第5話 光と闇の境界線 |
彼の胸の中は、温かかった。口から出る言葉やその口調とは真逆で、とても温かかった。私の唇に直に触れた彼の唇も、とても優しくて、心地良くて、酔ってしまいそうなほど。 なぜ急に唯君がこんなことをしたのか分からなかった。けれど本来なら抵抗したはずの私の身体は動かずに、その心と体は拒むことなく彼を受け入れていた。 そしてその日以来、唯君は私に話しかけることも、身体を要求することもしなくなった。 ◆ 「唯ー、今週の日曜日カラオケ行こうよみんなでさー」 クラスの女子の中で一番目立つグループにいた一人、紺野さんが唯君にそう言っていたのが聞こえた。 紺野さん。下の名前はつばさ。紺野つばさという、唯君と同じくクラスの級長をやっている女の子だ。長くてさらさらとした綺麗な髪の毛にぱっちりとした二重の瞳、スタイルもよくて一見かなりの美少女。性格も私とは違って明るくて元気で、誰にでも気さくな所が周りから好かれていた。 彼女は唯君といつも一緒にいて、楽しくおしゃべりをしているメンバーのうちの一人。学年間でも有名なことだが、彼女は唯君のことが好きなのだ。でも付き合っているという話だけは聞かないし、当の唯君がどう思っているのかは知らないけれど、紺野さんの気持ちだけは大抵の人は知っていた。というか、見てれば分かるというくらい、紺野さんの唯君に対する想いは強かった。 今はまだ友達同士らしいけど、そう遠くない先この二人は付き合うんだろうと、大抵の人は思っているだろう。もちろん私も以前はそう思っていた。二人はお似合いだと。 「カラオケ?」 「そー、前から誘ってたじゃん。行こうよーっ」 唯君は基本的に誰とでも仲良くするから、友達がすごく多いのは言うまでもなかった。彼が色んな人から誘われてるところはよく見かけるし、別に珍しいことではない。 「ねぇいいでしょ?」 「んー……。そうだな、最近つばさと行ってなかったし、いいよ」 唯君はしばらく考えていたようだったけど、その後二つ返事でOKしていた。それを聞いた紺野さんがとても嬉しそうにバンザイをしている姿がとても可愛らしく私の瞳に映る。 「やったやったー!! ねぇねぇデュエットもしようねっ、私唯と歌いたいやつがいっぱいあるのっ! 唯上手いから一緒に歌うのすっごく楽しみー! やっぱカラオケ行くなら唯とだよねぇ」 紺野さんがすごく喜んでいるのを見て、二人の周りに何人かクラスメイトが集まってくる。 「えっ、なに2人ともカラオケ行くの? 俺も行きてぇなー」 「つばさー、私も一緒に行っていい?」 「私も私も」 6、7人くらいが口々にそう言う中、紺野さんは嫌がることなくニッコリ微笑んでいる。 「うんっ、いいよ。みんなで行こうよ! 大勢の方が楽しいしー、ねぇ唯?」 そんな、ワイワイと盛り上がっている教室の一郭を恨めがましく見つめながら、私はもどかしくてたまらなかった。思わずギュッと、手を握りしめてしまう。 唯君が私を無視するようになって早くも1週間が過ぎていた。あの日以来、彼は私と全く口を聞いてくれなくなった。私が話しかける隙すら与えない、それどころか、目も合わせてくれない。まるで私は彼の視界には全く入ってない、存在すらないような扱いだった。 どうしてこんな風になったんだろう、もうわけが分からないよ。唯君がどうしてあの日私を抱きしめてキスしたのか、今私を無視するのか、全てがもうわからない。 唯君にとって、あの日のことは全部無かった事になっているの? ◆ 「次の時間ってなんだったっけ?」 化学の授業を終えて頼子と教室に戻っている途中、彼女があくびをしながら訊いてくる。 「次? 確か国語だったと思うよ」 「あー国語ね、やだなぁ……。忠夫って色々うるさいじゃん? しかもあの口臭はほんっとヤバイと思うわけよ、もう近づかないで欲しいもん私」 「そうだね。──あっ、私ちょっと化学室に忘れ物しちゃったみたい。ごめん頼子、先に教室戻ってて」 「私も着いていこっか?」 「ううん大丈夫、すぐに終わるから」 タイミングを見計らって私はわざと頼子にそう告げると、もと来た道を走っていく。忘れものなどしていない。私が化学室へ戻るのは、ある理由があったのだ。 それは化学室の実験用具の片づけ。