第27話 残した言葉 -wish-


 今自分の目の前にいる男の人。
 この人と最後に会ったのは、唯君が事故に遭った日だった。
『謝って……唯君に謝ってください。……ねぇ……っ……唯君に謝ってよ!!』
『藤森!? どうしたんだよ落ち着けって……!』
 北川君から止められたけれど、口から出る言葉は止まらなかった。唯君が事故に遭ったのは自分のせいでもあるのに、よくもそんなことが言えるものだと私自身心の中で思っていた。
 けど、このやり場の無い気持ちをどこかにぶつけてしまわないと、私の方がどうにかなってしまいそうだった。だから言ったのだ。自分が言いたかったことを、この人の前で。
『聞こえてるんでしょ……? 今までやってきたこと全部……全部唯君に謝ってよ!!』
 あの病院での出来事からもう二週間以上が経っている。
 病院で私が怒鳴りつけて以来、唯君のお父さんとは全く会っていなかった。会おうとも思わなかった。会えばまた暴言を吐いてしまいそうだった。「誰のせいでこんなことに」と、その人のことを思い出すだけでそう思ってしまう自分がいた。
 私は、心のどこかで自分のことを棚にあげ、この人が一番悪いのだと非難して逃げたかったのかもしれない。自分も、唯君を追い詰めた一人だったのに。
『私は絶対に許さない……!! ……どい……ひどいよ……なんでこんなことになったの……っ』
 けれど、今回のことをいくら自分や他の人のせいにしたところで、それはもう起こってしまったこと。変えることなど、ましてや時間を戻すことなんて出来はしない。
 それなら唯君が目を覚ました時、少しでも彼の望んでいた方向へ物事を変えることが出来ていたら。そう考えて、私はこの人のところへ再び足を運んだ。今私が唯君のためにしてあげられることは、彼の父親が今まで唯君にやってきたことを全て認めて、そして唯君に謝ってもらうこと。そしてもう一つ。
「……こんにちは」
 私が言った後、少し間を空けてその人も小さく返事をしてくれる。今度はちゃんと私の声は届いているようで安心した。そんなことを思いながらその人を見つめていた私は、ふと気が付いた。
(……あれ……?)
 以前となにか様子が変わっている。そんな違和感の原因に気付いたのはすぐのことで、その人が以前よりも少し痩せたせいだと思った。元々細い人だったが、さらに細くなったように見えた。そして、あまりよく眠れていないのか、目の下に若干だがクマが出来ている。顔全体の血色もよくなかった。
「あの、……大丈夫ですか……?」
 あまりに気分が悪そうな感じが滲み出ているものだから、私は思わず唯君のお父さんに尋ねてしまった。
 私がそう言ったのがよほど意外だったのか、その人は一瞬驚きに目を張って、その後優しげに微笑んだ。それは、唯君の部屋で見た家族写真に写っていた時の、その人の微笑みそのものだった。
「ああ……、大丈夫だよ。すまないね、こんな……」
「いいえ……」
 困った顔をして弱々しく苦笑するその人を見て、私は思わず顔を逸らして返事をしてしまう。
「話があってここへ来たんだね。どうぞ」
 まるで私が言いたいことを全て分かっているような、そんな様子がその言動からは伺えた。声からは以前感じたような不気味さは微塵もなく、ただ覇気がない、優しくて静かなもの。
 一体会っていない間になにがあったというのだろう。
「おじゃまします……」
 中へ促されて、私はそのまま唯君の家へあがらせてもらった。私の前を歩く唯君のお父さんは、どこか足取りがおぼつかなくてフラフラしている。今は私の話を聞いてもらうよりも休んでもらった方がいいんじゃないかとも思ったが、唯君が今まで受けてきた苦痛に比べてばあれくらい、と嫌なことを考えて私は口を噤んだ。
