第28話 夢からさめた夢


『どうして言うことが聞けないんだ! どうして!!』
 罵声と共に腹部にものすごい激痛が走った。痛みのあまりに声すら出せない。ただ歯を食いしばって床にうずくまり、痛みが引くのを待っていた。
 どうしてこんなことになったのか、自分でも分からなかった。
『そうだ、……最初からそうやって大人しくしていればいいんだ……っ』
 息を乱しながら、その人は笑ってそう口にする。まるで何かに取り憑かれたような、どんよりと淀んだ瞳がこちらを見つめていた。
 身体中が痛くて、どうにかなりそうだった。口の中に広がる鉄のような不愉快な血の味。何度暴力を振るわれても慣れない痛みに身体は悲鳴を上げていた。けれど今となってはこんな暴力を振るわれることさえ、当たり前になりつつあった。
 少しでも気に入らない態度を取れば殴って、蹴って。物を投げつけられたこともしばしばあった。首を絞められたことも、酷い時には水の入った浴槽に頭を突っ込まれたことだって。
 最終的に、意識を失いそうなほどぐったりとしている俺のことなんて気にも掛けずに、その人は乱暴に服を脱がせてセックスに没頭する。
 そのたびに何度殺してやりたいと思ったことか。
 けど、殺してやりたいくらいに憎いのに、それでもやっぱり嫌いにはなれない。本当のこの人はこんな酷いことをする人じゃないんだと、過去の記憶が邪魔をする。偽りしかない過去の記憶に、自分は縛られていた。
 『好きだ』『宝物だ』『大切なんだ』なんて、全部全部嘘だったのに。自分は騙されていたんだ。幼い頃から優しくされて、両親から上手い具合に手なずけられてしまったのだ。だから今になってもこの人のことを心の底から責めることが出来ないんだ。
 この男のことを殺せるほど嫌いになれれば、他人同然に思うことが出来ればもっと楽になれただろうに。報復をすることだって出来たのかもしれない。だけど、幼い頃に植え付けられた幸せだった日々の記憶が、そう思うことを許してくれなかった。この男は自分をここまで育ててくれた父親だったから。
 セックスなんてしたくないのに目の前の男のことを心の底から憎むことが出来なくて、いつも中途半端。抵抗はいつも無駄に終わって余計に痛めつけられた身体を見ながら、最初から大人しくしておけばよかったじゃないかと自分で自分の行動を笑った。愚かでいて惨めな自分。
 そんな悪夢のような日々はずっと続いた。次第に身体の傷は増えて、汚れているような感覚は常に自分につきまとい消えなくなって、心だってもう真っ黒。苦しかった。心も体も自分のものじゃないみたいで嫌で嫌でたまらない。だけど一度覚えてしまった苦痛や恐怖はそう簡単に忘れられるものじゃなかった。
 忘れてしまいたいのに忘れられない。嫌がって抵抗しても返り討ちに遭うだけ。どれだけ憎いと思っても、悲しみの方がいつも上回った。あの人に報復することだって自分には出来ない。なにもかもが半端で、憎くて苦しくて、悲しくて、自分に絶望して、これ以上何に期待して生きていけばいいんだろう。
 こんな苦しい思いをするくらいなら、いっそのこと……。
 それはいけないことだと思っていたけれど、それでも自分は早く楽になりたかった。誰かに、この悪夢を終わらせてもらいたかった。



 ふわりと柔らかな、優しい風が吹いて髪を靡かせた。
 寒いとも、暑いとも感じさせないほどのそれが心地良かった。そして、その風に乗せられたかのように誰かの声が耳に入って、俺はゆっくりと瞳を開いた。
「起きた?」
 それと同時に視界に映ったのは一人の女の子だった。俺の目の前に腰を下ろし、こちらを見て穏やかに微笑んでいる。
「藤森……?」
「うん」
 名前を呼ぶと、目の前にいたクラスメイトである藤森は尚更嬉しそうに微笑んだ。俺の背中には屋上のフェンスの堅い感触があって、自分はここにもたれ、腰掛けてボーっとしている間に眠ってしまっていたことに気付く。
「……あ、俺寝てたんだ……」
「うん。もう昼休み終わっちゃうから、起こした方がいいかなって思って……」
「え? あっ、ほんとだもうこんな時間」
 携帯で時間を確認し、急いでその場から立ち上がると、藤森も立ち上がってクスリと笑った。そして彼女が俺の手を握ってきたかと思えば、グイッと自分の方へ引っ張ってくる。ものすごく強い力だった。
「!?」
「唯君、早く教室戻ろう。授業始まっちゃう」
「……あ、うん」
 優しげに微笑んでくるその顔からは到底想像もつかないほどの強い力で、藤森は俺を引っ張って屋上を後にする。その足取りはどこか速くて、小走りに近い。後ろを歩く俺のことを全く考えていないかのように、スタスタと教室へ向かう。階段を下りる時なんて幾度か足を踏み外しそうになって、引っ張られている俺からすればたまったものじゃなかった。
「藤森っ、ちょっと待って」
「駄目だよ、早くしないと授業始まっちゃうから」