今日当番の子が学校を休んでいたために、唯君が仕事を引き受けていたのをさっき偶然聞いた。だから今、誰もいなくなったはずの化学室で唯君が道具の片づけをしているはずなのだ。彼が話す機会を作ってくれないのであれば、私から作らなくてはいけない。とにかく唯君と二人で話したかった。あの日のことを、訊きたかった。 この時の私はただ、それだけだけしか考えていなかったのだ。 ◆ 「悪いなつばさ、手伝ってもらって」 「いーって。なんか唯ってば毎回大変そうだし。私もこの間ノート見せてもらったから、おあいこ。それに日曜日はとことん付き合ってもらっちゃうから!」 化学室へ着くと、その中から唯君と誰かの話し声が聞こえてとっさにドアの前で足を止めた。てっきり唯君一人だと思いこんでいた私は驚いて、ドアを少し開けて中の様子を伺うことにする。ドアの隙間から見えた化学室、そこに広がっていた光景は意外なものだった。 唯君の横で紺野さんが試験管やビーカー洗いを手伝っていたのだ。彼女は手際よく実験に使った試験管を片づけていく中、唯君に向かって口を開いた。 「急にこんなこと言うのもなんだけどさ、唯、もうちょっと肩の力抜いた方がいいんじゃない?」 「え?」 「唯はちょっと人が良すぎるよ。なんでもかんでも頼まれたら引き受けちゃって。そうじゃなくてもこうやって誰かの仕事を率先して引き受けたりしてさ」 ああ、私以外にも唯君のことをそんな風に思っている人がいたんだ。私がずっと思っていたことを紺野さんはあんなにも簡単に唯君に伝えてしまう。唯君の一番傍にいる女の子は、他の誰でもない彼女なのだ。そういうことを改めて感じてしまうくらいに、それは私に衝撃を与えた。 そんな紺野さんの言ったことに対して唯君は少し笑っているようだった。 「前からそうしてたから癖になってんだよ。でも無理な時は断ってるって」 「まぁでも、みんなから頼りにされて慕われてるからいいけどね。普通だったらただのパシリなんだからね」 二人の会話を盗み聞きしながら、私はどこか苦痛を感じていた。私も唯君とあんな風に話したいのに、彼は私に対して今はとても冷たい。私だって前はあんな風に唯君に微笑んでもらえていた、だけど今は違う。 なんだか仲間はずれにされたような気分になって、そのまま二人の会話を聞くのも辛くなり教室へ戻ろうとしたけれど、どうしても二人の会話が気になってしまってしょうがない。聞きたくないのに、気になってしまうのだ。 「ねぇ分かってるの? 唯ってば」 「ごめん。つばさがそんな気にしてくれてたの知らなかったから」 「私はいつだって唯のこと気にしてるんだから。でもね、そういうみんなに優しい唯に私は惚れたんだけどさ」 紺野さんの何気ない告白に、私は全身が凍り付いて硬直した。今、紺野さんは唯君に向かってなんと言った? そして唯君も、私と同じように少し驚いて紺野さんを見つめていた。まさかそんな事を言われるなんて思っていなかったのだろう。だけどその表情はすぐに変わり、いつもの優しい微笑みを零す。 「うん、俺もつばさのそういう優しいところは好きだよ」 「唯って分かってるくせにそう言うところが意地悪。いつまでそんな風に私のこと友達扱いするの?」 「俺にとってつばさは女友達だよ、これからもずっと」 あんなに可愛くて、自分のことをよく見て気遣ってくれる優しい子に告白されてもなお唯君は平然と紺野さんにそう返す。唯君にとって紺野さんは女友達でしかない、彼の口から直接その言葉が出た時、心なしか私の胸は少し安堵していた。 紺野さんは、唯君の優しいが断固とした強い言葉に負けじと彼を見つめる。 「私は唯のこと好きだよ。昔も今も、この先もずっと変わらない。唯のことだけ見てる」 「つばさは本当に良いヤツだよ。でも俺前から言ってたよな、つばさとはつき合えないって小学生の頃からずっと」 「じゃあ今日が何回目の告白か覚えてる?」 「……16回目」 「そんな風に覚えてくれてるってことは私のことを意識してくれてるからなんじゃないの? 違う?」 流石紺野さんというべきところか。強気で熱烈な発言に聞いているこっちがドキドキしてくる。でも告白されている当の唯君は全く動揺などせずに平然とした様子で彼女の前に立っていた。 「違うよ。