第6話 涙の理由


 私は夜あまり眠れない。きっとそれは唯君とのことがあってからだ。
 珍しく深く眠ることが出来たかと思えば、夢にですら彼が出てくる。さらにそれは決まって、まだ私が唯君のことをよく分かっていなかった頃の優しかった彼。唯君が私に優しくしてくれた時の出来事。
 身体だけじゃなく、心まで侵されているんじゃないかと自分でも思った。それくらい私は病的なまでに唯君のことを考えてしまっていたから。
 この日も深い眠りにおちることなく浅いまま、私は5時頃に目を覚ました。
「……朝」
 カーテンの閉まっている窓に目をやると、まだ外は薄暗いのか、光は差し込んできていない。しばらく霞んだ意識の中でボーッとしていたけれど、次第に頭が冴えてくると重い身体を起こす。以前ならば二度寝してしまうくらいに眠くて布団から出るのすら嫌だったが、今はそんな気分にもならない。第一、眠くない。
『──もうおしまい。』
 昨日彼が私に言ったのだ。「飽きたからもういらない」と。今まであんな酷いことをしておいて、なのに突然私を突き放すように言い放ったあの時の彼は残酷だった。
 どうして急にそんなことを言ったんだろう。自分の見せたくなかった姿を私に見られてしまったから? あの日、唯君の部屋での出来事はそんなにも重要な意味があったというのか。全てが私の中で謎のまま散りばめられている。
 唯君は自分からは何も話そうとしてくれない。だから分からない。人の心を簡単に読むことが出来ればいいのにと何度も思うけど、そんなこと出来るわけがない。
 どうしていいのか自分でも分からず情けなくなって少し笑うと、自然と涙が零れた。胸が苦しくて、仕方なかった。



 いつもより1時間も早く身支度を整えて、私は学校へ向かっていた。早すぎると言っても過言ではないくらいの時間に家を後にして学校へ向かっているせいか、その道にはまだ学校へ向かうらしき人は誰もいない。それがいつもと違ってなんだか新鮮で、少し落ち着いた。
 1時間も早く家を出たのだから当然、1時間早く学校へ着いた。朝のHRが始まるまでにまだ十分すぎるほどに余裕がある。校内へ入ったが、まだ静かだった。先生達が来ているであろうが、まるで自分一人しかいないような気分になるくらいにしんと静まりかえっている。グラウンドは部活の朝練中で人がいたが、校内は未だ静か。
 廊下を歩き、階段を上って自分の教室のある3階へ向かう。ものすごく早く来たから、まだ教室には誰もいないだろう。時間が大分あるから昨日図書室から借りてきた本でも読もう。そう思いながら、教室のドアを開いた。
「あ」
 誰もいないと思って開いたドアの先には、すでに人の姿があった。一人だけ。私がドアを開く音と共に、その人の黒い双眸が私を射る。
「唯君……」
 もう来てたんだ。と心の中で思って、さっきまで落ち着いていたはずの胸がドキドキと鼓動を早くしていく。彼を見ると私は平常心でいられなくなって、妙に緊張が走るのだ。
 当の唯君は私と目があっても何も言わずに、すぐに視線を机へ戻すとプリントにペンを立て始める。それは昨日出された英語の課題らしく、唯君が課題を忘れるなんて珍しいと私は少し疑問に思った。
 相変わらずドキドキと緊張する中、私は唯君の席に歩み寄って声をかけた。
「……唯君、おはよう……」
 当然のように、彼からの返答はない。
 昨日「もう関わらないで」と言ったように、彼は私を無視し続けるのだろう。それを十分分かっていたから私は一番後ろの窓際にある自分の席について、机の横に鞄をかけた。しんと静まりかえった教室の中では、椅子や机が軋む音一つ一つにすら敏感に身体が反応する。唯君は私のことなんて気にもせずに黙々とプリントをしていた。当然のことながら、彼が話しかけてくることはない。
「あの、……唯君。早いね、学校来るの……」
 やっぱり彼は何も言ってくれなくて、まるで独り言になってしまった私は次第に虚しくなってきてしまった。廊下側の窓や扉が完全に閉まっている教室の中、私は立ち上がって唯君に歩み寄る。
 どういった心境の変化なのか自分でも分からない。初めはあんなに彼が怖かったのに、今はほとんど恐怖なんてものはなかった。