 先ほど屋上で腕を引かれた時こそ藤森ってこんなに力強かったっけ、と少し疑問に思うくらいのものだったが、足を進めれば進めるほど俺の手首を掴んでいる藤森の手の力が増してくる。最初は気のせいかと思ったけど、次第に増していく藤森の力に流石に痛みを感じてきて、俺は足を止めた。
 案の定、俺が急に足を止めるものだから引っ張っていた藤森も強制的に足が止まり、何事も無かったかのように振り返って心配げに表情を沈ませる。
「唯君?」
「……ごめん。手、痛いから放して」
「手……?」
 まるで俺の言っていることが分かっていないように、藤森は小首を傾げた。
「これ、放して」
 俺の手首を思いっきり掴んでいる藤森の手を指さして言うと、藤森は困ったような顔をして笑む。
「どうしたの唯君、私、そんなに強く掴んでないよ?」
「いいから」
「……今日の唯君、なんか変」
 そう呟くように言って、藤森は手を放した。締め付けられるような痛みから解放されて、俺は自分の手首に視線を落としてギョッとした。
(なんだこれ……)
 とてつもなく強い力で握られていたというのが分かるほどに、手首には痛々しく痕が出来ていた。どれだけ強い力で握っていたんだとツッコミたかったが、藤森の顔を見たら言葉に詰まった。
 不気味と思ってしまうほど、うっすら冷たい笑みを浮かべて藤森は俺を見ていた。それを見て一気に悪寒が走る。
「……藤森……?」
 名前を呼んですぐに「違う、藤森じゃない」と、とっさにそう思った自分がいた。
 この子は一体誰だろう。見た目は藤森そのものだけど、藤森じゃない。俺の知っている藤森はここまで強引じゃないし、力だってこんなありえないほど強くない、それになにより、こんなに冷たい微笑みはしない。
 藤森は穏やかで優しくて、相手のことを気遣うタイプの子だ。人を安心させるような温かな微笑みをする子。だから自分は惹かれたのだ。
 だけど今目の前にいる子は、自分の知っているその人ではないように思えた。
(……というよりも……)
 俺は、ここにいてはいけない気がする。
 直感でそう悟った。だから一歩後ずさりした。けれどそれを引き留めるように素早く、藤森が俺の腕を掴んだ。さっき掴んでいた方とは逆の手首を。
「っ……」
「こっちなら掴んでも大丈夫だよね?」
 まるで悪気がないように優しい声で言って、藤森は再び教室へ向かって歩き出した。
「ちょっと、おい、……藤森!」
「早く教室行こう。みんな待ってるよ、唯君のこと」
「え?」
 そう言った藤森の言葉の意味が分からなくて、俺は声をあげた。けれど藤森はそれ以上何も言おうとはせず、相変わらず強い力で俺の腕を掴み、引っ張って廊下をずかずかと歩いていった。
 教室へ着いて藤森が扉をガラリと開けると、そこにはいつもとなんら変わらない光景が広がっていた。まだ授業が始まる前、昼休みで騒がしいクラスの情景。様子のおかしい藤森のこともあって心配だったが、その光景を見てホッと心の中で一つ息を吐く。
 藤森が変なことを言うから何かあるのかと不安だったが、どうやら自分の考えすぎだったようだ。
 俺が藤森に連れられて教室へ入ってくると、窓際の席で盛り上がっていた樹達がこちらに気付いてやってきた。そして俺の頭を軽く叩く。
「おせーぞ唯、お前どこ行ってたんだよ。もう昼休みも終わるとこだぞ。せっかく話したいことがあったってのに」
「わり、ちょっとね」
「どうせまた屋上で昼寝してたんでしょーっ。私も誘ってくれたっていいのにっ」
 少し拗ねた面持ちでそう言ってくるつばさに軽く謝って、俺は席に着こうと窓際にある自分の席へ向かう。教室へ着くまで俺の前を歩いていた藤森は、今度は俺の後に続くように付いてくる。
「で、藤森はいつも通り唯を独占してたわけね」
 樹が面白そうに笑みを浮かべながら、藤森を見て言った。
「えっ!? 違うよっ、私独占なんて……! 羽野君ってば変なこと言わないで」
「いや、俺は至って真面目なんだけど。だっていつもじゃん、照れるなって」
「……別にそんなつもりじゃ……」
 普段、俺が樹やつばさと話している時は全く近寄って来なかったのに、これは一体どういうことだろう。樹やつばさの会話にも普通に混ざっている藤森を見て尚更違和感を覚えた。
「ちょっとー真奈美、あんた抜け駆けしてんじゃないわよ」
「そっ、そんなことしてないってば!」
「またそういうこと言うーっ」
「ほんとに違うんだったら……!」
 つばさに言い寄られて困りながらも笑う藤森に、俺は疑問を感じた。
 こんな風に自然に藤森とつばさが話すところを初めて見た。同じクラスだったけれど、俺が知る限りではこの二人はそんなに親しく言葉を交わす仲ではなかったはずだ。それなのにどうしてこの二人は今一緒にいるんだろう。
「唯、どうかしたか?」
 俺があまりにもジッと二人を見つめていたものだから不思議に思ったのだろう、タケが尋ねてきた。
