第18話 真贋のミラージュ


 お父さんは単身赴任だからいないものの、お母さんと三人の兄弟がいる私の家では流石に話すわけにもいかずに、とりあえず私と唯君は誰もいない公園のベンチに腰掛けた。そこは以前、唯君が野良猫にエサをやって可愛がっていた、あの公園だ。
 夜の公園には当たり前のように人などいない。ベンチのすぐ近くには一つ電灯があって、それが唯一の光源となっている。このままいたら明日風邪をひいてしまうんじゃないかというくらい相変わらず寒かったけど、お互い何も言わずにジッとそこに座っていた。
『私も力になるから……。唯君はどうしたい?』
 先ほどそう訊いたら彼は、少し視線を落とした。私から瞳をそらして、戸惑いを隠せないような様子だ。そしてそのまま彼は何も言わずに黙り込んでしまう。私の方もなんと言えばいいのか分からなくて、「ちょっとそこで話そうか」と言ってすぐ近くにあった公園へ入ったのだ。
 そして彼の手を握ったまま、ずっと彼が自分の望みを言ってくれるのを待っていた。
「藤森」
 突然唯君が私を呼んで、私は彼の方を見る。けれど相変わらず唯君は俯いたままだ。
「俺は……どうしたいとか、そういうのはなくて……。ただ、あの人が謝って、もうなにもしないでくれればそれでいい」
 唯君は静かにそう言った。それは紛れもなく彼の言葉。その口から発せられたことを聞いて私は、なんて甘い考えだろうと思った。そんな、ただ謝っただけで許せることなんだろうかと。
 こんなことになっても、傷付いているのは彼の父親ではない。傷付いているのはあくまでも唯君一人。沢山傷つけられたはずなのに、どうしてそんなことが言えるのかと不思議でたまらなかった。
「唯君……」
 けど、そう思ったと同時に自分のことがよみがえったのだ。私だって、彼とそう変わらなかったじゃないか。加害者は違えどされたことは同じだ。でも私は唯君の事が好きだったから、本当の彼は優しい人なのだと分かったから彼を憎まなかったんじゃないかと。
 その自分の気持ちと、彼の気持ちは全く一緒。そう、今の彼は私によく似ているのだ。
「……そっか……」
 小さくそう言って、私は黙り込んだ。
 大切な人だから、傷つけるようなことはしたくない。謝ってくれればいい、もうなにもしないでくれれば。その気持ちは分かる。でも、それでも私の中にあった複雑な気持ちは簡単に拭えるものじゃなかった。
「謝って、もう何もしないでくれればいい。……って、難しいね」
 彼の言葉を繰り返すように、私はそれを口にする。
 そもそもあの人は、唯君のお父さんは自分のしていることがいけないことなのだという自覚がないのか、全くもって悪意が感じられなかった。まるで唯君に暴力をふるっている時の記憶がないみたいに、全く知らないということを貫き通す。
 そんな人を相手に、どうやって謝らせようというのか。
 唯君に関しては、自分がしていることがいけないことなのだという自覚があった。だからちゃんと私に謝ってくれたし、謝れば済むという問題じゃないけど、それでも彼の環境からすればああいうことになってもしょうがないのかもしれないと私は思っていた。だから、もうその事に関しては追及するのをやめていた。
 けど唯君のお父さんの場合はあまりにも酷すぎる。人道を外れすぎていて、本当に怖い。自分のしていることが犯罪なのだと思っていないのだ。思っていたとしても、止めようとしない。
「お母さんが死んだ時から、あの人は精神的に病気みたいだから……。通夜と葬儀の時は本当にボーッとしてて、何もしゃべらなかった。鬱病みたいな感じで……何度か『病院に行きなよ』って言ったんだけど、全然聞いてくれなくて……」
 唯君のお父さんが変わったきっかけは、やっぱりお母さんが亡くなったことにあるようだ。だけど、お母さんが亡くなったことから唯君への暴力に、どうやったら事が結びつくのか、どう考えても分からない。
「藤森だってさっき話してみて分かっただろ、おかしい、ありえないって」
「うん……」
