第4話 あなたは誰?


「あっ、梨花ちゃんおはよう」
 朝、いつものように学校へ登校した梨花が教室へ向かっていると、廊下がいつもより騒がしく人集りが出来ていた。なんだろうと不思議に思い足を進めていくと、梨花に気付いた麻衣が声を掛けてきた。
「おはよう麻衣。これってもしかしてテストの結果?」
「うん。いつも上位50位まで張り出されるの。これはこの間の中間テストの分」
 成績上位者は名前と点数が一覧となって張り出されるらしく、梨花はその大きな紙を見渡した。どこか見知った名前が多いと思っていたら、梨花達のいる特進Sクラスの人がほとんどだった。
「あ、麻衣ってば42位なんだ。すごい!」
 友人の名前を見つけて梨花が言うと、麻衣は恥ずかしそうに頬を赤くする。
「やだもう梨花ちゃんってば、50番内はほとんど特進SとAクラスの人達で埋まっちゃうから、私は悪い方だよ。次はもうちょっと頑張らなくちゃ……。それよりも梨花ちゃん、ほら」
 にこやかな笑顔で麻衣が指さすその先には「柊響」という二文字。しかもそれは堂々とした様子で用紙の一番先頭にどっしりと構えていた。今回のテストは彼が一位らしい。それだけでもすでに驚きなのに、全教科満点という恐ろしい数値がそこに書かれていて梨花は絶句した。
「すごいよねぇ柊君。あんなに綺麗で頭も良いんだもの」
「これってなにかの間違いじゃないの……?」
 一位というのはなんとか理解出来ても、満点というのはおかしすぎる。響は真面目にテストを受けさえすればほぼ必ず満点を取ると、この間悠人が言っていたことを思い出した。その時は半信半疑な梨花だったが、いざその場面に直面するとどう反応すればいいのか分からず、麻衣へ純粋な疑問を投げかけてしまっていた。
「柊君は入試でも満点だったみたいだから、もうそういう特別な人なんだってみんな納得してるよ。先生達も柊君には何も言わないし、授業に出てこなくても注意しないんだよね」
「でも成績悪い時だってあるんでしょ? 普通疑わない?」
 この学校には2500人近くの生徒がいるのだから、一部疑う人がいたっておかしくはないはずだ。実際ここに一人いるように。捲し立てるように話す梨花に対して、麻衣はどこかおっとりと微笑んで見せる。
「多分それ、学校を欠席しててテスト自体受けてない時だと思う。梨花ちゃんがなんでそんなに疑うのか分からないけど、柊君が図書室で勉強してるの見たって子もいるし、私も前に化学室の黒板にすごく難しそうなこと書いて考え込んでる柊君を見たよ。授業でたまに当てられた時にもすごい回答するし、柊君は本物じゃないかなぁ」
「そう、なんだ……」
「すごいよね! 綺麗で頭良くてクールでピアノも弾けて、そんな人と仲良い梨花ちゃんが羨ましいよ〜っ! あっ、でも私、梨花ちゃんと柊君との仲を邪魔するつもりはないし、むしろ応援するつもりでいるから大丈夫。安心してね!」
「ま、麻衣ちょっと落ち着いて……」
 半ば興奮した様子の麻衣に気圧されて、梨花は後ずさってしまう。
 美少年で、クールで、頭も良くて図書室では医学書なんて読んで勉強して、そのうえ音楽室では優雅にピアノを弾いている。周りから響はそんな浮世絵離れした人だとすっかりインプットされてしまっていた。確かに、これではファンクラブが出来るほど人気が出てしまうのも無理はないのかもしれない。
 だが、あまりに梨花の中の響とみんなの中の響がかけ離れすぎていて違和感が拭えないのもまた事実だった。
「柊君もさ、梨花ちゃんだけは特別って感じだし」
「そうでもないってば……。ただの幼馴染だよ」
「梨花ちゃんはそうでも、柊君にとっては違うと思うけどなぁ」
 どこか楽しそうな麻衣の言葉を話半分に聞きながら教室へ向かっていると、丁度階段を上がってくる響の姿が見えた。響も梨花に気付いてすぐさま柔らかな微笑みを向ける。
(あれ……?)