「え? あぁ、藤森とつばさが話してるところ初めて見たから、いつ間にそんなに仲良くなったのかなって」
 それを聞いて、タケは「は?」とでも言うように訝しげな顔を一瞬見せて、すぐに笑う。
「お前なに言ってんだよ。つばさと藤森、前から仲良かったじゃん。いつも一緒だし」
「……はぁ? お前の方こそ何言ってんの? いつも一緒って、ありえないだろ」
 タケの口から零れたその信じられない言葉に、俺は尚更わけが分からなくなって言い返した。前から仲良かったなんて、何の話だと思った。つばさとは小学生の頃から友達やってるからそこらのヤツよりは彼女のことを知っているつもりだ。だけど、つばさと藤森がいつも一緒にいたなんて俺は知らない。
 さっきの藤森も少しおかしいとは思ったけど、つばさも、タケもどこか変だった。タケは俺の言ったことをあまり信用していないようで、少し怪訝な顔をする。
「なに寝ぼけたこと言ってんだよ、おかしなヤツ」
「武丸、どうかしたの?」
「だって唯のヤツ、お前と藤森が仲良いのがおかしいらしいぞ」
「えー? 唯ってばどうしたの? 私と真奈美、前から仲良しだったじゃない」
 つばさや樹達がなにか言っていたが、あまり耳には入らなかった。
 なんだろう、これは。いつもと同じようで、同じじゃない。いつの間にこんなことになったのだろう。俺がいない間に何があった。というよりも、俺は何か大事なことを忘れているような気がした。
「唯はさっきまで屋上で寝てたんだろ。だから寝ぼけてんじゃね?」
「寝ぼけるとか唯らしくねーな。ていうか、お前家でちゃんと寝ないから学校で眠くなるんだぞ」
 先に雅之が言ってきて、それに続けるように樹も言ってくる。自分は寝ぼけているつもりなど全くないのだが、どう言ったものか困って思わず藤森の方を見てしまった。
 藤森は、俺を見て無邪気に笑った。
「しょうがないよ。唯君は夜になったらお父さんの相手をしてあげないといけないんだから」
 しかしその笑みからは想像もつかないほどのとんでもない発言に、俺の背筋は一気に凍る。藤森は平然とした様子で、俺に向かって「ね?」と声をかけてきた。
「夜はあまり寝かせてもらえないんだもん、しょうがないよね」
 聞き間違えであってほしいと思った、藤森が今さらりと口走った言葉が。だけど零れてしまった言葉を取り消せるわけもなく、ただ心臓がばくばくと鼓動を打った。
「……藤森、何言って……」
「どうしたの唯君、そんな顔して」
 よりによって学校で、みんなの前で、どうしてそれを言うんだ。誰にも言うななんて言ってないけど、藤森は絶対そんなことしないと信じていたのに。それはもちろん、彼女への甘えでしかないのだけれど。
「何って、もうみんな知ってるよ」
「みんなって……」
「学校にいる人みんな、全部知ってるよ。唯君とお父さんのこと。唯君がお父さんの、慰み者になってること」
 藤森がそう言った途端、教室が一気に静まりかえって、全員が席からふらりと立ち上がり無表情でこちらに目線を向けた。先ほどまでの明るい雰囲気は嘘のように消えて、重苦しい空気が漂う。
 悪夢だと思った。こんなことは全部、じゃなきゃ説明が付かない。
 いつも見ている夢とはなにもかもが違っていて、あまりにリアルで、現実だと思いこんでいた。けれどこれはとても現実にそっくりな、それでいて非現実的な矛盾した悪夢。
 以前見た最低な夢をいとも簡単に打ち砕いてしまうほど、最悪なものだった。
 夢。これは夢だ。心の中で自分に言い聞かせるように何度も繰り返す。夢ならば早く覚めて欲しいと強く願ったが、当然それは叶わない。
 ここにいたくない。責められたくはない。軽蔑も憐憫も、今の自分にとってはなにもかもが怖かった。
「逃げるつもり?」
 数歩後じさった途端、藤森が間髪入れずにそう言ってきた。
「逃げられるわけがないのに」
 じりじりと迫られているうちに、自分の背中に何かが当たる。横目で見るとそれは黒板だった。藤森はいつものようにクスリと落ち着いた微笑みを浮かべると、そっと俺の頬を両手で包んだ。その彼女の手の温かさも感触も、あまりにリアルすぎて思わずゾッとしてしまう。
「……っ……」
「唯君は甘いね」
 何に対して向けられた言葉なのか分からなかったが、藤森は静かにそう零した。
「そんなだからいつまで経ってもお父さんから良いようにされちゃうんだよ。そんなにお父さんが怖い? だから逃げてもすぐにお父さんの所へ戻ろうとしちゃうの?」
 これ以上何も言われたくないのに、そんな気持ちを無視したこの場の雰囲気に圧され、言葉は出ないまま拳だけをギュッと握りしめた。
 お前に何が分かるんだと、そう言ってやりたかった。
「お前に何が分かるんだ、って言いたいの?」
 まるで心が見透かされているかのように、俺が心の中で思っていたことを藤森がそのまま口にする。
「分からないよ、唯君の気持ちなんて。だって唯君、今まで誰にも話そうとしてくれなかったじゃない」
