第5話 二つの心を持つヒト |
よく晴れた朝、いつもより早く起きた梨花は響の住んでいるマンションの前に立っていた。 言うまでもなく、響と一緒に登校するためだ。前もって約束したわけではないが、昨日の今日で響のことが気がかりで、会って話がしたかった。先日交換したアドレスにメールを送っても良かったのだが、エリカがメールを見てしまう可能性を考えると気後れしてしまい、結局連絡することは出来なかった。 響がマンションから出てきたのは、梨花が来てから20分ほど経った頃だった。梨花が外で待っていることなど露程も知らない響は、マンションの前に立っている梨花に気が付くと驚きに目を丸くした。 「りっちゃん!」 響の声を聞いて梨花はひとまず安心してしまう。どうやら今日の彼は『エリカ』ではなく『響君』らしい。響は梨花のところまで走ってくると、不思議そうな顔をして梨花を見つめた。 「おはよう響君」 「おはようりっちゃん。どうしたの? こんなところで」 「一緒に学校行こうと思って響君のこと待ってたの。ごめんね連絡も無しに……」 やっぱり連絡しておいた方が良かっただろうかと、頬を掻きながら梨花が苦笑して言うと、響は嬉しそうに相好を崩した。 「ううん、俺もりっちゃんと一緒に登校したかったから、すごく嬉しい」 微笑みが眩しいというのはまさにこのことを言うのだろう。昔と寸分違わぬ笑顔を向けられて、まるで童心に返ったかのような気分になった。響のこういう素直なところは昔から全く変わっていなくて、それがたまらなく嬉しい。 胸の奥がほんわかと暖かくなって、梨花も響へ微笑んだ。 「じゃあ行こっか」 「うん! でも、言ってくれれば俺がりっちゃんを迎えに行ったのに」 「いや、確か響君って方向音痴だったよな〜と思って。迷子になられたら元も子もないし」 「それ昔の話だよね!? ……りっちゃんは知らないだろうけど、俺ちゃんと成長したんだよ。この歳で迷子になんてならないし」 「うんうん、でも知らない所に行く場合は私か悠人を誘ってね」 「……りっちゃん絶対信じてないでしょ……」 しょんぼりと肩を落とす響に、梨花はクスクスと笑った。昨日エリカと色々あったせいで心配だったのだが、響の様子を見て安心した。昨日学校では一日中エリカが表に出ていたから、おそらく響は丸一日分の記憶が無いはずだ。そのことで不安になったり動揺しているんじゃないかと心配だった梨花は少し胸を撫で下ろす。 「──ねぇ、りっちゃん」 「ん?」 「もしかして俺、昨日りっちゃんに何かした? 変なこと言ったりしてない?」 苦笑いを浮かべて言った響に、梨花はピタリと足を止めた。 「俺、昨日のこと何も覚えてなくて……。もし一緒に学校へ行く約束とかしてたのなら、待たせちゃってごめんって思って……」 恐る恐るという風に話す響の様子に、梨花は先ほどまでの自分の安心が粉々に砕けたような気がした。 (馬鹿だ、私) 一日分の記憶が丸々無いのだ、不安にならないわけがない。そんな当たり前のことを、響の微笑みを見ただけで軽く打ち消し、安心してしまっていた自分が情けなかった。記憶が抜け落ちていることが、思い出せないことが、どれだけ心を不安にさせるのか、ちゃんと頭では理解していたはずなのに。 何も言わない梨花に対し、響の顔がサッと青ざめた。 「もしかして本当に俺、昨日りっちゃんに何か酷いことした……!? だとしたらごめん、謝るからっ、だから」 「違うの」 「え?」 「響君は何もしてないよ。それに、今日のは本当に私が勝手に響君を待ってただけ。これは本当」 そっと触れた響の手の感触は、昔とは少し違っていた。昔は梨花よりも小さかったはずの響の手は、今は梨花よりほんの少し大きくなっていた。梨花より小さかった背もいつの間にか追い越されて、梨花より僅かに高くなっている。 ほんの少しだけ高い目線にある響の双眸は、真っ直ぐに梨花だけを見ていた。 「響君は昨日ちゃんと学校へ来てたよ。何も変なことなんてしてないし、私ちゃんと見てたから。だから大丈夫だよ。……っていうかごめんね、私がこんな勝手なことすると響君を不安にさせちゃうね。今度からちゃんと連絡するから!」 確たる記憶がないのだから、梨花が何を言ったところで響の不安は拭えないかもしれない。けれど、完全には無理でも、ほんの少しでも不安を取り除く事が出来れば良い。