第2話 幼馴染み


「梨花が帰ってきたってほんとか!?」
 編入二日目の朝、大声でそう言って教室へやってきたのは梨花のもう一人の幼馴染だった。
 七年ぶりの再会だというのに目ざとく梨花のことを見つけた彼は、こちらへ歩み寄ってくるなり爽やかな笑みを零した。
「悠人!?」
 梨花も興奮を抑えられないままつられるように席から立ち上がる。
 樋口悠人(ひぐち ゆうと)は梨花が幼稚園の頃からの付き合いである幼馴染だ。身長が172cmという女子としては規格外な背丈である梨花だが、悠人はそれ以上の身長で体格も男らしくなっていた。肌も、真っ白な響とは対照的なくらい健康的に焼けている。きっと部活のせいだろう。小さい頃はサッカーを一緒にやっていたけど、今もやっているのだろうか。
「久しぶり! 悠人もこの学校だったのね」
「『馬鹿のくせによく入れたわね』とか言いたいんだろ。俺はスポーツ推薦だよ。サッカーの」
 サッカーはまだやっているようで、昔の悠人の姿と重なって梨花は嬉しくなる。キラキラとした笑みがいかにもスポーツ少年という感じで、格好良く成長したなぁとこっそり感心してしまった。七年前はあんなに小さくてサッカー馬鹿だった悠人がこんなにも大きく立派になっているのだから、時の流れとは本当にすごい。
「サッカーまだやってたんだ。悠人って昔からサッカー一筋だったもんね、懐かしいなぁ」
 昔の友達に会うと、なんだか小さい頃に戻ったような気分になる。
 内面が全く変わっていない幼馴染に梨花がクスクスと笑っていると、悠人はこちらを見ながら何か言いたげな顔をしていた。梨花はきょとんと首を傾げる。
「なに? そんなジッと見て」
「……いや、お前すごく美人になったなーと思って。ほら、小さい頃はがさつで乱暴なヤツだったのに、こんな立派になって感動したわけよ。お前やっぱり女だったんだな」
「……やっぱりも何も、私は昔から女だけど」
「うそつけ、お前小学生の頃同じ学年の男子ボコボコにしてたじゃんか。ありえねーくらい喧嘩強かったし。あの頃の梨花、男子の間じゃメスゴリラって呼」
 みなまで言うなと梨花は慌てて悠人の口を手で塞いだ。ある程度事実ではあるが、出来ればこの場では隠して欲しい。主に梨花の矜持のためにも。
 梨花は教室の隅まで悠人を引っ張っていくと、比較的にこやかに悠人を問い詰めた。
「悠人クンはこの教室に何しにきたの?」
「幼馴染が帰ってきたって聞いて挨拶がてら遊びにきました」
「それが、人のあまり知られたくない過去を、みんなの前で言っちゃうことなわけ?」
「す、すみません軽率でした……」
 かみ砕くように言うと、あまりの梨花の剣幕に悠人がゴクリと息を呑んだ。ただでさえ初日から響とのことで噂になっているのだ、これ以上変な噂を流されたくない。
 悠人に一言釘を刺してから手を放すと、彼は苦笑していた。
「なにもそんなマジな顔して言わなくてもいいんじゃねぇ?」
「悠人が過去のことほじくり返すからでしょ。あんな不名誉なニックネームなんて知られたところでデメリットしかないわよ」
「昔の梨花は強くて格好良くて俺は好きだったよ。お前女から結構モテてたじゃんか、髪短くて見た目も男みたいだったから」
「あ、あれは若気の至りっていうか……」
 確かに悠人の言うように、幼い頃の梨花は酷くやんちゃで男の子のようだと親からもよく言われていた。ショートの髪も、好んではいていたズボンも、男子との喧嘩で怪我をして絆創膏が貼られた顔も、当時の梨花は誰が見ても中世的な顔立ちの男の子にしか見えなかっただろう。
 クラスの女の子がいじめられて泣かされたと聞けばすぐに駆けつけて、いじめた男の子をこれでもかというくらいにやりかえしていたし(そこでついたあだ名が先述の『メスゴリラ』である)、女の子と一緒に人形で遊んだり本を読んだりするよりも、外で男の子とドッジボールやサッカーをする方が好きだった。
 ボーイッシュといえば聞こえがいいかもしれないが、有り体に言えば、おてんばで男勝りだったのだ。
 今思い出しても非常に恥ずかしい過去で、あの頃の自分を思い出すと穴に入りたい気分になる。しかもそういう男勝りな内面は未だにあまり変わっておらず、女の子らしい可愛さや外見に憧れたり、ガールズトークがあまり好きじゃなかったりするのも幼い頃の名残なのだ。多分。
