第13話 絶望の彼方


「唯〜っ、今年もさぁみんなでパーッとクリスマスになんかしようよ!」
 相変わらずの、雑談がひしめく賑やかな教室の中、いつもの調子で紺野さんが唯君にそう言っているのが耳に入った。
(……クリスマス)
 そっか、もうそんな時期なんだ。いつもは12月になったら普通にクリスマスのことを思い浮かべるのに、今年はどうもそういう気分になれなくてすっかり忘れていた。
 紺野さんの提案に一番最初に反応したのは羽野君で、読んでいた雑誌から視線をあげる。
「お、いいね〜。それならキリ達も誘おうぜ。アイツらも遊びたがってたから。唯いいだろ?」
「キリが? そういえば最近全然遊んでなかったんだっけ。いいよ、キリ達も誘おう」
 唯君が言うと、紺野さんは「やったー!」と大げさに両手を上げて喜んで、とても楽しみにしているというのが見ているだけで伺えた。それはそうだ、好きな男の子とクリスマスを過ごせるのだから、他の人たちと一緒とはいえど嬉しいものは嬉しいだろう。
 私はというと、いつもどおり唯君達の会話を聞きながら本を読んでるくらいだ。相変わらず暗いと思う。そんな自分があまりにも情けなくなって、本に隠れて小さくため息をついた。
「俺も賛成。つばさがいなければもっと最高」
「なによーっ!」
 近藤君が紺野さんを見ながらニヤニヤして言うと、当然のように紺野さんは怒って近藤君をポカポカと叩いている。その光景もいつものことだった。近藤君と羽野君が紺野さんをからかって、それを唯君か北川君が止めて、みんな楽しそうで。
 そう、全てがいつも通りに過ぎていく。その流れに私は流されていた。自分のしたいことも分かっているけれど、彼が私のことをどう思ってくれているのか分からなくて、不安になる。
「じゃあアレだ、クリスマスってことでカラオケ大会でもしよーぜ」
「よく言うぜ、勇介が一番音痴じゃねぇか。しかもクリスマスだからカラオケって繋げる意味がわかんねーし」
「勇介は部屋の隅っこでタンバリンでも叩いて盛り上げてくれればいいから」
 羽野君と近藤君がそう言って北川君をせせら笑っていると、北川君は怒って二人に飛びかかった。その光景もどこかほのぼのとしていて、微笑ましい。
 クリスマスと言っても、私はどうせいつもどおり家族でケーキ食べたりして終わりだろうけど。自分の予定を心の中で確認しながら、尚更虚しくなってきた。
(……家族か……)
 とっさにその二文字が頭に浮かんで、思わず唯君の方を見つめた。母親はすでに亡くなっていて、残された父親との関係は歪んでいて、赤の他人である私から見ても彼の家庭は相当異質である。しかも、それを悟られないように平然と周りに振る舞っている彼の完璧な行動さえも、異常といえるほどだ。
 今友達と楽しそうに話している唯君の様子からは、あんなとんでもない秘密を抱えていることなど到底伺えない。
「そういや北、こないだ演歌歌ってたけど俺も」
「うわーっ!! ちょっ、唯!! それ言っちゃダメだって!!」
 ありえないくらいの北川君の取り乱しように、唯君は「え、ダメだった?」とさも気まずそうな顔つきをしている。どうやら秘密事項だったらしい。
 しかしそれはもう後の祭りというもので、しっかりそれを聞いてしまった羽野君達はちょっと引いたような顔つきをそれぞれ見せている。
「演歌とか、お前見かけによらず渋いな……」
「勇介……お前そんなだからいっつも彼女出来てもフラれるんだぞ。もっとノリのいい普通の歌覚えろよ」
「っていうかその前に勇介はその音痴なんとかした方がいいわよ」
「うるせー!」
 顔を真っ赤にして怒り出した北川君を見ながら唯君達は笑っている。私もあの中に混ざってみたい、と思わせるくらいの仲の良さだった。
