第7話 ルナシー


 梨花が響へ「しばらく一緒に暮らそう」という話を持ち出してから数日後、響は「りっちゃんが迷惑でないのなら」とあっさり了承し、梨花のマンションへと転がり込んだ。
 一つ、エリカの行動を把握するため。二つ、そのエリカの行動によって引き起こされる響の不安を軽減させるため。三つ、エリカと響に関する情報収集。今回、期間限定の同居にあたっての梨花の目的である。現時点では色々と情報不足なため、まだ響にはエリカの存在を打ち明けることが出来ないでいた。もう少しエリカの動向を見守って、話し合いをして、彼女のことを把握出来たらきちんと響に話をしようと考えている。
 自分の中にもう一人いる。そんな事実を知ったら響はどんな反応をするのだろう。それを考えると梨花は今から不安でいっぱいだった。せめて、エリカがもう少し響に対して友好的ならば良かったのだが、それはまだ望めそうにない。
 だが、何事もまずは知ることから始めなくてはと、梨花は朝食を並べたテーブルを見て一人意気込んだ。
「それにしても、遅いなぁ……」
 いつまで経っても起きてこない響が気になって、梨花は彼の部屋へと向かった。これではせっかく作った朝ご飯が冷めてしまう。響の部屋──以前は空き部屋だった──のドアを開け、梨花は盛大なため息を吐く。未だ夢の中にいるであろう幼馴染へ歩み寄り、その身体を優しく揺すった。
「響君、響君ってば、起きて。もう朝だよ」
「ん……」
 響は小さく呻いてもぞっと寝返りを打つ。さらりと揺れる髪の毛と共に、響の顔が梨花の方へと向いた。だが瞳は閉じたままで起きる様子はない。梨花は内心「このやろう」と思いながら、再度響の身体を揺さぶった。
「響君起きて」
 先ほどよりも声高に言うと、響はようやく瞳をうっすらと開いた。普段のぱっちりとした大きめの瞳は、今は三分の一ほどしか開いていない。響は梨花を見て二、三度瞬きをすると、ようやく眠気が覚めてきたのか目を擦って上半身を起こした。
「りっちゃんおはよう……」
「おはよう響君。もう朝ごはん出来たから起きて」
 響の第一声を聞いて梨花は「今日は響君の方か」と口には出さないが心の中で思った。この朝一の人格チェックは、一緒に暮らすようになった今ではもはやひっそりと梨花の習慣となっている。
「ほら響君ってば」
 上半身を起こしたままボーっとしている響へ軽くデコピンすると、響は緩慢な動作でベッドから下りた。梨花の言葉に反応はしているものの、まだ眠たそうで意識もハッキリしていないようだ。
「早く顔洗って着替えないと、遅刻しちゃうよ」
「……うん」
 気怠そうに返事をした響を見て、梨花はほんの少し罪悪感が湧く。だがそうこうしている間にも刻一刻と学校の時間が近づいてきてしまっているため、響へ着替えるように促した梨花は早々と部屋を後にした。
 ほどなくしてリビングへ顔を出した響は椅子に腰掛け、朝食を前に手を合わせる。先程よりもしっかりと目が覚めているのでとりあえずは一安心だ。
「目、覚めた?」
「うん。さっきよりも大分」
 心配して声をかけた梨花に対して、響は薄く微笑んでみそ汁を飲む。その顔はまだ少し眠そうだ。心なしか顔色もあまり良くない気がする。
(やっぱりアレは良くなかったなぁ……)
 まだ本調子ではなさそうな響の顔を見て、梨花は心中で反省した。なぜなら響がこんなに眠そうなのは梨花とエリカのせいだからだ。梨花は夜中のことを思い出して、小さくため息を吐いた。
 昨日の夜、梨花とテレビゲームをして遊んでいた響は「眠たいから」と言って22時には自室へ行った。けれど、そう間を置かないうちにエリカがやってきて、梨花は夜中の三時までゲームに付き合わされてしまった。つまり、響は寝たつもりでもエリカが起きていたため身体が休まっていないのだ。眠たいのも恐らくそのせいだろう。
 心は二つでも身体は一つだ。たった一つしかない身体を二人の人間が共有してるのだから身体への疲労は二倍になる。こんなことにならないよう梨花が注意しなければならなかったのに、早くも失敗してしまい響に対して申し訳なさが募る。
