第3話 鉄壁の仮面


 同学年の子に「唯君ってどう思う」と尋ねれば、十中八九みんなが言うことは同じだろう。
 「いい人だよね」と、そう言うに決まっている。しっかりしていて、人望があって、優しくて、楽しくて、勉強も運動も出来る、だから頼れる。
 それが「桜川唯」という少年に対する周りの評価であった。



「もう……」
 これはだいぶ前、私が一年の頃。クラス全員分のノートを持って、職員室に向かってる時のこと。
 私が最後に提出したからとかムチャクチャな理由で、先生のところに持っていけよと男子に強引に押しつけられたのだ。私の方も少し言い返したものの全然相手にしてもらえなくて、結局、職員室へ向かっている今現在。
 なんでこんなことになったんだろう。もっと「嫌だ」とハッキリ言えればいいのに私はいつもこうだ。押しつけられれば嫌だと言えない。そんな自分に若干落ち込みつつも階段を下りていると、その拍子に持っていたノートが数冊床に落ちた。そして慌ててそれを拾おうとした矢先に、ガクンと足を踏み外したのだ。
「やっ……」
 落ちる。そう思いとっさに瞳をギュッと閉じると次の瞬間、前から私を支えるように、誰かがふわりと抱き留めてくれた。一瞬のことだったがすごく強い力だった。私は重力に従い相手に身体を任せるように倒れて、床に向けられていた自分の視線をあげる。そして身体を支えてくれたその主を見ようと顔をあげた。
 持っていたノートはバサバサと全部音を立てて階段に散らばり、ぐしゃぐしゃになっていた。けどそれよりも、私は助けてくれた人の方が気になっていた。そして私が向けた視線の先にいたのは、自分が知っている男の子。
「……ゆっ、唯君!」
「大丈夫?」
 右手で私の身体を抱き留めて、左手では階段の手すりを掴んでいる。瞬間的にこれが出来るなんて、かなり神業だと思った。すごい反射神経だと。しかも私の身体、重いはずなのに。それなのに唯君は飄々とした様子で、平然と私に声をかけてくる。
 なんだか酷く申し訳なくなって慌てて身体を起こすと、唯君は安心したように微笑んだ。
「危なっかしいなぁ藤森は。もうちょっと気をつけろよ」
「ごっごめんね唯君、ありがとうっ」
 事故とはいえ、しかも片手とはいえ、男の子に抱き留められたのは初めてで私の胸はありえないくらいドキドキと鼓動を打っていた。たかがこれだけでこんなになるなんて、我ながら経験の無さに情けなくなってくるが。
 そんな私の心境を全く知らないであろう唯君は、階段に散らばったノートを見て苦笑した。
「あーあ、すごい散らばっちゃったな」
「うん……」
「俺も手伝うから、早く全部拾おう」
「あっ……ありがとう!」
 やっぱり唯君は優しくて、いい人だ。彼の寛大な心に感謝しながら、私は何度もお礼を言いながら彼と一緒にノートを拾う。
「ん、あれ? これ数学のノート」
 その最中、ノートを一冊手にとった唯君が不思議そうに声をあげた。
「そうだよ? それがどうかした?」
「数学のノートは田村が集めて職員室に持っていかなきゃいけないだろ、なんで藤森が持ってんの」
 流石は級長、クラスのことをよく知っている。思いがけず唯君が気づいてくれて、私はつい苦笑してしまった。
「私トロイからついつい最後に提出しちゃって、押しつけられちゃった」
「マジで? あー、アイツめんどくさがりだしなぁ……。ごめん藤森、後で俺が田村に言っとくから」
「ううん、元々は私が早く提出しなかったのがいけなかったんだし。大丈夫だよ」
 押しつけられたことは多少頭に来たけれど、過ぎたことを言ってもしょうがない。私はそう思って言ったのだが、唯君はそれを聞いて「うーん」と困ったように頭を掻いた。
「藤森甘過ぎ。そんなだと田村みたいに付け上がるヤツもいるから気を付けろよ」
「うん……。分かってはいるんだけど、つい」
 へへ、と苦笑いを浮かべると唯君は少し笑って、私の手からノートを全部取り上げてしまった。
「ノートは俺が持っていくよ。綾乃先生の机に置いとけばいいんだよな?」
「え? いや、いいよ元々は私が最後に出しちゃったのが原因だから、大丈夫私が持っていく」
「いいって、なんか藤森に任せるのは心配だから。代わりに教室に戻ったら次の時間多目的室に移動だってみんなに伝えといて」
「唯君……」
