第22話 赤い雪


 暗闇の中を、いつも彷徨っているようだった。
 まともな夢など、ここしばらく見ていない。ただひたすら同じ夢の繰り返し。目が覚めて現実へ戻るまで、浅い眠りの中で幾度も一人の男に蹂躙される夢を見る。心も体も塗りつぶされていく。
 以前、自分がどんな夢を見ていたのかさえも、もう覚えていない。
『唯はとってもいい子ね。母さん、唯のこと大好きよ』
『お前はお父さんとお母さんの宝物だ』
 どこから聞こえてくるのかは分からない、姿は見えないけれど、声だけは鮮明に聞こえてきた。けど聞きたくない。でもいくら耳を手で塞いでも、その言葉は入ってくる。
 以前はとても大好きだった人達の声が、今では怖くてたまらない。うそつき、と何度も心の中で繰り返した。偽りの愛情を注いで自分を騙していた人達に向かって何度も。
『小さい頃からお前に優しくしていたのも、お前を手なずけるための手段だったんだ。それを愛情だとか絆だとか勘違いするなんて、お前もほんとに馬鹿だね。まんまと両親の手にかかって可哀想に』
 騙される方が悪いんだ、だから自分にだって非はあったのかもしれない。だけど、それはあまりに酷い裏切りだった。突然態度を変えて、欲望に満ちた瞳を自分へ向けて、抵抗したら手酷く痛めつけられた。そして最後、わけもわからないまま犯された。
 なんでこんなことになったんだろう。俺が、何か悪いことでもしたのかな。
 考えても考えても、分からない。そして、その日だけかと思ったその行為は、その後何度も繰り返し行われるようになった。そしてそう日が経たない内に、自分のことを「由梨」と呼んだ父を前に初めて、父は自分を母だと思って抱いているのだと知った。
 それ以来、その人に向かって笑いかけることが出来なくなった。話しかけられただけで怖くなって、何か言われるんじゃないかと日々怯えていた。家にいても、一時も休まる時なんて無かった。精神的にも肉体的にも、次第に疲れを感じていった。
『お前高校入ってから学校休みすぎだぞ、中学の時は全然休まなかったくせに』
『それ俺も思った。なんでいつも急に学校休むんだよ。休む前の日、いっつも元気じゃん』
 学校を休むことが増えた自分に、友人が何気なくそう言ってくる。別のやつからも何回か言われた。そのたびに「ごめん」って言って謝ってたけど、内心では「じゃあお前が代わってくれんのかよ」と苛立った。なにも知らないくせにって。
 熱っぽい日が続いて、重い何かを背負っているような、そんな感覚がいつも自分に付きまとうようになった。笑えるような気分じゃないのに笑っていることが苦痛だった。身体のあちこちが痛い、治ってもまたすぐに新たな傷が刻まれる。それは永遠に治ることがないように思えた。
 そんな終わりのない傷を幾度となく重ねていくにつれて、次第に自分の身体は自分のものではなくなってきているような感覚にとらわれていく。
 それが、嫌でたまらない。
『……いつまでこんなこと続けるつもりだよ……』
 果てしなくて、終わりが見えなくて、ただ延々と行為を重ねて自分は流されていた。この暗闇の中をずっと。こんな秘密、自分からは言えない。けど気づいて欲しい。そんな矛盾した思いをずっと抱いていた。
 どうすればいいのだろう。どうすれば、自分はもう苦しまずに済むのだろう。何度考えても、答えが出てきたことなどない。
 自分は、どうすることも出来ずに同じ場所にずっと立ち尽くしていたんだ。今にも落ちてしまいそうな、不安定な足場の上で。
『私、唯君の側にいたいって言ったよ』
『私が好きで唯君の側にいるの。だから、もう謝らないで』
 とても優しい声だった。どこから現れたのか、優しく手を掴んで、引いてくれた。そして、抱きしめてくれた。それはとても温かな存在だった。心地いいと思えるほどに。こんなに落ち着ける存在が近くにいたことなんて、今まで自分は気付いてもいなかった。
 そして彼女の存在を知って、自分は気付いたのだ。本当は、一人で耐えることが辛くて、寂しかったんだと。
 人に頼るのはいやだと思いながらも、どこか自分は支えてくれる人を求めていた。ずっと望んでいたんだ。自分の側にいて、この苦しみを分かってくれる人を。
 自分は、強い人間ではなかったから。
 誰かに支えてもらえないと、立って歩くことさえもままならない弱い人間だったから。



「唯君……!」
 広がった視界の先に、彼の姿を見つけて私は声をあげた。その私の言葉に、北川君は「えっ」と声をあげると、慌てたように私を放して振り返る。
「唯……」
 私達から少し離れたところに立っていた彼は、無言でこちらを見つめていた。けれどしばらくして、逃げるように身を翻して走り去ろうとする。
「おい唯!! 待てよ!!」
 北川君が大声で呼び止めると、唯君は止まってくれた。そして北川君は唯君のところまで走っていくと、彼の腕を思い切り掴む。私も急いで唯君の方へ走り寄った。
「逃げんなよ」
 しっかりと腕を掴まれた唯君は、ゆっくりと振り返った。そして何事も無かったかのようにニコッと微笑む。
「ごめん、なんか良いところだったみたいだから、邪魔しちゃ悪いかと思って」
「いや、そういうつもりじゃ……」
 普通に笑みを浮かべて言ってくる唯君に対して、北川君は酷く気まずそうな顔をして頭を掻いた。そしてそれを誤魔化すように、慌てて唯君を怒る。
「っていうか、お前いきなりいなくなったりすんなよ! お前のお父さん、心配してたぞ」
「ああそれ……ごめん、迷惑かけたみたいで。ちょっと朝に喧嘩しちゃってさ、頭に来たからその辺適当にうろついて頭冷やしてから帰るつもりだったんだ……もう帰るよ。今日は約束破ってごめん、樹達には帰ってから携帯に連絡して謝っとく」
「お前が親と喧嘩するなんて珍しいな」
「そう? しょっちゅうしてるよ」
 北川君と普通に話す唯君の様子がなんだかぎこちなく感じて、私は唯君をジッと見つめていた。それは北川君も同じようで、唯君と話しながらもどこか訝しげな表情を垣間見せていた。
「じゃあ俺もう行くから。手、放してくれない」
 そう言ってその場を去ろうとした唯君を止めるかのように、北川君は手を放そうとしない。唯君を掴んでいた北川君の手に、ギュッと力がこもったような気がした。
