第29話 君がいてくれたから


 彼は何かと目を惹く存在だった。
 普通の人にはない、特別な存在感があった。そして人を惹きつけるような、「何か」を持っていた。それに惹かれていたのはきっと私だけじゃない。だから、彼の周りにはいつも沢山の人がいた。
 彼は勉強も運動も良くできていた。とても器用で、同い年とは思えないほどしっかりしていて、でも、そうかと思えば友達と悪ふざけをして先生に怒られていたりと、不真面目なところもあったりする。そんな彼に私は憧れていた。
 自分の持っていないものを持っている人に憧れることなんてしょっちゅうあった。あんな風になりたいと、思ったこともよくあった。
 けれど、こんなにも愛おしいと、一緒にいたいと思えたのは彼が──唯君が初めてだった。
 私は、唯君が好きだった。



 ここのところ体調がすぐれなかった私が学校へ登校することが出来たのは、紺野さんとちょっとした言い合いになって教室で倒れてしまった日から五日後のことだった。病院に行った際に薬を貰って、そのおかげもあってかある程度体調は良くなったものの、まだ全快とは言えず不安定な日が続いている。
「ほんとに良かったよね、唯君の意識が戻ってー」
 教室へ入っていつも通り本を読んでいた私に、前の席に腰掛けた頼子がニコニコと笑みを浮かべながら話しかけてきた。
 唯君の意識は戻った。医者から、意識が戻るかどうかは分からないと言われていた彼が目を覚ましたのだ。それは唯君のお父さんが警察に自首した日、私が説得しに行った日から二日後のことだ、まだつい先日の出来事。
 私は紺野さんからの電話でそれを知った。でも、まさか紺野さんが教えてくれるなんて思わなくて電話を貰った時は驚いた。お互い同じ相手に恋をしているのに、どうして紺野さんは私にも連絡をくれたのだろうか。彼女の優しい心遣いに感謝しながらも、受話器の向こうから聞こえる紺野さんは時折声を詰まらせて、嬉しくて泣いているんだということがすぐに分かるほどだった。
「そうだね。本当に良かった……」
「真奈美ってば超心配してたもんねぇ。一般病棟に移されたら早速お見舞いに行かないとね」
「うん」
 唯君の術後の経過は良好らしく、ICUからも数日の間に出られると話には聞いていた。一般病棟に移されれば、面会も出来るようになるだろう。けど、私は彼にどんな顔をして会えばいいのか分からないでいた。
 なぜならこの数日間で、彼の周りは大きく変わってしまっていたから。
「唯君これからどうなっちゃうのかな、唯君のお父さん刑務所行きでしょ?」
「……うん」
 一般にテレビで報道されたものの、唯君の名前は一切出ていない。けれど彼の父親の名前が容疑者として報道され、さらに地名も流れたため大抵の人は気付いただろう。唯君が父親から虐待を受けていたという話が、ここ最近私の周りに流れていた。それに病院の方にも一度、唯君のいるICUの前に警察の人が来ていたらしく、偶然そこへ居合わせた北川君や紺野さん、羽野君や近藤君が唯君のことに関して少し訊かれたらしい。
 話が広まっている範囲はまだ小規模なものだが、それが広まるのは本当に一瞬だ。けれどこれが、私の望みの先にあった彼への裏切りだった。
 唯君が知られたくなかったはずの『秘密』の一部。それを、周りに知られてしまうということ。
「なんかさー唯君が事故に遭った原因ってお父さんにあったらしいじゃん。時々怪我したり学校休んだりしてたのも、虐待受けてたって話だよ。クリスマスの日も絶対なんかされたんだよ」
 唯君の意識は戻った。じきに彼は自分が眠っている間に身の回りで起こったことを知るだろう。父親が、罪を償うために自分の前からいなくなってしまったことを。そして今まで自分が隠し続けてきたそれはもう、『秘密』ではなくなっていることも。
