第21話 壊れゆく……


「……り、……由梨……」
 誰かの声がする。浅い眠りを邪魔するように、何度も、何度も。
「由梨、大事な話があるんだ」
 すぐ近くで声がした。
 身体は酷く重たく、だるい。まるで拘束されているんじゃないかというほど、身体の自由がきかない。
 意識もどこかはっきりしなくて、まるで霧がかかっているみたいだ。けれど声だけは聞こえて、ゆっくりと瞳を開くと誰かの姿が映る。それすらもぼんやりと霞んでいたが、その人が誰なのかぐらいはすぐに分かった。
 そして自分に向かって手が伸ばされたかと思えば、それは気持ちが悪いほど優しく髪に触れた。まるで壊れ物に触れるかのように、そっと。
「……あぁ、可愛いね由梨……お前は本当に綺麗だ」
 愛しい人を呼ぶように、優しく、甘い声で囁く。髪に触れていた手は頬へ滑って、唇をなぞった。それらはとても優しい仕草で、けれどどこか怖さを伴う。
 ピクリとも動かないこちらの様子に、目の前のその男は少し笑ったようだった。
「なぁ由梨、……ここから離れてどこか遠くで暮らさないか」
 その人の言ったことの意味が分からなくて、少し眉をひそめた。
 いきなりなにを言い出すんだろう、この人は。またいつもの戯言のつもりだろうか。この人の言うことはいつも突拍子無くて、物事の筋が通っていない。
「大丈夫、もう家は見つけてあるんだ。周りに家はほとんどないし、とても静かなところでね、きっと君も気に入ってくれると思うよ」
 目の前の人が何を言っても、それを自分はどこか他人事のように聞いていた。もしかしたら夢かもしれないと思ったが、こんなリアルな夢なんてあるわけない。自分に触れてくる手の感触も、かかる吐息も、全てが気味悪い。
 男は、まっすぐな優しい微笑みを浮かべながら言葉を紡いでいく。
「ここはとてもうるさいからね。私とお前の仲を引き裂こうと邪魔が入る。ここを出て、何にも気にせず、二人きりで静かに暮らそう。お前だけを愛するからお前も私だけを愛してくれ」
 そんなこと、出来るわけがない。とっさにそう思った。愛するなんて間違っていると。だって自分にとってこの人は、そういう対象に見てはいけない、見ることの出来ない相手だったから。
 だってこの人は、俺の。
「私たちはずっと一緒だよ、由梨」
 ゆっくりとその人の顔が近づいてきたかと思えば、唇に何かが押し当てられる。キスされているんだとしばらくしてから気付いた。こんなこと、間違っているのに。
「愛してる。お前だけを誰よりも」
 お前だけ、を。
 今まで何を言われても反応しなかったのに、その絶望的な科白に目の前が真っ暗になった。
 ああ、この人にとって俺はやっぱり代わりでしかなくて、二人にとって俺はそのためだけの存在だったんだ。
『お前だって分かっているくせに。自分が母親の代わりでしかないことくらい。自分はそれ以外何一つ、必要とされてないことだって』
 以前見た夢の中でそう言われたことを思い出した。父親にとって俺は母親の変わりで、性欲のはけ口、違うと自分の中で否定し続けてきたことだったけどやっぱりそれは真実だった。
 本当に自分は、この人達に愛されていなかったんだと知った。全てが偽りの中で、自分は今まで生きていたのだと。
「うそつき……」
 身体中が疲れて動かす気にもならなかったけど、一言だけ小さくそう呟いた。
 涙は、もう出なかった。



 パラパラと雪が降り、地面に落ちては溶けていく。とても寒い日だった。
 まだ雪は降り始めたばかりだが、このペースで降り続ければ夜には積もっているかもしれない。そんな期待に私は胸を膨らませる。
 その日は12月25日。クリスマス。
「……っ、寒い……」