 だが梨花は、その響の微笑みに引っかかりを感じてしまった。響はあんな風に微笑む人だっただろうかと、思わず顔をしかめてしまう。そんなことなど気にした様子もない響は梨花の元へやってくるなり、先ほどと寸分違わぬ笑みを浮かべた。
「おはよう」
 それは柔らかでどこか妖しさを感じる微笑みだった。訝しんでジッと見つめてしまっていた梨花をよそに、後ろに隠れていた麻衣は響の微笑みを見て「きゃっ」と少女のような黄色い声をあげた。成績表の周りに集まっていた人達も響の存在に気付くなり騒然となって、ただでさえ騒がしかった廊下が余計にざわめきだす。
「学年首席のお出ましかよ」
「うわ、柊のやつマジで笑ってるよ……あいつも人間だったんだな……」
「今回も柊君が一番みたいだよ、すごいよね全教科満点。やっぱ私達凡人とは頭の出来が違うって感じ……」
「っていうか何? あれが噂の転校生ってやつ? 響君の幼馴染の?」
「響君、あの子にゾッコンなんだって」
「えーショックぅ……しかも結構美人だし〜」
 さっきまで成績表へ向けられていた周りの視線が一斉に梨花達へ移る。身体中に穴が空きそうなほどの視線をひしひしと感じながら、梨花は逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。
(いやいやいや、どう考えてもおかしいでしょこの状況は……)
 注目の的である響は意に介した様子もなく平然としている。これだけのギャラリーを平気で背負っている、目の前の幼馴染の神経を梨花は本気で疑った。
「ああ、何かと思えばこの間のテストの結果か」
 響は張り出されている紙の方を一瞥すると、すぐに興味を無くして梨花の方へと視線を戻す。
「結果、見てこなくていいの?」
「見なくても分かるよ。それに、順位に興味ないから」
 一位だけが許されるような台詞を吐く響に、梨花はますます不信感を募らせる。
「昔、算数のテストで30点とって泣いてたのにね」
「そんなことあったっけ? でも、大事なのは経過よりも結果でしょ。昔は梨花ちゃんには絶対に勝てなかったけど、今なら負けないよ」
 自信満々にそう言ってくる響がいつもの彼に見えない。重なりもしない。あまりに違いすぎて、梨花は平然を装いつつも内心では動揺していた。
 違いすぎる。誰だろう『この子』は。
 心臓の鼓動がいやに高鳴り、冷や汗が流れそうだった。そんな梨花の心中なんて見透かしているかのように、響は目を細めてうっそりと笑む。その常の響には無い強気な双眸を前に梨花は後ずさって、後ろにいる麻衣の手を引いた。
「麻衣、教室行こ」
「えっ? 梨花ちゃんいいのっ?」
 響との会話を無視して立ち去る梨花に麻衣が慌てて声を上げる。響は別段気にした様子はなく、梨花を呼び止めることもしなかった。
 そのあと、響は一度教室へ鞄を置きに来てすぐに姿を消し、その後は戻ってこなかった。一限目も二限目も、授業はおろか休み時間でさえも響は姿を見せなかった。
 麻衣の話によると、ごく稀に響はこういうこと──学校には来ていても授業には全く参加しない日──があるのだと言っていた。その理由は定かではない。一体なんのために学校に来てるんだと梨花が口を尖らせると、麻衣は笑っていた。
「でも先生達からはちゃんと許可とってるらしいよ。だから誰も文句言わないの」
 麻衣の話を聞いて、彼女の横にいた美幸と有紀も面白がって話に乗っかる。
「まぁ柊君の場合は、先生達も腫れ物扱いしてるトコあるからね。この学校始まって以来の天才らしいし、下手に突っかかると何されるか分からないから」
「ああ思い出した、大谷先生がプライドズタズタにされたやつね! そのあと先生、胃潰瘍でしばらく学校休んだんだよね、懐かし〜!」
「柊君みたく規格外なレベルの生徒がいるとさ、先生も扱いに困るんだろうね。大谷の二の舞になりたくはないだろうし」
 掻い摘んだ話だけでも事の内容を理解するには十分で、梨花は話を聞いて唖然とする。どうりで、響が授業に真面目に参加していなくても先生が何も言わないわけだと不本意ながらも納得出来た。
「だからね梨花ちゃん、今日は柊君教室へはもう来ないと思うよ。梨花ちゃんが柊君を呼びに行けば……まぁ戻ってきてくれそうだけど」
「確かに、梨花が呼びに行けば教室戻りそう! なんてったってあの柊君が普通に接する数少ない人だからね梨花は」