つばさの事を意識したことなんて今まで一度もない。だからつき合えない」 「それだけじゃ納得出来ないよ……。だって唯今まで好きな子が出来たこともつき合ったこともないって言うし……私は唯の一番になりたいんだもん……」 こんな大事な話、何の関係もない第三者の私が聞いていいわけない。けれどこの会話を聞くことで、紺野さんがどれだけ唯君のことを想っているのかが痛いくらいによく伝わってきた。だからこそ尚更胸が痛い。 「小学校1年の時こっちに転校してきて、内気で暗くていつも一人だった私に一番最初に話しかけてくれて、友達になってくれたのは唯だよ。あの時から私には唯だけだよ……?」 「つばさ」 「唯の傍にいたいの……」 お互いに向き合い、ただでさえ近かった距離は紺野さんが急接近したことによって更に縮まる。そして大胆にも紺野さんは唯君の首に両腕を回して抱きつき、そっと口づけをしたのだ。私の瞳に焼き付いたのは、二人の唇が重なった瞬間だった。 「……あ……」 不自然な小さな声がぽろりと、私の口から漏れた。小さな声であったため中にいる二人は気づかなかったのが幸いだった。いてもたってもいられなくなって、出来ればすぐにこの場から立ち去ってしまいたかったのに私の足はそれを許さないかのように動いてはくれなかった。そのまま私はジッと食い入るように、二人を見つめていることしか出来ない。 ドアのところで立ちつくしている私の姿に唯君が気づいたのはそれからすぐのことだった。紺野さんからのキスを拒むことなく受けながらも、私の存在に気づき驚きで見開いた彼の瞳がこちらに向けられている。 しかしそれもつかの間、すぐに冷静さを取り戻した彼の瞳が一瞬、嘲笑したように見えた。まるでからかわれたような感じがしてカァッと顔が熱を帯びる。 最初こそ紺野さんからの一方的なキスだったけど、次の瞬間唯君が紺野さんを抱きしめて、さらに求めるように深くキスをする。それはまるで、私に見せつけるかのように。 身体全体に衝撃を受けたような、全てをズタズタにされた気分だった。 紺野さんの突然のキスを唯君は難なく受け入れて、私に見せるように更に深く彼女に口づけをする。恋人同士のような、情熱的なキス。それは数十秒続いたけれど、やがて苦しくなったのか紺野さんが身じろぎした。 「んっ……、……ゆい……っ」 口を放して、紺野さんが甘い声をあげて彼の名前を紡いだ。吐息を含んだような声。それだけでそのキスがどれだけ優しいものだったか分かってしまうほどに、彼女の声は甘く響いた。紺野さんは頬を紅潮させて、しばらく余韻を楽しむかのようにボーッとしていたが、やがて我に返ったように自分の唇に触れた。 「……まさか乗ってくれるなんて思わなかった……」 「俺もまさかつばさがこういうことしてくるなんて思わなかった」 「唯、あのね私」 「誰か覗いてるみたいだから、話の続きはまた今度」 唯君がそう言うから、今まで全然気づいてなかった紺野さんがハッと振り返ってドアの所に立ち竦んでいた私を見つけた。お互いの目が合った途端、彼女は顔を真っ赤にさせて慌てだす。 「あっ! ちょっ、藤森さんそこにいたのなら声掛けてくれればよかったのに……っ! あ、あはは……、じゃ、じゃあ唯また後でねっ」 照れながらも、嬉しそうにそう言う彼女が私には可愛らしく見える。私に一部始終見られていたことにすっかり取り乱して紺野さんは顔を赤くさせながらも走ってその場を後にした。 紺野さんがいなくなったことでようやく足を踏み入れることが出来た化学室。私に何も言うことなく残りの用具片づけを手際よく済ませていく唯君を見て、私はポソリと呟くように声を掛けた。 「唯君……」 けれど、私が声をかけても彼は何も言ってくれない。まるで聞こえてないみたいに頑なに無視をして片づけに専念していた。そんな彼の行動は、私の胸に軋みと痛みを与える。 「どうして無視するの……?」 再度話しかけたが、やっぱり唯君は何も言ってこようとしない。しまいには一通り片づけを終えると手を洗って私の横を素通りし、化学室を出て行こうとさえしてしまう。また私から逃げようとするのだ。 「待って!」 せっかく二人きりで話せるチャンスなのに、これを逃したら彼は今よりも更に私を避けるかも知れない。