最終話 光の道


『い、言わないよ! 言わない、絶対に言わないから……! だからっ』
『藤森ってバカだよね。そんなん俺が信じるわけないだろ』
 当初、私の憧れていた唯君が北川君に暴力を振るっているところをたまたま見つけて、唯君にそれがバレてしまったところから全ては始まった。
 そしてワケのわからないまま、私は彼に強姦された。普段とは全く違う雰囲気を持った、恐ろしい彼に。人を傷つけることを楽しむような、そんな怖い微笑みを見せる彼に。
『私、唯君はこんなこと絶対しないって思ってたのに……、唯君は、誰にでも優しくて、みんなからも信頼されててっ……すごくすごく、……いい人で……』
『唯君じゃない。こんなの、私が憧れてた唯君のすることじゃないッ!』
 強姦された時のあられもない姿を携帯で撮られて、それを見せてきた彼。そんなことを平然とする彼に私は初めて、こんな酷いことをする人が存在するものだと、まるで人間じゃないもののように彼を感じた。
 それから幾度となく酷いことをされて、暴言を吐かれたこともあった、それに耐えられなくて泣いたことなんて何度も。
 どうしてこんなことになってしまったんだろう。そんなことが幾度も私の頭の中を駆け巡った。
 呼ばれれば、気に入らないことを言えば心身共に痛めつけられる。以前私が憧れていた優しい彼はそこにはいなかった。一体どこにいってしまったんだろう、あの優しい彼は。
 もうなにがなんだか分からない、填ってしまった泥濘から出られない。
 彼の心が、見えない……。
 そんな私が初めて彼の心に触れたような気がしたのは、ある日怪我を負って学校へ登校してきた彼を見てから。
 どうしてそんな怪我を負ってしまったのか心配で、昼休み、屋上に一人でくつろいでいた彼の元へと行った。けれど、彼からは迷惑だと冷たくあしらわれて、しまいには口淫を強要されてしまう始末。
 怪我のことを心配して気遣ったつもりだった、それなのにそんな私の言葉など聞き入れてはくれず、やっぱりこの人は普通じゃないんだと、諦めかけて私は言葉を零した。ほんの一言だけ。
 「こんなことをして楽しい?」と。
 そんな私に彼は、少し切なげに微笑んで、口を開いた。
『楽しくないよ、全然』
 それが、初めて彼が私に零した本音だった。思えばそれからだろう、私と唯君の間で、少しずつ何かが動き始めたのは。
『……好きでもないやつに犯られてんのに、なんで最初の時みたいに抵抗しないんだよ……』
 抵抗しないのは、唯君のことが好きだからかもしれないと言った私に、「大嫌いだ」と、涙を零しながら綺麗に微笑んでそう言ってきた彼。
『何も知らないくせに好きだとか、気になるとか、心配だとか……お前みたいなやつ見てると、めちゃくちゃにしてやりたくなる……!!』
 少しずつ、少しずつ何かがズレていく。
 それが正しい方向へなのか、誤った方向へなのかは、誰にも分からなかった。
 けれどどうしても唯君を放っておくことが出来ずに、私はどんどん彼のいる暗闇へと填っていった。自分の心は次第に彼だけになっていった。当初、あんなに恐ろしく思えたのに、そんな感情はいつの間にかなくなって、彼の一面を知るたびにその気持ちは愛しさに変わっていっていることを知った。
 嫌いになんてならなかった。それどころか、心惹かれて好きになっていった、ほっとけないと思うほどに。だからこの先どんな彼を知ることになろうとも、自分が逃げ出すことなんてないと、そう思っていたんだ。
 そう、あの日までは……。
『藤森はずっと本当のことを知りたがってたよね、……でも本当は……』
『本当はね、知らない方が良いことだってあるんだよ』
 激しく降り注ぐ雨の中、彼が悲しそうに微笑んで言った言葉。その綺麗な光景だけは映像のように鮮明に私の瞳に焼き付いた。
 優しい、けれど弱々しい口調が、酷く悲しく感じた。雨に濡れていて分からなかったけれど、きっとこの時彼は泣いていた。
 唯君の隠していた秘密は、私の想像など遙かに上回っていた。こんなこと、誰にも言えるわけがなかった。隠し通すことだけしか選択肢はない。精神的にも肉体的にも、高校生である唯君一人だけでは耐えることの出来ない秘密。
 彼は父親から性的な虐待を受けていた。
 そしてそれに二年以上も耐えて、誰にも打ち明けてなどいなかった。