「唯」
「? なんだよ、まだ何か言い」
「本当のことを言え」
 北川君にしてはとても強気な言葉だと思った。声こそ低くて落ち着いているものの、高圧的な声。落ち着きがある分、それは逆に怖さを引き立てている。
「親と喧嘩したから家飛び出して今の時間まであっちこっちウロついてて、でももう帰るってどういうことだよ。俺らとの約束すっぽかしてこんな遅くまで外にいて、なんか理由があるんじゃないのかよ。俺と藤森と武丸、心配して今日一日中お前のこと探し回ってたんだぞ。この寒い中一日中な。だったら、俺らにもっと事情を説明してくれたっていいんじゃねぇの」
 北川君がここまで言うなんて珍しいと思った。でも彼の言い分は確かに正しい。北川君や武丸君は唯君のことが心配で今の時間まで探していたのだ、寒いのを我慢して。そしてやっと見つけたのに簡単に説明だけされて去られようとして、そう言いたくなる北川君の気持ちも分からないでもない。
 けれど唯君に関しては事情をあまり詳しく説明出来ない理由がちゃんとある。話せば、北川君は優しいからきっと力になろうとしてくれる、でも唯君は周りの人を巻き込むことを嫌う。だから今だって、心配かけないよう、唯君なりに北川君のことを考えているつもりなのだろう。
 ちゃんとした事情の説明を求めた北川君に対し、唯君は笑うことも怒ることもしなかった。ただ無表情で北川君を見つめたかと思えば、次の瞬間掴まれていた手を思いっきり振り払う。それは隣にいた私でもよく分かるほどに、とても乱暴なものだった。
「北に話したところでどうにかなんの?」
「え?」
 顔こそ無表情だが声は冷たい。唯君の言葉に北川君は真剣だった顔を崩して、怪訝に眉をひそめた。
「話したところでお前がなんとかしてくれるわけ? ただ聞いて満足したいだけだろ。北には関係ないよ。だから話さない」
「……ああ俺には関係ねーよ、でもそんなこと言われたって気になるんだからしょうがないだろ」
 不穏当な唯君の言いように北川君は一瞬怯んだような顔を見せたが、その後いつもより少し強い口調でそう言い返した。それでも北川君のそれには相手を心配する気持ちが込められていて、どこか優しさを感じてしまう。
「北川君……」
 これ以上唯君に説明を求めるのも逆に唯君を追いつめてしまうと考えて、私は北川君に問いつめるのをやめさせようとした。だけど北川君は、やめようとはしてくれない。
「藤森ごめん。でも俺こいつにはちゃんと説明してもらいたいから」
「でも」
「唯、頼むから本当のこと言えよ。武丸だってお前のこと心配してたんだぞ」
 ポンッと北川君が唯君の肩を叩いて優しくそう言っても、唯君は黙ったままだ。少し視線を落としたまま、北川君の顔すら見ようとしない。違和感を覚えるほどに唯君は大人しくなった。それでもしばらくの間、唯君が何か言ってくれるのを北川君は待っていたが、やがて諦めたように溜め息をつく。
「それでも話してくれない、か……、じゃあいいよ話してくれなくても。とにかくほら、家に帰るぞ」
 何も言おうとしない唯君に、結局北川君の方が折れた。そして彼を家へ送ろうと唯君の腕を掴む。
 だが、グイッと、北川君が唯君の腕を引いた途端だった。唯君がものすごい勢いでそれを拒んで、思いっきり北川君の手を振り払ったのだ。
「っ……、唯……?」
「……家に連れて帰ってきてくれってお願いされたのかよ。それで今まで探してたとか? ほんっとに呆れるくらいお人好しだな」
 俯いたまま顔をあげることなく、嫌味でも言うように唯君は嘲笑した。その彼の様子に北川君は、今度は困ったような顔をしているだけだ。
「お前何怒ってんだよ……俺はただお前のお父さんが心配してたからこうやって」
「そういう何にも分かってないところが嫌だっつってんの。……何も知らないくせに」
「分かるかよ、訊いたってお前いつも何にも話してくれなかったじゃんか、そんなヤツ相手に何を分かれって言うんだよ。なぁ」
 今までに何度も唯君を問いつめたことがあるような言い方だった。そして、その度に唯君からは拒まれ、誤魔化されてきたのだろう。唯君は自分の身に起こっていることが異常なのだと心の中で強く思っていて、だからこそそう簡単に本音を零そうとはしない。
 唯君は相変わらず俯いたままだったが、何を思ったのか、自分で自分を嘲笑うかのように薄ら笑いを浮かべた。そして口から零れた言葉は、先ほどまでの強気な態度とは180度変わり、とても弱々しいものだった。
「……そうだね、ごめん。何も話してない俺が悪いんだよな……。……でももういーよ、俺どうせ今から家帰るし、……こんな時間まで探してくれてありがとう。心配かけて本当にごめん……」
 力無く言う彼は、まるで生気のない人形のような目をしていた。言っていることも投げやりで、本当にどうでもいいという彼の心中が伺える。
「……唯」
 北川君は驚いて、そしてどこか焦ったように声を出した。唯君はそれを無視するように、北川君に掴まれている手を振り払おうとする。
「手、放せよ。……一人で帰れるから」
「……っ……」
「……謝ったじゃん、放せ」
 淡々とした唯君の態度に、北川君はこみ上げる怒りを堪えきれなくなったのか、カッとなって唯君を怒鳴った。
「なんなんだよそれっ、……分っかんねぇやつだなお前……!! そういう態度が」
 唯君の投げやりな言葉に北川君が今までにないほど怒って、彼に掴みかかろうとした瞬間。それを見た唯君はビクッと何かに怯えたようにその場にしゃがみ込んでしまった。両手で頭を抑えて、何かから身を守るように小さくなっている。
「……え……?」
 その突然の異変に北川君は驚いて、すぐに自分もしゃがみ込むと唯君に声をかけた。唯君の顔は酷く蒼白で、小刻みに震えている。傍から見ても明らかに様子がおかしいことが見てとれた。
「ちょ、……ちょっと、おい……どうしたんだよ……唯……?」
「北川君ちょっと待って!」
 ただならぬ唯君の様子に私は胸騒ぎを感じて、すぐに唯君の側へ寄った。そして自分の方へ身体を引き寄せ、唯君を優しく抱きしめる。
「藤森……?」
「ごめんね北川君、……ちょっと待って……」
