第11話 変わるもの、変わらざるもの


 ザーザーと雑音のように降り注ぐ、酷い雨だった。肌に当たる雨粒が、少し痛いと感じてしまうほどに。空は雲で覆われて、まるで夜のように辺りは暗くなっている。
 そんな降り注ぐ激しい雨の中に、彼と、私はいた。
「だから……、……行かないで……」
「……っ……」
「……頼むから……傍にいて欲しい……」
 それは消え入りそうなほど弱々しい声だった。普段の彼など微塵も感じられないほどに哀切に満ちた声。けれど、これが彼の本来の姿だったのだと私は思わずにはいられなかった。
 彼がずっとずっと隠していた秘密。それは、実の父親から性的な虐待を受けているということ。
 そんなこと、言えるわけがない。言えなくて当然なのだ。それを彼はずっと誰にも言うことなく2年以上も隠し通していた。精神的にも肉体的にも、疲労は相当なものだったはずだ。そのせいで時折身体を壊して学校を休むこともあった、暴行を受けたような傷を負って学校へ来ることも。
 本当はもう耐えられないはずなのに、必死に我慢して、誰にも言えないでいて、知られたくないから隠し通そうと平然を装って。そんな彼が、完全に崩れた瞬間だった。
「唯君……」
 背中に回されている、私を抱きしめる彼の腕。その手には縋るような力がこもっていて、彼が必死なのが感じ取れた。そんな彼の背中に私も手を回して、そっと優しく抱擁した。
 彼を受け入れてあげたいと、そう思いながら。
「うん、いいよ。私でいいのなら、ずっと唯君の傍にいるよ」
 彼の背中から頭へ、手を回して撫でると私の肩口に顔を埋めていた彼が顔をあげた。年齢に見合わない、幼くて可愛いと思っていた彼の顔がものすごく近くにある。そして吸い込まれそうなほどの漆黒の瞳が私を見つめていた。綺麗な瞳だった。
「……藤森」
 不安に揺れる瞳を見ていたら、私が守ってあげたいと思えた。抱きしめられたら、抱きしめ返したいと保護欲がわく。
「ずっと私が一緒にいるよ。約束」
 これは私と彼、二人の間に交わされた約束。
 だが、私がそう言うと彼は、なにがおかしいのかクスリと笑って言った。
「うそつき」



「ちがうっ!! 待って唯君っ、唯君ッ!!」
 そう叫びガバッとベッドから起きあがったところで私は我に返った。まるで今まで走っていたかのように息があがっている。さらに、自分が大量の汗をかいていることにも気づいて不愉快さに顔を歪めた。
「っ、はぁ……ッ……はぁっ……」
 深く何度も呼吸を繰り返しながら、ギュッと毛布を力強く握りしめた。部屋はまだ真っ暗で、カーテンから光がもれていることもない。時計を見ると、まだ自分が寝て3時間ほどしか経っていなかった。
 これが現実で、さっきのは夢。夢だ。けれど苦しくて、胸が痛んだ。涙まで出そうになっていたが、それだけは堪えた。夢だったのに安心出来ない。
(また同じ夢……)
 もう何度、こうやってうなされただろう。あの日の出来事を幾度となく夢に見て、今のように目が覚め、そして自分のしてしまった最低な仕打ちに苛まれる。あの雨の日、私が唯君を受け入れてあげることが出来ず、それどころか突き放してしまったあの時の出来事を。
「……唯君……」
 先ほど自分が言った言葉に、笑いがこみあげてきてクスッと小さく笑った。
 なにが「ちがう」というのだ。突き放したのは自分のくせに、唯君の言葉を受け入れてあげなかったくせに。あの時傍にいてあげれば、抱きしめ返してあげていれば、きっとこんなことにはならなかった。
『うん、いいよ。私でいいのなら、ずっと唯君の傍にいるよ』
 夢の中で、自分は彼に言っていた。優しく抱きしめ、頭を撫でて彼を安心させるように。本当は、あんな風にしてあげたかったのだ。あんな風に優しく声をかけてあげたかった。あの時同じことを言えていたら、私達はどうなっていたのだろう。
(少なくとも、今のような最悪な状況にはならなかったんだろうな……)
