第31話 きっとまた会える


 ガラリという音と共に唯君の病室のドアが開いて、そこから一人の女性が現れた。
(この人が、唯君のおばあちゃん……?)
「あら……」
 その人は目を丸くして、少し驚いたように私を見つめながら声をあげた。声だけでも随分と若い印象を受けたけど、姿も大分若々しい。きっちりと綺麗な着物を着こんで、髪の毛も丁寧に結ってある。なにか、茶道とか華道でもやってそうな勢いで、本当に上品な感じのするおばあちゃんだった。
「あっ……あの……」
 立ち聞きしていたことを知られてしまったんじゃないかとおどおどしていた私に、その人は姿に相応するような上品な微笑みを見せた。
「もしかして唯のお友達?」
「えっ、あ……はい……! こんにちはっ」
「こんにちは。唯、お友達がお見舞いに来てくれてますよ」
 慌ててペコッとお辞儀をした私に唯君のおばあちゃんは悠然と微笑んで、その後くるりと振り返り病室にいる唯君に声をかけた。
「えっ?」
 唯君は、まさか私がいるなんて思わなかったんだろう、驚いて声をあげている。その唯君の反応を見ておばあちゃんは少し笑っていた。
「ふふっ、あの子とっても暇そうだから、良かったら話し相手にでもなってあげてちょうだい」
「あ、はい……」
 立ち聞きしていたことには触れられずに、私は半ばホッとしていた。けれど、当の唯君には完全にバレてしまっただろうけど。
「それじゃあ私はこれで失礼するわね」
 同性が見てもドキリとするくらい綺麗な微笑みを見せて、その人は病室を後にした。残された私は病室のドアのところに立ち竦んでしまう。その間も、先ほどの二人の会話が頭から離れなかった。
「……もしかして、話全部聞いてた?」
 なかなか病室に入って来ようしない私を見て、唯君も明らかに悟っただろう。おそるおそる、部屋の中の彼は私に向かってそう訪ねてくる。
 私はコクリと、小さく頷いた。
「……うん。……ごめんね、つい立ち聞きしちゃって……途中からだったけど、話はなんとなく分かってる」
「そっか……」
 そして少しの間お互い黙ったままで、唯君は何か考えるように視線を落としている。私はゆっくりと病室へ入るとドアを閉めて、彼のベッドの横の椅子に腰掛けた。
 どうしよう。その言葉ばかりが頭の中に浮かんでくる。あまりに突然すぎて、なんと言えばいいのか分からない。
「さっきのがおばあちゃん、こないだ話してた」
 どう話をすればいいのか戸惑っていた私に唯君は、少し間を置いたのち話し出した。
 でも私は耳を塞いでしまいたいくらい、その話を聞きたくなかった。唯君の側にいられなくなるのだという事実を、突きつけられてしまいそうだった。
「担当医の先生ともちょくちょく話す機会があって、カウンセリングは前から勧められてたんだ。俺も自分で自分が分からなくなる時があるから、受けた方がいいかなって思ってて、それぐらいなら良かったんだ別に」
 彼の心の異変は、側にいた私でさえも気付いていたのだ。本人が気付いてないわけもない。唯君だって、自分がいかに不安定なのかちゃんと分かっているようだった。
「ただ、『カウンセリングを受ける程酷いのか』っておばあちゃんが先生に訊いて、それで俺をこっちに一人残すのに大反対しだして、さっきの始末」
 苦笑して彼は私を見つめた。それだけで、私の心は大きく揺さぶられてしまう。
 どうしよう、行って欲しくないよ。これは彼のためなのだと分かっていても、行って欲しくない。ずっと一緒にいたいよ。でもこれは唯君のため……、だけど……。
 私の頭の中を二つの相反した考えがぶつかり合う。
『それに、さっき先生から呼ばれて話を聞いたけど、あなた時々夜中に発作起こして嘔吐してるらしいじゃないの』
 そんなこと私知らなかったよ。唯君元気だったし、怪我の治りも良好だって聞いてたから少し安心してはいたけど、やっぱりそういう形で心の傷は表に出てきてしまうのだろうか。
 でも、それにしたってカウンセリングならこっちで受ければいい、両親がいない分、私が彼をフォローしてあげればいい。心の中でそんな勝手なことを考えている嫌な自分がいる。彼と離れたくない一心で。
