第15話 遠いけれど近いもの


 北だったか、タケだったか、それとも樹だったっけ……とにかく誰かから一度訊かれたことがあった。
 「なんでお前そんなに頑張るんだ?」って。
 その時自分は何て答えたのかもう忘れてしまったけれど、そのきっかけは、本当に些細なことだった。



「ねぇ貴方、今日ね唯ってば、幼稚園のかけっこで一等賞だったのよ。ねぇ唯?」
「うんっ」
 夜、作った料理をテーブルに並べていきながら、仕事から帰ってきたばかりのお父さんにお母さんはにこやかにそう言った。
 その日は幼稚園の運動会だった。大体の人はお父さんとお母さんがちゃんと来て、一緒に競技をしたりする。けれどその日、お父さんは急に仕事が入って運動会に来ることが出来なくなってしまった。
 そうして夜仕事から帰ってきた時、お父さんは何度も何度も俺に申し訳なさそうに「ごめんな」と謝ってきた。
「そっかそっか、唯は一等賞だったのか。すごいな唯は」
 お母さんから話を聞いたお父さんは、よしよしと嬉しそうに頭を撫でてくれた。俺の手の何倍もある、大きな手。いつ見ても俺の憧れだった。
「今度は絶対見に行くから、今日は本当にごめんな」
「うんっ。こんどはぜったい来てね、お父さん」
「ああ、今度は絶対見に行くよ。約束だ」
 お父さんとお母さんがいて、自分を褒めてくれて、すごく喜んでくれたのが嬉しかった。ただ、純粋に嬉しいと思ったから。二人の喜ぶ顔がもっと見たいと思ったから、だから自分の出来る範囲でのことは精一杯頑張ろうと思った。
 お母さんは病気がちだったし、迷惑はかけたくないし負担になるようなことはさせたくない。二人に喜んで欲しいという気持ちと同じく、物心ついた時からそういう気持ちも入ってきて、中学からは余計に人一倍頑張るようになった。
 それが苦痛だと感じたことはなかったし、そのおかげで色々楽しいこともあった。だから当時はそれなりに満足していたんだ。
「唯は本当に良い子ね、お父さんとお母さんの自慢よ」
 自分にとってとてもとても大切な人達だった。俺の自慢でもあった。
 だからそれだけに、何度彼らを憎んだだろう。大好きだった人達が突然いなくなって、裏切られて、自分は一人になってしまったこの事実を。
 人一人失っただけでこんなにも簡単に崩れてしまうなんて、人はこんなにも脆かったんだと初めて知った。家族って、絆って、そんな簡単に壊れてしまうほど、安いものだったのだろうかと。
 お父さん、お母さん。
 二人にとって俺って一体なんだったのかな。
「……っ……」
 冷たいフローリングの床の感触で、うっすらと瞳を開いた。肌寒いと感じたのはすぐのことだったが、身体中が痛くて、怠くて身体を起こす気にもならない。熱に浮かされたように頭の芯は痺れて、意識はどこか朦朧としている。両手首を拘束するように結ばれた紐すら気にならないほどに。
 自分がどういう現状にいるのかすら分からず、ここはどこだろうと疑問に思ったのも束の間、すぐに「どこでもいい」と興味が失せた。どうして身体中がこんなに痛いのかも、なぜ自分はこんなところで一人転がっているのかも、もう全てがどうでもよかった。
(……なんだか、……すごく疲れたな……)
 そうとだけ思って、再び瞳を閉じた。意識が次第に遠のいていく。
 さっきまで自分は、とてもいい夢を見ていたような気がする。楽しそうな笑い声が聞こえる、優しくて、温かで、心地良い。とても懐かしくて、幸せな夢を。
 何を見ていたのか、それはもう覚えていない。だけどそれを考えると、瞑っていた瞳から自然と涙がこぼれた。



 教室の時計の針が9時を指そうとしているのを無言で見つめて、私は本も読まずに手元の携帯へと視線を落とした。