 少し脱線してしまった話を戻すように、麻衣は梨花に告げる。とはいえ先程の響と向かい合ったところで、言葉に窮しそうだと梨花は少し不安になる。それくらい先程の響は妙な威圧感があったように思う。
 響の姿をした、響ではない別の誰か。先程の響との会話で梨花が感じたのはそれだった。人はあんなにもガラリと雰囲気を変えられるものだろうか。演技であれば可能だと言われればそれまでだが、響のそれは演技とは似て非なるもののように思う。
「ねぇ、私の他に響君が学校で親しくしてる人っている? 友達とかじゃなくても、よく話す人とか」
 梨花の質問に対して、麻衣達は考えるように視線を逸らす。そこまで深く考え込むということは、思い当たる人物が殆どいないということに他ならないのではないかと梨花は不安になった。
「うーん、梨花ちゃん以外だと体育科の樋口君くらいしか思い浮かばないなぁ……」
「やっぱり悠人か……」
 三人の反応を見てある程度予想していたとはいえ、もうちょっと他に自分の知らない名前が挙がる事を期待していた梨花はガックリと肩を落とす。
「梨花ちゃんが転校してくる前までは柊君、樋口君とよく一緒に行動してたから。だから樋口君も校内ではかなり有名なんだよね」
「私も樋口君くらいしか浮かばないわ〜。このクラスにもちょこちょこ顔出しては柊君としゃべってるし。柊君もグラウンドで樋口君の練習見てたり、サッカーの試合にも顔出してるみたいだから。幼馴染とはいえ不思議な組み合わせだよねぇ。梨花が転校してきたからもう言われることは減るだろうけど、一部の人達の間じゃ、あの二人デキてるんじゃないかって噂する人達も結構いたんだよ」
「は!?」
 誰と誰が、と思わず聞き返しそうになってしまうくらい梨花は驚いた。そんな梨花の反応に対して、美幸は慌てて手を振って宥める。
「ああ、あくまでも噂だからね。根も葉もない噂で個人を叩いて評判下げたい人とか、妄想好きな人も多いからさ〜。こんだけ生徒数いると色んな人がいるってことだよ。それくらいいつも校内の話題独占しちゃってるんだよね柊君」
「まぁ本人は噂とか周りのことなんて全く興味無さそうだけどね。──ってヤバッ、先生来ちゃった」
 なんだか怖気の走る話を聞いてしまったような気がして梨花は腕をさすった。しかしそれはさておき、学校に親しい友達がいないのなら、響の変化に気付かなくてもおかしくはないだろう。梨花と同じ距離感で響に接している悠人であれば何か知っていることがあるかもしれないと、梨花は顎に手を当てて考える。
 人は誰しもが二面性を持つという話を聞いたことがあるが、響の場合は二面性という言葉で片付けるには不可解なところが多すぎる。七年というのは人が変わるには十分すぎるほど長い時間だが、それでも説明出来ない。なにより、当の響本人が自分自身に怯えているのははっきり言って異常で、だからこそ辿り付いた可能性だった。
(響君はもしかしたら、二重人格なのかもしれない)
 昨日梨花の前で涙を流していた響が元々の、梨花が知っている幼馴染の響で、今朝の響は別人。頭が良いのもピアノが弾けるのも、きっと後者の人格なのだろう。その可能性を考えれば全ての辻褄が合うのだ。七年前のことだって、響の別人格の仕業だとすれば簡単に説明が付いてしまう。
 あまりに突飛した考えだろうかと梨花は自嘲する。梨花自身、二重人格なんてテレビや本で見るだけで、自分には一切関わりのないものだと思っていたから尚更だ。
(帰りに本でも買って帰ろうかな……)
 そう考えて、梨花は自分で頭を抱えたくなった。せめてもの当てつけに悠人へ『あんたと響君がデキてるって噂を耳にしたんだけど本当?』とメールを送ると、速攻で『んなわけねーだろバーカ!!』と返ってきたので、梨花は少し口元を緩めた。授業中じゃなければ普通に声に出して笑ってしまうところだ。



「梨花ちゃん」
「ん?」
 四限目の移動教室が終わった後、教室へ戻っているところで麻衣が梨花の制服の裾を引っ張った。梨花がふいに足を止めると、麻衣が空き教室の中を指さしている。
「なに?」
 麻衣の指さす方向へ顔を向けると、薄暗い空き教室の中で、椅子に座って本を読んでいる響の姿があった。響は梨花達に気付く様子もなく、その視線は熱心に本へ向けられたままだ。
