第6話 少年少女の罪と罰


 エリカの存在を知った時もそれは驚いたが、そう間を置かずして再び驚かされることになろうとは、梨花自身思ってもみなかった。
 今後も響とエリカの二人には色々驚かされるのかもしれないと思うと、今からこんなことで驚いても疲れるだけだ。けれど、それでもやっぱり目の前に広がる光景に梨花は目が離せなかった。
「りっちゃん……」
 響がとても不安げな声色で梨花の名前を呼ぶ。
 響からの連絡を受けて向かった先、道すがら少々の困難はあったもののなんとか梨花と響は会うことが出来た。そこまではいい。
 だが、梨花が驚いたのは響のその姿にあった。
(だめよ梨花、笑っちゃだめ……!)
 目の前の光景に慣れてくると、今度は笑いがこみ上げてくる。今にも吹き出しそうになる自分を必死で堪えて、梨花は至ってポーカーフェイスを気取りながらも響を見つめた。
 薄めに顔を彩っている控えめな化粧は、何もしなくても綺麗だった顔をより一層引き立てていた。耳には小さな可愛らしいピアスが光っていて、これも存在を主張せずかえって上品さが滲み出ている。きっとセンスがいいのだろう。短かったはずの髪の毛は異様なほど伸びていて、それがエクステかウィッグのせいだと気付いたのはすぐのことだ。
「……えっと、りっちゃん……」
 一体どこに行っていたのかと聞きたくなるような、可愛いリボンのついた黒のパーティードレスを身に纏い、肌の露出を抑えるようにシルバーのストールを羽織っている。スカートの丈は膝が見える程度に短めで、そこからすらりと伸びる長い足は白くて細く、異性のものとはとてもじゃないが思えない。
「これは、その……」
 ピアスといい、首もとで光るチョーカーといい、エリカはこれらを一体どこに隠し持っていたのか気になるところだ。フリルのついた可愛いパンプスなんて、梨花の方が欲しくなってしまったくらいである。
「……りっちゃん?」
 響の佇まいのあまりの違和感の無さに、エリカの本気度が垣間見えた気がして梨花は顎に手を当てて感心してしまう。無論、今はそんな場合ではないのだが。
「りっちゃんってば!」
「へっ?」
 あまりにも集中して見ていたせいで外界の音が全く聞こえていなかった梨花は、響の呼びかけで慌てて我に返る。先程までの梨花の熱い視線が堪えたらしい、響はとても恥ずかしそうに顔を俯かせ、目を逸らした。
「……ごめん、恥ずかしいからそんなに見ないで……」
「あっ、ご、ごめん。……あまりの凄さと違和感の無さについ……」
 目の前にいる幼馴染はまるで別人のようで、とても男とは思えない。おそらく、街中で擦れ違っても梨花は響だと気付けないだろう。頬を染めて恥じらう仕草がまた女の子のようで、梨花は女としてちょっと彼が怖いとさえ思う。
 響は今、誰がどう見ても女の子だと勘違いしてしまうような風貌で梨花の前に所在なさげに立っていた。
「言っても信じてもらえないかもしれないけど、俺にこんな趣味ないから……」
 梨花の反応が怖いらしく、響はひとまずそう言った。
「それに、こんな恰好した覚えなんて全然ないし、……信じてもらえないかもしれないけど……俺、こんなの知らないっ」
 目が覚めたら自分の知らない場所にいて、そこがよりにもよってホテルのベッドの上で、そのうえ自分は異性の服を纏っている。そんな状況に突然遭遇してしまったら誰だってパニックになるだろう。そんな中で、梨花に素早く連絡をとってくれた響を褒めたい気持ちになりながら、梨花は「うんうん」と頷いて響の言い分を聞いていた。
 響は先ほどから梨花の方を見ようとはせず、反応を恐れて顔を伏せている。
「本当に俺っ、こんなの」
「うん、分かってるよ。響君はこんなことしないって、ちゃんと」
 他の誰でもない、エリカの仕業だと分かっていたから梨花はすぐにそう返す。でもエリカの存在に気付かないまま響のこんな姿を見せられたら、梨花だけじゃなく誰だって、響は女装癖があると誤解してしまうに違いない。
 梨花の言葉に響はようやく顔を上げて、必死な面持ちで弁解する。
「ほんとに俺こんなの知らないんだ! 気が付いたら、こんな……」
「だから分かってるってば。とりあえず家に帰ろっか。そんな格好じゃ風邪ひいちゃうかもしれないしね」
 響としてはまだ言い訳をしたいところだったのだろうが、梨花はその辺りの事情は理解出来ているため不要だった。そんなことを知らない響は腑に落ちない顔をして梨花の言葉に従い、二人で一緒にタクシーに乗り込む。