 もしかしたら唯君は、怒った北川君に自分の父親を重ねてしまったんじゃないかと思った。北川君と唯君のお父さんは身長も同じくらいだし、体格もどことなく似ている。けれど唯君のこんな姿を見たことがなくて、それくらい彼の心の傷は大きくて、前よりもずっと悪化しているのだと思わざる得なかった。
「唯君大丈夫だよ……もう大丈夫だから……」
 少しでも安心させようと出来る限り優しい声を唯君にかけて抱きしめる。彼の手を握ると、ずっと外にいたというのが分かるくらいに冷たかった。私も昼間からずっと外にいたせいでものすごく冷えていたのに、唯君の方がもっと冷たい。
 どうして急に家を飛び出したのか、わけはもちろん聞きたかったけれど、とりあえず今は彼を落ち着かせることが先決だ。
「……無事で良かった……」
 唯君は何も言わないけれど、先ほどよりは大分落ち着いたようだった。怯えたような瞳は我に返ったように冷静さを取り戻して、震えも大分止まっている。それを見て私はホッと一息つくと、顔を上げた。視線の先にいる北川君は、困惑したような様子でジッとこちらを見ていた。
「北川君、唯君はこのまま私の家に連れて行くから……」
「え、……じゃあ、唯の家には?」
 こんな状態の彼を家に帰しては、それこそどうなるか分からない。それだけは絶対に出来ないと私は首を横に振った。
「唯君の家には私が連絡入れておくから……ごめんね北川君……せっかくここまで探してくれたのに」
 北川君は一瞬何か言いたげに口を開いたが、それを言うことなく無理矢理笑みを浮かべた。
「いいよ俺の事は気にしなくて! そんじゃ、俺も藤森の家まで二人を送っていくよ」
「でも……」
「それくらいはさせてもらわないと、俺が納得いかないんだ」
 北川君にも何か思うところがあるのに、それを口に出そうとはしないで優しくそう言ってくれる彼を断ることが出来ずに、私は小さく頷くと唯君を連れて自宅に戻ることにした。
 唯君の様子は、これまでにないほど酷かった。
 一体何が起こったのか、彼の様子から察するに家で相当酷いことが起こったのだろう。唯君の心のバランスを崩すほどのなにかが。
 私と北川君と一緒に三人で歩く途中も、唯君は沈んだような表情で終始無言だった。それを気遣って北川君が何度か話しかけても、唯君は頷くか首を振るかしかしようとしない。その度に北川君はなにか言いたげな様子を見せたが、結局私に何も訊くことなく黙ったままだった。私はそれに少し安心していたが、それと同時に彼の心中を思って辛くなった。
 そんな重苦しい雰囲気の中、暗い夜道を歩くこと十数分で自宅に着いた。
「ただいま」
「あら、真奈美ちゃんおかえりなさい、……あら唯君、いらっしゃい! そっちの男の子は?」
 玄関を開けると母がリビングのドアからひょっこり出てきて出迎えてくれた。唯君を見るなり嬉しそうに顔をほころばせた母は、さらにその隣にいた北川君を見てニコッと微笑む。
「あっ、藤森のクラスメイトの北川です。ど、どうも……」
 照れくさそうに笑みを零している北川君に、母は「あらそうなのー」とますます嬉しそうな顔をして北川君の手を取った。
「どうぞ上がっていって、真奈美ちゃんあんまり友達連れてこないから大歓迎よ」
「や、俺はもう家に帰らないといけないので……じゃあ藤森、唯のこと頼むな」
「あっ、ちょっと待って北川君!」
 じゃ、と言って帰ろうとした北川君を止めると、私は隣にいた唯君を一時母に任せることにする。北川君にちゃんとお礼を言わなくてはいけないと思ったからだ。
「お母さん、唯君ちょっと具合が悪いみたいなの。私の部屋に連れて行って休ませておいてくれる……?」
「唯君具合が悪いの? どうりで昼間会った時元気ないと思ったら……。……そうね、ちょっと身体が熱いかしら……。さ、上がって上がって」
 唯君の額に手を当てた母は考えるようにそう言って、唯君の手を優しく引くと二階へと連れて行った。それを少し見送ったのち、外へ出ると私は門扉の前で立つ北川君にぺこっと頭を下げる。
「北川君、……今日はありがとね……」
「いや、俺なんにもしてねぇし、あんま役に立てなくてごめん」
「そんなことないよ」
 出来る限り笑顔を作ってそう言ったものの、北川君の面持ちはどこか曇っている。さっきあんなことがあったのだ、元気にしていられるわけもない。北川君はまだ唯君の事を気にしているような様子だった。
「なぁ藤森」
「……なに?」
 北川君が重々しく口を開くものだから、私はドキッとした。彼から訊かれることがなんとなく分かっていて、だからこそ怖い。北川君は頭を掻いて、何とも言えない顔をしている。そして、とても言いにくそうに言葉を紡いだ。
「……唯さ、アイツなに隠してんの?」
 思えば、彼がこんな風にストレートに唯君のことを訊いてきたのはこれが初めてだったかもしれない。でも本当は、ずっと知りたくてたまらなかったのを我慢し続けていたのだろう。先ほどの唯君の異変を見るまでは。
 北川君は、私に対してそれを訊こうかどうか迷っていたような感じで、言葉を詰まらせてそれ以上は言おうとしない。それだけ言うと彼は真剣な顔つきで私を見つめた。
 だが、そんなことを訊かれても、私の言うことは一つしかなかった。
「ごめんなさい……」
 言うことは出来ない。いつも助けてもらっていながら、それでも唯君のことだけは話せない。言えば彼は力になってくれるだろう。けど、唯君がそれを望んでいなかったから。彼の意志を無視して他の人に秘密を漏らすことは、私には出来なかった。
 北川君は、見て分かるほどに落ち込んでいた。それでも無理に笑おうとする彼が痛ましい。
「唯があんなことになっても、それでもやっぱり俺には言えない?」
「ごめんなさい……」
 小さく謝った私に、北川君は苦笑する。
「……藤森は知ってるんだな、唯がずっと隠してること……」
 私は、何も言えなかった。
「唯が隠してることって、そんなにヤバイんだ?」
 彼が力になってくれたらどれだけ心強いだろう。だけどどうしても言えない。そんな両極端に位置する気持ちの間で私は揺れ動く。でも何も言えなくて、しばらく経った後北川君は小さく笑った。
