第12話 だから今度は、私が


 時が止まっているんじゃないかと思うくらい、その時間は長く感じた。
 突然私が泣き出して落ち着くまで、彼・唯君はずっと私の傍にいてくれた。多目的教室の床に座り込んで涙を拭っていた私に、隣に腰掛けていた唯君は、大分落ち着いてきた私の様子を見て優しく笑みをこぼしている。
「落ち着いた?」
「……ん、ごめん唯君……ありがとう。……本当にごめんね、授業……」
 私が言うと唯君は、「あっ」と声をあげて今更思いだしたような顔をする。そう、今は休み時間などではない、普通に授業中なのだ。
「ああ、いーって気にしなくて。どうせ5時間目って保健の授業だったし。武丸か羽野が先生になんか言っといてくれてるだろうし」
「武丸君が?」
「そうそう、だから大丈夫。藤森も、小島がなんとか言っててくれてるといいんだけどね」
 あいつそこまで気が利くかなぁ、と唯君は相変わらずの可愛い微笑みを浮かべて言ってくる。このままこうやってお互い授業をサボってしまうんだろうか。授業が始まってまだ15分ほどしか経っていない。教室の時計を見つめながら、私はなんと言おうかずっと頭の中で考えていた。
 ずっと、あの日のことを謝りたくて。そしてそれをどう切り出そうかと。しかし、私がそう考えていたのもつかの間、突然唯君は立ち上がった。
「唯君?」
「藤森も落ち着いたことだし、俺ちょっと保健室行こうかな」
「保健室?」
 どこか具合が悪いの? と訊くと彼は苦笑する。
「そうじゃなくて、佐倉先生と話しに。あの先生結構面白いよ」
 彼は大抵のことには真面目に取り組むのに、時々こういう不真面目な面があるなぁと、唯君のことを気にするようになってから気付いた。けれどそういうところが、ただ真面目なだけというよりも親しみやすさが感じられていいのかもしれない。
 そのまま座っていた私を見て、彼はさらに言った。
「藤森も行く?」
「えっ? ……ううん、私はいい」
「そっか」
 そう言うと、彼は教室から出て行こうとする。突然隣にいた彼がいなくなって、ここに取り残されるような感覚に陥った私は、思わず小さく声を漏らした。
「あ……」
 行ってしまう、彼が。こんな、二人っきりになれる機会なんて滅多に無いのに。現にこの5ヶ月、彼と二人きりで話すことなんて一切無かったのに。こんなチャンス、もう二度とこないかもしれないのに。
「唯君っ」
 気付けば私は彼の名を呼んで、教室を出て行こうとしていた唯君の腕を掴んでいた。その私の突然の行動に、唯君は驚いて振り返る。
「? どうかした?」
「……行かないで……」
「藤森?」
 小さく呟いて俯いた私の顔を覗き込む、彼の顔。それを見ているとまた切なくなってきて、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
「どうしたの、藤森?」
 彼の声は、相手を思いやるような気持ちが感じられるほどに優しい。けれど、今私が望んでいたのは彼のこんな無理をした優しさじゃなかった。
「……言いたいことがあるの」
「言いたいこと?」
 疑問符を浮かべるように、彼は私に訊き返す。それが余計に切なかった。そんな風に何も知らないみたいに言わないで。私が何を言いたいのか、本当は分かっているはずなのに。
「……私、唯君にずっと……言わなくちゃいけないことが……」
 それを言えば、また彼は惚けるかもしれない。聞いてくれないかもしれない。けれど、どうしても彼に伝えたかったその気持ちを、自分の中に押し込めることなんて出来なかった。これだけは彼に聞いて欲しかった。
 あの日、私が彼に伝えたかった言葉を。
「言いたいこと? なに?」
 私に腕を掴まれて立ち止まった唯君は、不思議そうな顔をしている。まるで、「なんで引き留められたのか分からない」とでも言うように。そんな何事も無いような平然とした彼の様子が、今は辛くてたまらないのに。