 乗り込んだタクシーの運転手である優しげなおじさんから「美人な女の子二人だとやる気が出る」と嬉しそうに言われて、梨花は笑って流したのだが響はムッとしてそのまま俯いてしまった。なんかもう色々とご愁傷様だ。



「さ、上がってどうぞ。その辺の椅子に座ってて」
 梨花のマンションへと一旦戻り、響を部屋へ上がらせる。梨花が促したまま響はテーブルの椅子に腰掛けて、未だにかなり凹んだ面持ちだった。精神的なショックが大きかったらしく、顔色もあまり良くない。こんなことが起こればそうなってしまうのも無理はないと、梨花は響を少し同情してしまう。
「ごめんねりっちゃん。こんな遅くにあんな所まで……。タクシー代、明日ちゃんと返すから」
「いいよタクシー代なんて気にしなくても」
「よくないよ、ここから結構遠かったのに」
 結局、響がいたのは隣県のとある町の、キャバクラやホストクラブ、スナックがずらりと並ぶ歓楽街だった。タクシーでも片道二時間はかかった。しかも響は、自分が目を覚ましたのはホテルだと電話で言っていたものの、問い詰めてみるとラブホテルだったと苦々しく白状した。こんな怪しい店が並ぶ歓楽街に、まっとうなホテルなんてあるわけがない。
 そしてこうやって二人で帰ってきた頃には、時計はすでに0時を過ぎて日付が変わっていた。
「さてと。とりあえず化粧落とさないとね」
 響は化粧の落とし方なんて知らないだろうし、エクステやウィッグの取り方なんてもってのほかだろう。まずは彼の身なりをなんとかしなければと梨花は腕まくりして、響の顔をまじまじと見た。
「ほんとすごいわねコレ……私よりずっとメイク上手いし」
「り、りっちゃん顔近い! そんなに見ないでってば」
 梨花の視線から逃れようと、耳まで真っ赤にした響は腕で顔を隠してしまう。そういう態度をとられるとなんだか加虐心がそそられてしまい、梨花は少しウズウズした。
「ちょっと、なんで隠すの」
「りっちゃんがジロジロ見るから。俺いやなのに……」
「それじゃ化粧落とせないんだけど。そのまま明日学校行くつもり?」
「……そういうの意地悪だと思う」
 腕を下ろした響は口を尖らせて抗議する。そんな顔をしても可愛いだけなのだが、これ以上からかうのも野暮なので梨花もほどほどにしておいた。
「ちょっと用意してくるから、少し待ってて」
 聞きたいことは色々あったが、ただでさえ自分の出で立ちにショックを受けている響に、これ以上根掘り葉掘り聞くのは不憫だ。諸悪の根源はエリカなのだから、ここは彼女を問い詰めるのが正しいだろう。
 梨花は洗面所へ向かいメイクを落とす道具を持ってくる。コットンにクレンジングを染み込ませて響の目元にゆっくりとなじませると、あっさりと化粧は落ちていった。顔全体の化粧をふき取り終えて、響を洗面所へ連れて行った梨花はぬるま湯を用意して顔を洗うように促す。響は文句一つ言わず梨花の言うことに従い、泡立てた石鹸で更に顔を洗うと化粧もすっかり落ちて元通りの顔になった。
 化粧で化けた顔も似合っていただけに少し名残惜しさを感じて、梨花は苦笑してしまう。
「うん、全部綺麗に落ちたかな」
「ほんとに? ……よかった。ありがとうりっちゃん」
「まだ終わってないよ。このエクステ取らなきゃいけないんだから」
「えくすて?」
 聞いたことのない単語に不思議な顔をする響を、再びテーブルの椅子へ座らせる。彼の頭に付いていたリボンの髪留めを取ると、ふわりと長い髪が下ろされる。
「この付け毛のことよ」
「これ地毛じゃなかったんだ……よかった……」
「……天然なところもほんと昔と変わってないね響君」
 エクステは編み目がかなりきつかったものの、なんとか全部ゴムを切って綺麗に取ることが出来た。あとは身なりをなんとかしなければと、梨花が手渡した大きめのTシャツと黒のジャージを着た響を見て、なんだか一仕事終えたような気分になって息を吐く。
 そんなこんなで響が元の姿に戻ったのは、家に着いてからさらに一時間後のことだった。
「よし、これで元通りよね」
「りっちゃん、ほんとにありがとう」
「いいって気にしないで。それにしても、もうこんな時間になっちゃったね」
 部屋の時計を見ると、もう夜中の3時を回っていた。本来ならすでに眠ってしまっている時間である。こんな時間まで起きていることに梨花が内心驚いていると、響は椅子から立ち上がり申し訳なさそうに顔を沈めた。
「こんな時間までごめん。俺今から帰るからりっちゃんはもう寝て。今日は本当にありがとう。明日なんかお礼するから」