「そっか……。ごめんな、無理に訊くようなことしちゃって。じゃあ俺帰るから。武丸には後で俺が連絡しておくから、藤森は唯のお父さんによろしく言っといて」
「……本当にごめんね……」
「いいって気にしなくて、俺は全然大丈夫だから」
 無理に笑っているのが分かるくらい、北川君のそれは見ていて辛かった。本当は知りたくてたまらないはずなのに、北川君はそれ以上追及しようとはしなかった。どうして唯君があんなことになってしまったのか、彼には説明しないといけなかったはずなのに。
「じゃあ藤森、唯のことよろしくな。俺でよかったら力になるから、なんかあったら連絡くれよ」
 北川君は私を安心させるようにそう言うと、走ってその場から離れた。その時の彼は、一体どんな心境だったんだろう。
 北川君を見送った後、部屋へ入ると、唯君はベッドを背にして座っていた。両膝を立てて、そこに顔を埋めているため表情は伺えない。
 私はドアを閉めると、ゆっくりと歩み寄って彼の前に腰掛けた。
「唯君、寒くない?」
 私が言うと唯君はゆっくり顔をあげて、こくりと小さく頷く。
「……大丈夫」
「そう……」
 母が先ほど「熱がある」と言っていたのを思い出して唯君の額に手を当てると、確かに熱い。あんな寒い中ずっと外にいたのだ、熱を出してしまうのも当たり前だ。でも唯君の元気がないのはきっとこれだけのせいじゃないはず。
「少し熱があるかもね……後で体温計と薬持ってくるね。お母さんが何か作ってくれるって言ってたし」
「どうしちゃったんだろう……」
「え?」
 呟くように、唯君は言う。
「……なんかおかしいよ俺……自分でも分かるんだ、変だって……」
 いつもとは違う、自分の中の異変に自身でも気付いているようだった。俯いて力なく言う彼の頬に私はそっと手を触れる。唯君は綺麗な黒い瞳を不安に揺れさせていた。
「でも何も考えられなくて、……言ってることだっておかしくて……、……今まであんなこと、なかった……」
「唯君……」
「北のことも傷つけた……俺が、……俺が悪かったのに」
「もういいよ、唯君。考えなくていいから」
 私が彼の手を握ると、唯君はゆっくりとそれに応えるように握り返してきてくれた。彼の手はまだ冷たい。
 言動が明らかにおかしい唯君の、憂いに満ちた表情を見ながら私は彼の父親に対して怒りをたぎらせた。今まで頑なに心のバランスを崩さないよう自身を守ってきた唯君を、どうやってあの父親はここまで追いつめたのだろう。
「……なにがあったの?」
 意を決して訊くと、唯君はビクリと肩を揺らして顔を歪ませた。何か酷い事でも言われたのだろうか、または、されたのだろうか。どっちにしても良いことではない、それは明らかだった。
「……唯君?」
 なかなか話そうとしてくれない彼に私は優しく微笑みかける。
「お願い話して、……ね?」
「……、……朝、……起きたら……、家の中がすごく片付けられてて、何考えてるんだろうって思って……訊いたら……あの人が……」
「お父さんが……?」
「『引っ越すんだよ』って……」
 北川君から事前に聞いていた唯君の家の段ボールは、そういうことだったんだと私は知った。そして唯君の言葉を前に愕然としてしまう。まさかそんなこと急に、と思ったがすぐに撤回した。あの人ならやりかねないかもしれない、と。
「そんな、急に……」
「……場所は知らないけどすごく遠いところらしくて、そこで二人で暮らそうって……、……なんで勝手にそんなこと決めるんだよって言ったら『昨日の夜ちゃんと言った』って……」
「言ったの?」
 唯君は肯定することも否定することもしなかった。
「半分寝てたし、……あの人、お母さんの名前呼んでたから冗談だと思ったんだ……、そしたら全部本気で、嫌だって言ったんだけど、全然聞いてくれなくて……」
 どうして突然そんなことになたんだろう。彼の父親は一体何を考えているのだ。そんなことになっては、本当に唯君は父親に全てを束縛されてしまうことになる。もう誰も、助けてあげることが出来なくなるかもしれない。
 けれどいきなり引越しを考えたその理由は一体なんなのだろう。引越しを考えるほどの、なにか、不満があったというのか。
 そこまで考えて、私は一つの心当たりが浮かんだ。
「……もしかして……私がこの間唯君のお父さんに色々言っちゃったから……?」
 私には、それしか思い浮かばなかった。
『ふざけないでっ! 全部貴方がやったんじゃないですか!! 全部、貴方が……っ! 唯君が言わなくても、病院に行って診てもらえばすぐに分かります!! それで唯君が本当のことを話せば貴方は……!!』
 彼の父親に、自分の言いたかったことを全てぶちまけたあの日。
 唯君のお父さんに色々言ってしまった後、さらには唯君を家から連れ出し、その日は帰さなかった。次の日には唯君は家に帰ってしまったけれど、その日からずっと、私は唯君を家に誘っては二人で過ごしていることが多かった。
 それが、あの人にとっては気に入らなかったのかもしれない。
「違うよ、藤森のせいじゃないから……」
「でも……っ、最近私ずっと唯君と一緒にいたし、それ以外にこんなこと」
「それで、あんまり突然すぎてどうすればいいのか分からなくなって、……あの人とこの先も一緒にいなきゃいけないって考えたら……目の前が真っ暗になって……っ」
 その時の事を思い出しながら言っているのだろう、唯君の顔が徐々に青ざめていくのが分かった。余裕がなくなっていくその様子を見ながら、これ以上訊くのはよくないかもしれないと私は彼を抱きしめる。
「もういいよ、唯君……」
「……その後も少し言い合いになったんだけど……もう駄目だと思ってそのまま家飛び出して……」
「……今は大丈夫だから」
 唯君が話してくれたおかげで状況は理解出来た。そして同時に、自分の中途半端な行動のせいで彼を追いつめてしまったんだと唯君に対して罪悪感が募る。
 けど当の唯君は私を責める様子もなく、優しく抱きしめる私に身を預けてジッとしていた。腕の中の弱々しい彼を見つめながら、私は自分がこれからどうするべきか考えていた。
 彼を家になんて帰せない、だけど、帰さなければ彼の父親が何をするか分からない。
(どうしよう、どうすればいい……?)