「でもやっぱり面影あるよなぁ、教室入ってすぐに梨花って分かったよ。──おい響! お前もこっち来いよ、一緒に話そうぜ」
 突然何の前触れもなく悠人が響を呼ぶものだから、梨花はギョッとして悠人の腕を掴んでしまった。
「ちょ、ちょっと! なんで呼ぶの!」
「はぁ? だってせっかく三人揃ったんだ、昔の話とかしたいじゃん」
 梨花の言葉に対して悠人は怪訝な顔を見せる。事情を知らない悠人は、まだ梨花と響が昔のように仲良しだと思っているのだろう。
 けろりと言い放つ悠人に何も言えないまま複雑な顔をする梨花の元へ、悠人に呼ばれた響がやってきた。
「悠人、何?」
「せっかく三人揃ったんだ、一緒に話そうと思ってさ。懐かしいよなぁ」
 幼馴染が揃って嬉しそうな悠人とは対照的に、響は梨花を見て苦笑いだ。
「……でもりっちゃんがすごく嫌そうなんだけど」
 気持ちがつい表に出てしまっていたらしく、梨花は響の言うように仏頂面になってしまっていた。相変わらず話が見えていない悠人は響の言葉に眉を顰めた。
「お前まで何言ってんだよ。梨花も、響がいたって良いだろ別に」
「別にいいけど……」
 腑に落ちなかったものの悠人に事情を話すのも面倒だし、終わったことに第三者を巻き込むのも気が引ける。
 梨花がムスッとした顔のまま首肯すると、悠人は「なんだその顔」と言いながら響の頭をポンッと叩いた。
「ほら響、別に良いってよ。──あ、でももう時間がないから昼休みに三人でメシでも食いながら話そうぜ。屋上でさ。じゃ、二人とも絶対来いよ」
 特に響、と念押しするように言って悠人は教室を出て行ってしまった。
(はぁ……)
 面倒なことになってしまい、梨花は机に顔を伏せたい気分になる。悠人と話すこともご飯を一緒に食べることも全く構わないしむしろ楽しみだが、そこに響が加わるというのがいただけない。響とは出来るだけ距離をとりたいと思っていた梨花にとって、悠人の提案は不都合すぎた。
 梨花は小さな溜め息をついて「しょうがない」と自分に言い聞かせる。けれど一度落ちてしまった気分はなかなか晴れなかった。
「りっちゃん、ごめん……」
 傍に立っていた響が気まずそうに謝ってくる。先ほどの事に関して言えば、響に落ち度は何もなかった。全ては唐突すぎる提案をした悠人と、悠人に事情を何も話していなかった梨花の責任である。それなのに梨花の顔色を伺うような響の態度がなんだか無性に気に障った。
「どうして謝るのよ。別に響君は悪くないでしょ」
「でも、りっちゃんの機嫌が悪いのは俺のせいだから」
「……あんたねぇ、そうやって人の顔色ばっかり伺うのはやめなさいって昔っから……」
 そこまで言ったところで梨花はハッと口を閉ざした。
 クラス中の視線が、いつの間にか自分と響に向けられていたからだ。こんな大勢に見つめられては言いたいことだってはっきり言えない。
(ああもう……なんでこんなことでいちいち人の注目浴びなきゃいけないのよっ)
 響と話していると逐一周りから注目されることが嫌だった。昨日の音楽室でのことだって、教室へ戻った途端に質問の一斉攻撃をされたのだ。響本人に聞いても何も答えてくれないから梨花に聞いてくるのだろうが、梨花だって響とのことは終わったことなのだから出来れば何も話したくはないし、これ以上響との接触は避けたいところだ。
 そう思っていたのにこの状況。梨花へ向けられている無数の好奇な眼差し。
 梨花は響へ言うはずだった言葉を飲み込んで、黙って教科書とノートを机の上に出し平静を装った。そんな梨花の行動で響は察したのか、再度「ごめん」と梨花へ謝って自分の席へと戻っていった。
 


「おっ、約束どおりちゃんと来たか。偉いぞ二人とも」
 四限目が終わり昼休みになって、梨花と響は言われていたとおりに屋上へ向かった。するとそこには一足先に来ていたらしい悠人の姿があって、約束どおりやってきた二人を見て満足げに頷く。七年経ったが悠人のこういう勝手で憎めないところは昔からちっとも変わっていないと、梨花は無意識に苦笑する。
「私達が来なきゃ悠人が一人で可哀想なことになるから来てあげたのよ。感謝しなさいよ」
「はいはいありがとうございます梨花様」