「あーもう、演歌のことは言わないで欲しかったのに……!」
「ご、ごめん。っていうか北が演歌好きなの、みんな知ってるかと思ったし」
「いや、勇介が演歌歌うなんて俺ら知らんかったし。つーか二人でなにこっそりカラオケ楽しんでんだよ俺らも誘えよ」
「この間たまたま一緒に帰ってて、時間があったからカラオケ行ったんだよ。北が歌練習したいって言ったし。でも北、演歌上手いんだから別に隠さなくてもいいじゃん。それに俺もあれから結構演歌覚えたから今度一緒に歌おうよ」
 ガックリとしている北川君を元気づけるように唯君がフォローを入れると、北川君は唯君の手をガシッと力強く掴んで瞳を潤ませた。
「唯、お前はほんとに良いヤツだ……!!」
 熱い友情だな、と呆れて見ている羽野君と近藤君に、紺野さんはなにか気にくわないような顔つきで、空いていた唯君のもう片方の手をガシッと掴む。
「ちょっと勇介抜け駆けしないでよっ、唯は私とデュエットするんだから!!」
「あ、悪ぃ。別にそういうつもりじゃないんだけど、ほら、つばさはつばさで唯とデュエットすればいいじゃん! 俺は俺で唯と別に歌うから」
「えーッ、なんかそういうのイヤ」
 二人に両手を捕まれている唯君はといえば、「なにこれ」とでも言うように二人を交互に見ている。少しむすっとしている紺野さんの肩を、羽野君が叩いて嘲笑した。
「姉御、ライバルは案外一番近くにいるもんなんだぜ」
「勇介!! あんた唯と二人でカラオケ行ったからっていい気にならないでよね!」
「や、俺至ってノーマルですから」
 紺野さんに怯むことなく北川君はそう言って笑っていた。
 そういえば、いつも不思議に思っていた。北川君は、どうしてあんな風に唯君と普通に付き合えるのだろうかと。彼は唯君から暴力を振るわれていた、普通に考えても互いの友人関係は崩れてしまうものなのに。唯君にとっても北川君は、自分が別の面を持っているのを知っている人なのだ。
 それなのに北川君と私は、なぜこうも違うんだろう。
「でもさー唯、お前クリスマスに俺らと過ごしていいわけ?」
 そんなことを思っていた私の思考を止めたのは、ふいに上がった羽野君の意味深な台詞だった。突拍子もなく羽野君が唯君に言うものだから、唯君は「は?」と言うような疑問に満ちた顔をする。
「なんで?」
「や、大事なクリスマスに彼女ほったらかしていいのかなぁって」
「!? 唯、それどういうことッ!?」
 羽野君からそう言われた当の唯君よりも早く、間髪入れずにツッコむところが流石紺野さんというところだろうか。羽野君の言ったことに対して一番驚いていたのはやっぱり彼女だった。そして紺野さんは唯君の肩をガシッと掴む。掴まれた唯君はといえば、紺野さんの行動に驚きながらも、傍にいた羽野君を見た。
「ちょっと、樹何言ってんだよ! つばさも落ち着けって」
「落ち着いてらんないよ! だって唯、『好きな人いないし興味ないから』って私からの告白ずーっと断ってきてたじゃない!!」
 教室中に聞こえるほどの声でそんなことを堂々と言える紺野さんは、やっぱり凄いと思ってしまう。そのあまりの大声にクラス中の人が彼女を見ていたが、紺野さんは全く気にしていないようだ。
「……ずーっとって、お前一体何回唯に告白したわけ?」
 興味津々に唯君と紺野さんを交互に見ながら、羽野君は他人事のように楽しそうだ。だが紺野さんは相当ショックだったようで、無神経な言葉をかけている羽野君を睨みつけた。
「うっさいわねッ!! そんなこと羽野達に関係ないでしょ!?」
 当たり前のように怒鳴られ、羽野君はそれでも口元に笑みを残したまま。
「おー怖……。唯もきっぱり言ってやれよ、『自分より背の高い子は好みじゃないから』ってさ。こういうタイプは放っておくと厄介だぞ」
