第14話 偽りの延長線上


『なら殺してよ、アイツを……。アイツを今すぐ殺してこいよ!!!』
 自分の親に対して言う言葉とは、とても思えないものだった。
 それくらい、彼がその相手を憎んでいるということなのだろうか。怒りと憎しみ、そして彼の口調や表情にはどこか悲しささえも感じられた。
 けど、そんな辛そうな彼に何と言ってあげればいいのか、言葉が何も浮かばない。いつもそうだ。肝心なときに、私は何も言ってあげられない。けれど彼の気持ちだけは十分に伝わったから、そんな辛そうな顔をしてほしくなかったから私は、彼を抱きしめてキスをした。
 いつだったか、彼が辛かった時、私にそうしたように。あの時のように。
 唯君とキスをするのはこれで何度目だろう……と、今となってはとくに意味も成さないことを考えている自分がいた。
「……っん……」
 角度を変えて口づけを交わしてくる彼に、私は小さく声を漏らしてそれを受け入れる。口の隙間から漏れる、熱い吐息。絶対拒まれると思っていたのに、なぜか彼は私を受け入れてくれた。そして、更に求めるように深く唇を交わし合う。
 こんな、いつ人が来てもおかしくないような場所で、更には相手が唯君だったからだろうか、私は酷く興奮して身体が熱くなっていくのが自分でも分かった。彼とのキスは、初めての時と同じ、口では酷いことを言うのに、すごく優しい。
 お互い何かに取り憑かれたように必死で、啄むように幾度も唇を這わせていた。
 いつ終わるのか分からない、時が止まってしまったかのような不思議な感覚の中、その行為を止めたのは突然教室に鳴り響いた携帯の着信音だった。
「!」
 その音にビクリとして思わず目を張ると、どうやら鳴ったのは彼の携帯だったらしい。唯君は私から離れると制服のブレザーに入れていた携帯を手に取った。携帯は前の黒いものではなくなっていた。きっとあの後買い換えたのだろう、真っ白で綺麗なものに変わっている。
 物音さえしない静かな教室の中で、お互い黙ったまま、ただ携帯の着信音だけが虚しく響いていた。
 彼は携帯を手に取っているものの、なおも鳴り続けている着信音を前にしても電話には出ようとしない。何か考えるようにジッと携帯を見つめたまま、しばらくして彼は無言で携帯を切った。
「唯君……?」
 そして唯君は何も言わないまま、机の上に置いていた鞄を取ると身を翻して教室を出て行ってしまった。私の言葉には耳すら貸さずに。
「!? 唯君っ!!」
 ポツンと取り残されてしまった教室で、私は何がなんだか分からずに呆然と立ち尽くしてしまう。一体なんだったのだろう、と疑問ばかりが頭の中を埋め尽くす。
 思えば携帯を見た瞬間、唯君がすごく無表情になったような気がする。
(……携帯……)
 ハッと、私は以前のことを思いだした。以前学校の、人気のないところで唯君が電話で話していた相手。帰りを急かすように唯君を困らせていた、あの人。
 それはきっと紛れもなく、唯君が先ほど「殺して」と言った対象である、彼の実父。
(酷い……)
 ギュッと拳を握り締めて、自分の中で怒りが込み上げてくるのが分かった。
 家庭内で彼の自由を奪っておきながら、さらに学校でまで彼を束縛しようというのだろうか。人の自由を取り上げて自分のものにするだなんて権利、誰にもあるはずないのに。たとえそれが親であろうとも誰であっても。
 考えていたらいてもたってもいられなくなって、すぐに私は自分の鞄を持つと彼の後を追いかけるようにして教室を後にした。そして廊下を歩いていた彼のところまで走り込んで、唯君の手を掴む。
 少々感情的になってしまっていたせいか私の手には思っていた以上に力が入ってしまって、彼を驚かせてしまったようだった。
「何? 藤森」
「あの、つ……付き合って欲しいところがあるの……! ……唯君に」
 その場の勢いだけで私は彼を引き止めて、不思議そうな顔をして私を見つめる唯君から少しだけ視線を逸らして、ドキドキしながらそれを紡いだ。後先はいつもどおり、考えていない。
 ただ、どうしても彼を家に帰したくなかったのだ。けどなんと言って彼を引き留めればいいのか、いい考えが思いつかずにそれでもなんとか口に出した言葉がそれだった。
「付き合ってほしいところ?」
「……うん」
「ごめん藤森。悪いけど俺急いでるんだ、また今度に」
