第3話 変わらない温度 |
梨花が小学二年の頃、同じクラスの友達から聞かれた。 「ねぇ梨花ちゃん、梨花ちゃんはどうして響君といつも一緒にいるの?」 クラスメイトから放課後一緒に遊ぼうと誘われた梨花だったが、その日はすでに響との先約があった。事情を伝えて謝ってもあまり納得してくれず、半ばふてくされたような面持ちの友達からそんな言葉が返ってきたのだ。 「響君は男の子なんだから男の子と遊べばいいじゃん。なのにどうして梨花ちゃんがいつも響君についてるの?」 「どうしてって……うーん……」 意外な問いかけに梨花はつい目を丸くして、考えるように天を仰いだ。 「それに響君暗いしあんまりしゃべらないし、一緒にいたって楽しくないよ。梨花ちゃんたまには私と一緒に遊ぼうよーっ」 粘ってそう言ってくるその子は普段から梨花と一緒にいることが多く、好かれている自覚はあったが梨花にとっても仲の良い友達だった。けれどいくら仲良しな友達とはいえ、その子が言った言葉に梨花はついカチンときてしまった。 (響君と一緒に遊んだことなんてないくせに) どうしてそんな風に勝手に決めつけるんだろう。響にだって良いところは沢山あるのに、それを知りもしないで『楽しくない』と言われることが梨花は我慢ならなかった。 「響君と遊ぶの楽しいよ。私が響君のこと好きだからいいの」 「えー、でもぉ……」 「あっ、それじゃあ明日遊ぼうよ! それならいい?」 「ほんとに!? 梨花ちゃん約束だよ。絶対だからね!」 大げさなくらいに手をギュッと掴まれ、身を乗り出すような勢いで友達が念押しする。梨花も笑顔を浮かべて約束すると友達もようやく納得したようで「またね」と手を振って帰って行った。その背中を見送った後、梨花は響のクラスへ向かおうとランドセルを手にとり教室を出る。 しかし梨花の意表をつくように、教室の入口のところに響が立っているものだから驚いた。 「響君! 待っててくれたの?」 「うん……」 響が自分を待ってくれていたことに嬉しくなって、梨花は満面の笑みを見せた。そんな梨花に響はぎこちなく微笑みを返してくる。どこか元気が無いように見えるのは気のせいではないようで、梨花は「どうしたんだろう」と首を傾げた。原因を考えてみたけれど自分に心当たりはなく、梨花は気を取り直して響の手を握った。 「それじゃあ帰ろっか。あっ、今日おやつ一緒に食べようね。ママがね、私と響君にドーナツ作ってくれるって!」 「……うん……」 梨花がそう言っても、響はやっぱり元気のないままだった。 「りっちゃん」 学校を出てからどのくらい歩いただろう。帰っている途中、響がぱたりと足を止めて梨花を呼んだ。 「なに?」 「りっちゃんはどうして僕と一緒にいてくれるの?」 「え?」 「だって、僕……」 思い詰めたような顔をして響は自身のズボンをギュッと握りしめる。ぱっちりとした大きな瞳は潤んで、今にも泣き出しそうだ。もしかしたら先程の友達との会話を聞いていたのかもしれないと思い、梨花は響の顔をそっと覗き込んだ。 「響君と一緒にいるの楽しいし、私響君のこと大好きだから」 顔を見合わせて嘘偽りなく言ったら、それまで不安げな顔をしていた響は途端に頬を真っ赤に染める。その表情すごく可愛いなぁと呑気なことを思いながら梨花は続けて言った。 「それに、響君は優しいし、可愛いから」 「でも僕、この顔いやだ……」 「えっ、どうして?」 女の子よりも可愛いのにと梨花が言えば、響は顔を赤くして口を尖らせた。 「だってみんな僕のこと『オカマ』って言っていじめるんだもん」 響はムスッとむくれた顔をしている。その顔がまた可愛いのだが、言って拗ねられては困るので流石の梨花も自重した。 当時そこまで気にしたことはなかったが、アルバムなどで振り返って見てみると響はこの頃からすでに周りの子達とは異なった雰囲気を醸し出していた。それは彼の異様なまでに整った顔のせいで、一言で言うと『綺麗』という単語が一番しっくりくるほどだ。響は本当に、計算され尽くしたかのような完璧な容姿で、周りと比較してもずば抜けて目を惹いていた。 