 考えても考えても、私がとる道は一つしか思い浮かばなかった。
 ここが、もう諦め時だと。
「……ねぇ唯君……もう諦めよう……? あの人は謝ってなんてくれないよ……。私、これ以上唯君が苦しんでるところなんて見たくない……。だから……」
 謝って、もう何もしないでくれればそれでいい。
 誰にも知られることなく、誰にも秘密を言うことなく、全てが終われば。
 そんな道など、最初から無かったのだ。どれか妥協しなくてはいけない。唯君だってそれは分かっているはずだった。
「警察に行こう? そしたらもう、こんな風に苦しまなくて済むんだよ……」
 もう苦しむ彼を見たくなかったから私は必死で彼を説得しようとした。けれど唯君は何も言ってくれない。
 以前の優しかった父親のことが本当に好きだったから、だからここまで彼は悩んでいるのだろう。警察へ行って事情を話せば、父親は罪に問われてしまうから。虐待を受けるのと同じくらい、彼にとってはそれがまた苦痛なのだろうか。
「唯君……」
「……俺、……も、帰らないと……怒られる……」
 そんな現実的な救済から逃れるように、唯君は私の腕から離れた。突然家へ帰ろうとするその行動に驚いて、私は慌てて彼を引き留めた。
「だめっ、……行っちゃだめ……! 帰ったら何されるか分からないんだよ!? ……全部話したら、今よりも楽になれるんだよ……? もう怪我することも、熱を出して倒れることも、傷ついて泣くことだって……もうなくなるんだよ……。……唯君のお父さんはもう駄目だよ、やめてくれるわけない……」
 あんな、自分の子供に暴行していることにすら惚けようとするあの人になんて、これからもずっと唯君の気持ちは届かないだろう。それよりも先に唯君の方が壊れてしまう。
「謝ってくれるわけないよ……」
 そう言って、私は唯君を抱きしめた。
 家に帰らないと父親が何をするか分からない。今の唯君の心を占めているのはその不安と恐怖だけ。こんなの普通じゃなかった。恐怖で人を縛り付けるなんて、まともじゃない。それだけ彼の父親は、唯君の心にも体にもたくさんの恐怖と苦痛を刻み込んだのだ。
 こんな間違ったことは、もう終わらせてあげたかった。
「……唯君、今から私がもう一度唯君のお父さんに言いに行くよ。……これで最後にしよう。これで唯君のお父さんが分かってくれなかったら、私はお母さんに唯君のことを話して警察に通報してもらう。私は唯君の方が大事だから唯君を守りたい……。……ごめんね唯君……、お願いだから分かって……」
 前回あれだけ言ってもダメだった。今回もきっと彼の父親は分かってくれないだろう。もう行く前から分かりきっていたことだった。けれど、こうでもしないと唯君を説得するのは難しいと思った。
 もう一度話してみて、そしたら彼のお父さんはまた惚けるだろう。もう何を言っても無駄なのだ、謝ってくれることなどないのだと唯君に分かってもらって、そのまま私の親に話して唯君を保護してもらう。これしか、唯君を救う方法が思い浮かばなかった。
 彼をもうあの家へ置くことは出来ない。唯君は限界なのだ。もう待てない。
 そう考えていたが、私は気付かなかった。そこにあった大きな落とし穴に。
 これが、大きな過ちだったのだということに。



 彼の父親が今までしてきたことを全て、警察に訴える。
 社会的制裁を加えて、時間をかけて罪を償ってもらう。唯君が数年間受け続けた苦痛の分。
 この時私の頭には、それだけしかなかった。
(……着いた……)
 たどり着いた唯君の家には、珍しく明かりが灯っていた。
 私が行く時はいつも明かりが灯っていないせいか、逆に灯っているのを見ると違和感を覚えてしまう。もう夜なのだから明かりがついていて当たり前なのだが、それでもどこか不気味だった。
 あそこにはそう、言うまでもなく彼のお父さんがいるのだ。
 しかしここへ来る途中、何度も唯君が私に「そこまでしてくれなくていい」と言って止めようとしていた。
 だが、彼が何を言ってもお父さんは変わらないのだ。それなら赤の他人である私が言ったほうがまだ効果があるかもしれない。そう唯君に嘘をついて無理矢理納得させた。
 本当は、私の目的は彼のお父さんを説得することよりも、唯君を説得させることにあったのに。
「藤森、もういいよ……」
「……よくないよ」
 先ほどから幾度も私のことを心配して止めてくれるのだが、私は足を止めない。
「唯君がこれ以上我慢することなんてないの。……唯君は最初から、何も悪くないんだよ」
「でも」
「これ以上唯君がお父さんのために自分を犠牲にする必要なんて、ないんだから……」
 そう言うと唯君は黙って、私はゆっくりと門扉を開くと家のドアの前に立つ。そして、インターフォンを押した。
 確実に相手は出てくるだろう。それを待っている間、緊張して胸が強く鼓動を打っていくのを感じていた。
 唯君は今どんな気持ちなんだろう。きっと私よりももっと恐れているはず。横目で彼を見ながら私は心の中で謝った。
(……ごめんね……。でももうすぐ、こんな酷いことを終わらせてあげられるかもしれないから……)
 家の中から、玄関に向かって誰かが歩いてくる音が聞こえた。そしてその後すぐにガチャリと鍵のかかっていたドアが開かれる。
 そして、彼の父親が私の前に立ちはだかった。
「こんばんは」