 私の望んでいた方向へ物事は変わった。けれどそれは唯君の望んでいたものではない。それが全部私のせいだと言ったら、彼はきっと怒るだろう。ずっと知られたくないと思い続けてきた秘密だったからこそ。
「だからさぁ……って、どうしたの真奈美、元気ないじゃん」
「そんなことないよ。そうだね、唯君のお見舞いに行かないと」
「そうそう! 真奈美が元気にしてあげないとね」
 頼子に訊かれて慌てて気を取り直し、私はニコッと微笑んだ。
 唯君には会いたい。すごく会いたい。本当は今すぐにでも会いに行きたい。けど彼を前にした時、彼は私に何を言ってくるのか、私は何を言えばいいのか、それが分からなくて怖かった。
 頼子はちらりと窓に目をやって、外の景色を眺めながらぼんやりと口を開く。彼女の視線の先にあったのは、ちらほらと花が咲き始めた梅の木だった。
「……唯君、卒業式には間に合わないだろうね。一緒に卒業出来ないのかな」



 それは、最近ではよく見慣れた暗闇の中だった。
 けれど完全な暗闇ではない。所々に、光芒のように光が零れている。それはまるで舞台上のスポットライトのようだ。その異様な空間を前にして私は、少し歩を進めた後、「これは夢なんだ」とすぐに悟った。
 自分の少し先にいた、一人の少年の後ろ姿を見つけて。
「唯君……」
 手を伸ばせばすぐに届く距離まで走って、私は彼の腕を掴んだ。けれども彼は振り返らない。そしてその代わりに一言、私に告げたのだ。
「誰もいない」
「え?」
 感情のこもっていない淡々とした口調で、彼はそう言った。それは唯君の声そのものだけど、言葉の意味が分からなくて私は疑問の声をあげる。唯君はその私の反応に対して、さらに言葉を零した。
「もう俺の側には誰もいないよ。お父さんもお母さんも、友達もみんなも」
 お母さんは亡くなっていて。お父さんは遠くへ行ってしまって。周りには隠していた虐待の事実を知られてしまった。唯君はそのことを言っているのだろうか。
「……唯君? 何言ってるの、私が側に」
「藤森が? ……誰のせいでこんなことになったと思ってるんだよ」
 クスリと、小さな笑いを含んだ声だった。投げやりな言葉遣いと、明かな憎しみを含んだ声色。目の前にいる『唯君』はくるりと振り返ると私の方を見つめた。以前と何一つ変わらない表情を見せて。
「お前のせいだろ」
 まるで氷で出来た槍が刺さったような、そんな冷たさと痛みが私を抉った。同時に、唯君は私を敵視するように睨んでくる。
「唯君……」
「謝ってもらえればそれでよかったのに、なんで余計なことばっかりするんだよ」
 余計なこと。それが何を指しているのかはすぐに分かった。私は、彼に怒られても仕方ないことをしたのだから。彼の大事な人を、遠くへ追いやったのは私だったから。
「俺はあんなこと頼んでない、勝手なことばかりして、それで俺を助けたつもりなのかよ」
「だって私、嫌だったんだよ……たとえ唯君があの人のことを許したとしても、私は絶対に許せなかったの! ……ごめんなさい……」
 私が謝っても彼は表情一つ変えなかった。
「そんなの聞きたくない。我慢することよりも、一人になるほうがずっと辛い。藤森なら分かってくれると思ってたのに。信じてたのに」
「……ごめんなさい……」
 彼は私を冷ややかに見つめたのち、ゆっくりと口を開いた。
「裏切り者」



 まるで夢を拒むかのように、突然意識が現実へと戻った。
 ハッと瞳を開いて、視界いっぱいに広がった自分の部屋の天井を呆然と見る。僅かだが息があがっていた。ゆっくりと重い身体を起きあがらせて、暗い部屋の中私は夢の中での出来事を思い返す。
「唯君……」
 ぽつりと口から零れたのは彼の名前だった。