梨花は幼い頃から両親に散々「男勝り」だと言われて育っていたので、自分にはない可憐さを持った響がとても羨ましかった。なので、そんな自分の顔を嫌いだという響のことを「変なの」と内心思っていた。 「響君はオカマじゃないよ。私は響君の全部が大好きだよ」 響の顔は確かにすごく好みで大好きだが、それだけが梨花の心を動かしたわけではない。梨花が元気のない時は黙ってずっと一緒にいてくれて、泣いてる時は頭を撫でて慰めてくれる。梨花が喜んでいたら自分のことのように喜んでくれる、その純粋な優しさが好きだった。 梨花の告白に、響はぱぁっと顔を綻ばせる。 「僕もりっちゃんが好き……! 大好きだよ! りっちゃんは強くて格好いいし、優しいから」 「ほんとにっ? 私のこと格好いい?」 「うん。りっちゃんはすごく格好いいよ」 今にして思えば立場が逆じゃないかと突っ込まれそうだが、この時の梨花達にはあまり違和感などなかった。好きな子から褒められるのはとても嬉しくてむず痒い。梨花は締まりのない顔をして照れた。 「えへへ、響君だーい好き」 一緒に手を繋いで歩く帰り道。この時の響の手は梨花よりも僅かに小さくて、背丈も梨花より小さかった。梨花が女の子の平均以上だったのもあるが、この時の梨花にとって響は自分のお姫様みたいな存在で、ずっと守っていきたいと思っていた。 「りっちゃん」 ふいに、梨花の手を握っていた響の手の力が強まった。 「りっちゃん、これからもずっと一緒にいてくれるよね? どこかに行ったりなんてしないよね?」 この時の響は一体何が不安だったのか今でも梨花には分からない。不安に揺れる響の瞳はまるで、捨てられた子犬のような目をしていた。 ◆ 『もう二度と学校で私に関わらないで。私も響君にはもう近づかないし、話しかけたりもしないから』 梨花がそう言った次の日から、響が梨花に接してくることは一切なくなった。 響は梨花が編入してくる以前のように静かになり、誰かと話すことも笑うこともなく人形のように毎日を過ごしている。たまに梨花と廊下ですれ違うことがあっても響は梨花を一切見なかった。響の視界には梨花が映っていないんじゃないかと思ってしまうくらい自然で、梨花はそんな響の行動になぜだか胸が苦しくなった。 その理由は、極力考えないようにして頭の隅に追いやった。 「おい梨花、今少し時間いいか」 だが梨花のそんな考えを良しとしない人もいたようで、昼休みに教室へやって来るなり悠人は「話がある」と梨花に告げると、誰もいない空き教室へと連れ出した。 「ちょっと悠人、話ってなに?」 突然こんなところへ連れてきてなんのつもりだと眉をひそめていると、悠人は教室の窓にもたれ掛かる。逆光で半分陰ってしまった悠人の顔にはどこか威圧感があり、その表情も険しいものだった。普段が明るい人なだけに梨花は気後れしてしまう。 「話もなにも、お前らどうしたんだよ」 「お前らって、誰と誰?」 目を逸らしてしれっと言い返せば、悠人はますます眉を吊り上げる。 「そんなことまで言わないと分からないか? お前と響だよ。学校で見かけてもお前ら全然一緒にいねーし、遊びに行ってもさっきみたいにお互い別々で。響に聞いてもあいつ何も言ってくれねーし、意味わかんねぇ」 事情を何も知らない悠人にとっては、昔みたいに仲良くしていない梨花と響に違和感があるのだろう。それくらい昔の二人は仲が良くて、何かと一緒に過ごすことが多かった。 ふいにまた昔のことを思い出しそうになり梨花は慌てて我に返る。 「別にどうだっていいでしょ。悠人には関係のないことだし」 「ふーん、そういうこと言うんだ。梨花ちゃんは」 「な、なによ……」 気味悪く名前を呼ばれてたじろぐと、悠人は梨花にも聞こえるくらいの大きな溜め息をついた。 「あいつ、梨花が帰ってくるのずっと待ってたんだぞ。それなのにお前ちょっとひどくねぇ?」 「知らないよそんなこと言われたって。別に私『待ってろ』なんて言ってないし。大体悪いのはあっちなんだから、なんで私が悠人に色々言われなきゃならないの」 言いながら梨花は心底「自分は本当に可愛げの無い女だ」と思ったが、不満は言い出せばキリがなかった。 