そんなことを思いながら一人で必至になって、ギュッと彼の腕を掴んだ。 「……どうして避けるの」 「別に避けてないよ」 それは1週間ぶりに聞いた、私に向かって放たれた彼の言葉。それを聞いて私は驚いた。返答してくれたことに関してもだが、彼の口から出たその声や口調は、前の優しかった彼のものだったから。1週間前までの冷たかった彼ではなく、前の優しかった彼のもの。 「……嘘。避けてるでしょ? 私のこと……」 「避けてないって。藤森どうしたの急に」 くるりと振り返った唯君は、私を見て困ったように苦笑した。そんな苦笑する彼の姿すら懐かしくて、でも、それでも彼のそれはまるで仮面を付けているかのようにぎこちなく感じて悲しい。 「どうしたの急に」だなんて、それはこっちの台詞だ。唯君こそ、どうしてそんなに急に態度を変えたんだろう。この間までは冷たかったくせに、酷いことしたくせに。違和感を覚えるほどに変化する彼に耐えられなくなった私は、手の平が切れるんじゃないかというほどギュッと強く拳を握り締めた。 「……も、……無理だよ……わからない……ッ……全然分からないよ唯君!!」 「藤森?」 彼の両腕を強く掴んで、私は声を張り上げて彼に訴えた。どうしてこんなに必至になっているのか、自分でもよく分からない。 「ねぇどうして!? お願い本当のこと言ってよ……ッ! 唯君……」 最後の方は涙が込み上げてきたため綺麗に言葉にならなくて、若干だが震えていた。だが、縋るように掴んでいた私の手に彼の手がそっと触れて、突き放すように拒否される。 「もうおしまい」 目尻に涙を溜めて私は、そう残酷に言い放った彼を見つめた。 「……おしまい……?」 おしまいとは、どういうことなんだろう。不可解な言葉に呆然と唯君を見つめていた私を、彼は皮肉に嘲笑する。 「もう飽きたから、いらないってことだよ」 飽きたからいらない。その言葉はナイフのように心を抉って、怪我をしているわけでもないのに痛みが走った。それは信じられない台詞だった。 「……飽き、た……?」 「そう。だからもう俺に構わないでもらいたいんだけど」 笑んでいる顔とは裏腹に言葉は刺々しくて、一つ一つが私に突き刺さっていく。そんな中浮かび上がったのは、さっきキスをしていた紺野さんの姿だった。私の時と同じように、唯君は彼女にキスをしていた。だからこの間の私とのキスは唯君にとっては誰でも良いものだったんだ。 「……今度は……紺野さんなの……?」 「さぁ。でもお前よりもつばさのがまだマシだ」 「……ひどい……」 「そんなの最初に犯られた時に気づいてただろ。酷い、最低なヤツだって。人前では良い子ぶってて、本当は歪みまくった汚れた人間だって。そんなこと分かってるくせになんでそんなに知ろうとするのか俺の方が分かんないよ」 そう言って微笑む彼の顔は背筋が凍るほど冷たく感じる。笑っているのに、怖いとさえ思う。 「じゃあ、あの日私を抱きしめてキスしたのは、……遊びだったの?」 あの時は、本当に彼にとっては誰でもよかったのかもしれない。誰でも良かった。けれど、抱きしめて、キスをして、それには理由などなかったのだろうか。本当は、誰かに分かって欲しくて、縋りたくて、辛くてたまらなかったからなんじゃないのか。 私は理由が知りたいのだ。どうしてこんなことになったのか。唯君がなにか大切なことを隠しているような気がしたから。 「教えて。……私を、からかっただけだった?」 「──藤も」 「おい唯! 小城先生がお前のこと探してー……って、藤森……」 唯君が何か言おうとしたのを遮るように化学室へやってきたのは北川君で、彼はそこにいた唯君と私を見てビックリしたように声をあげた。あからさまに「しまった」というような顔をしている。 「なんだ……藤森も一緒だったのか……」 明らかに動揺している北川君だったが、唯君の方は動揺一つ見せない冷静な態度で北川君を見た。 「小城先生が? 職員室?」 「あ、あぁ。そうだけど……」 それを聞くと、唯君は私を置いてさっさと化学室を出て行ってしまった。大事なことだったのに返答を聞くことが出来ず、残された私はぽつんとその場に立ち竦んでしまう。北川君は私を見ながら気まずそうに頭を掻いてこちらへ歩み寄ってきた。 