 この家に足を踏み入れるのももう何度目だろう。その度に暗い家だと思ってきたが、今回訪れてもやっぱりその印象は変わらなかった。だが、私がリビングへ入ると唯君のお父さんは今まで締めっぱなしだったカーテンを開く。シャッという音と共に、そこから漏れた夕陽が部屋を照らした。
 まだ幾度かしか来たことのない家だったが、この家に光が差し込んでいるのを初めて見たような気がした。
「どうぞお好きなところに」
 言われたように私はソファへ腰掛ける。それを見た相手もソファへ座って、きつそうに一つ息を吐いた。これから私が言うことは、きっと分かっているんだろう。けれど果たして、目の前のこの人はそれを受け入れてくれるんだろうか。
(きっと、受け入れてはくれないんだろうな……)
 今までがそうだった。この人はもう何を言ってもきっと無駄なんだ。
 でも、そう思っているのに私は今ここにいる。それはまだ自分が希望を持っているからなのか、最後にもう一度だけ、と。
 お互い黙り込んで、話を切り出そうとはしない。言わなければならないことはちゃんと自分の頭の中にあるのに、妙に緊張して言葉に出せない。汗ばんだ自分の手をギュッと握り締めて、私は心を落ち着かせた。
 もう終わりにさせてあげたい、こんなおかしなことは全て。
 そのためには、今動けない唯君の代わりに、私がこの人に言わなければならない。それが、あの時唯君を守ってあげることが出来なかった私の、彼への唯一の償いだと思ったから。
「真奈美さんは唯とはいつからの付き合いなのか、訊いてもいいかな」
「え?」
 ふいに唯君のお父さんが私にそう訊いてきた。今そんなことを話している場合なのだろうかと思い、俯いていた顔をバッとあげると、その人は微笑んでいた。穏やかで、どこか寂しげな笑みだった。それを見ると何も言えなくなって、私はまた俯いてしまった。
 なんでこの人がこんなに悲しそうに笑うんだろう。そんな疑問が浮かぶ。
「……一年の頃同じクラスになって、でも仲良くなったのは本当に最近です。付き合ってはいないけど、私にとって唯君は大事な人です……」
「そう……どうもありがとう」
「……?」
 なんでこの人がお礼を言うのだろう。そう思って少し顔を上げるとその人はとても嬉しそうに、静かに微笑んでいる。けれどそれも束の間、突然何か思い立ったように、唯君のお父さんはソファから慌てて立ち上がった。
「あっ、何か忘れていると思ったらお茶……!」
「えっ!? あっ、いいですそんなに長居は……っ」
 そこまで長居するつもりはないので、と言おうとしたものの、すでにキッチンの方でお茶を入れる準備を始めたその人を見たらそんなこと言えなくて、私は黙ってソファに座ったままジッとしていた。
 なんだか変な感じがする。この間まではあんなに怖かったのに、どうして急にここまで態度を変えるのだろう。まるで別人のようで、私は先ほどまでの違和感を拭えないでいた。
 けれどそんな時、突然バタンッと何かが倒れる音がして、私は音のしたキッチンの方へ視線を向けた。そこには先ほどまであった唯君のお父さんの姿はなく、私はおそるおそるキッチンの方へ歩み寄る。すると、キッチンの床に唯君のお父さんが倒れていた。
「!? だっ、大丈夫ですか……!?」
 慌てて声をかけて上半身を抱き起こすものの、意識は無かった。顔色も悪かったし、体調を崩していたのだろう。この間、学校で倒れてしまった自分のことを思い出した。
 もしかしたらこの人も、唯君が事故にあってから私のようになっていたのかもしれない。
(唯君のこと、……後悔してるの……?)