 聞き覚えのある台詞に、目を見開いた。前にも似たようなことを誰かから言われたような気がした。いつなのか、誰からか、それは思い出せなかったけれど。
「言わなくても分かることだってあるけど、大抵は言ってくれなきゃ分からないんだよ。唯君はいつも言ってくれなかったね。あの雨の日、私が唯君のことを知るまで、唯君誰にも話そうとしてなかった。ずっと一人で我慢して耐えていただけ」
「そんなに我慢してきて、良かったことって今まであったのか?」
 今まで一言も口を聞かなかった北が俺に向かって尋ねてくる。その顔にいつもの笑みはなく、真剣で少し怖い。
「……それは……、……だって、黙って我慢してればみんないつも通り笑っていてくれるし」
「お前は笑えねーのに?」
 すぐにきっぱりと言い返され、北に合わせる顔が無くて少し俯いた。返す言葉が見つからない。
「ふざけんなよ、お前が笑えないのに俺らが笑ったってしょうがないだろ!」
 普段あまり怒ることのない、いつも笑っているような北だったからこそ、こんな風に本気で怒ると迫力があった。けど俺は、北がこんな風に怒るところをもうすでに幾度か見たことがある。
『そういう何にも分かってないところが嫌だっつってんの。……何も知らないくせに』
『分かるかよ、訊いたってお前いつも何にも話してくれなかったじゃんか、そんなヤツ相手に何を分かれって言うんだよ。なぁ』
 そうだ、あの日だって北は本気で怒っていたじゃないか。
(……あの日……?)
 突然脳裏によみがえってきた会話に疑問を感じたと同時に、頭に鋭い痛みが走った。
「……っつ……」
 まるで思い出すことを拒むように、鋭い痛みが頭を打ち付けて苦痛に顔を歪める。あの日とは、一体いつのことだろう。さっきから自分の中にあった違和感、記憶がどこか欠落しているような感覚。
 夢の中のはずなのに、周りの雰囲気から人肌が触れる感覚までリアルで一向に覚めなくて、目の前にはありえない光景が広がる。そもそも、どうして自分がこんな風に周りから責められなくてはいけないんだろう。そして自分は一体何を忘れているんだろう。
 突然の頭痛と、居心地の悪さに気分が悪くなってきて、すぐにでもこの場から逃げ出したいという気持ちが大きくなっていく。
「今まで我慢してきて、良いことなんて一つも無かったくせに」
 そんな時、まるで吐き捨てるように乱暴な口調で北が言ってきた。
「言ったってどうせ良いことなんて何もない」
「どうしてそう言い切れるんだよ。誰にも言おうとしなかったお前が」
「……じゃあどうして藤森は逃げたんだよ」
 これは俺と藤森しか知らないことだった。言ったって北やみんなには意味が分からないかもしれない。だけど止まらなくて、俺はそのまま続きを紡いだ。
「あの雨の日、俺とお父さんとのことがばれた時、逃げ出した藤森を俺は追いかけた。このまま終わらせたくなくて、分かってもらいたかったんだ。……言い訳を、させてほしかった」
 あの日のことは自分にとって苦い思い出だったからあまり思い出したくなかった。極力思い出さないようにしまい込んでいたつもりだった。
『ごめんなさい、わたし、私……ごめんなさい……ッ』
 今でも明瞭に思い出すことが出来る。泣いている藤森が一生懸命俺に謝ってくる、その姿を。
「でも泣きながら謝ってくる藤森を見たらそんなの言えなくて、でもこのまま行ってもらいたくもなくて、……藤森に頼んだんだ『側にいて欲しい』って」
 今まで誰にも頼ったことなんてなかった。こんなことに周りを巻き込みたくなかったし、なにより自分が傷つきたくなかった。でも藤森なら、もしかしたら……と、この時少し期待している自分がいたのもまた事実だ。
「でも結局、藤森は逃げた。当たり前、普通の反応だよ。仕方ない。別に藤森が悪かったわけじゃない。……だって普通に考えたって気持ち悪いし……。俺は男なのに、実の父親に組み敷かれてるとか。……本当に気持ち悪い……」
 藤森が逃げ出してしまったのは、仕方のないこと。だけど、そう思って自分に言い聞かせていたけど、本当はやっぱり俺は藤森には行って欲しくなかった。側にいて、話を聞いて欲しかった。「違うんだ、好きであんなことをされてるわけじゃないんだ」って、言い訳をさせてほしかった。
 でもやっぱりそれは無理なことだったのだ。やはりこの秘密は誰にも知られてはいけないのだとあの雨の中悟ってしまった。
「やっぱりこれは、この先誰にも言わない方が良いんだって思った。結局、相手もそうだけど俺が傷つきたくなかったから」
「……」
「それでも我慢しないで誰かに頼れって言うのかよ。……無理だろ、そんなこと……」
 教室にいる人全員の視線が痛いくらいに自分に刺さっているのが肌で分かる。けれど、夢の中だと分かっていてもなお、それを直視する勇気が自分にはなくてただ俯いていた。
 どう返してくるだろうと相手の反応を待っていると、しばらくの静寂ののち北が口を開く。