 両手を合わせて仏を拝むように言った悠人を見て、梨花は思わず笑ってしまった。そう間を置かずに悠人も笑い出して、そんな二人を見た響も楽しそうに笑みを浮かべた。
 給水タンクの日陰に三人で腰掛け、梨花はお弁当を取り出した。悠人は購買で買ってきたパンとジュースだがその量が尋常じゃない。運動部だし身体も大きいから普通の人よりも沢山入るのだろう。
 一方、響の方を見てみると彼は小振りなパックジュースだけだった。
「ちょっと、お昼それだけなの?」
 思わず梨花が尋ねてしまうと、響が答えるよりも先に悠人のフォローが入る。
「響は昼メシはいつも食わないんだよ。口に含んでもせいぜいジュースくらい。な?」
「うん、お昼ってあんまり食べたい気分にならないんだ」
 そう言いながらジュースにストローを立てた響に、梨花は呆れて「不健康すぎる」と溜息を吐いた。そんなんだから悠人と違って大きくならないのよと言いたかったが、また説教になりそうだったので口を閉じた。
 梨花の言いたいことは響も分かっているようで、苦々しい笑みを見せる。
「そういえば、昨日も昼休みになったらすぐに教室出て行ってたよね。あのまままっすぐ音楽室行ってずっとピアノ弾いてたの?」
 梨花としては、ただなんとなく聞いただけのつもりだった。
 けれど梨花からそう聞かれた途端、響の顔色が端から見ても分かるくらいに変わった。サッと血の気が失せたような顔で響は黙りこんでしまう。
「おい響、大丈夫か?」
 悠人が穏やかな声で尋ねると、それに対して響はコクリと首を縦に振る。
「……大丈夫。……ごめん、ちょっとビックリしちゃって……。そうそう、昨日昼休みになってからは音楽室にいたよ」
 取り繕ったような言い方と響の様子に、梨花はなにか引っかかるものを感じた。他にもなにか聞こうとすると、悠人が「なんだよもー」と安心したように笑うからタイミングを失くしてしまった。
「お前音楽室大好きだもんなぁ。梨花も見たか? 響がピアノ弾いてるの」
「うん……見たよ。上手だった」
「俺も中学で初めて見た時ビックリしたんだよなー。だって響がピアノ弾けるとか初耳だったし。小学校でも弾いてるところなんて見たことなかったからさ」
 響がピアノを弾けることに驚いたのは悠人も同じだったらしい。それを聞いていたら余計に疑問が膨らんで、箸を止めた梨花はすっかり神妙な顔つきをして考え込んでしまっていた。
「り、りっちゃんご飯食べなよ……。悠人も、俺の話なんかしなくていいから」
 慌てて話題を変えようとしてくる響がますます怪しく見えてくる。だが空気の読めない悠人は「なんだお前照れてんのか」と的はずれなことを言って響をからかっていた。
「響はほんとにすげーよなぁ。あっ、梨花。もう一つすげービックリな話聞かせてやろうか?」
「悠人!」
 楽しそうに話題を振ってきた悠人を制したのは響だった。その尋常じゃない響の焦り方に悠人は口を尖らせる。
「んだよいいじゃんか、別に悪いことじゃないんだから」
「いいよ何も言わなくて! りっちゃんだって俺の話なんか聞きたくないからっ」
「悠人教えて。響君も、私が聞きたいのならいいでしょ?」
 梨花が言うと響はぐうの音も出ないようで、顔こそ納得していないが口を噤んだ。悠人は「まぁまぁ」と宥めるように、元気のない響の頭をわしわしと撫でている。
「絶対聞いたら驚くぞ。──こいつな、この高校に首席で入学したんだ」
 悠人が言ったとおり、梨花は驚いた。それも声なんて出ないほどに。
 この高校は国内でも有数のマンモス校だが、進学校としても抜きん出て有名だった。国公立大学への進学率が他の高校よりずっと高く、梨花がこの高校を決めた一番の理由がそれだった。
 そんな高校に、響が入試で首席だなんて信じられなかった。
 酷い言い方かもしれないが、梨花の記憶に残る響はとてもじゃないが頭が良いとは言えなかったのだ。悠人も同じだが彼はスポーツ推薦だから説明はつく。
(そうだ……なんで今まで疑問に思わなかったんだろう……)
 梨花のクラスは学年で4クラスある特進科の中でもトップの、特進Sクラスだったというのに。
(響君、私と別れた後でものすごく努力したのかな……)
 昔、何回教えてもかけ算の九九が出来なくて、梨花に向かって「ごめん」と言って泣いていた響の姿を思い出す。