そう思って梨花は響から目を逸らさずに、強く言い聞かせるように続けた。 「今はまだはっきりとは説明出来ないけど、でも大丈夫だから! 私もいるし、悠人だって付いてるよ。だから、何か不安に思うこととか、気になることがあるのなら今みたいにちゃんと話して良いからね」 まだ本当のことをはっきりと響に言えないだけに、どこか説得力に欠けてしまう言葉だ。でも梨花の必死さだけは伝わったらしく、響はふわりと表情を和らげた。 「うん、分かった。ありがとうりっちゃん。りっちゃんは、やっぱりすごい」 「……全然すごくなんかないよ、頼りないし……」 「そんなことない。りっちゃん見てるとね、なんだかすごく安心するんだ」 優しく目を細める響に、梨花の胸はズキリと痛む。素直に喜べないのは、こんな優しいことを言ってくれる響のことを誤解とはいえ傷つけてしまったからだ。酷いことも沢山言ってしまった。なによりも、好きな人を信じなかった自分自身が、梨花は一番許せなかった。 響が知らないと言い張る七年前のあのこと。あれは、ほぼ間違いなくエリカの仕業だ。まだ本人に確認していないため断言こそ出来ないけれど、響はおそらく本当に何も知らない。知らないうちに梨花から嫌われ、別れたことになって、ある日突然梨花がいなくなり一人ぼっちになっていた。響の中ではそうなっているのだ。 なんて惨いことをしてしまったんだろうと梨花は悔やんでも悔やみきれない。一昨日悠人から聞いた響の過去の話も相まって、後悔の文字が強く梨花の心を締め付けた。とにかくも、事の詳細が分かり次第、響に謝らなければ。梨花は心の中で固く決意した。 昔、ちゃんと自分が響の傍にいたのなら何かが変わっただろうか、なんて思ってしまうことは思い上がりだろう。けれど、今自分に向けられている幼馴染の笑顔だけは守りたい。 無邪気に微笑む響を見ながら、梨花は朝の静かな通学路を並んで歩いた。 ◆ 「りっちゃん、これ見て」 「ん? 猫の写真?」 「悠人の家にいる猫で、ギンって言うんだ。中学の頃に悠人と帰ってる途中に見つけた子で、すごくやんちゃで可愛いんだよ」 携帯の画面を梨花に見せて「可愛いよね」と言ってくる響の方が可愛い顔をしているのだけど、と梨花は内心で思ったが口には出さなかった。言うと間違いなく拗ねる。 響はこまめに梨花のところへ来ては話しかけてくるようになり、朝学校へ着いてからも教室で一緒に話をしていた。話したのは昔の思い出話や、今好きなこととか、そんなありきたりな話題ばかりだ。 「へぇ、しましま模様で可愛いね。悠人が猫ってのがちょっと意外だけど」 「でしょ! 本当は俺が飼う予定だったんだけど、悠人から『お前は自分の面倒すら見れないから無理だろ』って言われて取られたんだ。意味分かんない上にちょっと酷くない?」 「あははっ、何それ超うける! 確かに!!」 「いや、りっちゃんまで……もうっ!」 あまりにも的を射た悠人の言葉がツボにはまって爆笑していた梨花に、響は拗ねたようでムッと顔をしかめた。響が積極的に話す姿がよほど珍しいのか、教室は朝から少しざわついていた。別のクラスの人達が廊下から物珍しげに伺っていたほどで、そんな周りの好奇な目線に慣れるのにはまだまだ当分かかりそうだと、梨花は内心微妙な気持ちになった。 (そういえば、今日はまだ出てきてない……) 梨花の前で楽しそうに話をする響を見ていたらとても安心出来るけれど、昨日出会った響のもう一つの人格である『エリカ』のことが頭の片隅でちらつく。どういう条件で彼女が表へ出てくるのか、何が目的なのか、知りたいことは沢山あった。だが、今は響に出来る限り気付かれないようにしなければ。 「そういえば次移動教室だったっけ。私まだ校内あんまり覚えてないからさ、響君一緒に行ってくれない?」 次の時間は化学だ。腕時計を見ながら梨花が言うと、響は快く頷いて自分の席から教科書を持ってくる。嬉しそうな響とは対称的に、響のことを待っていた取り巻きの子達は酷く不満げな顔つきだった。彼女達の怒った様子にあえて気付かないふりをしながら、廊下を歩いていた梨花はなんとなしに響に尋ねた。 「ねぇ、響君のファンクラブってなんとかならないの?」 昨日エリカにも同じことを言ったが、彼女からは「どうにもならない」とはっきり言われてしまった。