「でも藤森はちゃんとお前の力になったよ。お前を助けようとした」
「藤森は優しいから、俺に同情してくれただけ」
「お前、本当にそう思ってるのか? 藤森が力になってくれたのは、藤森が優しいからだって。可哀想なお前に同情してくれただけだって?」
 先ほどよりも幾分かマシになったが、なおも治まらない頭痛に耐えながら俺は俯いていた。目の前にいる藤森にすらも、顔を合わせることが出来なかった。そのまま何も言わないでいると、北の横に立っていたタケが少し呆れたように息を吐いたのが分かった。
「人の気持ちが分からないほど鈍感じゃないだろお前。本当はちゃんと、分かってるくせに。なんで藤森がお前のために尽くしてくれたか」
 どうして藤森は俺なんかのために一生懸命になってくれたのか。一度は逃げたのに、どうしてまた歩み寄ってきてくれたのか。
『唯君のこと大好きだよ、ずっと一緒にいたい、私にとって唯君はどうでもいい存在なんかじゃない……好きだよ』
 そして再び、聞き覚えのある言葉が脳裏によみがえった途端、それと呼応するように酷い頭痛に苛まれて思わず手で頭を抑えた。さっきから一体なんなのだろう、この頭の痛みは。まるで「思い出すな」と警告するようにガンガンと酷い痛みが頭を襲う。
『一人にはしないよ』
『唯君が本当は寂しがりなんだってこと、私ちゃんと知ってるよ。それに私も寂しがりだってこと、唯君だって知ってるでしょ?』
『だったら二人で一緒にいようよ。……ね?』
 どうして藤森が俺の力になってくれたのかなんて、そんな疑問の答えは考えるまでもなかった。藤森は今まで、言葉や態度でそれを示してきてくれたから。
「……分からない」
 だけど俺の口からは、真逆の言葉が出ていた。
「唯」
「分からない、……全然分からない! もうどうでもいいんだ、もう手遅れなんだよ、なにもかも遅いんだよ!! だって俺は……っ……!」
 続くはずだった言葉は、出なかった。その代わり、出るはずだった言葉に自分は絶望してしまった。
 だって思い出してしまった。
 あの雪の日、自分は事故に遭ってしまったことを。もうこの世にはいないことを。



『唯君ごめんなさい、私のせいで、また……』
 俺の身体を支えるようにして抱き込んでくれた、細くて小さな手。弱々しいけれど、優しい声。
 あの日は真っ白な雪が降っていた。
『……藤森ごめん、巻き込んで……ほんとにごめん……』
 側にいて欲しいと望んだけれど、巻き込みたくはなかった。そんな矛盾した自分の想いが、結果彼女まで巻き込むこととなってしまった。それは謝っても謝りきれないほどに。
『来ないで!!』
 ゆっくりとこちらへ向かってくる、足音。雪を踏む不気味な音。大きな黒い陰。
『さぁ、一緒に帰ろう』
 伸ばされた手を見て、「逃げなければ」と思った。
 捕まれば、何をされるか分からない。そして藤森ともう会えなくなってしまうかもしれない。せっかく自分のことを理解してくれる子と出会えたのに、別れたくない。そう思って、その時の自分にはそれしか頭になくて、だから逃げ出した。
『唯君っ!! 危な……ッ……!!』
 最後に、彼女がそう叫んだのが聞こえた。でも俺の意識はそこで途切れて。
 あの日俺は、事故に遭ったんだ。



 全て思い出した。けれど思い出した時には全てが手遅れになっていた。
 あまりにショックで、そのまま俺は教室を出て学校を飛び出して、あてもなく道を走っていた。走り続けているうちに苦しさがこみ上げてきて、夢なのに走って疲れるんだと、そのあまりにリアルな感覚に戸惑った。
 もしかしたらこっちの方が現実なのかもしれないと一瞬思ったけれど、すぐにそんな考えを頭の中からかき消す。違う、俺は事故に遭ったんだ。クリスマスの日、父親から逃げようと道路を飛び出してしまった先で。だから自分がこんな風に無事でいること自体がおかしいのだ。
 そう、自分が事故に遭った方が現実。こっちは夢。そう何度も繰り返して自分に言い聞かせた。そうでもしないと冷静でいられなかった。
 さらにしばらく走り続けた後、ゆっくりと足を止めた。そして、走りすぎてすっかりあがってしまった息を整える。
(……苦しい……)
 死んだら全てのしがらみから解放されて、楽になれるものだと思っていた。もう何も考えなくていい。心に焼き付いた苦しみも悲しみも憎しみも恐怖も、そして身体に残った傷跡も全てが消えてゆっくり休めるのだと。
 死にたいと思ったことはなかったけれど、死んだって別に構わないとは思っていた。むしろ俺がいなくなることであの男が一人になるのなら、そういった報復もありなのかもしれないと考えたことはあった。
(ああ、そっか……)
 そんな考えが頭の中にあったから、こんなことになってしまったんだ。自分は事故に遭って死んでしまったんだ。死にたいなんて思ってなかったのに、こんな心から望んでいないことはすぐに叶ってしまうんだ。本当のお願いは、何一つ叶えてはくれないくせに。
