第9話 初恋エレジー [下]


 日曜のファーストフード店は、混み合う時間を外して行ったかいあって人は比較的少なく、落ち着いた雰囲気だ。
「もうすぐバレンタインだねぇ」
 エリカはどこか浮き足立った様子を隠すことなくそう切り出した。
 あの中体連からあっという間に一年半ほど経っていた。その間もエリカと桐沢の関係は友達のまま変化することなく、付き合いは続いていた。
 以前と違うところがあるとすれば、図書館以外でも会うようになったこと。携帯の連絡先を交換していて、定期的にメールのやりとりをしていること。今みたく、学校が休みの日はたまに遊ぶようになったことだ。
 関わりが強くなったのは良いが、それはあくまでも友達としての距離感であり、桐沢は複雑な気持ちを抱えながらも現状を打破出来ずにいた。
「誉君は本命チョコって貰ったことある?」
「あるわけないだろ。そもそも学校はお菓子の持ち込みは禁止だよ」
 一番欲しい人から貰えないバレンタインに一体なんの意味があるのか。桐沢はそう思いながら眉間に皺を寄せる。
 そっけない口調で返され、エリカは不満そうに口を尖らせた。
「誉君つまんないこと気にするんだねぇ。持って行っちゃいけないから余計にワクワクするんじゃない。いかに先生達に見つからずにコソッと渡すかとか」
「じゃあ樋口に渡すのか?」
「……せっかくだし、今年はちょっと勇気を出して渡してみようと思うんだ」
 そう言って恥じらいながらも笑ったエリカを止められるほど、桐沢は非情になりきれない。
「そうか。頑張ってくれ」
「うん。それでね、男の子としてはやっぱり手作りの方が嬉しいのかな? 誉君はどう思う?」
「知らない子からの手作りはちょっと怖いって思う人もいるんじゃないかな」
「なるほど、それもそうだよね……。じゃあやっぱり市販の方がいいかな」
「そもそも、樋口は甘い物は大丈夫なのか? 男って甘いの苦手なやつも結構いるだろう」
「その点は抜かりないから大丈夫。前に差し入れでチョコがついた甘いドーナツあげたら喜んで食べてたから。悠人君好き嫌いないみたい。なんでも美味しそうに食べるからほんとに可愛いんだ。サッカーしてる時は格好良くて」
 悠人の話になるとエリカは止まらなくなる。好きな人のことを幸せそうに語る様子や姿は本当にどこにでもいる普通の女の子だ。ただしとびきり可愛いが。
 桐沢は平静を装っているものの、内心では悠人への嫉妬心が止まらない。
 悠人はエリカのことを知らない。いつも一緒にいる友人の響が二重人格であることも、そのもう一方の人格であるエリカが悠人に恋心を抱いていることも。何も知らないのに、誰よりもそばにいることを許されている。
 だからこそより一層、桐沢は悠人が気に入らなかった。
「で、どうやってチョコを渡すんだ?」
「悠人君にメモを渡して、体育館裏まで来てもらうの。そこで渡そうかなって」
「もちろんそれは、エリカとして、なんだよね」
 桐沢はエリカの姿をまじまじと見る。今日のエリカは白のニットにチェックのミニスカート、白くて細い足は黒のタイツに包まれていて、キャラメル色のショートブーツを履いていた。
 セミロングのウィッグは全く違和感がなく、きつく巻かれて横でサイドテールにしている。
 桐沢の言いたいことはちゃんと伝わっているらしく、エリカは苦笑して答えた。
「うん。この格好で会うよ。悠人君は絶対に気付かないだろうし」
「毎日学校で顔を合わせているのに気付かないのか?」
「いつも一緒にいる幼馴染がこんな格好してるなんて普通思わないよ。前にエリカの写真を見せたことがあるけど全然気付いてなかったし。だから大丈夫」
「チョコ渡して告白して、樋口がオッケーしたらどうするつもり?」
「そりゃあもちろん、付き合うよ」
「それは……」
「悠人君に嘘をつくかたちになっちゃうのは心苦しいけど、でも、どうせ長くは続かないだろうから少しでも夢見たいじゃない? 好きな人と付き合うのってどんな感じなのか知りたい。普通の女の子として、悠人君と一緒にいてみたいの」