エリカはファンクラブに全く興味はないようで、めんどくさそうな感じだった。だが、客観的に見てもこのままでいいとは到底思えない。 「うーん……」 響は困ったように曖昧な返事をする。この様子ではあまり返事には期待出来ないなと、響が返答するより先に梨花はなんとなく察してしまった。 「なんとかならないわけでもないけど、出来ればあんまり関わりたくないんだ。そのうち勝手に解散するかもしれないし、卒業まで放っておこうかなって……」 「卒業までって……あと一年半もあるじゃない。それまで毎日付きまとわれるのってうざくないの?」 「確かにそれは困るんだけど……」 響を不安にさせるだけなので梨花はあえて言わなかったが、ある程度の規模を持つファンクラブになると「卒業して終わり」なんてことにはならなさそうだ。過去にストーカー被害に遭ったことのある響だからこそ、尚更それが気がかりだった。人間、何がきっかけで性格が変わるかなんて分からない。 「でも、悠人からも『出来る限りファンクラブに関わるな』って言われてるし」 「悠人から? なんで悠人がそんなこと言うの」 「……色々あったから、心配してくれてるんだと思う。それに俺、りっちゃんと悠人がいてくれればそれでいいし他はどうでもいいんだけど、そういうのってダメ?」 縋るような目でそんなことを言ってくる響に、梨花は「うっ……」と言葉を詰まらせた。世の中の汚いことを何も知らなそうな、透き通った純粋な瞳で訴えかけてくるのはやめてほしい。響がそこまで強く想ってくれていることは正直嬉しい。けれどそれでいいのかと言われれば良くないに決まっている。梨花は誘惑をグッと堪えて言い返した。 「だ、駄目に決まってるでしょ! 友達は多いに越したことは無いし、第一今そんなんじゃ社会人になった時どうするのよ。将来的にきつすぎるでしょう」 「社会人……将来……」 どこか遠いもののようにぼんやりと響が呟くものだから、梨花は「本当に大丈夫だろうか」と心配になった。周りが言っていたように、響は本当に梨花や悠人以外の人達とは話したがらない。悠人はそれを昔のいじめや、中学の時のストーカー事件がきっかけだと言っていたが、おそらく他にも何か原因がある。それに、エリカの存在も少なからず関係しているに違いない。 「ファンクラブはさておき、もう少し周りと接した方がいいんじゃない? クラスにも良い人は沢山いるし、私も悠人もいるから、ね? これから少しずつ慣れていこうよ」 「うん……」 あまり乗り気では無さそうな、浮かない顔をして響は微笑む。そのまま二人で話しながら化学室へ向かっていた時、前方から歩いてきた見覚えのある二人に梨花は目を瞠った。 (神崎先輩と、桐沢先輩、だったっけ……) 神崎と桐沢は一足先に梨花達に気付いていたようで、神崎は柔らかく一笑する。このまますれ違うだけじゃ済まないだろうなと思っていたら、案の定、梨花と響の前で二人は立ち止まった。 「こんにちは、橘さんと柊君」 「こんにちは、神崎先輩、桐沢先輩」 梨花が挨拶を返すと桐沢は目を逸らし「ああ」と低めの声で言葉を返した。その愛想の無い様子に、相変わらず無口で頭の硬そうな人だと梨花は心中でこっそりと思う。だが、そんな二人に挨拶も返さず無表情となった響も、負けじと失礼な態度であった。 神崎は響の様子を見てとても残念そうに苦笑した。 「とても楽しそうだったのに、邪魔してごめんなさいね柊君」 神崎が謝っても、響は何も言わずに梨花の横に立ったままだ。神崎はそんな響にはもう慣れているようで、全く気にする素振りもなく微笑みかける。 「でも、出来れば私達にもああいう素敵なお顔を見せて欲しいわ」 そう言って響へ向けて伸ばした神崎の手が、触れるか触れないかのところで響はやんわりと拒むように避けた。そして響は梨花の手を引いて優しく声を掛ける。 「りっちゃん、授業始まっちゃうから行こう」 「えっ、あ……」 「早く行こう」 いくら響が良くても、流石にこれはまずいんじゃないかと内心ハラハラしていた梨花だったが、おそるおそる振り返ると神崎は微笑んで手を振っていた。どうやら気にはしていないようで、梨花はホッと安堵する。 「ちょっと、響君ってば」 少しばかり早歩きで廊下を進む響に梨花は戸惑って声を上げた。先輩達との邂逅で響が何を思ったのか定かではないが、響は手近な空き教室へと入ると振り返って梨花を見つめた。