 だけど、これであの男は一人ぼっちだ。もうあの人の側には誰もいない。苦しめばいいんだ、俺が今まで苦しんできた分だけあの人が苦しめば。その姿を想像して、いい気味だと思った。謝ってくれればそれでいいと思っていたけれど、やっぱり自分は心のどこかで父親への報復を望んでいたのかもしれない。
 しかし、その望んでいたことが叶っても、嬉しいとも思わなかった。笑みだってこぼれない。自分の心の中は何も変わらなかった。むしろこうなってしまったことで余計に苦しくなったような気がした。自分は死んだのに、なんのしがらみからも解放されていないように思えた。
 父親からの虐待に耐えて耐えて、我慢し続けてきた末路がこれか、と自嘲する。
(一体なんのために、俺は……)
 父親も一人になってしまっただろうが、自分も一人になってしまった。頼れる人なんて誰もいない。藤森だって北達のところだって、さっき酷いことを言って去ってきてしまったから今更戻れない。本当に自分は、一人になってしまったんだと思った。
 それを思うとなにも考えられなくなって、そのままふらりとあてもなく歩き出す。
 死んでも悪夢からは逃れられなかった。
 現実とほとんど変わらない、だけど明らかに現実よりも悪い世界に自分はいる。学校へ行く時に通る道も、別にこれといって変わらない。立ち並ぶ住宅街も、道路も、お店も、なにもかもがいつも通りの景色。これも現実なのではないかと思ってしまうほど、リアルな夢。
 こんな夢の中に自分はずっといなければいけないのだろうか。
 そんなことを思いながらたどり着いたのは自分の家だった。こんな時でさえも、やっぱり自分の居場所はここしかなかった。
 ガチャリと玄関の扉を押すと、それには鍵がかかっていなかった。不用心だなと思ってすぐに、玄関のドアが開いた音を聞きつけたのかリビングからこちらへ歩み寄ってくる足音が聞こえる。
 それを聞いてすぐに「あの人」だと思った。なんでこんな昼間から家にいるんだと思って、思わずそのまま家を出て行こうと再びドアノブに手を伸ばす。
 けれど、自分に向かってかけられた声は、その人のものではなかった。
「唯? どうしたのこんな時間に……まだ学校じゃなかったの?」
 父親の声ではなく、落ち着いた響きのある優しい女性の声だった。それも、自分のよく見知った人の声。この声の主を自分は知っていた。そしてゆっくりと、声のした方へ振り返る。
 俺の方へ歩み寄ってきて、心配げにそう言ったその人は二年前に死んだはずの俺の母親だった。



 それは俺の中にある小さな頃の記憶。
 自分の手の何倍もある、大きな父親の手。大好きだった人の手。その手が、ポンッと優しく頭の上に乗っかって、優しく撫でた。
「唯、今からお父さんが言うことをちゃんと覚えておくんだよ」
 まだ小さかった自分と目線を合わせるようにその人はしゃがみこんで、優しく微笑みかけてくる。ソファに座ってテレビを見ていた俺は、病院から帰ってくるなり俺のところへ来てそう言った父親になにかを察して、テレビのリモコンを手にとって電源を落とした。
 部屋はしんと静まりかえる。
「唯にはまだ話していなかったけど、お母さんは普通の人よりも身体が弱くて病気にかかりやすいんだ。だからよく病院に行ったまましばらく帰ってこない日があったりして唯に寂しい思いをさせていたりするけれど、それは多分……これからもずっと続くと思うんだ」
 言ってることが分かるかと訊かれて、俺は黙ったまま頷いた。お父さんは、「ごめんな」と少し悲しそうに微笑んだ。
 どうして急にこんな話をするんだろうと当時思ったものだが、今にして思うとあの時はお母さんがこれまでにないほど体調を崩してICUに入っていた時期だった。本来なら俺がもうちょっと大きくなって物事を理解出来るようになってから話すつもりだったのだろうが、手遅れにならないうちにとお父さんは話してくれたのかもしれない。
「お母さんはびょうきなの?」
「うん。まだしばらくは病院で休んでいないと家には帰って来られないんだよ。唯は良い子だから、お母さんが少しの間いなくても我慢出来るね?」
「お父さんは?」
「んー……お父さんもお仕事があるからあまり唯とは遊べないんだけど、でも出来るだけ早く帰ってくるようにするから、唯はその間良い子に出来る?」
「うんっ、できるよ。お父さんとお母さんがいなくてもがまんする。いい子にする」
 笑ってそう言うと、お父さんは「いい子だな」と言ってまた頭を撫でてくれた。
「そっか、強い子だな唯は。えらいぞ」
 当時、まだ小学一年だった俺は、自分がちゃんと良い子にしていればお母さんは病院から早く退院して帰ってくるものだと信じていた。逆に、自分が良い子にしていなければお母さんはまた病気になって病院へ戻ってしまうのだと。