 エリカは、悠人と仮に結ばれたとしてもそれが長く続くものではないと確信していた。それは悠人のせいではなく、エリカの特殊な事情によるものだ。そんなエリカの気持ちが痛いくらいに伝わってきた桐沢は「そうか」としか言えなかった。
 自分のことのように曇った顔をしている桐沢を見てエリカは笑った。
「もう、誉君ってば自分からきいておいてそんな辛そうな顔しないでよ。エリカは大丈夫だから」
「ごめん、気が利いたこと何も言えなくて……」
「誉君が友達になってくれて、前よりも毎日が楽しいよ。それでちょっとお願いなんだけど、エリカが悠人君にチョコ渡す時、近くで見ててくれないかな……一人じゃ少し心細くて」
「分かった。ちゃんと応援してるよ……友達として」
 友達としてのエリカからのお願いを断ることなんて出来るはずもなく、桐沢はコクリと頷いた。
 


「なるほどね。それでそんなに浮かない顔をしてるのね」
 放課後、写真部の部室に一人残ってデータ整理をしていた桐沢の元を訪れたのは神崎だった。
 そして、ここ数日浮かない顔をしていた桐沢から話を聞いた神崎は、にこやかに桐沢の胸中を暴く。
「もし樋口君とエリカちゃんが付き合ってしまったらどうしよう、って感じかしら? 桐沢君ってばほんとヘタレなんだから」
「うるさい……」
「冷静に考えて、あの二人が上手くいくわけないわ。樋口君にエリカちゃんの想いは受け止めきれない。樋口君は優しくて甘い人だから、全てを知ればどうしていいか分からなくなるわ。あの子はどちらか一方に肩入れ出来るほど器用な子じゃないもの」
 全てこの先に起こる予言のように、当然な口ぶりで神崎は淡々と話す。
「そんなの分からないじゃないか」
「そうね、でも仮に二人が上手くいったとしても、私が壊してあげるからいいのよ」
 綺麗な顔をしてゾッとするほど恐ろしいことを言う神崎に桐沢は怖気が走る。でも、ことエリカの件においては神崎は誰よりも頼りになる存在だ。
 神崎は顎に手を添えて思案するように視線を落としたあと、桐沢を見て優しく微笑む。その笑顔は、神崎がとてもよくないことを思い付いた時に浮かべるものだと桐沢は長年の付き合いで知っていた。
「そうね、今回は私がなんとかしてあげる。ちょうどいい駒もあることだし。桐沢君は何もしなくていいわ。今までどおりエリカちゃんと友達として接していて」
「神崎、何をするつもりだ……? 何を考えてる」
「要はエリカちゃんの告白が失敗すればいいんでしょう?」



 神崎の企みが全く分からないまま、落ち着かない日々を過ごしていた桐沢をよそにその日は来てしまった。
 二月十四日。バレンタインデー。
「はぁ、ドキドキしてきちゃった……」
 悠人との待ち合わせ場所である体育館裏から少し離れた倉庫の裏にエリカと桐沢はいた。桐沢は学校が終わってすぐにエリカの元へ向かい、身支度を整えたエリカと合流したのだ。
 エリカの想い人である悠人はすでに体育館裏に来ていた。エリカを待つ悠人が桐沢は羨ましくてたまらない。
「そろそろ約束の時間かな。じゃあ誉君、エリカ頑張ってくるね」
「うん……」
 そんなに頑張らなくていいと、思わず言いそうになるのを桐沢はグッと堪える。エリカには申し訳ないけれど、ふられてしまえばいいとすら思っていた。悠人がエリカを振れば、桐沢にもチャンスが巡ってくる。エリカに付け入る隙が出来るのだから。
 薄い笑みを浮かべて桐沢はエリカを見送った。そしていざ悠人にチョコを渡そうと歩き出したエリカだったが、
「あの、樋口君!」
 エリカでも、ましてや桐沢でもない第三者の声に二人は固まった。
 悠人の前に現れたのは、さらりとした茶色のストレートヘアが特徴的な女の子だった。エリカほど魅力的な容姿ではないが、小柄で可愛らしい顔をしている。
 突然呼ばれた悠人はバレンタインを意識しているのか、若干居心地が悪そうに、でも少しの期待を抱いているような顔で返事をした。
「あ、はい……。つーか、響にメモ渡したのって」
「えっと、私です……渡瀬美優って言います。ごめんなさい、部活で忙しいのに呼び出しちゃって……」
「いやそれは別にいいけど……」