 買い物を終えてスーパーから出てきた私は、外に出た瞬間に吹いた冷たい風と肌に当たる雪で、思わず呟いた。
 お母さんから頼まれた買い物を済ませてしまうと、ちょうど昼の13時を回った頃。両親は共働きで、父に至っては単身赴任、母は夜遅くにならないと帰ってこない。なので大抵弟や兄の夕飯は私が代わりに作ることが多かった。
 けれども今日はクリスマス。朝私が起きてリビングに顔を出したら、お母さんは仕事を休んでいて、朝からなにやら料理の本を見ながら意気込んでいた。どうやら今日はなにか美味しいものを作ってくれるらしい。
 しかしここ最近、買い物に行っていなかったため冷蔵庫に食材はほとんど入っていない。これでは美味しいものなど作れるわけがない。
 だから今、こうして私が大きな袋を持って歩いているわけなのだが。
(せっかく、冬休みだからゆっくり過ごそうと思っていたのに買い物なんて……しかもこんな寒い時に……)
 時折吹く風が肌に当たって、冷たいと同時になんだか痛い。あまりの寒さに、早く家へ帰ろうと私は足早に街中を歩いていく。
 来る途中に通った商店街もそうだが、大きな道路沿いにあるこの通りの店もすっかりクリスマス仕様に飾られていた。まだ昼間だからライトアップこそされていないが、植えられている木にも飾り付けが丁寧に施されていて、夜になるときっとものすごく綺麗なイルミネーションになるのだろう。それを見ていると、なんだかワクワクしてくる。
 それにしても、もう冬休みであるせいか、それともクリスマスだからだろうか、いつもよりも道を歩いている人が多い気がした。友達同士や親子、そして道行くカップル。辺りは人で溢れていて、色々な話し声が耳に入る。
 それを見て私はふと、唯君のことを思いだした。
(唯君、今頃どうしてるのかな……クリスマスは北川君達と遊ぶって言ってたから、一人ではないと思うけど)
 またお父さんから酷いことをされてないだろうか。彼に関して一番心配なのはそこだった。また暴力を振るわれて部屋で倒れていないだろうかと。そう考えれば考える程彼のことが心配になってきてしまう。
 昨日、二学期の修了式を終えて、私と唯君は放課後一緒に遊んだ。昨日、とはいっても、遊んでいたのはここ数日間ずっとだ。彼が側にいないと落ち着かなくて、目を離すとすぐにどこかへ行ってしまいそうで怖い。
 それくらい、私には彼が儚く見えたから。
 だから本当だったら今日も会いたいし、明日も明後日も明々後日も会いたい。毎日会いたい。そして一緒にいたい。けど、あまりしつこく誘うのも良くないかもしれない、彼には彼の都合があるかもしれないと考えて、私は口にするのを控えた。側にいてほしいとお願いしてきたのは唯君だが、彼だってやりたいことぐらいあるだろうし。別の人とも遊びたいと思っているかもしれない。
 それに、会うことはなくても出来る限り毎日彼と連絡を取り合うようにはしている。朝と昼はメールを送るくらいだけど、夜はちゃんと電話をかけて話している。だから、何かあったら唯君が言ってくれるかもしれないと、私は重い荷物を持って家への道を歩いていった。
「ただいまー」
 家へ着いた頃には、すっかり身体は冷え切ってしまっていて、足のつま先も感覚が無くなっていた。ガチャッと家のドアを開けて、食材が沢山入ったスーパーの袋を持ちながら私はヨロヨロとリビングへ入る。
「あっ、真奈美ちゃんおかえり。買い物ご苦労様」
 お母さんはそう言って微笑むと、私の持っていた荷物を受け取ってキッチンの調理台の上に置く。ようやく重みから解放されて、私は一つ息を吐いた。ずっと重い荷物を持って歩いていたのだ、手袋をしていたものの手は冷たくて痛かった。