「ん?」
 熱めのみそ汁を飲みつつご飯を食べていた梨花は、なかなかみそ汁以外に手を出そうとしない響を見て首を傾げた。梨花が朝ご飯に作ったのは赤だしのみそ汁と目玉焼きで、そんなに重くもないからいくら小食な響でも入るだろうと思っていたのに。
 不思議に思った梨花は箸を置いて響へ尋ねた。
「響君、どこか体調悪いの? それとも口に合わなかったかな?」
 梨花が言うと響は慌てて笑みを作る。これは調子が良くない時の微笑み方だ。
「違う、そういうのじゃないんだ。……ごめん、せっかくりっちゃんが作ってくれたのに」
「私のことはいいから。あんまり入らないなら無理して食べることないし、残していいからね」
 そうは言ったものの聞いていてあまりいい気はしないのだろう、響は複雑な面持ちだ。
「顔色も良くないし、もしかしてどこか具合が悪い?」
 矢継ぎ早に聞くが、響は口を濁らせるだけだ。これは完全に何か隠しているパターンである。
「響君? 言ってくれなきゃ分からないよ」
 後押しするようにもう一度言うと、響は眉をハの字にして観念した。
「なんか最近、変な夢ばっかり見るっていうか……夢見が悪いんだ。そのせいか分からないけど頭痛が酷くて、薬も飲んだんだけど全然治まらなくて。実言うと昨日の夜もそんな感じで、頭が痛くて起きてられなかったんだ」
「もう、なんでそういうこと黙ってるかなぁ」
 梨花はテーブルから身を乗り出し、そっと響の額に手を当てる。どうやら熱はなさそうだ。響は「りっちゃん大げさだよ」と言って笑ったが、梨花は笑える気分ではない。夜中に無理をさせてしまった自分のせいでもあるのだから。
「顔色も良くないし、学校休んだ方が良いんじゃない?」
「ううん、大丈夫。今はそんなに酷くないから。学校には行くよ」
「ん〜……、今日は授業も少ないし早く終わるから、帰ったらすぐに休みなよ。あ、きつくなったらちゃんと保健室に行くか、早退するかしてね。無理しちゃ駄目だからね。あと、ちゃんと私に連絡して」
「うん、分かってる。でも、やっぱり俺どこかおかしいのかな……今だってほとんど食べてないのにお腹いっぱいだし……」
 なんでだろ、と困ったように呟かれ、梨花はハッとした。響の言ったことに心当たりがあったからだ。
(そういえば夜中にエリカとゲームした時、あの子めちゃくちゃお菓子食べてたんだっけ!?)
 響とエリカは別々の人間でも、身体は一緒。エリカが食事をして満腹になれば響だって何も食べてなくても満腹感を得てしまう。現にエリカはものすごくよく食べる子で、夜中に食べていたお菓子の量も尋常ではなかった。
 梨花がもう少しエリカを窘めておけば良かったのだが、どうしてもエリカを見ていると強く言えず、お菓子も寝る時間も注意出来なかった。エリカは本当に憎めなくて、なにより響の顔で可愛くお願いをされるとなかなか「ダメ」とは言えないのだ。自分もほとほと甘い人間だと梨花は情けなくなる。
 何も知らない響に対し、梨花は朝から申し訳ない気持ちでいっぱいになった。



「梨花おはよーっ!」
 響と共に教室へと入った梨花に、美幸が元気よく挨拶をしてきた。
「おはよう美幸」
 そう返して自分の席へ向かうと、そこへ麻衣や有紀もやってきて梨花と響に対して「おはよう」と微笑んでくる。その中で美幸は何が面白いのか、意味深に笑みを浮かべている。それがなんだかむず痒くて、たまらず梨花はジトッとした目つきで美幸を見た。
「美幸ってばなんなの、さっきからニヤニヤして」
「いや、朝から彼氏と一緒に登校なんて羨ましいなぁって」
 何を言うかと思えば、美幸はさも面白そうな様子で梨花をからかう。身体中の体温が一気に上がった気がして、梨花は慌てて言い返した。
「もう、違うってば。幼馴染って言ってるでしょ」
「でも周りからはとてもそれだけの関係には見えてないと思うー。あっ、柊君もおはよう」