 この時、突然やってきた第三者・渡瀬が神崎の仕向けた『駒』であることに気付いたのは桐沢だけだった。ここへ悠人を呼び出したのは間違いなくエリカだ。幼馴染のフリをして、悠人にメモを渡して体育館裏へと誘い込む。
 桐沢は事前にその話を神崎に話していた。呼び出す時間も、場所も、全て。
(まさかこう来るとは……あいつこの学校にも知り合いがいたのか……)
 桐沢は横目で恐る恐るエリカを見る。エリカは目を見開いて、心底驚いている様子だった。それも無理はない。自分が悠人を呼び出した場所に、自分以外の女の子が我が物顔で現れたのだから。
 渡瀬は頬を赤く染め、恥じらいながら告白した。
「あの、いつもサッカーの試合見てます! 樋口君すごく格好良くて優しくて、ずっと私の憧れで……。好きです! 私と付き合って下さい!!」
 少女漫画のワンシーンのような言葉を並べ、渡瀬は顔中真っ赤になりながら悠人へチョコを差し出す。その手は緊張で震えていた。
 気まずくなった悠人は頭を掻くと、申し訳なさそうに眉を落とす。
「ごめん、気持ちはすげー嬉しいんだけど……俺いまは部活に集中したいから」
「それでもいいんです! 私、サッカーしてる樋口君が好きです。部活優先にしてくれても全然構いません。ワガママは言わないから……お願いします!」
「でも俺、好き嫌い以前に渡瀬さんのこともよく知らないし……。そんな中途半端な気持ちじゃ付き合えないっつーか、そっちも嫌じゃない?」
「イヤじゃないです。最初はそれでもいいです、友達からでも……私のことを知ってくれれば……!」
 渡瀬のあまりの必死さと粘りに桐沢は状況はさておき尊敬の念を抱く。渡瀬は確実に神崎の差し金だ。ここで渡瀬が悠人と付き合ってくれれば万々歳なのだが、悠人は困ったような顔をするばかりだ。
「お願い……!」
 渡瀬の頬を涙が伝う。渡瀬と、差し出されているチョコらしき包みを交互に見ながら悠人は息を吐いた。部活優先でもいい、渡瀬のことをよく知らなくても、友達からでもいい。ここまで言われてしまっては他に断る理由も思いつかなかった。
「それでもいいのなら、じゃあ……よろしくお願いします」
 震える両手からチョコを優しく受け取った悠人は、照れくささに頬をやんわり染めて笑った。その顔を見て渡瀬も嬉しそうに涙を拭いて、二人の間を温かな空気が包み込む。
(よし!)
 桐沢は思いきりガッツポーズしようとしたがすぐに我に返り、ゴホッとわざとらしく咳払いをして誤魔化した。ギュッと胸の前で握りしめていた手はさりげなく引っ込める。
「エリカ……」
 俯いたまま何も言わないエリカを気遣いながら、出来るだけ優しく控えめに桐沢は呼びかける。さすがは神崎というところか、桐沢にとっては最高においしい状況が出来上がった。このチャンスを無碍にするほど桐沢もヘタレではない。
 そっとエリカの肩を抱く。エリカは小さく笑った。
「エリカ?」
「ごめんね誉君、せっかく手伝ってもらったのに台無しにさせちゃって」
 エリカはいつものように微笑んでいた。だが、それが強がりだと桐沢にはすぐ分かった。小さく震えているエリカの手は、持っていたチョコを桐沢に押しつける。
「これ誉君もらってくれないかな、もう必要ないみたいだから」
「エリカ」
「それとも一緒に食べちゃう? 美味しそうなの選んだんだよ」
「……こんな時まで強がらなくていいよ。きみは女の子なんだから」
 桐沢はエリカの手を包み込むと、強く引きよせて抱きしめる。エリカは抵抗しなかった。代わりに聞こえてきたのは小さくすすり泣く声だった。
「なんでだろう。なんで私、こんななんだろう」
「エリカは可愛いよ。世界で一番綺麗だよ」
「ほんとは邪魔しに行きたかったのに、悠人君を呼んだのは私だって言いたかったのに。でも、勇気が出なかった……。半端な私じゃ、あの子に勝てない……」
 『半端な私』が何を意味するのか、桐沢には痛いほどよく分かった。渡瀬はエリカにはないものを持っているからこそ、勝者たり得たのだ。
 桐沢はエリカの肩を支えながら、トントンと優しく背中を叩く。
「やだ、やだよぉ……。悠人君をとられるのはイヤ」
