第8話 初恋エレジー [上]


 桐沢誉が柊響──といってもエリカの方だが──と知り合ったのはかれこれ中学の頃である。
「あ、あの……っ、もし迷惑じゃなければ、ぼ、僕と友達になってくれませんか……!?」
 決して誇張などではなく、このとき桐沢は一生分の勇気を使った。否、使い切った。
 友達でも、ましてや知り合いでもない女の子に突然話しかけ、あわよくば「友達になってください」なんて、当時の(今もあまり変わっていないが)真面目な桐沢からは考えられないほど思い切った行動だった。
 運命の人に出会うと身体に電流が走るというが、今思えば桐沢はまさにそれだ。エリカがその運命を感じたかどうかはさておき、桐沢の方は一目惚れだった。
「友達? エリカと?」
 キョトンと目を丸くしたエリカは、辺りを見回すと自身を指さす。その仕草は可愛らしく、声は高くどこか甘さを帯びていて容姿によく合っていた。
 桐沢はただでさえ赤かった顔をさらに赤らめて無言で頷く。
「キミ、友達いないの?」
「そういうわけじゃないけど……。いや、少ないかな……なんか僕真面目すぎてつまらないらしいから距離おかれてるっていうか」
「確かに。キミすごく真面目そうだもんね、見た目も地味だし」
「結構はっきり言うんだね……」
 先生達からも真面目な優等生で通っている桐沢は漫画を読むこともゲームをすることもなく、流行りの音楽やテレビ番組だってあまり知らない。だから同級生と話していてもいまいち盛り上がりに欠けるのだ。そのせいか、勉強では頼られても休日にクラスメイトから遊びに誘われることなどほとんど無かった。
「図書館は本を読みに来るところでしょ? 友達を作るところじゃないよ。エリカは勉強で忙しいの、友達が欲しいなら別のところで探したら?」
「違う! 僕は、君と友達になりたいんだ」
 もっともなことをエリカから言われても桐沢は引かなかった。
 相手の身になって考えてみても、正直桐沢の行動は気持ち悪いと思われても仕方ないかもしれない。だがここで頑張らないと後で後悔するような気がして、桐沢は己を奮い立たせる。
 学校帰りにたまに寄っていた私立図書館で見つけた女の子・エリカ。桐沢はエリカを初めて見た時、天使かと思った。なんて可愛い子だろう、と。
 ふわりとした薄茶色の髪の毛は肩下ほどで緩くパーマがかかっていて、少し長めの前髪に隠れた人形のように長い睫毛。花の色の唇に柔らかそうな白い肌、すらりとした四肢、全体的に華奢な身体。同世代では初めて見るくらい美しい子だった。
 エリカは時折ふらりと図書館へ現れては、窓際の隅の席に腰掛け閉館ぎりぎりまで本を読んでいた。医療関連に興味があるらしく、医療ドラマの原作小説や人体の本、医学書などをよく読んでいる。
 エリカは桐沢の言葉に訝しむこともせず、丸い目をして花のようなかんばせをコトリと傾ける。
「どうしてエリカと友達になりたいの?」
 当然の疑問に桐沢は言葉を詰まらせた。馬鹿正直に「好きだから。一目惚れしました」なんて言っては気持ち悪がられて一生会えなくなってしまう可能性が高い。まずは友達からでなければならない。じゃあどうすれば。エリカの望む答えを桐沢は必死で探す。
 魚のように泳ぎ回る桐沢の視界に、エリカの読んでいた本が飛び込んだ。
「えっと、僕も医療に興味があって、だから、色々お話出来たらなって……思って」
「本当っ!? いいよ、友達になろ!」
 驚くほどの即決だった。苦し紛れの桐沢の嘘は、エリカにとって満点の回答だった。パッチリと見開かれたエリカの双眸が喜びの色に染まってキラキラしている。それを間近で見た桐沢の心拍数は一気に上昇した。
「うっ……可愛すぎる……」
「えっ? どうしたの?」
「いや、なんでもない……!」
「私の名前はエリカ。中学1年。将来の夢は医者になること」
「ぼ、僕は誉! 桐沢誉。中学2年。僕も医者になりたくて……」
