第16話 迷走の果てに


 この状況から彼を救い出す方法なんて、私には一つしか思い浮かばなかった。
 けれどそれは、彼にとって安全であると同時に危険すら孕んだ救済。いずれ唯君がまた同じような目に遭うことなど目に見えていた。
 それでも、今自分の目の前にいる、今にも壊れてしまいそうな彼をなんとかして守ってあげたいと思った。



「お父さん、何時に帰ってくるの?」
「……今日は20時か……21時」
 彼を抱きしめたままの状態で尋ねると、小さな声だったけれど彼は答えてくれた。それを聞いて部屋にかけられていた時計を見ると、時計の針は17時半を指している。彼の父親が家に帰ってくるまであと3時間ほど。もうあまり時間がない。
「とりあえず、怪我の手当てだけでもしよう?」
「……痛くないからいい」
 唯君はそう言ったものの、説得力に欠ける言葉だった。痛くないなんて、とてもそうは見えない。口元や手首から滲み出ている血はもう乾いているものの、まだ痛そうだ。それに身体だって痣が酷すぎる。
 あちこちと部屋を見回した私は、床に転がっていたカッターナイフを見つけるとそれを手に取り、彼の両手を拘束していた紐を切る。
「ダメだよ。救急箱どこ? 傷口を消毒しないといけないし身体も……私部屋片づけておくから先にシャワー浴びてきなよ」
 私がそう言ったものの、唯君は黙ったまま動こうとしてくれない。
「……お願い唯君、言うこと聞いて」
 手を放しても唯君は相変わらず黙ったままだったが、しばらくしてからゆっくりと立ち上がってくれた。
「大丈夫?」
「ん、大丈夫……」
 まだ元気は無かったが、彼がちゃんと返事をしてくれたことに関しては少しだけだけど安心出来た。彼は毛布で身体を隠したまま、私の方を向いて照れくさそうに苦笑する。
「ごめん藤森、ちょっとあっち向いててくれない? 俺今素っ裸だから一旦服着たいんだ」
 分かってはいたが唯君の口から直接それを聞いて、私は不謹慎ながらもボッと顔が熱くなった。
「えっ、あっ、ごめんなさいっ、私絶対見ないから!」
「さっきもう見たから?」
「!!」
 唯君の身体を見たのは事実ではあるが、こんな時にそんなことを言われて、私は耳まで真っ赤にして縮こまった。
「ごっ、ごめんなさい!! あれは……っ」
 彼の方を見ないように身体ごと部屋の隅へ向けて、目を思いっきり瞑る。後ろでクローゼットを開ける音と、彼がクスリと笑ったのが聞こえた。
「いいんだ、藤森になら別に見られても」
「やっ、あのっ……」
 からかっているのか、それとも本気なのか、彼の何気ない言葉に私はますます縮こまって、ドキドキと胸が高鳴る。いっそのこと部屋の外へ出れば良かったんだと少し後悔した瞬間だった。
 さして時間のかからないうちに彼は着替えを終えて、私はよくやく一息吐いて振り返った。彼はジーンズにシャツと、割とラフな格好をしている。唯君は少し部屋を見回した。
「散らかりすぎてて休めるところなんてないけど、その辺でくつろいでていいから」
「私少し片づけておくね」
「いいよそんなの。俺が後で全部やるから」
「いいの、私がやりたいだけだから。唯君は早くシャワー浴びてきて。ね?」
 床に散らばっていたシャーペンや本を拾いながら唯君に言うと、彼はまだなにか言いたげだったが言葉を飲み込んで、「ごめん」とだけ言うと部屋を出て行った。
 彼のいなくなった部屋で、私はさっきからずっと開きっぱなしだった部屋の窓を閉める。こんなに寒いのに窓を開けっぱなしにしてるなんて、いつからこの窓は開いていたのだろう、唯君は風邪をひいてないだろうかと、色々なことを考えてしまう。
 そしてぐるりと、部屋を見回す。何回見ても、床に散らばった写真はとにかくすごい枚数だった。私も家族で写真を撮っているけど、ここまでは無い。この写真だけで、唯君がどれだけ家族と一緒にいた時間が長かったのかが手に取るように分かった。