 昨日唯君は学校へ来なかった、そして今日も彼の姿は無い。もしかしなくても『来られない』んじゃないかと心配になって、先ほどから彼にメールをしているものの、一向に返事がくる様子もなく、それは羽野君や紺野さん達も同じことのようだった。
「ったくよーせっかくこないだ買ったゲーム持ってきたのに唯は今日も休みかよ」
「あいつ高校入ってから妙に病弱だからな、学校来たら養命酒でも渡しとこうぜ」
 いーねー、と数名で意気投合しながら盛り上がっている一郭で、私は彼のことを考えるたびに不安になっていった。彼が休んでいる理由がなんとなく分かっているせいだろうか、また彼が酷いことをされて、怪我をしてしまっているんじゃないか、傷つけられているんじゃないかと、心配になって携帯を握り締める。
「あれー真奈美、誰かにメール?」
「え?」
 急に声を掛けられて顔をあげると、丁度手洗いに行っていた頼子が戻ってきたところだった。私は慌てて携帯を机の中に押し込むと、なんでもないように笑みを作った。
「ううん、なんでもないよ」
「てっきりまた唯君にメール送ってんのかと思った。前送ってたじゃん?」
「うん、今日も送ったよ」
 そう返すと頼子は隣の席に腰掛けて笑う。「真奈美も好きだねー」と。
「唯君って身体弱いのかな、ちょくちょく学校休むよね。いつも学校では元気だからそんな感じしないけど」
「うん……」
 彼の事情を知っている人など、この学校にはおそらく自分だけだろう。みんな知らない。彼が家で父親から暴力を振るわれていることなど、なにも。
「でも唯君学校休んでも成績いいしー、家でも勉強してんのかな」
 頼子が不思議そうにそこまで言ったところで予鈴が鳴って、数学の綾乃先生が教室へ入ってきた。
「げっ、綾乃ちゃん来んの早ッ! ごめん真奈美、もし当てられたら教えてっ!」
 机の中から急いで数学の教科書とノートを出すと、頼子は焦ってこそっと私に告げる。そんな彼女に「いいよ」と返すと、彼女は「ありがと」と言って苦笑した。
(……唯君、大丈夫かな……)
 この間唯君からは「もう関わらない方がいい」と言われたけれど、やっぱり心配してしまう。彼のために自分が出来ることを探してしまう。あんなに儚くて、切ない微笑みを見せる彼の事を、放ってなんておけない。
 唯君に会って、話をしたい。私の頭の中にはそれしか無かった。



「なぁ藤森、ちょっとこっち」
 放課後、図書室へ本を返しに行こうとしていた私を止めたのは北川君だった。
 なんだろうと首を傾けた私に、彼は小さく「ちょっといい?」と言って教室の外へ出るように促してくる。そんな彼の手には、なにか入っているらしい茶封筒があった。
「北川君、どうかしたの?」
 彼に続いて教室を出て尋ねてみるものの、北川君は楽しそうに笑うだけだ。そんな顔を見せられると、一体なんなのか無性に気になってくる。
「ちょっと藤森に渡したいものがあってさ」
「渡したいもの?」
 教室から少し離れて、そこまで人通りの激しくない廊下で北川君は足を止めた。そして辺りを警戒するようにキョロキョロと見回した後、手に持っていた茶封筒を私の方へ差し出してくる。
「はい、コレ」
「え?」
 A4サイズくらいの茶封筒。中にはもちろん何か入っているんだろう、少しでこぼこしている。けれどこれが何なのか分からなくて、私は少し怪訝な顔をした。
「? これ何?」
「お見舞いついでに唯の家に届けてやって。数学と、英語のプリント。それと昨日の冬休みの課題プリントが何枚かと、あと樹からのゲームに俺らからの差入れ」
 なんとか彼が私と唯君の話す機会を作ってくれようとしているのが、手に取るように分かった。ありがたくて、目頭が少し熱くなる。