梨花がムスッとしていると、悠人は「やれやれ」と言わんばかりに頭を掻く。 「お前らの間になにがあったか知らないけど、梨花だって響になんか酷いこと言ったんじゃねぇの? じゃなかったら響が梨花になにもしてこないなんてありえないね」 「そんなこと言われたって……」 「響は梨花にずっと会いたがってたのに。梨花に会ったら一緒に遊びに行ったり沢山話したりしたいっていつも言ってたんだぞ。そんなヤツが、あんな態度とるかよ」 悠人の言葉を平静に聞き流すことが出来なくて梨花は俯いた。動揺しているのを気付かれたくなかったのだが、近づいてきた悠人に顔を覗き込まれてしまう。 「どうだ、ちょっとは気が変わったか?」 「……そんなこと言われたって分かるわけないよ」 「お前しばらく会わないうちに相当捻くれちまったんだなぁ。昔みたいにあっさり男らしくいけよ」 「だって私男じゃないもん。女だもん」 「ま、そりゃそーだ。でもそこがお前の良いところだったんだけど」 悠人からは苦笑された挙げ句に軽く肩を叩かれ、梨花はもう我慢出来なくなって声を荒げた。 「違うっ! じゃあなんで七年前に響君は私のこと振ったのよ! 会いたいって……ずっと待っててくれたのならなんで七年前に私のこと『好きじゃない』って言ったの!?」 「は?」 怒りが爆発して心中の不満をぶちまけてしまった梨花に、悠人は驚いて声をあげた。 「引っ越す一週間前……響君、別の女の子とキスしてた。その時に言ったのよ『梨花なんて好きじゃない、大嫌い』って。もう意味わかんないよ……なんなのよ……」 いくら考えても、七年前に梨花を振った響と今の響が結びつかない。七年前のことを覚えていたかと思えば、やっぱり知らないと言う。言ってることが矛盾しているけれど響の様子はとても演技には見えなくて、本当にわけが分からないのだ。 会いたいと思ってくれていたのならなぜあんなことを。梨花はその疑問の答えが欲しくて、事情を知りもしない悠人に求めた。 当然、初めて聞く話に悠人は驚きを隠せないようだったが。 「ちょっと待て、響が本当にそう言ったのか? 梨花一筋なあの響が?」 「だって私この目で見たし、この耳で聞いたんだもん」 「ありえねぇ……。あの響がそんなこと言うなんて思えねぇんだけど……」 悠人は最初こそ驚いていたが、突然何かを思い出したように「あ」と声を漏らした。 「でもあいつ、たまにちょっとおかしいからな……」 「おかしい?」 「そういえばあの時も……」 「あの時?」 悠人には何か心当たりがあるらしく、口元に手を当てて何かを考え込むように黙り込んでしまう。しばらく経っても何も言い出そうとしない悠人に、いよいよ梨花が痺れを切らしてしまった。 「ちょっと悠人、なんなの?」 「あぁ、悪ぃ……」 気のない返事がますます怪しくて、悠人の顔をジッと見据える。その刺すような視線に耐えられなくなったのか、悠人は半ば焦ったように「分かったから」と言って苦笑いを浮かべた。 「……響からは口止めされてたんだけど、しょうがないよな。やっぱ何も知らないってのもあれだし」 「どういうこと?」 「アイツも俺も、梨花に話すことを渋る程度には色々あったってことだよ」 悠人が一体なんのことを言っているのか分からない。先ほどまで気まずそうな顔をしていた悠人は、なにかを決心したように真っ直ぐ梨花を見た。 「話してやるよ。梨花が引っ越してからの響のこと」 閉ざされた空き教室の窓からは日の光が差し込むだけで、音は何も入ってこない。まるでこの空間だけ切り離されているんじゃないかと錯覚してしまうくらい、梨花と悠人を包む空気は静かで冷たかった。 そう長くない沈黙の後、悠人は話を始めた。 「今でこそ大分落ち着いたけど、前は結構大変だったんだ」 「前?」 「あいつ、梨花がいない間に結構苦労してんだよ。そのせいで極度の人間不信になっちまったし。一緒のクラスだから分かるだろ。あいつ、人から話しかけられても殆ど無視してんの」 鬱々と話す悠人に梨花は言葉を詰まらせる。思えば、梨花が編入した最初の日にもクラスの子達が言っていた。響は無口で、誰が話しかけても無視をする、笑ったりもしない、いつも無気力でつまらなそうだ、と。 