 そしてこんな夢にうなされることも、悩むことも無かった。今更後悔したところでもうどうにもならないことだと分かっていても、悩まずにはいられなかった。過ぎた時間はもう戻せないのに。
 全ては、私の過ちだった。
 だからあの日以来、唯君は変わってしまった。



 あの雨の日から5ヶ月という時間が流れていた。その間に制服は夏服から合服へ、合服から冬服へと替わっていった。今はもう12月だ。外を歩けば冷たい風が肌を突き刺し、もう冬であることを実感させられる。
(寒い……)
 まだ雪こそ降っていないものの、12月の朝はとにかく寒い。
 口から出る息も少し白くて、鼻も寒さを通り越して痛い。すっかり冷たくなってしまった手を暖めながら私は校舎へ入った。冷え性は手がなかなか暖まらないから嫌なものだ。今度からホッカイロでも持っていった方がいいかもしれない。
 そう思いながら靴箱で上履きに履き替えていたところで、彼とばったり会ってしまった。
「唯君……」
「? あ、藤森。おはよ」
 私の瞳が彼の姿をとらえた途端、無意識にドキドキと胸が高鳴って、自分が緊張していることに気付いた。
 唯君の口調や物腰には、そっけない感じも、冷たい感じも一切無い。ニコッと優しげに微笑んで私にそう言う彼。前はあんなに寂しそうな雰囲気をしていたのに、今やその寂しさは微塵も感じられない。今ここにいるのは私が彼の秘密を知る以前の、憧れていた唯君そのものだった。
「……お、おはよう唯君……」
 慌てて笑みを作ってそう返すと、彼は相変わらずの微笑みを浮かべたまま靴を履き替える。
 唯君は大丈夫なんだろうか。今どうしているんだろう。そんな疑問を頭の中で繰り返して、当然のことながら訊くことなんて出来ないから私はただジッと彼を見つめていた。その、私の真っ直ぐな視線に気付いたのだろう、唯君が私の方を見て苦笑する。
「なに? 俺の顔なんかついてる?」
「──えっ? あっ……ううんっ、ごめんね変に見つめちゃって、なんでもないのっ」
「そ、ならいいんだけど」
「あーっ! 唯っ、おはよー!!」
 突然私の後ろから元気すぎるくらいの声が上がって、その後ものすごい勢いで唯君の前まで走り込んできたのは紺野さんだった。少し息をきらせながらも、彼女は嬉しそうに唯君を見つめている。
「おはようつばさ。朝から元気だなぁお前」
「だって唯と朝からこんなところで会えるなんて超ラッキー! ねぇねぇ唯っ、昨日武丸達と帰りにゲーセン寄ったじゃん? それでさぁ」
 紺野さんはせかせかと上履きに履き替えた後、まるで恋人みたいに唯君の腕に自分の腕を絡めて、一緒に歩き出した。
 元々紺野さんは明るい方だけど、唯君といる時は余計に拍車がかかったようにすごい。そして、すごく嬉しそうに唯君に向かって話していて、本当に好きなんだなぁというのが見ているだけで分かるくらいだ。
(いいなぁ……)
 私と違ってすごく明るい紺野さん。元気で、顔も大人っぽくて可愛くて、髪の毛なんて長くてサラサラ。身長も151センチしかない私とは正反対に160センチは確実にある。スタイルだっていい。頭も私より良いし、運動だって遙かに出来る。
 そして何より、彼女は自分の思っていることをちゃんと口に出して言うことが出来る。
『だって唯と朝からこんなところで会えるなんて超ラッキー!』
 先ほど唯君に対して紺野さんが言った科白が脳裏によみがえった。相手のことをとてもとても好きだというのが分かる、素直でいて、可愛い言葉だと思った。
 そういえば、彼女が唯君に告白している現場を前に一度見たことがあったが、あれからどうなったんだろう。未だに二人が付き合っているという話は聞いていないからまだそこまでは発展していないのかもしれない、そう思って安心している自分に気が付いて、すぐに虚しさを感じた。こんなことを考えている自分が馬鹿みたいだ。
 好きだという気持ちをハッキリ伝えることが出来て、行動に移すことが出来るのは自分に自信があるからだろう。そんな彼女と、自分に全く自信のない、逃げてばかりな私。好んで付き合うとすれば、誰だって確実に紺野さんの方を選ぶに決まっている。