 あの後すごく努力したと聞けば納得出来るかもしれないが、それでも梨花の中に芽生えてしまった響への違和感はそう簡単に消せるものではなかった。
「すごいね、首席で入学なんて。ここってこの辺りじゃ一番レベル高いよね」
「そうそう、すげぇよなぁ。でもさー、こいつテストで本気出す時と出さない時があってさ、そん時の差がすげーのなんのって。本気の時は全教科満点で余裕の一位なのに、手抜いた時は俺と同じくらいで、下から数えた方が早いんだぜ。お前ちゃんと真面目にやれよなぁ」
 悠人が話せば話すほど響の顔色は悪くなっていく。まるで梨花には聞いてほしくなかったと言わんばかりに、何も言わずに響は黙っていた。
「響君……?」
 心配になって梨花が声を掛けると、響の身体がビクッと震えた。
 まるで怯えるようなそれに梨花の方まで驚いてしまい、伸ばしていた手を反射的に引っ込めてしまう。梨花から何か聞かれると思ったのだろうか、響は青ざめた顔のまま、ジュースも満足に飲まずにその場から立ち上がった。
「ごめん、俺ちょっと用事思い出したからっ」
 そう言って響は走って屋上を出て行ってしまった。あまりにも突然すぎるその行動に、残された梨花と悠人は慌てて呼び止めたけれど響はそれらを無視して去ってしまった。
「どうしたんだ響のやつ……」
「ごめん悠人、ちょっと私行ってくるから後はよろしくね」
 衝動的に身体が動いていた。梨花はすぐにその場から立ち上がると、響の後を追って走った。
「おい梨花!」
「ごめんっ、また今度埋め合わせするから!」
 置き去りにしてしまった悠人に対する申し訳なさが募ったが、それでも梨花は響のことが心に引っかかっていた。響のことなんてもう気にしなくていいじゃないかと自分に言い聞かせていたけれど、どうしてもお互いの言い分の違いが心に気味悪く絡まったままだった。先ほどの音楽室での話だってそうだ。無理矢理辻褄を合わせるような響の言い方が気になってしょうがない。
(なんだろう、胸騒ぎがする……)
 自分の中にある違和感の理由が知りたくて、梨花は急いで響の後を追ったのだった。



 これは小学生の頃のことだ。
 梨花の中にある懐かしくてとても大切な、今となっては取り返せない時間の記憶。
「響君、響君!」
 いつもの帰り道を一人で歩いていた梨花は、少し先に響の後ろ姿を見つけて声を掛けた。背後から梨花が大声で呼ぶものだから驚いたのだろう、響の黒いランドセルが身体と一緒に揺れた。
「りっちゃん……」
 振り返った響は梨花を見ても浮かない顔をしている。いつもなら満面の笑みを浮かべて手を振ってくれるのに、今日の響の様子は少し変だと梨花は首を傾げた。
「響君、一緒に帰ろ」
 そう言うと響は少しだけ困ったような顔をしたものの、嫌とは言わずにコクリと頷いた。どうしたんだろうと気になったけれど、とりあえず梨花は響と肩を並べて一緒に歩きだす。
 何も話しかけてこない響に、やっぱりおかしいと梨花は思った。いつにも増して元気がない。
 いよいよ心配になってきた梨花は響に元気を出して貰おうと、今日の嬉しい出来事を話すことにした。
「あっ、そうだ! 私ね、今日の算数のテスト95点だったんだよ! すごいでしょ?」
「95点……」
 いつもの響だったら、自分のことのように嬉しそうな顔をして梨花を褒めてくれるのに、今日の彼はそれを聞いたら更に表情が暗くなった。しょんぼりとしている響の横を歩きながら、梨花は「あれ?」と肩透かしを食らったような気分になる。
「響君と一緒に昨日勉強したから、そのおかげだよね! ありがとね響君。響君はテストどうだった?」
「えっ!? あ……、えっと……うん、出来たよ。りっちゃんが教えてくれたから……」
「えーほんとに!? 何点だった? 教えて!」
 梨花は身を乗り出すような勢いで迫った。けれど響の表情は余計に険しくなっていくばかりだ。
「えっと……」
「ねー響君、何点だったの?」
「その……」
 尋ねても響は曖昧に言葉を濁し、顔も次第に俯き加減になっていく。
「点数悪かったの? それとも良かった?」
「ん……」
「響君ってば」
 最終的には響は言葉すら零さなくなった。表情も陰っていて、立ち止まったままもじもじとしている。
 何回聞いても口を濁す響に痺れを切らして、梨花はつい響に向かって怒鳴ってしまった。