「でも響君、私には」 「それは響にとってお前がすごく大切な存在だからだろ。言ったじゃねーか、響はお前のことをずっと待ってたって」 七年間ずっと。この学校へ来た最初の日に響は梨花に言っていた。 しかし、響からそう言われても梨花は「じゃあなぜ七年前にあんなことを言ったんだろう」という疑問が付きまとう。梨花があの時どれだけ泣いて悲しんだのか、響は微塵も知らないのだ。 「ようやく念願叶ってお前が帰ってきてくれて、響だってすごく嬉しいだろうに。梨花から突き放されたらアイツもうお終いだぞ」 「そんな大げさだよ」 「大げさじゃねーよ。響にとって梨花はそれだけ大きな存在なんだ」 複雑な気持ちになって梨花は黙り込み、傍にあった椅子にどさりと腰掛ける。それに続くように悠人も手近の机に座って、話を続けた。 「梨花が引っ越してからも、相変わらず響はずっといじめられてた。俺も出来る限りは助けようと頑張ったんだけど、その頃はまだ響と友達じゃなかったしな……梨花ほど上手くは立ち回れなかったよ。でも、どんなにいじめられても響は絶対に泣かなくなった。『弱いままだとりっちゃんに嫌われるから』って言って、ずっと我慢してたよ」 弱いままだと嫌われるなんて、あの頃の響が言いそうなことだと梨花は苦笑してしまう。そんなことで嫌いになるわけがないのに響は本当に馬鹿だ。けれどそんな響を思うと、なぜだか胸がチクリと痛んで苦しくなる。 「あん時の響にはまだ母親がいたし、その母親がいじめのことを学校の先生に注意してたからまだ良かったほうだ。でも小学六年の中頃に母親が亡くなって……それからだな、響が少し変わったのは」 「変わった?」 「そんな大したことじゃないんだけど、学校休んだり授業に出なかったり、他にも色々……。一度響から『最近物忘れが酷くなった』って相談されたこともあったよ」 悠人の口から出た話は不可解だが、母親が亡くなったショックが大きすぎて精神的に参ってしまった、という理由なら一応納得は出来る。だが、梨花と響のあの出来事は小学四年生の頃の話だ。その時には母親はまだ生きていたのだから、その理由では梨花との件は辻褄が合わない。 「母親が亡くなってから響は知り合いの家に世話になってたらしいんだけど……」 「知り合い? 親戚とかじゃなくて?」 「んー、『親戚』とは全く言ってなかったぞ。アイツあんまり自分の身内について話したがらないから俺もなかなか聞けないんだよなぁ……。まぁ、そことあんまり上手くいかなかったらしくて、中学上がってからしばらくして『家を出たい』って俺に相談してきたんだ。で、俺が親父と母さんに相談して手伝ってもらって、ウチのすぐ近くのアパートに引っ越してきたってわけ。響は俺の家族と仲良かったから俺んちでご飯一緒に食べたりして、結構上手くやってたんだよ」 「じゃあどうして今みたいになったのよ」 それなりに上手くやっていたのなら、誰とも話さないなんて程の極度な人間不信になるのは考えられない。梨花が噛み付くように話の続きを急かすと、悠人から「ちゃんと話すから落ち着けって」と宥められてしまった。 「中学に上がってしばらくしてから、響へのいじめがエスカレートしたんだ。中学はほとんど小学校からの持ち上がりだったし、メンツが変わるわけじゃないからな。母親が亡くなって、響のことを守ってくれる大人がいなくなったからその分酷くなったんだと思う。加えてあの容姿だろ? 小学校の高学年辺りからモテ始めてたけど、中学じゃ響に目付けてる女子ってかなりいたんだぜ。それに対する男子の逆恨みもあるだろうな」 男の嫉妬って見苦しいよなと、悠人は苦笑する。 「それで、最悪なタイミングで重なったストーカー事件が極めつけ。……あん時の響は酷い有様だった」 「ストーカー!?」 流石の梨花もそれには驚いて、思わず声をあげて聞き返してしまった。 「あいつ、中学の時にかなり悪質なストーカーに遭ったんだ。その犯人が担任の教師でさ、思い出してもあれはすげー怖かった。まさか担任が犯人だなんて思ってなかったから、俺と響はその担任に色々相談してたんだよ。