「たぶん全部買ってきたと思うけど、一応確認しておいてね」
「はいはい」
 お母さんが必要なものを書いて渡してくれたメモと、レシートを渡すと母は「ありがと」と言ってそれを受け取る。そして私を見てニッコリと、意味深な微笑みを浮かべた。
「ねぇ真奈美ちゃん、今日は来ないの?」
「え?」
 なんのことだろうと私は思わずきょとんとしてしまう。母はそんな私を見て「またまたぁ」と茶化した。
「え、じゃなくて唯君よ唯君。今日は呼んでないの?」
 母の口から唯君の名前が出て、私はボッと顔を赤くした。まさかそんなことを訊かれるとは思ってもみなかったのだ。
「きょ、今日は呼んでないよっ! っていうかお母さん、唯君と私のこと勘違いしてるでしょ……! 唯君と私は友達だからっ」
 この説明も何回目になるか分からない、それくらい私は母や兄弟の前で「唯君とは友達だから」と繰り返した。けれど、この人達は全くもって分かってくれない。
「あら、今日は来ないの? 残念……、最近毎日来てくれてたから今日も来てくれると思って楽しみにしてたのに……。唯君とっても良い子だから毎日来てくれても大歓迎なんだけどな私は。ねぇ真奈美ちゃん」
 とても残念そうに言ってくるその様子に、私は溜め息をついた。
「お母さんってば、……唯君とは昨日沢山話したじゃない」
 私よりも沢山話していたではないか。私が唯君と楽しい時間を過ごすつもりだったのにいきなり割り込んできて、それからは終始母のペースであったというのに。
「沢山話したけどまだ足りないっていうか、真奈美ちゃんも雅も一真も遥も、みんな可愛いとは思うんだけど唯君はまた違った可愛さがあるのよね。ほんとに可愛くて良い子よねぇ、唯君」
 流石私のお母さんというべきか、私とは本当に異性の好みが近いようだ。お母さんは昔から可愛いものが大好きだったから唯君を気に入るのも頷けるけど、まさかここまで好印象を与えるとは思わなかった。
 まぁ唯君に関しては、彼の持ち前の人当たりの良さと礼儀正しさがあったからというのもあるけれど。
「もういっそのこと真奈美ちゃんをお嫁さんに貰ってくれればいいのにね?」
「え!?」
 とんでもないことを突拍子もなく言う母を前に、私は爆発しそうになった。
「でも私はどちらかといえばお婿さんに来てくれた方が嬉しいんだけど」
「無理だよっ! 無理だから! もうお母さんやめてよっ、ほんとに無理だからね!!」
 かなり本気っぽい母の発言に、私は耳まで真っ赤になりながら必死になって否定した。さっきまでの寒さはどこへやら、私は熱さのあまりに目の前がクラクラしそうだった。
 母から逃げるようにして部屋に戻った私は、着ていたコートを脱いでクローゼットにしまう。しかし、そこでコートのポケットに携帯を入れっぱなしにしていたことを思い出した。
「あれ?」
 ポケットから携帯を取り出した私は、それを見て思わず声を漏らす。私が買い物をしている間に誰かが電話をかけてきたらしく、着信が数件。しかもそれは全て同一人物で、北川君からだ。
 音を消していたために全然気付かなかった。申し訳なさを感じて、私は急いで北川君に電話をかけてみることにした。
『もしもし藤森?』
 しばらくコールが鳴った後、彼は電話に出てくれた。しかし向こうから聞こえた彼の声は、なんだかいつもと違う、声に少し元気がないような、暗い雰囲気を感じた。携帯だからそんな風に感じるだけだろうか。
「あ、北川君。ごめんね着信気付かなくて……私に電話かけたよね?」
『あ、ああ……した。ごめんなしつこく何回も』
 はは、と少し北川君は笑う。でもやっぱりどこかぎこちなく感じて、変だ。なんだかいつもの彼らしくない。