 けど、どうして北川君がここまでしてくれるのか、私は未だによく分からないでいた。
『北は藤森のこと結構気に入ってるみたいだし。だから、こうやって俺に構う暇があるのなら北に構ってやればいいってことだよ』
 同時に、この間唯君が私に対して言ったその台詞が、私の中でどこか引っかかっていたから尚更だった。
「……どうして?」
 その疑問は思わず、私の口から零れてしまう。
「へ?」
「なんで北川君、ここまでしてくれるの?」
 顔をあげて、私よりも遙かに背の高い彼の瞳を真っ直ぐに見つめた。
 北川君はいつも私に協力してくれる。特に頼んでいない時にも、彼はいつも私の力になって、相談にだってのってくれた。最初は「北川君は優しいから」で片づけていたけど、本当にそれだけなんだろうか。
 私が訊いた言葉に対して北川君は一瞬固まったけど、しばらくして少し照れくさそうに頭を掻いている。
「だって俺、藤森のこと好きだし」
 さらりとした北川君の発言に、私はビックリしすぎて声をあげることも出来なかった。そして少し間を置いて、みるみるうちに顔が赤くなっていく。
 そんな私を見て、北川君はいたずらげに笑った。
「でも、それと同じくらい唯のことも好きだよ」
「あ……」
(……そういう意味だったんだね……ビックリしたよ……)
 北川君からのたった一言で翻弄されるなんて、自惚れるのもいいところだ、と自分で自分を諫めてしまう。今の勘違いは流石にちょっと恥ずかしい。
「それにつばさだって、樹だって、みんな同じくらい好き。だから出来る限りは協力してやりたいなぁと思うし……って、こんなアホだから彼女出来てもすぐにフラれるんだわな、俺」
 はは、と北川君は苦笑する。私にとって北川君は十分頼りになる存在で、どうしてこんなにも優しい人がすぐにフラれてしまうのか、そっちの方が理解出来ない。
 そして、こんなにも優しい人が私の力になってくれているのに、どうしても私にはその茶封筒を手に取ることが出来なかった。
 ジッと、その封筒を見つめているだけの私に、彼は優しげに微笑む。
「な、藤森。頼むからさ、持っていってやって」
「……でも……」
 本当はすぐにでもそれを受け取って唯君のところへ行きたい。けれどそう思っている私の衝動を抑えているのは、先日彼が言ったこと。
『俺にとって藤森は友達だよ』
『だから、これ以上藤森になにかしてもらおうなんて思ってない』
『同情も、嘘もいらない』
 唯君にとって私はただの友達でもいい。私が、自分自身が望んでいるから唯君の側にいたいの。それは同情なんかじゃない、嘘は、もう絶対につかないから。
(唯君、私……行っちゃ駄目かな……)
「なんだ、行きたくないの?」
「そういうわけじゃないけど……」
 今すぐにでも会いに行きたい。会って、なんでもいいから彼と話がしたい。ただ唯君を見ているだけで、自分は安心出来るのに。
 躊躇する私を前に、北川君は差し出していた茶封筒を自分の方へ引っ込めた。
「藤森が行かないのなら、つばさに頼むけど」
「え!?」
「これ、藤森に頼もうと思ってさっきつばさから強奪してきたんだけど、藤森が行けないのなら返してくるよ」
 北川君がくるりと私から背中を向けて教室へ戻ろうとする。それを私は慌てて、彼の腕をギュッと掴んで引き留めた。言葉よりも先に、自然と身体が動いていた。
(他の誰かに行ってもらうくらいなら、私が……)
 そんな突然の私の行動に、北川君は苦笑して振り返った。
「藤森ってお人好しかと思ってたけど、案外負けず嫌いだったりしない?」
「……うん、そうなのかもしれない……」
 はい、と私に茶封筒を渡して、北川君は「まぁ頑張れよ」と気軽に肩を叩いてくれた。