 だからそんなことで安心してしまうこと自体が愚かの極みだ。
「ねぇ唯、今日も遊んで帰るでしょー?」
「うん、放課後なにも入らなかったらだけど」
「やった! じゃあ私も着いていこうっと」
 楽しそうに話しながら教室へ歩いていく二人の背中を見送りながら、私はなんとも言えない複雑な気持ちになって溜め息を吐いた。
 純粋に、羨ましいと思ったのだ。あんな風に普通に唯君と話すことが出来る紺野さんを。確かに唯君は以前のような優しい彼に戻った。けれど彼の秘密を知ってしまった私には、以前のように普通に彼と接することなんて出来ない。
 あの寂しい瞳を、顔を、そしてその理由を、知ってしまった私には。



「なぁ唯、今日も帰りゲーセン行くだろ?」
「ちょっとちょっとー、ゲーセンばっかじゃなくてたまにはカラオケとかも行こうよーっ」
「んだよつばさは唯と一緒ならどこでもいーんだろ」
「ってかつばさ、お前たまには女子と遊べ」
 教室へ入ると、すでに唯君は北川君や羽野君達と楽しそうにおしゃべりをしていた。当然紺野さんもその会話の中に入っていて、羽野君の言葉にむくれている。
「なによーっ、私だってちゃんと友達と遊んでるもん。ねぇ理香、恭子、私達よく遊んでるよねー?」
 くるりと振り返った紺野さんは、すぐ側にいた二人に話しかけた。彼女が常日頃一緒に過ごしている仲良しグループの友達だ。突然話題を振られた二人はといえば、拗ねている紺野さんを見ながら笑っている。
「うんうん遊んでる遊んでる」
「ってかつばさは唯君しか見えてないんだから、しょうがないよねー」
 そう言った二人に紺野さんは満足して、羽野君と近藤君を見てニコッとする。羽野君達は面白くなさそうに呆れた顔をしていた。
「唯、つばさに言ってやれ。今日はダメだって」
「そーだよ、唯が言えばつばさも引き下がるし」
「唯は優しいからそんなこと私に言わないもんねー。べーっ」
「うわっ可愛くねぇ!!!」
 舌を出して威嚇してきた紺野さんに対して、羽野君と近藤君は口を揃えてそう返す。それを見た紺野さんが怒って殴りかかりそうになっているのを北川君が止めて、唯君はそれを見て笑っていた。
 それは本当にいつもの光景だった。いつもどおりの平和な時間。盛り上がっている唯君達とは正反対の静かな一郭で、私はただ彼らの会話にジッと耳をすませることしか出来ない。
「いいじゃんつばさも一緒で。つばさ結構ゲーム強いし、面白いから」
「俺も別にいいぜ」
 唯君と北川君がそう言うと、紺野さんは瞳をキラキラさせながら喜んで北川君の手をとった。
「やったー! 勇介はそこらの男と違って優しい〜」
「おい勇介! てめー裏切りやがって!」
「唯と勇介は3時間目の体育、ドッジボールだったら男子全員で集中攻撃な」
 ええっ、という唯君と北川君の驚いた声を聞きながら、私は図書室から借りてきた本を机から出して開いた。このままだとずっと唯君達の会話を聞いてしまう。そんな自分が嫌で、本を読んで気を紛らわせようと思った。
 唯君は、本当に以前のような優しい彼に戻った。優しくて、周りから好かれていて、しっかりしてて頭も良くてスポーツも出来て、私が憧れていた頃の彼が、そこにはいた。



 突然恋しくなって、2時間目の休み時間に私は屋上へ向かっていた。
 扉の前に立ち止まり冷たいドアノブに手を掛ける。その重い扉を開けるとキィと寂しい金属音。そして途端に冷えた風が出迎えてくれる。屋上には誰もいない。こんなに天気がいいのに、屋上には人一人見当たらない。室内と違って、ここは寒いからだろう。元々ここに人がいるなんてことは滅多になかったから、違和感を覚えることはないけれど。
 以前ここをよく利用していた唯君も、あの日以来ここへ来ることはなくなった。だから、今は私1人なのだ。
(寒い……)
 もう12月。寒いのは当たり前だ。せっかく温まっていた身体が、急激に冷えていくのを感じた。けど、屋上を出て行く気にはならない。所々雲の浮かんでいる12月の空が、なんだか私の心境とダブって寂しさを感じた。