 行かないで、行かないで。
 何度も心の中でそう繰り返していた。
「そ、か……」
 ポツリと呟いて、心の中の気持ちは声には出さす、私はグッと堪えて笑った。
「藤森……」
「ごめんね、いきなりだったからちょっと驚いちゃって……。そうだよね、私だって唯君のこと心配してるんだもん、おばあちゃんだって唯君のことすごく心配してくれてるんだよね」
 唯君はどこか悲しげな表情をして私を見つめる。
 そんな顔をして見ないで欲しい。そんな顔をされると、本音を言いそうになってしまう。行かないでって、言いたくなってしまう。気持ちを抑えられない、泣き出してしまいそうになるから。
「……っ……今は少しでも怪我を治すのと、心を休ませることに専念した方がいいよね」
 怪我だって酷いのに、そのうえ精神的なもので発作を起こして、そんな人を放っておけるわけがない。だからこそ唯君のおばあちゃんの考えだって分かる。あの人はあの人なりに唯君のことをちゃんと考えていてくれているのだ。
 でも今の唯君は、行こうか行くまいか迷っているような様子が伺えた。さっきおばあちゃんに対して「絶対嫌だから」と言っていたのもあるし、どちらかと言えばこちらに残りたいのかもしれない。この話は、決して唯君にとってマイナスにはならないのに。
 そんなことは分かっていても私の口からは言葉が出ない。こんな時、友達なら背中を押してあげるべきなのに。「帰ってくるまで待ってるよ」って、言ってあげるべきなのに。そう心では思っていても、口からその言葉は出て行こうとしない。今は、その後押しする言葉を言うのが怖かった。
 彼が側からいなくなってしまうのが嫌で、必死で私は言葉を呑み込もうとしていたんだ。
「……藤森、俺」
「……ないで……」
「?」
「……行かないで……」
 小さい声で言った。
 それが私の本音だった。行かないで欲しい。そう言った私に、彼は言いかけていた言葉を止めて驚いた様子を見せる。
 行くのは彼のためになると心では分かっていても、口には出したくない。そして今出た言葉こそ私の本音だった。自分のことしか考えていない私の。
「藤森」
「……ごめんね! 言ってみただけ。……今の冗談だから、気にしないで」
 唯君を安心させようと笑みを見せて言ったけど、自分でも涙腺が緩んできているのが分かる。訂正するくらいなら最初から言わなければ良かった。このままだと確実に泣いてしまいそうな気がして、私は慌てて椅子から立ち上がった。
 なんだろう、私、最近泣いてばっかりだ。悲しくても嬉しくても、泣いてばかり。本当は笑っていたいのに。
「私ちょっと用事があるから今日は帰るねっ。……これっ、ゼリー作ってきたから食べて! また明日来るから……ごめん……ッ」
 最後の方なんてもう声が掠れてしまっていた上に涙が頬を滑っていて、自分でも「いけない」と思った。けれど、そのまま身体を翻して病室を出て行こうとした私の腕を、ギュッと強い力で唯君の手が掴んで止める。
「!?」
 今泣いている顔は見せたくない。もうすでに涙が出ていたから、振り返って彼の顔を見ることは出来ない。そのまま腕を掴まれた状態で止まっていたら、彼はゆっくりと私に尋ねた。
「泣いてるの?」
 見られたくないから悟られる前に去ろうと思っていたら、案の定唯君にはバレバレで。泣いてないと嘘をつくことも出来なくて私は小さく頷いた。
「……ごめん」
 私が頷くと、唯君は一言謝って黙り込む。私が勝手に感傷的になって泣いてるだけなのに謝らせてしまった。唯君が謝ることなんてないのに。言葉が出ない私は代わりに首を横に振った。唯君のせいじゃないよと、そう伝えたくて。
 どうしてこうも不器用なんだろう、もっと上手く想いを伝え合っていきたいのに。
 離れたくない、一緒にいたい。本当は泣いて縋ってでも彼にそう言いたい。行かせたくない。そして行って欲しくない理由は、まだ他にもあった。