 どうしよう、なんだか申し訳ない気がする。唯君はみんなに優しすぎて、人から頼まれたら自分の出来る範囲でならなんでも引き受けちゃって、そういうのは良くないし唯君も大変だろうから私は控えようと思っていたのに。けれどその場の流れというのもあって、私はつい彼の言葉に乗って頷いてしまった。
「……分かった」
「じゃあよろしく」
 そう言って唯君はノートを持って階段を下りていってしまった。その彼の背中は、私の目には頼もしいくらいに大きく見えたのをよく覚えている。唯君は優しくて、みんなからも信頼されてて、とてもいい人だった。私の憧れだった。
 それなのに、どうして。



「おいおい唯、お前どうしたんだよその怪我!」
「いったそ?、大丈夫か?」
 朝、学校へやってきた唯君を見てクラス中のみんなが驚いていた。それもそのはず、教室へ姿を見せた唯君は、あっちこっちに怪我を負っていたからだ。一応包帯を巻いて手当てはしてあるものの、額、頬、手、とにかく目に見えるところのほとんどに何かしら怪我を負っているように見えた。
 そんな唯君は、怪我人とは思えないほど平然と微笑んで見せる。
「昨日帰る途中にボーッとしてたらちょっと事故って、でも見た目ほど痛くないから大丈夫」
 彼が「痛くない」とは言ったものの、周りは信じるような様子はない。彼の怪我はそれくらい酷いものだった。見てるこっちが痛くなってきてしまうような怪我の数々だ。
「そうでもないだろーこりゃひでぇよ」
「お前気をつけろよなー」
 友達から心配されて、唯君は苦笑していた。その姿は、本当に私の知っている前の『唯君』そのものだった。それなのに、私に対しては態度を豹変させ、酷いことを言う。私は彼の本性を知ってしまったから。でもそれにしたって、ここまで表と裏を綺麗に使い分けられると私としても混乱してくるのだ。どっちの彼が本当なのかと。
「本当に大丈夫だから」
 心配してくる友達に、唯君は何度もそう言っていた。
 帰る途中にちょっと事故ったというのにしても、裏を隠して周りのみんなを騙している唯君のことだからそれすらも嘘のように思えた。でも、そうだとしたらあの怪我は一体なんなんだろう。
 そうやってしばらく考えていたが、私はハッと我に返って唯君を睨んだ。やめよう、そんなこと私が気にしてどうするというのか。唯君は私に対してすごく酷いことしてくるのに、あんな怪我、自業自得としか言いようがないじゃない。あの日以来、私は彼とは極力関わらないようにしようと心に誓っていたのだ。
 そう、誓っていたのにも関わらず。



 昼休みになって、彼を探すように私は教室をぐるりと見回した。そして、唯君がどこにもいないことに気付く。さっきまでは友達と話していたはずなのに、彼は忽然と教室から姿を消していた。辺りをキョロキョロと何度も見回すけれど、やっぱり唯君はいない。あの怪我のことを訊こうと思っていたのに。
 自分からは極力関わらないようにするとか思っておきながら、やっぱり気になって仕方なかった。訊けば唯君にまた変に絡まれてやな事されるかもしれないと分かっていたのに、それでも止められない。私はあの日以来、唯君を過剰に意識するようになってしまっていた。だからこそ彼の負った怪我の理由が気になってしょうがない。
 とにかく気になって仕方なかった私は、丁度教室にいた北川君に訊くことにした。
「……ねぇ北川君」
「ん? ああ藤森、どした?」
 呑気にお弁当を食べていた彼は、私を見て少し驚いたようだった。まさか私から話しかけられるなんて思っていなかったんだろう。口元にご飯粒が付いているのに気づいていない。
「あの、唯君どこに行ったか知らない?」
「唯? アイツならさっき教室出て行ったけどー……なに、藤森なんか唯に用でもあんの?」
 逆に訊き返されて、私は口ごもってしまう。用というほどでもない。ただ怪我の事が気になってるだけだ。
「う、うん。まぁそんなとこ、かな」
「急用?」
「急用……でもないけど、どうして?」
 なんでそこまで訊いてくるんだろうと思っていたら、北川君は少し苦笑いを浮かべる。
「そこまで急用とかでもないんなら、やめといた方がいいぞ」
「どうして……?」
 北川君は少し周りを警戒するように見回すと、私に向かって小さく手招きして、コソッと耳打ちした。
「あいつ今日、すげー機嫌悪いからさ」
「えっ?」
「唯って機嫌悪い時、休み時間とか昼休みになるとフラッとどっか行っちゃうんだ。一人になりたいんだと思うけど」