 出来るだけ冷静に私はそう言ったが、目の前にいるその人には以前見た穏やかな様子などほとんど感じられなかった。そしてその人の視線は私ではなく私の後ろにいる唯君の方に向けられている。
 その視線に気づいたからこそ、私はなおさら唯君の手を強く握った。
 怯んではいけない。以前のように何度も私は心の中でそれを繰り返した。
「……引っ越すって、本当ですか」
 こちらから言ってみたが、唯君のお父さんは表情一つ変えようとしない。いつものようにも微笑まない。微笑んでも怖いと思うが、こんな風に無表情でいられても怖いというものだ。私は尚更ドキドキして、緊張を悟られないよう口を開いた。
「唯君に暴力を振るっているのが知られてしまったから、……逃げるんですか……」
 相手は何も言わない。どうして何も言わないのだと、私は疑問に思うがそんなことを考えている暇はない。
「答えてください」
 先ほどから私ばかりが話している。何も言ってこない相手の様子に、次第に苛立ちが募っていく。
 どうして何も言おうとしないのか、分からない。この間は怖いくらいに微笑んで嘘ばかり言っていたのに。あの時とはまるで別人のよう。
 でも返答がないだけで、私の声はちゃんと聞こえているはずだ。そう思って私は更に言葉を紡いだ。
「貴方がこれ以上唯君への暴力を止めないというのなら、私は警察に貴方のことを通報します。貴方が今までやってきたこと全て、唯君に話してもらいます」
「唯は」
「……え?」
「唯はどう思ってる。唯も、私がお前に暴力をふるっていると、そう思ってるのか」
 彼の父親は先ほどから唯君の方しか見ていない。そしてその突然の問いかけも私ではなく唯君へ投げかけられたもので、唯君からの返答を待っていた。
「答えなさい、唯」
 威圧されるような、怖い声だった。あんな優しそうな顔をする人から、こんな声色が出るものなのかと思って私は驚いてしまう。そして余計に怖いと思った。
 そしてその恐ろしい雰囲気の父親を前に、唯君はしばらく黙った後小さな声で言った。
「……思ってるよ。前から言ってるじゃん……あんたおかしいよって……。……あんなの普通じゃない、……もううんざりなんだ……、あんたの夫婦ごっこに付き合うのは」
 声こそいつもより小さいものの、唯君はハッキリと父親にそう言った。その唯君の態度が気に入らなかったのか、彼のお父さんはこちらへ数歩歩み寄ると怪訝な顔をする。
「女が出来たから私から離れると?」
「……は? 何言ってんの……? 俺あんたの恋人になった覚えなんて一度もないんだけど、……そんなことも分からないんだ……」
 私が握っていた唯君の手を、彼がギュッと握り返してきたのが分かった。唯君の手は震えていて、相手を恐れているのだということが直に伝わってくる。
 唯君ももう父親のことを諦めようとしてくれているのかもしれないと、彼の言葉を聞きながら思った。そして、何も言わず先ほど以上の険悪な雰囲気を纏っている父親を見て、これ以上二人を話させるのは危険な気がして私は唯君の腕を掴んだまま数歩下がった。
「唯君、もう行こう……」
 もう十分だろうと、唯君の手を引いて家から離れようと、門扉から外へ足を踏み出した時だった。
「……許さない」
 その声が聞こえたかと思えば、ものすごく強い力で身体が家の方へ引っ張られた。しかし、実際引っ張られたのは私ではなく私の後ろにいた唯君の方だ。私が振り返ると、彼の父親は唯君の腕を思いっきり掴んで激昂を露わにした。
「痛っ……」
 唯君の腕を掴んでいる手に込められている力は相当なものらしく、唯君が痛みに顔を歪めた。
「唯君っ!? 唯君を放してください……!」
 慌てて声をあげたけれど、彼の父親はまっすぐ唯君を見つめていた。
「……許さないぞそんなのは」
 怒りと憎しみを含んだような声色に、私はゾクッと鳥肌が立つのが分かった。あまりに不気味で、怖くて、危険だとどこか本能が悟る。ゴクリと、喉が鳴った。
「は、放っ……」
「唯!!」
 嫌がる唯君の声をかき消すように彼の父親は思いっきり怒鳴って、私が掴んでいた唯君の手を無理矢理奪い引き離す。そしてそのまま唯君を腕ごと強く引っ張って、玄関のドアに乱暴に彼を叩き付けた。鈍い音がした。
 それは物を思いっきり壁に叩き付けるような乱暴さだった。人と思っていないような扱いに身体中が戦慄く。
「っ……、いっ……」
「唯君!!」
 玄関のドアに叩き付けられた瞬間に強く頭を打ったらしく、唯君は頭を抑えてドアを背に座り込んでしまう。その尋常でない様子に急いで彼に駆け寄ろうとしたが、彼の父親がそれを許さなかった。私を思いきり突き飛ばすと、痛みでうずくまっている唯君の腕を掴んで無理矢理立たせ、ドアにその小さな身体を押さえつけた。
「お前は私のものだ!!」
 目こそうっすら開いており意識はあるものの、頭を強打した衝撃と痛みのあまりにぐったりしている唯君を前にして、その人は逆上していた。父親の、唯君への異常なまでの執着心に、突き飛ばされて地面に尻餅をついていた私は全身が粟立つのが分かった。
 おかしい、この人は本当におかしい、と。
「だからどこにも行かせない、なぁ唯……」
 父親の手が優しく彼の頬を滑ったかと思えば、次の瞬間顔を近づけ、意識が朦朧としている唯君に口づけた。
「!!」
 こんな、いくら夜とはいえ、自宅の玄関の前とはいえど人目につくような場所で。
 あまりに酷くて、背徳的な行為だった。身体をズタズタに切り裂かれたような衝撃が私を襲った。
