールいっぱい入ってた」 「あ、ほんとだもうこんな時間。急ごう」 私につられて唯君も腕に着けていた時計を見てその時間に驚く。そしてお互い大急ぎで荷物をまとめて、そのまま教室を出て行った。 結局唯君を止めることは出来なかった。そして彼を救う別の方法が思い浮かんだわけでもない。 だけど唯君の微笑みを見ていたら、そして言葉を聞いていたら、彼がこの先少しでも救われるのであれば彼のとる道も悪くないのかもしれないと私は思った。 少しでも遠いところへ離れて、心の傷を癒すことが大事だ。唯君がもう酷い目に遭わなくて済むのならその方がいいに決まってる。そこに私がいないことが残念だけど、そんなのはどうでもいいことだ。 私は唯君が言った三ヶ月間、彼の側にいてあげればいい。期間はどうであれ、唯君は私をちゃんと必要としてくれたじゃないか、それのどこに不満があるというのだろう。 唯君の側にいることが当たり前になりすぎて、いつの間にか私は欲張りになっていたのかもしれない。 私は自分に色々なことを言い聞かせて、無理矢理納得させて、彼の決意にこれ以上干渉するのはやめようと思った。 「唯君、三月まで沢山遊ぼうね」 私がそう言うと、彼はとても嬉しそうに「うん」と頷いた。 そうだ、私はこの彼の笑顔を三ヶ月間守ればいいんだ。彼の望むだけ側にいてあげれば。夕日が沈んでいくのを横目に見ながら、私はこの時心の中で決心した。 けれど、そんな私達をよそに、それはこの時少しずつ動き出していたのかもしれない。歯車が少しずつ狂っていくように、小さな軋みをあげながら。 『こうでもしないといつか取り返しのつかないことになりそうだから』 そして彼の何気なく言ったその言葉を、私はこの時気にもかけていなかった。きっと彼も、それは同じだっただろう。 それがそう遠くない未来で、何を意味するのかを。そしてそこで起こる、惨劇を。 |