「そうなんだ! エリカ、歳の近い友達いないから誉君が友達になってくれて嬉しいな。夢も一緒だなんてすごいすごい! よろしくね」
 とっさに嘘を吐いてしまったことに桐沢は若干の罪悪感を覚えたが、エリカの零れんばかりの笑顔を見ているとそんな気持ちもすぐに霧散した。
 エリカと友達になって以来、桐沢は放課後になると足繁く図書館へと通った。
 そして時間の許す限りをエリカと共に過ごした。
 隣りに座って本を読んだり、お互いにオススメの本を交換したり、一緒に宿題や勉強をしたり、休憩スペースで話をしたり、友達らしい時間を過ごしていくうちに桐沢はエリカの新たな一面を知っていく。
 エリカは「友達がいない」と言っていたものの、とても人懐っこい性格で明るく、よくしゃべり、よく笑う子だった。いつも桐沢が図書館へ姿を見せると屈託無く微笑んで迎えてくれる。たまに見せる茶目っ気のある笑い方も好きだった。エリカは会う度に色々な顔を見せてくれる。
 桐沢はのめり込むようにエリカに夢中になった。
「そういえば、エリカってどこの中学に通ってるんだ? 僕と同じじゃないよね?」
「え? ……隣町の藤川中学校だけど……どうして?」
「だっていつも私服だから。僕は学校帰りに寄ってるから制服だけど、エリカの制服姿って見たことないなと思って」
「誉君、エリカの学校には絶対に来ちゃダメだからね。来たら絶交だから」
「ぜ、絶交……」
 あわよくばエリカの制服姿も見てみたいという桐沢の下心を見透かしたように、エリカはあっさりと一刀両断した。
 エリカの私服姿だってもちろん魅力的である。カジュアル系やガーリッシュなものが多いが、何を着てもよく似合っていて本当に可愛い。今日の、白の半袖パーカーにクロップドパンツという簡素な恰好ですらエリカが着ると輝いて見えた。髪の毛は低い位置でサイドテールにされている。
「そういえばもうすぐ中体連だねぇ。誉君って部活動何かしてるの?」
「僕は写真部に入ってるよ」
「ふーん……」
「エリカ、今『地味だなぁ』って思ったでしょ」
「そっ、そんなことないよ〜! 誉君らしいなぁって思っただけ。写真部って中体連とかあるの?」
「ないよ。でも学校行事とか部活動の試合とかの写真撮影が活動内容に入ってるから、中体連にも撮影班として参加してるよ。なんだかんだで一番大変な時期かな。暑いし」
「中学校で写真部があるって珍しいね、さすが名門付属校って感じ」
 感心するように言ったエリカに、桐沢は眉を下げて苦笑した。
「エリカが言うと嫌味だなぁ」
「ん? どうして?」
「だって君、僕より勉強出来るからさ」
 エリカは桐沢よりも一つ年下のはずなのに、なまじ桐沢よりも勉強が出来た。学校の先生達からも「真面目な優等生」で通っている桐沢はもちろん成績にも自信があったし、テストでは毎回上位三位以内をキープしている秀才だ。
 だからこそ、図書館で一緒に宿題をやりつつエリカが分からないところがあれば教えて『頼れる年上アピール』をしたかったのだが、その計画はあっさり崩れた。桐沢が解くのに苦戦していた数学の問題を隣にいたエリカがあっさり解いてしまった挙げ句、分かりやすく解説までしてくれたのである。
 その夜、桐沢は自分の部屋で静かに泣いた。
「あはは、エリカ勉強しか取り柄ないから」
「あれだけ出来れば十分だよ」
「誉君も、分からないところがあったら聞いていいからね。中学の範囲ならもう終えてるから大丈夫だよ」
「そうなんだ……」
 本来であれば自分が言いたかった台詞を、年下の、それも好きな女の子から眩しい笑顔で言われるとは。桐沢はエリカの笑顔を直視することが出来ず、ちょっと泣きたい気分になったがメガネのブリッジを上げることで誤魔化した。こういうときメガネは便利である。
「ところで、エリカはどうなんだ? 部活やってるの?」
「エリカは帰宅部だよ。だから中体連は応援係」