 どういう神経をしていたらあんなことが言えるのだろうと、驚いたと同時に失望した。あそこまでいくともう病的だ。唯君の言ったとおり、あの人は精神的な病気なのかもしれない。
「俺が本当のことを全部話せばいいんだって、分かってるんだ。逃げるんじゃなくて、ちゃんと事実と向き合わないといけないって。……でも、もしかしたらあの人がいつか自分のやっていることに気付いて、やめてくれるんじゃないかって思って、……そんな馬鹿みたいな薄い希望に二年間半も支えられてた」
 彼は俯いて、笑みを浮かべていた。なにもかも疲れたような、そんな顔をして。唯君のお父さんだってそうだけど、唯君だって不安定すぎる。彼が今まで我慢に我慢を重ねてきた結果がこれだった。私が憧れていた、優しくてしっかりしてて、誰からの支えも必要としないような強い彼は、もうそこにはいない。
 一年の時、同じクラスになって唯君と出会った。教室でよく友達と騒いでいて、彼の周りにはいつも人が沢山いた。友達の多い人、周りから好まれる人なんだと思った。そしてクラスをまとめることが上手で、発言力や行動力も普通の人より明らかに秀でていた。さらにはこんな、私みたいなあまり目立たない人にも、唯君はちょくちょく話しかけてきてくれた。困っていた時には色々力になってくれた。優しい、人だった。
 誰からの支えも必要としないような強い彼はもういない。けれどもしかしたら、そんな人など最初からどこにもいなかったのかもしれない。
 人は誰だって、強いところもあるけれど、それと同時に弱いところも持ち合わせている。決して完璧などではないのだと、この時私は思った。
「でも、唯君のお父さんはどうして唯君に、その……ああいうこと」
 一つ気になっていることがあって、けれど流石に自分の口からそれを言うのは抵抗があり言葉を濁してしまう。けれど唯君にはそれだけで伝わったようで、私を見て苦笑した。
「俺とお母さんが似てるから。前に藤森だって俺に言っただろ、母親似だって。それに俺、身長もお母さんと大して変わらないくらいだったし、身体だって、小さいし……」
 それを聞いて思い返してみれば確かに、以前唯君の家で言った覚えがある。
『……写真見たんだけど、唯君ってお母さん似なんだね! お母さん綺麗でビックリし』
『黙れ!!』
 そうだ。あの時だ。初めて唯君の家族写真を見たとき、唯君がお母さんとあまりに似ていたから驚いたんだっけ。それで唯君につい話題を持ちかけてしまったら、なぜか唯君を怒らせてしまって。
「……ごめんなさい、だからあの時唯君怒ったんだね……」
「えっ? あ、違うよあれは藤森が悪いんじゃないから! っていうか藤森、俺のお母さんが死んでることも知らなかったんだし、いいよ俺気にしてないから」
 慌てて唯君が撤回してくれるものの、やっぱりあの時自分は相当無神経なことを言ってしまったんだと自分の言ったことに対して罪悪感を覚えた。知らなかったとはいえど、あれでは唯君が怒ってしまうのも無理はない。
「俺だってお母さんが亡くなるまでは母親似ってこと全然気にしてなかったし、身長だって、人それぞれ個人差があるんだからしょうがないってちゃんと割り切ってたんだ。不自由なことはあるけど別に親に文句言うことでもなかったし」
「うん……」
「……でも今みたいになってから初めて後悔して、親に文句が言いたくなった。だってお母さんに似てなかったら、体格だって北やタケみたいに大きかったら、こんなことにはならなかったのかもしれないのにって」
 そう思ってしまうのも仕方のないことだった。唯君は高校三年生だというのに中学生並みに小さな体格と身長で、顔だって女の子から「可愛い」と言われているほど。実際、私だって高校で初めて唯君を見たとき「小さくて可愛い男の子だな」と思った事実がある。
「親だって生まれてくる子供がどんななのかなんて分からないし決められないから、しょうがないんだけど……」
 切なげにぽつりとそう言った後、唯君はちょっと慌てたように苦笑した。
「ごめん。もうこの話はやめよっ。マジで暗くなるし。俺もあんまり話したくないし藤森も」
