第17話 Hand in Hand -繋いだ手と手-


 写真に写っていた姿とあまり変わらないような風貌で、その人は私の前にいた。
 年齢は見た限りでは30代くらいだろうか、とにかく『若い』という印象を受ける。唯君は一人っ子だから親が若いというのも十分頷けるけれど、それにしても若々しいと思った。会社でも相当モテていそうだと、どうでもいいことを思ってしまうくらい端正な顔立ちをしている。背も北川君が言っていたとおり高くて、すらりとしている体躯には着ていたスーツがよく似合っていた。
「こんばんは」
 その人は私に向かってニコリと微笑むと、そう返してくる。笑った顔とよく合う、とても穏やかな口調。笑みを見せるその顔からは柔らかな雰囲気が感じられて、だからこそ尚更怖さを感じてしまう。唯君の秘密を知る前にこの人に会っていれば、そんな印象など持たなかっただろう。けど、現に今まで唯君に酷いことをしてきているのは、間違いなくこの人なのだ。
 なのに、こんな風に平然としていられること自体がすでにおかしいと思った。
「そういえば前にも会った気がするけれど、唯のクラスメイトだったかな」
「……そうです」
「名前を聞いてもいいかい?」
「……藤森真奈美、です」
「真奈美さん、ね。私は唯の父親の桜川義人(さくらがわ よしと)です。息子の唯がいつもお世話になってるね」
 最低限のことしか言わない私に、その人は相変わらずの穏やかな口調で言う。大して話してもいないのに、冷や汗が流れた。言いたいことなんて沢山あるのに口から言葉が出ていこうとしない。
「そんな所に立ってないで、どうぞ?」
 リビングのドアの前に黙って突っ立っていた私に、更にしばらくして唯君のお父さんは自分の向かいのソファに腰掛けるように促してきた。そんな対応すらどこか紳士的で、落ち着きがある。
「……いえ、ここで結構です……」
「そうですか」
 顔を逸らした私にその人は苦笑した。
 この部屋を制圧しているのはなんなのだろうか。まるで見えない何かに自分が圧迫されているかのよう、緊張して身体が強ばってしまう。自分と目の前にいる相手との年齢の差というのもあるだろう。だがそれにしても、相手の雰囲気は普通の人から見てもとても話しかけやすそうなものなのに、それなのに言葉が出ない。
 私は、完全に圧されていた。
「唯は?」
 再度言葉を発してきたのは唯君のお父さんの方だった。言わなきゃいけないことがあるのに、こんなことではいけないと自分に言い聞かせる。それでも緊張は拭えなかったけれど、心なしか先ほどよりは落ち着いたような気がした。
「唯君は、……部屋で寝てます」
「友達が来てるのにしょうがない子だね」
 全く、と言って苦笑するその人の様子はとても違和感を覚えるものだった。
 さっきからそうだ。この人は普通に笑う。まるで「何も知らない、してない」というような雰囲気を纏って。自分の子供を傷つけているのにどうしてこうも普通に笑うことが出来るのだろう。いや、していること自体が普通じゃないのだから、まともなことを言ってもこの人には通用しないのかもしれない。
(……唯君は、私が守らなきゃ……)
 だからここは絶対に退けない。
『藤森にハッキリ言ったことがなかったけど、……俺、……自分の父親とセックスしてるんだよ……』
『……そんな汚れた身体で、藤森をレイプしたんだ』
 その事実が彼の口から零れた時、返す言葉もないくらい苦しかった。
 あんなこと、もう二度と言わせたくない。辛い顔だって本当はもうさせたくない。そのためには彼をこの状況から救い出さないと全ては壊せない。この異常な繋がりさえも。
 私は手にギュッと力を込める。そうして瞳は、目の前にいるその人に向けた。
「……貴方が唯君に酷いことをしてるのを、……私は知ってます」
「酷いこと?」
 言っても無駄なことかもしれないと、この人を前にした時に思った。けれど、もしかしたら分かってくれるかもしれない、止めてくれるかもしれないと、今にも消えてしまいそうな小さな希望を持って私はそれを口にした。
「もう唯君に暴力を振るうのはやめてください」
 これで全てが終われば、どんなに楽だったんだろう。
 けれど希望なんて、あまりに儚すぎて。現実なんてそう簡単にはいかないほど残酷なものだった。
「暴力?」
 私が言った事に対してその人は、ワケがわからないとでも言うように少し笑った。ここが笑うところだろうかと、私は不愉快な気分になる。
「ああ、ごめんね。まさかそんなことを言われるとは思っていなかったから。ええっと、わけを聞かせてもらってもいいかな」
「理由なんて言う必要はないです。唯君をこれ以上傷つけるのはやめてください……」
 そんなことを言われるとは思ってなかったなんて、それはないだろう。わけなんて言わなくても、加害者である貴方なら分かるはず。
 余裕ある相手の雰囲気に怯んではいけないと、自分にそっと言い聞かせる。そして私の言葉に、唯君のお父さんは相変わらず笑みを見せていた。