「どうしてそんな風に平然と出来るの……?」
「え?」
「……酷いこと、されてるじゃない……お父さんに」
 すぐに返答こそ無かったものの、彼の表情は一切変わらなかった。動揺している様子すら、全くもって感じられない。
「酷いこと? 藤森何言ってんの」
 そして、彼は困ったような顔をして苦笑した。そう来るだろうとなんとなく私も察していたから、私は尚更彼の腕を強く掴んだ。今は、今だけは、どうしても彼を放したくなかったのだ。
「そんな風に平然としないで、何もなかったような顔しないで……ッ」
「藤森?」
「いやだ、あんな酷いことされてるのに……! こんなのはいやだよっ」
 彼の制服をギュッと掴んで、私は叫ぶように声をあげた。けれど、本来ならこんな風に叫びたいのは彼の方かもしれない。
 唯君は何も言おうとしない。私の言葉を黙って聞いているだけで、口を開こうとしない。一言でもいい、言い返して欲しかった。前みたいに冷たくでもいい、本当の彼の言葉で言ってほしかった。涼しい顔をしてじゃない、本当の彼の声で、言葉で。
 けれど期待していた私の気持ちとは裏腹に、唯君は何も言葉を返さずに、しばらくすると制服を掴んでいた私の手に自分の手を添えた。まるで「放して」とでも言うように。
「……唯君」
 そっと彼の顔を見上げるが、彼は笑っても、怒ってもいない。無表情だ。唯君は表情一つ変えずにただ黙って私を見つめているだけ。
 やはりダメなのだろうか。一度離れてしまった心には、もう触れることも近づくことも出来ないのだろうか。私の言葉はもう、彼には届かない……? 縋るような瞳で、彼を見つめる。そして誰をあてにするわけでもなく、祈った。
(お願い……)
 そう心の中で強く思っていると、目の前の彼はふわりと穏やかに微笑んだ。
「なんか心配させたのならごめん。でも本当になにもないから」
「……っ……」
 違う。そんな言葉が聞きたかったんじゃない。そんな優しい、上辺だけの言葉は求めていない。そう思うと同時に、せっかく落ち着いていた瞳にまた熱がこもって、涙がこぼれた。私の言葉なんて、彼の心には少しも届いちゃいないということを思い知らされる。
 するりと、力が抜けたように彼の制服を掴んでいた自分の手を放した。彼の心へ入り込むことが出来ない自分にもどかしさを感じて。
 唯君は身を翻して再度教室を出て行こうとした。
「……ゆいくん……」
 待ってと言うように、呼んだ彼の名前。もう何度その名を口にしただろう。けれどもその私の言葉に彼が心から反応してくれたことは、ほとんど無かった。そして今も。
「唯君っ」
 彼は私を一度も見ることもなく振り返ることもなく、教室を出て行った。そんな一人取り残された教室で私は、ただひたすらにあの雨の日のことを後悔することしか出来なかった。
 呼んだけれど振り返ってはくれない、戻ってきてはくれない。あの雨の日、彼もきっとこんな気持ちになったんだろう。置いてけぼりにされたような、絶望的な気持ちに。だけど心に感じた痛みは、唯君の比にはならないだろうけど。



「ええーっ、なんだよ朝約束したってのに」
 放課後、教室にいる全員に聞こえるほど大きい羽野君の声があがって、みんなが彼の方を向いた。羽野君はよく通る声をしているから、本人は大声で言ったつもりはなくても教室中に聞こえてしまう。
「せっかく今日も遊べると思ったのにー」
 そんな羽野君と同じように、紺野さんもさもつまらないというような顔をして、彼女達の視線の先にいた唯君は苦笑していた。
「ほんとごめん、また今度な」
「そんなに大事な用なのー?」
「うん、ちょっとね」
「えぇーっ、唯のバカバカーっ」
 駄々を捏ねる紺野さんに何度も唯君は謝って、鞄を持つと羽野君達に手をふって教室を出ていった。
 そんな唯君を見ながら紺野さんはムスッと拗ねた顔をしていたが、しばらくして仕方ないと諦めたのか、傍にいた友達に励まされ一緒に教室を出ていってしまう。
(唯君……?)