「また新しい恋を探せばいいじゃないか」
 今ふられたばかりだというのに、すぐに新しい恋を探せという桐沢の言葉はエリカには残酷に響いた。こんな形で終わるとは思わなかった。実らなくても、せめてこの恋の幕引きは悠人の口から欲しかった。それならばエリカもまだ納得が出来た。
 けれど敗因は、誰でもない自分自身の勇気のなさ──心の弱さが招いた結果だった。
 すんすんと鼻をすすりながら、なおも泣いているエリカを見ていたらたまらなくなって、桐沢はいっそう強くエリカを抱きしめる。
「好きだよ」
 桐沢の放った言葉に、エリカの動きがピタリと止まった。
「僕は、エリカが好きだよ。僕ならエリカの全てを受け入れられる自信だってある。だから、樋口のことはもう諦めないか? 傷つくきみはもう見たくない」
「いや……」
「エリカ……」
「……いや、放して!」
「どんなに想い続けても無駄だ。仮に付き合ったところで、あいつはエリカのことを受け入れられない、そんな器じゃない! いい加減現実を見るんだ!!」
「やめてってば!!」
 桐沢はカッとして、強引にエリカを壁に押しつけて唇を奪った。触れた場所から伝わってくる熱を愛おしく思う反面、望んだのはこんなめちゃくちゃなものじゃなかったのにと罪悪感が生まれる。
「ンッ……ぅ」
 掴まれている腕を振りほどこうと必死で抵抗するエリカに、やけになった桐沢も絶対に放すものかと力を込める。ファーストキスがこんな強引な形になってしまったのは残念だが、悠人を諦めきれないエリカにどうしようもなく苛立った。
 酸欠になりそうなほどの長いキスにエリカの意識が霞がかっていく。抵抗する力が弱まったところで、ようやく桐沢がエリカを解放した。苦しさに咽せて、エリカは呼吸を繰り返しながらその場にずるりと座り込む。
 そんなエリカを見下ろしながら、桐沢は興奮ぎみに言葉を紡ぐ。
「ずっとエリカのことが好きだった。図書館で一目惚れした時からずっと。医者になりたいなんて嘘だ。エリカに近付くための口実が欲しかった。突然告白なんてしたら気持ち悪がられるだろうから、最初は友達からでいいと思ったんだ」
「……誉君、嘘ついてたんだ」
「ああ。でもそれを責められる謂われはないだろ。エリカはもっと沢山のことを僕に黙っていたし、嘘だってついてた。それでも僕は、エリカの傍にいられるならいいって思ったんだ。きみが笑っていてくれるならって……エリカのことが好きだから」
 浅い呼吸を繰り返しながらエリカはゆっくりと立ち上がると、振り上げた手で桐沢の頬を思い切り打った。桐沢の頬を痺れるような痛みが走る。
 エリカは涙をこぼしながらも、無表情で桐沢を見据えていた。
「前に、中体連の時、サッカーの試合を観に来た私とばったり会ったこと覚えてる? あの時、誉君が『僕たち友達だろ』って言ってくれた時、すごくうれしかったの。今までエリカにそこまで言ってくれる人なんていなかったし、エリカ隠し事も多かったから上辺の付き合いしか出来なくて。だから友達なんていなかった」
 エリカは下ろした手をギュッと強く握りしめる。胸の底から湧き上がってくるのは怒りと、強い悲しみだった。
「本当に、嬉しかった。だからエリカも誉君のこと、友達として大切にしたいって思ってたのに……。なんでこんな日にそういうこと言うの……?」
「エリカ……ご」
「嫌い。誉君なんて大っ嫌い!!」
 冷静になった桐沢が謝罪を紡ぐのを、エリカは許さなかった。
 それが、エリカが桐沢に放った最後の言葉だった。走り去っていったエリカは、それ以来桐沢の前には姿を見せなくなった。



 アンティークの家具で揃えられた神崎らしい部屋で、桐沢は声を荒げた。
「神崎!! どうしてあんな酷いことを!」
 相手が女の子であることも構わず、桐沢は神崎の着ていたワンピースの胸元を掴んで壁に追いやる。そうされてもなお神崎の余裕の仮面は剥がれない。
「酷いこと? あれはあなたも望んでいたことでしょう?」
「それはっ、そうだが……だけどあれではあんまりにも……」
 神崎はクスリと嘲るように笑う。