『多分小さい頃から大事に育てられたんだろうなぁ、じゃなきゃあんな風には育たないだろうし。』
 以前に北川君がそう言っていたように、唯君はとてもいい家庭で育てられたんだろう。優しくて、温かい両親。床に散っているどの写真を見ても、その家族は本当に幸せそうに微笑んで写っていた。それに、唯君を苦しめている原因となっているらしきその人も、写真を見ている限りではあんな酷い仕打ちをするような人にはとても見えない。本当に普通の、優しそうで人のよさそうなお父さんだと思った。写真から出るその雰囲気でさえもそう感じさせる。
『今は……今はこんなことになっちゃったけど、……前は、本当に優しい人だったんだ……』
『俺が言ったって、信じてもらえないかもしれないけど……』
 あんなことをされてもまだそんなことが言える唯君の様子からしても、本当に昔は彼にとっていい『お父さん』だったのだろう。
 それを考えると尚更胸が痛くなってきて、私は無言で写真をかき集めた。
 しばらく、とはいっても30分くらい経ってからだろうか、唯君が部屋へ戻ってきた。
 そして彼が持ってきてくれた救急箱の中から包帯とガーゼを取り出すと、彼の手首の擦り傷に消毒液をなぞらせていく。ベッドの上に腰掛けて、互いに向き合うような形で怪我の手当てをしていくその間、唯君はほとんど口を開かなかった。
「唯君、痛くない? 大丈夫?」
「ん……、平気」
 普通ならかなりしみて痛いはずなのに。私だったら悲鳴をあげて泣いてしまうかもしれない。
「そう……」
 彼からは簡潔な返事しか戻ってこなくて、私の方もどう話を持っていけばいいのか困ってしまう。何か別の話を持ちかけてこの重苦しい雰囲気をどこかへやってしまいたいが、この場の雰囲気を一気に明るくさせるような話題は生憎持ち合わせていない。
 沈黙の中お互いなにもしゃべろうとはせず、唯君はただ自分の手首に巻かれていく包帯をぼんやりと見つめているだけ。
「頬も腫れてるから冷湿布貼っておこっか」
 そう言って箱から湿布を一枚取り出し、ハサミで切っていく。その作業の途中に、唯君がボソリと呟いた。
「ごめん」
「え?」
「……藤森にはもう迷惑かけたくなかったのに、また俺」
「迷惑だなんて思ってないよ」
 頭からタオルを被っているのと、彼自身若干俯いているため、どんな表情をしているのかは分からない。でもなんとかして少しでも元気になってもらいたくて、私は微笑んだ。
「私、唯君の側にいたいって言ったよ」
「うん……」
「私が好きで唯君の側にいるの。だから、もう謝らないで」
 湿布貼るから顔上げて、と彼の頬に手を添えて顔をあげるように促すと、彼の濡れていた髪の毛から水がぽたりと滴り落ちる。ゆっくり顔をあげた彼の顔は、やっぱり頬が赤く腫れていて、さっきから幾度も見たのにまだ慣れない。
「酷いね……」
 彼の頬に湿布を貼りながら言うと、唯君は少しだけど苦笑する。
「最初の時に比べたら、これぐらいはマシな方」
 彼にとってこの怪我は「これぐらい」といえるレベルのものらしい。そんなことはない。親が子供に手を挙げるなんて、ましてやこんな怪我を負わせるなんて、尋常じゃないのに。
 それになにより、彼はそれだけでは済んでいないのに。
「マシな方だけど、それでも学校行ったらやっぱりつばさとか北とか黙ってないし……もうちょっと腫れが引いてから行こうかなって思ってたら、……昨日の夜あの人が勝手に部屋へ入ってきて、そのまま」
 淡々とそう口にする彼が悲しくて、私は顔を歪めてギュッと唯君の手を握った。
「もういいよ唯君……」
「藤森にハッキリ言ったことがなかったけど、……俺、……自分の父親とセックスしてるんだよ……」
 分かっていたけれど、今までどこかあやふやになっていたこと。彼の口から出ることによってそれは真実へと変わった。それを聞いて、私は思わず目を伏せた。
「……そんな汚れた身体で、藤森をレイプしたんだ」
 実の父親とセックス?