彼は元気無く眉尻を下げ、ひっそりと佇む。 「響君どうしたの? 先輩達にあんな態度とって……」 「りっちゃん」 「うん?」 「俺のことは気にしなくていいから、ファンクラブの人とは絶対に関わらないで。……りっちゃんにもしものことがあったら、俺……今度こそ何をするか分からない」 どこか不穏さを含んだ、意味深な言葉だった。梨花は怪訝に思って聞き返す。 「『今度こそ』ってどういうこと? 前に何かあったの?」 「……去年の今頃、色々あって……その時、俺のせいで悠人にすごく迷惑かけて……。それこそ、絶交されても仕方ないくらいに」 「色々、ねぇ……それは聞いてもいいの? 詳しく話してくれないと、私も納得出来ないよ。それに、ファンクラブの人に関わるなってことは、今みたいに響君と一緒にいたら駄目ってことにもなるよね。だってこうやって私が響君と一緒にいるのを、ファンクラブの人達が良しとすると思う?」 響と梨花が仲良くすることで、必然的にファンクラブの人達を不快にさせている。それはファンクラブに全く関わっていないと言えるのだろうか。悠人は男だからそこまで目の仇にされることはないのかもしれないが、異性で、それも幼馴染である梨花はそうもいかない。もちろん、そんなものに屈するほど弱くはないと梨花は自負しているが。 梨花の言い分に何一つ言い返せない響は困ったように言い淀む。 「それは、そうかもしれないけど……でも俺りっちゃんと一緒にいたい……」 「そういうとこ、矛盾してるよ」 「ごめん……」 「まぁここで延々考えるのもアレだし、とりあえず授業始まっちゃうからもう行こう。続きはまた後で」 「うん……。ごめんねりっちゃん……俺が頼りないせいで……」 「もう、いちいち謝らなくていいよ。それにこういう時は『ごめん』よりも『ありがとう』って言ってもらえた方が嬉しいものなのよ」 相変わらず沈んだ表情をしている響へ、梨花は苦笑しながら人差し指を伸ばして、彼の眉間をツンと突く。 「とりあえず、化学の授業が終われば昼休みだし、屋上で一緒にお弁当食べよ。話はその時にね」 「うん! ありがとう、りっちゃん」 ようやく笑顔を見せてくれた幼馴染に、梨花は表情を和らげる。思慮が浅いとはいえ、響なりに梨花のことを心配しての言葉だったのだろう。しかし、響があそこまで言うほどのことがファンクラブとの間にあった事を考えると、梨花は多少強引にでも悠人や響に事情を聞かなければならないような気がした。 「じゃあ授業終わったら売店でなんか買ってから行くね」 「あっ、飲み物は良いけどその他は買わないでね」 「え? どうして?」 「いいから。お昼になってからのお楽しみ」 不思議そうに首を傾げた響へ、梨花は得意げに笑みを零した。響と一緒のお昼。これで今朝の頑張りが無駄になることはなさそうだと梨花は内心ホッとした。 ◆ 昼休みになると、梨花はお弁当を持って屋上へ向かった。 響は売店で飲み物を買ってくると言っていたため、梨花の方が響よりも一足先に辿りつく。いつものように給水タンクの日陰に腰掛けて、梨花は少し大きめのランチバッグからお弁当箱を取り出した。 (勝手に作っちゃったけど、食べてくれるかな……この間ジュースだけだったもんなぁ……) 一人で悶々としている梨花の手元には、色違いなチェック模様のクロスに包まれたお弁当箱が二つ。今朝、自分のを作るついでに響の分も用意したのだ。小食な彼が食べてくれるかどうかは分からないが、昨日だってエリカは甘い菓子パンばかり食べていたし、響は響で昼はパックジュースしか飲まないとか言うし、正直毎日の食生活が怪しすぎる。せめて、自分がいる時にはもうちょっと栄養のあるものを食べさせてあげたいと思ったのだが、余計なお世話だろうかと今になって不安になってきた。 とはいえ、もう準備してしまったものはしょうがないと梨花は腹をくくって、響が来るのを待つことにした。 (今日も天気がいいなぁ) 流れていく雲の形を見てまったりしていると、突如勢いよく開かれた扉の音に梨花の心臓は飛び跳ねた。何事だと顔を向けると、視線の先にいた響は梨花を見るなりお日様のように眩しく微笑んだ。 「梨花ちゃん!!」 可愛らしい声でそう言ってくるなり、梨花のところまで走ってきて大胆にもギュッと抱きついてくる。あまりにも急なことで梨花は一瞬唖然としたが、すぐ我に返ると慌てて声を上げた。 