 そう考えたけれど、すぐにそれをかき消した。あまり期待はしない方がいいと、私は自分に言い聞かせた。



 そう時間が経たないうちに、唯君のお父さんは目を覚ました。うっすらと瞳を開き、顔だけ横に向けて、側にいた私を不思議そうに見つめる。
「私は……」
「良かった、気が付いたんですね……、突然キッチンで倒れたんですよ。本当はベッドまで運んであげたかったんですけど、ごめんなさい、私じゃここのソファまでが限界で……」
 非力な自分にはこの人を二階にまで運ぶ力など到底なく、すぐ側のソファに運ぶだけでも大仕事であった。苦笑して謝ると、その人は頼りなさげに笑った。
「……せっかく来てくれたのに、悪かったね。私としたことが、また」
「また?」
 この人が倒れたのを見たのはこれが初めてなのに何を言っているんだろうと、私は首を傾げて思わず訊き返してしまう。唯君のお父さんは、ささやかな笑みを浮かべる。
「……前にもこんなことがあって、一年くらい前だったかな……。風邪を引いて倒れてね、その時は唯が……あの子がソファまで運んでくれて、看病してくれたんだよ……情けない話だけれど」
 一年前といえば、唯君が高校二年の時の出来事になる。父親から暴力を振るわれていたはずだ。そんな、自分を苦しめている対象である父親が倒れた時、唯君はあろうことか父親の看病をしたというのだ。
(唯君……)
 私や北川君のことを「お人好し」って言って笑うくせに、唯君だってそういうところはしっかりお人好だと思った。人のこと言えないじゃないと、ギュッと拳を握りしめる。
「どんなに酷いことをされても、唯君にとって貴方は父親だから……」
 相手の顔なんてまともに見られなくて、私は少し視線を逸らしたままそう言い捨てる。唯君のお父さんはソファから起きあがると、悲しげに顔を歪ませた。
「唯はもう私のことを父親だなんて思ってないよ、絶対にね」
「それは……」
「それに唯にとっても、こんな父親ならいない方がいい」
 だったらどうするつもりなのだろう。このまま唯君の前からいなくなるとでもいうのだろうか。そんなことは絶対に許さない。私はこの人に、どうしてもしてもらわなければならないことがあるのに。
 いなくなれば済むとか、そんな簡単な問題じゃないのだ。そんな気持ちが私を急かして、思わずその人に言ってしまいそうになった時。
「……今まで、本当にすまなかった」
 先に口を開いた唯君のお父さんが言ったその言葉が、信じられなかった。今この人は一体何を言ったのだろうかと思うくらいに、私は驚きを隠せなかった。
 目の前にいるこの人は、私に向かって頭を下げて、今一体なんと。
「……え……?」
「唯にもいつかちゃんとした機会を作って、謝ろうと思っている」
 それは、信じられない言葉だった。
(どうして……?)
 何度も何度もその言葉だけが頭に浮かんだ。嫌だと怒りたいのに、とっさにこみ上げた悲しさがそれらを上回って、私は小さく呟くように言葉を紡いだ。
「どうして今更そんなことを言うんですか……」
 唯君はずっと待っていたのに。貴方がいつか自分のやっている過ちに気が付くことを、そして以前のような優しい貴方に戻ってくれることを、楽しい家庭に戻れることを。
 ずっと、待っていたのに。
「『すまなかった』だなんて、謝るなんて、……そんなの、卑怯ですよ……」
「……そうだね」
「なんでっ……なんで今になって、……っ、こんな……」
 唯君のお父さんに謝ってもらいたくてここを訪ねてきたのに、待ち望んでいた言葉はなんて残酷なものだったんだろう。ここでは絶対に泣きたくないと思っていたのに、堪えきれなかった涙が頬を滑った。言葉が上手く紡げない。嗚咽がそれを邪魔して、さらに瞳から涙が溢れていく。
 謝ってくれればそれでいい、そう唯君は言っていた。
 でもね唯君。謝罪なんて、こんな一言で終わってしまうんだよ。たったこれだけの言葉なんだよ。こんな短い言葉で、一体貴方の何が救われるというのだろう。今まで受けてきた身体の傷が治るわけでもない、心の傷が癒えるわけでもない。唯君はこの言葉に一体何を求めていたのだろう。