「お願い……っ」
 ギュッと彼の手を握り締めて、懇願するように見つめた。
 どうして私が引き留めるのか唯君はちゃんと分かっているはずだ。きっと断られる確率の方が高いけど、自分から行動を起こさなくては、彼は動かせない。
「お願いだから……」
「……分かった。いいよ」
 その気持ちが少しでも彼に伝わってくれたのか、唯君は少し笑みを浮かべてそう言ってくれた。まさか「いいよ」と言ってもらえるなんて思わなかったから、彼の意外なまでの返答に思わず私は目を丸くしてしまう。
 そんな私の驚いた顔を見て、唯君は少し首を傾げた。



「これが食べたかったの?」
「そ、そうなの……」
 学校を出た後二人でしばらく歩きながら、商店街の通りにある小さなクレープ屋さんで私は足を止めた。
 「付き合ってほしいところがある」と言ったものの、それはとっさにこぼした発言。私自身、彼に付き合って欲しい所など無かった。ただ唯君と一緒にいたいだけであって、場所は特にどこでもよかったのだ。
 しかし、かといってクレープ屋さんで足を止めるのもどうかと思ったけれど。よりによってこんな時に。
「唯君、甘い物大丈夫?」
 唯君の好みを知らなかったから、甘いものがダメだったら自分の選択の悪さを恨むところだ。というよりもそれ以前に、一緒に食べてくれるかどうか、そっちの方も心配だ。「なんでお前なんかと」とか言われたらそれこそ虚しい。ここを選んでしまった自分が一番いけないんだろうけど、悲しい。
 彼がなんと言うか私一人で緊張していた中、唯君はお店の前にあるメニュー表を見ている。
「俺好き嫌いないから大丈夫。甘いの好きだよ」
「ほんとっ? じゃあ私がお金出すね。唯君どれがいい?」
「えっ? いいよ俺が出すから。」
 そう言って唯君が鞄から財布を出してくるものだから焦った。私の方から無理矢理誘っておきながら、さらには彼に奢ってもらうなどと、そんなのはいけないに決まっている。
「あっ、唯君いいよ、私が払うから……!」
「いいよ遠慮しなくて。女の子に奢ってもらうのはなんだか悪い気がするし」
 優しく言ってくれる彼に私は慌てて首を振って遠慮したけど、唯君は聞いてくれない。さっさと財布からお金を出している。そのお金を彼の方に押し込めて、私はせかせかと自分の鞄から財布を出した。
「今日は駄目。ほんとにいいから、それに私が誘ったんだよ」
「いいってば、人の好意は受け取るものだって前に言わなかったっけ」
「今は受け取れない……!」
 どっちがお金を払うかで揉めている間にも人は来て、それにいち早く気付いた唯君が私を宥める。
「ほら早くしないと後ろの人に迷惑かけるよ、藤森どれがいい?」
 唯君に言われて後ろを向くと、そこには他校の女の子達がいて、早くしてくれと言わんばかりにこちらを見つめている。その視線に圧されて、私はメニュー表に目をやった。
「……私後でちゃんと自分の分くらいは払うからね……。5番のイチゴが入ったやつ……」
「強情……。じゃあ俺1番にしようかな」
 私が横で拗ねているのを彼は苦笑して見ながら、定員さんに注文するとお金を払ってくれた。
(っていうか私達、なにやってるんだろう……)
 こんな風に唯君と呑気にクレープなんて食べようとして。目の前で作られていくクレープをぼんやりと眺めながら私はそんなことを思った。だが、こういうのも悪くないと思っている自分もいる。普通に学校帰りにデートしてるみたいで、なんだか彼氏と彼女みたいで。
 そこまで考えて、なんだか気恥ずかしくなって私は俯いた。
「藤森」
「えっ?」
「どうかした? はいこれ」
 唯君の顔を見たら尚更自分の考えていたことに恥ずかしさを覚えて、自分の顔が熱くなっていくのが分かった。こんな時に何考えてるんだと頭の中に広がっていたものを振り払うように消して、ゆっくりと手を差し伸べて唯君からクレープを受けとる。すると彼はニコッと笑った。
「ありがとう唯君、でもお金はちゃんと返すからね」
「だからいいって言ってるのに……」
 気にしすぎ、と言って彼は苦笑してクレープを口に運ぶ。
「あ、美味い」
「でしょ? ここのクレープ屋さんね、すごく美味しくてお気に入りなの。アイスも好きなんだけど、今の時期じゃちょっと寒いかなと思って。でも良かった、唯君甘い物大丈夫で……って、唯君?」