それがあんなことになるもんだから……」 苦々しく話す悠人の様子からも、その事件が本当に大変で辛いものだったと察するには十分だった。悠人自身もストーカー事件のことは思い出したくないようで、あまり詳しくは話そうとしない。 「ストーカー事件が片付いた後も校内じゃその話題で持ちきりでさ、それがきっかけでいじめもぱったり止んだけど、響はそこから誰とも口を聞かなくなった。それまではクラスの女子と話したりしてたんだけど、まるで別人みたいに無口になって無愛想になっちまった。まぁ……そうなるのも無理はねーのかもしれないけど……」 まさかそこまで大変なことが起こっていたとは知らなかった。まだ中学生という幼い心に刻みつけられたストーカーの恐怖は相当なものだっただろう。それ以前まで続いていたいじめだって辛かったはずだ。そう考えていた梨花の頭を過ぎるのは、先日響に言ってしまった酷い言葉の数々ばかり。 「突然梨花が帰ってきてくれたことは、響にとってすごく嬉しかったんだ。噂で聞いたから知ってるぞ、お前が教室へ入って自己紹介したら、響が満面の笑みでお前のこと呼んだんだってな」 周りの話を聞いていると、本当に響は梨花のことを想ってくれていたんだと自意識過剰になりそうになる。こんなのは驕りだと思い込もうとしても、どうしても梨花は響の気持ちを「嬉しい」と思ってしまう。 そう思ってしまう理由も、ちゃんと自分で分かっていた。 自分はまだ響のことが好きなのだ。 七年も離れていたのに、あんなに酷い別れ方をしたのに、それでも梨花の中にある響への気持ちはこれっぽっちも色褪せていなかった。 「でも、じゃあ七年前のあれはなんだったの?」 「俺は響じゃないから分からないけど、お前ら二人ともさ、もうちょっとそのことについて詳しく話してみた方がいいんじゃないか? もしかしたらお互いの勘違いってこともあるかもしれないし」 「そうかな……」 「へぇ、梨花でもそんな不安になることあるんだな」 まるで他人事のような口調で呑気に言ってくる悠人にカチンときて、梨花はムッと顔をしかめた。 「それどういう意味よ」 「だって昔のお前って男勝りで強くて毎日楽しそうで、悩みなんてなさそうだったからさ」 「もう、昔のことを掘り起こすのはやめてって言ってるでしょ。恥ずかしいから」 「昔はお前が男で響が女みてーだったからなぁ」 まるで当時のことを思い出しながら言っているように、悠人は面白そうにクスクスと笑っていた。 ◆ 悠人との話が終わった後、重苦しい気持ちのまま教室へ戻ってもそこに響の姿は無かった。 そのうち教室へ戻ってくるだろうと思って麻衣達と話していた梨花だったが、授業が始まっても響は教室へは姿を見せずに不安に駆られる。五限目はもちろん六限目も掃除の時も、そして帰りのHRまで響は教室へは戻ってこなかった。 休み時間に音楽室や屋上を覗いてみたのだが、そこにすら響はいない。他に響が行きそうな場所など思いつかない梨花は溜め息を吐いて途方に暮れるしかなかった。 そして放課後、ようやく別のクラスの子から情報を得て響を見つけた。 響は図書室の椅子に腰掛け、机に顔を伏せて寝ていた。本を読みながら途中で寝てしまったのだろうか。響の周りには分厚くて古めかしい本が十冊ほど積み重なっていて、梨花は歩み寄ってその本をのぞき込む。 「医学書……?」 うちの高校にこんな本があったんだと驚くほど、高校生が読むものではないような医学関連の本が積み重なっている。机に顔を伏せて寝ている響の腕の下には一枚の紙が挟まっていて、そこには沢山の文字が書かれていた。 机から身を乗り出して見てみるとそれは全て英語で、梨花の思い出の中の響には不似合いなほどの流暢な筆記体がずらりと並んでいる。 字が小さくて分かりにくかったため、梨花は響の背後に回ってからもう一度見ようと距離を縮めた。すると今まで寝ていた響がもぞっと動き、伏せていた顔をゆっくりと起こす。 「あ……」 びっくりして、梨花はつい声を漏らしてしまった。 響は最初こそぼんやり梨花を見つめるだけだったものの、次第に意識がハッキリしてくるとその目は驚いたように見開かれた。 