 光が陰るように、陰りが光に照らされるように、この長かった暗闇にも光が差し込もうとしていた。
 それは、私達にとってはあまりにも遅すぎる終幕だったのだ。
「今更……そうだね、本当に今更だ」
 呟くように、唯君のお父さんはそう言った。
 ずっと望んでいたはずの終幕だったのに、それはなんて惨い終わり方なのだろう。唯君へ謝ってもらう、思い通りになってよかったじゃないか。それなのにどうしてこんなにも胸が苦しいんだろう。
 それは自分でもちゃんと分かっていた。納得していない自分がいることに。
 謝ってもう何もしないでくれればそれでいいという唯君の望みと、それだけでは許さないと思った私。互いの望みが違うことに。
「もし唯君の意識が戻っても、きっと唯君は貴方を責めない」
「……あの子は優しいからね」
「……それどころか、貴方のことをきっと許してしまう……。『もういいよ』って、傷ついた心は癒えないのに、それでも貴方のことを好きだから……」
 私が唯君のことを知るまで、唯君は父親と関係を持っていることを誰にも言ったことがなかった。そして、私がこれからどうしたいのかと尋ねた時も、罪を償って欲しいとの類は一切言わなかった。警察へ行こうと言った時も彼はどこか戸惑っていた。
 唯君は父親を責める気など毛頭ないのだ。今でも唯君は、父親のことを拒絶しながらも、心のどこかでは父親のことを愛しているのだろう。そしてそんな彼からは、怒りや憎しみよりも、悲しさや寂しさの方が強く感じられた。
「貴方が謝って、もうなにもしないでくれればそれでいいって、唯君がそう言ったのを聞いて、私は、優しい人だと思いました。甘すぎる人だって……」
 そしてそんな唯君の優しい気持ちを利用して、今まで好き勝手にしてきたこの人が私は許せない。たとえ唯君がこの人のことを許したとしても。
 唯君のお父さんは、ソファに腰掛け俯いたまま、何も言おうとはしなかった。
「今までのことは、貴方が謝れば唯君は絶対に貴方を許します。……けど……」
 そこまで言って、私は口ごもった。これを言えば、私は唯君を裏切ってしまうことになる。
 唯君の望みと私の望みは違う。本来なら優先すべきは唯君の望みだったはずなのに、私は今、彼のそんな望みを裏切ろうとしていた。
「……それじゃあ私が嫌なんです……。他人のくせに勝手だって分かってます、……でも、それでも私は嫌なんです……」
 自分のことを棚にあげて、お前は罪を償えと、こんなにも偉そうなことを言っている自分が心底嫌いだ。
 でも、謝るだけじゃ許せなかった。身体が負った傷なら完全に治る日が来るかもしれない、けど心が負った傷は完全には治らない。小学生ならそれが理解出来ないのも仕方ないかもしれない、でも中学生なら、高校生なら、大人なら、誰もが分かり切っていることなのに。
 仮に唯君が目を覚ましたとしても、それで「良かったね、もう全部終わったんだよ」とは言えないのだ。これからも唯君は事あるごとに父親とのことを思い出して、その度に苦しむことになるのだろう。終わったことなのだと分かっていても。それだけの苦痛や恐怖を、この人は唯君に植え付けた。
 そんな過ちを犯した、こんなにも罪深い人間が、どうして謝るだけで許されるというのだろう。
(……ごめんね唯君)
 私は心の中で唯君に謝った。
 「謝って、もうなにもしないでくれればそれでいい」って、貴方はそう言っていたのに。それが唯君の望んでいたことだったのに、勝手なことばかりしてごめんなさい。でも、いくら唯君がそう言ったとしても、それでも私は今まで唯君が負ってきた傷の深さを「ごめんなさい」の一言で済ませるなんてことは絶対に出来ない。
 本来なら守られるべき場所で、絶対に起こってはならないことを起こした。そして、汚してはならないものを汚し、傷つけた。
 その罪を、目の前にいるこの人に償ってもらいたかった。それが、私の望みだった。
