第4話 少しずつ崩れていくもの |
『楽しくないよ、全然』 楽しくないのならなぜあんなことをするんだろう。人の嫌がることをして、楽しくないのになんで笑えるんだろう。やっぱり唯君はおかしいよ。彼の考えていることは全然分からない、いつも予想だにつかない。 けれどあの時言った言葉とあの顔が、なんだか彼の本心であり本性であったかのように思えて、私の胸を締め付けた。 そう、この時の私はまだ知らなかったのだ。彼を取り巻く大きな黒い陰の存在に。そして彼の中の大きな歪みにさえも全く、気づかないでいたのだ。 ◆ 次の日、唯君は学校に来なかった。 気になって先生に訊いてみたら「熱が出たらしいのよ」と言われて尚更心配になってしまう。昨日の怪我だって酷かったのに急に熱なんて、唯君になにかあったのだろうかと。 でも、気にしてもどうせろくなことにならないのだから、彼のことを考えるのは止めようと思っていた。昨日それをよく思い知ったじゃないか、彼を心配したって、どうせ不等な暴力が返ってくるだけだと。だから自分から関わりを持つのは昨日で終わりにしたのだ。 それなのに、気が付けばつい唯君のことを考えてしまっている。昨日唯君が最後に言ったことのせいだ、こんな気持ちになるのは。なんとなく落ち着かなくなった私は、いそいそとバッグから携帯を取り出し唯君にメールを送ってみることにした。彼の本性を知る以前から、私と唯君はちょくちょくメールのやりとりをする仲だった。というよりも、基本的に唯君は誰とでもメールしてるみたいだったから別に深い意味などないが。 返事なんて絶対無いと思っていたし期待もしていなかったけど、「唯君大丈夫?」と短い文章を打って送信したらなんだか気が紛れて安心できた。つくづく自分も馬鹿だと思う。 「メール?」 急に背後から声が上がるなりひょいっと覗かれ、驚いて私は携帯を閉じた。 「頼子。もう、後ろから覗かないで」 「ごめん、誰に送ったのかなーと思って」 「唯君だよ。今日休んでるから心配になって」 心中を探られないようなにげなくそう言って携帯をバッグにしまうと、頼子は「あーねぇ」と呟いて隣の席に腰掛けた。 「昨日の怪我とかすごかったもんねぇ。なんか自転車で事故ったらしいけど、実際どうなんだろうね?」 「……そうだね」 「もしかして喧嘩とかさ。でも唯君のあの人柄からして喧嘩ってのもあり得なさそうだしね。それに喧嘩になっても唯君、小学校と中学校で空手やってて武丸君より強かったっていうからあそこまでやられるのもねぇ。ま、関係ないけどさ」 喧嘩。もし事故っていうのが嘘だとしたら、次に考えられるのはソレで。あの唯君なら喧嘩というのも十分に考えられる。気に入らない人にはとことん暴力振るいそうだし、実際北川君に暴力を振るっているのを私は見た。でも喧嘩なら相手が誰なのか全然分からない。誰かに恨みを買ってなんていなさそうだし、そんなこと唯君の友達だって放っておかないだろう。 というかそれ以前に、そもそも私には全然関係ないことだ。第一、昨日心配して声を掛けたら唯君から「迷惑」って言われたばっかりなのにメールまで送って心配して、これでは唯君から色々言われても否定は出来ない。 でも、それなのに気にしてしまうのは、昨日別れ際に言った唯君の言葉がずっと引っかかっていたから。「全然楽しくない」と言った時のあの寂しそうな微笑みが、優しい声が、忘れられなかったから。 ◆ 午前中の授業が全部終わって、持ってきたお弁当を出そうと鞄を開け、ついでに何気なく携帯を見たら誰かから着信があった。一件。よくよく見てみるとそれは思いがけない相手、唯君からだ。それを見た瞬間私は驚きのあまりにガタンッと椅子を蹴って立ち上がってしまった。 メールの返事は絶対来ないと思っていただけに、着信が来るなんて思ってもみなかった。唯君が私の携帯に電話をかけてきてくれたなんて。これはかけ直さないといけない気がする。そもそも私からメールを送ったのだし。 頼子に一言残して慌てて教室を後にすると、私は携帯を持って人目につかないよう屋上へ向かった。 電話一本かけるのにここまで緊張するのは初めてで、携帯を持つ手は少し震えていた。幸い屋上には誰もおらず、ガチャリと古びた扉を閉める。大げさだが深呼吸を一つして気持ちを整え、携帯のボタンを押してリダイヤルする。 コールが延々と鳴る中、しばらくして唯君は出てくれた。 