 私のことをジッと見つめている唯君の視線に気付いて、私は思わず焦った。もしかして自分は今おかしなことでも口走ってしまったのだろうか。唯君が美味しいと言ってくれて嬉しかったから勢いに任せて話してしまったが、今のは流石に不自然だったのかもしれない。
(ど……どうしよう……)
 心の中であたふたとしていると、唯君はクスッと面白そうに笑いを零す。
「……ううん、別になんでもない。藤森が楽しそうだったから」
「えっ、あっ……ご、ごめんなさい、なんか私つい話しすぎちゃって……っ」
「いーよ全然、なんかもっと話してよ。ほら、あっち行こ」
 顔中真っ赤になってしまった私の手を唯君が積極的に引いて、その彼の行動に私は再びドキッとした。直に伝わってくる彼の温もりが心地良くて、出来ればずっとこうしていたいと素直に思えてしまう。
 今の唯君はとても優しくて、一緒にいるとすごくドキドキする。彼が笑ってくれるとこっちも嬉しくなってくる。もっともっと笑っていて欲しいのだ。本当は。
「なんか藤森のも美味しそう」
 ベンチに腰掛けると、唯君が私の方をジッと見つめてそう言ってきた。
「食べる? 美味しいよ」
「食べる食べる! じゃあ俺のも貰っていいよ」
 そう言って唯君が自分の持っていたクレープを私に差し出して、お互い交換する。口の中に甘いクリームの味が広がって、ふんわりと溶けた。
「あ、藤森のも美味しい」
 爽やかに微笑んでそう言う様が、見ててなんだかキュンとする。さっき、教室で話した時にはとても怒っていて、辛そうだったのに。今自分の目の前にいる彼からはそんな感情など微塵も感じられない。
 唯君は感情の切り替えがものすごく早い。それはいっそ病的だと思えるくらいに。
 それを考えていたらなんだか嫌な感じがして、目の前で笑みを見せる彼を見て私も微笑んだ。私は、いつか彼は本当に壊れてしまうんじゃないかと心配だった。
 商店街を抜けた先にある広場のベンチに座って、お互いクレープを食べながらなんてことない話をして盛り上がっているうちに、あたりはすっかり薄暗くなっていた。街中に明かりが灯り始めて、クリスマスの準備がしてあるお店のイルミネーションはなおさら綺麗に輝いている。
「さっきはごめん」
「え?」
 そんな時、突然唯君が私に謝ってきた。なんのことだろうと首をかしげると、彼は少し俯いたまま、私に顔を向けようとしない。とても言いにくそうに、ゆっくりと口を動かしている。
「教室で、……酷いこと言ってごめん」
「えっ、あっ……私の方こそ、勝手にその……キスとかしちゃってごめんっ……」
 お互い先ほどのことを掘り起こすような言葉を吐いて、そして黙りこくった。
 さっきみたいに表向きの会話くらいなら普通に交わすことが出来た、なのに本音となるとそうはいかない。気まずくなって何か話題はないかとあちこち見回していた私の視界に入ったのは、広場の中心でツリーの準備をしている人たちの姿だった。
「……あ、ツリーの準備してる」
 広場の中心で大きなクリスマスツリーの飾りつけをしている人たちを見ながら、私は思わず口を開いた。
「ああ、ここクリスマスイブとクリスマスにライトアップするんだよ。去年もそうだったし」
「唯君、去年もここ来たの?」
「うん、北達と遊んだ時にね。待ち合わせに丁度良かったし」
 そっか、そういえば教室で紺野さんたちと話してたっけ、クリスマスのこと。クリスマスは、唯君は他の人と過ごすんだ。
 そう思うと少し寂しい気持ちになって、小さく息を吐いた。
「もう19時半か……。悪いけど俺、そろそろ帰らないといけないから」
 携帯を見て、彼はそう言うと座っていたベンチから立ち上がる。19時半、ただ話していただけなのにいつの間にそんなに経っていたんだろう。夢のような時間が終わるのはあまりに早くて、残酷で、いきなり現実へ戻されてしまったかのような感覚に陥って私は慌てて唯君の腕を掴んだ。
「あ……待って! 私、まだ付き合ってほしいところが」
「もういいよ藤森」
 そう言って優しく私の言葉を止めたのは、微笑む彼だった。
「え?」
「ありがとう。でも俺大丈夫だから、全然平気」
 なんてことないよ、とでも言うように彼は平然と笑ってそう言ってのける。それが、どれだけ彼が強がっているのか、私には痛いくらいに伝わった。