「ちょ、ちょっと待って! 帰るって今から?」
「え? そうだけど」
「あんたねぇ……こんな夜遅くに一人で帰って、もし襲われたらどうするのよ」
 慌てて響の腕を掴んで引き留める。梨花は至って真剣に言ったつもりだったが、響はそれを聞いてきょとんとした後、おかしそうに笑った。
「りっちゃん、俺は男だよ。そんなことあるわけないよ」
「そんなことあるから、私がさっき迎えに行ったんだけどね……」
「大丈夫だよ。自分の身くらいは自分で守れるから」
「元いじめられっ子がそんなこと言ってもね……」
 響が何を言った所で梨花の不安は晴れない。こんな時間に響を一人で歩かせるのはとても心配だ。幸い空き部屋があることだし、今日はここに泊まってもらって、明日朝早くに響の家へ一緒に行って学校の支度をしてもらった方が安心のような気がする。
 そう思っていた梨花の頭に、一つの考えが浮かんだ。
「響君ってあのマンションに一人なんだよね?」
「うん、そうだよ?」
「それならさ、一人暮らし同士、しばらくここで暮らさない?」
「え!?」
 梨花の突飛な提案に響は予想通りの反応をしてくる。梨花の言ったことが信じられないような、驚愕に満ちた顔だ。だが、響と一緒にここに住んでいれば、響と同時にエリカの動向を知ることが出来る。今日のようにエリカが何かしら怪しい行動に出ればそれを事前に止めることも出来るし、そうすれば響の不安も今よりは軽減するかもしれない。響としても、記憶が欠落していてもその欠落部分を知る人がいれば安心なのではないかと梨花は考えた。
 なにより、響とエリカのことをもっと知ることが出来る。
「無理かな? 一緒にいた方がもっと響君のこと見ていられるし、今日みたいなことも事前に防げるかもしれないって思ったんだけど……。あ、何もずっとってわけじゃないからね、あくまでも期間限定だから」
 事はそう簡単なことではないが、そうした方が響のためにも良いような気がした。このままだと、響がいつか不安に押し潰されていなくなってしまいそうで怖いのだ。エリカが響のことを「消えちゃえばいい」と言ったからだろう、こんなことを思って不安になってしまうのは。
 黙ったまま心許ない様子の響へ、梨花は頭を掻いて苦笑した。
「ま、急にこんなこと言われても困るよね。少し考えといてくれればいいかな」
「ううん、違うんだ。りっちゃんの提案はありがたいけど……でもりっちゃんはそれでいいの? 俺なんかと……」
「どうして?」
「だって俺頭おかしいし……よく記憶が抜けるからりっちゃんに何か迷惑かけないか心配なんだ。今日だって知らない場所で変な恰好してたし。……それに俺バカだし頼りないし何やっても駄目だから、いつかりっちゃんが後悔するかもしれないよ」
 自分で言って悲しくなったのか、ただでさえ冴えない響の表情がどんどん陰っていく。もっと自分に自信をもって、物事をプラスに考えることが出来ればいいのにと梨花は思う。けれど、響の今までの境遇を思えばこうなってしまうのも無理はない。
「響君は全然おかしくなんかないって言ったでしょ? それに私がそうしたいの。後悔なんて絶対しないから大丈夫だよ」
 響の不安を掻き消すように強く告げる。これは梨花が自分で選んだ道なのだから、絶対に後悔なんてしたくないし、もちろんするつもりはない。響の傍にいて、なんとかして響とエリカをバランスよく共存させてあげたいと思った。エリカが響のことを嫌っている以上、現状では一筋縄ではいかない問題だ。でも、これが今のところ梨花が出来る数少ない手助けだ。
「それと、響君に一つ謝らないといけないことがあるの。七年前のこと、ごめんなさい。あれ全部私の誤解だった……。響君の言ってることは正しかったのに、何も信じないで色々酷いこと言って……本当に、ごめんなさい」
 深々と頭を下げて謝罪をすると、響は慌てて椅子から立ち上がる。
「りっちゃん、俺気にしてないから! りっちゃんが謝ることなんてない!」
「ううん。私、響君にものすごく酷いこと沢山言った。だからちゃんと謝らせて」
 そう言っても響は落ち着かず、困惑した表情を浮かべるばかりだ。七年前の件に関しては、響は完全に被害者なのだからそんな気まずい顔なんてしなくていいのに。あれは全て、エリカがしたことだったのだから。
 昨日のお昼、自分の仕業だと笑みを浮かべて言ったエリカが梨花の頭を過ぎる。
(ねぇエリカ。どうしてあんなことをしたの?)