「樹!」
 更にそんなことを言ってのける羽野君を唯君が怒鳴ったが、紺野さんは羽野君の言葉を真に受けたようで愕然としていた。その彼女の横で北川君が「あんま気にするなよ」と宥めて肩を叩いているけど、彼女には全く聞こえていないようで反応はない。
「唯……」
 紺野さんは唯君に対してなにか言いたげに口を開いたが、ハッとなにか思い立ったような顔をして口を閉ざした。そして普段と何一つ変わらない強気な笑みを見せる。
「……バッカじゃないの!? 唯がそんなこと言うわけないし、思ってるわけないでしょ! 私の方が羽野よりも唯との付き合いは長いんだから、唯のことはちゃんと分かってるもんね!! 唯は優しいからそんなこと言わないもんッ」
 仮にライバルがいたらいとも簡単にそれを蹴散らしてしまうような、強くてまっすぐな気持ちを紺野さんは口にする。みんなの前で恥じらいもせず、堂々と。
「大体いつもいつもくどいのよ、私に唯のこと諦めさせようって魂胆が見え見えで。でも生憎私は唯のこと諦めるつもりは毛頭ないんだから、そんな馬鹿みたいなこと考える暇あったら課題ちゃんとやってきなさいよね! そんなだからテストで国語14点とかとっちゃうのよ」
 休む暇なく淡々とそう言い返してくる紺野さんのきつい攻撃に、羽野君の方もカチンときたようだ。
「なっ……テストは関係ないだろ! 人のテストの点数言うなんて最低だぞお前!」
「あっごめーん。口が滑っちゃった。っていうか羽野に最低とか言われたくないんだけどっ」
 少し顔を赤くして怒った羽野君に紺野さんはべっと舌を出してあっかんべをすると、踵を返して唯君の方を向いた。そして羽野君に対して見せていた顔とはうってかわって、恥ずかしそうな顔をして苦笑する。
「ごめんね唯、大声でこんなこと言っちゃって。いつものことだけど許してね!」
 片手を顔のところまで持ってきて「ごめん!」と気さくに謝ってくる彼女を見たら何も言えなくなったのか、唯君は紺野さんに対して何も言わなかった。そしてそのまま紺野さんは教室を出て行ってしまう。少しざわついた教室内で、残された唯君と北川君、そして武丸君は揃いも揃って羽野君を呆れたような目で見つめ、3人同時に言い放った。
「最低」
 言われた羽野君はといえば、頭を掻いて苦し紛れに笑っている。
「あいつ女のくせに気強すぎだよなー! ちょっと意地悪しても全然効かねぇの!」
 少しは反省しているかと思えば全くそんな様子はない。羽野君と一番親しいらしい近藤君でさえもこれには少し呆れたようで、「アホ」と小さく言って羽野君の頭をバシッと叩いた。
「不器用。お前の気持ちは分からんでもないけど、さっきのは最低だぞ」
「な、なんだよ雅之まで……! 唯だってつばさのこと前から」
 突然ガタッと席から立ち上がった唯君に羽野君はビクッと言葉を止めて、何も言わない彼に対して恐る恐る声をかけた。
「唯……もしかして怒ったとか?」
「そういうわけじゃないけど、──ちょっと行ってくる」
 そうとだけ言って、唯君は紺野さんの後を追うように教室を出て行ってしまった。わずかにざわついた教室内、残された羽野君達の内、北川君はちょっと心配そうな顔をしている。
「つばさ泣いてるんじゃないのか今頃」
「えっ」
「えっ、じゃないだろお前。相当酷いことつばさに言ってただろ。女の子には優しくしないと、お前マジに嫌われるぞ」
 友人である近藤君からそう注意されて、羽野君は少し反省しているように頭を掻いていた。羽野君は紺野さんにやたらとつっかかっているけど、どうしてそんなにも紺野さんにちょっかいを出すのだろうと、全く関係のない私まで気になってきてしまった。



 5時間目に間に合わせるように、紺野さんと唯君は教室へ戻ってきた。