 それよりも、このまま何も分からないまま彼との関係を終わらせたくないとさえ思っていたのだ。
「唯君……」
 彼の横から声を掛けると、唯君の手がピタリと止まった。けれど、その口は頑なに閉ざされたまま、言葉を紡ぐことはない。とりあえず私の声は彼にちゃんと届いていたことに安心して、私は更に彼に話しかけた。
 それは昨日の、唯君が化学室を出て行ってしまう直前に私が彼に尋ねた問いかけ。
「昨日の答え……聞かせてくれる……? ……私とのことは全部遊びだったの……?」
 口から出る声はまだ不安定でぎこちない。けれどどうしても彼と話したくて本当のことが知りたくて、私は必死になっていた。そんな私に対して唯君は一つ息を吐き手に持っていたシャーペンを置くと、自らの顔をあげて私を見つめた。
 少し大きめの、黒い瞳がこちらを見ている。
 ちょっと前までそれは優しい雰囲気を持つ穏やかな瞳だと思っていたが、今彼の瞳を見ても同じことは思えない。今の私の目から見える彼の瞳は、なんだかとても寂しそうで、悲しい色をしているように見えた。
 そしてそんな彼の口元が、ニッと笑みの形を作る。
「『全部遊びだった』って、そう言えば満足する?」
「満足……?」
 ようやく口を開いた彼が発した言葉は、やはり不可解なものだった。そんな返答を待っていたわけではなかったのに。
「満足するとか……そういうことじゃない……。私が言いたいのは」
「ウザイよお前。大体昨日いらないって言っただろ、なんで構うわけ」
 ガタッと席から立ち上がると、彼はクスッと笑う。それには以前の優しさなど欠片ほども感じられない、今の彼の微笑みは嘲りと妖しさが混ざっている。
「それとも何、お前そんなに俺に犯されたい?」
 彼の手が気味悪いほどに優しく頬に触れて、私は不覚にも顔が火照った。唯君が私に触れた瞬間、ドキッとしたのだ。
「……違う!」
 このままでは唯君のペースだ。いつもみたいに動揺してはいけないんだと、分かっていても唯君の言葉の一つ一つに反応してしまう。
「昨日のつばさの時みたいにキスしてあげようか?」
 更に顔が熱を帯びていくのを唯君は楽しそうに眺めながら、私の顔を両手で固定して突然キスをしてくる。
「んんっ……!」
 私をからかうための冗談だと思っていたのに、まさか本当にしてくるとは。突然の口づけにビクッと身体が強ばった。唯君は時折角度を変えながら熱く口づけを交わして、少し開いた私の唇の間から舌を侵入させる。唯君は恋人も好きな人もいないと紺野さんが言っていたにも関わらず、彼のそれは不自然さを感じるほどに慣れたものだった。
 きっと私や紺野さんだけじゃない、他の子ともこんなことをしているのかもしれない。
「ぅん……っ、ん」
 隙間から私のくぐもった声がもれて、それでも彼のキスを受け入れてしまう。不思議なくらいに抵抗する気が起きなくて、互いの舌を絡め合いその熱さにうっとりしていた。昨日の紺野さんとのキスも、これぐらい熱いものだったのだろうか。彼にとってこれは遊びで、本気じゃないのだろうかと、唯君からのキスを受けながらもそんなことを頭の隅で考える。
 数十秒の長いキスの中、唯君はようやく私の口を解放した。あまりにも時間が長すぎて、慣れない私は力が抜けてそのまま床にへたり込んでしまう。
「っ、ぁ……ッ……」
「遊びだよ、これぐらい。」
 キスぐらいなんだというように、私の顎をグイッと掴んで持ち上げた彼は楽しそうに笑んだ。
「あの時はお前をからかっただけだ。それなのにまんまと騙されて心配とかして、ほんとにバカだよ藤森は」
「……唯く……っ……」
 苦しくて何度も呼吸を荒々しく繰り返す。そんな中で彼の名前を呼んだが、あまり上手く紡げなかった。
「そんなに俺のことが気になるんなら、帰りに俺んち寄れば? いつでも相手してやるから」
 そう言った唯君は微笑みを浮かべてこそいるけれど、それでもどこか彼の瞳は悲しそうな光を称えているように私の瞳に映った。



 二限目、英語の授業を終えて手に持ったシャーペンをクルクルと回し弄んでいた。「真奈美がそんなことをするのってキャラ的に合ってない」と頼子から言われたことがあるが、ついつい考え事をしているとペンを手にしてやってしまっているのだ。クセとも言える。