 少し遅れて美幸が響に挨拶するが、響はそれを無視してさっさと自分の席へ着こうとする。先ほど麻衣と有紀が挨拶をしてきた時も響は何も言わなかった。そんな高校生としてあるまじき態度に内心梨花は「おいおい」と思う。
 いくら過去のことで人間不信だと言っても「おはよう」と挨拶されたら「おはよう」と返すのは当たり前のことだ。あまりに常識に欠けた態度なものだから梨花はムッとして、響の腕を掴んで引き留めた。
「響君待って」
「ん? りっちゃん何?」
「『何?』じゃないでしょ……。美幸達が挨拶してるんだから響君も挨拶くらいしなよ」
 いつもより少し強めの口調で言うと、響は困ったような不安そうな、とても複雑な表情を浮かべている。
「なんなの、その微妙な顔つきは……」
 響が人との関わりを拒むのは、完全に過去のアレコレである。小中学校のイジメ、ファンクラブのこと、ストーカーのこと、詳しく聞いてはいないものの他にも色々あるのだろう。どうしても人に対する嫌悪感が消えないのだと、響自身梨花にそう告白していた。また「男は特にだめ。女の子は優しいからまだいいんだけど」とも言っていた。これは小学校から中学にかけてのイジメが原因だ。
 だけど正直、このままでいいはずがない。まだ高校生だから大目に見てもらえるのかもしれないが、社会人になったらそうはいかない。もう少し響と周りの人達との距離を縮めることが出来ればと、梨花は考えていた。梨花や悠人の他にも、響を見守ってくれる存在というのは必要だ。ファンクラブは除外するとして。
 響とエリカをバランスよく共存させるために、小さなことからコツコツと。それを考えると、今日のこれは良い機会かもしれない。
「梨花、いいよ私達気にしてないし……!」
「そうだよ梨花ちゃん」
 梨花の行動に美幸達は戸惑っていた。大方は響に気を遣っているのだろうが、梨花はお構いなしに響の腕を更に引いて美幸達の前に突き出した。逃げられないように響の腕はしっかりと掴んだままだ。
「り、りっちゃんちょっと待って……!」
「挨拶されたら返すのは当たり前のことだよ。そんなことも出来ないでどうするの」
 続けて、梨花は響へコソリと耳打ちする。
「『女の子は優しいからまだいい』って言ってたじゃない」
「うっ……それは……」
 そう言っても響は狼狽えるばかりでなかなか言葉を出そうとしない。そのあまりの強情さに、しまいには梨花の方が痺れを切らしてしまった。
「響君」
 頑張って、と梨花が言おうとした時だった。後ろからポンッと軽く肩を叩かれたのは。
「ちょっと橘さん、その辺にしてくれない?」
「柊君が可哀想だわ」
 思ってもないことを言われて梨花が振り向くと、そこには同じクラスの女子四人が険悪なムードを纏い立っていた。それが響のファンクラブの子達だということに気付いたのはすぐのことだ。彼女たちは一様に、腑に落ちないような険しい顔つきで梨花を見つめている。
 この学校へ編入してから今まで、睨まれたことはあっても直接話しかけられたことは無かったので梨花は素直に驚いていた。ここまで敵意を剥き出しにされるといっそ清々しいほどだ。けれどそれは最初だけで、驚きの後に梨花が感じたのは多少の怒りだった。
「可哀想って、なにが可哀想なの?」
 出来る限り、怒りを表に出さずに平然と返すと、彼女たちは梨花の態度に腹が立ったらしい。ただでさえ険しかった表情がますます固いものへと変貌する。
「柊君が嫌がってるのにそうやって無理矢理挨拶させようとするのが可哀想だって言ってるのよ。いくら幼馴染だからってちょっと突っ込みすぎなんじゃない?」
 朝からたかだか挨拶のことでこんな揉め事になってしまい、正直かなりめんどくさいなと梨花は心中でぼやく。揉め事は出来るだけ起こさず平穏に過ごしたかったが、響が絡むとそれは無理なのだと嫌でも理解させられる。だが、それでも今回の件は梨花にも譲れなかった。
「私はクラスメイトから挨拶されてるのにそれを返さなかった響君を注意しただけ。別に間違ってないと思うんだけど」