 紺野さんはなんらいつもと変わらない様子だったが、羽野君の席へ行くなり近藤君と話していた彼を思いっきり叩いて、彼に暴言を好きなだけ吐きまくって、すっきりしたように笑った。
 一体あの後、紺野さんが教室を出て行って、唯君がそれを追いかけた後、二人は一体どんな話をしたのだろう。気になって気になって仕方がない。そして以前、唯君が紺野さんにキスをしたこともずっと心の中でひっかかっていた。



「気になる?」
「え?」
 掃除の時間になって、階段をほうきで掃いていた私に北川君が声を掛けてきてくれた。しかもまたご丁寧に、頼子がバケツの水を捨てに行って丁度いない時を狙って。私が頼子から勘ぐられないように気を遣ってくれているのだろう、そんなささやかな心使いが北川君らしいと思う。
「気になるって、何が?」
「つばさと唯のこと」
「──すごい。……お見通しだね」
 北川君の言ったことは見事に的中して、そんなに私は顔に出ているのだろうかと自分が情けなくなってくる。苦笑して言うと、北川君は「まぁね」と言って笑みを見せた。
「あ、そういえば北川君って演歌好きだったんだね。私知らなくて」
「や、その話題引っ張ってこなくていいから!!」
 ぐわっと慌てて食らいつくように言って、「それ誰にも広めるなよ」とこっそり私に釘を刺す。でも、私に言うよりも羽野君や紺野さん達に言っておいた方が効果がありそうだ。そこまでは彼に言わなかったけど。
「俺は中学で唯と知り合ったからそれ以前のことはよく分からないけど、武丸から前に聞いたことあってさ。……って武丸は小学生の頃から唯とクラブが一緒で仲良かったみだいだから、アイツの方が唯との付き合いは長いんだわ」
 そんな風に、話を少しでも分かりやすくするように前置きをして彼はいつも話してくれる。相手への気遣いがちゃんと出来る優しい人なんだなぁといつも思っていた。
「つばさは小学生の頃から唯と友達でさ、その頃からずっと唯に告白しててフラれ続けてたっぽい。回数までは知らないけど」
 以前化学室で紺野さんが唯君に告白しているのを目の当たりにしたことがあったが、あれは本当にすごい迫力だった。確かあの時に紺野さんが、今まで自分が唯君に告白した回数のことを言っていた気がする。もう半年も前のことだからハッキリとは覚えていないけれど、結構すごい数だったんだよね……。
 それにしても小学生の頃からずっと一緒なんて。私は高校生になって初めて唯君と同じ学校になった。だからそれ以前の彼は知らない。そんな、私の知らない唯君を知っている紺野さん。私よりも遙かに、紺野さんと唯君との付き合いは長いんだ。私なんて、1年と3年で同じクラスになっただけ。しかも、彼を意識しだしたのはつい最近だ。
 そのあまりの違いに、ちょっと凹みそうになる。
「すごいね紺野さんは」
「あいつはすごいよ。いつも頑張ってんなーって俺も思う」
「紺野さんは私と違って行動力があるっていうか……包容力もあるし、美人だし、唯君の傍にはああいう人の方がいいのかもしれない」
「えっ、なに。負け宣言?」
 きっぱりと北川君がそう言って、私は思わず苦笑いしてしまった。確かに、今のは誰が聞いても負け宣言にしか聞こえない。
「そういうつもりで言ったんじゃないけど、なんかそれっぽいね」
「唯にとっては違うかもしれないだろ」
「え?」
「少なくとも、唯にとってはつばさは傍にいてほしい人じゃないんだろ。だから毎回告白されても断ってるんだ」
 傍にいてほしい。
 その言葉が頭の中でよみがえった。唯君が、私に言ってくれた言葉だった。
「仮に唯が藤森のことを好きだったとしても、藤森は自分に自信がないから自分よりつばさを唯に押しつけんの?」
「……そういうことはしないよ」