 朝の唯君との出来事がずっと頭の中にあって、ノートや教科書を机の上に置いたままボーっと考え事をしていた。
「藤森、昨日は大丈夫だったか?」
 そんなところへ声を掛けてきたのは北川君だった。私はハッとして顔をあげると、その拍子に手に持っていたシャーペンが机に落ち転がって、床に落ちる。今の衝撃で中に入っていた芯が折れなかっただろうかと、少しばかり気になった。
「あ、悪ぃ驚かせちゃって。──はい」
 床に落としてしまったシャーペンを拾って、北川君が苦笑する。私は一言お礼をしてペンを受け取った。
「ううん、私がボーっとしてたのがいけないから気にしないで。あと、昨日はありがとね。なんか付き合ってもらっちゃって……」
「いや全然いいよ。俺でよければ別に」
 北川君は本当に人の良さそうな微笑みをする。彼のその優しい言葉に、少し安心している自分がいた。
 昨日化学室で、しかも北川君の前で情けなくも泣いてしまった私は、あの後授業を受けることが出来なかった。授業が始まるまでに泣きやめなくて、落ち着くことも出来ずにその場でボロボロと泣いていた。そんな中意外にも北川君が「落ち着くまで少し休もう」と優しく提案してくれて、私はそれに甘えることにしたのだ。
 北川君は、私が落ち着くまで一緒にいてくれた。彼は優しいから気を遣ってくれたのだろう。
「……なんか恥ずかしいところ見せちゃった……。ほんとにごめんね。もう大丈夫だから」
「だからいいって、気にすんなよ。藤森が元気になったのならそれでいいし。それじゃ」
 そう言って唯君のところへ戻った彼は、周りにいる友達と再び楽しそうにおしゃべりを始める。そんな北川君をしばらく見つめていたけど、私は唯君のことが気になって、朝言った彼の言葉がずっと引っかかったままだった。
『あの時はお前をからかっただけだ。それなのにまんまと騙されて心配とかして、ほんとにバカだよ藤森は』
 あれは本当に彼の本心だったのだろうか。
 あの日、私を抱きしめた彼からは、騙してるとかからかってるとか、そんなものは全然感じられなかった。本当に辛そうだったのだ。彼の言ったこと、とった行動全てを鵜呑みにしてはいけないと思ってはいるが、どの言葉が本当でどの言葉が嘘なのか、確信が掴めない。
 どうすれば彼は本当のことを言ってくれるんだろう。一体唯君は何を隠してるのか。一体何に耐えているのか。もっともっと彼の事が知りたいと欲は膨らむばかり。
『そんなに俺のことが気になるんなら、帰りに俺んち寄れば? いつでも相手してやるから』
 彼の誘いに安易に乗ってはいけない。危険すぎる。行けばやられることは一つしかない。これ以上傷つきたくないのなら行かない方がいい、金輪際彼にも関わらない方が良い。唯君はもう自分には飽きたからいらないと言ったのだ。行くことなどない。
 だけど胸の奥にひっかかっているものがその考えを邪魔していた。あんな酷いことをされてもなお、泣かされてもなお、私の中には前の優しかった唯君がいる。
 階段から落ちそうになった私を助けてくれた彼。私が困っていた時には手助けをしてくれた。友達が少なくていつも教室で本を読んでいた私にちょこちょこ話しかけてくれたのも彼。
 そうだ、唯君が初めてだったのだ。高校に入ってから初めてまともに私に話しかけてくれた男の子は。



「藤森って背小さいよな。身長何センチ?」
 高校へ入学して間もなく、初めて男の子に話しかけられた。中学の頃もこれといって男の子とよく話したことなど一度もなかったのに。必要最低限のことならば幾度かあるが、それでも両手の指の数で足りるくらい。
 だから、素直に驚いた。一瞬私じゃなくて他の誰かに話しかけているんじゃないかと思ったが、今聞き間違いじゃなければ確かに彼は私の名字を呼んでいた。しかもその話しかけてきた相手が、私が高校生活中でまず関わることなどないだろうと思っていた桜川唯君だったから尚更だ。
 唯君は身長が男子の平均よりも明らかに小さく小柄な体型で、顔が可愛かったこともあり初日からそれなりの注目を集めていた。現に私も「小さくて可愛い男の子だなぁ」と彼に対して思っていたから。