「どこかの応援に行く予定はある?」
「まだ決めてない」
「そうか……エリカは何のスポーツが好きなんだ?」
「うーん、別にこれといって大好きなスポーツって無いんだけど……最近はサッカーとか気になってるかな。ルールとかもちょっと覚えたくて本買っちゃった」
「それなら、今度の中体連でサッカーの試合の写真を沢山撮ってくるよ」
 エリカの気を引きたくて桐沢が提案すると、エリカは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう! 写真楽しみにしてるね」
 エリカが笑ってくれるだけで、桐沢はいくらでも頑張れそうな気がした。これから少しずつ距離を縮めていけば、友達から恋人になることが出来るかもしれないと淡い想いを抱いてしまうくらい、桐沢はエリカとの仲が順調であると錯覚していた。
 しかし、それからしばらくの間、エリカが図書館へ来ることはなかった。 



「桐沢君、最近元気ないわね」
 一日の授業を終え、教科書やノートをカバンに詰め込んでいた桐沢に声を掛けたのはクラスメイトの神崎まりやだった。神崎とは小学校の頃からの腐れ縁であり、桐沢が一番話す機会の多い友人である。
「別に、そんなことはないよ」
「そう? 最近誰に声掛けられてもぼんやりしてるし、表情も少し固いわ。それに、溜め息ばかりついてるでしょう。前の席だからよく聞こえるわよ?」
「ごめん……」
「別に責めてるわけじゃないわ。何かあるなら友達として相談に乗るけどって話。ほら、溜め息の数だけ幸せが逃げていくって言うでしょう」
「そんなのもうとっくに逃げていったよ」
「あら。もしかして私、傷を抉っちゃったかしら」
 口元に手を当ててクスクスと控えめに笑う神崎は、いかにもお嬢様といった感じで気品がある。神崎の家は代々医者の家系で、両親が総合病院を経営している超が付くほどのお金持ちだ。
 毎日高級車に乗って学校へ来て、執事に身の回りの世話をしてもらい、国内外に別荘をいくつも持っている。そんな生粋のお嬢様育ちである神崎は常に穏やかで纏う雰囲気も柔らかく、年齢の割に大人びた雰囲気を持っていた。
 そして、そのせいかクラスメイトの女子からは距離を置かれることが多く、浮いてしまっていることを桐沢は知っていた。だが、博識で人とは違う感性を持つ神崎の話は桐沢の興味を惹くものが多く、何かと刺激になるため嫌いではなかった。だからこそこうして長く付き合いが続いているのだ。
「神崎は、誰かを本気で好きになったことってあるか?」
「ええ、もちろんあるわよ」
「ちょっと意外だな……あえて聞くけどそれは人間か?」
「……前々から思っていたけど、桐沢君には私がどう見えているのかしらね」
「だって、学校の募金箱に一万円札を突っ込むような女は普通じゃないだろ」
 神崎は世間一般とかなり考えのズレがあることを桐沢は長い付き合いの中で知っている。そんな神崎が好きになったという相手の存在が気になったが、それはまた別の機会に聞こうと桐沢は心に留めておく。
「気になってる子がいたんだ。それで、友達になったんだけど急にいなくなってしまって……」
「連絡先を聞いてないの?」
「……何も教えてくれないんだ」
「友情にもいろいろ形があるものね。それに、その相手の子も何か事情があって、あえて桐沢君には教えていないのかもしれないし。あまり一方的に責めちゃだめよ」
「そんなつもりはないよ。ただ、何かあったんじゃないかって心配なんだ。可愛いから、帰りがけに誘拐されてないかとか……」
「恋人が出来て、今頃は桐沢君の知らない男の人と仲良くやっていたり……なんて?」
 とどめを刺すような神崎の鋭い言葉に桐沢は言葉が詰まった。あえて考えないようにしていたことを第三者に指摘され泣きたい気分になる。
 ショックのあまりガクリと項垂れた桐沢を見ながら、神崎はうっそりと笑った。