「だったらもっと自信持てよ。──つーか今更だけど俺、藤森と唯の間に何が起こったのか全然分かんねーからちゃんと応援できてんのか不安だぞ毎回」
 おどけて彼は笑いながら頭を掻くと、「じゃあな」と軽く告げて教室へ戻っていった。彼だって本当は唯君のことが気になっているはずなのに、私に無理矢理聞くようなことはしない。私や唯君がいつか話してくれるのを待っている。そんな優しい北川君のおかげで私は元気でいられる、十分すぎるほど彼には沢山のことを教えてもらった。
 けれど、そんな時に思う。北川君は知らないから、こんな風に私の相談に乗ってくれたり、唯君のことをちゃんと見守ったりしてくれている。紺野さんも知らないから、どんどん自分の気持ちを好きなだけ唯君に伝えようとする。
 もしこの二人が。北川君や紺野さんが本当のことを、唯君の身に起こっていることを知ったら、その時二人はどうするのだろう。私のように、一度は逃げてしまうのか、それともちゃんと彼を受け入れて力になってあげるのか、と。



「なぁなぁ藤森」
「え?」
 帰りのHRも終わって帰ろうと、鞄に荷物を詰め込んでいた私に突然声をかけてきたのは、今日ちょっとした騒ぎを作った張本人である羽野君だった。
 元々男子に話しかけられるということがあんまりなかった私にとって、羽野君から声をかけられることは珍しい。またなんかノート提出とか頼まれたりしないよねと、不安が募る。
「なに?」
「ちょっと藤森に訊きたいことがあんだけどさー」
 彼はきょろきょろと教室を見回しながら、やたらと人目を気にしていた。何か言いにくいことでも私に言うんだろうか。そんな風に警戒されると気になってしまう。
「ちょっと場所変えよう、唯がいるし。お前、時間ある?」
「別に大丈夫だけど……」
「やった! じゃあちょっとこっち」
 そう言って羽野君が教室の外へ出て行くのをついていきながら、ちらっと彼が気にしていた唯君の方を見た。けれど、すでに唯君の方がこちらを見ていて、お互い目が合う形となってしまった。
(え……!?)
 どうして唯君までこっちを見つめているんだろう。それにビックリして慌てて目をそらすと、私は羽野君の後を追った。
(唯君がこっちを見てるなんて……一体なんだったんだろう……)
 別に唯君にとっては大した意味など無かったのかもしれないけれど、私の胸は異常なまでにドキドキして、それはしばらく止まらなかった。



「藤森と唯って付き合ってんの?」
 前置きなども一切無しで、学校裏の人気の無い場所へ来た途端、羽野君は私にそんなことを訊いてきた。あまりの突拍子の無いその質問に私は一気に焦りを覚える。
「え!? な、なんで!?」
「だって昨日放課後、公園で唯が藤森のこと抱きしめてたから」
 いけない。まさか昨日の公園でのことを見ていた人がいたなんて思わなかった。しかも、よりによってそれが羽野君とは。いやそれよりも、会話まで聞かれてないだろうか。
「あれは特に意味なんてなくて、付き合ってるとかそういうんじゃなくて……! その……」
「じゃあなんで抱きしめられてたんだよ唯に」
「それは……」
 まさかそんなことを訊かれるなんて思ってもみなかったから、言い訳なんて全然思い浮かばない。ちょっとしたパニックに陥っているから尚更まともなことなんて考えつかなかった。そもそも抱きしめられておいて「特に意味はない」だなんて、おかしいにも程があるとさっき自分が言った事に対してツッコミを入れてしまう。
「……えっと」
「唯に訊いても『付き合ってない』の一点張りで何も言わねーの」
「え……」
 どうやら彼は全く同じことを唯君にも訊いたらしい。
「唯ってそういう話全然しないから誰と付き合ってんのかとか全然わかんねーの。だから藤森とは内緒で付き合ってんのかと思ったんだけど、付き合ってないの?」