 辺りはすっかり薄暗くなって、昼間よりも急激に温度が下がって、とても寒い。お店からうるさいくらいに流れていたクリスマスの音楽が、この時はなんだか小さく聴こえた。
「今日付き合ったのは、藤森にそれを言おうと思ったから」
「……どうして?」
「え?」
「どうして唯君そんな風に笑えるの? 悲しいのなら、辛いのならそう言ってよ。私力になるよ、……あんまり役に立たないかもしれないけど、唯君のためなら私」
 ちがう、と彼は呟いた。そうして苦笑する。
「藤森は北みたいにお人好しだから、そう言ってくれると思った。でも本当にもういいんだ、元々藤森は関係無いんだから、もう関わらない方が良い。関わったって良いことなんて一つもないし、第一、俺一人でも平気だから」
「うそつき」
「うそじゃないよ。実際、今までずっと一人だった」
 彼の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。なんて悲しいことを言うんだろうと思ったが、あながちそれは間違いではない。自分の悩みを誰にも打ち明けることが出来ずに、ずっと一人で耐えていたのだから。
 そして私も、彼を見捨てて一人にしてしまっていた張本人だから。
「……私がついてるよ、唯君の味方になる。側にいる。だから」
「藤森のそういう優しいところに、つけ込もうとしてたんだ俺。本当に最低で、藤森から心配してもらう資格も、優しくしてもらう資格だって無いんだ」
「……そんなこと」
「結果的に藤森には知られちゃったけど、あれは自業自得だって思ってるし、藤森のことを責めるつもりなんて最初から無かったよ。むしろ俺の方が謝らないといけないくらいで」
 彼は少し笑ってそう言ったけれど、私には彼のように笑うことなんて出来なかった。
 これが唯君の本心なのだろうか、それとも辛いのを我慢している嘘なのか。彼の様子を見ていると次第に分からなくなってくる。
「だから半年前のあの日、藤森が俺を置いて行ってくれて良かったって思ってる。これ以上藤森に甘えるのは、良くないことだって思ってたから」
 どこまで人のことを気遣えば、遠慮をすれば、彼は自分を大事にしてくれるのだろうか。あの日彼が言ったことは、紛れもなく彼の本音で、お願いで、それなのにどうして自分の意志を優先させない。
「そんなの」
「俺にとって藤森は友達だよ」
 言い返そうとした私の言葉を遮るように、間髪入れずに唯君は言った。
「だから、これ以上藤森になにかしてもらおうなんて思ってない」
「唯君」
「同情も、嘘もいらない」
 凛としたまっすぐな眼差しを私に向けてくる彼。その顔は少しも笑っていない、真剣そのものだ。
 そしてその口から放たれたのは、はっきりとした、拒絶の言葉だった。



 味方になる、側にいる。
 そう言ってくれた時、本当に嬉しかった。誰かに分かってもらえることで、どれだけ自分は救われるのか、このとき初めて分かったような気がした。
(……藤森……)
 彼女を置いて走り去った俺は、無我夢中で家までの道のりを走っていた。あのまま藤森と一緒にいると、せっかくの決心が鈍って、揺らいでしまうそうになる。偽りだらけの自分を見透かされたくなかった。彼女にだけは絶対に。
 今までずっと自分の気持ちに嘘ばかりついてきた。だから今更嘘を重ねることなんて苦しくもなんともない。それに、嘘もつき続けていればそのうち真実になることだってある。
 そう自分に言い聞かせて、さっきの藤森との会話で自分は嘘ばかりついた。本気で心配してくれている彼女を前に、自分は嘘をついて。
 本当は大丈夫じゃない、平気でもない、あの日だって置いていって欲しくなかった。藤森に側にいてほしいんだ、同情でも嘘でもいい、自分を理解してもらいたかった。
 だけどこんな感情を彼女にぶつけて、彼女を苦しめたくはなかった。
 理解してもらいたいのに、これ以上巻き込みたくない。それに、こんな惨めで汚れた自分を藤森に知られたくない。そんな考えで頭の中はぐちゃぐちゃで、自分がどうしたいのかも分からなくなってきてしまった。
 なにもかもが、収拾がつかない。
 走っていた足を止める。息を荒げながらハハッと、口から笑いが零れた。
「……大体、情けないんだよ……男のくせに女の子に頼ろうなんて……」