「ちょっ、あんたエリカ!?」 「あったりー! 梨花ちゃんがお昼一緒に食べようって言ったから来ちゃった」 「いやいや言ってないし……っていうか……」 まさかこのタイミングでエリカが出てくるとは、梨花は完全に油断していた。エリカのことは確かに興味があるし、もっと知りたいと思う。だけど今は、響にお弁当を食べてもらいたかった。当然そんなこと口には出せなかったけれど。 そんな梨花の心中なんて知らないであろうエリカは、梨花を抱きしめたままご機嫌だ。そして彼女は手元にあった二つのお弁当に気付いて目を丸くする。 「梨花ちゃん……まさかこのお弁当エリカの分……?」 (いや、それは響君に作ってきたお弁当なんだけど……) そう言いたかったが、間近でキラキラと期待に瞳を輝かせているエリカを見ていたら、そんなこと言えるはずもなかった。梨花はあっさりと屈服した。 「……そうよ。このあいだ菓子パンばっかり食べてたから、食生活が心配になって作ってきたの」 「エリカのこと心配してくれてたの?」 顔と顔がくっつきそうな勢いで尋ねてくるエリカに、梨花は戸惑いながらも頷いた。 「そ、そう……」 「梨花ちゃん大好き!!」 ギュウッと強く抱きしめてくるエリカに梨花は完全に参ってしまう。けれど、エリカとも話がしたいと思っていたから丁度良かったのかも知れない。そうやって出来るだけプラスの方向へ考えて凹まないようにするが、お弁当を見るとやっぱり気持ちが沈んでしまう。 (ごめんね響君。また作ってくるから……) こうなっては仕方がない。響にはまた明日作って食べてもらおうと、凹む自分を慰めた。 「わーいっ、梨花ちゃんのお弁当」 梨花とは対称的に、エリカは大げさにお弁当を掲げて喜んでいた。その姿は誰が見ても響その人で、響が女声を出し女言葉を使っているようにしか見えなかった。その辺の男だったら気持ち悪さのあまりに殴り倒しているかもしれないが、そういう気持ちを起こさせないところが響の容姿のすごいところだろう。 エリカは鼻歌を歌いながら嬉々としてクロスを解きお弁当箱を取り出すと、わくわくした様子で蓋を空けた。そして中身を見て「わぁっ……!」と感嘆の声を漏らす。 「おいしそう〜! ねぇねぇこれって全部手作りなのっ?」 「そうだよ。私の腕前もなかなかでしょ」 「すごーい! 梨花ちゃんってすごいっ。チーズハンバーグ、コロッケ、ポテトサラダ、ひじき、全部エリカの大好きなものばっかり! それに詰め方もすごく綺麗だし、色彩もバッチリ。梨花ちゃんセンス良い!」 そこまで褒められると悪い気分なんてするわけもなく、とても喜んでいるエリカを前に梨花は照れくさくなって頬を掻いた。さっきまでの凹みようはどうしたと言わんばかりである。 「はぁ〜美味しい〜。手作りのお弁当なんて食べたの久しぶりだよ」 エリカはお弁当をとても気に入ってくれたようで、幸せそうな顔をしてパクパクと食べている。それを見ながら、本当に響とは似つかない性格だなぁと梨花は思った。無邪気で、明るくて、天真爛漫という表現が合いそうな子だ。こんな子がテストで学年首位を取ったりピアノを弾いたり、あんな難しそうな本を読んだりするなんてにわかには信じがたい。でも実際、それらは全てエリカの実力だ。 「梨花ちゃんは美人だしスタイル良いし、頭も良くて、お料理まで上手なんてやっぱりすごい。きっと良いお嫁さんになれるよ。エリカが保証する」 「そ、そうかなぁ……?」 響の姿で言われてもなんだか微妙な気分になるが、褒められるとやっぱり嬉しくて梨花は締まりのない顔をしてしまう。 「──って、違う違う! こんな女友達みたいな呑気な会話をしにきたんじゃないの! エリカに色々聞きたいことがあるし、っていうかなにより響君の姿でその声と口調はやめてってば!」 すっかりエリカのペースにはまってしまっていた自分に渇を入れるように梨花は捲し立てた。しかし当のエリカはどこ吹く風か、ケロッとした様子で笑むだけだ。 「話は後で色々聞いてあげるから、とりあえず今はお弁当食べようよ。そんなに熱くならないで梨花ちゃん」 宥めるようにエリカから言われて、梨花は言葉を詰まらせる。余裕のある様子が余計に腹立たしくて「別に熱くなんかなってないし」と言い返したかったけれど、尚更虚しくなりそうだったのでやめておいた。 