「ありがとう唯君」
「?」
 お礼を言ったが唯君には意味が分からなかったようで、小さく首をかしげている。
「色々話してくれて、ありがとう。唯君自覚ないかもしれないけど、今日唯君ね、自分のこと沢山話してくれたよ。私、それがすごく嬉しい」
 本当に嬉しかった。相手のことを理解出来ることがこんなにも嬉しいことなのだと初めて知った。
 私が微笑むと唯君も嬉しそうに笑う。こんな風に彼が微笑みかけてくれることもまた嬉しいことだった。
「っていうか、ここちょっと暑くない? 俺さっきから汗掻いてんだけど……」
「え!? 何言ってるの唯君、ここすっごく寒いよ」
 今は12月だ。しかも夜。口から出る息だって白いのに、唯君はこんな時になんてことを言ってるんだと驚いたが、ハッと思い立ってとっさに私は唯君の額に手を当てる。
「藤森?」
 手を当てた唯君の額は、思ったとおり異様なほどに熱を帯びていた。
「……やっぱり。唯君熱があるよ、部屋の窓開きっぱなしだったから、……多分そのせいかもしれない……」
 多分というか、絶対そのせいだろう。それにあんな寒い中、毛布を被せられていたとはいえど彼は服を着ていなかったのだ。体調を崩すのも当たり前だ。それに怪我をすると熱が出るって聞いたことがあるし、それもあるのかもしれない。
「ごめんね私がこんな時に公園へ寄り道なんてしたから……、早く私の家に」
「いや、やっぱり悪い気がするからいいよ。俺家に帰って休む。これぐらいの熱、いつものことだから大丈夫だし」
 少しきつそうに顔を歪ませたがすぐに平気そうな顔をして唯君は苦笑した。けれどせっかく彼を連れ出すことが出来たのに、また家に戻すなんて無意味なことはしたくない。それに、家に戻っても休むことすら出来ないかもしれないのに。
「駄目、そんな身体じゃ帰せないよ……。私の家、お父さんは単身赴任でいないし、お母さんも仕事で遅くにしか帰ってこないから大丈夫。今日は私の家で休んでいって」
「でも」
「私がそうしたいから。ね、唯君」
 こういう時に、彼の力になってあげなくては。
 私が言うと彼はコテンと私の方に寄りかかって、瞳を閉じた。どうやらずっと気分が悪いのを我慢していたようで、口から漏れる息もどこか苦しそうだ。額には玉のように汗を掻いている。
「ごめん……、家にいる時からずっと調子悪くて……」
「気にしなくていいよ。今は大丈夫だから、ゆっくり休んで」
 しかしそうは言ったものの、こんな状態の彼を私一人で家まで連れて行くのはちょっと難しい。少し考えた私はポケットから携帯を取り出した。この時間ならもう家へ帰っているかもしれないと思いながら。
 しばらく呼び出し音が鳴ったのち、その相手は出てくれた。そのことにまず一安心だ。
「……あ、遥お兄ちゃん? あのね……、ちょっとお願いがあるんだけど、いい……?」



「まなが車で迎えに来てなんて言ってくるから何事かと思えば……ふーん、そういうことだったんだ」
 運転席でニヤニヤしながらそう言ってきたのは藤森遥(ふじもり はるか)。私の兄だ。
 四人兄妹の長男で、れっきとした社会人。家から会社へ通っているためまだ一緒に住んでいる。この時間ならもう家に帰っているだろうと思い携帯に電話をかけてみたら案の定出てくれて、公園まで迎えに来てもらった今現在。
 変な笑みを浮かべながら楽しげにそう言ってくる兄を前にして、唯君と一緒に後部座席に座っていた私はなんだか顔が熱くなる。なんだろうあの笑みは。
「私と唯君は友達だからっ……一真(かずま)お兄ちゃんと雅(みやび)には変なこと言わないでね」
「俺は言わねーけど、あいつらは勝手に勘違いして盛り上がるだろ。なんつったってあの友達の少ないまながいっちょ前に男を連れ込むんだから」
 内気で暗い私とは違って、他の三人はとにかく元気で活発だった。しかも身長も全員大きい。きっと私の身長が小さいのは上の二人のせいに違いないと、幾度も思ったことがある。