「唯はとっても良い子だよ。だから私が暴力を振るう理由なんてないし、傷つけた覚えはない」
「……惚けるんですか……」
 まさかそう返ってくるとは思わなかった。あれだけの怪我をさせておきながらよくそんなことが言えるものだ。
 唯君は本当に優しくて、いい人だ。暴力を振るわれる理由も、ましてや傷つけられる理由だってない。けれど、現に私はあの雨の日、唯君に暴力を振るっているこの人を見た。唯君への暴行は今に始まったことじゃない、ずっと前からなのに。精神的にも肉体的にも傷つけられた心と身体は、少しずつボロボロに崩れていっているのに。
 目の前にいる、まるで親とは思えないその人は私の言葉を聞いて苦笑した。
「……なにか勘違いをさせているみたいだね。じゃあ唯に直接訊いてみようか?」
「え……?」
「それとも、唯が貴方に頼んだのかな。『父親から暴力を振るわれている。自分じゃ言えないから止めるように言ってくれ』って。もしそうだったら唯の冗談だろう。友達にそんなタチの悪い冗談を言うなんて、いけないね。唯には後で私から注意しておくよ」
「……どうしてそうなるんですか……?」
 タチが悪いのは貴方の方だ。今まで頑なに心を閉ざして、それでもようやく本当のことを言ってくれた唯君の言葉を、『タチの悪い冗談』ですませるなんて。
「……そんなこと唯君が冗談でも言うわけないじゃないですか……。唯君は優しいから……、人に心配をかけさせるようなことはしないから、……唯君がそういう人だって、貴方が一番よく知ってるはずでしょう?」
 この人がしていることは犯罪だ。証拠だって十分すぎるほどにある。二年以上も自分の子供を痛めつけて、身体にも心にも傷を刻んだ。唯君さえ本当のことを話せば法的な懲罰だって与えることが出来るのだ。
 それなのになおこの人がこうしてここにいられるのは、唯君がそれを誰にも言っていないからだ。唯君が黙っていることによってこの人は今の今まで罪に問われずに済んでいるのだ。そんなことにも、過ちにすらも気付いていないのか。唯君の気持ちに気付いていないのか。
(……そんなことは絶対に言わせない)
 沸々と、目の前の人に対する怒りが募って私の中を湧き上がっていく。
「自分の子供だからって、好きにしていいわけない……。唯君は貴方の子供だけど、貴方のものじゃない!」
 怒っているのに、涙が頬を滑った。
 唯君の親だからとか、年上だからとか、もうそんなのはどうでもいい。さっきまで圧されていた自分の感情はどこかへ消えて、ただ怒りだけがそこにあった。やっていることを認めようとしない、この人だけは絶対に許せないと思ったから。
『もう……分からないんだ、全部……。なにも……なにも考えたくない……』
 ごめんね唯君。ごめんね。あんなに悲しそうで、沢山傷つけられて、でも学校ではそんな辛そうな顔など一切見せないでずっと彼は一人耐えていた。隠している秘密があまりに異常すぎて、惨すぎて、相手にどう思われるのかが怖くて誰にも相談なんて出来ずにいて。
 この二年半の間に、彼は心身共にとても追い詰められていた。
 そのことに、もっと早く気付いてあげればよかった。憧れて遠くから見てるだけじゃなくて、彼ともっと接して、彼のことを分かってあげればよかった。まさか、こんな酷いことされてるなんて知らなかったんだよ。本当にごめんなさい。
 でも、もう一人にはしないから。私が、側にいるから。
「……困ったね、なにか誤解されているみたいだ。私は唯に何もしていないよ」
 私が何を言っても、唯君のお父さんは顔色一つ変えなかった。ただ困ったような笑みを浮かべて私を見ているだけ。
「……じゃあ、あの怪我はどう説明するんですか」
 唯君の身体につけられた無数の痣。あれこそが全ての証拠になっている。
 それに心だって傷付けられて、それは今の唯君と話していれば十分に伝わる。傷付いた身体だって、誰かによって負わされたものだと分かる。ちゃんと診てもらえさえすればそんなこと簡単に露呈してしまうのに。
 唯君がそれをしないのは、誰にも知られたくないから。ましてや暴力と性的虐待、加害者である相手は自分が最も信頼していた父親。同性。誰にも言いたくないという気持ちは間違いなくある。
 そして唯君は、この人のことを心のどこかでまだ信じているのだろう。殺したいほど憎むのは、その人のことが本当に好きだったから。
 唯君が今までに言ったことや行動を見てきて、私はそんな気がした。そしてその優しい気持ちを利用してこの人は今ここにいる。そんなのは酷すぎる。
 怪我の説明をしてほしいと言った私に対して唯君のお父さんは、「ああ」と思い出したように口を開いた。
「怪我……? ああ、学校で喧嘩でもしたんじゃないかな。あの子は元気だから」
 一瞬、「聞き間違いであって欲しかった」と望んだ自分がいた。
(……なに、それ……)
 それが虐待を犯した親が言うこと?