『俺ここ好きなんだ、今日みたいに天気が良い日に出ると気持ちいいよ』
 そう言って空を仰いだ彼が、ふいに懐かしく思える。そうしてどれくらいそこに立っていただろう、じっと空を見上げていた私の背後から、突然ドアの開く音がして思わずビクッと肩を揺らした。もしかして唯君なんじゃないかと半ばドキドキしながらゆっくりと振り返る。
 だが、そこに立っていたのは唯君ではなく北川君だった。
「……北川君」
「なに1人でしんみりしてんだよ。うう寒ぃ〜……」
 へっくし! と豪快なくしゃみをしながら、彼はこちらへ歩み寄ってくる。そんな彼をクスリと笑って、私はフェンスを背にして座った。
「やっぱそんな浮かない顔すんだな」
「え?」
「唯のこと見てる藤森って、すごい寂しそうだから」
 売店で買ってきたらしいココアを飲みながら、北川君は私の横に座った。北川君は、以前のように元に戻った唯君と、逆に元気のなくなった私を気にしてくれているようだった。今のように、こうして時折話しかけてくれる。それが私にとってはありがたかった。
「俺から見れば、アイツ……ふっきれたような感じがするけどなぁ……。前は確かにおかしかったけど、ここ最近は普通っていうか……俺が知ってる中学の頃の唯で、安心してるんだけど」
 空は晴れているのに、吹く風は冷たくて寒い。しんと静まりかえった屋上で、私は口をつぐんだまま北川君の言葉に耳を澄ませた。
「だからさ、藤森もそんな心配することないと思うぞ」
「うん……」
「それとも、アイツがなんで変わったのか、藤森知ってんの?」
 彼が以前のような優しい彼に戻った理由を私は知らない、けれど、そのきっかけとなったのは明らかに私だった。そのきっかけを知っているからこそ、唯君の変化は、とてもいい方向へ転んだとは思えない。むしろ、以前よりも酷くなってしまったかのように思えてならないのだ。あの日の私の過ちのせいで、彼はまた無理をしなければいけなくなってしまったのではないかと。
 そして、きっと、もう誰にも彼は心を許さない。これからもずっと嘘をつき続けるのかもしれない。
 私が否定しないことに北川君はなにか考えて、しばらくしてから私の肩をポンッと優しく叩いた。
「まぁ、事情を知らない俺が言うのもなんだけどさ、元気だせよ」
「北川君……」
「俺も唯のことはそれとなく様子見てみるからさ、藤森もなんかあったら言えよ」
「うん。ありがとう北川君」
「ん」
 ニコッと、北川君が微笑んだ。見てるこっちが嬉しくなってしまうくらい、暖かな微笑み。彼は私にとってとても頼りになる存在だった。私と唯君の間に何があったのか、詳しい事情は何一つ教えていないのにこうやって親身になって話を聞いてくれる。
 それはあの日から数ヶ月経った今でも、変わることは無かった。



頼子とお昼ご飯を食べた後、今日化学のノートを提出しなければならないことを思い出した。いそいそと机の中からノートを取り出し、教卓の上まで持っていく。ノートは係のものが集めて先生のところへ持っていくので、自分は教卓の上に置くだけでいいのだ。教卓の上にはすでにノートの山が出来ていて、私は自分のノートをその山の上に重ねた。
 だがその瞬間、側にいた羽野君がニヤッと意地悪そうな笑みを浮かべたのだ。
「おっ、藤森が一番最後だったからお前が職員室に持っていけよなっ」
「えっ!?」
「問答無用! はいはい持っていった持っていった」
 さっさと持っていけよと言わんばかりにシッシッと手であしらわれてしまい、私はため息を吐くと教卓の上に積み重なった英語のノートを見つめた。そういえば前も同じ理由で田代君からノート運びをやらされたことがあった。でも、あの時は唯君が代わってくれたんだっけ。そうそう、階段から落ちそうになったところを助けてもらったんだ。
 それを思い出し、ふと唯君の机に視線を移した。が、彼の姿は見当たらない。教室を見回しても彼の姿は見つからなかったから、教室を出てどこかへ行ってしまったのだろう。