 彼の予定は詳しくは知らないけれど、今日は委員会もなにもない。それなのに彼は朝の紺野さん達との約束を断って帰ってしまった。さっき唯君が何も言ってくれなかったことにショックを受けて、ぼんやりとそんな教室の様子を眺めていた私だったけど、ハッと思いだしたように、「それ」は頭の中に流れた。
『本当に無理だって。まだ帰れない……。……放課後すぐに帰るから……』
 昼休みに、人気のない場所で電話ごしに話していた唯君が放った言葉。私がお父さんなのかと訊いたら、彼はあっさりと肯定した。その言葉にきっと嘘はないはず。
『どうしたんだ唯、いつもは良い子じゃないか。学校で何かあったのかい?』
『なにも……なにもない! 触るな、いやだッ』
『唯、静かにしなさい』
『やだっ、やっ……俺は、お母さんの代わりじゃない……ッ!!』
 あの日の出来事は、今でも焼き付いたように私の中に残っている。ただ見ただけの私ですらこんな鮮明に思い出してしまう状態なのだ、当の唯君がどれだけ傷付いているのか、その心の傷は計り知れない。そしてその治ることのない傷を負ったまま、彼は今もなお暴行を受けている。
 家に帰ったら、唯君はまた酷いことをされるんじゃないか。そんな予感がして、私は急いで鞄に荷物を詰め込んだ。
「ん? ちょっと真奈美なに急いでんの? 用事?」
 妙に忙しない私の様子を見て、頼子がキャンディーを舐めながら不思議そうに声をかけてくる。だが、今は頼子と呑気に話している余裕すら私には無かった。
「うん、ちょっとね……」
「ふーん? じゃあまた明日ね」
 気さくに手を振ってきた彼女に別れを告げると、私は急いで教室を出て行った。そうしてしばらく廊下を走っていたが、自分の行動のおかしさに気付いて足を止める。
 矛盾に気が付いた。彼がまた酷い目に遭うことなんて、あの日私が唯君を突き放してしまった時に分かっていたことじゃないのか。
 私はこれから唯君を止めるつもりだったのだ。これから彼がされることを思って。彼にとってもう私は必要な存在じゃないのかもしれないけれど、ただ唯君が可哀想だから助けてあげたいと思っていた。それは本当に、自分でも思うほどに今更だけど。
 でも、助けてあげたかった、支えてあげたかった、そう思っていたはずなのに私は……私はこの5ヶ月、何をしていたんだろう。あの日から彼は変わった。けれど彼の身に起こっていることは一切変わってなかったはずだ。もしかしたら酷くなっているかもしれない。それなのに私はそんな彼を見ながら、「大丈夫なのだろうか」と、ただ思っていただけ。今日のことだって、たまたま多目的教室の前を通りかかったから偶然彼を見つけただけだ。私はなにもしてない、彼がいなくなっても紺野さんのように探そうとはしなかった。
 そう、たまたま今日彼を見つけたから。だから私は今こうして彼の後を追いかけようとしていた。彼がお父さんのために家に帰ることを知っていたから。ならばもし見つけていなかったら、今日彼が友達との約束を断って家に帰っても気に留めなかったんじゃないか。
(私は……)
 心では助けてあげたいとか、支えたいとか思っているくせに、なにも出来ていない自分がいた。あの時から私は何も変わっていない。積極的になれない、行動を起こすこともしない、ただ心の中で思い、考え、見ているだけ。だからなにも変わらない。
 そんな私に、唯君は話しかけてきてくれたのに。自ら近づいてきてくれたのに。友達になるきっかけを作ってくれたのは他でもない彼だったじゃないか。
 私が困っていた時には手を差し伸べて力になってくれた。彼は私を助けてくれたのに、私は唯君が困っている時にはなにもしてあげないというのか。
 手を、痛みが感じるほどに強くギュッと握りしめた。
(唯君……今行くから)
 意を決して、私は再び走り出した。足はそこまで自信のある方じゃなかったけれど、必死で。