 違う。あれは強姦だ。抵抗する相手を力でねじ伏せて征服する。そこには愛なんてない。あんなこと間違っている。そして唯君がこの家にいる限り、これからも彼は父親のいい様にされてしまうだろう。そんなことを、放っておけるわけがない。
「唯君……」
「ごめん藤森……」
「もうやめよう……お願いだから唯君、この家出よう? このままだと壊れちゃうよ、ねぇ……」
 部屋で倒れていた彼を見た時、ゾッとした。あんなことが続いては、いつか本当に取り返しのつかないことになってしまう。その前に。
「身体だって、もうボロボロなのに……」
 唯君は何も言わずに俯いているだけ。ジッと、私に握られた己の手を見つめているだけだ。
「ね、唯君……」
「……家を出て、その先どうするの?」
「それは……分からない。でも私、唯君をこの家に置いておきたくない。唯君が酷い目に遭うのを黙って見てるなんて出来ない」
「藤森の気持ちは嬉しいけど、それは出来ない」
「……どうして?」
 ずっと俯いていた顔をあげて、唯君は心底辛そうに、無理矢理作ったような微笑みを見せた。
「無理だよ、この家を出るなんて。……今まで上手くいったことなんてないから」
 いつの間にか時間は流れて、あたりは暗くなっていた。さっきまで窓から差し込んでいた夕陽も沈んで、部屋は次第に薄暗くなっていく。けれど変に明るいよりも、この暗さの方がかえって落ち着けた。
「まさかこんなことになるなんて思わなかったから、それでも最初の頃はなんとかして止めてもらおうって色々やったんだ。家を出たことなんて、何回もあるんだよ」
「そうだったの……?」
 私が言うと彼は「うん」と苦笑した。
「でも結局全部失敗して家に連れ戻されて、殺す気なんじゃないかってくらいめちゃくちゃに痛めつけられた。タケの家に二日間だけ泊まりに行った時なんて、俺の友達と、同じクラスの人の家に片っ端から電話かけて、家にまで押しかけたんだ。学校の先生達にもこっぴどく怒ったらしくて」
 流石に自分の子供がいなくなっては親としても心配するのだろうが、それでも彼の父親の唯君に対する執着心はすごいものだと思ってしまう。
「俺が勝手なことすると周りに迷惑がかかるって気付いたんだ。家を出たのはそれが最後。他にも色々やったんだけど、結局は自分が余計に痛い目に遭うだけでその後は何も変わらなかった。そのうち抵抗するのも無駄に思えてきて、疲れたから諦めて……それが高一の最後あたり」
 私が握っていた彼の手を、唯君はぎゅっと握り返してきた。彼は私の方を見ることなく視線を落としている。
「二年になればなんとかなる、三年になれば、学校を卒業すればって、今までずっと思ってきたけど、何も変わってない。きっとこの先も変わらない。このままじゃ駄目なんだって分かってても、俺一人じゃあの人は止められなくて……」
 けれど、かといって誰かに助けを乞うことも出来なかったんだろう。事実を告白するには、唯君の秘密はあまりに大きく、重すぎる。
「唯君……」
「……本当は今すぐにでもこんな家出て行きたいよ。学校だってなんだって全部捨てられればそれが一番自分が楽になれるのに。……でも……」
 次に出るはずだった言葉を全部飲み込んでしまったかのように、唯君は言葉を発しなかった。そしてその代わりにこつんと、彼は私の肩口に顔をうずめて黙り込んでしまう。
「唯君……?」
 拍子にふわりと、石鹸のいい香りがした。
(……言いたくないのかな……)
 せっかくここまで話してくれたのに残念だとは思ったけど、それでも嘘ばかりだった以前よりもずっと進歩したような気がして、私はタオルを被ったままの彼の頭をそっと撫でた。
「私、ここにいるからね。無力かもしれないけど、唯君の側にいて、話もちゃんと聞くから……。私に出来る範囲のことならやるから」
 以前やった過ちを二度繰り返すつもりはない。今度こそ絶対に彼の役に立てたらと本気で思って、私は言葉を紡いだ。
 私がそう言った後、しばらく辺りを沈黙が包む。そして、唯君は小さく笑った。
「……やだな」
「え?」
「藤森は酷いよ、こんな時に、そんな優しいこと言ってくるから、……俺」
「唯君だって今まで私にずっと優しくしてくれたよ。私すごく嬉しかったから、……だから今度は私が、唯君の力になる」
 唯君は私が困った時には何度も手を差し伸べてくれた。いつもなんてことないように平然と微笑みながら、私の力になってくれた。だからこそ、今度は私が彼を助けてあげたいのだ。