「橘さんはそのつもりでも、実際柊君は困ってるの。彼、とてもシャイだから急にそんなこと言われたって出来ないわ」
 その言い様の気持ち悪さに、梨花は嫌悪を隠すことが出来なかった。梨花は溜め息をつくと、呆れた目をして言い返す。
「シャイって……。あのさー、そうやって貴方達が甘やかしてるから私が言ってるだけなんだけど。私だって高校生にもなって同級生にこんなこと注意したくないよ」
 朝の学校特有の喧騒が消え、いつの間にか教室内は静まりかえっていた。クラスメイトの視線は全て、騒ぎの中心である梨花達へと向けられている。だが毎日響と一緒にいたせいか注目を浴びるのにはもう慣れてしまっていて、今更梨花はなんとも思わなかった。短い間に、随分この学校に染まってしまったものである。
「橘さんって本当に人の気持ちが分からない人ね」
 これ以上話しても無駄なことだと思ったのか、彼女たちは険しい顔をしたまま息を吐いた。
「これ以上話すことなんて無いわ。ねぇ柊君、行きましょ」
 彼女たちは響を席へ連れて行こうと手を差し伸べる。けれどそれが触れるよりも早くに、言葉を発したのは他の誰でもない響自身だった。
「──ごめん。でも今のは俺が悪いから」
 この間の神崎先輩の時みたく思いきり拒むのかと思っていたら、響はファンクラブの子をしっかりと見やってそう言い、彼女たちに謝った。その行動に梨花は虚を衝かれたように驚いた。ファンクラブの子も同じように驚いており、なぜかその後顔を真っ赤にさせて黙ってしまう。爆弾のような威力である。
 響は梨花を一瞥したあと、覚悟を決めたように美幸達へと顔を向ける。その響の顔はほんのりと赤く、緊張しているのがリアルに伝わってくる。
「さっきはごめん。……その、おはよう、ございます」
 それを聞いた美幸達は響と同じくらい顔を赤くして、驚きのあまり何も言えないのかずっと黙ったままだった。



「梨花、聞いたぜ朝の話」
 昼休みに屋上へやってきた梨花と響へ、悠人は開口一番にそう言った。
 いつもと何ら変わらない青空が広がっている屋上の下。悠人はその青空と同じくらいの爽やかさで微笑んでいた。
「響に挨拶させたんだって? クラスのやつに『おはよう』って」
「もう、なんで学科も校舎も違うのに悠人が知ってるのよ……」
 毎度のことながら、この学校の情報網は一体どうなっているのだ。梨花は空恐ろしくなる。
「一時間目の休み時間にはこっちの校舎にも噂が広まってたぞ。響の話題性は半端ねぇから。でも梨花も転校早々に武勇伝を作るなんて、流石だよなぁ」
「は? 武勇伝ってなんのことよ?」
「またまた惚けちゃって〜」
「いや本気で分からないんだけど……」
 人から人へと伝わっていく噂は伝言ゲームみたいなものだ。最終的には事実と全く違う話になっているというし、今回のこともあれこれと尾ひれがついてとんでもない話になっているのかもしれないと、梨花は他人事のように思う。
 いたずらげに笑う悠人を尻目に、梨花と響は日陰に腰を下ろす。
 昼休み前に悠人から「一緒にメシ食おう」と誘いのメールが入っていて、久しぶりに三人でご飯を食べることになった。以前は響が途中でいなくなり梨花もそれを追いかけてしまったため、悠人とは満足な会話も出来ずに終わってしまっていたのだ。そのことをずっと申し訳なく思っていたから、今回また三人で昼食をとることが出来て梨花は素直に嬉しかった。
「で、響は他にもクラスのヤツとなんか話したか?」
「りっちゃんの友達となら少しだけ」
「そっか、そりゃ良かったな」
 自分のことのように嬉しそうな顔をして、悠人は響の頭をわしわしと撫でる。その光景は、同級生や幼馴染というよりも兄弟と言った方がしっくりくる。人とあまり関わらない響だからこそ、こうやって悠人と話している姿を見ると本当に安心出来た。
「でも、響君ってばあの後私に『あんまり揉めたりしないで』って言ってくるんだもん。ちょっとショックだったなぁ」