『ごめんなさい……っ、私、……今混乱してて、……まともなこと、言えな……っ……』
 秘密を知られてしまった彼は、それでも私を抱きしめて「側にいてくれ」とお願いしてきた。誰かに何かを頼むことなんてほとんど無かった彼が、私にそう頼んできたのだ。頼むから、と。それほどまでに、唯君は辛くてたまらなかったんだ。
 それなのに私は彼を拒否して、抱きしめてくれていた唯君の腕から逃れてそのまま走り去った。側にいてあげることは誰にだって出来る簡単なこと、それなのにこの時の私にはそれが出来なかった。
 実の父親からそんな非現実的なことをされている、そんな人に私はなんて言葉をかけてあげればいいんだろう。今までどれだけ酷いことをされ続けてきたのだろう、そんなことさえ分からないくらいに彼は平然を装って、みんなの前で笑っていた。知られたくなかったんだろう、そんなことをされているなんて。だから必死で隠し続けていた。その事実が私にとっては辛くてたまらなかった。
 けれど本当は、この時彼にかけてあげる言葉なんていらなかったのかもしれない。彼の言ったように、側にいてあげるだけで彼は救われたのかもしれない。抱きしめてきてくれた彼を、私もそっと優しく抱きしめ返してあげれば、それだけで。
 一人では辛くて耐えられないから、側に誰でもいいからいてほしい。そう思うことは誰にだってある。そしてそんな時に側にいてあげられる人は、その人にとってなによりも救いになるんだろう。そんなことに気付いたのは、ずっとずっと後の話だった。
 私は、唯君にとってそんな人でありたいと、そう思って再び暗闇の中へと足を進ませた。
 彼と一緒に笑い合える、そんな時を夢見て。



「それじゃあお母さん、行ってきます!」
 自分の部屋を出て階段を下りた私は、玄関で靴に履き替えて言った。その私の声に、リビングから出てきたお母さんはニコリと微笑んで、濡れていた手をエプロンで拭く。
「行ってらっしゃい」
「今日はちょっと遅くなると思うから、ご飯はみんなで食べてて」
「そう。そういえば、部屋の荷造りは終わったの?」
「うん、もう大分片づいたよ。今週中には全部送るから。──じゃあ、行ってくるね」
 ガチャリとドアを開けて玄関を出ると、そこは晴れ晴れとした大空が広がっていた。天気予報通り、今日は快晴だ。季節はもうじき夏を迎えようとしている。青空の中心で光る太陽を見上げて、私は笑みを浮かべた。
 そのまましばらく道を歩いていると、バッグの中に入れていた携帯が鳴る。バッグから取り出してそれを見ると、相手は紺野さんだった。
「もしもし?」
『もしもーし、真奈美? おはよー』
「おはよう紺野さん。……なんかそっち騒がしいね、誰かと一緒?」
 誰かの歌声と、音楽が聞こえたから尋ねてみると、紺野さんが携帯ごしで少し笑っている声が聞こえる。
『あ、分かる? 夜中から樹とカラオケ来てんの、ってかコイツ歌超下手なんだけど』
 紺野さんが笑いながらそう言うと、奥で歌っていたらしい羽野君の怒る声がした。
 二人が付き合うようになったのは本当に最近のことだ。中学の頃から羽野君は紺野さんのことが好きだったらしく、最近その事実を勇介君から教えてもらった私は酷く驚いた。携帯の向こうで楽しそうに話している二人の声を聞いていると、なんだかこっちまで嬉しくなってくる。
「そっか、ラブラブなんだね」
 そう言うと、向こうで紺野さんが「ちょっとー」と声をあげた。
『真奈美にそんなこと言われたくないんだけどー。……まぁいいや、で、そっちは? 唯とはもう会ったの?』
「ううんまだ。今待ち合わせ場所に行ってるところ」
『一通り二人っきりで楽しんだら夜にみんなと合流しようよ! 私と樹も唯に会いたいし』
「うん。勇介君も同じこと言ってたから、いいよ」
 唯君が母方の祖父母に引き取られ引っ越してしまってから、二年が経っていた。
 元々唯君は成績優秀だったから、テストと課題さえやれば高校を卒業することが出来るという話を先生から聞いていたらしい。けど結局唯君はその話を振って、高校を卒業することなくそのまま引っ越していった。
 転院した病院でしばらく治療を受けて、それから少し落ち着いてからカウンセリングを始めるんだと、唯君からメールで聞いていた。彼とそう簡単に会うことが出来なくなってしまうことはやっぱり悲しかったけど、それでも彼は出来る限りマメに連絡をとってくれた。