「……真奈美さんは、唯のことがとても好きなんだね」
 今まで黙って、私の言うことを否定することもなく聞いていた唯君のお父さんは、私をまっすぐに見つめてそう言った。まるで全てが見透かされているかのような、恥ずかしい気持ちになる。
「……私の気持ちが分かるのなら、どうして唯君の気持ちを分かってあげなかったんですか……」
「分かっていたよ。分かっていたけど徹底的に無視をした。由梨のように失いたくなくて、突然いなくなってしまうんじゃないかって怖くて、だから唯の気持ちを無視してでも側に置いておきたかった。それに、由梨が亡くなって、今まで当たり前のように一緒にいた人を失って私も辛かった……誰でもいい、私の気持ちを分かってくれる人に一緒にいてもらいたかったんだ」
「そんなの、勝手すぎる……」
 それはこの人も十分分かっていることだろう。この人の言ったことは何一つとして、唯君を暴行する理由になどなりえていない。どんな理由があろうとも、この人が唯君にやったことは犯罪だ。許されることじゃない。
「こんなのは言い訳だけれど、あの子は本当に由梨に似てた。顔も、背丈も、たまに見せる表情の一つ一つ、何気ない仕草まで由梨そっくり。……私と唯も似ているところはあるけど、それでも由梨ほどじゃない。だから唯を愛すれば愛するほど、由梨を幸せにしているような錯覚に陥ってね……」
 それを聞いてゾクッと鳥肌がたった。
 今まで、話は全部唯君から聞いていたため実態がよく分からない部分もいくつかあった。けれど、この父親からの話を聞いて、改めて私はこの人が恐ろしいと思った。自分の子供に対してそんなことを思ってしまうこの人が。
「……貴方が唯君に暴力を振るえば唯君はどうなってしまうのか、考えたことがあったんですか……。貴方に追いつめられて、いつ壊れてもおかしくなかったのに」
「壊れてしまえばいいって、そう考えた時もあったよ」
「……っ……!!」
「むしろ私としては、唯には壊れてくれた方が良かった。心が壊れてしまえば、もうどこにも行かないから」
 あまりに信じられない言いように、私は思わず座っていたソファから立ち上がって唯君のお父さんをキッと睨んだ。
「貴方と知り合ってから唯は変わった。私が触れることを嫌がり、抵抗するようになって、学校からの帰りも遅くなった。貴方と唯が出会わなければ、唯はこのままずっと私に従順で、そのうち勝手に壊れてくれたかもしれないのに」
「それが……本音ですか……?」
 私の手は、わなわなと震えていた。
「さぁ、……どうだろうね」
 怒りに震えている私から目を逸らし、唯君のお父さんは自嘲してそう言った。
「……取り消してください、……今言ったこと、全部取り消してください!!」
 なんで自分の子供にそんなことが言えるのだろう。壊れてしまえばよかっただなんて、そうすればずっと自分の側に置けるからなんて、尋常じゃない。
 悲しくて、こんなことを唯君に聞かせたくなくて私は声をあげる。
「どうして分かってくれないんですか!? 唯君は貴方のことを守ってたのに! 貴方が罪に問われる事が嫌だったから唯君は今まで我慢して黙っていたのに!! 自分がいくら傷付いても貴方のことを『本当は優しい人なんだよ』って庇って……っ、貴方のことを父親としてとても好きだったから……」
 その場に立ったまま、私は前に腰掛けている唯君のお父さんに向かって声を張り上げた。最後の方は上手く言葉にならなかった。悔しかったのだ、唯君の気持ちがこの人に伝わっていないことが。
 実の父親からあんな非道なことをされてもなお、『本当は優しい人なんだよ』と素直に言える唯君が信じられなかった。普通だったらこんなことは言えない。本当に、唯君の父親は唯君のことを大切に育ててくれたのだろう。暴行を受けるその日まで。
 それなのにどうして、そんな唯君の気持ちがこの人には伝わってくれないんだろう。
「……『壊れてくれた方が良かった』なんて、酷すぎる……」