「ううん気にしないで。それで……どうしたの?」
『それなんだけどさ……』
 私が訊くと、北川君は言いにくそうに言葉を濁す。元々電話をかけてきたのは彼の方が先だ、私に何か言いたいことがあってかけてきたはずなのに、どうしてそんな言いにくそうにするんだろう。
 なんだか嫌な予感がして、私の方まで緊張してきてしまう。
「北川君?」
『あの、さ……藤森のところに……唯いる?』
「唯君? いないよ、どうして?」
『そっか……』
 やっぱり、と一言小さく呟かれても、私にはなにがなんだか分からない。状況が飲み込めずに私は彼に尋ねる。北川君の様子がおかしいことが、余計に私を不安に掻き立てた。
「どうしたの?」
『や、それがさ、俺ら今日遊ぶ約束してて11時に待ち合わせしてたんだけど、唯だけ来ないんだよ。あいつが待ち合わせの時間に遅れて来ることなんて今までなかったし、来られない時は前もって連絡してくれるからみんな心配しててさ』
「え……?」
 北川君が言った言葉に、私は驚いてその場に立ちつくした。唯君が待ち合わせの時間になっても来ないことに、心当たりがあったから。
(どうして……もしかして家で何かあったんじゃ……)
 家に閉じこめられて、あの人から酷いことをされてるんじゃないかと胸騒ぎがする。それ以外に、彼が人との約束を破る理由なんて私には思いつかない。
「唯君に……連絡した……?」
 口から出る自分の声が震えているのが分かる。それくらいに私は動揺していた。
『それが携帯にかけても全然出ねーの。それで、あんまり心配だったから樹達には先に行ってもらって、俺だけ唯の家に行ったんだ』
「うん……」
『そしたら唯んとこのお父さんが出てさ。それで……』
 そこまで言った後、とても言いにくそうに北川君は口を止めた。そして少し間を空けて、再度続きの言葉を紡ぐ。私はドキドキしながら電話の向こうの彼の声に耳を澄ませた。
『なんか唯、朝にお父さんと酷い喧嘩になったらしくて、それでそのまま家を飛び出して行ったっきりだって』
 それを聞いた途端、私の身体は凍ったように固まった。
 お父さんと喧嘩してそのまま家を飛び出していったなんて、なんでそんなことになったのだ。唯君と父親の関係は酷く歪んでいた、だからいつ何が起こってもおかしくない状況だった。だけど唯君は言ったのだ「三月になったら家を出る。だからそれまでは我慢する」と。そう固く決意していた彼の身に一体何が起こったのか、分からなくて私は愕然とその場に固まってしまう。
 昨日私は唯君といつもどおり遊んで、少し話をして、そのまま彼は家に帰ったはずだ。「また遊ぼうね」って私が言ったら、唯君は嬉しそうに微笑んで「うん」って言ってくれた。
(……ちょっと待って、一体何があったの? 昨日は普通だったのに……。私と別れた後に……なにが……)
 北川君の言っていることなど耳に入らないほどに、私の頭の中は色んな考えに支配されていた。三月までは我慢すると固く決意していた彼の強固な意志を簡単に崩してしまうほどのなにかが彼の家で起こったのだ。
『それでちょっと気になったことがあってさ……、……藤森?』
「……あ! ご……ごめん……ちょっと動揺しちゃって……」
 色んな考えが交錯して頭の中が混乱している中、北川君の声で私は我に返った。
『唯の家に行ってあいつのお父さんと少し話した時に、ちょこっとドアの隙間から家の中が見えたんだけど……なんか段ボールだらけっていうか……、もう暮れだし家の大掃除しててもおかしくないから余計な心配かもしれないけど、ちょっと気になって』
 何を言われても混乱するだけだったが、追い打ちをかけるように言った北川君のそれが更に私を悩ませる。
(段ボール……?)