「欲しいと思えば思うほど、手に入らないのよね。本当に欲しいものって」
「神崎の家は裕福だから大抵のものは手に入るだろう。君が言っても嫌味にしか聞こえないよ」
「そんなことないわ。私だって少し前に大事な人と引き離されたばかりよ?」
「驚いた。神崎、付き合ってる人がいたのか?」
 この世にそんな物好きな男がいるのなら友人としてお目にかかりたいものだと、桐沢の好奇心が顔を出す。
 神崎は軽くかぶりを振った。
「違うわ、弟よ。腹違いのね。ドラマとか小説でよくあるでしょう、愛人の子よ。少し前に父が突然連れてきたんだけど、私ひと目で気に入っちゃって。ずっと弟が欲しかったから嬉しくて、ちょっと調子にのりすぎちゃったのね……引き離されてしまったわ」
 残念、と神崎は小さく溜め息をつく。桐沢の母親が大好きなドロドロ系ドラマのような話に、桐沢は苦い顔をした。
「ブラコンってやつか。神崎らしいといえばらしいか……。でも、いつも理性的なきみが調子にのるなんて珍しいな。何をしたんだ?」
「セックス」
 桐沢は持っていたアルミのペンケースを床に落とした。ガシャンと派手な音を立ててペンケースの中身が床に散らばる。
「なんて、冗談よ。ただのお医者さんごっこよ」
「いや、その言い換えはどうなんだ……。神崎って、前々から思っていたけどやっぱりちょっと……いや大分おかしいよね。頭が」
「私にそんなこと言うの桐沢君くらいよ。でも、桐沢君からも似たような匂いがするのよね。だから私達なにかと気が合うんだと思ってるけど」
「冗談はやめてくれ」
 お医者さんごっこと銘打って弟を襲うような女と同類にされたんじゃたまらない。桐沢は己の矜持と初恋が穢されたような気分になって頭が痛くなった。
「私でよければ力になるから、困ったことがあれば言ってちょうだいね。友達だもの」
「神崎の力を借りるなんて恐ろしいことにならないよう全力を尽くすよ……。心配してくれてありがとう」
 神崎と話して若干気が紛れたものの、一人になるとどうしても暗鬱な気分になる。
 こうしてエリカと会えなくなって思い知らされた。
 友達になって、桐沢はエリカのことをよく知ったつもりになっていたが、本当はエリカのことを何も知らないのだと。エリカの名字も住所も電話番号も、家族構成も、どうして図書館以外では会ってくれないのか、突然来なくなってしまったのか、今どこで何をしているのかも分からない。
 桐沢は何も知らない。まるであの出来事は全て夢だったんじゃないか、エリカなんて本当はいないんじゃないかと思ってしまうくらい、幸せだった時間はあっという間に消え去った。
 それくらい二人は薄い関係だったということだ。
 桐沢は、初恋に一人で舞い上がっていた自分を嘲笑った。



 写真部として活動している桐沢は、中体連が始まると写真撮影で忙しい。
 これは後で生徒や保護者に販売したり、出来がいいものは学園新聞や卒業アルバムにも使われたりするためだ。だが、真夏の強い日差しの下で延々と学校の選手の写真を撮るというのは過酷なことだとこの時期が来る度に桐沢は思う。
 この日もサッカーの試合を撮影するために運動公園へと足を運んだ桐沢は、自校のチームに軽く挨拶を済ませると時間潰しがてら公園を歩き回る。ついでに何か飲み物でも買っておこうと自動販売機を探していたところで、桐沢は足を止めた。
 日陰になっている木の下のベンチに、エリカが座っていた。
「エリカ!?」
 桐沢はエリカの元まで走ると、その細い腕を掴む。
「きゃっ、ほ、誉君!? やだ、どうしてここに……」
「エリカ!! 良かった、最近全然図書館へ来てくれなかったから何かあったんじゃないかって心配してたんだ。どうして急に来なくなったんだ? 体調でも崩してた?」
 久しぶりに見るエリカの姿に違和感を覚えた桐沢は、以前よりも短くなったエリカの髪に気付く。