 七年前にエリカがしたこと。あれには何か理由があったんだと思いたかった。あんなことをせざる得ない大事な理由が。まだそれほどエリカと沢山話したわけではないが、あの子はそこまで悪い子ではないような気がした。



 家の中から聞こえてくる物音でふいに目が覚めた。
 緩慢な動きで布団の中から手を伸ばしてカーテンを開くと、そこから差し込む眩しい光に梨花は目を細める。まだ目が覚めたばかりのぼんやりとした意識には少々きつい光だ。今日も天気が良いなと呑気に思いながら手元の携帯を見ると、時間はすでに11時を指していた。
「……ん?」
 何度目を凝らして見ても間違いなく11時だ。部屋の時計を見ても11時。梨花の眠気は一気にどこかへ行ってしまった。
「うわ……ありえない」
 学校などとっくに始まっているどころか、もうお昼前だ。寝たのがあまりに遅すぎたため寝坊してしまっていた。まだ編入して間もないというのに、寝坊で学校を休むなんて自分で自分が情けない。
「……あれ、響君?」
 部屋で一緒に寝ていたはずの響の姿が室内のどこにもない。家に帰ってしまったのだろうかと、不思議に思って梨花はベッドから下りた。そういえば、先ほどから部屋の外から聞こえてくるこの物音はなんなんだろう。トントンという規則正しい音と共に、テレビの音声も聞こえてくる。それに導かれるように梨花は部屋を出た。
「あっ、梨花ちゃんおはよう!」
 不審な面持ちでリビングへ顔を出すと、キッチンで料理をしていたらしいエリカが梨花に気付いて元気に挨拶をする。夜中に梨花が化粧を落としてエクステも取ったため姿はいつもの響で、服も梨花が貸したTシャツにジャージのままだ。だが人格が変わるだけでこうも女の子っぽく見えてしまうのは、やはりその人が本来纏っている雰囲気のせいなのだろうか。
 そしてエリカに対して純粋な疑問なのだが、その完璧すぎる女声は一体どこから出ているのだろう。そのうち喉でも痛めるんじゃないかと心配になるような高さだ。まさか朝起きてからの第一声がエリカとは思わなくて、梨花は少し頭が痛くなった。
「おはようエリカ……」
「昨日のお弁当のお礼に、今日はエリカが朝ご飯を作ったよ!」
「お礼もなにも、材料は私の家のものでしょ……」
「梨花ちゃんってば、そんな固いこと言わないの」
 めっ、と叱るように梨花の鼻をちょんと突いて、エリカは可愛らしく微笑む。寝起きにこのテンションはちょっと疲れるかもしれないと、梨花は逃げるようにして洗面所へ向かった。
「ねぇ梨花ちゃん、せっかく休みなんだもん後でエリカと一緒にお買い物しようよ。エリカ新しい服が欲しいの」
「休みじゃなくて、ズル休みっていうのよ今日のはね。それにエリカ、私怒ってるんだからね」
 顔を洗ってさっぱりした梨花はテーブルの椅子に腰掛けると、キッチンで朝ご飯を作っているエリカに向かって言った。けれどもエリカは何のことか分かっていないようで、ひょこっとキッチンから顔を出すなり首を傾げている。
「えー? なにを?」
「なにをじゃなくて、昨日あんな遠くまで行ってラブホで何やってたのよ。おかげで大変だったんだから。ちょっとこっちに来て」
 昨日のことに関しては一言ガツンと言わねば気が済まない。強い口調で呼ぶとエリカは素直に従い、テーブルを挟んで梨花の前の椅子にちょこんと腰掛ける。まるで取調べのような雰囲気だ。
「……あ、これもしかして朝ご飯はカツ丼の方が良かった感じかな?」
「……」
「じょ、冗談だよ梨花ちゃん……そんな怖い顔しないで……」
 梨花の険悪な雰囲気を察したらしい、エリカは両手を振って梨花を宥める。適度に空気は読める子らしい。
「ふざけてないでちゃんと説明して」
「もう、またそうやってエリカのこと怒るんだ〜」
 頬を膨らませてプリプリと怒るエリカを前に、梨花はトントンと指先でテーブルを叩く。