『謝ってもらえればそれでよかったのに、なんで余計なことばっかりするんだよ』
 大事な人は遠くへ行ってしまって、知られたくなかった秘密の一部を、知られたくなかった人達に知られて。それは泣きたくなってしまうくらいに辛いこと。そんなことぐらい分かっていた。それなのに、分かっていたのに私は彼の望みよりも自分の望みを優先した。
 彼の父親には罪を償って欲しい、その一心で。
 全ては、私にとって唯君が大事な人だったからだ。彼が傷つけられたことが、私には悔しくて悲しかったから。「唯君のため」というと聞こえが良いかもしれないが、それは単なる私のエゴでしかない。自分勝手な行動なのだ。
「そっか……私……」
 そうだ私は、彼にそう言われるのが怖くて仕方ないんだ。唯君がそんなことを言う人ではないと、優しい人だと分かっていても、それでも心のどこかでは私のことを恨んでいるんじゃないかと、そう思うと怖くて。
 それは私の望みの先にあった、彼への裏切りの証だった。



 その後、私は一週間ほど学校を休んだ。
 まだ本調子ではなく体調が悪かったというのもあるが、毎晩のように同じ夢にうなされて、顔色が悪い私を親が心配してくれたのだ。私が学校を休んでいる間に唯君は一般病棟の方へ移されて、普通に面会も出来るようになったと頼子からメールで教えてもらった。
 それを知って私はホッと胸をなでおろす。
(けど、……それなのに私は、こんなところで一人なにをやっているんだろう……)
 そう思ったけど、夢の中で唯君に言われたことを思い出すと急激に気分が凹んでしまい、とてもじゃないが病院へ行く気にはなれなかった。夢の中でのようにハッキリ言われることはなくても、心の中ではあんなことを思っているのではないか、私のことを恨んでいるのではないかと余計なことを勘ぐってしまう。
(お見舞いは、もうちょっと落ち着いてからにしよう。そうだよ、もうすぐ最後の期末考査も始まるし、学校にも行かなくちゃ……)
 そんな呑気なことを考えて無理矢理気分を落ち着かせようとしていた、その日のことだった。



「なんで唯に会いに行かないの?」
 唯君が一般病棟に移されてから五日後、学校を休んでいた私のところへ意外な人達が訪れてきた。少し機嫌の悪そうな面持ちの紺野さんと、そんな彼女の後ろには北川君。紺野さんは最初に一言「お見舞いに来た」と言って、以前と同じようなコンビニの袋を私に渡した後、続け様にそう訊いてきた。
 玄関の前でそんな話をするのもなんだと思い中へ入るように促したが、彼女からはあっさりと断られて、紺野さんはさらに一言。
「藤森さん全部知ってたんでしょ? 唯のこと」
「……おいつばさ、藤森は病人なんだから見舞いなんて行けるわけないだろ」
「そんなことないわよ、会いたかったら病気でも会いに行くわよ私は」
 そりゃお前はな、とものすごい剣幕の紺野さんに北川君は小さく呟いて、私に向かって「ごめん」と謝ってくる。どうして紺野さんがこんなにも怒っているのかがよく分からなくて、私はただ呆然と彼女を見つめてしまっていた。そしてよくよく紺野さんの顔を見ていると、彼女の目が少し赤くなっていることに気がつく。
「言ってよ。なんで唯に会いに行かないの?」
「それは……」
 唯君に会って、どんな顔をすればいいのか分からない。何を話せばいいのかも分からない。彼が怒っているんじゃないかと、私になんて会いたくないと思われているんじゃないかと、そう思うと怖い。
 でも、今この場でそれを言えばさらに紺野さんを怒らせてしまいそうで、私は言葉を呑み込んだ。そして代わりに紡いだ言葉。
「ただ……なんとなくで」
 途端にパンッと乾いた音がして、左の頬に痛みがはしって痺れた。以前叩かれた時よりも遙かに、痛みと重みがあった。