「髪、切ったんだね。長いのも可愛かったけどショートも似合うな」
 興奮していた桐沢は矢継ぎ早に話しかけながら、手を伸ばしてエリカの髪に触れた。
「いやっ」
 驚いたエリカは桐沢の手を思い切り払いのけた。そこでようやく桐沢は我に返る。
「ご、ごめん……慣れ慣れしく触ったりして……。会えたのが嬉しくてつい……」
 エリカは何も言わず、気まずい顔をして俯いた。今まで見たことのないエリカの表情に、桐沢は身体中が冷えていくのが分かった。久しぶりに会えて嬉しかったのは自分だけだったのかと胸が痛くなる。
「おーい響!!」
 そんな時、大きな声と共に二人の元へと走ってきた知らない男ーー悠人ーーに桐沢は固まった。
 サッカー部のユニフォームに身を包んだ悠人は、エリカに向かって顔を綻ばせる。
「マジで応援に来てくれたんだなサンキュー!!」
「う、うん……悠人のお母さんがお弁当持たせてくれたよ。『二人で一緒に食べなさい』って」
 桐沢が聞いたことのない少し低めの声でエリカは言い、手に持っていた大きめの紙袋を悠人に見せる。途端に悠人の目が歓喜に輝いた。
「やりー! 後で一緒に食べようぜ!!」
「うん。試合頑張ってね」
「おう!! っていうか、そいつ誰? 知り合い?」
 悠人は桐沢を見やってエリカへ尋ねる。エリカはビクッと肩を揺らした後、桐沢を一瞥すると否定するように両手をブンブンと振った。
「悠人達の今日の対戦校の写真部なんだって。ほらここ日陰だし試合もよく見えるから写真が撮りやすいんじゃないかな」
「ああなるほど。俺らの学校なんて写真部とかないから羨ましいぜ〜。じゃあ響、また後でな。しっかり活躍するから見とけよ! こないだみたいに寝んなよな!」
 太陽のように明るい笑顔を見せて悠人はチームメンバーの所へと走って戻っていった。それを優しい笑みで見送っていたエリカが、視線をそのままにポツリと言う。
「ありがとね誉君。黙っていてくれて」
 それは桐沢の知るエリカの声だった。桐沢はメガネのブリッジを持ち上げ、口ごもる。
「いや……というか色々聞きたいことがあるんだけど何から聞けばいいのかちょっと混乱してる」
 エリカは何も言わなかった。その視線は真っ直ぐサッカーコートへと向けられている。何を考えているのか分からないエリカの横顔を盗み見ながら、桐沢は状況を整理する。
 桐沢と出会った頃は肩下まであったセミロングの髪はそこにはなく、今は中性的なボブカットとなっている。カジュアルだがどことなく男寄りのように見える、ユニセックスな私服。悠人と話している時の低めの声。
 図書館で桐沢と会っている時のエリカは誰がどう見ても女の子だった。だが今のエリカは正直どちらか分からない。いや、初対面であったなら桐沢は確実に男と判断していただろう。女の子が好きそうな『中性的な美少年』だ。
 もしかしたらと、桐沢は背中にじっとりと汗をかく。
 浮かび上がったありえない可能性に心臓がバクバクする。きっかけになったのは、悠人がエリカのことを『響』と呼んでいたからだ。それは桐沢の知らない名だった。
 ごくり。唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。
「エリカは、女の子なんだよな……?」
「誉君はどっちでいてほしいの?」
 間髪入れずに聞き返されて、桐沢は返答に窮する。同年代の子よりも大人びていると周りから言われることはあっても、桐沢とてまだ14歳だ。このときエリカの置かれていた状況を知る術などないし、知っていたところで彼女の望む回答を導き出せるか分からない。
 桐沢が言葉を詰まらせている間にサッカーは試合が始まったらしい。ホイッスルの音がどこか遠くに聞こえた。
「誉君、試合始まったよ。写真撮らなくていいの?」
「え、あ、ああ。そうだった……」