「唯になんか言われたら俺に頼まれて来たって、言えばいいからさ。」
「ん……」
「少しでもいいから唯と話せるといいな」
 いつもそう私を元気づけて、安心させてくれる北川君。茶封筒を受けとった私はまだ少し複雑な心境だったけれど、彼に後押しされるままに小さく頷いた。
 他の誰かに行ってもらうことがいやで、勢いだけで引き受けてしまった。
 どうしよう、と、引き受けたにも関わらず未だに悩んでいる往生際の悪い自分がいる。行きたくてたまらないのに、ただ一つ、唯君の反応だけが気がかりで私の足を鈍らせる。
(唯君が学校へ来てもどのみち話があったんじゃない、ただ話す場所が違うだけ……迷惑だって言われたらその時はその時だよ……)
 そう、何度も自分に言い聞かせて私は唯君の家まで歩いた。学校から彼の家までは、さほど遠くはない。さらには私が色々考え込んでいたせいもあってか、なんだかいつもより早く唯君の家に着いたような気がした。
 何度来ても、この家の持つ独特の雰囲気は変わらない。相変わらず人のいなさそうな感じのする家だと、彼の家へ着いた私は思った。
 外から見えるリビングのカーテンは閉ざされたまま、中の様子など到底伺えない。郵便受けには新聞や手紙のようなものが溜まっていて、半分飛び出した状態だ。それを見ると余計に嫌な予感がした。
 もしかしたら家には誰もいなくて、唯君はどこかへ連れて行かれてしまったんじゃないかと不安ばかりが募っていく。考えることのなにもかもが悪い方向にしかいかない。
 半ばハラハラとしてきた私は彼の部屋のある二階へ視線を上げる。しかし、そこで不自然なことに気が付いた。
 唯君の部屋の窓が開いているのだ。
 こんなに寒いのに、窓が全開。時折中へ入っていく風が部屋のカーテンを靡かせている。なんで開いているんだろうと、気になってしょうがない。
 私は彼の家の門扉を開くと、玄関のドアの前に立った。彼の家へ来たのは、これが四回目だった。
(お願い……唯君に会わせて……)
 そう願ってインターフォンをゆっくりと押すと、家の中でインターフォンの鳴っている音が小さく聞こえる。けれども、それに気が付いてこちらへ近づいてくるような足音は、何も聞こえない。それどころか物音すら無かった。
 やっぱり留守かと思ったが、それなら二階の唯君の部屋の窓は一体なんなのだろう。ただの閉め忘れとでも言うのだろうか。
 考えれば考えるほど唯君が心配になってインターフォンをもう一度押したけれど、やっぱり中からは何の反応も返ってこなかった。
(唯君……)
 行く前に一度、学校から唯君の携帯にかけたけれど、やはり不通だった。メールも、一向に返ってくる様子がない。それなのに彼の部屋の窓は開いていて、なんだか誰かいそうな感じがした。
 私は、ゆっくりと玄関のドアノブを下に押して、引く。鍵がかかっていれば引こうとしても開かないはずだ。そうだったら諦めるしかない。
 だが、私が思っていたとおり、やっぱり玄関のドアには鍵がかかっていなかった。あの日と同じ。
 なんて不用心なんだろうと思った。そしてそれと同時に、もしかしてこれは故意に開けられているんじゃないかと勘繰ってしまう。
 とにかく、そうして開いたドアの先、広がっていたのはあの日と全く変わらない彼の家。カーテンで外からの光が全て遮断されているせいか、家の中はとても暗い。
「すみません」
 割と大きな声でそう言ったけれど、何の返答もない。物音一つしない家。もう夕方だから外は薄暗くなってきているけど、この家の中はまるで真っ暗で不気味ささえ感じる。
「唯君……?」
 ドキドキしながら彼の名前を呼んだけど、当然返事など無かった。