「付き合ってないよ!」
 唯君がそう言ったのならそれに合わせないと、お互いバラバラのことを言うとかえって相手に怪しまれてしまう。それに、もとより付き合ってないのだから「付き合っている」とか勝手に言うのもおかしい。
 そうだ、私達は付き合ってなんかない。ただ私が、私だけが一方的に彼の事を想っているだけだ。
「じゃあ藤森って唯のこと好きなの?」
「え!?」
 どうしてこうもストレートに物事を訊けるのか、羽野君の言うことはいちいち突拍子がないと思った。それに、いきなりそういうことを訊かれてもこっちとしてもなんと言えばいいのか困ってしまう。言えばきっと彼は、他の人達に言いふらすのではないかと、妙に勘繰っている自分がいた。羽野君自体、実際そういう性格だったから。
「……好き、じゃないよ……」
 好きだと言えば、紺野さんの耳に入るかも知れない。彼らはいつも一緒に過ごしているくらい仲がいい。もう色々唯君を煩わせたくないと思ったし、なにより自分でもよく分からなかった。
 確かに私は前に「唯君のことが好き」だと言った。けれどもはっきりと自覚していたわけではなかった。彼が辛そうにしているのを見て助けてあげたい、傍にいてあげたいと思っているこの気持ちが「好き」だということなんじゃないかと思って、だからあの時言ったのだ。
 だけど、今になっても私はよく分からないでいた。この気持ちが一体なんなのか。それに、きっと唯君の方も「好きじゃない」とか「何とも思ってない」と言っているに違いない。私は、彼に合わせていればいいのだ。
 搾り取ったような声で返すと、胸がちくんと痛んだ。羽野君は「ふーん」と声を漏らす。
「へぇ、好きじゃないんだ。じゃあアレか、唯の片思いってわけだ」
「……へ?」
 思いがけない羽野君の言葉に、私は一瞬間を置いて素っ頓狂な声を上げてしまった。
「だってアイツ、否定しなかったぞお前みたいに」
「──え?」
「俺が『藤森のこと好きなのか?』って言っても、何も言わなかった」
 あまりの寒さに身体が固まってしまったんじゃないかと思うほど、身体が硬直したように動かなくなった気がした。
 唯君が何も言わなかっただなんて、そんなことあるわけないのに。どうして。彼がどんな気持ちでそんなことを言ったのか、いくら考えても分からなかった。前と同じだ。私は今、彼が何を考えているのか全然分からない。
 羽野君との話が終わって別れを告げた後、私は頭の中でぐるぐると回るその疑問を繰り返しながら、教室へと歩いていた。
 ガラリとした教室には、もう誰一人としていなかった。
 いつもはこの時間ならまだ何人かくらい教室に残っているはずなのに、今日に限って誰もいない。ちょっとだけ、唯君が残っているんじゃないかと期待していた私だったけど、見事に玉砕して小さく息をつく。そのまま、姿のない彼の席のところまで歩いた。
「あ」
 唯君の鞄がまだ机の横にかかっているのを見つける。ということは、彼はまだ校内にいる。そう考えていた矢先だった。廊下の方から聞き覚えのある声が聞こえてきたのは。
「なぁ唯頼むよー! 俺に歌のレッスンしてくれ! 近藤と樹を驚かせてやりたいんだよ!」
「歌なら音楽の先生に教えて貰った方がいいって。俺教えるほど上手くないし」
「何言ってんだよ超上手いじゃんお前! みんな唯は上手いって言ってたし」
 声の主は言うまでもなく唯君と北川君だ。一体どこへ行っていたのだろうというどうでもいい疑問と共に、次第にこちらへ近づいてくる声と足音で、私はなぜか緊張していた。
「北は十分上手いと思うんだけどなー、演歌なら」
「だから演歌の話題を持ってくるなって!! 普通のも歌うぞ俺は!」