 だけど同じクラスの人たちの中でも、彼の更なる異色さは一目瞭然だった。1学期早々、同じ中学の子達から推薦されて級長になり、LHRの話し合いでも非常にテキパキと物事を進める。先生や周りに対する発言力もすごいものだったし、なにより周りの子達とうち解けるのが非常に早かった。その後、頭も良く運動も結構出来るということも、彼を更に目立たせた。
「えっ……?」
 次の授業の準備をしていたところへ突然唯君から声をかけられ、私は尋常でないくらいに緊張した。しかし身長の話題を振ってくるなんてからかっているのだろうかと若干思ったが、彼のニコニコした顔を見てもそんな感じは一切しない。ただ純粋に興味があるのだろう。
 私は、おずおずと小さな声で答えた。
「……ひゃ、149センチ……」
「えっ、150センチないの!? 小せぇ?。俺も人のこと言えないけど」
 そうだ、唯君だって人のことは言えないのだ。私自身そこまで気にしているわけではないけど、そう言われると改めて自分の小ささを実感してしまう。
 私の身長を聞いてなにが嬉しいのか、彼はちょっと楽しそうだ。
「……桜川君は?」
 ちょこっと仕返しと言わんばかりにそう訊き返すと、彼は「えっ」と一瞬焦ったような顔をして、しばらくしてから苦笑いを浮かべる。あまり言いたくないようだ。
「えーっと俺は……、……158センチ、とか……?」
 小さい。高校1年の男の子にしては本当に彼は小柄だと思う。どのくらいが高校生男子の平均なのか分からないが、165センチはあってもいいはずだと思う。でもそんなことは人それぞれだし、気にしても急に伸びるものではないから仕方ない。でも本当に小さい。
 無意識に、私はクスッと笑っていた。遠い存在だと思っていた彼に、なんとなく親近感を抱いてしまったからだ。
「お互い身長では苦労するよね……」
「だよなぁ。棚とか上の方手が届かないし、背の高いヤツが前にくると何も見えないからな。こないだ知らないおばあちゃんから道尋ねられて教えたら、お礼に「ありがとうね坊や」って頭撫でられて飴玉貰ったよ俺。ちょっとすごくねぇ?」
 私はそこまで目立っているわけではないし友達も多くはないからそう身長のことを言われることもないが、唯君はしょっちゅう友達から身長のことでからかわれていた。いっそ言い過ぎだろうと可哀想になってくるぐらいそれは酷い。
 けどその代わりに、唯君は他の人が持っていない魅力を沢山持っていた。背が小さい上になにもない私とは大違いだ。
 なんてことない話なのに唯君と話しているせいか、私は自分でも知らないウチに笑っていた。クラスメイトの男の子と話して笑うことなど、今まで一度も無かったのに。
「私も小学生に間違われたりするよ。買い物してたら、小さいのに偉いねってたまにオマケしてくれたりとかして……」
「あー、あるある! 勘違いされて腹立つんだけど、オマケしてくれてるから文句言う気になれないんだよなぁ。良かったー高校生にもなってそんな経験してんの俺ぐらいかと思ってた」
「えっ!? 私今のは中学2年の頃の話だよ。そんな、高校入ってからは流石に無いよ」
「エエッ!? なんだよそれ!」
 流石に今のはショックだったらしく、恥ずかしいのか唯君の顔は少し赤い。そんなところが可愛くて、だから余計に子供っぽく見えた。
 当初私が彼に抱いていた印象と、実際の彼は違った。目立っているから話しかけづらい、近寄りがたい、ハキハキしているからキツイことを言われそう、私が彼に持っていたそんな固いイメージ。それを崩したのは他でもない彼自身だった。
 私が行動を起こさなければ、彼は私にとってずっと遠い存在だった。それどころか彼に対して勝手な印象を植え付けて近づこうとすら思わなかった。それなのに、距離を縮めてくれたのは、近づいてきてくれたのは彼からだった。
「でもさぁ集会で並ぶときの順番、五十音順で良かったと思わない? 背の順だったら俺と藤森、確実に一番前だったよ」
 一番前って目立つから嫌なんだよなぁと、笑って彼は言う。驚いた顔や、恥ずかしそうな顔、困ったような顔、少し話しただけなのに彼の色んな顔を見ることが出来た。それくらい彼はコロコロと表情を変えて、見ていて飽きない。