 機嫌が悪い時はどこかに行ってしまうなんて、唯君の機嫌が悪いのはいつものことなのに。とっさにそう思ったが、この場で言うことではないと判断しあえて言わなかった。
「それでも行きたいなら止めないけど、多分屋上にいるんじゃないかな」



 北川君に教えてもらうがままに屋上へ足を運ぶと、確かに唯君はそこにいた。彼はフェンスを背にくつろぐように座っている。そしてその瞳はフェンスの向こう側に向けられていた。
 だがそんな中、突然屋上へ出てきた私に気が付くと唯君はこちらを見て一つ溜息をつく。どうやら北川君の言っていたとおり、本当に機嫌が悪いようだった。
「何か用」
 唯君は低い声でそれだけ言って、私に鋭い視線を向ける。その彼の眼差しが怖くて、私は目を合わせないように少し俯いた。
「用ってほどでもないんだけど……。ただちょっと、気になって……」
「はぁ? 用がないくせに来んなよ」
「……ごめんなさい」
 本当にこの人はさっきまで教室で愛嬌を振りまいてた唯君なんだろうか。この別人っぷりがとても悲しい。
 怖くて何も言えずに、言葉を詰まらせてモゴモゴしている私を見て、唯君はさらに腹が立ったらしい。その場から立ち上がると私の横を通り過ぎて屋上を出て行こうとしてしまう。
「ま、待って!」
 慌てて彼を止めようと、迂闊にも私は唯君の腕をガシッと掴んでしまった。もちろん、それは速攻で強く振り払われてしまう。
「うぜぇんだよ気安く触んな!! なんかあるならさっさと言え!!」
「っ……ごめんなさい」
 大声で怒鳴られて、私はビクッとして反射的に目を瞑ってしまう。怖い。やっぱり唯君怖いよ。どうしてそんなに怒るんだろう、前は優しかったのに。そう思っても理由など到底分かるはずもなく、唯君は相変わらずイライラした様子で口を開いた。
「で、何」
「……あの、唯君……それ、大丈夫?」
「は?」
「怪我……」
 心配して尋ねたのに、唯君は私を見てハッと鼻で笑う。
「なんだそれ。つーか、お前に心配されたらほんと終わりだよな」
「……そんな、……そんな言い方しなくったって」
 どうして彼はこんな風にひねくれた物事のとらえ方しか出来ないんだろう。そんな風に言われると、心配してた私がほんとに馬鹿みたいだ。唯君のことを本気で心配していたのに。
 また泣きそうになってしまい、言葉を詰まらせて俯いた私を見て、唯君は少し笑った。私が笑えない時に彼はよく笑う。
「あのさぁお前、俺の心配よりも自分の心配すれば?」
「え……」
「バカだろ、自分を襲った相手のこと心配して。それともまた相手でもしてほしいの?」
 そう言った唯君の人差し指がなぞるように私の首筋を滑る。その感覚にゾクリと鳥肌が立って、私は唯君から慌てて離れた。
「ちがっ、そういうつもりで言ったんじゃないっ」
「じゃあどういうつもりなんだよ」
「私はただ、唯君の事が心配だったから……」
 なんて私は馬鹿なんだろう。自分に酷いことをしてきた人のことを心配して。こんなことを言ったって、どうせ彼からの返事なんて分かり切っているのに。
「お前に心配されても迷惑なだけ」
 私が予想していたものと、唯君の返答は一言一句違うことはなかった。やっぱり唯君には伝わっていないのだ。だけど唯君が悪いのではない、こんな酷い人のことを心配する私の方が愚かなのだ。こんな、どうしてこんな最低な人のことを私は心配してしまったんだろう。
「……唯君、そういう言い方しか出来ないんだね」
 今まで私に優しく接してくれた『前の彼』がいたから、だから私は心のどこかでまだ期待をしてしまっているのかもしれない。もしかしたら以前の優しい彼に戻っているのではないかと。そんなあり得ないことを心の隅で。
「心配なんてするんじゃなかった、ほんとに……」
 視界が潤んで涙が零れた。一方的に心配して一方的に傷付いて、自分が情けなくてたまらない。
「唯君……前の唯君の方がいいよ……ッ……」
 覗かなければ良かった。あの時覗かなければ、本当の彼に会わなければ私はずっとずっと『優しい唯君』と友達として付き合っていけたのに。本当の彼なんて知らなくて良かった、ただ憧れていたかった。
 今日の怪我だって、私が心配して声をかけたら唯君は優しく微笑んで「大丈夫だから」と言ったのだろう。今目の前にいる人のような冷たい態度なんて絶対にとらなかった。