窓から差し込む夕日のせいで、彼の白い肌が赤っぽく見える。人気のない静まりかえった図書室でお互い見つめ合ったまま、しばらくして静寂を断ち切るように響が椅子から立ち上がった。 この間「関わらないで」と梨花が強く言ったせいか、響は梨花を見ても何も言わない。そんな響の心中が痛いほどよく伝わってきて梨花も何も言えなかった。そう仕向けたのは自分なのに、心苦しくてたまらない。 無言で図書室を出ようとした響だったが、机の上に広がった本を見てあからさまに驚いた顔をした。梨花は、響のその顔に見覚えがあった。 『そういえば、昨日も昼休みになったらすぐに教室出て行ってたよね。あのまままっすぐ音楽室行ってずっとピアノ弾いてたの?』 昨日、梨花が尋ねた時に響が見せた、愕然として血の気が失せたような顔。あの時と全く同じ顔だった。 「響君、医者にでもなるつもり?」 試しに尋ねてみると、驚いて固まっていた響はビクッと過剰に反応する。 「別に……そういうわけじゃない……」 梨花の顔を見ないまま、響は明らかに冷静さを欠いた様子で答えてきた。その声はとても弱々しくて、動揺を悟られまいとしているのがバレバレだった。梨花が響に一歩近づいて歩み寄ると、彼は一歩下がって梨花から距離を取る。 一体何をそんなに恐れているのか、梨花には分からない。 「ねぇ、その紙見せてよ。そんなにいっぱい何をメモったのか気になるから」 梨花に言われて初めて気付いたのか、響は机の上の紙を見てさらに気まずい顔をする。そしてすぐさま紙を取ってグシャグシャに丸め、自身の手の中に握り込んだ。 「ちょっと、あんなにいっぱい書いてたのにそんなクシャクシャにしちゃっていいの?」 「いい……どうせ捨てるから……」 「捨てるのなら、その前に私に見せてくれたっていいじゃない」 「だめ」 「どうして? 何か見られたら困るようなこと書いてるの?」 続けざまの問いかけに響は圧されて、その顔は相変わらず動揺と恐れの色を刻んでいる。頑なに拒む響を見ていたら梨花は言葉に詰まって、視線を落とした。 「話変えるけど、ちょっと前に音楽室でピアノ弾いてたよね。その時に弾いてた曲ってなんだったっけ。私忘れちゃって」 「……なんでそんなこと聞いてくるの? もう関わるなって、俺にそう言ってきたのはりっ……橘さんの方なのに……」 響の言うとおり、関わるなと言っておきながら都合の良いときだけ近づくなんて随分と勝手な女だと梨花は自分でも理解していた。でも七年前のことは、梨花も響もどちらも納得していない。お互いの言っていることが噛み合わないのだ。そのすれ違いがどこから来ているのか、梨花は知る必要があると思った。 「あの時はごめん……。カッとなって言い過ぎたって反省してる……傷つけてごめんなさい」 「いいよもう、気にしてないから」 「もう一度よく話した方がいいかなと思って、七年前のこと。お互い全然納得出来てないみたいだし……」 「そのことも、もういいよ」 響君の口から出た予想外の言葉に梨花は耳を疑った。響は悲痛に満ちた表情を誤魔化すように微笑む。 「橘さんの言うように、『知らない』じゃなくて『忘れた』んだと思うんだ。俺普段から結構物忘れ激しいし……それくらい俺にとってはどうでもいいことだったんだ、七年前のことなんて」 響の言うそれは、梨花には辻褄合わせのようにしか聞こえなかった。仮に忘れていたのだとしても、響はそれを思い出すということさえ放棄しているのだ。だからもう適当なことを言って辻褄を合わせて、それで終わり。 梨花にはそんな風に聞こえた。そうとしかとれないような言葉だった。けれど怒りも悲しみも不思議なほど湧かなくて、梨花は目の前で微笑んでくる響をずっと見つめていた。 「ごめんねこんなやつで。バカなのは昔から変わってないんだ。……だからもう、橘さんも俺のことなんて忘れて良いから」 「忘れる……?」 「それでもう、終わりにしよう」 「終わり……」 「多分俺、橘さんのことそこまで好きじゃなかったんだ」 響の言葉に、梨花の中でプツッと何がが切れたような音がした。 目の前で本を片付けようとした響へ梨花はずかずかと歩み寄るなり、彼の手を掴んで自身へ引き寄せる。