 遠くへ行けばまた新たな出会いがあるだろう。新たな出会いがあり、知り合って、友達になって、そうしてまた自分の世界を築いていく。それは悪いことじゃない、普通のことだ。けど、だからこそ怖かった。彼が私の知らない場所で知らない人と出会い、いつしか私のことなど忘れてしまうんじゃないかと。もう帰ってこないんじゃないかと思えて不安になる。
 おかしいよね。恋人でもないのにそんなことが怖くて仕方ないんだ。
『唯には悪いけど、転院の手続きはもうとってあるから……。あなたはもうちょっと自分を大事にした方がいいわ。また明日来るから、よく考えておきなさい』
 もう転院の手続きはとってある。唯君が何と言おうとも、彼のおばあちゃんは唯君を自分のところへ連れ帰るつもりなんだ。唯君が行ってしまうことはもう決まっているんだ。だから私が何を言ったところで、それが変わるわけでもない。
 これはもう決まってしまったことなんだ。
 あの後家に帰った私は、何もする気になれなくてベッドに横たわったままボーッとしていた。



「唯、明日行っちゃうんだって」
 図書室で本を読んでいた私にそう言って話しかけてきたのは、他でもない北川君だった。
 彼もちょくちょく病院へお見舞いに行っているから、唯君からその話を聞いていたんだろう。そして、最近めっきり病院へ行っていない私を気遣ってくれたのかもしれない。
「そのことで凹んで病院に行ってないんだろ? 分かりやすいなぁ藤森は」
「……だって……」
「明日9時くらいに病院出るらしいから、会いにいってやれよ」
 会って、なんて言えば良いんだろう。毎回そんなことを思って、つくづく話すのが下手な自分に嫌気が差してくる。会えばまた「行って欲しくない」と言ってしまいそうで嫌なのに。行った方が彼のためなのに、そう分かっていても行って欲しくないという自分の想いは消えない。
 それは誰のためでもない、私自身のワガママでしかなかった。
「……なんて言えばいいのか分からなくて」
「別にもう会えなくなるわけじゃないんだし、そんな思い詰めなくてもいいじゃんか」
「そうなんだけど……」
 北川君の言うように、もう会えなくなるわけじゃない。会おうと思えばいつだって会いにいくことが出来る。けど、そう自分に言い聞かせても私の中にあるモヤモヤしたものはそう簡単には消えない。
「ほら、アイツ外出許可出てないから病院から出られないし、無視して病院出るにしても松葉杖じゃキツイ距離だし、唯は藤森と話したくても、藤森から行ってやらないと話せないんだよ」
「……唯君、私のことなにか言ってた?」
 北川君は唯君とよく病院で話していて、一体何を話しているんだろうと毎回気になっていた。おそるおそる尋ねると北川君は「さぁ?」と惚けるように首を傾げる。
「知りたかったら会いにいけばいいじゃん」
「……少しくらい教えてくれたっていいのに」
 あまりにも意地悪な返答だと思わず口を尖らせてしまったが、言われた彼はといえば面白そうに笑っている。
「だって最近の唯と藤森見てると痒くなってくるっていうかさぁ。初々しいというか……」
「北川君は寂しくないの?」
「俺? そりゃ寂しいなとは思うけど、会いたくなったら会いに行くし。メールとかすればいいし」
「そうだよね……」
 北川君みたいな考えを持つことが出来ればいいのにと、彼を羨ましく思う。
 私だって唯君が普通の友達だったらそう考えるかもしれないけど、私は唯君のことが好きで、友達としてじゃなく恋愛対象として彼を見ていた。だからこそ余計に、彼が遠くへ行ってしまうことが悲しくて仕方ない。
「まぁ俺は唯のことを恋愛対象に見てるわけじゃないから藤森とは思うことが違うんだけどさ、それにしたって二人ともまだなんにも自分の気持ち伝えてないっぽいから、会いに行った方がいいんじゃないか?」
「でも……」
「病室のドア開けると唯がパッと嬉しそうな顔すんだけど、入ってきたのが俺だと分かった瞬間『なんだ』みたいな顔するんだぜ。最悪『なんだ北か』って口にまで出すんだぞ。あいつ失礼にも程があるって。……俺毎回それ見るたびに謝ってんだけど」