 長男である遥お兄ちゃんはもう25歳だし大人の落ち着きというものがあるから安心して相談だって出来るけれど、残りの二人はよくちょっかいをかけて私をからかってくるため物事などとてもじゃないが頼めない。今回は特にだ。
「つーか一真と雅が『メシ、メシは!?』ってマジうるせーからその辺にあった食パン突っ込んで来たぞ」
「あっ、ごめんねすっかり忘れてた……!」
「やっぱりな……。最近、俺らの夜飯のことないがしろにしすぎだぞお前。俺らを餓死させるつもりかよ」
「……ごめん」
 母が仕事で帰ってくるのが遅いため、ご飯は大抵私が作ることがほとんどだった。けど、最近は唯君のことばかり考えていて夕食がかなりの手抜きになり三人からブーイングが出ていたのである。
 家に帰った時のことを考えてちょっと鬱になりながら、私は横にいる唯君を見た。彼はさっきよりもきつそうにしていて、ぐったりと瞳を閉じている。私はそんな彼の肩を掴んで自分の方へ寄せると、彼が倒れないように身体を支えた。
「そいつ、大丈夫か?」
 バックミラーごしにそう尋ねられて、私は肩が揺れる。
「え? あ、うん。あんまり大丈夫じゃないけど、家で休ませるつもりだから……」
「そいつちゃんと家があるんだろ? なんで帰さないんだ」
 いつ訊かれるだろう、何も訊いてこなければいいんだけど、とドキドキしていたら、やっぱり当たり前のように訊かれてしまった。けど、私は何も言えない。彼の家で起こっていることなんて、そう簡単に誰かに言うようなことじゃないと分かっているから。かといって兄を騙すほどの嘘も思い浮かばない。
 私が何も言えずに黙っていると遥お兄ちゃんはバックミラーから目を逸らした。
「……ま、あんまり詮索するつもりはないけどな」
「ごめんなさい……」
「まなは一真や雅と違ってしっかりしてるから、ちゃんと理由があるんだろうし」
 優しい言葉だったのになんだかいたたまれない気分になって、私は俯いてしまう。
 いきなり妹が、あちこちに傷を負って高熱まで出している男の子を連れてきたら兄である遥お兄ちゃんだって驚くだろうし、訊きたいことだって出てくるだろう。けれど、それに答えることは出来ない。ここで唯君のことを話せばもしかしたら力になってくれるかもしれない、遥お兄ちゃんは社会人だし経済力だってある。頼りになる存在だ。
 でも、そう考えたところでやっぱりそんなことは出来ないのだ。
 そしてそのまま遥お兄ちゃんも私も何も言葉を交わすことなく、車はどんどん家へと向かっていく。それからさらに時間が流れて、家へ着いたのは公園を出てから10分後のことだった。
「ほら、着いたぞ」
 歩けば結構な距離だが車ともなるとやはり早いものだ。ぼんやりそんなことを思っていると、車庫へ車を止めたお兄ちゃんが私の方へ振り返った。
「そいつは俺がまなの部屋にこっそり運んでおいてやるから、まなは一階でブーブー言ってる一真と雅の相手しといてやれ。あの二人には後で俺が言って黙らせるから」
 流石にここは長男というべきだろう、私が何を言っても一真お兄ちゃんや雅は聞いてくれないが、遥お兄ちゃんの言うことは大抵聞く。まぁそれは、この人が怒ったらとても怖いからであるけど。
「ありがとうお兄ちゃん」
「その代わり、メシはちゃんと作ってくれよ」
 俺も腹ぺこなんだよねーと苦笑して言ったのを見届けて、私は車から降りて家の中へ入っていった。
 遥お兄ちゃんが言っていたとおり、帰ってきた私を一真お兄ちゃんと雅がすごい剣幕で迎えた。
 おかえりという言葉なんてそっちのけで二人揃って「メシ!」と言うなり私の頭をわしわしと乱暴に撫でたり髪の毛を引っ張ったりする。けれどそんな意地悪にはもう慣れたもので、私は逃げるようにそそくさとリビングへ入ると二人に唯君を見られないようにリビングのドアを閉めた。
 その間遥お兄ちゃんはきちんと唯君を部屋まで運んでくれたらしく、私がしばらくしてから二階の自分の部屋へ入ると、唯君は私のベッドで寝かされていた。
「とりあえず、これでまなは満足だろ」