 唯君がガラッと教室の扉を開けて、彼はすぐに私の存在に気付いたようにこちらを見た。続けて入ってきた北川君も私に気付くなり、「あっ!」と声をあげる。
「っ、気が変わった! 俺音楽の先生に訊いてみるわ! やっぱ教えてもらうなら音楽の先生だよなー、じゃあな二人とも!」
 拍子抜けするくらいわざとらしい北川君の気配りに、私と唯君は思わず無言で彼の方を見た。北川君は苦笑いを浮かべながらいそいそと教室を出て走って行ってしまう。あまりにも不自然すぎだろうと心の中で思ったが、唯君と二人きりにしてもらえたのだからここは彼にきちんと感謝するべきだ。
「樹になんか言われなかった?」
 唯君の方からその話題を振られて、私は少し驚いた。私が言うつもりだったのにまさか唯君から言ってくるとは。彼は私の立っている自分の席まで歩いてくると、横に掛けていた鞄を机の上に置く。
「……うん、昨日の、ことでね。それで、付き合ってるのかとか、そういうのを訊かれただけ」
 途切れ途切れに零れる私の言葉に、唯君は苦笑した。
「俺と一緒だ。ごめん迷惑かけて。明日樹にはちゃんと言っておくから」
「えっ……、い、いいよ別に気にしてないから、大丈夫」
 鞄の中に適当にノートや教科書を入れて、彼は帰る支度をしていた。その彼の行動がさらに私を焦らせる。
「あ……」
 早く言わなければ彼は帰ってしまう。せっかく二人きりになれたのに、その時間はあまりにも短くあっけなくて悲しかった。けど、ここで彼といる時間を少しでも伸ばすことが出来る術を、私はちゃんと知っていた。
 手がしっとりと汗ばんで、緊張のせいか胸のざわめきは止まらない。
「ねぇ唯君……」
「ん?」
「……、……唯君は……私のことどう思ってる……?」
 しんと静まりかえった教室の中で、私は相変わらずドキドキと高鳴る胸の音を抑えながら彼に訊いた。
 いきなりそんなことを訊かれても唯君は困るだろう。これ以上彼を煩わせたくなかったが、それでも私の中に芽生えた興味はおさえられなかった。唯君が何を思って私との関係を否定しなかったのか。そのしっかりとした明確な答えが、今は欲しい。
 唯君からの返答をジッと待っていると、しばらくして彼は、小さく笑った。
「同じ事言うね、つばさと」
「──え?」
 唯君はそれ以上、何も言わなかった。たった一言だけ。
「……紺野さんも、同じこと訊いた?」
 彼から言われて驚いた。私は訊き返したつもりだったけど、唯君は何も言わずに鞄を持って、私の横をすり抜けて教室を出て行こうとする。私とは話したくない、そういう意味を持った行動なのだろうか。
「……唯君」
 彼を止めて何を言うつもりなのか、私には思い浮かばなかった。けれどもっと話していたくて、何を言われてもいいから一緒にいたいと思った。何か、何でもいい、彼を止めることが出来る言葉を頭の中から必死で探す。
「っ……昨日唯君、言ったよね」
 そう言うと彼は止まって、振り返る。理由はどうあれ、北川君が気を遣って私と唯君を二人きりにしてくれたのだ、どうにかして彼の言葉がもっと聞きたい。
「『黙ってて』って……」
「言ったね。それがどうかした?」
 全然興味がないような淡々とした口調で、彼は言葉を返してくる。出来ればこういうことはするつもりがなくても口にしたくなかったけど、これ以外に彼が本音で答えてくれそうなことは思いつかなかった。
「もしそれを私が破ったら……?」
 破ったら。もし私が彼のことを他の人にバラしたりしたら。
 私が言った途端に、彼は少し笑った。
「なにそれ、脅してるつもり?」
「……そう聞こえるのなら」
 彼は更にクスリと笑って私に近づくと、その顔に見合わないほどの力でダンッと私の背後の壁を叩いて威嚇した。そしてすぐさま放たれた彼の断固とした言葉。
「証拠もないくせに」