 アレ見るとかなり居たたまれない気分になるからなんとかしてくれ、と北川君は苦笑して、私に軽く手を振ると図書室を出て行った。



 転院の話を聞いてからすでに四日ほど経っていた。
 学校で北川君が話してくれたこともあり、私は一度家に帰った後、身支度を整えて病院へ向かっていた。携帯の時計を見ると17時半を回っていて、辺りは徐々に薄暗くなってきていた。
 もうあまり時間がない。明日になれば唯君は病院を移ってしまう、そうすればもう次はいつ会えるか分からない。そんな気持ちが私を焦らせていた。携帯でやりとりは出来るけど、その前に、自分が後悔する前に会おうと思った。
 会わないまま別れてしまうと、自分は後で絶対に後悔する。
 だが、それでも相変わらず私は彼にどう話を振ればいいのか分からないままでいた。
(最初は、この間のことを謝って、それから……)
 ちゃんと自分が思っていることを言おう。唯君のことが好きだから、私が側にいたかったからこの間は「行かないで」ってつい言ってしまったって。でも本当は、行った方が唯君のためになることも分かってるんだってことも。遠くへ行っても私のことを忘れないでほしいって。
 考えれば考えるほど言いたいことが沢山出てきて、こんなことならもっと早くに唯君の所へ行くんだったと今更ながら後悔した。
 そして色々考えているうちに病院へ辿りついて、慣れた足取りで私は唯君の病室の前まできた。その扉の横には「桜川 唯」と書かれたプレートが置かれている。それに触れると、冷たいプラスチックの感触。
(唯君……)
 これが明日にはなくなってしまう。彼はいなくなってしまうんだと考えると余計にもの悲しくなって、私は消沈したままゆっくりと扉に手を伸ばした。
 病室の扉を開くと、部屋の窓から吹いている温かな風に迎えられた。窓が開いてるんだ、と思ったと同時に目の前に広がった光景に私は目を丸くした。
 いつもならいるはずの唯君がいなかった。
 空になったベッドと、窓から入ってくる風で大きく靡くカーテン。そこにあったのは、人がいた気配だけが残る病室。彼はいない。
「唯君?」
 病院の庭にでも出ているんだろうか。それとも屋上か。そう思った時、空になったベッドの上に打ちかけの点滴の針が無理矢理抜かれた形跡があるのを見つけて、私はそのまま急いで病室を出て、彼を探すことにした。
 一体何があったというんだろう。
(どこに行っちゃったの……唯君……)
 院内や外、屋上へも行ったけど彼の姿はどこにもなかった。迷った末、丁度側を通りかかった看護士さんに唯君のことを伝えると、院内と外を探してくれるらしく慌てた様子で行ってしまった。私もさっき一通り探したつもりだが、院内をよく知らない私が一人で探すよりもやはり病院の関係者に探してもらった方が早いかもしれない。
 けど、もし病院にいなかったら。むしろそっちの方が可能性が高いかもしれない。院内のどこかに用があるのなら点滴が終わってから、もしくは点滴スタンドを持って出ればいいのだ。無理矢理抜いてまでして出て行っているのだ、院内にはいないような気がする。
 でも病院を出たとしたら一体どこへ行ってしまったんだろう。入院中の彼が行けるような場所なんて思い浮かばない。考えるほど嫌な方向へしかいかなくて、嫌な汗が流れる。
(唯君が行きそうなところ……)
 学校、公園、それとも誰かの家。どれもピンと来ない。友達の家なんて、行っても相手が驚くだけだ。
「……家……」
 そこまで考えたところで一つの場所が頭に浮かんで、私はそのまま病院を出て走った。
 病院からわりと離れているが、そこしか彼の行きそうな場所が思い浮かばなかった。
 明日転院してしまうのなら、しばらくここに戻ってくることもない。だから、最後に来ているかもしれない。この思い出のある場所に。
 そこは、中に明かりは灯っておらず人がいそうな気配もなかったが、ドアノブに手を伸ばすと思っていたとおり鍵がかかっていなくてドアが開いた。いや、「鍵がかかっていなかった」というよりも「彼が来て鍵を開けた」と言った方が正しいのかも知れない。