 ニコッと笑みを零してそう言ってくる遥お兄ちゃんに心底感謝して、私も微笑み返す。
「うん。ありがとう」
「着替え欲しいんだったら雅のかっぱらってくるぞ。俺と一真のじゃコイツにはでかすぎるだろうし。雅もでけぇけど、まぁ俺のよかはマシだろ」
 汗を掻いている唯君のことを気遣ってくれたのだろう、確かに今の唯君の様子を見るからに、着替えがあった方がいいかもしれない。
「うん、後で唯君が目を覚ましたら訊いてみる」
「そうしてくれ。あとなんかあったら呼べよ、俺でよければ手伝うから。明日は土曜だし仕事休みだしな」
「ほんとにありがとね、遥お兄ちゃん」
 本当にありがたくて私が何度もお礼を言うとお兄ちゃんは豪快に笑った。
「そりゃ近い将来俺の義弟になるかもしれんヤツだからな!! 今のうちに恩を売っておかないと!」
「! もう遥お兄ちゃんってば……!!」
 兄の軽い冗談に顔を真っ赤にさせていると、遥お兄ちゃんは「んじゃな」と言って部屋を出て行った。
 私と唯君の二人っきりになった自分の部屋で、私はベッドで眠っている唯君を見つめる。唯君は顔を真っ赤に染めて浅く呼吸を繰り返している。その額から流れる汗をタオルで拭きながら、私は沈んだ気持ちになった。
(そういえば、前にも唯君、熱で倒れたことがあったっけ……)
 あの時も唯君ずっと我慢してて、倒れた後も無理して授業を受けていた。羽野君達も言っていた、唯君は高校に入ってから病弱になったと。唯君はいつものことだからと言っていたけど、そんなのまともな返答じゃない。
 本当に、彼を助けてあげなくては。でもどうすればいい。自分は何をすればいい。考えても考えても、分からない。彼が二年半も悩み続けて、未だ結論が出ていない問いかけ。
 誰にも知られることなく、誰にも秘密を言うことなく、彼を救いだせる術。そんなことが、今の無力な自分に出来るだろうか。
「でも……何があっても私は、ずっと唯君の側にいるからね」
 熱に浮かされ眠る彼を前に、私は小さく呟いて彼の頭を撫でた。今の自分に出来ることは、それぐらいしかなかったから。



 目の前に広がる闇。どこまでも、どこまでも果てしなく。
 それはいくら歩いても走っても、終わりそうにない。終わりそうにないというよりも、むしろそこに終わりというものはあるのだろうか。延々と続く真っ暗な空間、一体どこまで続いているんだろう。
 その見慣れた場所を前に、自分は立ち竦んでいた。
 どっちに進むべきなのかも分からない、どこが出口なのかさえも。第一終わりがあるのかさえ分からないのだ、それなら立ち止まっていた方が良い。無駄なことは、もうしない。
「それならどうして誰かに頼ろうとするんだ」
 自分の背後から声がした。なんだか酷く馴染みのある声。一体誰だろうと振り返ると、そこにいたのは少しはねた黒髪と、漆黒の瞳を持つ男。俺と全く同じ容姿、背丈をし、同じ服を着ている。一瞬鏡でも見ているんじゃないかと思ったが、目の前にいる「俺」はクスリと、余裕のある笑みを浮かべた。
「誰だ、お前……」
 答えなんて分かり切っている問いを、相手に対して投げかける。相手は嘲笑した。
「『誰だ』なんて、俺はお前だよ、唯」
 今俺の目の前にいるのは「俺自身」だと相手は言う。
 こんな夢まで見るなんて、いよいよ頭がやられてきたのかと思った。「俺」は何が楽しいのか、相変わらずクスクスと笑いを零しながらこちらへ近づいてきた。
「無駄なことだって諦めていたのに、どうして今更誰かに、藤森に頼ろうとするんだ」
 先ほど言ったことを追求するように、もう一度そいつは言う。
「そんなに藤森と一緒にいたい?」
 さらに相手が問いかけてきたが、俺は何も言わなかった。ただ黙ってそこに立っているだけ。これは夢だと、自分に言い聞かせながら。
 俺が何も言わずに黙ったままでも、「俺」は構わない様子で淡々と言葉を紡いでいった。
「良い子だよね藤森って。健気で優しくて、お前のことを真剣に考えてくれてる、お前の初めてで唯一の理解者」
 何が言いたいのかさっぱり分からない。けれど、異様なほどに不愉快だった。