 朝のちょっとしたいざこざの後、ファンクラブの子達も黙って席へと戻っていき、やっと教室内が元の雰囲気に戻ったかと思いきや、突然響が梨花の腕を引いて教室の外へと連れ出した。そして廊下で立ち止まった響は、戸惑った面持ちで梨花へ小さくこう言ったのだ。
『りっちゃん、あんまりクラスの人と揉めたりしないで』
 梨花が口を尖らせてその時のことを言うと、響は慌てて反論する。
「だって、もしりっちゃんに何かあったら俺嫌だからっ」
「そーそー。梨花、お前あんまり響のファンクラブと関わらない方がいいぞ。あいつらほんとなにするか分かんねぇから。ただでさえお前は響と人一倍仲良いし懐かれてんだから、ファンクラブの奴らにとってはお前ってかなり邪魔な存在なんだぞ」
 悠人の言葉に違和感を覚えてすぐ、梨花はハッとした。以前にも美幸から似たようなことを言われていたからだ。
「確かにあの人達はちょっと不気味だし面倒くさいけど、そうまでして二人が言うからには何か根拠があるんだよね? だって、そんなに危ないなら響君がはっきり言ってファンクラブなんて辞めさせればいいんだもの。それが出来ないのに関わるなって、難しいと思うんだけど」
 梨花がもっともな意見を返すと悠人は苦々しく笑い、響は気まずそうな顔をする。明らかに何かを知っていて、隠しているような様子だった。響が以前「ファンクラブとの間で色々あって、悠人にすごく迷惑をかけてしまった」と言っていたのを思い出す。二人が渋るのは十中八九そのことが絡んでいるのだろうと、梨花はなんとなくだが察してしまった。
「それに、悠人が言ってる事って思い切り悠人自身にも当てはまる事じゃない。私がここに転校してくる前まではこの学校で響君と仲良くしてたのは悠人だけだって聞いたんだけど。悠人だってファンクラブにとっては邪魔な存在なんじゃないの? 今までよく無事だったわね」
 追い打ちをかけるように梨花が言えば、辺りの空気が一気に不穏なものへと変わっていった。
「……無事じゃないよ、全然」
 俯き、振り絞るような声で言ったのは響だった。
「俺が後先考えないバカだから悠人が」
「響!!」
 響の声を容易くかき消してしまうくらいの怒号で、悠人が響を睨んだ。普段温厚な悠人がここまで怒るなんて珍しく、梨花は驚いて肩を揺らしてしまう。
 悠人は普段よりも僅かに低い声で響を窘める。
「その話はやめろ。終わったことだろーが」
「……ごめん」
 肩を落とし、響は目に見えるほど落ち込んで表情を曇らせた。自分で追い打ちをかけておいてなんだが、響が不憫に思えて梨花は罪悪感がわいてしまう。
 一気に気まずい空気が流れたのも束の間、悠人が溜息を吐いて頭を掻いた。
「なんつーか……梨花の言うことももっともなんだけどよ、色々難しいんだよなぁ。まぁそれは一旦置いといて、せっかくの昼休みなんだし仲良くメシでも食べようぜ! 響も、怒鳴っちまって悪かった」
「ううん、俺も悪かったから。ごめん」
 潔く謝ってくる悠人へ、響も慌てて謝罪する。安心させるようにうっすら微笑んだ響の顔を見て悠人もホッとしたのか、いつもの明るい表情へ戻った。こういう時、男同士というのはあっさりしていて良いものだ。女同士だとこうはならないと梨花は経験で知っている。
「ってか、さっきから気になってたんだけど響の弁当って梨花が作ったのか?」
「うん、りっちゃんが作ってくれたんだ。中身もお揃い」
「うわっ、中身まで同じかよ〜。もはや恋人っつーか夫婦じゃねぇか!」
「うん!」
「そこ認めるんだ!? しかも今日イチ眩しい笑顔してる!!」
 先ほどまでとは打って変わり、とても嬉しそうな顔をして響が言うものだから悠人は爆笑していた。
「ったく羨ましいよなぁ。梨花、俺の分も作ってよ。二人も三人も変わらねぇだろ」
「響君はお弁当にしないと栄養が偏っちゃうから作ってるだけよ。悠人はお母さんがいるんだから作ってもらえばいいじゃない」
 そう言った梨花に対して悠人は「分かってないなぁ」と意味深な発言をして苦笑した。



「橘さん、樋口君からの伝言なんだけど『放課後図書室に来てくれ』って」