 自分で自分を笑って、小さな声で呟いた。顔を上げるとその先に、自分の家が見える。もうそんなに走ったんだと思ったと同時に、家に待つ男の存在が過ぎってゆっくりと足を進めた。
(今まで何だって自分の力だけでやってこられた。家のことだって、学校でだって。大抵のことは一人で出来ていたんだ……、今回だって、俺一人でなんとかなる……これは俺一人の問題)
 病的と言えるほど頭の中でそれを繰り返して、今にも逃げ出したくなる衝動を抑えた。自分でも気づかないうちに、自分の手は震えている。
 その手をゆっくりと伸ばし、家の玄関を開いた。
 暗い家の中、そこには待ち焦がれたように玄関に立つ男の姿があった。
「おかえり、唯」
 自分の名を呼ぶ声。聞いてると苛立ちを覚えるほどの嫌悪感が身体を走る。気持ちが悪い。
 ドクンッと、身体が大きく鼓動を打った。俺はそのまま玄関へ入り、後ろ手にドアを閉める。相手はうっすらと笑みを浮かべた。
「何回も電話したのになかなか帰ってこないから心配したじゃないか。ほら、早くおいで」
 やめろ。
「唯」
 もう頭がおかしくなりそうだ。
 笑いたい気分じゃないのに、口元は自然と笑みを浮かべていた。
「ハッ……なんだよ俺のこと待ってたわけ……? 毎日毎日、自分の子供とセックスすることしか頭にないんだ……。……あんたほんとに頭おかしいよ」
 嘲るように言いながらも、俺の声はどこか震えていた。怖いのだ、目の前の男の狂気と欲望に満ちた目が。
 自分に向かって歩いてくる足音。そして自分に伸ばされる手を見た瞬間、嫌悪が走った。触られたくないと身体が拒絶して、その手を思いっきり振り払う。
「触るな!! もう、いい加減にしろ!!」
 うんざりなんだ、こんなのはもう。誰かの代わりになることも、痛めつけられることも、望んでない行為を強いられること、言っても分かってもらえない、人には言えない、その全てに。
 自分はもう、疲れてしまったのだ。
「……いつまでこんなこと続けるつもりだよ……」
 俺の言葉は相手には届かない。それは承知のこと。分かっていたからこそ抵抗などとうの昔に諦めていた。どうせ言ったって痛い目を見るのは自分だったから。
 けれど、それでも。今日だけは止められなかった。
 自分が少しだけ楽になれるはずの術を、自分から突き放してしまった今日だけは。一緒にいたいと思った、とても優しい彼女のことを、自分から拒否した今日は。
「一体いつまで……」
 程遠い言葉だった。「いつか」なんてきっと来ないのと同じように、自分にとって永遠を感じさせるような言葉。
 呟くようにして言った後、ガシッと腕を強く掴まれた。それを振り払う気力は、今の自分には無かった。
「父親にそんな口を利くなんて、悪い子だね、唯……」
 目の前が、真っ暗になったような気がした。



『俺にとって藤森は友達だよ』
『だから、これ以上藤森になにかしてもらおうなんて思ってない』
 平然とそう言ってみせる彼の姿が焼き付いて、私は反論することが出来ずにそのまま立ち竦んでしまっていた。そんな私を唯君はしばらく見つめた後、「今日はありがとう」とだけ残して走っていってしまう。私はそれを追いかけることが出来なかった。
(唯君にとって、私はただの友達……)
 一度「大嫌いだ」と言われた時よりも、今回のそれは私に大きな衝撃を与えた。
 何もする気が起きなくて、家に帰っても私は部屋のベッドに倒れ込んだままボーっと天井を仰いでいた。その間にも頭の中に浮かぶのは唯君のことばかり。
(やっぱり私が唯君のために出来ることなんて何もないのかな……)
 傍にいてあげたいと思っていたら、彼には「そんなのは今更だ」と拒まれて。いくら言っても鉛のように重い彼の心は動かすことが出来ない。あげくの果てには「同情も嘘もいらない」と言われてしまった。
 もうなにもかも手遅れだったのだろうか。あの雨の日に自分が逃げたことで、全ては終わった。そんなこと思いたくなくて、私は慌てて首を振る。
(違う、そんなことない。もっと別の……)
 そんな時、部屋のどこからか聞き覚えのある音楽が流れて、私はベッドから起きあがった。
 鳴っていたのは自分の携帯の着メロだ。学校から帰ってきてからずっと鞄の中に入れっぱなしだったのをすっかり忘れていた。
(誰だろ……)