「っ!?」
 突然のことに呆然として、ゆっくりと紺野さんの方へ視線を戻すと、そこにいた彼女はポロリと一筋の涙を零していた。そして、キッと私を睨みながら悔しそうに声を漏らす。
「最っ低……!」
「! ちょっ、つばさお前なにやってんだよ!」
 いきなり引っぱたいてきた紺野さんの後ろにいた北川君は驚いて、彼女の腕を掴んで止めた。けれども紺野さんの熱は冷めることなく、さらに私を怒鳴りつける。
「信じらんない! 最低よあんた!!」
「叩くのはやめろって、ってかお前ちょっと落ち着け」
「叩くわよ!! 目覚ますまで何度だって叩いてやるわよ!! よくそんな軽々しいこと……ッ」
 どうしてこんな風に叩かれたり、文句を言われたりしなくてはならないんだろう。そんなことを、私は呆然と、どこか他人のように思っていた。
「今まで散々唯のこと惹きつけておいて、唯が事故ったら『ただなんとなく』会いにいかないなんて最低じゃない!! そんな軽い気持ちだったのなら、最初から唯に近づかないでよ!!」
「つばさ」
 激昂している紺野さんを北川君が宥めているが、彼女の怒りは治まらないようだった。私の方は、相変わらずただぼんやりと二人を見つめているだけ。
 唯君の事で沢山泣いたせいか、今更何を言われても涙なんか出てこなかった。でも、私はそんな軽い気持ちで唯君の側にいたんじゃない。なにも知らない人にそんなことを言われたくないと、黙ったまま心の中ではそんなことを思っていた。
「勇介だって聞いてたでしょ!? 唯が……、唯が病院で藤森さんのことなんて言ってたか!!」
「唯君が……私のこと?」
 ぼそりと、自然に私の口から言葉が漏れた。
「そりゃ私、何も知らなかったよ。親から虐待受けてたなんてそんなの知らなかったよ! 時々怪我してきてたり学校休んでたりしてたけど、唯が『大丈夫』って言うからそこまで気にもしてなかった……。小学生の頃から一緒にいたのに、気づけなかったよ……」
 気づけなかったのは仕方のないことなんだよと、私は紺野さんに対して心の中で言い聞かせる。唯君は、みんなには絶対に知られたくなかったから必死で我慢し、平然を保っていたのだから。
「だからこの間初めてお見舞いにいった時、正直なんて言えばいいのか、どんな態度とればいいのか分からなくて、すごく緊張してたのに……久しぶりに会った唯、いつも通りに笑って、話しかけてくれて……」
 自分が励ましてあげないといけなかったのに、自分の方が救われてしまった。彼女はそう言いたかったのかもしれない。そして、紺野さんも唯君のところへ行くとき、今の私のような気持ちだったんだと、彼女の言葉が私を締め付ける。
 紺野さんは、瞳から止めどなく零れる涙を手の甲で拭っている。
「でも話してると、色々変わったところがあって……藤森さん知らないでしょ……」
 会いに行ってないんだから、分かるわけないよね。そう言って紺野さんは小さく笑う。けれどそれは嬉しそうに笑うというよりも、皮肉を含んだ笑いだ。
「藤森さんの話すると唯、すごく嬉しそうに笑うんだよ」
 紺野さんの言ったそれに私は驚いて、なぜか手が小さく震えた。
「羽野と近藤がふざけて『藤森に会いたいんだ』ってからかったら、『うん、会いたい』って。『会って話したいことが沢山あるから』って」
 紺野さんの言っている事が信じられなくて、私は彼女の言葉一つ一つに驚いた。
「それなのに藤森さん……見損なったよ」
 涙を見せながら紺野さんは私を軽蔑するような目で見て言った。そして一言残すと、彼女は走っていってしまったのだ。
「あー……えっと……」
 紺野さんが走り去ってしまった後、北川君はかなり気まずそうに言葉を漏らした。少し頭を掻いて、私に対してどう言ったものかと困っているようだった。