 彼を家に帰したら、また唯君は傷つけられてしまう。彼は私のせいで我慢強くなってしまったけれど、きっと心の内は変わってないはず。彼の心は、とてつもなく歪んで、病んでいる。誰かが助けてあげなければいけないのだ、傍にいてあげなくては。
 一人にしては、いけない。



 前々から知っていた。唯君は、人からものを頼まれて引き受けることが多いけれど、彼自身は他の人に頼み事をすることなどほとんどないことを。むしろ私が知っている限りでは、彼が誰かに何かをお願いしているところなど、一度も見たことがなかった。
『あ、唯。お前委員会ならそのファイル、俺が記入して先生に出しとこうか?』
『あー大丈夫。もうやったから。わざわざサンキューな』
『……んだよー、せっかくこの羽野サンがたまには手伝ってやろうと思って言ってやったのに』
『なんでそんなに偉そうなんだよお前は』
 彼はとても器用な人だった。大抵のことはきちんとこなせていた。成績も良くて、先生が彼を褒めているのも幾度か見たことがあった。そういうところも、前の私にとっては憧れだった。
 だからだろうか、今まで誰かに頼ることなく大抵のことは自分の力で出来ていた唯君だったからこそ、彼は人に何かを頼むことが出来ないんだろうかと。でも、だからって自分一人で我慢すればいいなんてことはない。確かにそれだと誰も巻き込まない、けれど、自分の状況は何も変わらない。誰も彼のことには気付かない。
 言ってくれなきゃ、周りにはなにも伝わらないのに。
『だから……、……行かないで……』
 そうだ、だから彼はあの日私に言ったんだ。普段誰かにお願いすることのない彼が、私に頼んだ。傍にいて欲しい、と。



 無我夢中で走っていた。
 向かうべき場所は、たった一つだった。彼の家。唯君の家は学校からそこまで遠い距離ではない、彼は自転車で登校してるから、もう家に着いているだろう。そんなことを思いながら、私は夢中で走っていた。気持ちが、どんどん自分を急かしていく。
 しかし、そんな中横切ろうとした公園で、思いがけず足を止めた。なぜかそこに、彼はいたから。公園の入り口付近に自転車を止めて、彼は花壇の辺りにしゃがみこんでなにかしていた。
(唯君……?)
 ここからじゃなにをやっているのかよく分からない。少し息をきらせながら、私はゆっくりと気付かれないように彼の元へと近づいていった。
「お前ら他の所からもエサ貰ってるくせに、なんでそんなに腹すかせてんだよ」
 彼は面白そうに笑って、誰かに向かってそう言っていた。けれども彼の近くには人影らしきものは見当たらない。「もしかして独り言?」と考え、すぐに「そんなわけないか」と心の中で撤回する。
 気付かれないように少しずつ近づいていくと、次の瞬間私の視界に飛び込んだもの。それは数匹の猫だった。
「クロ、お前頭少しハゲてんじゃん。誰かと喧嘩でもしたの?」
 1匹の大きな黒猫と、まだ産まれてからそこまで経ってないような、白い子猫が4匹。クロ、と呼んだその黒猫の頭を撫でながら、彼は猫にエサをあげていた。エサはきっと、すぐそこのコンビニで買ったんだろう。
 斜め後ろから見ているため唯君の顔こそあまり伺えないけれど、彼はなんだか楽しそうだった。学校で北川君や紺野さんたちと話している時とは、また別の彼がそこにいるような気がした。
 夕方になって日が落ちたせいか、気温は昼間よりも格段に落ちて、吹く風が冷たい。そう感じた時だった。
「──いいねお前達は、お母さんと一緒で」
 エサを美味しそうに食べている猫を見ながら、唯君はポツリと呟いた。それは私の耳にも、はっきりと聞こえた。
 猫達は野良猫だろうか、白い子猫の方は若干毛が汚れているようだった。そんな猫を優しく撫でながら唯君は楽しそうにしていたけれど、それと同時にどこか寂しそうだった。
「でもお母さんはいるのに、お父さんはいないんだなお前ら。俺んちと逆だ」
 猫は当然、言葉を発することはない。ただ可愛らしい鳴き声で鳴くだけ。それでも唯君は構わないと言った様子で、話を続ける。
「どっちかじゃなくて、どっちもいる方がいいのに」