 少し早いとは思うけど、もう大掃除をしているところもあるだろうし、別にあっても不自然ではない。
(だけどクリスマスにわざわざそんなことをするのかな……)
 未だに私は唯君のお父さんの考えていることがよく分からない。だからこそ、あの家では何が起こってもおかしくないと考えてしまうのだ。
『唯のお父さん、唯のことすごく心配してて探してるっぽかったから、もし見つけたら家に連れて帰ってきてくれって頼まれてさ。んで一番唯がいる可能性が高い藤森んトコに電話したんだけど……そっかいないか……』
 唯君のことをものすごく心配しているのだろう、北川君のそれにはいつもの元気さが感じられない。
「……北川君は今なにしてるの?」
『ああ……俺はとりあえずあいつの行きそうなところ片っ端から探して……。武丸には連絡したけど、他のやつらは適当に誤魔化しておいた。樹とか雅之は騒ぎ出したら大げさにあっちこっち話広めるし。唯は自分のことで騒がれるの好きじゃないから』
 本当は大勢で探した方が見つかる確率は高いんだけどな、と北川君は少し笑ったようだった。北川君はこんな寒い中唯君を探し回ってくれているのだ、私も唯君を探さなくては。
「私も今から探してみるよ。北川君ありがとね」
『あ、悪い迷惑かけちまって……でもそうしてくれると助かる。もし唯見つけたらメールでもいいから教えてくれ。こっちもなんかあったら連絡する』
「うん、分かった」
 私は電話ごしにこくりと頷いて、携帯を切った。しかし、探してみると言ったものの、一体どこへ行って彼を探せばいいのだろう。そもそも彼の行きそうなところなど、今まで彼とずっと一緒にいた北川君や武丸君達の方がよっぽど詳しい。
 最近彼のことを知りだした私には、唯君が行きそうな場所などほとんど思い浮かばなかった。こんな時になって、自分がいかに唯君のことを知らないのかが身に染みてよく分かる。付き合いの短さというのは、こういう時に浮き彫りになってしまうものだ。
(唯君……一体どこへ行っちゃったんだろう……)
 そこまで思ったところで、ふと彼の父親のことを思い出して考えを止めた。
 本当に、北川君が言ってくれたことは真実なのだろうか。言ったこと全てを鵜呑みにしてもいいのだろうか。唯君はもしかしたら家にいるかも、彼のお父さんが閉じこめているかもしれないのに。あの父親なら、それも十分に考えられる。
 でも、そんな人が「喧嘩して家を飛び出していった」などと言うだろうか。それなら「風邪をひいて寝込んでいる」とか言った方が北川君も納得して帰るのに。探させるということは、やっぱりいないということなのか。
(分からない……)
 余計な勘繰りを入れたところで、私には何が本当なのか分からない。何を信じればいいのかも。
 唯君に会えば全てが分かるけど、その彼は一体どこにいるのだろう。私はいてもたってもいられなくなって、急いでコートを羽織ると家を飛び出した。
 そうしてどれくらい彼を探して走り回っていただろう。
 気付けば私は、唯君と幾度か話したあの公園へ来ていた。そこには唯君の姿はおろか、誰の姿もなく、遊具には少し雪が積もっているだけ。公園にはいくつもの小さな足跡が残っていて、小学生くらいの子達が遊んでいたんだろう。
 私は息を切らせて、すぐ側にあった公園のベンチに腰掛けた。若干雪が積もっていたが、それは手で払いのける。
「……唯君……」
 三時間ほど探し回ったけれど、唯君の姿などどこにもない。どこにいるのか分からない。唯君は一体どこに行ってしまったんだろう。
 さっきから何度携帯で連絡を取ろうとしても、彼は一度も出ない。出てくれないのか、電話の側に彼自身がいないのか、何が事情があって出ることが出来ないのか、いくつかの可能性が浮かび上がる。だけどその全てが悪い方向にばかりいってしまう。それは彼の身に起こっていることを考えればしょうがないことだけれど、どうか無事でいてほしいと願った。
(唯君……。会いたいよ唯君……)