「もーっ、教えてくれたっていいじゃん響君のばか! もう知らないッ」
 一方的に怒った梨花は頬を膨らませてそっぽを向くと、響を置いて足早に歩き出した。
「ああっ、ま、待ってよりっちゃん!」
 ずんずんと歩いて行く梨花の後ろで、響が今にも泣きそうな声を上げた。響は梨花のところまで必死に走って追いかけてくると、すぐさまギュッと梨花の腕に抱きついてくる。
「りっちゃん待って、言う、言うから!」
「ほんとに?」
「言うから、りっちゃん僕のこと嫌いにならないで……」
 響のパッチリとした大きな瞳が潤んだかと思えば、そこからじわっと涙が溢れ出す。
「ちゃんと言うからぁ……」
 ついには泣き出してしまった響に、今度は梨花が「ええっ!?」と慌てふためいた。なにか響が泣き止むようなものは無いかと辺りを見回すが、そんなものは何もない。
 梨花は自分のとった言動を思い返して、深く後悔した。
 響は当時、同じ学年の男の子達から「女顔」「男女」「オカマ」と言われてはよくいじめられていた。梨花が知っている限り、男の子の友達なんて一人もいなかった。響は大人しくて優しい性格の子だったから、嫌がらせを受けても仕返しというものをしなかった。そんな響は彼らにとって恰好の餌食だったのだ。
 そんな日がずっと続いたせいか、響は非常に打たれ弱い性格になってしまっていた。そんな響が唯一心を開いている梨花に「もう知らない」なんて言われては、傷ついて泣いてしまうに決まっている。
 梨花はオロオロと狼狽えながらも必死で響に弁解した。
「ご、ごめん! ごめんね響君……! 泣かないで、響君のこと嫌いになんてならないよ。さっきのは嘘だから、本当にごめんね……っ」
「算数のテスト……」
「えっ?」
「りっちゃんに、あんなに教えてもらったのにっ……、僕……、30点しか取れなかった……っ」
 内心では響の点数にビックリしていた梨花だったが、それを表に出してしまえばますます響を落ち込ませてしまう。まだ小学二年だった梨花ですらそんなことは分かり切っていて、なんとか元気を出してもらおうと自分よりもやや低い位置にある響の頭を撫でる。
「ごめんねりっちゃん……僕頭悪くて、バカだから……」
「そんなことで響君のこと嫌いになったりしないよ。テストはこれから頑張ればいいし、点数悪くても、ちゃんと頑張ってる響君は偉いよ」
「でも頭悪いと女の子から嫌われるって健君に言われた……」
 スンッと鼻をすすりながら小さな手で涙をぬぐって、先ほどよりも落ち着いた響は呟くようにそう零す。健君とは響のことをよくいじめる男の子達の主犯みたいな存在で、梨花の宿敵である。
「響君は私の言うことよりもケンの言うことなんか信じるの?」
 響の手を握って、再び二人で歩き出す。その途中で梨花が尋ねると響は「違う」と意思表示するように首を横に振った。
「僕りっちゃんのこと好きだから、りっちゃんにだけは嫌われたくない……」
「私も響君のことだーい好きだよ。私達これからもずっと一緒だね」
 響が言ってくれた言葉が嬉しくて、梨花もありのままの気持ちを伝えた。そうすると俯いていた響が顔をあげてようやく微笑んだ。まるで花がほころぶかのような響の笑顔を見せられると、なにもかも忘れてしまえるくらい梨花は幸せな気分になれた。
 梨花は、響のことが大好きだった。



 走って屋上を出て行った響を追いかけたは良いものの、梨花が後を追って階段を下りた時にはすでに響の姿はどこにも無かった。運動神経には自信があったから絶対追いつけると思っていたのに、予想外の出来事に面食らってしまう。
「……いない」
 梨花は上がる息を整えながら辺りを見回した。
 特別教室が集うこの棟には人影などほとんど無く、これでは誰に聞いてもまともな情報は期待出来ないかもしれない。でも、まだそんなに遠くには行っていないはずだ。
 梨花は特別教室を一つずつ覗くために歩き出した。
(こんなに必死になって、響君に何を言うつもりなんだろう私は……)
 響のことなんて大嫌い、もうどうでもいい、関わりたくないと思っていたはずなのに今こうして彼を探している自分。心と体が矛盾していて可笑しかった。
 七年前、梨花が響の前から姿を消した時、響はその後どうしていたんだろう。