「……ありがとう」
 そんな私の言葉に、唯君は少し間を置いて一言零した。それを聞いた私は、無意識に頬が熱くなっていくのを感じていた。
 すっかり夜になってしまったその部屋を照らすものはなにもなく、明かりは何一つ付いていない。
 暗い部屋の中で、私は彼を抱きしめたまま。そして私の肩口に顔を埋めていた彼は、そのまま眠ってしまっていた。その、小さな寝息を立てている彼がなんだか愛しく思えて、少しだけど顔が緩んでしまう。
 でもそんな中私はずっとずっと考えていた。彼をここから救い出す方法を。
 本当は、彼をこのままどこかへ連れて行くことができればいいのにと思ってる。それが一番良いと。けれどさっき私がそう言った時、唯君は真っ先に否定した。それはそうだ、もし連れ戻されれば痛い目に遭うのは彼なのだから。それに彼の経験から言って、周りの人をまた巻き込んでしまいかねない。
 そもそも、実際家を出ても行き先なんて無い。頼れる人だっていない。「家を出たい」と思わせるほど自分が追い詰められたことがなかったから、どうしていいのか分からなかった。どこかへ逃げて、住めるところを探すにしたって、そんなお金がどこにあるというのだろう。
 私と唯君はまだ高校生で、18歳で、知っていることよりも知らないことの方が多い、まだまだ親に頼りっぱなしの、子供。
 彼の言ったとおり、やっぱり自分は無知で、あまりにも無力すぎると思った。目の前に立ちはだかる壁は、あまりに大きすぎる。私は小さく息を吐いた。
『……本当は今すぐにでもこんな家出て行きたいよ。学校だってなんだって全部捨てられればそれが一番自分が楽になれるのに。』
 それが彼が一番楽になれる方法。誰にも秘密を知られることなく、この状況から逃げ出せる一つの術。けれど、それで本当にいいんだろうか。彼が負った心の傷は、『逃げること』で治るものなのだろうか。
(もっと別の……別のなにかが……でも、今は逃げないとこのままじゃ唯君が危ない……)
 色んな考えが頭の中をぐちゃぐちゃに掻き回して、自分でもよく分からなくなってきたその時。その音は、耳に入った。
「!?」
 それは玄関の開く音だった。そして続けて、靴を脱ぐような音が聞こえる。
 もしかして、と思ったのとほぼ同時にそれは確信へと繋がる。幸い唯君はその音に気づいていないようで、まだ小さく寝息を立てて眠っていた。私はそんな彼を起こさないようにそっとベッドへ横にすると、唯君は少し声を漏らす。起こしてしまったかと思い私はビクッと肩を揺らしたが、どうにか彼は起きないでいてくれた。
「唯君は、私が守るから」
 小さな声で、眠っている彼に向かって呟いた。すやすやと眠る唯君の寝顔を見ているとなんだか心が安らいでくる。ずっとこのままでいるのも悪くないと思いながら私はしばらくそれを見つめた後、意を決して静かにその部屋を後にした。
(……言っていた時間よりも少し、早かったな……)
 先ほど家に入ってきたであろうその人は、きっとあの人。今までずっとずっと好き勝手に唯君をめちゃくちゃにした、彼の父親に違いなかった。まだ一度しか会ったことが無かったけれど、あの人には言いたいことが沢山あった。
 ゆっくりと音を立てないように、部屋で眠っている唯君を起こさないよう階段を一段一段慎重に下りていく。廊下からは明かりが漏れていて、きっとリビングの電気が付けられたのだろう。
 私はバクバクと激しく鼓動を打つ胸の高鳴りを抑えながらも、そのリビングへのドアノブに手をかけ、ゆっくりと押した。小さな音とともにドアが開かれる。
 そのドアを開いてすぐに、視界に入った人。その人は着ていたスーツの上着を脱いで、ネクタイを緩めている。そしてこちらを見て少し驚いたような顔をしていたが、それはすぐに笑みに変わった。
 その余裕が、怖いと思った。
 そうして私は、目の前で悠然とソファに腰掛けたその人に向かって、ゆっくりと口を開いたのだ。
「こんばんは。……唯君のお父さん」
 悲しそうな顔も辛そうな顔も、泣いている顔も全て、笑顔に変えられたらどんなにいいだろう。痛みも苦しみも、消してあげることが出来たら。今はまだ無理なことだったとしても、この先のことは誰にも分からない。未来は誰かが決めるものじゃない、自分の力で切り開くものだと信じたいから。
 だからこそ、少しでも彼が救われる道を一緒に探してあげたいと思った。
 そのためにも、目の前にいるこの人だけは。
 貴方だけは、絶対に許せない。