 辺りはもうすっかり暗くなっていて、携帯を見たら18時を過ぎたところだった。お母さんが一度電話をかけてきたようで着歴に残っている、けれど折り返し連絡をする気分になれなくて私はそのまま携帯をポケットにしまった。
 そうしてベンチに座ったまま、私は俯いて瞳を閉じる。寒さのあまり手足の感覚がなくなっていく、このままじゃ明日確実に風邪をひくかもしれないと、私は一人自嘲した。
「おい、凍死するぞ」
 どのくらいそうやっていただろうか、ふと誰かから言われて私はふいに顔を上げた。その先には、私と同じクラスであり唯君の友人である武丸君が呆れたようにこちらを見ている。
「あ……武丸君……」
 この人に話しかけられたのは初めてのことで驚いた。武丸夏巳(たけまる なつみ)君。
 北川君が言っていた、おそらく唯君と一番付き合いが長いであろう唯君の小学生の頃からの友人。彼は背がものすごく高くて体格も良いため、その辺に立っているだけでもものすごい威圧感を醸し出していた。さらに、顔も少し怖い感じがして、全体的に話しかけづらい雰囲気がある。このまま話しかけられなければ、おそらくずっと関わることがなかったであろう人でもあった。
 そんな武丸君は笑うことも怒ることもなく、私を見つめていた。
「お前も唯探してるって勇介が言ってたけど、休憩か? そのまま死ぬなよ」
「あっ、ちょっと色々考えてて……た、武丸君は……?」
 いつの間にか頭に少し雪が積もっていて、私は慌てて雪を払い落とす。初めて話す人を相手に、私はドキドキと緊張していた。
「唯が全然見つからねぇからアイツの家に行こうとしてたとこ。そしたら公園で藤森が寝てたから」
「あ……」
 寝ていたわけではなくちょっと考え事をしていたのだが、確かにさっきの様子は誰がどう見ても雪の中で眠っているように見えるだろう。私は恥ずかしくなって言葉を詰まらせてしまった。そして、まだ唯君が見つかっていないことを知って溜め息をつく。
「唯君、見つからないね……」
「寝てたお前の言うことかよ」
「そ、そうだね……」
 呆れたような声色で言った武丸君の言葉がグサッと突き刺さって、もっともだと私は苦笑いをした。こんなところで考えに浸っている暇があったらさっさと私も探さないと。
 そのまましばらく無言だったが、武丸君のきつい視線に居づらさを感じて、私はベンチから立ち上がった。武丸君は何か言いたげにこちらを見つめているのに、何も言おうとしない。やっぱり私は武丸君が苦手だ。
「……それじゃ、私また探しに行くね。その、……武丸君は」
「お前って唯のなんなわけ」
 公園を出て行こうとした矢先に、そう訊かれた。
「え……?」
「最近やたら一緒にいるみたいだけど」
「それは……、……友達、だけど……」
 自分で言って自分で「嘘つき」と思った。本当は唯君の事が好きで好きでたまらないくせに、と。小さな声で私が言うと、武丸君は「ふーん、友達ね」と意味深にそれを繰り返す。
「あ、そう。ならいいや別に」
 一気に興味をなくしたように、武丸君はそうとだけ言って公園を出て行こうとした。私に何か言うつもりだったのだろうか、気になって私は思わず彼を呼び止めてしまった。
「武丸君」
「言っとくけど、『友達』のお前に出来ることなんてなんにもねぇぞ」
 呼び止めた途端返ってきたそれに、ズキッと胸が締め付けられるような感覚が私を襲った。
「今のアイツは誰にも心の内なんて見せないから。俺にも、勇介にもつばさにも、お前にもな」
 誰も入ることが出来ない。
 唯君は、いつでも私達の間に一枚の壁を隔てた向こう側に立っている。



 武丸君と別れた後、私は再び唯君を探そうと歩き回った。けれども唯君の姿はどこにもなく、私は一人、クリスマスで人通りの激しい街中をあてもなくウロウロと歩き回る。立ち並ぶお店のイルミネーションがとても綺麗で、それでも唯君の事が心配で私の心を曇らせていた。
『……あ、ツリーの準備してる』
 いつだったか、唯君と初めて放課後遊んで、一緒に話したあの日。広場の中心で大きなクリスマスツリーの飾りつけをしている人たちを見ながら、私がそう言ったんだ。