 自分の声が震えているのが分かる。視界は涙で霞んでいて、よく見えない。涙はなおも流れ続けて、色んな感情が混ざり合ってわけがわからなくなりそうだ。手の甲で一生懸命涙を拭おうとするけれど、次から次へと流れてくるそれは止められなくて、手の甲が涙で濡れた。
「……ありがとう」
 少し間をおいて、その人は私に言った。
 その言葉の意味が分からなくて私が顔をあげると、視線の先にいた唯君のお父さんの瞳から、涙がこぼれている。それを見て私は言葉を詰まらせた。
「……ありがとう真奈美さん」
 穏やかに微笑んで、もう一度その人は私に言った。
 どうしてこの人が泣いているのだろう。どうして私はこの人からお礼を言われたのだろう。それすらも私には意味が分からなかった。
「貴方がいてくれて本当に良かった……」
「え……?」
「……貴方になら、安心して頼むことが出来る……」
 そう言って、次の瞬間その人はソファから立ち上がり私に向かって土下座をした。突然のことで、私は言葉を失う。その人は至って静かに、けれどどこか熱を伴ったような声で私に言った。
「唯のこと……よろしくお願いします……」
 その人の瞳から零れた涙が、ぽたりと落ちて床を濡らした。



 それは忘れもしない、あの日。
 唯を由梨の代わりに抱くようになってから、一年ほど経ったある日のことだった。
 当初、セックスを求めるたびに激しく抵抗し、そのたびに私から痛めつけられていた唯も、二年にあがるともう無駄なことだと諦めたのか、抵抗はぱったりと止み大人しくなった。私が求めると躊躇こそするものの、従順な態度で行為を受け入れた。その方が痛い目に遭わなくて済むということをようやく理解したのだろう。
 私は唯を手に入れた。
 けれど、あくまでもそれは身体だけであり、心はいつも遠くに感じていた。なぜなら肉体関係が出来てから、唯が自分から私に話しかけてくることが一切なくなったからだ。こちらが話しかけても最低限の返事しかしない。微笑むこともないし、時折怯えたような面持ちで私を見ていた。
 でもそれは逆に、唯の心は私への恐怖心で縛られているのだということを理解するに足る証拠にもなった。
 これでいいと思った。私に対して恐怖心を持てば、私を裏切ろうなんて思わないだろうから。もうどこかへ勝手に行くこともないだろう。そんな異常な状況に、私は満足していた。
 だがそんなある日、私は家で倒れた。
 その日は朝からすこぶる体調が悪かった。頭は痛いし熱もあった。だが、風邪気味だったにも関わらずそのまま仕事へ行ったら、案の定見事に悪化してしまい家に着く頃には足下もおぼつかないほどフラフラになってしまっていたのだ。こんなに酷くなるくらいなら、大人しく仕事を休んで家でゆっくりしていた方が良かったかもしれないと思いながら、家へあがりリビングへ向かおうとしたところ、酷い眩暈に襲われて私の意識はそこで途絶えてしまった。
 そして次に目を覚ました時、リビングの一歩手前で倒れたはずの私の身体はリビングのソファの上に寝かせられていた。視界に入った電気の明かりが眩しく、私は目を細めた。キッチンの方で何か物音がして、私が起きあがろうとしたその時に、その物音の正体は姿を見せた。
「……唯……?」
 湯気の立っている小ぶりの土鍋をトレーに乗せて、唯がこちらへやってきた。私が目を覚ましたことにさして驚いた様子もなく、唯は黙ったままトレーをテーブルの上に乗せ、ソファの側に腰掛ける。
「お前がここまで運んでくれたのか?」
 そう尋ねたが、唯はまるで私の声など聞こえていないかのように表情一つ変えず、何も言わずに持っていた小さな箱から粉薬の小袋を出し、テーブルの上に置いた。その間も唯は私の方など一切見ようともしない。
 自分の息子である唯にあんなことを無理強いしているのだ、口を聞いてもらえるわけがない。そう心の中で思い、自嘲する。
「風邪ひいてるし熱もあるから、薬と水、ここに置いとく」