 だから、二人に良い子だと思ってもらえるように自分で出来ることは自分で片付けるようになった。そうすることで家族みんなで一緒にいられるのなら苦ではなかったし、二人に褒めてもらえることも嬉しかったから。
 けれどそんな俺の頑張りをよそに母は何度も入退院を繰り返し、体調が安定することはあまり無かった。どうしてだろう。自分はちゃんと良い子にしているはずなのに。
 病院へお父さんと共にお母さんのお見舞いへ行った時、それを言ったらお母さんは笑っていた。
「違うのよ、唯が悪いんじゃないの。そうね、きっと……ママや義人さんが良い子にしていなかったせいね」
 クスクスと笑みを零しながらそう言うお母さんに、側にいたお父さんは「私もちゃんと良い子にしていたぞ、なぁ唯!?」と焦ったようにそう言っている。
「唯がちゃんと良い子にしているのはママも知ってるわ」
 細くて白い、お父さんの大きな手とはまた違ったお母さんの手が頭を撫でる。温かで優しい手。
「大丈夫よ、ママは唯や義人さんを置いていったりしないから」
「ほんとうに?」
「ほんとよ、約束。唯が大きくなるまで、ずっと一緒」
 それは些細な、けれどとても大切な約束だった。お母さんは俺を安心させようと何気ない気持ちからそんなことを約束したのかもしれない。だけど幼かった自分は、この約束がずっと守られるものだと信じきっていた。
 その約束が破られた時、自分の周りの全てが崩れていくことなどこの時は知らずに。



 俺やお父さんを置いていったりしない。俺が大きくなるまで、ずっと一緒にいる。
 守られることのなかったお母さんとの約束だった。でも、そのことを責めたいわけじゃない。約束が守られなくても、全てが壊れさえしなければそれでよかった。
 だけど、壊れてしまったから。
 お母さんがいなくなったことによって、全ては崩れてしまったから。だからこそ余計に、その交わした約束が破られたことが恨めしかった。
「唯? どうしたの?」
 穏やかで優しいその声は、本当に自分の母親のものだった。随分と長い間、聞いていなかった懐かしい声。それは今の自分の心に酷く染みた。
「なんで……」
「唯……?」
 玄関にペタリと座り込んで、冷たい床を見つめたまま、自然と自分の口から笑みがこぼれた。絶望したような笑みが。
「なんで今更出てくるんだよ……」
 パタパタと、スリッパを履いているその人がこちらへ歩み寄ってくる足音がする。それは目の前で止まった。顔をあげると、その人は悲しげにこちらを見つめていた。
 どうしてそんな悲しげな顔をするんだろう。悲しいのはこっちの方なのに。
「なんで死んだんだよ……あんた……」
 言ったけれど、返答は無かった。それでも構わずに俺は続けた。心の中に燻っていたやり場のない感情が、膨れ上がっていく。
「約束したのに……俺やお父さんを置いていったりしないって、ずっと一緒にいるって、それなのに……なんで死んだんだよ」
 こんな約束をずっと信じ続けてきた自分も愚かで馬鹿だけど、それでもあの小さな頃の自分にとってその約束がどれほど大きかったか、心の支えとなっていたか、この人はちゃんと分かっているはずだ。
「あんたが死んだせいで、全部めちゃくちゃなんだよ……」
 全てが狂うことになった原点。それを前にしたら、怒りも悲しみも憎しみも全て、俺の中にとどめることが出来なくなった。いつもなら出来るのに、感情を抑え込むことが出来なかった。
「なんとか言えよ!! あんたさえいなくならなければ、全て壊れずに済んだんだ!!」
「……」
「そうだ、あんたさえ……死ななければ……」
 全てが、上手くいくはずだった。お父さんのあんな一面なんて知ることもなかった。俺が両親のことを憎むこともなかった。藤森だって北だって、傷つけずに済んだ。
 なにもかも壊れることなく、みんな幸せになれたはずだった。
「……ごめんなさい」
 激昂した俺に対して、その人はたった一言、謝罪の言葉を紡いだだけだった。先ほどと変わらず悲しそうな顔をして、本当に申し訳なさそうに俺に謝ってくる。
 それを見るとズキッと胸が痛んだ。
 違う、謝って貰いたかったんじゃない。違うんだ。お母さんが死んでしまったのは、仕方なかったんだ。病気だったから。小さい頃から聞かされていたからそんなのは覚悟していたんだ。責めるべきはお母さんじゃない。違う、違う。
 でも駄目だった。もう、止まらない。
「……今更謝るなよ!! もう遅いんだよ!! もう、手遅れなんだよ……全部、全部!」
「……唯」
「気安く俺の名前なんか呼ぶな! あんた全部見てたんだろ! 俺があの人からなにされてたのか、全部知ってんだろ!! だったらなんで助けてくれなかったんだよ!! なんで!」
 助けられるわけない、お母さんは死んでしまっていたのだから。もうこの世にはいなかったのだから。俺が吐いた暴言の全ては、俺の中で答えが出ていた。お母さんに全てをぶつけるなんてお門違いもいいとこだった、けれど、止められなかった。