 鞄を取って中から携帯を取り出すと、画面に映っていたのは「北川君」という文字。アドレスと番号はちょっと前に交換していたものの、実際彼が私の携帯に電話をかけてくるなんて初めてのことだった。
「もしもし……?」
『あっ藤森? こんな時間にごめん』
「ううん大丈夫、まだ22時だし。何かあったの?」
 電話の先にいる彼は、学校での時と全く変わらない。爽やかで優しい声をしている。その彼の声を聞いていたら、不思議とホッとしてしまう。
『いや、今日どうだったかなーと思って。唯と』
「……うん、色々話せたよ」
 色々話した後で、嫌な別れ方をしてしまったけど。
 と、そこはとりあえず伏せておいて北川君に言うと、彼は「おおー」と嬉しそうに声をあげた。
『ならよかったじゃん! さっき唯にも電話したんだけどアイツこの時間帯いっつも出ないんだよなぁ』
「……そ、そっか……なんでだろうね……」
『でもまぁ色々話せたのなら良かった、用件はそれだけ。じゃあまた明日学校でな』
 あっさりと北川君が電話を切ろうとするから、私は慌てて口を開いた。
「ちょっと待って北川君!」
『え? なに?』
「訊きたいことがあるんだけど、いい?」
『俺に? いいよ。答えられる範囲でならだけど』
 唯君のことは、北川君くらいにしか訊けない。羽野君や近藤君とはそこまで仲良くないし、特に羽野君に至っては失礼だが口が軽そうな感じがするし、小学生のころから唯君の友達だという武丸君は怖いし、紺野さんは、一番訊けない。
 なんだか自分の人脈の無さにこういうとき無性に泣けてくる。
「あの……唯君のお母さんとお父さんって、見たことある?」
『唯の? ああ会ったことあるよ。俺中学の時ちょこちょこ遊びに行ってたから。二人ともすげー優しかったってのはよく覚えてる。お母さんの方は綺麗で唯に似てて、お父さんの方は背が高くて格好良いんだよなぁ……つーか唯んちは美形夫婦で家族仲も良くて、傍から見ても相当羨ましかったよ』
 しっかしアイツも父親に似ておけば身長高くなったかもしれないのになぁと、ここに唯君本人がいたら明らかに殴られるであろうことを、北川君は可笑しそうに言っていた。
「そうなんだ……」
 唯君の父親は、今はどうあれ昔はとても優しかったようだ。
 確かに以前唯君の部屋で見た家族写真は、どこからどう見ても円満で幸せな家族にしか見えなかった。それは本当に、北川君が言っていたことがそのまま写真に表れている、と言っても過言ではないほど。
 唯君から直接事情を聞いたわけじゃないから、どうして実の父親とあんなことになったのか、成り行きはよく分からない。けど、その行為は明らかに合意ではないことくらい、あの時の光景や唯君の言動を聞けば一目瞭然だった。
『唯も唯でさ、今時珍しいくらい自分の親大好きなヤツだったし。家族で出かけるなんてこともしょっちゅうだったんだぜ。多分小さい頃から大事に育てられたんだろうなぁ、じゃなきゃあんな風には育たないだろうし。お母さんが入院してる時もよく病院にお見舞いとか行ってて、あいつはほんとに親思いだよ』
「……そっか。ありがとう北川君」
『おう。こんなんでいいなら全然いいけど、まぁ明日詳しく話きかせろよ』
「うん」
 気さくに「じゃあおやすみ」と言って北川君は電話を切った。その会話の後も、しばらく私は携帯を手に持ったまま、ボーッと惚けてしまう。
『今時珍しいくらい自分の親大好きなヤツだったし』
 北川君が先ほど言った言葉がよみがえる。
 そんなに好きだった、自分が大切に想っていた人からから受ける傷というのは、どれくらい痛いんだろう。私も初めて彼に襲われた時は心身共にとても苦しかったし、痛かった。けれど、私が受けた傷と唯君が受けた傷は、似ているようで全然違う。与えられる痛みも、苦しみも。
(……ダメだ、やっぱり放ってなんておけないよ……)
 今日の彼の言葉は嘘だと信じたい。彼の強がりなのだと。私はやっぱり、あんな状況の中一人で耐えている彼を放ってなんておけない。
 明日、もう一度唯君と話そう。話くらいなら聞いてくれるかもしれない。
 そう決意して、私は携帯を机の上に置いた。
(また明日唯君と……)
 明日もう一度話すことが出来ればと、そのことだけを考えていた。
 けれども翌日、彼が学校に姿を見せることはなかった。