もくもくとお弁当を食べている梨花の横で、エリカは買ってきたパックジュースにストローを立てる。今日もやっぱりいちごオレだった。 「エリカとしては、梨花ちゃんは大事な女の子友達だから仲良くしたいんだけどなぁ」 「──それ、本気で言ってるの?」 箸を持っていた手を止めて、梨花はエリカの顔も見ずに聞き返していた。 エリカと響は全く別の人物だ。分かっていたはずなのに、梨花の中で、どこかまだ納得出来ていない部分があったのは事実だ。けれど、今のエリカの発言を聞いてはっきりと再認識させられてしまった。 「ほんとに響君じゃないんだね」 「梨花ちゃんってばまだ疑ってたの? エリカはエリカだよ」 お弁当の食べ方もだけど、それだけじゃない。ふいに爪を見たりとか、横髪を軽く耳にかけたり、脚を閉じて座ったり。そんな女の子のような仕草を、エリカはごく自然にやっているのだ。 本当にこの子は梨花の知る響ではない。それどころか、男の子ですらない。分かっていたことだったのにものすごくショックだった。 あっという間にお弁当を食べ終わったエリカは、この間のように梨花に膝枕を求めてきてそのままゴロンと横になっていた。 「ねぇエリカ。私一つ確かめたいことがあるんだけど、聞いて良い?」 このままエリカが寝てしまわないうちに、早々に話を切り出すことにした。身体ごと横に向けていたエリカは、梨花の言葉を聞いて仰向けに身体を転がし、こちらを見つめてくる。 「いいよ。エリカが答えられることなら」 「七年前、同じクラスの女の子とのキスを私に見せて、私のこと『好きじゃない』って言ったのはエリカ? あの時の響君は、エリカだったの?」 「そうだよ。あれはエリカの仕業」 何てことないようにあっさりと言ったエリカを見て、梨花は顔を歪めた。やっぱり響は嘘などついていなかった、本当に何も知らなかったのだ。誤解が招いた事とはいえ、響に対してとても酷いことを言ってしまったことに変わりはない。謝れば彼は簡単に許してくれるだろうけれど、梨花が自分を許せなかった。色々な後悔が波のように押し寄せてきて、ギュッと拳を握りしめた。 「梨花ちゃん今後悔してる? あの子に酷いこと言っちゃったーって」 「そうよ……」 「気にすることないよ。私あの子大嫌いっ、エリカがいなきゃ何も出来ないただの出来損ないのくせに、我が物顔で表に出ちゃって生意気なんだもん」 ツンとすまし顔で言い捨てるエリカに怒りがこみあげて、梨花はエリカの頭を軽く叩いてしまった。 「いたっ! ちょっと梨花ちゃん急になにするのっ」 「どうしてあんなことしたの?」 自分の仕業だとハッキリ言ったのに、その理由に対してエリカは口を噤んだ。それが余計に梨花を苛立たせる。 「ねぇどうして? エリカがあんなことしなかったら私、響君に酷いこと言わなかったのに。あんな別れ方だってしなかった。響君のこと傷つけずに済んだのに……」 「そんなこと言われたってエリカ知らないもん」 梨花に責められ居心地が悪くなったらしいエリカは、起きあがりその場から立ち上がった。エリカも梨花同様、不機嫌さを露わにしている。けれど怒りたいのは梨花の方だった。七年前のあの出来事が全部エリカの仕業で、それを知らずに今の今まで響を憎んでいたことがとても悲しい。 それを思うと無性に響に会いたくなって、梨花は立ち上がってエリカを見据えた。 「私、響君に謝らなきゃいけないの。響君を出して、今すぐ変わってよ」 「いや」 「変わって、今すぐに。エリカなら出来るんでしょ? 響君に謝りたいの。お願いだから」 「いやよっ!! いやいやいやっ!!! 私その名前大嫌いッ!! 私はエリカ!! 響なんて名前じゃないもん!! この身体はエリカのなのっ、あの子のじゃない!!」 思っていた以上に梨花の言葉はエリカの怒りを煽ったようで、エリカは目の色を変えて梨花を睨みつける。 「あんな子、エリカにはいらないのっ! もう消えちゃえばいいのに!」 「エリカは女の子なんでしょ? 自分でもそう言ってたよね。それなのにその身体は自分のものだって言うの?」 「そうよ」 「それって変だって自分で思わないの?」 エリカはフンッと鼻で笑う。 「身体なんて心と違ってどうにでもなるんだよ。それにあの子よりもエリカの方が強いもん。今だってほら、エリカが出たいって強く思ったらあの子なんてすぐに引っ込んじゃうのよ。