「……ごめんなさい」
「ずっと、ずっと嫌だったんだ! 嫌で嫌でたまらなかったんだ!! いつも家の中で怯えてた、今日は何されるんだろう、早く終わらせてくれればいいって、身体中が痛くて……ッ、止めて欲しかった、誰かに助けてもらいたかったけど誰にも言えなくて、ずっと一人で我慢してたんだ……っ!」
 涙が止まらない。こみ上げてくる感情が溢れては涙となって流れていった。
「俺はお母さんの代わりなんかじゃない……っ、代わりになんて、なれるわけない……」
「私は貴方のこと、一度たりとも自分の代わりだなんて思ったことないわ」
 謝ることしかしなかったその人がようやく言葉を紡いだ。先ほどの弱々しい謝罪とは真逆の、強い意志を持ったハッキリとした言葉だった。
「そんなの嘘だ……」
「本当よ」
「嘘だ!! だったらどうしてこんなことになったんだよ!? 本当に子供として思っていてくれたのなら、どうして……っ……、全部計画のうちだったんだろ……小さい頃から俺に優しくしてくれてたのも、自分が死んだ時に自分の代わりに俺を」
「本当に、そう思ってるの?」
 俺の言葉を待たずにそう言って、その人は哀切に満ちた瞳をまっすぐこちらに向けている。
「……ねぇ唯、本当に、そう思ってるの……? 私達が貴方を小さい頃から騙してたんだって、思ってる?」
 優しい声色。けれどそれには少なからず悲しみの色が交じっている。それを前にしたら言葉に詰まって、俺は視線を落とした。
『唯は本当に良い子ね、お父さんとお母さんの自慢よ』
 幼い頃、そう言って頭を優しく撫でてくれた、大好きな人達。俺のことを自慢だと言って、可愛がってくれた。お母さんは病院にいることが多かったけれど、家にいる時はめいっぱい俺のことを構ってくれた。自分が家にいなかった空白の時間を埋めるように。そしてお母さんがいない時にはお父さんが、俺が寂しがらないようにと遊び相手になってくれた。二人とも優しい人達だった。こんな両親の間に生まれてくることが出来て、自分は幸せだった。
 だからこそ大きくなったら今度は俺の方が二人に恩返しをするつもりだった。今まで沢山優しくしてくれた分だけ。だってあの二人の優しさは。
 零れた涙が玄関石に落ちて、小さな水たまりを作る。俺は俯いたまま小さく首を横に振った。
「……思ってない……。……そんなこと、思えない……」
 俺が今まで触れてきたものは、本当の優しさと温もりだった。この人達が自分のことを騙してきたなんて思えなかった。だけど、そうでも思わないと自分の身に降りかかっていることが信じられなかった。
「ごめんね、唯」
 そっと伸ばされた手が俺の背中に回って、次の瞬間優しく抱擁された。
「自分の代わりに貴方を産んだんじゃないわ。私がここにちゃんと存在したんだってこと、生きたという証を残したかったからよ」
「……っ」
「でも、それを伝えることが出来なかったから、こんなに追いつめてしまったのね。……本当にごめんなさい。貴方は小さい頃から物分かりの良い子だったから言わなくても伝わるって、分かってくれるって、私たちいつの間にか貴方の優しさに甘えてしまっていたのね……」
 人肌が触れる感覚や温かさが直に感じられて、余計に感情が高ぶり涙がこぼれた。これが夢だろうとなんだろうと、今の俺にとっては構わなかった。
「生まれてきてくれてありがとう、唯」
 そこまで言った時、ゆっくりと光を拡散させながら、目の前が白く輝きを放った。そして徐々に薄れていく、自分を抱きしめていてくれた身体。
 それでも声だけはしっかりと耳に入ってきた。
「義人さんと出会えたから貴方に出会えた。貴方達がいたから私は幸せだった。貴方と義人さん、家族三人で過ごせた時間は、本当に幸せだったわ」
 自分が消えようとしているのか、目の前の光景が消えようとしているのか、どちらかは分からない。だけどこのままさよならなんてしたくなかった。自分は酷いことしか言っていないのに、酷いことを言ってごめんなさいって謝らないといけないのに、抱きしめてくれていた感覚は次第に薄れて、なくなっていく。
 半ば焦って、俺は声をあげた。
「ま、待って……!」
 相手に向かって手を伸ばしたが、その手は目の前の母親の身体をすり抜けて空を掴んだ。
「!?」
 さっきまでは触れることが出来たのに、もう触れることすら叶わない。それどころか、徐々に周りは白く霞み、何も見えなくなっていく。
 すぐ側にいたお母さんは、これが最後とでも言うようにニコリと微笑んだ。
「約束、守ってあげられなくてごめんね」
「違うっ、俺、まだ言」
「でも、貴方を見守ることならこれからも出来るから」
 まるで最初からそこにはなにもなかったかのように目の前が真っ白になって、自分の意識も次第に遠のいていく。なにもかも跡形もなく消え去ろうとしていたけれど、唯一、さっきまで確かにここにいたんだという温もりだけは俺の手に残されていた。
『だから唯、生きて』