「やめて……っ、やめてっ!!! 何考えてっ、やめてくださいっ!!!」
 急いで二人に駆け寄って、唯君の父親の腕を掴んで止めさせようとした。けれど大人の力にはとても敵わなくて、非力な私が止めようとしたところでそれは何の効果も成さない。
「唯君っ、唯君!!!」
 何度も彼の名前を呼んだ。
 最初こそぐったりとしていてされるがままの唯君だったが、次第に意識がハッキリしてきたのか、突然ハッと我に返ったように目を見開いて、それと同時に手足を動かして思いっきり抵抗し始めた。父親の手が衣服の中に侵入してくるとその抵抗は余計に激しいものになって、そうかと思えば突然彼の父親は唯君から口を離した。
「っ……」
 父親は顔を歪ませて、その唇には血が滲んでいた。唯君が唇に思いっきり噛み付いたようだった。
「……最低」
 少し息を荒らげながら、唯君は俯いたまま、静かにそう零した。そして小さく笑う。
「……こんなことになるくらいなら、……生まれてきたくなかった……」
 その時の唯君の顔は、今までに見たことがないほど悲しみに満ちていた。
 唯君はそう言った後渾身の力を込めて父親の身体を押し退けると、走ってその場から離れてしまった。
 唯君は家を飛び出し走り去った。
 ただ一人、父親から逃れるために。
「唯君!! 唯君待って!!」
 急いで彼を追いかけるが、彼の方が断然に足が速くて追いつくことが出来ない。それでも彼を見失わないように必死で後を追った。ここで彼を一人にしてはいけない。その一心で私は走った。
 そして、そのうち彼が突然立ち止まって、気分が悪そうに壁によろりと寄りかかってようやく、私は彼に追いつくことが出来た。
「唯君っ、大丈夫……!?」
「……っ……」
 唯君は気分が悪いのか口元を押さえて、その顔は酷く蒼白だった。そんな彼の肩を抱いて、少しでも楽にしてあげたくて彼を落ち着かせようとする。
 こうなってしまったのは私の軽率な考えのせいだ、彼は何度も止めてくれたのに、私が聞かなかったせいだ。唯君を早く解放してあげたくて、急かしすぎてしまった。もっとゆっくり考えてあげるべきだった。考えても考えても後悔ばかりが頭をよぎる。
「唯君……ごめんなさい……っ」
 彼が立ち止まったのは割と人気のある通り。今日はクリスマスなせいもあってか、いつもよりも若干だが人が歩いていた。そんな人達の視線がこちらへチラチラと向けられていたが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
「唯君ごめんなさい、私のせいで、また……」
「……ごめ……」
「え……?」
「……藤森ごめん、巻き込んで……ほんとにごめん……」
 どうして唯君が謝るのだろう。本来なら私の方が彼に謝らなくてはいけないのに。私があの人に会わせてしまったからこんなことになってしまったというのに、唯君が謝る必要なんてなかった。
 こんな時にまで謝ってくる唯君に私は胸が締め付けられるほど悲しくなって、涙が零れた。
「唯君……私のせいだよ、ごめんね……行かなきゃよかったね……ごめんね、ごめんね……っ……」
「……違、……藤森は、悪くないから……」
 そこまで長い距離を走ったわけでもないのに、彼はおかしいくらいに呼吸を乱していて、気分が悪そうだった。苦しいのか胸を押さえて、何度も呼吸を繰り返している。その呼吸も不規則なもので、私は異変を感じて彼に呼びかけた。
「唯君……?」
「本当は……」
「……え?」
 その時私は初めて気が付いた。
 彼の手が、驚くほど震えていることに。それは寒さではない。人から与えられる恐怖によって。
「本当は、全部分かってたんだ、……自分は親から愛されてなかったんだってこと……。……あの人にとって俺はお母さんの変わりでしかなくて、お母さんは、自分の変わりに俺を産んだんだってこと……。……でも俺馬鹿だから、そんなこと分かっててもあの人達のこと心のどこかでまだ信じてて、……前は優しかったから……いつか、いつかはって……」
 地面に積もっていた雪をギュッと握りしめて、彼は呟くように言う。
「……でもやっぱり駄目だった……、……あの人たちにとって俺なんて、最初からどうでもいい存在だったんだ……」
「そんなことないよ……」
 あまりに悲しいことを言うから、ズキッと胸が痛くなる。唯君は相変わらず苦しそうで、言葉の合間に浅く呼吸を繰り返している。
「唯君のこと大好きだよ、ずっと一緒にいたい、私にとって唯君はどうでもいい存在なんかじゃない……好きだよ」
「……もう、いいんだ……」
 抱きしめていた私を優しく突き放して、彼は顔をあげてニコッと笑った。その瞳からは、涙がこぼれていた。
「元々俺は、……藤森に優しくしてもらえるような人間じゃないんだ」
「……え……?」
 手は震えていて、とても苦しそうで、辛くて泣いているのに、それでも彼は笑っていた。
「藤森は俺とあの人との関係を知っても、軽蔑しないでいてくれて、変わらず優しくしてくれて……俺にとって藤森は、……初めて自分のことを分かってくれた、たった一人の理解者だった……」
「……」
「……それだけでもう、十分だよ……ありがとう藤森」
 父親からあんなことをされて、精神的にとても不安定で今にも壊れそうで、それなのに彼はこの期に及んでも辛いのを我慢して微笑んでいた。