「泣き顔見ちゃって罪悪感? いやね、男って本当、涙に弱いんだから。女の涙は武器よ?」
「エリカは違う!!」
 胸元を掴んでいる桐沢の手をはたき落とすと、神崎はソファへと腰を下ろした。
「樋口君とエリカちゃんを妨害するには十分なセッティングだったでしょう? それなのに上手くいかなかったのは桐沢君の力不足。文句も、八つ当たりされる謂われだってないわよ?」
 情けなくなるほど神崎の方が正論だった。桐沢のはただの八つ当たりだ。あの時のことを冷静になって考え直してみても、桐沢の言動はなにもかもがエリカにとってアウトでしかない。もう少し慎重にいくべきだったと、後悔してももう遅かった。
 長い時間をかけて大切に築き上げてきた関係も、壊れてしまうのは一瞬だ。
 ガクリと膝を床につけて、桐沢は項垂れた。
「そうだな……全ては僕の軽率な行動のせいだ。ごめん……」
「分かってくれればいいのよ」
「でも、樋口に彼女が出来たのは良かったよ。エリカはすぐに次の恋なんて探せる感じじゃないだろうけど、これで樋口のことは諦めただろうし……。それだけでも今回は良しとするべきか……」
 そこまで言うと、神崎はまたもや面白そうに笑い出す。
「安心しちゃダメよ。樋口君と渡瀬さんはそんなに長くは続かないから」
「……どういうことだ?」
「あの二人の関係はあくまでも一過性のものってこと。桐沢君が今回のチャンスをものに出来なかった時点で、あなたの負けなのよ」
「は?」
 桐沢には、神崎の言っていることの意味が分からなかった。何を考えているのか分からない神崎の笑んだ口元を見ながら、桐沢は次の言葉を待つ。
 神崎は優雅な手つきでソーサーを持ち、紅茶の入ったティーカップに口を付ける。
「樋口君に彼女が出来ても困るのよ。彼はまだ響君には必要な人だから」
 ティーカップの中で揺れる水面を見つめながら、神崎はここにはいない最愛の弟のことを想う。自然と、口元が歪んだ。
「高校で私と合流するまでは、樋口君には響君を守ってもらわないといけないのだから」



「樋口君、本当によく食べるね」
「こんだけ食べても部活前にまた腹が減るんだよな〜」
「ふふっ、でも沢山食べるのって良いことだよね。私は好きだよ」
 目の前で繰り広げられている恋人同士の会話を聞きながら、響──中身はエリカだが──は死んだ目でパックジュースを飲む。
(なにやってるんだろ……私。出てこなきゃ良かった)
 先ほどからずっと繰り返している自問自答。空き教室の壁を背に座っているエリカの目の前には悠人と、最近出来た悠人の彼女・渡瀬がいた。
 悠人と渡瀬が一緒にいるところなどエリカは見たくない。だが、どういうわけか渡瀬はことあるごとに「柊君も一緒に」と提案するのだ。渡瀬が言う分にはエリカはきっぱり断ることが出来るが、悠人に「そうだな響も一緒に食べようぜ」と言われると断れない。
 響もエリカも、悠人の言うことはあまり断れない性質があった。エリカは惚れた弱みから。響はただ一人の友達であり幼馴染というポジションから。
 おかげでここ一週間は三人で過ごすことが圧倒的に多くなっていた。
(この子、何考えてるんだろう……)
 普通だったら彼氏と二人きりになりたいものだろう。渡瀬にとっては響の存在など目の上のたんこぶのようなものだ。邪魔でしかないはずだった。
 エリカが漠然とした不安を抱えていた時、悠人が部活の友達に呼ばれた。どうやら急ぎの用件らしく、悠人は「すぐ戻るから!」と言い残して一時的にその場から離れた。
 あとに残されたエリカと渡瀬は会話もなく、辺りがしんと静まりかえる。そのあまりの気まずさに、エリカはここから立ち去ろうと算段する。
「柊君」
 どうやってこの場をずらかろうかと考えていたエリカの耳に、聞いたことのない甘い声が入った。床に付いていたエリカの手に、渡瀬の手が重なって指の股に絡みついてくる。性欲を隠さない意図的な動きだった。
 そこでようやく、エリカは渡瀬の真の目的を知った。
 渡瀬の目的は悠人ではなく、最初から響にあったのだと。
「やっと二人っきりになれたね、柊君」