 だってそこは、唯君の家だったから。
「お邪魔します……」
 玄関のドアをガチャリと開いて、そのまま靴を脱いで静かにリビングへと足を進めた。そしてリビングのドアを開くと、そこにいたのはやっぱり唯君だった。
 それを見て静かに私は安堵の息をつく。
 唯君はやわらかなソファに横たわり眠っているようだ。特にうなされている様子もなく、至って静かに。それを見て私はどこか安心していた。起きている彼に迎えられるよりも、こっちの方がなんだか落ち着いた気分になる。
 私は足を進めて唯君の前に腰掛けると、そのままジッと彼の顔を見つめていた。以前は怖いと思った暗いこの部屋の雰囲気が、今だけはなんだか落ち着ける。
 唯君の寝顔を見るのはこれで何回目だっけ。そんなことを思っていると微笑ましくなって、私は少し笑みを零した。
 このまま、時間が止まってしまえばいいのにと思った。そしたらずっと一緒にいられるのにと。
「唯君……」
 小さく彼の名前を呟いて、私はそっと唯君の髪に触れた。触れることが出来るのは、彼が今近くにいるからだ。私の手の届く距離にいるから。
 でも遠くへ行ってしまえば、もうこんな風に彼に触れることだって出来ない。
「……ん」
 どれくらいそうして彼を見つめていたんだろう、しばらくして唯君は声を漏らしてゆっくりと瞳を開いた。その瞳はすぐに私をとらえて見つめていたけれど、特に驚いた様子はなく、彼はゆっくりと身体を起きあがらせて目を擦る。
「病院にいないと思ったら、抜け出してここに来てたんだ」
「うん……、ちょっと持っていきたいやつがあって……、……って、なんで!?」
 えっ、どうして藤森がここにいんの、とでも言うように彼はギョッと驚いて私の方を見ている。さっきのは寝ぼけていただけだったらしく、私はそんな彼を見て笑ってしまった。
「病院に行ったらね、唯君がいなかったからここかなぁって」
「ごめん、俺超爆睡してた。……藤森が来てからどれくらい経った?」
「えっとね……1時間半くらい……かな」
 それを聞いた途端唯君は顔を赤くして、「ありえない」と呟いた。
「1時間半ちかく寝顔見られてたとか恥ずかしすぎ……、っていうか普通に起こしていいから!」
「ごっ……ごめんなさい、あんまりぐっすり寝てたから起こすのも可哀想だなって……」
「今は寝る時間よりも藤森に会う時間の方が限られてるのに……」
 彼が何気なく言ったことに私は過敏に反応してしまって、ボッと顔が熱を帯びた。唯君はなんとなく言っただけのようだが、私に会う時間の方が限られてるって、なんだか嬉しい言葉だと思ってしまう。
「そういえば、どうして勝手に家に戻ってきてたの? まだ治ってないのに……」
「いや、走ったりしなければ大丈夫かなーって思って……。ここ来るまでもタクシーに乗ってきたから。……まぁ、病院戻ったら先生に怒られるだろうけど……」
 苦笑しながら言って、唯君はテーブルの上に置かれた一冊のアルバムを手にとって見せた。多少古ぼけた感があるそれの中に入っていたのは、彼が両親と撮った写真の数々。
「おばあちゃんに取りに行ってもらおうと思ってこないだ言ったんだけど、『そんな不愉快になるもの持っていかなくていい』ってすごい剣幕で怒られたんだ」
「そんなに?」
「うん。すげー怖かった、まさかあそこまでキレると思ってなかったから腰抜かしたもん」
 唯君は全然大したことないように笑って言うけど、真剣に考えてみると事態は結構深刻だ。唯君のおばあちゃんは、彼をこんなことにした父親を憎んでいるんだろうか。そうじゃなかったらそんなことで怒ったりしないはずだ。それも無理のないことだけど、そんな風に壊れてしまった関係になんだか切なくなる。
「唯君のおばあちゃんは、唯君のお父さんのこと憎んでるの?」
 訊いて良いのか迷ったが、話を聞きたくて私は唯君に尋ねる。