「今日は読書の日みたいだね」
 呑気な麻衣の様子とは正反対に、梨花は溜息を吐く。いくら頭が良いからといって、授業にも出ないでこんなところで読書なんて自由すぎるにもほどがある。何故だか無性に放っておけなくて、梨花は麻衣達に「先に教室戻ってて」と告げるとそのまま空き教室の扉を開いた。
「響君」
 名前を呼んでも、響は梨花の方など見向きもせずに読書に没頭している。カーテンの閉められた教室は全体的に薄暗く、隙間から漏れる光に埃が照らされてキラキラと光っていた。
「ちょっと」
 響から本を取り上げて梨花は再度呼びかける。確信犯か、それとも本当に読書に没頭していて気付かなかったのか、おそらく後者だろう。響は梨花を見上げて目を丸くしていた。
「こんな埃っぽい部屋で読書なんかしてないで、真面目に授業受けなさいよ」
 響は幾度か目をパチパチと瞬かせると、すぐに嬉しそうに顔を綻ばせる。まるで子供のような無邪気な表情に梨花は迂闊にもドキッとしてしまう。
「迎えに来てくれたの?」
「違うわよ、たまたま通りかかっただけ。頭良いのは分かるけどね、授業くらい真面目に出なさいよ。そんな余裕な態度かましてるといつか足下掬」
「お腹空いたなぁ」
「……人の話聞いて」
 椅子から立ち上がった響は「ほら」と時計を指さして笑みを見せる。梨花の話などまるで聞いちゃいない。
「もうお昼だし、お腹すいた。一緒にご飯食べようよ」
「ご飯って……まぁ別に良いけど……」
「やった! あ、言っとくけど、二人きりで、だからね」
「ハイハイ」
 別に念押しなどしなくても、梨花とて他の誰も呼ぶつもりはなかった。
「私はこれから一旦教室戻るから、10分後に屋上でいい?」
「うん大丈夫、こっちもご飯買っていかないとだから。それじゃあまた後でね!」
 響は嬉しそうに顔を輝かせながら教室を出て行った。響が座っていた椅子の横には、先ほどまで彼が読んでいたであろう本が山のように積み重なっている。ちなみに先ほど梨花が響から取り上げた本は、A5サイズで古めかしい装丁の重いものだった。表紙には大きく「精神分析学」書かれている。梨花にとってはタイトルからして読む気の失せる本で、中身すら見ずにその場に戻した。
 空き教室を出ると、そこには麻衣達がニヤニヤした様子で待っていた。言うまでもなく一部始終しっかり見られていたようで、梨花は口を尖らせた。
「先に教室戻っててって言ったのに」
「いやー、だって今校内でウワサの二人の様子を見ないで教室戻るなんて無理でしょ! 柊君と一緒にお昼食べるんだって? いいなー、私も彼氏欲しー」
「違うよそんなんじゃないってば。ちょっと話があるだけだし」
「それにしては、柊君すごい嬉しそうに教室出て行ったけど〜?」
「それでも違うの!」
 慌てて言い返したもののあまり効果は無く、むしろ余計にからかわれてしまいそうな雰囲気である。だが、有紀だけはどこか表情が固い。
「でもさぁ梨花、気を付けた方がいいよ」
「何を?」
 少し辺りを警戒して、有紀はコソリと告げた。
「柊君のファンクラブの子達って中には過激な子もいるから、あんまり大っぴらになると攻撃されちゃうかもってこと。あの柊君が唯一笑って話してくれる存在なんだもん、ファンクラブの子達にとっては梨花ってかなり邪魔だと思うし」
 有紀が心配してそう言ってくれるまで、梨花は響のファンクラブの存在をすっかり忘れていた。確かに、ファンクラブの人達にとって梨花は邪魔な存在でしかないだろう。現にクラスで響を取り巻いている人達の梨花を見る目は、とても冷ややかで恐ろしいものがある。
「そのファンクラブってさ、響君は承諾してるの?」
「うーんどうだろ。ファンクラブ出来るのが早すぎて、その辺りの事情はよく分からないんだよね。柊君ってほんとに周りが何言っても無関心だから、それを良いことに勝手に作られちゃったんじゃないかなぁと思うけど。ファンクラブの子達もかなり好き勝手にしてるし」
「でも、いくらなんでもあの毎日の取り巻きは柊君が可哀想だよ。あれじゃ誰も近寄れないし」
「『ファンクラブに入ってない奴は柊君に近付くな話しかけるな』って感じだもんねぇあの人間バリケード」
 麻衣達の言うとおり、一個人にあの取り巻きは異常だし見ていて痛々しい。一体どういう成り行きでファンクラブなんてものが出来たのか、それも響に一度聞いてみる必要がありそうだと梨花は考える。