 とにかく、無理矢理英語のノート運びを押しつけられた私は複雑な心境でノートを持つと、教室を出た。



 今日は色々ツイてないかもしれないと、職員室へ行った時に思った。
「あらありがとうね。それと、ちょっと悪いんだけどこの道具、準備室に片付けておいてくれる?」
「えっ?」
 職員室にノートを届けると、先生はちょっと申し訳なさそうに苦笑して私にそんなことを頼んでくる。先生の指差す先には、割と小ぶりなダンボールに入った資料のファイルと、大きな本が何冊か。見た目だからなんとも言えないけど、なかなか重そうな代物だ。
「本当にごめんなさいね、藤森さんお願いっ」
 両手を合わせてお茶目にお願いしてくる先生を見ていたら、なんだか断るのも悪くなってきたので仕方なく引き受けることにした。でも、見た目はこんないっぱいファイル入ってて重そうだけど、実際持ってみたら軽かったりして……と段ボールを抱えてみたが、当然そんなわけない。やはり見た目に比例している。
(……はぁ……)
 心の中で小さく溜め息をついて、私は重い荷物を抱え職員室を後にする。せっかくの昼休みなのに、これを運んで教室へ戻っていたらあっという間に昼休みは終わってしまう。今日は色々とついてない。一番最初、ノート運びを押しつけた羽野君に少し苛立ちを覚えたが、昨日読んだ本の事を思い出してなんとか気分を紛らわせることにした。
「あっ、藤森さん!」
「──え?」
 職員室を出てすぐ、ダンボールを持って廊下を歩いていると遠くの方で誰かが自分を呼んだ気がした。くるりと振り返ると、紺野さんが私の方へ向かって走ってきているのが見える。どうやら聞き間違いではなかったようだ。彼女はこちらへ来るなり、誰かを探しているかのように辺りを少し見回している。
「ねぇ、唯見なかった?」
「唯君?」
「そー。お昼一緒に食べようって言ってたのにどこにもいなくって」
 私と目を合わせることなく、頻繁に辺りをキョロキョロ見回しながら紺野さんは私にそう訊いてくる。だけど当然、唯君の姿など見かけていないから私は首を横に振った。
「ううん、見てないよ」
「そう。……ってか重そうだね、手伝おうか?」
 ファイルの入ったダンボールと、数冊の本。女の子が1人で持っていくにはちょっときつい量の荷物を持った私を見て、紺野さんが気を利かせてそう言ってくれた。
「えっ!? ううん大丈夫、見た目ほど重くないから」
「いいよそんな遠慮しなくて」
 紺野さんは私からいくつか荷物を取って手伝おうとしてくれる。その彼女の積極的な行動に私は慌てた。
「あっ、本当に大丈夫だから。紺野さんは唯君探してるんでしょ?」
「それはそうだけど……でもそれ重くない?」
「ううん、私一人でも大丈夫だから。ありがとね紺野さん」
 どうも紺野さんと上手く話せる自信がなくて、なんとか彼女を説得すると紺野さんはしぶしぶと納得して廊下を歩いて行ってしまった。こんな、普段大して話もしない、関わりすら持たない私に声をかけて、荷物運びを手伝おうとしてくれるなんて、やっぱり紺野さんはいい人だ。でも、それにしても唯君はどこへ行ったんだろう。
 だんだんと小さくなっていく紺野さんの背中を見つめながら、私はなにか嫌な予感が胸をよぎったのを感じた。



「ふぅ……っ……」
 ドカッとダンボールを化学準備室に置いて、一つ息を吐いた。この本を棚に戻して、とりあえずはこれで先生から頼まれたことは終了だ。せっかくの昼休みだったのに随分と時間を削られてしまった。もう10分も経たないうちに昼休みは終わってしまう。準備室の水道で急いで手を洗うと、私はその部屋を出た。
 昼休みだというのに、この第三棟はほとんど人が通らないと思う。実際今こうやって歩いてきたけれど、すれ違ったのは5人もいなかった。化学室や音楽室等の特別教室が集う場所だから、人気は教室の集う第一棟や二棟に比べて少ないのは当然といえば当然だ。
 そんなことを考えながら歩いていた私は、ふいに見つけた人影に足を止めた。誰もいない多目的教室で、見覚えのある後姿。
(唯君……?)