「こんな、父親とヤってるヤツなんかの側にいてくれる、本当に良くできた子だよ」
 このままずっと黙っているつもりだった。だけど、その言葉だけは我慢ならなかった。
『父親とヤっている』
 そんなこと、好きでやっているわけじゃないのに。
「……何が言いたいんだよ、お前は」
「好きなの? 彼女のことが」
 訊き返すとすぐそう返ってくる。その問いかけにドクンと小さく、身体が鼓動を打ったのが聞こえた。
 藤森のことが好きなのかどうかなんて、考えたことがなかった。否、今まで考えないようにしていた。自分の中で無理矢理あやふやにして、押し込めていた。
「……そんなこと分からない」
 小さな声でそう言うと、目の前の「俺」は途端笑い出した。とても面白そうに。
「分からないのに側にいてもらいたいんだ? お前図々しいにも程があるよ」
「分かってる」
「あの子をレイプして、最低なことをして、何度も泣かせてたのはどこの誰だよ」
「……っ……」
「父親からの虐待に耐えられなくて同じ目に遭わせてやっただなんて、そんなの言い訳にもならない。藤森は優しいからそんなお前に同情して許してくれたのかもしれないけど、ほんっと最低。信じらんないね」
 ギュッと、己の拳を強く握りしめた。相手の言ったことに苛立ったからじゃない、それは全て本当のことで、そんな自分に反吐が出たから。
 それを見て尚更愉快そうに、「俺」は口の端をつり上げる。
「そんな最低なお前のことなんて、誰も好きになんてならない」
 ズキッと身体のどこかが痛んだ。なにも言い返せない。
 そんなこと、言われ無くったって分かってる。自分がどれだけ最低で、好きになってもらう資格がない人間かなんて。
「それとも、藤森にお願いでもするつもり? 『俺はこんなに可哀想で、ひとりぼっちの寂しい人間です。どうか見捨てないでください、好きになってください』って」
 あまりに惨めで情けなかった。吐き気がするほどに。けれどそれが今の自分。
 いつからこんなに自分のことが嫌いになったんだろう、前はこんなこと思ったことすらなかったのに。本当の自分はこんなにもどうしようもない、救いようのない人間なんだってことに気付いたからだろうか。
「そう言っちゃいなよ、そしたら藤森側にいてくれるよ。だって藤森は優しいからさぁ」
 藤森は、優しいから。
 頭の中でその言葉が響く。
『私、ここにいるからね。無力かもしれないけど、唯君の側にいて、話もちゃんと聞くから……。私に出来る範囲のことならやるから』
 あの時藤森が言ってくれた言葉にどれだけ自分が救われていたかなんて、きっと藤森は知らないんだろうな。
 藤森はいつも優しすぎて、今の俺には眩しすぎて。藤森が優しい言葉をかけてくれるたびに嬉しくなって救われて、けれどその反面、その優しさがいつかは自分の手から離れていってしまうんじゃないかと思って怖くなる。
「俺はお前だもん、お前の気持ちくらいは分かってるよ。本当は、自分が誰にも愛されていないんじゃないかって怖いんだ。寂しいんだよね」
 その言葉に、身体の奥底を深く抉られたような痛みが走る。
「それを考えると何も信じられなくなるから出来るだけ考えないようにしているけど、実際は怖くてたまらないんだろ?」
 やめろ、もう聞きたくない。全てが見透かされていることが怖い。手はガタガタと震えていて、動揺しているのだということが傍から見てもすぐに分かるほどだ。
「お父さんとお母さんだって、ほんとにお前のこと愛していたのかも分からないよね。だって本当に好きでいてくれたのなら、自分の子供に手酷く暴行なんてしないはずだから」
「……違う、あの人は、お母さんが突然いなくなって、寂しくて、だから」
 そこまで言ったところで、目の前の「俺」は思いっきり笑った。人を馬鹿にするような笑いだった。
「それで父親を庇ったつもり!? あぁ可笑しい! そんなの他の誰でもない、お前自身のためのくせに!!」
「!!」
「そう言い聞かせていないと、自分がやっていけないからだろ!!」