「そういえば……ねぇ梨花ちゃん、屋上に行かなくていいの? もう結構話してるけど……」
 携帯を見ながら心配げに言ってきた麻衣に梨花は「わっ」と声を上げて、三人に謝るとそのまま走って教室へ戻った。腕時計を見ると、響と別れてから10分は経っている。今から別校舎の教室へ戻って屋上へ行くにはさらに時間がかかってしまう。
 響が怒っていなければいいなと心の中で思いながら、梨花は教室へ向かって走った。



「遅い!」
 約束の時間よりも少し遅れて屋上へ着いた梨花を迎えたのは、腹ぺこの上に待ちぼうけをくらって怒る響だった。
「ごめん、ちょっと話してたら遅れちゃって……」
「話してるからじゃん。時間決めたのはそっちのくせに」
 素直に謝ったがすぐに言い返されてしまい、今度は梨花の方がムッとする。
「10分遅れたくらいでなにもそんなに怒ることないでしょ。男のくせに心が狭いのね」
「おとっ……、もういいっ」
 響は一瞬何か言おうとしたのを呑み込むと、子供のような仕草でぷいっとそっぽを向いてしまう。そこらの男がそんな仕草をしたら正直どうかと思うが、響がやればどうしても「可愛い」と思ってしまうから彼の顔面偏差値は侮れない。
(それにしても本当に別人みたい……これって流石に演技じゃないよね……)
 これがいつもの響であれば、梨花が少し遅れてきても微笑んで「いいよ気にしないで」って言うに違いないのだ。これが本物の二重人格者なのか、それとも演技なのか、その境界の判断が難しい。
 響は相変わらずムスッと拗ねた顔をしていて、売店の袋からパンを一つ取り出しておもむろに食べ始めた。
「んっ? 響君そんなに食べるの!?」
 梨花は響が買ってきた売店の袋の中身を見て驚いた。袋の中には七個以上のパンがぎっしりと詰まっていた。しかもどれもクリームやチョコの付いた甘い菓子パンばかりだ。加えてジュースは女の子から人気のいちごオレ。
 この間、幼馴染三人でお昼を食べた時とはあまりに違いすぎるそれに梨花はギョッとする。
「響君って割と小食なんじゃなかったっけ」
「えっ、そんなことないよ。これくらいはヨユー」
 とても美味しそうにパンを食べていく響にそれ以上追求出来なくて、梨花は自分のお弁当を取り出して箸を立てる。不思議なくらい平和な時間だった。ご飯も食べ終わってそのままボーっとしていると、今度は瞼が重くなってくる。食欲が満たされて、その上こんなぽかぽかした場所にいたらそうなってしまうのも当然かもしれない。
「ちょっと眠くなってきちゃった……授業までまだ時間あるよね。少し寝ようかな……」
 眠気に勝てずうつらうつらしながら梨花が言えば、響が何やら嬉しそうな顔をして肩をツンツンと突いてくる。顔を向けると響は足を伸ばして座り、自身の太股を軽く叩いた。
「膝枕してあげる」
「えーいいよ、なんか硬そうだし」
 梨花からあっけなく拒否されて響はつまらなそうに頬を膨らませる。先程の、そっぽを向いて拗ねた時の顔といい、今まで見たことのない響の表情は梨花の興味を惹くのには十分で、もっと色々な表情が見たくなってきてしまう。
「私がしてあげようか? 響君に膝枕」
 興味本位で梨花が提案すると響はビックリしたように目をぱちぱちさせて、ほんのりと頬を赤らめた。
「ほんと!?」
 そう言うや否や響はゴロンと横になって梨花の太股の上に頭を置く。恥ずかしがる姿が見られるかと思っていたらあっさりと響は梨花の膝枕を受け入れて、その顔はとても嬉しそうだった。これはこれで可愛い反応かもしれないと、梨花は呑気なことを思う。
(でもなんだか、聞くに聞けないなぁ……)
 響が二重人格なのかどうかを少しでも知りたかったのだが、結局何も得ていない。屋上の給水タンクの日陰で涼みながら梨花は物思いに耽る。膝枕をしているものの響が寝る様子はなく、仰向けになったまま梨花の髪の毛をいじっていた。
「髪の毛、伸ばしたんだね」
 ふいに言ってきた響に梨花はふと我に返った。
「え? ああ、引っ越してから伸ばしたの。あんまり男勝りだったから少しは女らしくなろうと思ってね」
「別にあのままで良かったのになぁ」
 何を思ってか、響はとても名残惜しそうに呟いた。
「ねぇ響君」