「憎んでる、かな。きっともう元には戻らないよ。俺が意識戻してから一般病棟に移ってすぐ、お父さんの方……桜川のおじいちゃんとおばあちゃんも来てくれたんだ。泣きながら謝られた。悪いのはお父さんで、あの人達は悪くないのに。でもお母さんの方……水谷のおじいちゃんとおばあちゃんはすごく厳格な人達で、お父さんの事を絶対に許さない、二度と会いに来ないでって、もうカンカンで」
「唯君、すごく大事にされてるんだね」
「俺のお父さんとお母さん、二人とも一人っ子だったから双方の両親にとっては俺ってたった一人の孫なんだよ。そのせいか小さい頃からよくしてもらってたんだ。特にお母さんは昔から身体が弱くて子供なんて絶対に産めないって言われてたから、水谷のおじいちゃんとおばあちゃんからは特に可愛がってもらってたかな」
 この人達がそう、と言って唯君はめくったアルバムの中から一枚写真を指さして見せてくれた。そこには数日前に私が見た唯君のおばあちゃんの写真が載っていた。数年前の写真だろうが、相変わらず気品のある人だと思った。若い頃は相当美人だったに違いないと思ってしまうほど。隣に並んで写っているおじいちゃんの方もまた凛とした顔つきで、羽織袴をきっちり着こなしていて格好いい。そして唯君の言ったとおり、とても厳格そうな印象を受ける。
「お母さんが死ぬまでは両家とも普通に仲良かったんだけど、今はすごく険悪かな。……多分、もう昔みたいには戻れないよ」
「……そっか……ほんとに色々あったんだもん、難しいよね……」
「だからあんまりしつこくアルバムのことは言えなくて、でも俺にとっては大切なものだから、一冊くらいは持っていきたくて」
 本当に大切なものだったんだろう、彼の、両親と過ごした日々の想い出は。笑みを浮かべた彼と一緒に、私も微笑んだ。
「……明日、行っちゃうんだよね」
 言うと、唯君は小さく頷く。
「迷ったんだけど、こないだ藤森が泣いたの見て、行こうって思ったんだ」
「え?」
『泣いてるの?』
 転院の話を聞いた時、唯君と離れたくなくて泣きそうになった私は、そのまま彼に泣き顔を見られないように病室を出ようとした。でもそんな時彼に止められて、そう訊かれたのだ。
「いつも泣かせてばっかり。そのくせ俺ばっかり藤森に色々してもらってて、本当に藤森には『ごめん』とか『ありがとう』とか何度言っても足りないぐらいだなっていつも思ってた」
 そんなことないのに、と思った。私はほとんど唯君の力になることが出来なかった。側にいてあげることも満足に出来なくて、助けてあげるにも不十分すぎて。しまいには追い詰めて事故に遭わせてしまった。
 本当に「ごめんなさい」と謝りたいのは私の方なのに。
「だから、もうちょっと頼れる男になろうって。これからは藤森を守ってあげられるくらい、強く」
 ニコッとあどけない笑みを向けてそう言った彼の言葉に、私は身体に炎が灯るのを感じた。今まで彼の口から出たことのない、その優しい言葉に。
「藤森のことが好きだから」



 いつ頃から彼女に惹かれていたのかは分からない。
 気が付けば、一緒にいたいと、好きだという気持ちが心の中にあった。それは初めて知った感情だった。自分は今まで恋をしたことがなかった。ずっと一緒にいたいくらい好きだとか、愛してるとか、誰かに対して思ったことがなかった。
 だって自分は一人でなんでも出来たから。友達だって沢山いた。寂しくなったら友達と遊べば良かった。特別な存在なんて必要なかったんだ。だから何度告白されても自分の心にはなに一つ響かなかった。
 だけど、彼女だけは違った。
 俺に向かっていつも優しく微笑んで手を差し伸べてくれる、彼女だけは。



 閉じられたカーテンの隙間から、朝陽が差し込んできていた。
 どうやら藤森と話したあと自分達は眠ってしまっていたようで、横たわっていたソファから身体を起こす。そしてリビングに置かれたテーブルに顔を伏せて寝ている彼女を見て、なんだか微笑ましくなって小さく笑みを零した。
 こうやって藤森が自分の側にいてくれるということが嬉しい。出来れば、もっと一緒にいたいとも思った。