 ようやく何か言ったと思えば、本当に必要最低限のことしか唯は言わなかった。事務的で、淡々とした言葉だ。温かさなんて、微塵もない。
 しかしそんな唯の言葉は、今の私の心には酷く染みた。
「……ああ、ありがとう。後で飲むよ」
「雑炊作ったから、少しでもいいから食べてから薬飲んで。この薬、食後服用だから」
「分かった」
 私が静かに返事をすると、唯はその場から立ち上がって二階の自室へ戻ってしまった。
 ほとんど話すことは出来なかったが、倒れている自分をリビングまで運んで、薬を用意して雑炊を作ってくれたのだ。そのことが嬉しくて、それと同時に悲しさがこみ上げてきた。
 素直に喜べないのは、自分が唯へしている酷い仕打ちを思い出したから。そしてそれにも関わらず、自分を気遣ってくれた唯の優しさが苦しかったからだ。唯を自分の側へ置いて、どこへも行かないように心を恐怖で縛り付けて、由梨の代わりに唯を抱く。なにもかも思い通りにいって満足していたはずなのに、私の心は悲鳴を上げていた。
 本当はこの時、罪悪感を覚えた時点で、あんなことは止めて唯に謝罪するべきだったのだ。
(唯……)
 ソファからゆっくりと起きあがると、頭に痛みが走った。こんな酷い頭痛も久しぶりだった。それを我慢して、唯が持ってきてくれた雑炊の入った小さな土鍋の蓋を開け、添えてあったレンゲで雑炊を口に運ぶ。まだ出来たばかりで雑炊は熱かったが、それでも私は食べた。
 私が味気のないおかゆを好んでいないのを知っていて雑炊を作ってくれたことにも驚いたが、味も由梨の作ったものとなんら遜色がない。以前、私が風邪を引いて寝込んでしまっていた時、由梨が作ってくれたものと同じ味。
 唯に今までのことを謝罪すれば、唯は私から逃げていってしまうかもしれない。もう元の親子の関係には戻れない、後には引き返せない。こんな、由梨のような優しさに触れることは、唯が私の手の内にある今だけだ。
 謝ってしまえば、全てが終わってしまう。由梨が残したたった一人の大事な子を、手放したくなんかなかった。だから謝罪なんて絶対にするものか。唯の好意を踏みにじるように、心にはそんな堅い決意があった。
 食事を済ませて薬を飲んだ私は、風邪で怠い身体に鞭打って、ふらりとソファから立ち上がり唯の部屋へ向かった。部屋のドアを開くと、唯は机に向かって勉強をしているようだった。突然部屋へ入ってきた私を見ても唯は無表情のまま、その後私が言った事に黙って従った。
 倒れていた私の看病をしたことを悔いる様子もなく、ただ人形のように黙ってされるがままになる唯を見て、私は「これでいいんだ」と心の中で繰り返した。
 間違ったことだと分かっていても、止められない。
 こんなにも優しい子を手放すなんてことは、この時の私には出来なかった。



 昔の過ちを思い出していたらいつの間にか時間は過ぎて、夕陽は落ちかけていた。
 きっとここを出る頃には夕日は完全に沈み、夜になってしまうだろう。そして朝がきて、また一日が始まって。そんな分かり切った当たり前のことすらも、今の自分には新鮮に感じた。
 そんないつもとは違った心境で、幾度も足を運んだ病院へ足を踏み入れる。独特の薬品の臭いさえももう自分にとっては慣れたものだった。そしてまっすぐと、ただ一つの目的を果たすために私は歩いた。
 この病院のICUは、家族や近親者しか入ることが出来ないとはいっても、家族ですらも面会できる時間は15分間と短い。前は一緒にいる時間など沢山あったのに、話すことも出来たのに、今は15分間だけ。それも話すことの出来ない、眠ったままのその子を前にして。
 病院で指定された面会時間になり、ガウンを着用し靴を履き替え、消毒を済ませた私はICUへ入り唯の眠っているベッドへゆっくりと歩み寄る。唯の意識はまだ戻っておらず、昨日私が来た時と何一つ変わっていなかった。
「唯……」
 この部屋で、もう何度その名を口にしただろう。