「あんたが怒られるようなことしたんでしょうが。全くもう……何が悲しくて響君の女装なんて見なきゃいけないのよ。似合いすぎて笑い転げそうになったわよ」
「女装じゃないもん。エリカは女の子だもん」
「響君は男の子です」
「でもエリカは女の子だもん」
 そう言い合って睨み合うこと数十秒、先に目を逸らしたエリカはふてくされていた。
「大体梨花ちゃんが悪いんだからね。エリカのこと邪魔者扱いするから」
「そ、それは確かに私の言い方が悪かったとは思うけど……別に邪魔者扱いしたわけじゃないし」
「エリカだってラブホでやましいことをしたわけじゃないし。昨日のことを高藤さんに愚痴ってたら疲れて眠くなってきて、あの辺りラブホしかなかったから仕方なく休ませてもらってただけだもん」
「高藤さん?」
 エリカの口から出た、梨花の知らない人の名前。興味深げに聞き返せば、途端にエリカは嬉しそうな顔をする。コロコロと表情の変わる忙しない子だ。
「高藤さんは、エリカより15歳年上のお友達。大学病院の准教授でね、すっごく優しくて格好良くて頭良くて良い人なの。エリカのことなんでも知ってるし、お友達っていうよりはお兄さんかパパみたいな存在かも」
「大学病院の准教授って……随分と立派な友達なのね。でも、だからってラブホで休むことないでしょ。眠いのなら家帰ってから寝れば良かったじゃない」
「梨花ちゃんってば、エリカが高藤さんに襲われるかもしれないって心配してくれてるの? 大丈夫だよ高藤さんとはもう数年前からの付き合いだし、とっても仲良しさんだから」
「エリカは仲良しでも響君は高藤さんなんて知らないのよ。急にあんなところで目が覚めたらビックリするじゃない。そんなことも分からないの?」
 どこか呑気なエリカの口調に腹が立って、梨花はつい強めの口調で言い返してしまう。するとエリカもムッとして頬を膨らませる。
「高藤さんは紳士だし、エリカの事情をちゃんと知ってるからあの子が出てきても大丈夫だもん。それにエリカ、あの子なんてどうでもいいし」
「『どうでもいい』って……」
 エリカの言い様に困って溜め息を吐いた梨花の脳裏に、昨晩の響が過ぎった。自分の身に起こっていることが何一つ分からず、困惑していた。梨花としては、響にあんな顔はさせたくないし、不安にさせたくないのだ。でも、だからといってエリカの付き合いに口を挟むのもなにか間違っているような気がする。
「高藤さんの他にもそういう付き合いの人っているの?」
「まぁそこそこには。たまにその人達と一緒にご飯食べに行ったり遊んだりしてるよ」
「それって学校の人達?」
「まさか。学校には友達なんていないよ」
 エリカだって彼女なりの付き合いというものがあるのだろうけれど、本人から直接聞かされると衝撃は大きい。たまに昨日のように友達と食事をしているなんて、今までよく昨日みたいなことにならなかったなと梨花は冷や汗を掻いた。
「その友達との付き合いってなんとかならないの?」
「どうして? エリカが自分の友達に会うのって駄目なこと?」
「そうじゃない。会うななんて言える立場じゃないけど、せめてもうちょっと早くに、ちゃんと家に帰って欲しいってこと。心配だから」
「でも梨花ちゃんが心配なのはエリカじゃなくてあの子の方でしょ?」
「うっ……」
 痛いところを突かれてしまい、梨花は言葉を呑み込んでしまう。響のことが心配だから、昨日みたいなことになったらイヤだから、だからエリカに付き合いを少し自重しろという梨花の言い分はあまりに勝手だった。そんなこと言える立場じゃないと自分でも理解していただけに、エリカの反論に何も言い返せない。
「梨花ちゃんはエリカじゃなくてあの子の味方なんだよね」
「別に、そういうわけじゃ」
「ないって言い切れる? 無理だよね。だって梨花ちゃんはあの子の事が好きなんだもん。心はね、どうにも出来ないんだよ……『好き』って気持ちは尚更ね」