 それでも、あの開かれた唯君の部屋の窓がどうしても気になって、私は靴を脱いで唯君の家へ上がった。許可もなく勝手に他人の家にあがるなんて、してはいけないことだと分かっていたけれど、それよりも唯君のことが気になって仕方ないという気持ちの方が私の中では勝っていた。
 突然学校を休んで、音信不通になって、唯君に何かあったのではないかと。とても嫌な予感がする。
 玄関を上がってすぐに二階への階段があり、そこをゆっくりと上がっていくと、二階には三部屋。そのうちの一つが彼の部屋だった。
 唯君の部屋のドアの前まできて、私は一つ息を吐く。
 そして少し震えている手で、ゆっくりと彼の部屋のドアを叩いた。
「唯君……、私……真奈美だけど……」
 中にいるかもしれない彼に聞こえるように口にしたが、何も返ってこない。私はもう一度、ドアをノックした。
「ねぇ唯君……いる? ……入っても良い……?」
 なにも返事がなかったから尚更不安になってきて、私は意を決して彼の部屋のドアを開けた。前来た時に、彼の部屋のドアには鍵がついてないことは分かっていた。
 ガチャ、という軽い音とともに開けた先、彼の部屋を見て、私は愕然とした。
 不安は的中して、私が想像していた最悪の事態は現実のものとなった。
 フローリングの床が見えなくなるくらい、部屋中に散乱していたもの。
 それは写真だった。全部唯君が両親と撮ったもの。産まれたばかりの頃から中学に至るまで、全ての写真だろうか。それが、その部屋には散らばっていた。
 そして誰かと争ったような後が残る、散らかった部屋。本棚に入っていた本も、机の上に置かれていたらしいペン立てやライトも、全てが部屋中に散乱していた。以前来たとき綺麗に整えられていた彼の部屋は、今や見るも無惨な形で荒らされている。
 そしてそんな部屋に、彼は、唯君はいた。
 部屋の隅の床に倒れていた。服は一切纏っていないようで、身体の上から一枚毛布がかけられているだけの状態。意識は無く、幾度か殴られたように頬は腫れていて、口の中を切ったのだろう、口元に若干だが血が滲んでいた。
 彼は人形のように、力無くそこに横たわっていた。
「唯君っ!?」
 生きているのかも疑うほどに危うい状態の彼を前に、驚きのあまりに目的すら忘れて、私は急いで彼に駆け寄った。
「唯君!? ねぇしっかりして、唯く」
 彼の身体を抱き起こすと、その拍子に彼の身体にかけられていた毛布がはだける。毛布に隠されていた彼の身体、そしてそこに残る生々しい暴力の痕跡を見て、私は思わず喉を鳴らした。
(なに……これ……?)
 蹴られたのか、殴られたのか、酷い痣の数だった。手酷く暴力を振るわれたのがよく分かるほどに。両方の手首は細い紐で幾重にも渡って固く結ばれており、激しく抵抗したのだろう、擦り傷ができ、紐が皮膚に食い込んで血をにじませていた。
「……ッ……」
 それを見てとっさに私は毛布で彼の身体を包んで、強く彼を抱きしめた。
 瞳に熱いものがこみ上げて、涙が零れた。
「ど、……して……っ」
 どうしてこんなことになったのかなんて、そんなのは今更だった。
 彼の父親がすでにおかしくなっていたから。そして唯君が今まで誰にも、それを打ち明けていなかったから。
 だからこそ、本当はもっと早くに彼を助けてあげなければならなかったのだ。こんなことになる前に。
 もっと早くに気づいてあげれば良かった。一昨日のあの日、彼に何を言われようとも私は彼を引き留めるべきだったんだ。彼を家に帰してはいけなかったんだ。
 そんなこと、分かっていたのに。
(……違う……私はやっぱり分かっていなかったんだ……)
 彼が平然と笑っていたから?
 「大丈夫」って言っていたから?