 言われてカメラを手に持つが、集中など出来るわけがなかった。頭の中も心もぐちゃぐちゃである。カメラを持ったまま黙り込んだ桐沢の横で、エリカはジッと試合を見つめていた。
「格好いいなぁ……悠人君」
 呟くように漏れたエリカの言葉に桐沢は頭の中が真っ白になった。カメラを持つ手が震える。足下がぐらりと揺れた気がした。
 今のエリカの言葉に込められた異様な熱量に気付かないほど鈍感ではない。桐沢は疑問を抑える事が出来なかった。
「……エリカはあの男とどういう関係なんだ? 言いたくないなら別にいいけれど……」
「友達、親友……っていうか幼馴染なのかな……よく分からないけど」
「あいつのことが、好きなのか?」
「うん。好き」
 間を置かずにハッキリと認めるところが、エリカの想いの強さを物語っているようだった。
 エリカが真剣な眼差しを向けている先へと桐沢も視線を動かした。そこにはフィールドを走る悠人の姿があった。
「優しくて温かくて、すごく強い人。私といるせいで何度も辛い目とか怖い目に遭ったのに、それでもずっと一緒にいてくれるの。いつも太陽みたいに眩しくて、この人にどこまでも着いていきたいって思うくらい好き」
 まるで告白のようなエリカの言葉は桐沢を打ちのめすには十分すぎるほどだった。ただでさえエリカのことが理解できなくなっているのに、ここにきてエリカの想い人に遭遇するなんて、桐沢はこの時ほど運命を呪ったことはない。
「こんなエリカのこと、気持ち悪いって思う?」
 ようやく桐沢の方を向いたエリカは眉をハの字にして弱々しく微笑む。
 まるでそう言われたことが多々あるような顔だった。その切ない表情に、桐沢の中で何かが切れた。
「そんなこと思うわけないだろ! 僕たちは友達じゃないか!」
 必死な面持ちで声を上げた桐沢を呆けた顔で見ていたエリカだが、その大きな瞳から涙がこぼれる。桐沢はギョッとして慌てふためいた。
「ご、ごめん! 泣かすつもりはなかったんだ、ごめん……!」
「……違うの、誉君のせいじゃない」
「でも」
「ありがとう誉君。友達なのに隠し事ばかりで、嘘もついて、ごめんなさい。言えないことばかりで、ごめんなさい」
 震える肩は細くて、抱きしめたくなるほど弱々しかった。桐沢はふいに伸ばそうとした手に力を入れて踏みとどまる。エリカのことを何も知らない自分に、抱き締める資格などないような気がした。
 今、エリカがどうして泣いているのかも分からないのだから。
「……僕はずっと、エリカのことを大事な友達だと思ってるよ」
 そう伝えることだけが今の桐沢に出来る精一杯だった。



 それはまさに電光石火。心を奪われるのが一瞬なら、失恋するのも一瞬だった。
 告白すらしていないのに、桐沢は生まれて初めての失恋をした。中学二年の夏だった。あのサッカーの試合のあと、学校へ帰ると写真部の部長から「全然写真撮れてないじゃない」と怒られたが、傷心だった桐沢の耳にはなにも入らなかった。
 ショックだった。失恋したことではなく、エリカのことが分からない自分に。
 どうしてエリカが泣いたのか分からない。エリカの隠し事も嘘も桐沢は知らない。そんな桐沢がエリカを抱きしめ慰めたところで一体何になるというのか。
 桐沢は自分の無力さに愕然とした。
「ひどい顔」
 夕方になり誰もいなくなった部室の隅に座り込んでいた桐沢を見つけて、神崎は笑った。桐沢は膝を立てて顔を埋める。
「……一人にしてくれないか。泣きたい気分なんだ」
「男の子が泣くのってすごく興奮するから是非見ていたいんだけどな」
「きみの悪趣味に付き合ってる余裕はないんだ! 一人にしてくれ……」
 こんな時ですらいつも通りの神崎の態度に苛立って、桐沢は怒鳴った。いつも静かで冷静な桐沢がこんな風に声を荒げるのはとても珍しく、余程のことがあったのだろうと神崎は笑みを深くする。
 怒鳴られたことなど気にも留めていない神崎は、桐沢の前にちょこんと腰を下ろした。