 今ならば聞けるかもしれないと、梨花が言おうとした言葉は響によって封じられた。響が伸ばしてきた指先が梨花の唇に少し触れて、そこからじんわりと熱が伝わってくる。その蠱惑的な行動に、梨花は何も言えずに黙り込んだ。
「もうすぐ授業が始まるから続きはまた後で」
「……どうせサボるくせに」
「ふふっ、まぁそうだけど」
「いやそこは否定しなさいよ」
 少し笑って響は起きあがると、その場から立ち上がる。「次は何しようかな」という口ぶりからしても、どうやら本当に授業に参加する気はないようだ。ここで機会を逃してしまったらいけないような気がして、梨花は焦って声をかけた。
「響君」
「放課後、音楽室で待ってるから」
 呼び止めた梨花に対し振り返った響は、爽やかに微笑んで去っていった。



 一日の授業も全て終わった放課後、梨花は響に言われたとおりに音楽室へ向かっていた。
 わざわざ自分から「放課後音楽室で」と言うなんて、響自身も梨花になにか話があるのだろうかと訝しんでしまう。さして時間のかからないうちに音楽室へ着くと、そこにはなぜか人が集まっていてみな一様に中の様子を伺っていた。それだけでもう嫌な予感しかしない。
「ああ、響様は本当に素敵。今日も超クール……」
「今日は全く授業に出てないらしいよ」
「授業なんて響君には不要だろうけど、教室にはいてほしいよね。顔が見られないのはやっぱりつらいもの」
「神が造りたもうた人類の最高傑作……美しい……」
 言動からして間違いなく響のファンクラブの人達だろう。うっとりと目を細め、心酔したような面持ちの人ばかりで、梨花は思わず「うわー……」と嫌悪感丸出しで声を出してしまっていた。響との約束さえなければ速攻で走り去っていたところだ。
 音楽室の中では当たり前のように響がピアノを弾いていた。真剣な表情で鍵盤を叩く響は贔屓目無しに見ても綺麗で格好良くて、圧倒的な魅力を感じさせる。小規模な人だかりの外からそう思った梨花は、意を決して音楽室へ入ることにした。
「ちょっとごめんなさい……」
 一言断りを入れると、梨花は少数の人混みをかき分けるように割り込んで音楽室のドアへ手を伸ばす。しかしその手を横から勢いよく掴まれて、梨花は驚きに声を漏らしてしまった。
「わっ……!」
「君、勝手に中へ入っては駄目だよ」
 自身の腕を掴んでいる手を辿っていくと、梨花にそう言ってきたのは眼鏡をかけた誠実そうな男の人だった。背は悠人と同じくらい高くて、きっちりと整えられた黒髪からは清潔感と真面目さを漂わせている。制服も綺麗に着こなされていて隙がなく、模範生のようだと梨花は思った。
 名札を見ると梨花よりも一つ年上の先輩で、ネームプレートには三年の『桐沢』と書かれていた。
「柊君は演奏中なんだ、邪魔しては悪いだろう」
「えぇ……」
(演奏中って……ただ勝手に音楽室に入ってピアノ弾いてるだけなのに)
 そんな仰々しく言うほどのことでもないだろうにと内心でツッコミを入れる。それに、ここへ梨花を呼んだのは響の方だ。なんとかして中へ入ろうと梨花は響に目で訴えてみるものの、響が気付く様子はない。
「桐沢君、手を放してあげて。彼女が橘さんよ」
 梨花の手を掴んでいた桐沢の手に、さらにもう一方から優しく手が添えられた。物腰柔らかな声に梨花が顔を向けると、そこにいた女の人はその落ち着いた声に見合うほどの優雅な微笑みを浮かべていた。ウェーブのかかった長くて黒い髪の毛と対称的なまでの白い肌、顔立ちも人形のように可愛らしい美人だった。
「橘さん初めまして。私は三年の神崎まりや。柊君のファンクラブの会長をしているの。こちらは副会長の桐沢君。よろしくね」
 お姫様のような名前だが、容姿がそれに負けていないところがすごいと純粋に思う。相変わらず柔らかく微笑む神崎とはうってかわって、桐沢は先ほどからずっと顔をしかめている。落ち着かないのか時折眼鏡のブリッジを指で押し上げて、その姿が嫌味なほどよく似合っていた。だが、今注目すべきはそこではなかった。
 響のファンクラブの会長と、副会長。神崎は確かにそう言っていた。
「ファンクラブの会長と副会長ってことは、ファンクラブを作ったのは先輩達、ですか?」
「それは違うわ。作ったのは私達の先輩。もう卒業しちゃっていないけど、私達はそれを引き継いでいるだけなの。それにファンクラブって言っても柊君本人からの了承はとれてないから私設だしね」