 それは自分しか知り得ない、心の奥底にあった疑惑。
「お父さんとお母さんは互いに互いのことしか想い合ってない。その間にお前は入れない。だからお母さんがお前を産んだのなんて、自分が死んだ時のための代わりだったんだ! お父さんはお前のことを母親の代わり、性欲のはけ口としてしか思ってないんだよ! 今もこれからもずっと」
「違う!!!」
「小さい頃からお前に優しくしていたのも、お前を手なずけるための手段だったんだ。それを愛情だとか絆だとか勘違いするなんて、お前もほんとに馬鹿だね。まんまと両親の手にかかって可哀想に」
「違う、そんなのは……!!」
 崩れていく。なにもかもが、脆く簡単に。
「じゃあなにを根拠にそれが嘘だって思う? どうしてお前の父親はお前を抱く? どうして抱いてる時にお前の名前じゃなくて母親の名前を呼ぶ?」
「……違うんだ」
 最後はもう、掠れたような弱々しい声しか出ていかなかった。相手の言うことを否定したいのに、それが出来ずに虚しさだけが取り残される。
「お前だって分かっているくせに。自分が母親の代わりでしかないことくらい。自分はそれ以外何一つ、必要とされてないことだって」
 頭が痛い。これ以上なにも聞きたくない。
 誰か、誰か。
「本当に可哀想、同情するよ。みんながお前のことを、ね……」



 目が覚めた。眠りから逃れるように突然。
 自分は少しうなされていたのかもしれない。苦しくて、浅く呼吸を繰り返していた。身体中びっしょりと汗を掻いていて、気持ち悪い。ぼんやりとしたまま定まらない視界の中で、額の汗を手の甲で拭った。
(……最っ悪な夢……)
 今まで見た中で一番最低な夢だと思った。本心を人目に晒されたような、不愉快さと不快感。
 しばらく呆然としていた俺は、ふとここが知らない場所であることに気付いた。そして自分の手を握る誰かの手の感触。横へ顔を向けると、藤森が俺の手を握ったまま、布団に顔を埋めて眠っていた。
「藤森……」
 どうして藤森が、と疑問が過ぎってすぐに記憶を呼び起こす。
 ああそうだ、家を飛び出して、藤森と公園で話していたら気分が悪くなって、その後は、車で運ばれたような覚えがあるけれど、その辺りははっきりしない。
 だけど藤森がずっと自分の側にいてくれたのだということだけはよく分かった。横で気持ちよさそうにぐっすり眠っている藤森を見ていたら酷く安心して、俺は彼女の頭を撫でる。柔らかい髪の毛の感触がとても心地良かった。
『それとも、藤森にお願いでもするつもり? 『俺はこんなに可哀想で、ひとりぼっちの寂しい人間です。どうか見捨てないでください、好きになってください』って』
『そう言っちゃいなよ、そしたら藤森側にいてくれるよ。だって藤森は優しいからさぁ』
 藤森は本当に良い子で、優しくて、人の気持ちを分かってくれる、強い子。きっと、側にいてほしいって俺が言ったら彼女はその言葉のとおりずっと側にいてくれるのかもしれない。
 藤森は前に俺のことを好きだと言ってくれた。でもそれは藤森が本当のことを知る以前、何も知らない藤森から見えていた俺のことで、きっと今の情けない自分のことじゃない。今でも変わらずに彼女が俺のことを想って側にいてくれているのか、それは分からない。
 夢の中でアイツが言ったように、憐れんで側にいてくれているだけなのかもしれない。
「……でも、それでも藤森……俺は、藤森と一緒にいたいよ」
 彼女が眠っている今だけ。少しだけなら、自分の望みを口にしたっていいのだろうか。
 藤森と一緒にいたい。一緒にいるだけで安心出来る、藤森だけは、自分のことを分かってくれるから。
『色々話してくれて、ありがとう。唯君自覚ないかもしれないけど、今日唯君ね、自分のこと沢山話してくれたよ。私、それがすごく嬉しい』
 藤森だから話したんだ。藤森にだけは、本当の自分を見てもらいたいって、思ってるから。
 だけど。
「そんなの、無理なことだよな……」
 だって自分のことが大嫌いなやつを、どうして他の人が好きになってくれるというのだろう。