 怯むな、と呪文のように私は頭の中でそれを繰り返した。
「……でもこの目でちゃんと見た」
「絶対誰も信じない。あんな普通じゃないこと」
「信じるよ、北川君なら絶対に信じてくれる。唯君のことを本気で心配してる、北川くんなら絶対……!」
 どんなに相談に乗ってくれて、どんなにいい人である北川君にすらも絶対言うつもりはない。けど、私が言った事に少しでも彼が反応を返してくれて、この時は素直に嬉しいと思ってしまった。
「北川北川って、……そっかお前ら仲良いんだっけ。お人好し同士気が合うんじゃないの」
「……どういうこと?」
「北は藤森のこと結構気に入ってるみたいだし。だから、こうやって俺に構う暇があるのなら北に構ってやればいいってことだよ」
「!」
「そうして黙っておけば、構わないでおけばもう傷付くこともないから」
 私のすぐ近くで、静かにそう言って笑みを浮かべる彼の顔は、とても綺麗で、迫力があった。鳥肌が立って、どうしてか私の手は少しだけど震えてる。その私の手の異変に気付いた唯君は、相変わらずの笑みを見せて、そっと片手で私の頬に触れた。
 そしてその手はビックリするくらい、冷たかった。
「っ!?」
「ほんとに馬鹿だね、藤森は」
「……唯君……?」
「あの時一枚でも写真に収めたりしておけば、脅すなり、吐かせるなりして俺に仕返しくらい出来たかもしれないのに」
 ああ、まただ。また貴方はそうやって少し悲しそうな顔をする。そんな顔をするから、そんな悲しい事を言うから、私は放っておけないのに。
「俺が藤森にした事を考えれば、……それくらい出来る権利はあったのに」
「……違う……、違う違うっ!! どうしてそういうこと言うの!? そんなこと考えてない、そんなことがしたいんじゃない!! 私はただ唯君の傍にいてあげたいだけ、力になってあげたいだけッ!!」
「今更なんだよそんなのは!!」
 彼の怒鳴り声に私はビクッと身体を震わせた。
「もう傍になんていてくれなくていい。なにもいらない、だから俺に構うな!!」
 私の頬をゆっくりと涙が伝っていた。けれどこの時、私よりも泣いていたのはきっと、彼の心の方だったんだろう。私はふるふると、彼の言葉に対して首を横に振った。
「……イヤ……。私は、……唯君の傍にいたいよ……」
 好きでもない、興味のない相手の傍にいたいなんてこと、絶対に思わない。だからきっと、きっと私は彼のことが。そう、きっと私は。
「……なら……てくれ……」
 弱々しい小さな声で紡がれた彼のそれは、かすかにしか届かなかった。
「……え?」
「昨日言っただろ、出来ることなら力になるって、……なら殺してよ、アイツを……。アイツを今すぐ殺してこいよ!!!」
「っ……!!」
 唯君。
「そしたらお前のこと好きになるよ、藤森の言うことなんだって聞いて、一生藤森のために尽くしたっていい。なんだったら俺が藤森にしてきたことそっくりそのまま──」
「唯君!!」
 苦しい、また泣いてしまいそうなほど、なにかが悲鳴をあげていた。
 そして、耐えられなくなって私は、これ以上彼の辛い顔も声も見られなくて聞けなくて私は、彼を抱きしめて、そっと、キスをした。
 唯君……唯君唯君……。何度も何度も、心の中で彼の名前を呼んだ。
『私、きっと……唯君のこと、好き……なんだと思う、から……』
 あの時言った言葉に、偽りなどない。私は好きなんだ。そう、唯君のことが愛しくてたまらないのだ。こんな、こんなにも辛そうな彼の心から笑った顔がみたい。私に優しさを向けてくれる彼が欲しい。
 私は、彼が欲しい。そして出来ることなら全てから救ってあげたい。
「……っ……」
 そう思っていた私の背中に彼の手が回されて、このとき確かに彼は私を抱きしめ返してくれた。