「私小学校と中学校は背の順だったから一番前だったよ。一時期それが嫌で牛乳いっぱい飲んでたんだけど、結局あんまり背伸びなかったりして」
「俺も小学校の頃ずっと前だった! しかも牛乳俺まだ飲んでるし! あー、やっぱ藤森とは分かり合えそう。同じクラスになって初めて見た時からなんか親近感沸いてたんだよなー」
 男の子と話してこんなにも楽しく笑える自分に驚いた。男の子と話すのは苦手だと思っていたのに、そんなこと全然無かった。きっと、ただ自分があまりに人と話すことがないから勝手にそう思いこんでいるだけだったのだ。
 誰かに対して積極的に話しかけようとしない、行動を起こすこともしない、ただ心の中で思い、考え、見ているだけ。だからなにも変わらない。
 唯君のように、自分から話しかけないことには相手のことなど分からないのに。
「唯ー、早くこっち来いよオセロしようぜオセロ!!」
「またそんなん持ってきたのかよ、先生に取り上げられてもこの間みたいに取り返してやんないからな。──じゃあ藤森、またな」
「うん」
 話していることが楽しくて、彼が行ってしまい少し名残惜しかった。唯君は友達の所へ戻って、話したりふざけあったりしながら盛り上がっている。遠目でその様子を見ながら私は羨ましく思った。
 そしてその時から、私の中で彼は憧れの存在になった。
 あれ以来、唯君はちょくちょく私に話しかけてきてくれるようになった。話すのは本当に他愛のないことだ、それが本当に友達のように感じられて、とても嬉しかった。勇気の無い私は彼に話しかけることなど出来ずにいたのに、それでも唯君は私のところへ来てくれる。その優しさにも憧れた。
 あの時の微笑み、優しさは、きっと偽りなんかじゃない。そう、私は信じていたかったのだ。あの時彼が私に話しかけてくれたことが、本当に心の底から嬉しかったから。
 互いの間にあった一番最初の壁を壊してくれたのは、彼だったから。



「ほんとに来るとか、ありえないし」
 玄関に立っていた私を見るなり、彼は一言そう零した。呆れたような目線と、冷めた口調。それを見ているとすぐにでも帰りたい気分になったが、私は黙ってその場に立っている。
 その日の帰り、私が真っ先に向かったのは唯君の家だった。酷いことをされるかもしれないことなど目に見えていたのに、それでも私は懲りずにここにいる。つくづく自分は馬鹿だと思う。唯君に何を言われたってしょうがないことだった。
「お前ドMなんじゃねーの。気持ち悪い。そんなにヤりたかったら他の男の慰みものにでもなってこいよ」
 されることなど分かっているのにここへ来てしまった以上、唯君に何を言われようとも私は言い返すことなど出来ない。ただ私は黙って彼の言葉を飲んでいる。どれだけ侮蔑されても、私は堪えてそこにいた。
「おい、聞いてんのかよお前」
「……聞いてるよ」
 小さな声でそれだけ返すと、唯君はそれ以上なにも言わなかった。玄関の前で俯いたまま立っている私の前に立ちはだかるようにそこにいたまま、黙ってしまう。
 きっと私のことを馬鹿な女だと思っているのだろう。自分でもそんなこと分かっている。愚かで、浅はかで、救いようのない馬鹿だと。関わるなと言われてもなお関わってしまう、されることなど分かっているのに来てしまう。そんな私に。
「……上がれば」
 しばらく黙っていた唯君だったが、その後言い捨てるように言葉を吐いて二階へ上がっていった。唯君が階段を上っていく足音を聞きながら、私はゆっくりと靴を脱いで彼の言葉に従うことにする。
 本当に嫌だったら、家へなど絶対に入れない。私を家へ上げてくれたのは、彼も私に話したいことがあるのかもしれない、と甘い考えを抱いてしまう。願わくば、そうであってほしいとも。階段を上りながら、私はまだそんなことを考えていたのだ。
 部屋へ入ると、唯君は制服のネクタイを解いて机の上に置き、椅子へ腰掛ける。部屋は以前私が来た時となにも変わっていない。綺麗に片づかれた清潔感のある部屋だった。唯君は結構マメなところがあるから、散らかっているのが嫌いなのかもしれない。
 呑気なことを考えながら、私はドアのところで立ったまま唯君が何か言うのを待っていた。
「座れよ」