「わり……邪魔したみたいで」 「っ……いいの。……気にしないで」 こんな情けない姿を見せるわけにもいかず慌てて涙を拭うと、北川君は更に困って顔を歪めている。 「どうしたんだよ、んな浮かない顔してさ」 「なんでもないよ……」 「……唯になんか言われたか?」 「……ッ……」 プツッと緊張の糸が解けたみたいに、涙腺が緩んで涙が出てきた。堪えることが出来なかった。突然私が泣き出してしまうものだから、北川君がすごく驚いて急にあたふたと焦りだす。 「ちょ、えっ、……ふ、藤森……!?」 「ぅっ……」 「……藤森」 両手で涙を拭ってもそれは止まらなくて、小さな嗚咽を漏らしながら私は泣いていた。さっきから胸が苦しくてたまらない。唯君のことを考えれば考えるほど分からなくなって。彼を知れば知るほど、貴方は私を突き放してしまう。心では傷つきたくないと思いながらも、私は彼のことが気になって仕方なかった。 どうして私の胸はこんなにも痛いんだろう。その理由すら、今はまだ分からない。 ◆ 家に着く頃には、辺りはすっかり真っ暗になっていた。 一緒に遊んでいた友人と別れて家へ帰ると、家政婦の佐上さんが夕食を作って待っていてくれた。けれども食欲が湧かなくて、佐上さんに一言謝ると彼女は、「それじゃあラップをかけておくから、後でお腹がすいたらレンジで温めてちょうだいね」と優しく微笑んで、帰る支度を整える。彼女は随分前から雇っていて、週に二回ほど来てくれる家政婦だ。朝から家へやってきて家事を一通りやって、大体夕食を作った後に帰ってしまう。 普段ならきちんと口にする夕食だったが、今日は酷く疲れて何も食べたくなかった。部屋に入るなりそのままベッドへ倒れ込んで仰向けになると、制服のネクタイを緩め、一息吐く。 『……も、……無理だよ……わからない……ッ……全然分からないよ唯君!!』 目を閉じても頭の中に浮かぶのは彼女のことだけ。藤森が涙を流しながら言っていた叫びが、頭から離れなかった。 あの後藤森と北川は教室へ戻ってくることなく次の授業をサボって、そのせいでクラスの何人かが「あの二人付き合ってるんじゃないか」とか、ありもしないことを話しながら盛り上がっていた。 北川はお人好しだ、誰に対しても優しい。だからどうせ泣いている藤森を励ますなりなんなりしているんだろうと、なんとなくだが想像はついた。だが、それを考えるとなにか無性に腹立たしくなってくる。これ以上考えてもむかついてくるだけだ。もう考えるのは止めようと、ベッドから起きあがり先ほど緩めたネクタイを解いた。出来るだけ藤森のことは考えない方が良い。 けれど、着替えようとワイシャツを脱いでいた手が反射的に止まった。露わになった自分の肌に、目を留めて。 「……」 鏡越しに映った自分の身体を見ても、もう嘲笑しか零れなかった。数カ所にわたって執拗に付けられた、赤い痕。男女間の場合ならキスマークとか、所有印だとか言ったりするけど、自分の身体にあるのも大して意味は変わらないんだろうか。 「……気持ち悪い……」 最初からこれは『異常』なのだと分かっているからこそ、誰にも言えるわけがない。誰かに分かってもらおうなんてことも思ってない、絶対誰も分かりはしないから。こんな気持ちの悪いことを言ったって軽蔑されるのがオチだ。 けれどもそんな固い決意の中、あの時抱きしめ返してくれた彼女の胸は温かかった。そして彼女の言葉はすんなりと自分の中に入ってきた。嫌悪もなにも感じることなく、自然と。 『じゃあ、あの日私を抱きしめてキスしたのは、……遊びだったの?』 違う。あれは遊びなんかじゃなかった。あまりにも彼女が愚かで、こんな男の事を気にしてくれてるのが馬鹿みたいで心の中で嘲笑していたけど、嬉しかったんだ。こんなにも酷いことをしたやつのことなんて、一体誰が心配するというんだろう。そんな優しさを、俺になんて向けなくていいのに。好きなだけ罵って、侮蔑してくれればいい。汚れた人間なのだと見捨てて欲しい。そうすることで自分の気持ちは少しだけど楽になることが出来る。 真実なんて、彼女が知る必要など無い。 それはこの先どれだけの時間が流れようとも、自分がどれだけの人と出会おうとも、絶対相容れることはない自分と他人の境界線。 |