「私でよければ話を聞くけど?」
「……分からなくなったんだ、エリカのことが……」
「エリカ……? 例の子に会ったの?」
「会った……ずっと女の子だと思ってた……。でも今日は少し違ってて、髪が短くて、服も男っぽくて、声も少し低かった」
「好きになった子が男の子だったかもしれないってことね」
「もしかしたら、教えてもらった名前も違うのかもしれない……。エリカの幼馴染の樋口って男は彼女のことを『響』って呼んでいた。エリカは樋口のことが好きだと言った」
 今まで相槌を打っていた神崎が黙る。
「本当に僕はエリカの事を何も知らなかったんだ。それどころか、今まで僕の前にいたエリカは全部嘘だったのかもしれないって思ったら、ショックで……どうすればいいのか分からなくて……」
 桐沢の話は神崎の笑い声にかき消された。
 突然大きな声でけたけたと笑い出した神崎に驚いて桐沢は顔を上げる。いつも慎ましく上品に微笑む神崎からは考えられないほどの変貌ぶりに、桐沢は言葉を失った。
 ひとしきり笑った神崎はお腹を押さえながら目尻を拭いた。
「ああ可笑しい。前々から私と似た匂いがするとは思っていたけど、まさかここまでなんて」
 すくっと立ち上がり、三日月のような目で神崎は笑む。そして、とても幸せそうな顔でその名を紡いだ。
「柊響。藤川中学に通う中学一年生。性別は男。最近母親を亡くしたばかり。サッカー部に所属している樋口悠人君が今のところ唯一の友達で、小学校の頃からの幼馴染。ちなみに響君の方は樋口君のことを友達だと思ってるわ。樋口君のことが好きなのは響君の別人格であるエリカちゃんの方ね」
「……な、んでそんなことを知って……」
「不思議でしょう? 誰にも教えるつもりなんてなかったけど、久しぶりに心の底から笑わせてくれた桐沢君には同類として教えてあげる」
 ずいっと、鼻と鼻がくっつきそうなほどに顔を近づけて神崎は甘く囁いた。
「響君はね、私の弟なの。ほら、前に話したことがあったでしょう。私の父と、その愛人との間に出来た義理の弟」
 桐沢は目を見開く。忘れもしない。好きすぎるあまりに神崎が手を出してしまい、それによって引き離されたと嘆いていた義理の弟。
 冷や汗をかく桐沢の頬を両手で優しく包み込んで、神崎は艶やかに微笑む。
「桐沢君が好きになったのが響君なら許さなかったけど、エリカちゃんの方ならまぁいいわ。ねぇ、私の弟はとっても可愛かったでしょう? 魅力的だったでしょう? 触れたくなるわよね。分かるわぁその気持ち」
 その日、絶望の中で桐沢は全てを知った。柊響という少年のことを。響は幼少期のいざこざのせいで二重人格になってしまい、桐沢が知り合ったエリカという子は響の人格の一つであることを。
 そして、エリカが好き好んで桐沢に嘘をつき、騙していたわけではないことも。
「桐沢君、私たち今よりもっと仲良しになれるかも。あなたが私の言うとおりに動いてくれれば、あなたにエリカちゃんをあげてもいいわ。私は響君を、あなたはエリカちゃんを。二人で愛しましょう」
「なっ……何を言ってるんだ君は!! そんなイカれたこと出来るわけがないだろ!」
「出来るわよ。だって桐沢君は私と同じだから。あの子が男かもしれないって気付いた時、引かなかったでしょう? 気持ち悪いと思った? 騙されたって怒った? 違うでしょう。その時点で、桐沢君はもうあの子からは離れられないのよ」
「そんなことは……」
 ないと強く言い切れなかった時点で答えは出てしまっていた。戸惑う桐沢の脳裏に浮かんだのは、嬉しそうに微笑むエリカだった。
 エリカのことが好きだ。だからもっと深く知りたい、色んな顔がみたい。そう思えば思うほど、神崎の呪詛のような言葉が桐沢を支配する。
「ねぇ、私が親から弟を取り戻すのを、手伝ってちょうだい」
「……僕は何をすればいいんだ……」
 声を絞り出した桐沢に、神崎は醜悪に笑った。