「あっ……ゆ、唯君……?」 少し声が裏返ってしまい、しまったと内心思った。すぐ傍に唯君はいないのになぜか身体が強ばってしまい、出る声も震えてしまう。 「……もしもし……唯君……」 改めて再度呼びかけるが、私が言っても電話の向こうにいるであろう彼は無言だった。思わず、「誰もいないんじゃないか」と思ってしまうほど静かで、不気味だ。 「ごっごめんねメールなんて送っちゃって……その、……熱、大丈夫?」 言葉が詰まったり呂律が上手く回らなくて、少し焦ってきた。唯君と話す時はやたら緊張してしまう、彼になにか言われてしまうのではないかと怖い。 けれどもそんな私の心境の中、唯君はやっぱり何も言わないまま黙っている。きっとまた一方的に怒られてバカにされると思いこんでいただけに、それは本当に拍子はずれで、でも何かあるんじゃないかと妙に緊張が走る。 「ねぇ、唯君……?」 次第に不安になってきて、私の口から出る声も小さくなっていく。なんでもいいから言ってほしい。電話の向こうにいるのだという確証が欲しい。どうして何も言ってくれないんだろう。なんでもいいから、一言でも。 「……何か、……あったの? ……大丈夫……?」 私がそう言ったのを最後に、何の前触れもなく突然プツッと電話は切れた。電話に出たのは本当に唯君だったのか、それすらも分からない。なにがなんだか分からない状態で私は呆然とその場に立ち竦んでしまった。 結局唯君は何も言ってくれないまま、無言のままで電話は終わった。会話すら成り立たなかった。どうして切ったんだろう、どうして何も言ってくれなかったんだろう。私の携帯に電話をかけたってことは、何か言いたいことがあったからなんじゃなかったのか。 何か嫌な予感が私の頭をよぎり、屋上に気味の悪い生温い風が吹いた。 ◆ 「えっ、唯の家?」 「うん。もし知ってたら教えて欲しいんだけど……駄目かな」 何も話さずに電話を一方的に切られたことが気になって、私は帰りに唯君の家に寄ってみることにした。どうせ「帰れ」って言われるとは思ってたけど、その時はその時だし。そう思ったものの当の唯君の家には1度も行ったことがないことを思い出して、場所が分からない私は北川君に訊くことにした。 彼はなにが面白いのか、私のお願いにクスクス笑っている。 「まーた唯のこと? 藤森も好きだなほんとに」 「! 別にそういうわけじゃないの、熱があるって先生が言ってたから気になって。昨日は元気だったから……」 「ふーん」 私の言うことを信じてなさげな、ニヤニヤしている北川君を見てつい顔が赤くなって私は戸惑ってしまった。 「何っ?」 「いいや、藤森ってイイヤツだなぁと思って」 「え?」 なんだか嬉しそうにそう言う彼を前に、少し間が抜けて変な声を出してしまった。そう言われるとは思わなかったのだ。イイヤツだなんて、初めて言われた。 「唯の家かー。んー、紙に書けば分かる?」 「あっ、そうしてくれると助かるな。ありがとう」 私が言うと北川君は机の中をあさって一冊のノートを取り出し、ビリッと紙を躊躇なく一枚破る。そして持っていたボールペンで、少し荒々しいが地図を描きだした。まだ描き始めたばかりだが、お世辞にも上手いとは言えない。 「……北川君は、どうして唯君と一緒にいるの?」 「俺?」 「うん、だって……」 この間の体育館での出来事だって、あんな暴力振るわれてそれでも平然と友達として唯君と付き合ってるなんてどういう神経をしているんだろう。あんなことされたら普通やり返すとか、もう彼と関わらないとか、普通はそうするのに。それなのに北川君は不思議なほどいつでも唯君の傍にいた。 教室だったからあまりはっきり言えなくて口ごもっていると、私が言いたいことがなんとなくでも伝わったらしく北川君は「あー」と声をあげる。 「うーん、なんつーかさ……ほっとけないんだよな。危なっかしくて」 「危なっかしい?」 描く手は止めず、視線も私に向けずに、北川君は黙々と話し出した。 「あいつ目ぇ放したらすぐどっかいなくなるからさ。心配なんだ」 目を離したらすぐにいなくなる。それは昨日の昼休みのようなことを言ってるんだろうか。今までこんなに唯君のことを意識したことがなかったから全然気づかなかったけど、もしかしたら以前からこんなことがあったのかもしれない。 