 いつか返事がくることを期待していたのだろうか、この子をこんな姿にしたのは自分だというのに、馬鹿げてる。頭にも、腕にも胸にも、至るところに包帯を巻かれ治療された、痛々しい姿をさらけ出して自分の子は眠っていた。
 そしてその事故で負った傷に紛れて、自分の犯した罪の痕跡を見つけて私は顔を歪める。
 事故にあって手術をした際に唯の身体の見た執刀医の先生から、唯の身体に残る痣や傷のことを訊かれた。この異常な数の痣は事故で出来たものじゃない、何か心当たりはありませんか、と。本来ならこの時に本当のことを言わなくてはいけなかったのに、この時の私は現実を直視することが恐ろしくて、平然を装いながらも嘘をついた。
 つくづく愚かなことをしたと思う。全部自分の仕業だというのに。
 眠り続ける我が子の手をギュッと握った。自分の手が震えているのが分かる。そして堪えきれない何かが喉元から込み上げてきて、床にポタッとしたたりおちたのは涙だった。
「……ッ……」
 握ったその手から伝わってくる温かさは、本当に由梨のものと似ていた。
 いや、生きている者なら誰しもが持つ温かさだったんだろう。それが強く胸を打った。まだ温かいのに、息をしているのに、その瞳は閉じられたまま。言葉を発することのない口は呼吸器を付けられ呼吸を繰り返している。
 自分よりも小さな手、この手を無理矢理引いて、どれだけ自分は酷いことをしてきたのだろう。この温かさを感じていたくて、心は無視して突き放してきた。本当に尋常ではないことを、惨いことをしてきたのだ。
 由梨の分まで幸せにしてあげなければならなかったというのに。
「……ゆい」
 今まで沢山傷つけて、すまなかった。
 それは謝ったって許されるものではない、傷はこの先もずっと治ることはないのかもしれない。けれど、それでも私はこの子に謝りたかった。
「今まで本当に……、すまなかった」
 自分でも今更だと思うほど、遅くなってしまった謝罪の言葉。
 これで、もう唯とは会うことが出来なくなるかもしれない。会いたくないと言われても仕方のないこと。自分のしたことを許して欲しいとも言わない。父親とも、もう思ってもらえなくてもそれは自業自得だ。
 だけどこれだけは、最後に伝えたかった。
「……由梨にとっても私にとっても、お前はこれからもずっと……私達にとって大切な子だ」
 たとえもう父親だと思ってもらえなくても、自分にとって唯はこれからもずっと大切な子供であり続ける。一緒にいることは出来なくなるかもしれないけれど、それでもずっと子供の幸せを思い続ける。してあげられることは少なくなってしまうかもしれないけれど、出来る限りのことはやっていこうと思う。だから。
「お願いだ、唯……生きてくれ……!」
 このまま、生まれてきたことを後悔させたまま、辛い思いをさせたままいなくならないでほしい。自分が今までしてきたこと、そして「生まれてきたくなかった」なんて最低なことを言わせてしまったこと、その全てを謝るチャンスをください。
「頼む由梨……、唯を助けてくれ……お願いだ……お願いだから……っ」
 目を覚まして。
 そしてどうかこの手で幸せを掴んで。由梨の分まで、そして私が奪ってしまった時間の分まで。唯が望むのならばいくらでも罪は償うから、どうか生きて。
 それだけを願って、ICUを後にした。ゆっくりとした足取りで進みながら、これから自分が向かうべき場所はただ一つ。もう現実から逃げはしない、過ちの全てを償うために、自分はこれからたった一人の道を歩み行く。
 けれど、ICUを出た後でも、唯の手を握っていたその手にはいつまでも温もりが残されていた。
 そこには長年失われつつあった絆が、確かにあったのだ。

『ねぇ義人さん、産まれてくる子の名前……『唯』っていうのはどうかしら』
『唯? 男の子でも女の子でも?』
『そう。私が貴方に残せる唯一の子だから、『唯』。……ちょっと単純すぎる?』
『いいや、そんなことないよ。いい名前だと思う、元気な子が産まれてくるといいな』
『そうね。そしたら家族みんなで、楽しい家庭を作るの。幸せいっぱいの、ね』