 電話ごしだから唯君の詳しい状態は分からなかったけど、電話で話す時はいつも元気に振る舞ってくれている。それが余計に心配になることがあったけど、それを唯君に言ったら彼は笑って「心配しすぎ、何かあったらちゃんと話すよ」と言ってくれた。
『それにしてもさぁ、二年ぶりの再会ってなんか燃えるね』
「背がすごく伸びたって喜んでたよ。7cmくらい」
『えっほんとに!? うっそ私よりも高くなってんじゃんあんなにちっこくて可愛かったのにーッ』
 心底嬉しそうに声をあげる紺野さんの横で、羽野君がなにやらぶつぶつ言っている声が聞こえた。あまりよく聞き取れなかったが、紺野さんが唯君のことを口にするのが気に入らなかったのかもしれない。そして案の定紺野さんがそれに怒って羽野君に言い返して、向こうではなにやら喧嘩が勃発しはじめてしまっていた。
『じゃあ夜に会えるの楽しみにしてるからっ。場所が決まったら連絡するねー!』
「うん、また後でね」
 紺野さんは慌ててそう言って電話を切ると、私も携帯をバッグに戻して走った。
 もうすぐ唯君に会える、その嬉しさに足が弾むようだった。
『絶対ここに戻ってくる、藤森に会いに来る、だから……』
『唯君……』
『だから、──待ってて』
 あの日約束した時からずっと待っていた。彼と再びここで会える、この日をずっと。
 それがもうすぐ叶おうとしている。そう思えば思うほど嬉しくなって、私の口元は自然と綻んでしまう。会ったら何を話そう、電話ごしにいつも話してたけど、それでも言いたいことが沢山あって尽きないくらい。
 そしてなにより、彼に触れたかった。間近で、彼を見たかった。
 軽快に並木道を走り抜けて、私の足はとまることなくそのまま走り続ける。そして町中の広場へ辿りつき、そこから瞳に映ったその光景を見て、ようやく足を止めた。
 中央にある噴水ごしに、見覚えのある懐かしい人の姿を見つけて。
「待ち合わせの時間までまだ15分あるのに、早すぎ」
 その人も私にすぐに気付いたようで、少し笑うと、私に向かってそう言ってきた。声は、ほとんど変わっていない。私の好きだった優しい口調もそのまま残されていた。
 それを聞いたら尚更嬉しくなって、私も笑い返すと、息を切らせて言葉を紡いだ。
「そっちだって……」
 言っていたとおり、背が以前よりも伸びていた。けれど雰囲気や言動は、以前とはほとんど変わっていない。そんな懐かしさが心に染みていく。
「楽しみにしすぎて早く着いたんだ。30分前に着いたよ」
「私も、すごく楽しみにしてたよ」
「いや、俺の方が絶対楽しみにしてたと思う」
「私の方が絶対楽しみにしてたよ。夜なんて眠れなかったんだから」
 お互いそう言い合ったのち、可笑しくなって少し笑う。
 この時をどれだけ待ち望んでいたんだろう、あの別れた日からずっと。こうして、また間近で言葉を交わせるこの日を。
「おかえり、唯君」
 私がそう言うと、彼はこちらへ向かって走ってくる。私も彼の方へ向かって走って、彼を抱きしめようとした。けれど目の前まで来た瞬間、自分の身体がふわりと宙に浮いた。
「!?」
 唯君が私の身体を抱き上げたのだということにすぐ気が付いて、目を丸くして驚いていた私を見て唯君は爽やかに笑った。
「ただいま! ──真奈美」
 今までに見たことがないくらいの眩しい微笑みを見せて、私の身体を抱きしめてくる。その優しい抱擁に、涙がこぼれた。
「おかえり唯君、……唯君ッ……」
 私も彼の背中に手を回して、もう放したくないと、そう思えるくらいに強く彼を抱きしめ返した。高校の時、私を抱きしめてくれた時と同じ香りがして懐かしい。
 長かったね、とても長かった。
 そして、やっとここまで来たんだね。
 まだ全てが終わったわけじゃない、片づいたわけでもない。今までの道がそうだったように、この先も、苦しいことや悲しいことがあるかもしれない。けど、きっと大丈夫だよね。貴方には私がいて、私には貴方がいるから、きっと。
 彼の腕の中に身を預けたまま、私は顔をあげて唯君を見つめた。
「唯君、大好き」
 照れながらも私がそう言うと、唯君もちょっと頬を赤くして「先に言われた」と照れた顔を見せる。そしてお互い見つめ合い微笑んで、ゆっくりと、唇を重ねた。
 太陽が明るく照らす、光に満ちた世界の下で。


[ Beautiful Rain ]
The End.