不意を突かれたような顔つきの響をキッと睨み付けて、梨花はそのまま強く口づけた。 触れ合った唇から伝わってくる温度。この心地よくなる温かさは響のものだ。 小学生の頃、響とは相思相愛だったけれどキスなんてしたことがなかった。いつも手を繋いでいただけの記憶しかない。その手の温かさと、今触れている唇の温度はよく似ていた。 梨花がゆっくりと唇を放して息を吐くと、目の前の響は顔を真っ赤にして動揺していた。夕日のせいかその顔はいつにも増して赤く見える。でも、それは響から見える梨花も同じだったかもしれない。 「……りっちゃん……?」 「『そこまで好きじゃなかった』って言ったくせに……嘘つき……」 呟くように言った後、ゆっくりと響の胸に手の平を当てる。制服の上からでも分かるくらい、響の胸は強く鼓動を打っていた。 「好きじゃない女にキスされても、顔が真っ赤になってドキドキするの?」 「……それは……」 「嘘吐くのが下手すぎるよ……。昔から変わってない」 響と同じくらいドキドキしている自分を自覚しながらも、梨花は火照る体の温度を持て余したまま話しかける。 けれど響は動揺を露わにしながらも何も言わず、走って図書室を出て行ってしまった。 「響君!!」 すぐに追いかけて、梨花は人通りの少ない放課後の校舎を走る。体力に自信のある自分が響に追いつくことなど容易かと思っていたが、甘かった。思いのほか響の足が速くてなかなか追いつけない。けれどこのまま、何もハッキリしないまま逃げられるのだけは嫌で、梨花は懸命に響の後を追った。 忙しなく校舎に響く二つの足音が止まったのは、それからしばらく経ってからだった。夕日隠れの校舎裏で、今度はしっかりと捕まえることの出来た響の腕を強く掴んで、引き留める。 「どうして……ッ」 お互いすっかり息が上がっていたが、梨花は呼吸を整えることもせず怒鳴った。 「どうして逃げるの!? そんなに自分には都合の悪いこと!? 図書室で勉強してたのも、音楽室でピアノ弾いてたのも、別に知られてまずいことじゃないでしょ!? だったらなんでそんな顔するのよ!」 「だって俺何も知らないから!」 怒鳴った梨花と同じくらいの声量で響は言い返す。その不自然な返答に梨花は言葉を呑み込んだ。 逃げられないように手を掴んではいるものの、響は梨花に顔を見せようとはせず背中を向けたままだ。その背中がなぜだかとても小さくて、弱々しく梨花の目に映った。 「入試で首席とったなんて知らない! テストで一番のことだって、ピアノが弾けることだって……何も知らない……!」 「知らない……?」 「さっきだって、図書室に来た覚えなんてないし……あんな本も読んでない……。メモだって、俺にはあんなの書けないし、書いた覚えもない……」 そんな不自然な返答があっていいはずがない。だが、嘘を言っているような様子は微塵も感じられなかった。響はゆっくり振り返ると梨花を見つめる。 「……そう言ったら、りっちゃんは信じてくれるの?」 その縋るような弱々しい瞳から目を逸らすことも出来ず、梨花は言葉もなく黙っていた。 「七年前のことだって、俺本当に何も知らないんだ……。気付いたらりっちゃんが引っ越してて、俺一人ぼっちで……」 仮に響の言っていることが本当だとしたら、七年前のあの時、梨花の見た彼は誰だったのだろうか。ピアノが弾けるなんて知らないと言うのなら、梨花が音楽室で会った響は誰だったのだろうか。 その疑問がうっすらと、梨花の中で姿を現しつつあった。 「それだけじゃない。いつも学校で身に覚えのないことばかり周りから言われて、訳が分からないし気持ち悪い……。聞いてたら頭がおかしくなりそうになる。酷い時は誰かに見られてる気がして、誰もいないのに後ろに誰かいる気配がして……頭の中で声が聞こえてくるんだ」 嫌悪や恐れを含んだような声で響は言うと、自身の髪の毛をくしゃりと掴む。顔色もあまり良くないし、ここまで何かに怯えるなんて異様だった。響は精神的にどこか病んでいる部分があって苦しんでいるのかもしれないが、それも憶測にすぎない今、どう言葉を返せばいいのか梨花は考えあぐねた。 