 色々あったものの穏やかに昼食を終えた梨花が教室へ戻ると、まるでそれを待ち構えていたかのようにクラスメイトの女の子が二人、梨花のところへ駆け寄ってそう言った。彼女達はそれぞれ見知った顔だが、話すのはこれが初めてだった。そんな二人から聞いた『悠人からの伝言』という言葉に、梨花は首を傾げる。
「悠人が? なんでさっき言わないかなぁ……」
 一緒にご飯を食べたのだからその時に言えば良かったのに、言い忘れたのだろうか。梨花が訝しんで疑問を口にすると、彼女達は慌てて付け加えた。
「な、なんか大事な話があるとか!」
「橘さんいつも柊君と一緒だからさ。絶対に一人で来てって言ってたよ!」
 それを聞いて梨花は尚更のこと考え込んだ。あの呑気で裏表のない悠人が、響抜きで話したいことなんて限られている。心当たりがあるとすれば、それはやはり響のことについてしか思い浮かばなかった。お昼にファンクラブの話をした時とても気まずい空気になってしまったから、そのことで話でもあるのかもしれない。
「そっか。分かった。放課後行ってみるよ。ありがとね」
 とりあえず用件は分かったからにこやかに言うと、彼女達もホッとしたように自分の席へと戻っていった。二人のどこか不自然な様子が妙に引っかかったけれど、梨花はあまり深く考えなかった。そんなにあれこれ疑っていたってしょうがないし、気疲れするだけだ。
 けれどやはり、後にして思うとこれがいけなかったのかもしれないが。



「もう悠人ってば……いつになったら来るのよ」
 心の中に留めておくことが出来ず、半分苛立ちのこもった声で梨花は呟いた。
 放課後の図書室は人がまばらで、梨花を入れても三、四人ほどしかいない。広い図書室は静まりかえっていて、外から部活中の人達のかけ声がよく聞こえてくるほどだ。
 悠人が来るまでの間、暇潰しに読書でもしようと適当な本を手に取り読んでみたものの、普段全くといっていいほど読書をしないためか集中力が続かない。プロローグの時点で欠伸が出て、梨花はテーブルに頬杖をつく。そのまま読書をするでもなくボーッとしていたが、約束の時間を三十分ほど過ぎたところで我慢の限界を迎え、その場から立ち上がった。そして司書の先生から見えない死角となっている奥の本棚へ移動すると、いそいそと上着のポケットから携帯を取り出した。
(ったく、もう!)
 人のことを呼び出しておいて全く姿を見せない悠人に、梨花はガツンと言ってやるつもりだった。もちろん小声で。けれども、それよりもワンテンポ早く携帯が震えたかと思えば、その画面に表示された名前を見てすぐさま通話のボタンを押した。
「悠人、あんた人の」
『おい梨花、さっき響がお前のこと探して俺んとこ来たぞ。お前今どこにいるんだよ』
 言おうとしたことは悠人の声に重なってしまい不発に終わる。しかも梨花との約束をすっかり忘れているらしいその言葉とあっけらかんとした言い様に、梨花の怒りはますます募った。
「私のこと図書室に呼び出したのは悠人でしょ」
『はぁ? 何言ってんだよ、俺がいつ梨花のこと図書室に呼び出したってんだよ。もう部活始まるっつーの』
 悠人の口調は、嘘をついているようにはまるで思えなかった。
「ちょっと、こんな時に冗談やめてよね」
『いやいや冗談じゃねーし』
「……悠人それマジで言ってるの?」
 じゃあ一体自分はなんの理由でここへ呼ばれたというのだろう。梨花の頭の中を疑問が駆け巡る。昼休みに教室で梨花に伝言だと言った、クラスメイト二人の顔が浮かんだ。どこかぎこちない口調で焦りが伺えたけど、大して気にも留めていなかった。それが今となっては怪しい。
 途端に後ろで何か大きな音がした。ただでさえ陰っていた視界が一層暗くなって振り返れば、目の前の本棚が梨花の方へと大きく傾いていた。突然の出来事に不思議なほど身体が動かなくて、梨花はただ頭のどこかで「潰される」とだけ思った。
「りっちゃん!!!」