 嘘、言い訳、ごまかし、さっきからこの人は何一つ真実を語っていない。自分がやっていることが悪だと思っていないのだ。信じられない。
 あまりにショックが大きすぎて私は固まった。こんな人がいるものだと、ただ驚いて。していること自体普通じゃないのだから、まともな言葉など期待してはいけないと思っていたけど、やっぱり駄目だった。
『今は……今はこんなことになっちゃったけど、……前は、本当に優しい人だったんだ……』
 唯君駄目だよ。この人は唯君の気持ちなんて考えてないよ。おかしい、やっぱりこの人はおかしい。駄目だ。ここに唯君は置いておけない。そんな考えが頭の中を埋め尽くしていく。
「唯の怪我のことは心配ないよ、きっと本人も」
「……いで……」
「は?」
「ふざけないでっ! 全部貴方がやったんじゃないですか!! 全部、貴方が……っ! 唯君が言わなくても、病院に行って診てもらえばすぐに分かります!! それで唯君が本当のことを話せば貴方は……!!」
 激昂する私に、その人は一つ溜め息をついて悲しげに微笑む。
「私が唯に暴力を振るっていると?」
「……さっきからそう言ってるじゃないですか……」
 この人と話していると、こっちがどうにかなってしまいそうだ。唯君は今までこんな状態の父親と一緒にいたんだ。いつか気付いてもらえるかもしれないと小さな希望を持ちながら。
 「大丈夫」と、私の前で微笑んでそう言った彼が脳裏によみがえって、切なくて胸が締め付けられた。溢れる涙は止まらない。
「泣かせるつもりはなかったのだけれど、本当にすまない」
「……そんなことは、どうだっていいんです」
 私が泣いていることに困ったようで、唯君のお父さんは「うーん」と小さく唸って顎に手を当てる。
「参ったね……、どうしたら分かってもらえるのかな。私は本当に何もしていないのだが……、……やっぱりこういうのは唯本人に聞いてみるのが一番いいかもしれないね。唯が言わないと貴方は信じてくれないようだから」
 その言葉に私はビクッと肩を揺らした。まずい方向に話が進んでしまったと。
「唯を起こしてこよう。ちょっとここで待っててもらってもいいかな」
 ソファから立ち上がったその人を見て私はさらに焦った。今この人と唯君を会わせるわけにはいかない。どうにかして止めなくては。唯君がこの人の前で本当のことなんて言えるわけがない。
「いいです、……もういいです!!」
 結局話しても無駄に終わってしまった。分かったのは、やっぱりここに唯君は置いておけないということだけ。居場所がないというのなら、私が作ってあげればいいだけのこと。
 その人の行動を止めるように私は叫んで踵を返すと、唯君のいる二階へ向かおうとした。けれど。
「唯君……」
 階段を上がって3、4段ほどのところに、唯君が立っていた。いつからそこにいたのか、どの辺から話を聞かれていたのだろう、唯君は感情を押し殺したような表情でそこにいた。
 唯君、この人は貴方の知っているお父さんじゃないよ。もうこんなところにいる必要なんてないよ、もうやめよう? 私と一緒に行こうよ。
 そう声に出して言いたかった。けれど彼の顔を見た瞬間言葉に詰まって。
「……っ」
 唯君はここで連れ出さないといけない、この家にいてはいけないんだ。そんな思いを張り巡らせていた私の目に入ったのは、彼の傷つき包帯が巻かれた手首だった。
 そうだ、彼のこの手を、この手を掴めば。
 ここで彼の手を掴めば、また運命は大きく変わるだろう。あの全てが変わった日、体育倉庫での出来事のように。そして彼を抱きしめてあげることが出来なかった、あの雨の日のように。
 それが良い方向へ転ぶか、悪い方向へ転ぶか、それは私には分からないけれど。でも、彼がこれ以上辛い思いなんてしなくていいように、心から笑ってくれるように、良い方向へ変えてあげたい。救ってあげたい。
「唯君!」
 私は彼に手を伸ばして、彼の手を思いっきり掴んで自分の方へと引いた。そしてそのまま、私たちは走ってその家を飛び出したのだ。