「その、ごめんな……あいつ連れてきちまって……どうしても藤森に会いたいっていうから連れてきたんだけど……」
 唯君が本当に私に会いたいと思ってくれているのなら、そんな彼に対して、そしてその彼を好きな紺野さんに対しても失礼なことを言ってしまった。彼女の言ったことが全て本当なら、唯君が私に「会いたい」と言ってくれている時、紺野さんはきっと辛くてたまらなかったはずなのに。
 それを考えると胸が苦しくなって、私は俯いて顔を歪ませた。
「……つばさの言ったこと、全部本当だよ。唯、藤森に会いたいって言ったんだ」
 黙っていた私を北川君は責めることなく、優しい口調でそう言った。
「あいつ……唯、起こったことちゃんと自分で受け止めようとしてるよ。初めて見舞いに行った時、『なんで今までずっと隠してたんだよ』って羽野や近藤からむちゃくちゃに怒られて、そしたら唯『ごめん』、『誰にも言いたくなかったし、人に頼りたくなかった』『みんなに嫌われたくなかった』って、『でも、今度からはもうそういうのはやめにするから』って言ったよ」
 胸の奥から熱いなにかがこみ上げてくる。
「それに、俺達にちゃんと本当のことを話してくれた。ただの虐待じゃないこと。父親との間になにがあったのか、ちゃんと話したんだぞ。……あんなの、言いたくなかっただろうに」
 すごいだろ。そう言って、北川君は笑う。
「前の唯なら絶対にそんなこと、口が裂けても言わなかったのにな。本当にすごく変わってて、武丸が『お前なんか変わったな』って言ったら、唯なんて言ったと思う?」
 その次に北川君の口から零れた言葉を聞いて、私は自分の頬をゆっくりと、涙が伝っていくのを感じた。唯君のお父さんと話して以来、涙なんて流していなかったのに、その言葉がまるでスイッチのようで涙がとまらなくなった。
 そんな、突然泣きだした私を見て北川君は優しく微笑んだ。
「藤森は自分で気付いてないのかもしれないけど、アイツをここまで変えたのは、藤森の力だよ」
「……ッ、わた、し……」
「人を変えるなんてすごいことだと思うぞ。藤森は……本当によく頑張ったと思う」
 ポンッと優しく肩を叩かれて、私は何度も何度も手で涙を拭った。けれどそれはなかなか止まらなくて、涙で顔がぐしゃぐしゃになってしまいそうだ。
「だからあとはもう、自分の気持ちを伝えることだけなんじゃないか? 唯も、藤森もさ……」
 声を出して泣いていたけど、優しい北川君の言葉を前にしたら想いを抑えられなくなって、私は少しずつ言葉を紡いでいった。
「わたし、どうしても……唯君のお父さ、が許せなくて……、今まで、やって……きたこと全部っ、償って欲しくて……」
 うん、と小さく返事をしながら、北川君は私の頭を撫でて話を聞いてくれる。
「……け、警察へ行くように促したのも、私で……でも、唯君はそれを望んでなくて……なのにっ、私……ッ」
 そんな私に、唯君は会いたいと思ってくれているのかな。もしも唯君が本当にそう思ってくれているのなら、私は彼に甘えてもいいのかな。
「私、会いに行っても、……いいのかなぁ……」
 泣きながらそう言った私の身体を、北川君が突然ギュッと抱きしめた。抱擁する彼の手の力は強くて、けれど伝わってくる温もりは心地良い。私は驚いて目を見開いた。
 そう、以前にもこんなことがあったことを私は思い出したのだ。
「き、たがわ君……?」
「俺、藤森のことが好きだった」
 それはあまりにも唐突すぎる告白で、言葉すら出ない。あからさまに驚いている私をよそに、北川君はさらにギュッと腕に力を込めた。
「……もっと正確に言うと、『唯の事が好きな、頑張ってる藤森』が好きだったんだ」