 迫ってくる本棚を呆然と見つめて立ち尽くしていたその一瞬に、聞き覚えのある声で名前を呼ばれた気がした。それが誰なのかは確認出来ないまま、梨花はギュッと固く目を瞑った。
 がっしりとした木製の本棚が倒れる音と、重量のある厚い本がドサドサと床へ落ちる音。図書室中に響いたその大きな音に先生や生徒が慌てて駆け付けたが、当然間に合うことはなく、梨花は巨大な本棚の下敷きになってしまった。
「あなた達大丈夫!? どうして本棚が……!」
 酷く慌てた先生の声と、図書室にいたらしい数名の人達の動揺する声が聞こえる。どこか他人事のようにそれを聞いていた梨花だったが、自分の身にある違和感に気付いた。本棚につぶされたはずなのに、身体のどこにも痛みがなかったのだ。本棚の重みすら感じない。不思議に思い、梨花は強く瞑っていた瞳を恐る恐る開く。
 そして、ほの暗い視界に飛び込んできた光景に梨花は目を疑った。
「響君!?」
「……っ……」
 床に両手を着いて、背中で本棚を受け止めている響の姿がそこにあった。本棚が倒れるあの一瞬の間に、響が梨花に被さって庇ってくれたというのか。そんな、まさか。
 頑丈な作りの本棚はとても大きくて重たくて、人一人の力では到底どうにも出来ないほどだ。そんな本棚を両手の力と背中で支えるだなんて、よほど体格の良い人でなければ出来る芸当ではないし、なにより梨花の中の響のイメージとはあまりにもかけ離れていた。
「響君、うそ……どうして!?」
 梨花が驚きのあまり声を張り上げると、響の頭から流れ出た血が梨花の頬にぽたりと伝い落ちる。本棚が倒れた時に、本の角が当たったのかもしれない。それを見て梨花はさらに困惑した。
「ちょっ、響君血が……!!」
 突然の出来事にオロオロしている梨花に対し、響はいつものように微笑んで「大丈夫」と言った。今の状況にはまるで不相応な微笑みだった。こんな重量感のある本棚と大量の本の下敷きになったのだ、大丈夫なわけがないのに。
 騒ぎを駆け付けてきた先生達が本棚を立て直そうとすると、響も本棚の下から棚を押し上げて助力する。今まさに潰されていたとは思えないほどの機敏な動きと力に、梨花は驚くことしか出来なかった。
 何事もなかったかのように平然と立ち上がった響は、梨花に手を差し伸べる。
「りっちゃん、立てる? 怪我してない?」
「わ、私は全然無事だよ! それよりも響君の方が」
 自分なんか庇う必要なかったのに、どうして。梨花が続けざまにそう言おうとすると「良かった」と、響がこれ以上ないくらい嬉しそうに微笑むので、梨花は何も言えなかった。
「本当に良かった、りっちゃんが無事で」
 心底ホッとしたような声で、響は梨花の頬に触れてくる。とても大事なものを愛おしむような優しい目で、響は梨花を見つめていた。その瞳に込められたとてつもない熱量に梨花はぞくりとする。
「もう大丈夫。りっちゃんは、俺が守るから。傷一つ付けさせない」
 常の響らしからぬ言動に黄色い声を上げる女子生徒の声も、気まずそうにゴホンと咳払いする先生の声も、何一つ梨花の耳には入らなかった。
 それくらい目の前の幼馴染が衝撃的だったのだ。何も考えられなくなるほどに。
 けれどそれも、響の頭からなおも流れ続ける血を見て我に返った。今はとりあえず響を保健室へ連れて行かなければならないと、止まっていた梨花の思考が働き出す。
「とっ、とりあえず響君、保健室に」
 だが、その先の言葉は出なかった。先ほどまで優しく微笑んでいた響が、今度は真逆の、険しい顔をして窓の外を睨んでいたからだ。明らかな不愉快さを滲ませ、敵意を持った響の顔つきに梨花は一瞬で気圧される。
 響の視線の先へつられるように梨花も目を向ければ、隣の校舎からこちらを見る神崎と桐沢の姿があった。なぜ二人があそこにいるのかなんて、この時の梨花にはさしたる問題ではない。それよりも気になったのは、あの二人を見る響の異常なまでの目の冷たさだった。
 誰よりもよく見知っていたはずの幼馴染が、なんだか梨花の知らない人のように見えた。