 唯君は拒まなかった。私の手を握り返してくることもなかったけれど、嫌がることもなかった。彼の手を引いて走る私の後に、ちゃんとついてきてくれた。
『唯はとっても良い子だよ。だから私が暴力を振るう理由なんてないし、傷つけた覚えはない』
『それとも、唯が貴方に頼んだのかな。『父親から暴力を振るわれている。自分じゃ言えないから止めるように言ってくれ』って。もしそうだったら唯の冗談だろう。友達にそんなタチの悪い冗談を言うなんて、いけないね。唯には後で私から注意しておくよ』
『怪我……? ああ、学校で喧嘩でもしたんじゃないかな。あの子は元気だから』
 酷い言葉の数々だった。暴言ではないけれど、あまりに無神経で勝手で、最低な言葉。まともな神経の持ち主が言うことじゃないと思った。
 こっちが本当のことを訊こうとしても向こうは惚けるだけ。そして唯君がなにも言わないのを良いことにつけあがってくる。そんな人と話しても、無駄なことだと思った。話し合えばなんとかなるなど、所詮は甘い期待でしかなかったのだ。
 さっきのでそれがよく分かった。だから唯君はあそこへは置けない。そう、もっと早くにこうしておけばよかったんだ。
「っ、はぁ……っ、はぁ、……」
 しばらく走った後、息を切らせて私は足を止める。そこまで長い距離を走ったわけではないけど、体力が持たなくてすっかり息は上がっていた。荒く呼吸を繰り返しながら少しの間立ち止まっていたけど、落ち着いた後再びゆっくりと歩き出す。もちろん、彼の手はしっかり握ったまま。
 私も唯君も、無言だった。唯君も驚いただろう、いきなりこんなことになって、私に連れ出されて。けど、あの家に残して帰るなんて絶対にしたくなかったから、彼をこうして連れ出すことが出来て私は安心していた。
「藤森」
 無言で歩いていく中、先に沈黙を破ったのは唯君の方だった。私はなるべく彼を不安にさせないように笑みを見せて振り返る。
「何?」
「……どこ行ってるの」
「私の、家」
 すぐに終わってしまった、短い会話。私の言ったことに対して唯君はそれ以上言葉を返してくることはなかった。それが、私の心中を察してくれているのかどうかは分からないけど。
 辺りはもう真っ暗で、とても寒い。私が夕方ここを通った時とは違い、気温も急激に下がっている。歩く道は所々に設置されている街灯のみが照らす、夜一人では歩きたくないような道。
「唯君……」
 またしばらく経った後、歩きながら私は唯君に声を掛けた。
「なに?」
「私のこと、怒らないの……?」
 こんな勝手なことをして彼を引っ張り出した私を、そして彼の父親に対し放った言葉に対しても。家を出ようと私が言った時、それは出来ないと彼は否定したのに結局こうなって。彼は先ほどからその事には一切触れなかった。
「なんか怒るようなことしたの?」
 私が訊いたことを、唯君は逆に訊きかえしてくる。彼のその口調からは、怒っているような感じなどしなかった。
「……してない……」
 確かに勝手なことをして、勝手なことを言ったと思うけど、後悔はしてない。
 そう言うと、彼は少し笑ったようだった。
「してないんなら、怒らない」
 随分と勝手な行動を起こしてしまったものだから、絶対に怒られると覚悟していた。「余計なことをするな」と言われるんじゃないかと思って。けど、唯君は怒らない。そんな彼の心境が気になって、ピタリと私は足を止めた。
「ねぇ唯君。……唯君は、これからどうしたい……?」
 自分に出来る範囲でのことなら、彼の力になってあげたい。そのためには、唯君がどうしたいのか知る必要があった。彼はなにを望んでいるのかを。
 お父さんと和解なんて出来そうにないとさっき話していて思った。唯君はどう思っているか分からないけれど、私としてはあの人には罪を償ってもらいたい。そして唯君が失った、取り戻すことの出来ない二年半という時間を返して欲しい。
 急激に冷え切った彼の手を自分の両手で包むようにして、私は唯君を見つめた。
「私も力になるから……。唯君はどうしたい?」