 少し近づいて廊下側の教室の窓から中の様子を見てみると、そこにいるのはやっぱり唯君だ。窓から外の様子を眺めつつ、彼は携帯で誰かと話しているらしい。右手には携帯が握られている。流石に声までは聞き取れなかったから、私はドアの方へ歩み寄ると、彼に気付かれないように多目的教室のドアを小さく開けた。こんなところに一人で、一体誰と話しているんだろう。
「無理だよ、今学校なのに……。授業だってまだ」
 よくよく耳をすまさないと聞き逃してしまうほどの声。だけど、全く聞こえないわけではない。唯君の声は、心なしか少し元気がないように思えた。顔つきも、どことなく暗い。
「本当に無理だって。まだ帰れない……。……放課後すぐに帰るから……」
 ほぼ直感だったけれど、唯君の今の言葉で分かってしまった気がした。電話の相手が誰なのか。そして、なにを話しているのか。
 その瞬間、私はガラリと多目的教室のドアを開けていた。そしてその音で唯君がハッと気が付いて、振り返り私を見る。
「ごめん、後でまた電話する」
 一旦私から視線を逸らし、急かすように電話の相手にそう言って、彼は携帯をポケットにしまった。そして、再度私の方へ視線を戻す。
「藤森、どうかした?」
 何事も無かったかのように唯君は微笑んだ。でも、それが余計に痛々しさを感じさせる。私は呆然としていたが、やがて小さく口を開いた。
「今の電話……」
「電話?」
 それを訊いていいのか迷った。けど、止まらなかった。
「……っ……唯君の、お父さん?」
「すごいね藤森、なんで分かったの?」
 クスリと平然に微笑む彼を見て、ズキッと胸が痛んで苦しくなる。
 「なんで分かったの?」じゃないよ、どうしてそんな風に平然としていられるの。酷いことされてるのに。私が言い返すことが出来ないのを彼は見透かしているんだろうか、唯君はただ私を見て微笑んでいるだけだ。
「そういや藤森なんでこっちにいたの? また誰かに何か頼まれたりした?」
「……うん。……ちょっとね……」
 あの日から5ヶ月の時が過ぎたけれど、私と唯君の距離は変わらない。あの時感じたままの距離、こんなにも近くにいるのに、心は遠い。
 私も何も変わっていない。変わってしまったのは、彼ただ一人。北川君は「ふっきれたのかもしれない」と言っていたけど、きっと違う。前よりもずっとずっと、我慢強くなっただけだ。もう本音を漏らすこともない。なにも、なにも話してくれない。
 こうなってしまったのは全て私のせいなのに、私は何をやっているんだろう。何事も無かったかのように接してきてくれる彼に合わせるように、私も何事も無かったかのように平然と日々を過ごして。心の中では後悔しながらも、結局何一つしていない。ただ自分は流されているだけ。
 本当にこれでよかった? 私はこれを望んでた? 確かに唯君は以前のように優しくなったよ、でも、本当にこれを望んでいたの?
「──あ、もうすぐ次の授業始まるよ、教室戻らないと」
 教室の時計を見てハッとしたように、唯君が教室へ戻ろうと私を促した。だけど私は、その場から動けない。
「藤森?」
「……っ……」
「……なんで泣いてるの?」
 彼に言われて気が付いた。私は、涙を流していたことに。それはぽたぽたと止めどなく流れて、頬を滑り落ちていく。
「っ、ごめん唯君、ごめん……なんか急に……」
「? 謝ることなんてないのに。でも、俺がなんかしちゃったのならごめん」
「違っ……違うの、本当に、なんでもないから……っ」
 急いで涙を拭くけど、なかなか止まってくれなくて尚更唯君に心配かけてしまった。私の胸は、まるで針で刺されているかのようにズキズキと痛んでいた。今の私はやっぱり、彼を見ているだけですごく辛い。
「……あ、チャイム」
 その時、予鈴が鳴って唯君がポツリと呟いた。けれど、教室へ戻ることの出来る状態じゃない私を見てか、唯君はその場から動かずに私の頭を優しく撫でた。
 以前、保健室で泣き出してしまった私の涙を優しく拭ってくれた、その温かな手で。