 唯君はもう十分我慢して耐えてきた、今までずっとたった一人で。
 だからもう、頼ってくれていいのに、縋ってくれたって、私は構わないのに。
「……あっ、北が藤森のこと結構気にしてるから、……俺よりもアイツの」
 彼の言葉を止めるように、私は唯君にそっと口づけた。触れるだけの優しいキス。彼は驚いたようにこちらを見つめていたけど、そんな彼に私は微笑みかける。
「一人にはしないよ」
 もう二度と彼を一人にしないと決めていたから。
 近くにいないと不安になるくらい儚いのなら、ずっと一緒にいればいい。
「唯君が本当は寂しがりなんだってこと、私ちゃんと知ってるよ。それに私も寂しがりだってこと、唯君だって知ってるでしょ?」
「……っ……」
 彼の見開かれた瞳から、次々と涙が零れていく。ぼたぼたと瞳から零れたそれは地面に積もった雪を溶かした。
「だったら二人で一緒にいようよ。……ね?」
 唯君は声を漏らすのを必死で堪えて、俯いたかと思えば、次の瞬間ギュッと私を抱きしめてきた。
 肩口に顔を埋めて、小さな嗚咽を漏らしながら彼は泣いていた。
 彼は自分の意志でここまで変わってしまったわけではない、父親から追い詰められて、でも自分の気持ちをぶつける場所もなくて、それをずっと自分の中に閉じこめていた。二年半もの間ずっと。
 いつ限界がきて壊れてしまってもおかしくない状態だった。
 そんな苦しみから、もう解放させてあげたかった。
「……ふじもり、……藤森……っ……」
 まるで小さな子供が母親に縋るように、唯君は何度も私の名前を呼んでいた。
 そこにいたのは、作られた仮面が全て崩れた、弱々しい彼だった。こんな彼を今まで、誰も見たことなどなかっただろう。本当は一人が怖くてたまらない、孤独を嫌う彼の姿を。
「唯君……」
「唯」
 ザッと雪を踏む音がした。そして私の声を遮るように、背後であがった重い声。唯君はその声にビクッと肩を揺らした。
 そこにいたのは紛れもなく、彼の父親だったから。
「周りの人に迷惑をかけるのは止めなさい。さぁ、一緒に帰ろう」
 こんな状態の唯君を前にしてでも、その人はどこか悠然と構えていた。
 この人は本当に頭がおかしいんじゃないかと本気で思ったと同時に、私の方まで怖くなる。この人のところに唯君は置いておけない、どこか安全なところへ唯君を連れて行かなくては。
 目の前にいるその人を睨んで、私は唯君を放すまいと抱きこんだ。夜とはいえど周りを歩いている人がいたが、私にはそんなことまで考えている余裕などなく、彼のお父さんに向かって声をあげた。
「もうやめて!! まだ分からないんですか……こんなに貴方のことを怖がっているのに」
「唯、いい加減にしなさい」
 私の言葉など、届いていない。
 こちらへ一歩、また一歩と歩み寄ってくる。雪を踏む音と共に。
「来ないで!!」
 言うが、当然そんなことで止めてくれるほどその人は正常ではない。そしてこちらへ向かって手を伸ばしてきたその瞬間、私が唯君を連れて逃げようとしたその瞬間に。
 それらよりも早く、唯君が私から離れた。
 この時の唯君は、私が思っている以上にパニックに陥っていた。唯君は私から離れると、逃げるようにしてその場から走り出し、横断歩道へ飛び出した。
 怖かったのだろう、自分の父親が。捕まれば必ず痛い目に遭うから。
 だが、そんな時私の視界に飛び込んだもの。夜の暗闇の中で真っ赤に光る信号。そして、道路を走る車。
「唯君っ!! 危な……ッ……!!」
 そう私が声を上げた時にはもう遅かった。夜の暗闇の中、車のクランクションが思いっきり鳴ったのが聞こえた。ものすごく近くで、ものすごく大きな音で。
 全てが止まったような時の中で、その音だけは鮮明に耳に入った。
「唯君っ!!!」
 そして次の瞬間、聞いたこともない鈍い音が耳に入って、私の視界は真っ赤に染まった。それはあまりにも一瞬の出来事で、何が起こったのかすらよく飲み込めないでいた。
 周りで、誰かが悲鳴をあげていた。
『……藤森と、なんでもっと違うかたちで会えなかったんだろうな』
 あの日、彼が学校で言った言葉がよみがえった。
 唯君が微笑んで、私に言ったあの言葉が。
「子供が車にはねられたぞ!! 早く救急車をっ、誰か早く!!」
 誰か、私の知らない人達が集まって一生懸命に「救急車を」と叫んでいる声が聞こえていた。それすらもどこか他人事のようで、私はただ呆然とその場に座り込んでしまっていた。雪の上に座り込んでも、冷たさはほとんど感じない。
 地面を流れる真っ赤な鮮血が雪に染み込んでいく。それを見て身体中が凍り付いた。
『藤森の優しいところ、俺ほんとに好きだよ。藤森は気付いてないかもしれないけど、今まで俺、沢山藤森の優しさに救われてたんだ』
 やだ、やめてよ。どうして今こんな事を思いだしているの?
 さっきまでこの手を掴んでくれていたのに、抱きしめてくれていたはずなのに、どうして今側に彼はいないの?
 どうしてあそこで、倒れて。真っ赤な血が。赤く染まった雪が。どうして。
 赤く染まった雪が。
「やだ、……や……ゆいくん……? うそ……いや、いやああああ!!!」
 絶対一人にはしないよ。
 この手は、絶対に放さないからと誓っていたその日。
『……今までほとんどお礼言えてなかったけど、ありがとう』
 遠い記憶の中で、彼が微笑んでそう言った姿だけがいつまでも脳裏に焼き付いていた。