 ふと部屋の壁にかけられた時計へ目をやると、朝の7時を過ぎたところだった。昨日おばあちゃんに「家にいる」と連絡したら案の定かなり怒られた。これから病院へ戻ったらまた色んな人から怒られそうで今から気が重くなる。
 けどそんな憂鬱なことも、藤森とこうして一緒にいられたことを思えば安いものだと思える。とりあえず、自分が一番伝えたかったことを彼女に伝えることが出来たから。
 だから、それだけでもう満足だった。
 そっと、藤森を起こさないように足下に置いていた松葉杖に手を伸ばし、立ち上がる。本当はもっと一緒にいたいけど、もうあまり時間がない。
「……藤森」
 小さな声で呼んだけど、当然眠っている彼女には聞こえていない。ただ名前を呼んだだけで、いとおしさで胸がいっぱいになっていくのが分かった。こんな気持ち、今まで感じたことがない。藤森に会えたから自分はこんな幸せな気持ちを知ることが出来たのだ。
「今までありがとう。……藤森に会えて、本当に良かった」
 藤森と会うことが出来なかったらなんて、そんなことを考えると怖くなるくらい、藤森は俺に沢山の優しさや温かさをくれた。彼女がいなかったら自分は今こんな気持ちになることはなかっただろう。毎日に怯えていて、絶望して、もうなにもかもどうでもよくなっていた。光は見えないまま。
「……次に会う時は、きっと……」
 家を出ると丁度門扉の前に一台タクシーが止まって、中からおばあちゃんが出てきた。分かっていたけど、俺の想像以上に不機嫌そうな面持ちだ。それも自分がしたことを考えれば無理のないことなのだが。
「……ごめんなさい」
 とりあえず素直に謝ってみると、おばあちゃんは一つため息を吐いた。相変わらず顔つきは険しいままだ。そして目の前まで歩いてくると、ポンッと頭を軽く叩かれる。てっきり引っぱたかれるかと思っていただけに、それはあまりに意外すぎて思わず拍子抜けした。
「あんまり心配かけさせないでちょうだい。昨日先生から唯が病院抜け出したって聞いた時は本当にビックリしたんですよ」
「うん、ごめん……」
「謝るくらいなら最初からしないこと。全くもう……ほら、私が持つから……。そんな持ち方してたら転んでしまうわ」
 そう言っておばあちゃんは手を伸ばし、俺が手に持っていたアルバムを取り上げた。この間アルバムのことを話したら散々怒られた。そのまま捨てられてしまわないだろうか。
「あっ」
「もう……こんなもののために家に帰っちゃうなんて……もし傷口が開いたりでもしたらどうするつもりだったの。……そういう無茶をするところも由梨にそっくりなんだから……」
 怒って、でも少し悲しそうに笑って、おばあちゃんはそのアルバムを見つめていた。
「だって俺お父さんとお母さんの子だし」
「そうね、本当によく似てるわ。ほら、早く病院に戻りましょう」
 そう言って車に乗るように促してきたおばあちゃんに、俺は最後に振り返って家を見つめた。18年間という長い間、たくさんの思い出が詰まった、その家を。



 カーテンから零れる日差しが身体に当たっている、その温かさで私は目を覚ました。
 一瞬「ここはどこだろう」と思ってしまうくらい、見慣れない光景に私の思考は止まる。目が覚めた時に広がる光景が、いつものそれとは違っていた。
(……そうだ、唯君の家……。私昨日唯君と話してて、そのまま眠っちゃったんだ……)
 思い出すと次第に頭が冴えてきて、次に自分が探したのは唯君の姿だった。側に唯君がいないのだ。眠る前までは確かに私の隣にいたのに。
「唯君?」
 呼んだが、しんと静まりかえっているこの家の中から返答がくることなどなかった。人の声はおろか、物音すらしない。次第に焦りを覚えはじめた私は、ハッとして部屋の時計を見上げた。
 時計は、10時を回ったところだった。
『明日9時くらいに病院出るらしいから、会いにいってやれよ』
「うそ……」
 北川君の言っていたことを思い出して私は愕然とした。彼が言っていた時間をゆうに過ぎている時計を、止まったように見つめてしまう。
(唯君は、もう行ってしまった?)