「それにアイツ見てるとなんだか可哀想になってくるっつーか、前はあんなじゃなかったけどなぁ」 「……前は?」 「ああ。本格的に変わりだしたのは高1の途中から」 北川君の話は私にとってとても興味深いものだった。彼の話が全て正しいのであれば、高1の途中から唯君は荒れ出し、それまでは私が知ってるあの優しい彼だったということになる。私はてっきりずっと前からああいう裏の顔を持っていたのだとばかり思ってたけど、本当はそうじゃないのだろうか。 「まぁ……ほら、家庭で色々あったからさアイツ。このことは唯には内緒な」 そう言って北川君は、ニコッと微笑んで私に紙を差し出した。少し荒くて所々分かりにくい箇所があったけど、私の知ってる場所もいくつかあったからこれならたぶん大丈夫だろう。 「ありがとう!」 「たぶんそれで合ってると思うけど、どっか間違えてたらごめんな。俺も最近行ってないからうろ覚えなんだわ」 「ううん、これだけ描いてくれたら十分だよ。本当にありがとう」 「……なんか、唯が羨ましいなーマジで」 喜んでいた私を余所に、北川君は苦笑した。 ◆ 唯君の家は、割と綺麗な家が建ち並ぶ住宅街の一郭にあった。家自体は私の家とほとんど同じくらいの大きさ。そしてその黒い鉄製の門扉を開くと、キィッと金属の音が寂しく響く。 ドアの前まできた私の鼓動は次第に高鳴っていく。ドキドキしながら自らの指をインターフォンのボタンへ運び、ゆっくりと押すと中でインターフォンが鳴っている音が僅かに聞こえる。今度はちゃんと唯君は出てくれるだろうか。 しばらくして「はーい」という女の人の声と共に、足音がこちらへ向かってくるのが聞こえた。唯君じゃない、誰だろう。もしかしたら唯君のお母さんかもしれない。 「はい。──あら、唯君のお友達?」 ガチャッとドアが開いた先、エプロンを着ていたおばさんが私を見て優しげな微笑みを浮かべた。その笑顔に少し安心して張りつめていた緊張が解け、肩に入っていた力が抜けていく。 「あっ、こ、こんにちは! 唯君と同じクラスの藤森です……。その、唯君今日学校休んでたので……、えと……唯君のお母さん……?」 失礼かもしれないが、お母さんにしては唯君に似ていなさすぎると思った。唯君はお父さん似なのかもしれない。私が尋ねるとそのおばさんは面白そうに笑った。 「いいえ、お母さんだなんてとんでもない! 私は家政婦の佐上です。今日はわざわざ来てくれてありがとうね。女の子のお見舞いなんて、唯君も喜ぶわきっと」 唯君の様子が分かりさえすればすぐ帰るつもりだったのに、「さぁどうぞ」と促されるまま私は家にあがらせてもらった。スリッパを用意してくれた佐上さんにお礼を行って履き替えると、彼女に案内され二階へ付いていく。さして時間のかからないうちに、佐上さんは一つの部屋の前で足を止めた。 そして、その部屋のドアをコンコンと優しくノックする。ここが唯君の部屋らしい。 「唯君、唯君。クラスのお友達が来てくれましたよ」 誰もが安心してしまうような優しい口調で佐上さんがそう言うものの、昼間、私の携帯の時と同じように、唯君がいるらしい部屋からは何の返答もなかった。しんと静まりかえった中、佐上さんは「うーん」と困ったように小さく呻る。 「いつもは元気なんだけど、今日はちょっと気分が悪いみたい。朝私が来た時からずっと部屋に籠もったままなのよ」 「……そうですか……」 電話でも何も言ってくれなかったし、一体唯君はどうしてしまったんだろう。心配して俯いた私をよそに、一階の方から電話のコールが鳴る。 「あら、電話だわ。ごめんなさいちょっと待っててちょうだいね」 佐上さんはそう言い残すと急いで一階へ降りていってしまった。しばらくして、一階の方でなにやら佐上さんの話す声が聞こえた。急に一人になって再び緊張してきた私は、胸の高鳴りを抑えてゆっくりと手をあげて唯君の部屋のドアをノックした。 「ゆ、唯君……、私……真奈美だけど……」 佐上さんのように声をかけてみたが、やっぱりドアの向こうからは何の返答もない。それもそうか、私が来ても唯君嬉しくないだろうし、余計にむかつくだけだろうし。来てくれと頼まれたわけでもない、ただ私が勝手に心配して来ただけだ。 私の中でそんな考えがよぎっていく中、ドアの向こうから足音がした。こちらへ歩いてくる足音だと私が思ったのも束の間、次の瞬間ガチャリとドアが開かれた。 