 ハハ、と笑ってはいるけど、どこか辛そうな響きを持った声色。彼が今どんな顔をしているのかも分かるほどに。
「これってどうしようもなくねぇ?」
 こんなワケわかんない恋したのって初めてだよ。そう彼はおどけて笑いながら口にする。そんな北川君の温かい腕の中で、私は声をあげることも、彼を突き放すこともせずにそのまま彼の言葉を聞いていた。
「唯のことも友達としてすごく好きで、藤森のことも好きだったから、なんとか力になってあげたかったんだけど……結局自分は何も知らないまま唯は事故に遭って、そんな時になって初めて本当のことを知って。一人蚊帳の外みたいな気分になって……」
「……ごめんなさい」
「『ああ、今まで自分がしてきたことってなんだったんだろう』って、無駄なことしてきたみたいに思えて。あの時は八つ当たりして本当にごめん」
『……なぁ、……藤森と唯にとって、俺ってそんなに頼りなかった?』
『ちがうよ……言わなかったのは北川君が頼りなかったからじゃない……』
『じゃあなんで!!!』
 あの時、今まで優しくしてもらった北川君をすごく傷つけてしまったことを知って、真実を言ってしまったことを後悔した。けど私は一度たりとも北川君のことを頼りないなんて思ったことはなかった。いつもいつも力になってくれる、優しくて大切な友達だった。
「違うよ、北川君がいてくれたから、私はここまで来られて、全部、北川君のおかげで……」
 ずっとずっと助けてくれたのは彼だった。落ち込んでいた時に励ましてくれたのも、唯君のことを色々教えてくれたり、話す機会を作ってくれたり。私一人ではここまで来ることなど出来なかった。
「全部、無駄なんかじゃなかったよ……」
「それなら、証明して」
「え……?」
「俺が今まで藤森にしてきたことが、無駄なんかじゃなかったって……証明してよ」
 私から手を放して、北川君は離れた。
 その時の彼は、私が好きだと思った、いつもの優しい微笑みを浮かべている北川君だった。



 時折息を乱しながらも、それでも立ち止まることなく私は走っていた。あんなに迷いだらけだった心に立ちこめていた霧はいつの間にか晴れて、ただ一つの想いだけがそこに残っていた。
 唯君に会いたい、会わなければいけないという一つの想いだけが。そしてそれが、今の自分を突き動かしている原動力だった。
『藤森さんの話すると唯、すごく嬉しそうに笑うんだよ』
『羽野と近藤がふざけて『藤森に会いたいんだ』ってからかったら、『うん、会いたい』って。『会って話したいことが沢山あるから』って』
 それを聞いている時、紺野さんだって辛かっただろうに。形はどうであれ私に伝えてくれた紺野さんの気持ちを無駄にしたくない。そして今まで力になってくれた、私のことを好きだと言ってくれた北川君の気持ちも。
(私も会いたいよ。唯君と話したいこと、沢山あるんだよ)
 普段ならとっくに疲れてバテているはずなのに、その想いに支えられて私は走っている。落ちかけている夕陽が照らす、オレンジ色に染められた空の下を。
「ッ、……はぁっ……」
 そして自分の視界に一つの大きな建物が入って私は足を止める。こんなにも近くにあったのに、ここまで来るのに随分と時間が流れてしまっていた。
 それは、唯君がいる病院だった。
「……っは……」
 呼吸を何度も荒く繰り返しながら、私は病院を見つめた。その大きな入り口で立ち止まっていた私の脳裏によみがえったのは、北川君の言葉。
『前の唯なら絶対にそんなこと、口が裂けても言わなかったのにな。本当にすごく変わってて、武丸が『お前なんか変わったな』って言ったら、唯なんて言ったと思う?』
 その彼の言葉を聞いた途端、胸が熱くなった。
『『藤森がいてくれたから』って』
 そして私は、一歩を踏み出した。