 そんな考えがよぎって、私は慌てて鞄に入れていた携帯を取り出した。携帯には何件か着信があって、履歴を見てみるとそれは全て北川君からだった。時全て8時半から9時にかけての、唯君が病院を出て行くと聞いていた時間帯に集中している。
 私は急いで北川君に電話をかけ直した。ドクンドクンと、気持ち悪いくらいに大きく高鳴る胸を必死で押さえて。
『あっ藤森!? どこにいるんだよずっと携帯で呼んでたのに』
 北川君は、待ってましたと言わんばかりにすぐ電話に出てくれた。
「北川君……唯君って」
『唯ならもう行っちゃったよ、昨日9時に病院出るって言ってただろ?』
 やっぱり行ってしまったんだ。私が眠っている間に彼は行ってしまった。酷いよ、どうしてそんなことしたんだろう。行くのなら家を出て行く時に起こしてくれればよかったのに。ちゃんと最後に、きちんとさよならしたかったよ。
 どうして私には何も残さずに行ってしまったんだろう。
『藤森のことが好きだから』
 突然、私の中を音色のように流れた穏やかな声。
 それはずっと、私に向けてほしいと思っていた彼の気持ちだった。何度断られても、ずっと待っていた言葉。彼はちゃんと残していってくれたのだ。『好き』だという気持ちを、私に伝えていってくれた。それが私のずっとずっと欲しかったもの。
 彼の心だった。
『藤森良かったのか? 唯に会わなくて』
「……」
『藤森?』
 何も言わずに黙り込んでしまった私を心配して、北川君が幾度か声をかけてきてくれている。
「……うんいいの。昨日会って話したから、……もういいの」
 唯君からその言葉が聞けるなんて思ってもみなかったから、私は瞳から零れる涙を一生懸命拭って、自分も自身の思いを再度口にした。
『私も唯君のことが好き、初めて告白した時から変わってない……ずっとずっと好き……大好きだよ……っ……』
 ずっと彼に憧れていた。そしてそれは彼のことを知っていくにつれて好きという気持ちに変わった。だから力になってあげたいと思ったの。側にいたの。微笑む彼が好きだったから、笑って欲しかった。元気にしてあげたかった。
 何度断られようとも、気持ちは変わることなくずっと私の中にあった。
『唯君のことが好き、……だから……』
 その次に言おうとした私の言葉を止めたのは、彼の口づけだった。恐らく唯君が目を覚ましてからは初めてであろう、優しいキス。私の視野いっぱいに広がった、彼の顔。
『絶対ここに戻ってくる、藤森に会いに来る、だから……』
『唯君……』
『だから、──待ってて』

 そうして私達は、さよならをした。
 でもそれは決して別れを告げる言葉じゃない、お互い新たな一歩を踏み出す、旅立ちの言葉だった。
 また会おうという互いの気持ちが言葉になった、約束。