 梨花の知らない響の七年間。久しぶりに会った幼馴染はあまりに変わりすぎていて、不気味なほどにおかしくなってしまっていた。
(響君……一体何があったの)
 結局、どれだけ探しても響の姿はどこにも見当たらなかった。
 あっという間に昼休みが終わり、梨花が教室へ戻っても響は姿を見せなかった。周りから「柊君知らない?」と聞かれたものの、梨花は「知らない」としか言えない。そんなこと梨花の方が知りたいくらいだ。どうして急に顔色を変えて走って行ってしまったのか、理由が全く分からないのだから。
 そんな梨花がようやく響を見つけたのは、放課後。図書室で教科書を借りて教室へ戻っている時だった。
「……こんなところにいたの」
 音楽室の横を通りかかった時、中で響を見つけて梨花は足を止めた。
 ピアノに集中していた響を驚かせないよう極力静かに音楽室へと入る。響は梨花が入ってきたことに気づいているが怒る様子もなく、ただ熱心にピアノを弾いていた。弾いている曲は昨日とは違って、今度はなんだか悲しくて静かな曲調のものだった。やっぱりどこかで聴いたことがあるものの、普段クラシックを聴かない自分にとってはタイトルなど分かるわけもない。
 けれど、そんなクラシックに無知な自分でさえも彼のピアノは素直に上手いと思えた。
「終わったよ」
 聴き入っている間に演奏は終わったらしく、余韻に耽っていた梨花に響が苦笑して話しかけてくる。その声で梨花はハッと我に返った。
「あっ、ごめん聴き入っちゃってた……! やっぱりピアノ上手いね、今日のはなんていう曲だったの?」
「ベートーベンのピアノソナタ『悲愴』の第二楽章だよ。お気に入りだからよく弾いてる」
「昨日のは?」
「ショパンの『夜想曲』第二番。これもお気に入り」
 覚えておこうと曲名を復唱する梨花を見て響はクスクスと笑っている。もうお昼のことは気にしていないのだろうか、朗らかに笑う響を見てホッとする自分がいた。
「あー、あのね、その……今日の昼休みはごめん……。私が変なこと言っちゃったから」
「ううん、こっちこそごめん。朝から気分が悪くて、お昼が一番酷かったんだ。もう大丈夫だから」
 あっさりとそう言ってきた響の様子に安心したのは最初だけで、そのあと梨花は響の言葉に違和感を覚えた。
 昼休みの様子は、気分が悪いとかそういう部類のものじゃなかったように感じたからだ。あの様子は、梨花や悠人の言ったことに対して動揺し怯えているようだった。
「お昼、またああやって三人でご飯食べたいな。出来ればまた明日とか、その時にはもっと話せるようにするから」
 そう言って響は少し寂しそうに微笑む。口にしたのはなんてことない、ささやかなことなのにどうしてそんな顔をするのだろう。思ったが梨花はなぜか言葉が出なかった。
 目の前にいるのは確かに響なのに、どういうわけか梨花には響に見えない。
 例えるならば得体の知れない『何か』だ。
 心地悪さを覚え梨花は半歩後ずさった。どうしてここまで違和感があるのか分からないが、今の響と一緒にいてもまともな話なんて出来そうにないと直感していた。
「……それじゃあ私、もう帰るから」
「えっ、もう帰っちゃうの?」
「だってもう放課後だよ。課題もやらなきゃだし、じゃあね」
 昼休みのこともあって、響のことが気になっていたのになんだか空回りだったように思う。あんなに顔色を変えて怯えたような顔をしていたのに、今の響からはあの時のような弱々しさなど微塵も感じられない。
 それどころか、昼休みの響と今の響が、梨花の中で重なってくれない。
 晴れない気持ちで音楽室を出ようとした梨花の背後から、意外にも響が言葉を投げかけた。
「七年前のことだけど」
 七年前。
 そのワードに梨花は過敏なほど反応してしまい、すぐさま響の方へ振り返った。以前話した時には響は頑として「知らない」と言っていたのに、彼はフッと目元を細めて言った。
「もし、あの時のことをちゃんと覚えてるって言ったら、どうする?」
「……知らないって言ったのは、嘘ってこと?」
 思いがけない言葉が響の口から紡がれて、梨花は響を睨んだ。なぜならそう言った響は口元をつり上げ、悪戯が成功した子供のようにあどけない笑みを浮かべていたから。
(やっぱり惚けてただけってこと……?)