さほど時間は経っていなかったが、梨花が何も言ってこないことに焦ったのか、響は無理するように笑った。 「あ、えっと……こんな気持ち悪い話してごめん……俺きっと頭おかしいんだ。ごめん……、今の話全部忘れて」 「どうして? 全部本当のことなんでしょ?」 一人先走る響を止めると、彼は目を丸くしたあと恐る恐るといった様子で聞き返してきた。 「りっちゃんは怖くないの? 気持ち悪くない? ……俺のこと」 響の言っていることは確かに奇妙で怖い。でも話を聞いた梨花が怖いと感じたのなら、その感覚を味わっている当の本人はもっと強い恐怖を覚えているに違いない。それを思うとそんなこと言えるわけもなく、むしろ放っておけない気持ちになった。 「本気でそう思ってたら今ここにはいないよ。どんな響君だって、それは響君自身でしょ?」 「……七年前のこと、許してくれるの? 俺、何も覚えてないのに……」 「それはまだ許せないし怒ってるよ。だって私、あの時すごく傷付いて大泣きしながら引っ越したんだから」 「ご、ごめん……」 「でも響君が本気で覚えてないっていうなら、何か原因があるのかもしれないし……一旦保留にするわ。怒ってばっかりは身体に悪いって言うしね」 少しでも安心させたくて梨花は微笑んで見せる。思えばこっちへ帰ってきてから、こうやって響の前で自然に微笑むのは初めてのことかもしれない。 「響君は昔から嘘なんて吐く子じゃないし、人を騙すようなこともしない。……そんなこと、分かってたはずだったのにね」 梨花は自嘲して、ゆっくりと手を伸ばすと響の柔らかい髪の毛を撫でる。昔は、響の元気の無い時によくこうしてあげていたような気がして、懐かしい気持ちにさせた。 「話してくれてありがとう響君。信じるよ。それが本当なら、響君が信じてほしいって思ってるのなら、……私は信じるから」 「……りっちゃん……」 目を丸くしたまま呆然とする響に、梨花は一息ついて頬を緩めた。 「よし、とりあえずもう帰ろう! そだ。後で携帯番号とメルアド交換してよ」 響の手を引いて歩き出す。少し後ろを歩く響の顔は見ないまま、梨花は話しかけた。 「あ、でもその前に図書室ちゃんと片付けていかないとね……散らかしたままだったわ……」 ピタリと響が突然足を止めるものだから、手を引いていた梨花もつられて足を止める。不思議に思って振り返り、幼馴染の顔を見て梨花は言葉を失くした。 響は大きな瞳からポロポロと涙を流して、声もなく泣いていた。 「ちょっ、響君どうしたの? どこか具合悪い?」 「……ちがっ、嬉しくて……もう嫌われたと思ってたから、だから……っ」 「うん」 「こうして昔みたいに話せるなんて、思ってなくて……」 手の甲で涙を拭い、子供の頃のように泣く響を見ていたらどうしようもなく梨花の心がざわついた。同時に思い出したのは今日の昼休みに悠人が言った言葉。 『あいつ、梨花が帰ってくるのずっと待ってたんだぞ』 『大げさじゃねーよ。響にとって梨花はそれだけ大きな存在なんだ』 本当に、大げさなどではなかったのかもしれない。 それほどまでに、梨花の存在が響の心にずっと棲み着いてしまっていた。 梨花はどこかやるせない気持ちになりながらも、ギュッと響の手を握りしめた。 「りっちゃんのこと、忘れたことなんて無かった。ずっと待ってた……ずっと会いたかったんだ。りっちゃんに」 梨花のことを真っ直ぐに見つめてそう言う響は、梨花の知る昔の彼のままだった。 「悠人の言葉もあながち大げさじゃないってことなのかな……」 「え?」 「ううん、なんでもない。──ただいま、響君」 言えていなかった言葉を返すと、響は心底嬉しそうな様子で笑みを浮かべた。 七年前のあの出来事は、未だにハッキリしないままだ。梨花の中の疑問と、響の中の疑問、それらが明らかになったわけでもない。ただ一つ変わったとすれば、梨花と響の距離が少しだけ近くなったということだけ。一体響の身に何が起こっているのか、それはまだぼんやりとしか輪郭を見せていない。 だけどこれ以上不安にはさせまいと、梨花は穏やかな顔で響に微笑みかけた。それが今の梨花の精一杯だった。 |