 その切ないくらいの言葉の意味を、私は知っていた。だからこそ、彼の傍にいてあげたいという気持ちが膨れ上がっていく。
「唯君」
 ジャリ、という地面の砂を蹴る音と共に、彼に呼び掛けた。私が声をかけると彼は驚いて肩を揺らし、我に返ったように私の方を見た。まさか私がいるなんて思わなかったのだろう、流石の彼も驚きに目を張っている。
「……藤森」
 その場から立ち上がった彼から瞳を逸らさずに、私は彼を見つめながら、安心させるようにニコッと微笑んだ。警戒されては元も子もない。
「何やってるの?」
「……ああ、猫にエサやってた。こいつら野良でこの辺の家ぐるぐる回っててさ、そこのラーメン屋のおじさんもエサやって可愛がってたから、俺もたまに会った時ぐらいエサやってるんだ」
「唯君って猫好き?」
「猫っていうか、動物全般好きだよ」
 私は彼の本心を知りたいがための、唯君にとっては本心を悟られないがための、そんな上辺の会話。
 もし私と彼が普通の生活を送って、そして普通の友達でいられたら、きっとこの時、話は今よりも弾んだんだろう。「猫飼いたいなぁ、唯君の家は何か飼ってるの?」とか「お父さんはどんな猫だったんだろうねー」とか、そんな他愛ない普通の会話をしながら、それでも楽しかったんだろう。
 けれど今の私達は、どうも話が弾まない。しばらくしたらお互いすぐに無言になって、エサを食べ終えて毛繕いを始めた猫を見ながら、何も言うことなく立っていた。
「じゃあ俺そろそろ行くから。藤森も気を付けて帰れよ」
「っ、唯君待って!」
 まるで繰り返しのように、私はまた彼を引き留めた。また無視されて行かれてしまうかと思っていたけど、彼はちゃんと立ち止まって私の方を見てくれた。
「なに?」
「……あの日の、続き」
「あの日?」
 スッと、彼に手を差し伸べた。それは、ずっと私が後悔していたあの日、彼に言えば良かったと思った言葉だった。あの時は真実を知った衝撃の方が上回って言えなかったけれど、随分と遅くなってしまったけれど、今ここでちゃんと彼に伝えたい。
「私でいいのなら、傍にいるよ……」
 心なしか彼は、少し戸惑いのこもった瞳で私を見つめているように思えた。
 口で言ったことを実行することは、決して簡単なことではない。けれど、自分が動き出さなくては、なにも変わらないのだ。私が動き出さなければこの状況を壊すことは出来ない。
 一番最初に歩み寄ってくれたのは彼だ、だから今度は、私が。
(お願い……手をとって)
 心の中で強く願うものの、唯君は私が差し伸べた手に、手を伸ばそうとしない。動揺しているのか、それとも私に呆れているのか。時間が流れれば流れるほど考えは深まり次第に怖くなってくる。
「私に出来ることがあれば、力にだってなるから……だから」
「──ありがとう」
 そう言って、彼は突然私を抱きしめた。それは本当に突然。腕を引かれ、身体が引き寄せられたかと思えば背中に彼の手が回って、優しく抱擁されている自分。
「……唯君?」
「ありがとう藤森」
 その言葉で一瞬、私は嬉しいと感じてしまった。彼が、私を許してくれたのではないかと思って。けれども次に放った彼の言葉は、信じられないくらいに冷たかった。
「でも俺は、今のままでいいから」
「え?」
 唯君は私を抱きしめたまま、耳元で囁く。この言葉に動揺などは感じられない。むしろまっすぐな、凛とした意志さえ伺えた。
「藤森がこのまま何も言わないでいてくれれば、俺の日常はこれ以上壊されない」
「……ゆい、君……?」
「だから、これからも黙ってて」
 最後の一言が、上辺こそ優しさを感じる声だったけれど、とても冷たい何かが感じられた。それはまるで怒りと憎しみを合わせ持ったような声。
「俺からの頼みはそれだけ。それくらいなら、藤森にだって出来るだろ?」
 そう言いながら抱きしめていた手を放して、唯君は私から離れた。その彼の顔は、笑んでいた。私は彼の発した信じられない言葉に目を張った。
 それは私の想像以上に、彼の心が崩されていることを知った瞬間。