 唯君がぶっきらぼうにそう言ってくるから、私はその場に座らせてもらうことにする。ひんやりとしたフローリングの床の感触が少し心地良い。けど私のその行動が唯君は気に入らなかったらしく、突然立ち上がって私のところへ歩み寄ると、私の腕を引いて立ち上がらせた。
「!?」
「馬鹿、そこじゃない」
 彼は私の腕を強く引っ張って、そのまま傍にあったベッドへ私を軽く突き飛ばし座らせる。どうやら私がカーペットも座布団もないところに座り込んだのが彼には不服だったらしく、そんな唯君の心遣いに違和感を覚えた。
 酷いことをするのに優しい、そんな彼が私を混乱させていく。唯君は再び椅子に座ると足を組んで私の方を見る。それだけで何もしてこようとはしない。
「唯君……」
「んだよ」
「……しないの?」
 てっきりすぐにやられると思っていただけに、何もしてこない彼の意図が掴めず私は自分からそんなことを訊いてしまう。これでは自分から「やって下さい」と誘っているようなものだった。自分でそう思ったのと同時に、唯君は無表情のまま口を開く。
「お前抱いたって別に楽しくないし、気持ちよくもないからどうでもいい」
 それならどうしてあんなことをしたんだろう。楽しくない、気持ちよくもなれないのなら私を抱く理由なんて無かったはずなのに。口封じに嫌がらせをして私の弱みを握ることが目的だったのなら、もっと別の方法があっただろうに。まるで自分の身体が侮辱されたような気分になって、私は彼を見ることが出来ずに俯いた。
 確かに私はつまらない女だ。身体だって他の子よりも小さいし抱いても楽しくなかったかもしれない。けど唯君のしたことは明らかに間違っているのだ。人を安易に傷つけてはいけない、そんなこと彼なら分かっているはずなのに。
「……私の憧れてた唯君は、誰にでも優しくて、親切で、クラスでも特に目立ってない私なんかにも話しかけてくれて、気遣いが上手で、自分から積極的に友達になろうとしてくれるいい人で、だからみんなから好かれてた」
 途端、ハッと馬鹿にするような乾いた笑いが聞こえた。
「またそれ? それはお前が勝手に作った理想の俺。そんなヤツどこにもいないんだよ、前にも言っただろ」
「違う」
「違わない。お前の中じゃ大層立派なヤツだったみたいだけど、生憎本当の俺はこんなんだよ。だからそんなくだらない理想を俺に押しつけられても困るし、迷惑」
 きつい口調ですぐさまそう言い返してくる彼に、私は言葉を飲み込んでしまう。
「俺は藤森が思ってるような人間じゃない。平気で人を傷つけて笑っていられる、最低な男だよ」
 以前から兆候を見せていたが、彼は自分が悪いことをしているという自覚があるようだった。だからこんな風に自分を卑下するような言い方をする。自分で悪いのだと思っている、だから責めてもらいたい、そんな彼の意志が階間見える時があった。
「どうしてそんな言い方をするの?」
「なにが」
「自分を責めてもらいたいような、言」
 言おうとしたのと、唯君が私をベッドに押し倒したのはほぼ同時。大きく見開かれた私の瞳に映っていた唯君は、そっと首筋にキスを落とした。ゾクッとするほどの優しい口づけを。
「だって、もう『普通』には戻れないから」
 そのまま彼は小さな声で静かにそう言って、私は瞳を閉じた。



「くっ、あっ……ぁあッ!」
 ズンッとひたすらに奥を突かれて、もうどれくらい声を張り上げたか私には分からない。もはや思考すらまともに働かず、ただ行為に身を委ねている。彼から突き上げられる度にベッドのスプリングが軋んで、その上で私は唯君に抱かれていた。
 唯君と交わったのはこれが二度目。未だ行為に慣れず痛みばかり感じて、私は涙で顔とシーツを汚してしまっていた。でもこの痛みは覚悟の上のことだった。こうされることを分かっていて私は彼の家へ来たのだから。
「あぅッ、あっ、やっ……いあっ……!」
 中をえぐられるような痛みに嬌声をあげる。彼が出入りを繰り返すたびに私は狂ったように喘ぎ声をあげてしまう。最初の時と同じように彼の行為はとても荒々しくて、相手のことを全く気にも留めていない。多少濡れていた私の秘唇は、彼が注挿を繰り返す度にグチャッと淫らな水音を立てていた。
「唯君、ゆい、く……っ!!」