 そしたら唯君は少し微笑んで、私の見ていたツリーの方へ視線を移した。
『ああ、ここクリスマスイブとクリスマスにライトアップするんだよ。去年もそうだったし』
『唯君、去年もここ来たの?』
『うん。北達と遊んだ時に。待ち合わせに丁度良かったし』
 あの時唯君が言ったように、あそこはもうライトアップされてるんだろうな。そんなことを思っているとポケットに入れていた携帯が鳴って我に返った。取り出して見るとそれは家にいる母からだった。さっきも一度かけてきていたし、もしかしたら何かあったのかもと私は電話に出る。
『あ、真奈美ちゃん? 今どこにいるの』
「……あ、えっと……今友達とちょっと出掛けてて……」
 適当に嘘をつくと、お母さんは「もーっ」とむくれたような声を出す。
『せっかくご飯作ってるのに全然帰ってこないんだもの』
「ごめんなさい、もう少ししたら帰るね」
『外寒いんだから早く帰ってきなさいね? 風邪ひくわよ。……あ、そうそう。唯君がウチにきたわよ』
「え!?」
 唯君がなかなか見つからなくて不安が募っていたところに、その母の言葉は大層驚くものだった。
「何時頃!?」
『もう大分前よ? 三時間くらい前かしら。真奈美ちゃん、家にいなかったからそう言ったら『じゃあいいです』って、なんだかちょっと元気ない感じだったけど。すぐに帰ってくるわよって言って引き留めたんだけど、『ごめんなさい』って逃げられちゃったのよ。さっき真奈美ちゃんに電話したのは、それを言おうと思って』
(そんな……)
 馬鹿だ私、さっき電話に出れば良かったと後悔で自分を苛む。出ていたら彼と会うことが出来たかもしれないのに。唯君は私のところへ来てくれたんだ、それなのに私は自分でその機会を逃してしまっていたのだ。
「……そう……ありがとね……」
 最悪だと心の中で繰り返しながら、私はそれだけ言うと電話を切った。
(唯君、来てくれたんだ……)
 それなのに携帯に出てくれないということは、やっぱり今彼の手元に携帯は無いのだと確信を持つ。私の家へ来たあと、唯君はどこへ行ったんだろう。そのまま家に帰るなんてことは無さそうだけど、そうだとしたら一体どこへ。
 考えていると、先ほどのクリスマスツリーの話が頭をよぎった。そういえば、あの辺りはまだ探しに行ってなかったっけ、と。
 何か特別な思い入れがあるわけじゃない、だから唯君がそこにいるという確証は無かった。いない確率の方が高いぐらいだ。けど、もしかしたら。それはただの自分のカンだったけど、行かないよりはいいかもしれない。
 そう思って、私は携帯をポケットにしまうとそのまま街中の広場にあるクリスマスツリーのところへ向かって走った。
 クリスマスであるこの日は、いつもより人の行き来が激しくて、あっちこっちで流れるクリスマスソングが通りに活気を与えていた。
 街の通りに並んでいるお店の飾り付けや、植えられている木に付けられた飾りのライトアップもものすごく綺麗だったけれど、今はそれに見入っている場合ではない。
 どうして人一人のためにここまで必死になれるのか、以前の私だったらきっと不思議に思っただろう。けどそれくらい、必死になってしまうくらい、周りが見えなくなってしまうくらいに、私の心の中は唯君のことでいっぱいだった。一緒にいると安心出来る、けど側にいないとどこか不安で仕方ない。悲しいくらいに儚い存在。それが今の私にとっての唯君だった。
 不安をかき消すように、私は目的の場所へ向かっていた。
 そんな、会いたいと何度も心の中で願って、そうしてようやく辿りついた先。広場の中心にある大きなクリスマスツリー。
 唯君が言っていたように、そこはたくさんの人で賑わっていた。待ち合わせなどに利用されていると言っていたけど本当だ。人が多すぎて、これじゃ唯君がどこにいるのかわからない。そもそもここにいるのかどうかも分からないのだが。
(唯君……)