 質問に快く答えてくれる神崎の後ろには、先ほどまでうっとりと響のピアノを聴いていた人達がずらりと並んでいる。それぞれとても険悪な目つきで梨花を睨んでいて、明らかに敵視されているのが分かるくらい正直な視線だった。とはいえ、その目線に怖じ気づくほど梨花はか弱い女子ではなかったが。
「神崎先輩もその、響君のことを……?」
「ええ、もちろんよ」
 自信満々に即答されては何も言い返せないが、そもそもファンクラブの人達にそれを聞くのは野暮であったように思う。神崎は音楽室の中にいる響を見てうっとりと頬を赤らめ、少女のように瞳を潤ませた。先程梨花が思わず走り去りたくなるほど引いた、あの表情だ。
「素敵よね。あんな綺麗な等身大の人形があったら一日中眺めていたいわ。毎日しっかり手入れして隅々まで可愛がって、壊さないようガラスケースに大事にしまいこむの。考えただけでぞくぞくしちゃう」
 異常な熱のこもった声と瞳で、神崎は酔いしれるように言葉を紡ぐ。聞かなければ良かったと梨花は心底後悔した。一個人に対してそんな考えを抱くことがすでに恐ろしいが、もっと駄目なのはそれを平然と人前で口に出してしまうところである。
「でも、橘さんもとても綺麗よね」
 言いながら神崎は梨花の両手をギュッと包むように優しく握って微笑みかける。
「あの柊君が心を許しているんだもの、貴方もさぞかし優秀な方なのでしょうね」
「い、いえ……別にそこまでは……」
 悪気はないのかもしれないが、少し棘を感じる神崎の言葉を上手く消化出来ずに梨花は曖昧に返事をしてしまう。神崎は梨花の手を放すと、中の様子をちらりと伺って身を翻した。
「さ、柊君の演奏もそろそろ終わる頃だし、私達も行きましょうか。私達がいると彼、すぐに機嫌悪くしちゃうから。ね、桐沢君も」
 隣にいた桐沢にも促して、神崎は梨花へ手を振ると音楽室を離れていく。
「いつもは覗いたりしないんだけど、今日は私の好きな曲を弾いてくれていたからつい聴いてしまったのよ」
「先輩が好きな曲?」
 クラシックに疎い梨花にタイトルが分かるわけもなく、つい聞き返してしまう。神崎はクスリと可憐に微笑んで答えた。
「ベートーベンのピアノソナタ『月光』っていう曲よ。とても素晴らしい曲だから、橘さんも今度聴いてみてね。それじゃあ、お邪魔してごめんなさいね」
 最後までにこやかに言い残して、神崎はファンクラブを引き連れて去っていった。ようやく静かになった廊下にホッとしたのも束の間、梨花は本来の用件である音楽室のドアを開く。
「あっ、来てくれたんだ」
 梨花が音楽室へ入ると響は嬉しそうに声を弾ませて、パタンと優しい手つきでピアノの蓋を閉じた。
「少し前からいたんだけどね……」
「そうなの? 入ってくればよかったのに」
「いや、入っちゃ駄目だって言われたし。だからギャラリー様と一緒に音楽室の外から響君のピアノを聴いてたのよ」
「ギャラリー?」
 きょとんとした様子で聞き返してくる響に梨花は呆れて溜息を吐く。ファンクラブの子達が外に張り付いてずっと聴いていたのに、響は全く気付いていなかったらしい。
「あんたのファンクラブの子達よ。なんとかならないのあれ……」
「ああ、アレね。どうにもならないんじゃない?」
 まるで他人事のように響はあっさりと言い捨てる。
「どうにもならないって……自分のファンクラブでしょ。響君が言ったらなんとかなるんじゃないの?」
「言って分かってくれるような人達が、無断でファンクラブなんて作ったり、待ち伏せしてたり勝手に写真撮ったり、四六時中付きまとうような非常識なことするかなぁ?」
「……それは確かに非常識だけど、でも中には」
「中にはまともな人も確かにいるんだろうけど、まともじゃないのもいるんだよ。特に後者は扱いを間違えると余計にめんどくさいことになるし、そんなリスクを冒してまで関わりたくはないかな。そういうわけだから、もうこの話題は止め止め」
 これ以上聞きたくないと言わんばかりに、響は軽く両耳を押さえてめんどくさそうに言った。当の本人にそう言われては部外者である梨花は何も言えず、微妙な気持ちを残したままとりあえずこの場は引いておくことにした。
「……まぁ、この話はまた今度でいいわ。そういえば響君ってピアノ弾いてる時いつも楽譜ないけど、全部覚えてるの?」