 だとしたらすごい演技力だと梨花は思う。あんなに必死で「知らない」なんて言われたら、そして今日の昼休みみたく顔色を変えて姿を消されてしまったら、いくら嫌いな相手とはいえど梨花だって心配してしまう。
 それが過去に自分のことを傷つけた相手でも、それでもやっぱり梨花と響が幼馴染で恋仲だったという事実と記憶は消えないのだから。
 でもそんな梨花の気持ちをよそに、響は全て覚えていて、惚けて面白がっていただけだった。そう考えると心が急激に冷えていくのがリアルに感じられた。
「もしも響君が、七年前のことを覚えてるくせに『知らない』なんて言って惚けて、私を騙そうとしていたのなら……。七年前に私にしたことを今も楽しんでいるのなら、私は響君のこと軽蔑するよ」
 響からの返答なんて待たずに、梨花は身を翻す。
(バカみたい……。心配してずっと考えて、私、本当にバカじゃないの……)
 響はやっぱり覚えていて、そのくせに惚けて、梨花の戸惑う様子を見て楽しんでいたのだろう。梨花の言葉に怯えたり、困ったり、悲しんだりしたのも全て梨花の気を引くための演技。そうして散々惹き付けたあとに思い切り突き落とし嘲笑う。七年前と同じやり口にかかってしまった自分が情けない。
 音楽室の扉に手を掛けようとした時、ドサリと何かが倒れるような音が聞こえた。
 聞き慣れない音に梨花は訝しんで振り返ると、響が床に倒れていた。一瞬ヒヤリとした梨花だったが、次に心の底から沸々と湧いてきたのは怒りだった。
「……なによ、またそうやって私を騙そうとしてるの?」
 倒れている響を冷ややかな目で見るが、響はピクリとも動かなかった。
「っいい加減にしてよ! もう騙されるわけないでしょ!? ふざけないで!!」
 一方的に叫んでも返事はなく、梨花の声だけが音楽室に虚しく響く。
 いっそのこと響を放って行ってしまいたいが、それが出来ない自分に対して余計に苛立ちが募った。肝心なところでツメが甘い自分だから、こんな風に響に弄ばれてしまうのかもしれない。
 もう心配なんてしないと決めたばかりだったのに早くも決意が揺らいでしまっている。いくら気にしたって無駄なことで、心配なんてもってのほかだと、どんなに強く自分に言い聞かせても、駄目だった。この時の梨花には無理だった。
「……響君」
 呼んでも、やはり返答はない。
 少しの間立ち止まっていた梨花は、意を決してゆっくりと響へ歩み寄った。今日ほど自分の事を馬鹿だと思ったことなんてなかった。
 けれど「騙すよりも騙される方が良い」という言葉があるように、人を信じることが大切なんだと自分に言い聞かせた。
 そんな言葉は所詮、騙された人が自分の愚かさを棚に上げた言い訳でしかないと知りながら。



 響が目を覚ましたのは、音楽室で倒れてからおよそ四時間後のことだった。
 睫毛の長い、黒目がちな瞳がゆっくりと開かれる。そのまま響の瞳はしばらく虚空を彷徨っていたが、次第に意識がはっきりしてきた彼は傍にいた梨花に気付いて口を開いた。
「りっちゃん……?」
「目が覚めた?」
「ここ……」
「響君の家。音楽室で急に倒れたのよ。先生は『ただの貧血』って言ってたからもう大丈夫だと思うけど」
 梨花の前で突然倒れたあれは演技ではなく、響は完全に気を失っていた。
 梨花は彼の意識が無いことを何度も確認すると、急いで養護教諭の先生を呼びに走った。あんな奇妙なタイミングで気絶するなんておかしいと思ったけれど、先生からは「大事には至らない」と言われとりあえずは安堵した。
「りっちゃんが俺の家まで……?」
「違うよ。送ってくれたのは養護教諭の藤生先生……ってか保健室の先生が男だったからちょっとビックリしたわ。しかも超やる気無いの。こっちは一刻を争うってのに『三十路をコキ使ってんじゃねーよ』って全然走ってくれないし遅いし」
 まだ校内を把握しきれていない梨花が保健室を探して辿り付くだけでも一苦労だったというのに、梨花の呼び出しに対して「俺今日はもう帰るとこだったんだがなぁ」と渋る藤生先生のやる気の無さときたら。本当にこの人は養護教諭なのかと梨花は心底疑ったくらいである。
 口を尖らせる梨花の話を聞きながら、響も苦笑していた。
「……ああ、あの先生は頼りにはなるんだけどめんどくさがりで有名だから……」
「生徒の健康を養護する保健室の先生が、めんどくさがりってどうなの……。でも、意識のない響君を保健室まで抱えていってくれたし、ここに来るまでも先生がいなきゃ運べなかったから助かったわ。あんた、後でちゃんと藤生先生にお礼言っておきなよ」
「……ん……」
 分かっているんだかいないんだか、響は曖昧な笑みを浮かべながら気のない返事をする。
「あと、これ。ごめんね、勝手に鍵借りちゃった」