 何度も辺りを見回すけれど、唯君らしい人影はどこにも見当たらない。ぐるりとツリーの周りを一周してみたけれど、そこに彼の姿は無かった。
 そして私はため息を吐く。
(やっぱり、こんなところにいるわけないよ……。なにか思い出があるならまだしも、待ち合わせに使ったぐらいみたいだし)
 そう、こんなところにいるわけがない。どうしようもなくその場に立ちつくしていた矢先に、再び携帯が鳴った。見ると、それは北川君からで、私はボタンを押してゆっくりと電話に出る。
「北川君?」
『あっ藤森!? もしかしてまだ探してくれてる?』
「うん、でも全然見つからなくて……」
『俺の方も全然。ってかほんとにごめん付き合わせちゃって……今どこにいる?』
 彼に訊かれるがままに、私は広場のツリーの前にいるということを伝えると、北川君は「今からそっち行くわ」と言って携帯を切った。



 そのままツリーの側にあるベンチに座って待つこと十数分、北川君が息を切らせてこちらへ走ってくるのが見えた。
 彼は私と違ってマフラーも手袋もなにもしていない、きっと私よりも寒いだろうに。それなのに昼からずっとああして唯君を探していたのだろうか。
「藤森!」
「北川君……、大丈夫? 寒くない?」
「ああ、俺は大丈夫。風邪とか滅多にひかねーから」
 そう言って自慢げに笑ったけど、次の瞬間彼は大きなくしゃみをする。先ほど言った言葉が台無しだ。どうやら我慢しているだけで、本当は寒いようだった。
「武丸も探してくれてるみたいだけど、全然見つからなくてさ……。唯のやつ一体どこに行って」
「唯君、一度私の家に来てくれたみたいで……でも私その時家にいなかったからまたどこかに行っちゃったみたい……ごめんね」
「えっ、マジで!? あ、でも藤森のせいじゃないって! 唯は元々一人でどっか行っちゃうクセがあったから、そんな気にすることねーよ。でも、あの家族大好きの唯が親と喧嘩して出て行くなんて、考えらんねーけど」
 家族大好き。北川君にはやっぱりそう見えているのだ。唯君が父親からどういう扱いを受けているのかなんて、私以外誰も知らない。今回唯君が家を飛び出したことだって、彼の父親がまた唯君になにかしようとしたか、あるいはなにか言ったか、そうに違いないのに。
 それ以外に、唯君が家を出る理由なんて無いのだから。
「藤森、気にするなよ!」
 北川君が安心させるように笑ってくれたけれど、それでも唯君のことが心配でたまらない。唯君は私に会いに来てくれたというのに、それはきっと、私になにか話したいことがあったからか、それとも辛くて側にいてほしかったからかもしれないのに。
「北川君ごめんね……私がもっとしっかりしてれば……」
「だから藤森のせいじゃないって言ってんじゃん! 気にするなって」
「でも……」
「いいからいいから」
 唯君のことが分かってあげられない、どこにいるのか分からない。今何を考えているのかも。そんな自分がもどかしくて、悔しい。そして、こんな時にあまりにも北川君が優しく声をかけてくれるものだから、思わず瞳から涙が零れた。
「えっ!?」
 私が急に泣き出してしまうものだから、北川君は驚いてあたふたと慌て出した。
「ごっごめんね……ッ、北川君ごめんね」
「あ、や……えーっと……泣くなよ藤森は悪くないんだし!」
「ごめん、……早く唯君探そう」
 こんなだから、自分が弱いから唯君は私に頼らずに遠くへ行こうとするのだろうか。そう思って涙を拭い、なんとか泣き止もうと私は顔を上げた。今は泣いてる時じゃない、唯君を探さなくては。
 そう思っていた時だった。
(え……?)
 突然、ふわりと身体が浮いたような気がした。あまりに突然すぎて、私は状況を理解するのに時間がかかった。誰かに、抱きしめられている。私の背中に手を回して、優しく包むように。
 北川君が、私に。
 そして慌てて声を上げようとしたその瞬間に、私は更に驚きに目を張った。北川君から抱きしめられて、その彼の肩から見えた向こうの光景。
 そこに、驚いた様子でこちらを見つめる、唯君の姿があった。