 だらりと伸ばしていたエリカの足を跨ぐように腰を下ろして、渡瀬は恥じらいもなく迫る。同性にこんなことをされても嫌悪感しか湧かず、鳥肌を立てたエリカは内心罵倒したいのを堪えながら冷静に渡瀬を見据えた。
 渡瀬はエリカの身体を抱きしめて、酔いしれるように熱い息を吐く。
「私ね、ずっと柊君のことが好きだったの。小学生の頃からずっと。でも柊君、中学に上がってから全然話してくれなくなって、私寂しくて……。去年色々あったから人が怖いんだよね、でも大丈夫だよ、これからは私が柊君のこと守ってあげるから。柊君をいじめる人は私が許さない。男子も、先生も、みんな」
 基本的に響は女の子には優しい。小学生の頃から何かと男子にいじめられていた響は、逆に女子から助けられることが多かったからだ。
 けれど去年、担任教師のストーカー行為によってトラウマを抱えてしまった響は、悠人以外の人間に対して完全に心を閉ざしてしまった。その事件は中学では有名な話で、それまで響のことをいじめていた男子生徒も、それを遠巻きに見ていたクラスメイトも、さらには教師までも、響に対して腫れ物に触れるような扱いをし始めた。
 事件前までは友好的に接していた女の子すら避けるようになった響は、悠人以外の人が自分に近付くのを良しとしない。話しかけられても無視をしてやり過ごすことが多く、これでは響に好意を寄せていた女の子はたまったものではない。
 だからこそ、渡瀬は悠人を狙ったのだ。いつも響と一緒にいる幼馴染の悠人を。
(ひどい……)
 エリカは静かに怒りを滾らせた。
 悠人を囮にして響に近付く。なんて汚い女だろう。だが皮肉なことに、エリカは渡瀬に負けてしまった。渡瀬の告白を邪魔出来なかったエリカの勇気のなさが招いた結果であり、エリカの大好きな悠人は今や渡瀬のものである。
 悔しくて泣きたい気分だった。
 大してどころか、悠人のことなど渡瀬は眼中にないのだ。
(悔しい! 悔しい!! 女の子なんて大嫌い!!!)
 渡瀬を怒鳴り倒したかったが、そんな怒りをおくびにも出さずエリカは努めて冷静に尋ねる。
「悠人と付き合っているんじゃないの?」
「付き合ってないよ? 樋口君からせがまれて一緒にいるだけ。樋口君しつこくて……本当は迷惑しているの」
 心底嫌そうに吐き捨て、渡瀬はエリカの胸に頬を寄せる。
 必死で悠人に食いついて彼女にしてもらったのを、あの場で一部始終見ていたエリカは知っている。その事実をこうもねじ曲げられるとは、同性ながらエリカは恐ろしくなった。
「こうして柊君を抱きしめていられるなんて夢みたい。私の王子様」
 ふんわりと漂う花の香りが、エリカにはとてつもなく醜悪に感じた。抱きしめるだけでは留まらず、感極まっているらしい渡瀬の手はするりとエリカの胸元へ辿り尽き、シャツのボタンを器用に外していく。身体を無遠慮に触る手を掴むと、何を期待したのか渡瀬は顔をあげて頬を染めた。キスでもすると思っているのだろうか。エリカの心はもはや完全に冷え切っていた。
 次の瞬間、エリカは恐ろしいほど美しい笑みを浮かべて言い放った。
「汚い手で俺に、悠人に触るな。ブス」
「……なっ……柊君……?」
「どけよ、気持ち悪い」
 何を言われたのか理解出来ず固まってしまっている渡瀬を軽く突き飛ばし、エリカは立ち上がる。出来る限り響の声を意識して、蔑むように目を細めながら低い声で凄む。
「あんたみたいな女に悠人はあげない」
「樋口君はどうでもいいの! わ、私は柊君のことがずっと好きで……」
「俺はあんたのこと大嫌いだけど? っていうか女の子みんな嫌いだから」
 直接響に近付いてくるならまだ許せた。だけど今回の渡瀬のようなやり方はダメだ、何の関係もない悠人を傷つけてしまうことがエリカは許せなかった。
「分かったら悠人の前から消えろ」
 エリカは冷たい目で渡瀬を見下ろす。まるで汚いものを見るようなそれに、渡瀬は寒気を感じた。
「樋口君を利用したことを怒ってるの……? だって、柊君が全然私と話してくれないから、無視するからこうするしか……! じゃあ私はどうすればよかったの? どうしたら柊君は前みたいに私と話してくれたの!?」