 その言葉はまるで、梨花ではなくエリカが自分自身に言っているように聞こえて、梨花は眉をひそめる。
「エリカ?」
 エリカの人差し指が梨花の口に触れる。まるで「話すな」というようなそれに梨花がきょとんとすると、エリカはクスッと顔を綻ばせた。外見は男の子なのに、内面がエリカなせいで妙に可愛らしく梨花の瞳に映る。エリカは椅子から立ち上がるとキッチンの方へ行って、程なくして戻ってきた。
「そんな憂鬱になる話は後回しにして、それよりもこれっ! 見て見てっ、エリカ特製のクラブハウスサンド!」
 じゃーん、と効果音まで口で言うところが少しだけお茶目だ。エリカが差し出したのは、こんがりと美味しそうな焼き色のついたパンの間にベーコン、卵、レタス、トマトが規則正しく挟まっているサンドイッチだった。切られた断面は彩り鮮やかでとても綺麗だ。梨花が数日前に出掛けた時、可愛らしさに惹かれて買った動物のピックが刺さっていて、横にはポテトとパセリが添えられている。料理本にそのまま載っていそうな見事な出来映えだ。
「これ本当にエリカが作ったの?」
「そうだよ。エリカお料理も得意なの。梨花ちゃんちは材料がいっぱいあったから何作ろうか迷ったんだけど、朝だからサンドイッチにしちゃった。あとね、食後のデザートにプリンも作ったんだよ」
 テーブル越しに座ったエリカは「食べて」と言わんばかりにキラキラと瞳を輝かせる。
「ね、梨花ちゃん食べて。エリカ、梨花ちゃんのために作ったんだから」
「……それじゃあ遠慮なく、いただきます」
 食べるのが勿体ないほど見栄えの良い、可愛らしいサンドイッチにかぶりつく。サクサクとしたトーストの香ばしさが最初に広がり、その後にベーコンの程よい塩気とトマトやレタスの甘みが後を追う。マヨネーズ主体のソースも梨花好みの味付けで、見た目もさることながら味も申し分ない出来だった。
「どう? 美味しい?」
 梨花の反応が気になるらしく、ワクワクしながら尋ねてくるエリカはまるで子供のようだ。梨花は少し笑ってしまう。
「美味しいよ、すごく」
「やったー! 梨花ちゃんのために早起きして作ってよかった」
 大げさなまでに喜んでいるエリカを見ていると、正直悪い気はしなかった。エリカはどうにも憎めない性格をしていて、それが人を惹き付けるのだと思う。
「っていうか、早起きしたのなら私のこと起こしなさいよ。そしたら寝坊で学校さぼるなんてしなかったのに」
「だってエリカ学校嫌いだもん」
「それ理由になってないんだけど」
「それに、エリカはちょっと学校休んだくらいじゃ成績下がらないから大丈夫」
「うわ、感じ悪……。そんなだから学校で友達がいないのね」
「梨花ちゃん酷い!」
 そんな他愛ないことを話しながら、梨花はエリカと一緒にのんびりと遅すぎる朝食を摂った。エリカと話していると、まるで女友達と話しているような錯覚を起こす。エリカは明るくて可愛くて、自分の気持ちにとても素直な子だ。そしてやりたいことも、将来のこともちゃんと考えている。将来の展望に対して朧気だった響とはまるで正反対だ。
「そういえば、エリカはどうして私に構うの? だってエリカだって響君と同じで、学校の人達とは話したりしないんでしょ?」
「そうよ。だってあそこはエリカの場所じゃないもの」
「だったらどうして私とはこんな風に話してくれるの?」
 梨花にとっては、エリカよりも響との方が付き合いが長い。そしてエリカは響のことをよく思っていない。それなら響が特に仲良くしている梨花のことだって本来なら嫌っていたっておかしくないのだ。むしろこうやって好意を持って積極的に関わりを持ってくる方に違和感がある。
「ねぇどうして?」
「……梨花ちゃんは、エリカの憧れだから」
「そういうのじゃなくって」