 話題を変えた途端、響は元の嬉しそうな顔に戻った。
「うん、昔から弾いてるから身体が覚えちゃって。逆に楽譜見ながらの方が苦手かも」
「すごいのね。ピアノいつから弾いてるって言ってたっけ?」
「ピアノは5歳くらいだったかなぁ。でもレッスン自体は2、3歳の頃からやってたよ。でも小学校へ上がる前にやめて、そこからは独学で練習したんだ。だから所々指使いがおかしいところもあるんだよね、趣味でやってるだけだからいいけど」
 自分のことを楽しそうに話している響は、本当に梨花の知っている響とは違っていた。梨花の知っている響はピアノなんてとてもじゃないが弾けないし、本人だって「弾けない」と言っていた。
 もう少し深く探りを入れようと、梨花は更に響に尋ねる。
「頭も良くてピアノも上手で……ほんとすごいよね。昨日図書室で医学書読んでたみたいだけど、将来は医者にでもなりたいの?」
 昨日響にも同じ質問をした。その時の響は「そういうわけじゃない」と言っていた。それは愚か図書室に来た覚えすらなく、医学書もメモも知らないとも言っていたのだ。それの意味するところ、つまり今目の前にいる『梨花の知らない響』ならば、知っているかもしれない。
 返答を待っていると、響はすんなりと首を縦に振って肯定した。
「そうだよ。とはいっても学校の図書館の本じゃたかが知れてるから、あんまり参考にもならなかったけど。やっぱり医大で勉強しなきゃ」
「医大に行くんだ?」
「うん」
 昨日の響と言っていることや考えがあまりに違いすぎて、梨花は驚くことしか出来ずにいた。ここまで聞いてしまえば、もう自分でも嫌というくらい納得してしまう。最後に残されたのはただ一つの問いかけだけだった。
「ねぇ響君、もう一つ聞いて良い?」
「うん? いいよ」
「──貴方は誰?」
 その問いかけに対して、響の顔から一切の表情が消えた。
「私の知ってる響君じゃないよね? だってあまりに違いすぎるもの」
 梨花が追い打ちをかけるように尋ねても響は何も言わなかった。喜怒哀楽のどれにも属さない、無表情な顔をまっすぐ向けて梨花を見つめている。
 自分の違和感に気付いてほしくないのなら、梨花の知っている響のように誤魔化したり、その場を取り繕ったりして隠そうとする。でも今梨花の前にいる響はそうじゃない。異なる個性を隠そうともしない。だから。
「……貴方が『自分に気付いて』って訴えてるように思えたの。──違う?」
 響は梨花を見つめたまま口を開かない。どう出てくるのか梨花には検討もつかなくて、黙って響の返答を待った。
「ふふっ……」
 静寂は笑い声によって突然破られた。響は何がおかしいのか小さく笑った後、堪えきれなくなったように声を上げて笑いだした。それは梨花が聞いたことのない、まるで女の子のような甲高い笑い声だった。確かに響は普通の男の子よりも声は高いけれど、今の笑い声は異常だ。
「何がおかしいの?」
「ああ良かった。せっかく今日一日出てきたのに梨花ちゃんが気付いてくれなかったらどうしようかなぁって思ってたから。わざわざこんなつまんないとこで一日過ごしたかいがあったわ」
 先ほどまでとは違った、酷く甘ったるい口調と声。そしてなによりも、その口調や声色は明らかに女の子そのものだった。見た目は男の子なのに口から出る言葉は女の子。その奇妙な光景に梨花は眩暈にも似たものを覚えた。
「『今日一日出てきた』って……やっぱり響君じゃないのね」
「あんな無能と一緒にしないで。エリカの方がなんだって出来る優秀な子だもん」
 子供のような口調で拗ねて、平然と響の存在を否定する。
「エリカ。それが貴方の名前?」
「そうよ」
「……エリカは女の子なの?」
「そうだよ。だからエリカのこと男の子扱いしないでね。エリカは女の子なんだから」
 本来の響とあまりに違いすぎて、梨花は正直ついていけなかった。どうしてこんなことになってしまったんだと深く考えるけれど、答えなんてそう簡単に出てくるわけがない。
「私はエリカ。よろしくね、梨花ちゃん」
 響は二重人格者だった。
 そして、響の中に存在するもう一つの人格は『エリカ』という女の子だった。
 明らかになった二つの事実に動揺を隠せないまま、呆然と立ちつくしている梨花に対してエリカは屈託のない笑顔を見せた。