「気持ち悪いから、そういうの」
「え?」
「気持ち悪いっつってんの。あんたのこと。悠人を傷つけるやつは許さない」
 響に好意を寄せる女の子は悠人を傷付ける。それが今回よく分かった。ならば徹底的に排除しなければならない。エリカの頭の中はそれだけだった。
 強く言い放ったエリカを絶望したような目で見つめていた渡瀬は、ガックリと項垂れて呟くように言った。
「悠人悠人って……やっぱり柊君、樋口君のことが好きなんだ……」
「……は?」
「二人がデキてるってやっぱり本当だったんだ……。私を騙して、酷い!!」
 わっと泣きながら、渡瀬は走って教室から出て行った。
「いや違うしエリカ女の子だし」
 自分以外誰もいなくなってしまった空き教室でエリカはポツリと言い返す。
 なんだかとんでもない勘違いをされてしまったが、これで悠人に手を出す女がいなくなるのなら、むしろそっちの方が都合がいいとエリカは思った。
(でもよかった……これでもう少し悠人君を好きでいることが出来る……)
 悠人のことを思うと、エリカの心は温かくなる。ここ最近忘れていた笑みが自然と零れた。
 いずれこの恋にも終わりが来ることなど分かっているが、もう少しだけエリカは泡沫のような淡い夢を見ていたかった。悠人のことを想い恋している時だけ、エリカは心から『女』を感じられる。
 色々と急ではあったが、ここ最近悩んでいた嫌なことが片付き、言うべきことも言えてスッキリしたエリカは安心感から急激な眠気に襲われる。
(後処理はめんどくさいから『あっち』に任せちゃおう)
 空き教室の床に身を預けて、エリカは目を閉じた。
 意識が薄れていく中、ふいにエリカは思い出す。昔、エリカがまだ小学生だった頃、状況は違えど似たような事をして一人の女の子を振ったことがあったことを。
 あの時泣いていた女の子は今、どうしているだろう。そんな事を考えながらエリカの意識は沈んでいった。



 一つの意識が沈んでいくと、もう一つの意識は浮かび上がる。
「本当に柊君が言ったの、私のこと、ブスだって! 不愉快だから消えろって!」
「ちょっと渡瀬、落ち着けって」
 なにやら騒がしい外野の様子に響は目を覚ました。重い身体をゆっくりと起こすと、目の前で口論していた二人──悠人と渡瀬──は響を見た。
 悠人は申し訳なさそうに眉をハの字にして苦笑いする。
「悪ぃな響、せっかく寝てたのに起こしちまって……」
「どうして樋口君が謝るのよ! 柊君、私に酷いこと言ったのよ!?」
「だから落ち着けって……響の言い分を聞かないとなんとも言えねぇって」
 一向に味方になる素振りを見せない悠人に、渡瀬は顔を真っ赤にして怒る。悠人もまた、付き合い始めてからずっと穏やかだった渡瀬の激高した様子に驚いていた。
 とはいえ、この中で一番蚊帳の外で状況が飲み込めていないのは、意識が沈められていた響本人であるが。
「……悠人、どうしたの?」
 ただならない様子に立ち上がった響は、躊躇しながらも悠人に説明を求めた。だが、それがまた渡瀬の怒りを煽ってしまう。
「どうしたのじゃないよ、白々しい! 謝ってよ、さっきのこと!」
 突然渡瀬から怒鳴られて響はビクリと肩を揺らして戸惑う。響にとって渡瀬は「最近悠人と付き合い始めた彼女」という程度の認識しかなく、直接話したこともなければ名前だって知らない。
 響は戸惑いを多分に含んだ目で悠人を見やる。
 渡瀬は悠人の肩に身を寄せてすすり泣いた。
「ねぇ樋口君、柊君ってば酷いの。さっき二人きりになった時、悠人に近付くなって怒られて……。別れろって、汚い手で触るなって……酷いよ……酷い」
「ん〜……そういうことコイツ言うかなぁ……」
「本当に言ったんだもん! どうして、樋口君は私の言うこと信じてくれないの!? 私、樋口君の彼女だよね!?」
「彼女だけど、でも付き合いは響との方が長いしな……まぁいいや」
 渡瀬の尋常じゃない怒りに圧されて、めんどくさくなった悠人は溜め息をつく。そのあと、まっすぐに響を見て問いかけた。
「響、お前はどうなんだ? 渡瀬の言ってることは本当か? 渡瀬に酷いこと言ったの?」