 そう言って梨花は制服のポケットから鍵を取り出し、ベッド傍のナイトテーブルへ置く。鍵の在処は悠人に電話して聞いたのだ。響の鞄の中をいくら探しても鍵が見つからなかったため悠人に電話してみたら「あいつはいつも鍵持ち歩いてるから、制服のポケットに入ってる」とあっさり教えてくれた。
 藤生先生から聞いた話によると、響は一人暮らしをしているらしく、母親は彼が小学生の頃に亡くなったそうだ。響の家が元々母子家庭だったことは梨花も知っていたけれど、まさかそこまで早くに母親が亡くなっていたとは思わなくて驚いた。
 母親が亡くなってから響はずっと一人だったのだろうかと、梨花は少し陰鬱な気分になる。
「それにしても、結構いいマンションに住んでるのね。私が住んでる所と似てるかも」
 梨花の場合は両親がお金を払ってくれているけれど、響の場合、一体このマンションの家賃はどこから出ているのか気になった。当然、そんなプライバシーに突っ込んだ話が出来るわけもなく、疑問は心の中で留めたままだ。響もあまり言いたい事ではないらしく言葉を濁している。
「……前にちょっと色々あって、それでここに引っ越したんだ……。前は普通にアパートだったよ」
「そう……」
 響がベッドからゆっくりと上半身だけ起こす。
 とにかくも、響の意識が戻ったのなら役目はこれで終わりだ。傍に置いていた自分のバッグを手に取り、梨花は立ち上がった。
「それじゃあ、響君も目覚ましたことだし私もう帰るから」
「あっ、りっちゃんありがとう。ずっと居てくれて」
「これが最後だから」
 ささやかだが嬉しそうに顔を綻ばせる響に梨花は抑揚なく言った。響は意味が分からなかったらしく、その瞳はまっすぐに梨花を見つめている。
「もう二度と学校で私に関わらないで。私も響君には近づかないし、話しかけたりもしないから」
「どうして……?」
「『どうして』って、最初に屋上で言ったでしょ。私達はもう終わったんだって。だったら普通にこうやって話してる方が不自然だし」
 響はとても悲しそうに顔を歪めていた。でもこれも演技なのだと思うと、ますます気持ちが冷えていくようだった。
「……七年前のこと、どうして『知らない』なんて言ったの?」
「え……?」
「本当は覚えてるくせに」
 冷たく言い捨てた梨花の言葉に驚いて、響は目を見開いた。そしてすぐさま否定するように首を横に振る。
「知らないっ、本当に知らないんだよ!! なんでりっちゃんがそんなに怒ってるのか、俺全然」
「嘘つき!!」
 思い切り怒鳴ると響はビクッと身体をすくませた。その顔は可哀想なほどみるみるうちに青ざめていって、それを見ていたら梨花は余計に腹立たしくなってきた。響が梨花の反応を見て心の底では楽しんでいるんだと思うと、悲しくて辛い。
 梨花は手の平を痛いくらいに握りしめた。
「また騙されてたんだね私……。あんまり様子がおかしいから、もしかしたら何かあるんじゃないかって、私心配しちゃってたよ。バカだよね、七年前にあんなことした人のこと、私また信じようとしてた」
「りっちゃん……」
「そんな風に馴れ馴れしく呼ばないで! いくつだと思ってるのよ恥ずかしくないの!?」
 憤る梨花に響はすっかり萎縮してしまっていて、その手は小さく震えていた。こんな状況でも綺麗だと思えるほど異常に整った響の顔が悲しみに歪んでいる。それも演技なのだろうか、そうやってまた騙そうとしているのかと、梨花は自分でも何が正しくて何が嘘なのか分からなくなっていた。でももう傷つくのだけは嫌で、梨花はひたすら厳しい目で響を睨んでいた。
「ごめん……。……り、梨花さん……」
「名前で呼ばれるほど親しくないと思うんだけど」
「……橘」
「さん、でしょ。ただのクラスメイトなんだから」
「……橘さん……」
 震えていた響の手が布団をきつく握りしめる。
「学校で呼ぶ機会なんてもう無いと思うけど、今度から呼ぶ時はそうしてね。じゃあ私帰るから、お大事に」
 響の様子なんてお構いなしに言い捨てて、梨花は静かに部屋を後にした。
 響は最後まで泣かなかった。梨花が何を言っても、昔みたいにすぐ泣いたりはしなかった。あの時の、泣き虫で、でもとても優しくて純粋だった響は、梨花の好きだった響は全部作りものだったのだろう。梨花はただ遊ばれていただけだ。
 そう思って過去を切り捨てようとするけれど、胸が苦しくて涙が出てしまいそうだった。七年前、響に『好きじゃない』と言われた時と同じような気持ち。あんな気持ちをもう味わいたくないと思っていたのに、やっぱり自分は馬鹿だと梨花は痛感した。
 だって今、梨花は響に言ってしまったことをとても後悔していたから。
(酷いこと言っちゃった……)
 響の家を出た梨花は、ドアの前に座り込んで溜め息を吐いた。自己嫌悪でどうにかなりそうだった。