 痛みに耐えきれなくて、今までシーツを握り締めていた手を私の上に覆い被さっていた唯君の背中に回した。こうすれば少しは楽になれるような気がしたのだ。当の唯君からは拒まれるかと思ったけど、彼はそれを嫌がることもなく受け入れてくれた。
「藤森……」
「はぁっ、あぁ……!」
 熱く囁いて、彼は露わになっている私の胸元にキスをする。行為そのものはすごく荒々しいのに、たまに零す私の名前を呼ぶ声や触れる唇、髪に触れる手がとても優しかった。そんな風に時折見せられる優しさは、彼の言っている事とは完全に矛盾していた。
 優しくない、最低な男だと彼は言うけど、この無意識のうちに出してしまっている優しさが彼の本当であってほしいと思った。そして、なにか別に彼を歪ませている原因があって、そのせいで彼は変わらざる得なかったのだと。
 再び私の唇にキスをしてきた彼に応えるように、私は背中に回していた手を彼の頬に添える。
「ンッ、ぅ……あ」
 私は服を全部脱がされて裸でいるにも関わらず、多少着崩してはいるものの彼は制服を着たままだった。思えば一度目の体育倉庫の時でもそうだった。考えてみれば不自然だったが、単なる偶然ということもあり得る。
 服を身につけたままであったが、それでも抱きしめた彼の身体からは熱さが感じられた。
「んあっ、あぐぅ……っ、唯君……ッ……」
 自分でもおかしいくらいに何度も彼の名前を呼んで、必死ですがりつくように彼の背中に手を回していた。こうしていると、唯君が自分のすぐ傍にいるのだということが直に感じられる。嬉しいような、悲しいような不思議な気持ちになった。
「……なんで」
 しばらくして唯君は動きを止めて言葉を零した。私はギュッと頑なに閉じていた瞳を静かに開くと、その先にいた唯君は苦痛に顔を歪ませていた。見ているこっちが辛くなるような、悲しそうな顔を向けている。
 当然彼の言ったことの意味など分かるわけもない。やっぱり私の身体じゃ気持ちよくなんてなれないのだろうか。
「唯、君……?」
「……好きでもないやつに犯られてんのに、なんで最初の時みたいに抵抗しないんだよ……」
 一瞬気のせいかと思ったけれど、思い違いではなかった。彼の声が少し震えていたのだ。それは怒りのせいか、悲しみのせいか、私には分からない。
 抵抗しないのは、こうされることを分かっていて自分からここへ来たからだ。それくらいに唯君のことが気になって仕方なかったから。
「……だって、私」
 彼の新たな一面を知っていくにつれて、失望して、嫌いになって、でも気になって、放っておけなくて。
 あの日、唯君からの抱擁を受け止め、抱きしめ返したのは嫌じゃなかったから。彼に抱きしめられてキスされて、心地良いと思っていた自分がいたから。
 それはきっと、長い時間をかけて自分でも気づかないうちに惹かれていた私の彼への気持ち。
「私、きっと……唯君のこと、好き……なんだと思う、から……」
 あがった息を少しずつ整えながら、途切れ途切れにそう告げた。それが本当に彼への恋愛感情なのかどうか、ハッキリとはまだ分からなかった。でも口は自然と言葉を紡いでいる。
「唯君、笑ってるけど全然楽しそうじゃなくて……なにか、隠してるみたいで……。すごく、辛そうだから気になって……」
 最初こそ最低な人だと思ったけれど、今は同じことを思えない。今の私の瞳に唯君はとても可哀想な人に映って見えた。人を傷つけることでしか自分の感情を表に出すことが出来ないような彼に。
 私が並べていく言葉に、唯君はギュッとシーツを強く握って黙っていた。
「ねぇ、教えてよ唯君……。本当のこと。……私、唯君の」
「……あの日、藤森を犯したのは」
 傍にいたいという私の言葉を遮った彼の声。私の見つめる先にある彼の綺麗な黒い瞳が、潤んで見える。そう思って、私はすぐに否定した。いや、潤んでいるのは私の目だろうか。私が涙を流しているせいでそう見えているのかもしれない。
 けれど、そんな私の考えを更に否定するように、私の頬にポタッと水のようなものがしたたり落ちた。
「俺と同じように、……同じ目に……遭わせてやろうと思ったからだ」
 その刹那、はっきりと知った。彼が泣いていたことに。
 唯君は、涙をこぼして微笑んでいた。
「俺はお前なんか大嫌いだ」