それにあの子が表に出ている時の記憶もエリカは持ってる、でもあの子はエリカが表に出ている時の記憶なんて全然無い。それってエリカがこの身体の本当の所有者だからなのよ。そのエリカが好き勝手にやることがどうしていけないの?」 「どっちが本当かなんて今はいい。私はただ、七年前にエリカがやったことをずっと響君のせいだと思って憎んでた自分が許せないだけ。だから謝りたいの。響君を出して」 梨花が一歩足を踏み出すとエリカが一歩後退る。まるで獲物を追い詰める猛獣のようなそれに梨花は罪悪感を覚えるが、それでも響に謝らなければという気持ちの方が勝っていた。 対するエリカは何も言わず、交代にも応じようとしない。お互い一歩も譲らず睨み合ったまま、時間だけが過ぎていった。 そんな時、ふいに屋上の扉が勢いよく開かれた。 「お、いたいた! なんだよ二人とも、一緒にメシ食うなら俺も誘ってくれたっていいのに仲間はずれは無しだぞー……って、アレ?」 突然やってきた悠人によって張り詰めていた糸が切れた。悠人は梨花達を見るなり何かを察したのか、若干気まずそうに頭を掻いている。空気が読めるんだか読めないんだか。 「もしかして喧嘩してたとか……?」 「別にそんなんじゃないわよ」 すぐに言い返したが、梨花の不機嫌そうな声色でなんとなく悠人は察したらしい。 「うわ怖ぇ。お前ただでさえ美人で背でかくて威圧感ハンパないんだから、もうちょっと表情筋緩めろよ」 「ハイハイどうせ私はメスゴリラですよ昔から変わってませんよーだっ」 「わっ、なんかめんどくせぇキレ方してる! 響お前梨花に何言ったんだよ〜」 響──とはいっても今はエリカだが──へ助けを求める悠人を見て、梨花はハッとする。悠人とエリカが対面するのを初めて見たような気がしたからだ。梨花が視線を向けると、エリカは悠人を見つめたまま酷く動揺しているように見えた。 とはいえ、悠人はそんなエリカの様子に気付くことなく、思い切りエリカの肩を抱いて間近で話しかける。 「おい響、悪いことは言わねぇから梨花に謝っとけって。じゃないと俺まで流れ弾くらうからさー」 「え、……あっ……」 「ったく、こんな昼間っから夫婦喧嘩とかすんなよなぁ。響も大変だよな、こんな短気なのが嫁でさ」 悠人はエリカの頭をわしわしと撫でる。悠人にとっては男友達への軽いスキンシップだったのだろうが、エリカはそれを嫌々と拒んで、そのまま逃げるように走って屋上から出て行ってしまった。 「へっ!? おい響! ……どうしたんだよアイツ」 「子供扱いされたと思ったんじゃないの? 悠人が頭なんて撫でるから」 「なんだよそれ、あんなんいつもやってんのに今更だろ」 「いつもやってるんだ……」 バツの悪い顔をして、悠人は屋上の扉を見つめる。当然のことながら、昼休みの間エリカが屋上へ戻ってくることはなかった。 そして、去り際に見えたエリカの顔が真っ赤に染まっていたことも、その時の梨花は大して気にも留めていなかった。 ◆ エリカは午後からの授業にはいつものごとく参加せず、休み時間に校内を探したものの彼女の姿はどこにも見当たらなかった。もしかしたらエリカに避けられているのかもしれないと複雑な心境のまま、時間は過ぎて一日を終えた。 思い返してみれば、エリカに対して「響君を出して」と言うのはあまりに無神経だった。いくら響に謝りたかったとはいえど、梨花の言動はあまりに軽率すぎたのだ。もう少し言葉を選べば、エリカをあんなに怒らせることもなかったかもしれない。 ──と、反省をしたのはそこまでで、後から静かにこみ上げてきたのは七年前のことへの怒りだった。 (でも七年前のはどう考えたってエリカが悪いじゃないっ、なんで私がこんなに落ち込まないといけないのよ) 梨花と響が別れるきっかけを作ったのはエリカだ。昔のことをいつまでも根に持っていたってしょうがないと思うけど、あれさえなければ響と別れたりなんてしなかったんだと、梨花は釈然としない。 どうして七年前、エリカはあんなことをしたんだろう。 悶々とそんな事を考えているうちにすっかり夜になって、ソファに横になりテレビを見ていた梨花だったが、頭の中は依然として響とエリカのことでいっぱいだった。考えるのを止めようと思ってテレビや雑誌で気を紛らわせようとしても、ふと気が付けば二人のことを考えてしまっている。