「何しに来たんだよ、お前」 ようやく私に顔を見せた唯君は、いつもとなんら変わらない様子でそう言った。もしかして何かあったんじゃないかと思い詰めていた私の心境とは打って変わって、全然いつもどおりの、普通な彼。それはいっそ拍子抜けしてしまうほどに。 「唯君……」 「来いなんて言ってないだろ。迷惑なの分かんない?」 そして、相変わらずの突き放すような冷たい口調と言葉を浴びせてくる。確かに彼は私に「来い」なんて言わなかった。けど「来るな」とも言わなかった。だから気になって、私が自らの意志でここまで来たのだ。 迷惑だと言われることも予想通りだった。けどこれでいい、唯君が無事だったのならそれで私は満足だ。彼が大丈夫なのかどうか、それを確認するために怒られるのを覚悟でここへ来たのだから。結果はどうあれ私の目的はこれで果たされたことになる。あとは謝ってここを出て行くだけ。それでもう終わり。 けど、黙って俯いていた私の手を唯君が強く引いて、部屋の中へ入れた。それは私の予想外の出来事だった。 「!? 唯君っ?」 「そこに突っ立ってると佐上さんが戻ってくんだろ。俺今誰の顔も見たくないんだよ」 私を部屋へ入れると、唯君はすぐに手を放して壁に凭れた。初めて入った男の子の、唯君の部屋は私の部屋よりも少し広くて、全てが綺麗に整頓されている清潔感の漂う部屋だった。しばらく物珍しげに辺りを見回していた私だったけど、ハッと本来の目的を思い出して重々しい空気の中口を開いた。 「あ、熱があるんだってね……。先生から聞いて、それで今日メールしちゃったの。まさか唯君が電話かけてくれるなんて思わなかったから、ビックリしてかけ直したら、……唯君何も言わないんだもん」 唯君は何も言わない。ただ壁に凭れたまま俯いている。彼の長い前髪のせいで、どんな顔をしているのか私には分からなかった。このとき、彼がどんな気持ちだったのかさえも。 「そ、それで、……気になって来ちゃったの。……ごめんなさい」 言うことに夢中で、唯君の手が震えていたことにも気づかなかった。 「でもなんか元気そうでよかった……! 具合悪いのかなーと思って、迷惑だろうけどまた心配しちゃった」 苦笑いしながらそう言ったものの、相変わらず何も言ってこない唯君を見て私はなぜか凹んで再び俯いてしまう。やっぱり唯君にとって私は邪魔なだけのような気がして、次第に居づらくなってくる。もう早く帰った方がいいのかもしれない。 「じゃ、じゃあ私これで帰るね! ほんと急にごめんなさ」 「むかつく……」 ペコッと頭を下げて部屋を出て行こうとドアノブに手をかけた時、唯君が静かに、掠れたような声で一言呟いた。 「……え?」 「……どいつもこいつも……ほんとにムカツク……っ……」 今まで壁に凭れて立っていた彼は、ずるりと力なくその場に座り込んだ。私は意味がわからなくて、気分が悪くなったのかと慌てて彼に駆け寄った。 「唯君、大丈夫? ……気分悪いの?」 顔色が良くなかったから、先生の言っていたように熱でもあるんじゃないかと彼の額に手を当てようとした。その瞬間だった。ふわりと私の身体が引力に引き寄せられたかのように動いたのは。 それはあまりにも突然で、私はしばらく思考が止まった。私の背中に回されているのは彼の腕。引き寄せてきたのは彼。 私は唯君に、抱きしめられていた。 「!? ちょっ、唯君!?」 声をあげるとさらに強く唯君が私を抱きしめてくる。不思議と、嫌な感じはしなかった。 「どうしたの? ねぇ唯君、ゆ」 声をかけてくる口を封じるように、私の唇を彼の唇が塞いで、私は目を見開いた。突然の口づけにただただ驚いて、抵抗することさえ忘れていた。否、抵抗しなかったのだ。 『アイツ見てるとなんだか可哀想になってくるっつーか』 脳裏によみがえった言葉。北川君の言ったとおりだった。この人は、本当はとても寂しい人なんじゃないか。何かに一人で耐えているんじゃないかと、そんな考えが頭の中で交錯していた。 私を強く抱きしめる唯君がなんだか寂しくて小さく見えて、彼にはいつものような覇気なんて微塵も無い。けれどひたすら優しい口づけに、私はしばらくしてそっと彼を抱きしめ返した。 こうなって私は初めて気が付いたのだ。自分を取り巻いている暗闇の存在と、足下をすくう泥濘、はまってしまったらそれが最後。 もう後へは引き返せない。そんな気がした。 |