 梨花がキッパリと切り捨てると、エリカは「ダメか」と呟いて不似合いに舌打ちした。そう簡単に教える気はないようで、梨花はお皿を下げるため立ち上がる。ついでにエリカの食器も一緒にキッチンへ運ぶと、ダイニングからエリカの声がした。
「梨花ちゃんに知ってほしいのか知らないでほしいのか、エリカにはまだよく分からないから」
 食器を洗おうとスポンジを手にしていた梨花は、それを聞いて動きを止めた。その一言が、なぜだかとても意味深に聞こえたからだ。気になって振り返ると、エリカは椅子に座ったまま梨花を見つめ、屈託無く微笑んだ。
「でもね、憧れだっていうのは本当だよ」
 エリカの方が遙かになんでも出来るくせに変な話だ。梨花はすぐさまそう思ったものの、自然と顔に帯びていく熱は抑えられなかった。



 先の見えない真っ暗な闇の中、けれど所々に光が降り注ぐ不思議な場所に響はいた。
 光が天からスポットライトのように降り注いでいるけれど、上を見上げても空はなく、何も見えない。普通であればこんな場所にいれば不安になるようなものだが、不思議とそんな気持ちにはならなかった。初めてのようで初めてじゃないような、どこか懐かしい場所。
「ここは……」
 どこだろう。そんなことを思っていた響の目に入ったのは、スポットライトに照らされた一つの椅子だった。白い木製の、少し古ぼけたアンティークチェア。
 そしてそこからさして離れていない距離、直径1メートルほどのスポットライトの中に、見知らぬ少女──エリカ──が立っていた。響は自分以外の人の存在に安心して、ゆっくりとエリカへ歩み寄る。
 エリカは眠るように瞳を閉じていて身動き一つない。クルクルときつく巻かれた薄茶色の髪の毛はシュシュで横結びにされている。響と同じ学校の制服を身に纏い、全体的に長身ですらりとしていた。
(……誰だろう、この子)
 響には見覚えのない子だ。そして響が確認出来る限り、ここには自分とエリカの二人しかいない。
 そうこう考えているうちにエリカはうっすらと目を開いた。エリカは響に気付くなり冷ややかな目を向ける。
「驚いた。今更私に合わせる顔があったなんてね」
「えっ……?」
 まるで自分のことを知っているかのようなエリカの口ぶりに響は戸惑った。同時に響の中からわき上がってくる、異常なまでの既視感。
「……俺のことを知ってるの?」
 恐る恐る尋ねると、エリカは不快感に顔を歪める。
「なぁにそれ、記憶喪失のフリ? 全然笑えないんだけど」
「そういうわけじゃなくて……」
「……支配力が弱まってるからもしやとは思ったけど、ここまで衰えてるなんて……。私を忘れるくらい記憶が薄れているのなら、消えるのも間近ってこと? ああ、こんなこと言ったってあなたには分からないんでしょうけど」
「支配力……? 消える……?」
 エリカの言っていることが何一つ理解出来ないまま響は困惑する。
 エリカと会った時から、響の中でザワザワと胸騒ぎがしていた。思わず響がその場から一歩後ずさると、エリカは間合いを詰めるようにゆっくりと響の方へ歩いてくる。
 自分と同じ高さにある目線。間近で見れば見るほど、エリカと響は似ていた。髪や表情、体つきや服装、少しずつ違うところはあれど、それでもよく似ている。響はまるで鏡を見ているかのような錯覚を起こした。
「君は誰……? 俺とどこかで会ったことがある……?」
 響が言い終わるや否や、耳元でパンッという乾いた音がした。最初に衝撃、少し遅れて左頬に痺れるような痛みが走った。叩かれたことに気付いたのはしばらくしてからだった。
「そうやって……ッ、そうやって何も知らないフリしてればなにもかも許されるとでも思ってるの!? 忘れたなんて、知らないなんて言わせない!! 私から何もかも奪っておいてそんなこと言わせない!!」
 響は怒られるようなことを言ったつもりはなかったし、エリカを怒らせるつもりもなかった。だが響の言ったことはエリカの逆鱗に激しく触れてしまっていた。