これからどうすればいいのかを。 二重人格なんて、今までそんな子に出会ったことがないから対処がよく分からない。二人のどちらかに肩入れするのは良くないことだとは思うが、それでも梨花にとってはエリカよりも響と過ごした時間の方が圧倒的に長い。つい響寄りに考えてしまうのは仕方のないことだろう。 「響君に、女の子の人格か……」 ボソリと呟いて、梨花はテレビを見るのもそこそこにクッションへ顔を埋めた。 テレビや本で知った知識であるが、二重人格になる人のほとんどは小さい頃に親から何らかの虐待を受けていたケースが多いという。だから子供は自分の身を守るために、虐待で受ける痛みや悲しさを『別の自分』が受けているものとして置き換えて考え、解離を起こす。それが原因でもう一人の自分が出来てしまうらしい。 (でも響君のお母さんは優しかったし……お父さんは、元々いないし……) 響の家庭は母子家庭だ。梨花が響と出会った当初から、彼の家には父親がいなかった。どうしていないのか、それは聞いてはいけないことのような気がして響自身に聞いたことはなかったけれど。 そんな虐待とは無縁の生活を送っていたはずだったのに、どうして。ぼうっと天井を見つめて思索に耽っていたそんな時、テーブルに置いていた携帯が突然鳴り出した。 「誰よ、もう……」 横になった状態のまま手を伸ばして携帯を取ると、そこに記されていたのは『響君』という二文字だった。梨花は急いで電話に出る。 「響君!?」 『あ……りっちゃん……?』 どうやら今はエリカではなく響の方が表に出ているらしい。だが、こんな夜に突然電話をかけてくるなんて一体どうしたんだろう。昼休み以降姿を見なかったこともあり、もしかしたら何かあったんじゃないかと、一人先走って梨花は不安になった。電話の向こうからは何やら騒がしい音や声が聞こえて、響の声が聞き取りづらい。 「どうしたの? そっちなんか騒がしくない?」 『それが……気が付いたら、……ホテルのベッドの上に寝てて……それで』 「は!?」 予期せぬ響の言葉に、梨花は思いきり声を張り上げソファから立ち上がってしまっていた。電話の向こういる響の声は激しい動揺のためか震え、息まで上がっていて不安定だ。 「響君今どこにいるの!?」 『それが、全然分からなくて……俺の知らない場所で……、慌ててホテルから出たら、なんか知らない人に追いかけられて……、今までずっと逃げてたんだ……。……それに俺』 そこで一旦言葉を止めた響は、なぜか黙り込んでしまう。 「響君? どうしたの?」 そう静かに聞いても、響は何も言わなかった。これでは埒が明かない。今は一刻も早く響と会った方がいいかもしれないと考えた梨花は、携帯を片手にバッグへ財布を突っ込んだ。 「私が今からそっちに行くから、合流しよう。そこの町の名前とか分からない?」 『えっ……? りっちゃん、もう夜遅いし出歩くのは危ないよ……。俺は大丈夫、りっちゃんの声聞いてたら落ち着いてきたから、……なんとかして帰るよ』 「私よりも響君がこんな時間に出歩いてる方が危ないと思うんだけど!?」 自分の姿を鏡で見たことがないのだろうかと、至って大真面目に梨花は言ったつもりだったのに、響はなぜかプッと吹き出して笑った。 「……なに笑ってるのよ、迷子のくせに」 『ああ、ごめん……うん、そうだね……。やっぱり俺りっちゃんがいないとダメだなって思って……何も成長してないし……迷子になってるし……』 「こんな状況で悟らなくていいから、早く場所教えてってば。なんかそっち騒がしいし、人通りの多い所でしょ。お店の看板とか、道路の標識見て分からない? あと、お金持ってないのよね? 持ってたらタクシーで帰ってくるっていうのも出来るけど」 『えっと、○○町……五丁目……? お金は持ってないみたい……ごめん』 「『ごめん』?」 『あ、違った……ありがとう、りっちゃん』 「ん。今からすぐにそっち行くから、響君落ち着いて待ってるのよ、分かった?」 言い聞かせるようにそう言って、梨花は一旦通話を切った。時計を見るともう22時を過ぎている。一体こんな時間までエリカは何をやっていたんだろう、しかもなんでホテルなんかに。様々な疑問や憶測が飛び交う中、梨花は動揺を抑えながら急いで近場のタクシー会社に電話をし、足早に家を出た。 |