 そんなの彼の性格から考えても強がりだって分かっていたのに。彼の嘘を前に私は自分の意志を見失って、唯君を家に帰してしまった。さらに挙げ句の果てには「明日もう一度話せれば」などと呑気なことを思って。そして彼が学校を休んだ一日目も二日目も、私はどこか悠長に構えていた。
 そんな余裕なんて、彼には無かったのに。
 彼の身に起こっていることを知っていながらも、やっぱり私は分かっていなかったのだ。彼は私のことをちゃんと考えていてくれたのに。関わらせないようにと。
「ふっ……ううっ……」
 何もしてあげられなかった自分が悔しくて、涙が溢れていく。嗚咽混じりに泣きながらも、私はギュッと彼を抱きしめていた。
「ごめんなさい、……っめんな、さ……っ、唯君……ごめんなさい……っ」
 惨い現実を前に、自分はあまりに無力だった。
 唯君の側にいると心に決めていたのに、彼の嘘一つでその決心を鈍らせて。本当に、役立たずな自分。
「……だれ……?」
 私の声で意識が戻ったのか、うっすらと瞳を開いている彼が私を見てそう言った。掠れた、力のない声だった。
 私はただ泣いて、ぼたぼたと涙がこぼれて彼の頬を涙が滑る。
「……ぇっ……ッ、ごめ、なさい……」
「藤森……? ……なんで泣いてるの?」
 私の名前を呼んだ後、彼は優しくそう尋ねてきた。小さな声で。
 だけどそれだけでも十分なほどに、私には届いた。彼の少し枯れた弱々しい声。それが余計に悲しくて、心に響いて、私は尚更嗚咽を漏らした。
「なにも、……っなにも、してあげられなく……て、ごめ、んなさ……」
「……? ……ごめん藤森、何のこと言ってるのかよく分からない……」
 虚ろながらも怪訝な顔をして、唯君が私に向かって手を伸ばす。
 しかし、拘束されているような感覚に違和感を覚えたのか、彼の視線は紐で戒められている自身の両手へ向かう。しばらくそれを見つめて、悟ったように唯君は小さく笑った。
「ああ、そっか……見られちゃったんだ……」
 慌てることもなく、静かにそう一言だけ。
「……良いことなんて何もないから関わらない方が良いって言ったのに……また来たんだ」
 懲りないね。と、唯君は笑った。
 私は、そんな彼に何度も何度も謝っていた。力になれなくてごめんなさい、と。傷ついた痛々しい身体を抱きしめながら、小さな子供のように泣きじゃくっていた。
「今は……今はこんなことになっちゃったけど、……前は、本当に優しい人だったんだ……」
「……っ」
「俺が言ったって、信じてもらえないかもしれないけど……」
 弱々しくそう言ってくる彼が切なくて、胸が苦しくてたまらなかった。
 私に出来ることなんて、こうして彼の傍にいて、抱きしめて、悲しみを分かってあげることぐらいしか思い浮かばない。
 あと一つあるとすれば、謝ることぐらいしか。
「……ごめんなさい……」
「……なにが……出来るっていうんだよ、藤森に」
 強く彼を抱きしめていると、耳元で、彼が絞り出したような声でそう言ったのが聞こえた。
「教えてよ、藤森に一体何が出来るのか。……俺だってどうすればいいのか分からないのに……。そんなのあるわけない……出来ることなんて何もないだろ……!?」
 彼の顔は私からは見えない、けれどもその震えている声で、なんとなく分かった。
 辛くて悲しい時、一人では耐えられない時なんて誰にだってある。そういう時、彼が本音をこぼせる相手に、なってあげたかった。
「行くとこだってどこにもない、俺の居場所はここしかないんだよ……ッ。……学校でだって、こんなこと誰に相談しろっていうんだよ……出来るわけないのに」
「ごめんね……」
「もう……分からないんだ、全部……。なにも……なにも考えたくない……」
 お互いの心の距離は、まだあの日のまま。遠いまま。
 けれども、手を伸ばせば簡単に抱きしめてあげることが出来る、そんな近いところに、彼はいた。