 悠人が尋ねると、響は悠人と、その腕にしがみついている渡瀬を見た。渡瀬の言っていることは響には身に覚えのないことばかりだ。そもそもの前提として、悠人に彼女が出来ても響は全く困らないし、響にとっては悠人が幸せならそれでいい。
 それを、わざわざ渡瀬に暴言を吐いて悠人と別れるように仕向けるなど、意味が分からなかった。
「知らない……。俺は何も言ってない」
 響が言うと、悠人は「だよなぁ」と苦笑した。そして響の言葉に唖然としている渡瀬を見やる。
「悪いけど、響とは付き合いが長いから知ってるんだ。こいつはそんな酷いこと言わねぇし、しないよ。嘘だってつくようなヤツじゃないし、そこまで器用じゃねぇんだわ」
「なっ……」
「あと、俺やっぱり部活に集中したいから渡瀬とは付き合えない。ごめんな」
 さらりと悠人から別れを告げられた渡瀬は絶句したあと、悔しさにギリッと歯を食いしばった。
「……なにそれっ……なんで私がフラれなきゃなんないのっ!? 私べつにあんたのことなんてこれっぽっちも好きじゃなかったから!!」
「うん、知ってる。渡瀬が好きなのは響だろ?」
 なんてことないように悠人が言うものだから、渡瀬は言葉を失った。
「つっても、付き合い始めてから気付いたんだけどさ。昔から多いんだ、渡瀬みたいなの。響目当てで俺に近付いてくるヤツな。ま、俺も渡瀬のこと好きで付き合い始めたわけじゃないから、そこはおあいこだよな」
 渡瀬の挑発など歯牙にも掛けず平然と笑ってみせる悠人に、渡瀬はよろりと後退りした。異質なものを見るような目で、渡瀬は悠人と響を見やった。
「なによ……なんなのよあんた達……変よ……みんな言ってる」
「みんなって誰だよ」
「み、みんなはみんなよ! 私のクラスの子達が言ってるのっ。樋口君と柊君は変だって!」
「変変って、渡瀬に俺と響の何が分かるってんだよ」
 さすがに悠人も不愉快そうに眦を吊り上げる。見たことのない悠人の顔に、渡瀬は一瞬臆する。渡瀬としては、自分に恥をかかせた響と、その響が異様に肩入れする悠人との間を修復不可能なまでにめちゃくちゃに掻き乱してやる予定だった。
 だが結局、何も上手くいかず恥の上塗りをされ、渡瀬は我慢出来ずに怒鳴った。
「気持ち悪い!! 二人とも不幸になればいいのよ!! このクソホモ野郎!!」
「ハァ!?」
 聞き捨てならない台詞を残して、渡瀬は走り去っていった。不名誉なレッテルを貼られた悠人はさすがに頭にきたらしく、渡瀬が出て行った方を強く睨む。
「なんだよアイツ! ったく、つくづく女ってこえーよなぁ」
「そうかな……俺は別に」
 先ほどまで糾弾されていたとは思えないほど平然としている響に、悠人は苦笑した。
「お前って昔から女の子には弱いってか甘いよなぁ。さっきも全然渡瀬に言い返さねぇし」
「女の子に強く言うのは可哀想だから」
「いやいや、さっきのはどう考えてもあっちが悪いだろ。俺じゃなかったらお前完全に悪者扱いされてたぞ」
 あまり状況が飲み込めていない響の様子に、悠人は「やれやれ」と失笑した。この幼馴染は昔からどこかぼんやりしていてズレているから放っておけないのだ。
 悠人は大きく伸びをして、教室へ戻ろうと響を促す。響が時計を見ると、昼休みも残り僅かとなっていた。ごはんを食べた覚えがないが、よくあることなので深く考えないようにした。
 並んで廊下を歩いていると、悠人が響に話しかける。
「ごめんな、渡瀬のこと。なんかまた巻き込んじゃったみたいでさ」
「俺は気にしてないけど……というか、むしろ俺が悪かったのかもしれないし」
 頭の後ろで手を組みながら、悠人は遠い目をして言う。
「はぁ……もうちょっとまともな彼女が欲しいなー。可愛くて優しくて一途で、料理上手い子がいいな。あと、ちゃんと俺を見てくれる子……って夢見すぎか」
 自分でつっこみを入れる悠人を響が笑う。
「悠人にはきっと、もっと良い子が現れるよ」
「そうかぁ〜?」
「うん。なんか、そんな気がするんだ」
 悠人を見て微笑んだ穏やかな響の顔は、不思議と信じてしまいたくなるような力があった。