「どんなに泣いても叫んでも気付いてくれなかった! それどころか、あなたは……!」
 エリカはまだ何か言いたげだったが、それをグッと呑みこんで俯く。尋常じゃない怒りを滾らせ、それを我慢するようにギュッと手を握りしめる。
 エリカの言うことは響には分からないことだらけだが、エリカが嘘を言っているようには思えなかった。
「……梨花ちゃんってさ、優しいよね」
「え?」
 突然見知った名前がエリカの口から零れて、響は反応する。
 『梨花』は響の幼馴染の名前だ。
「私、梨花ちゃんのこと好きだよ。あの子と友達になりたいってずっと思ってた。優しくて、強くて、格好良くて、美人で、むかつくくらい完璧なんだもん」
「……」
「梨花ちゃんは本当のことを知りたがってる。あの子は昔から優しいから、私のこともどうにか理解してくれようとしてる。そんな梨花ちゃんが本当のことを知ったら、梨花ちゃんはあなたの味方じゃいられなくなるわ」
「本当のことって何……!? りっちゃんに何を言うつもりなの?」
 それだけは聞き流せないほどに、響の中で梨花は特別だった。ようやくまともな言葉を返してきた響にエリカは残酷に嘲笑う。
「私はあなたの罪を全部知ってる。今まであなたがやってきた下劣な行いを、全部間近で見てたもの。私のことは思い出せなくても、それくらいは心辺りがあるでしょう?」
「……それは……っ」
「ほら、不安になった。梨花ちゃんに対して後ろめたいことがあるよね。言えないことが。あなたが私の意志を無視して、勝手に手を、身体を汚したこと」
「ダメだ! それはダメ、……りっちゃんにそれだけは言わないで」
 響の脳裏を過ぎる忌まわしい記憶。後悔こそしていないが、それを大切な人に知られていいかと言われれば否だ。響は拒絶するように首を振り、エリカへ懇願しようと伸ばした手は冷たく叩き落とされる。
「私のお願いは何一つ聞き入れなかったのに、今更それは都合が良すぎない? 私がどんな思いでいたのか、そんなことすら知らないくせに」
 知らない。そんなことを言われても、エリカのことを響は何も思い出せなかった。
 何かを知らせる警告のように響の頭に痛みが走る。身に覚えのないことを言われるなんて昔からしょっちゅうあった。梨花とのこともそうだ。七年前のこと、梨花は「自分の誤解だった」と言って響に謝っていたけれど、それが真実なのかどうかさえも響には分からない。何せ記憶にないのだから。
(どうして……)
 いつもそうだ。自分はどこか不安定で、地に足が着いてない。外見は成長しても内面は空虚。生きているという実感が無くて、どうして生きているのかさえ分からなくなる時があった。常につきまとう生への疑問を振り払いながら今までなんとかやってきたけれど、響の中で答えはまだ見つからない。
「どんなにあなたを責めたところで過ぎてしまった時間は取り返せない。過去はもう、諦めるしかない。でもね、この先の未来だけは絶対に渡さない」
 その言葉の重みと真剣な眼差しに、響はエリカの揺るぎない意志の強さを感じ取る。響には見えない明確な『未来』が、エリカには見えているのかもしれない。
「あなたが私から奪ったもの、これから全部、一つ残らず返してもらうから。そうして私は、本当の自分を取り戻す」
 それだけ言い残してエリカは暗闇の向こうへと消えていった。
 一体彼女は何者だったのか、どうしてあんなにも怒っていたのか、自分が一体何をしてしまったのか。響には何も分からないままだった。
 けれど常々自分に付きまとう疑問の答えは、エリカが持っているような気がした。
 響にはまだ分からなかった。自分が忘れてしまっていることの重要さも。この世界のルールも。自分が大事なものを守るためにかつての仲間達を代償にして秘匿した惨劇も。
 今はまだ、闇の中だった。