「っ……」
 耐えられなくなった私は身を翻して屋上を出て行こうとした。けれど唯君が私の腕をグイッと引いてそれを止める。これ以上なにがあるというのだろう。
「人がせっかく休んでたところを邪魔しといて、お詫びも無し? 昼休みが終わるまで少し時間があるから、俺に付き合え」
 その視線の先にいた彼は笑んでいた。けれどそれは私の望んでいた『彼』ではなかった。



「ウうっ、ん」
 口内に迎え入れた彼の性器に舌を這わせながら、私は小さくうめき声をあげる。こんなことを今までしたことがなかったからどうすればいいのか分からない。ただ、彼が舐めろというから嫌だったけど素直に従っていた。悔しいけれど、今の私はただ唯君の言うことに従うことしか出来ない。
 そうして初めて含んだそれは、独特の臭いと苦味がして一瞬吐きそうになった。だが拒めば何をされるのか分からなくてこみ上げてくる嘔吐感をなんとか耐える。
「もうちょっと舌使えよ、ホラ」
 私の拙い舌使いに当然唯君は満足なんてするわけもなく、不服そうに舌打ちをする。そして私の頭を両手で挟むように固定するなり、自分で上下に動かし始めた。突然の荒々しい突き上げについていけず、彼自身のが喉奥に当たって苦しくなる。
「んっ! うっ、んぅっ……!!」
 息すらまともに出来ない状態なのに、それ以上されたら私の方がどうにかなってしまう。苦しくて顔を歪めたけど、そんなの唯君にはお構いなしなようだった。自分が気持ちよければいいのだろう、彼は。
「手も使え」
 ようやく頭から手を放してくれた彼がそう言って、私は大人しくそれに従った。どう手を使うのかよく分からなかったけど、口に治まりきらない部分を手で包むようにして軽く扱く。自分の唾液と、割れ目から滲む精液とを絡ませて、どうにかして早く終わらせようと必死で拙いフェラをする。
 それでも彼にとっては気持ちよかったのか、しばらくして私の耳元に彼の少し乱れた息づかいが聞こえてきた。
「……くっ……」
 少し苦しそうな唯君の声と比例するように、次第に口内のソレは硬度を増して大きくなっていく。ああ、気持ちいいんだと私は思い、もうすぐで終わると尚更拍車をかける。こんなこと早く終わらせたい一心で。
「もう出すから、全部残さずに飲め……っ」
 舌を必死で彼の性器に絡めて、舐め上げていく私の上で唯君が声をあげた。そしてそのすぐ後に、私の口内で何かが飛び散る。さっきとは比べものにならないくらいの苦味が広がって、ドロドロする。
 彼は全部残さずに飲めと言ったけど、初めてな上に経験も少ない私にはそんなこと到底出来るわけもなく、口内に出されたほとんどを咳と共に吐き出し、むせてしまった。
「ごほっ、ごほっ、……ッ、うっ……」
「全部飲めって言っただろ、下手くそ」
「っ、はぁっ、はぁっ……はっ、……こほっ……ご、ごめんなさ、い……っ……」
 まだ口内には彼の吐き出した精液の味が残っていて、それが吐き気を催して気持ち悪い。屋上の床に零れた自身の白濁を見て、唯君は怪訝な顔をする。
「そこ全部舐めて掃除しとけ」
 彼はすぐに身だしなみを整えると、私を置いてさっさと屋上を出て行こうとする。まだ荒い息を整えながらも、私は唯君を更に引き留めた。
「ゆ、ゆいくっ……!!」
「……んだよ、まだなんかあんの?」
 めんどくさそうに、彼は振り返ると再度こちらを向く。まるで呆れたような唯君の双眸が私を見つめていた。
 もう終わりにしようと思ったのだ。私から彼に関わるのはこれが最後。どうせ自分が傷つくだけだ、私からはもう何もしない。けれど最後だけ、どうしても彼に訊きたいことがあった。
「唯君……こんなことして楽しい……?」
 最後に尋ねたかったのは、こんな馬鹿みたいなことだった。返答だって分かりきっている、きっと彼なら笑って「楽しいよ」って言うに決まっている。今の唯君は人の心も体も簡単に傷つける。人の心など持ち合わせていないような言葉と暴力で他人をねじ伏せ、それを見て楽しそうに笑う。けれど前の優しかった彼を知っているからこそ、私には今の自分の状況を受け入れることが出来なかった。
 だけどもう、そんな想いも最後にしなくては。彼はもう私の憧れていた唯君ではないのだから。
「ねぇ、答えてよ……ゆいく」
「楽しくないよ、全然」
 そう言って少し笑った唯君の顔は、どこか切なくて悲しそうに見えた。