第10話 傷痕


「忘れていることを思い出すにはどうしたらいいんだろう」
 響が唐突にそう言ったのは、図書室の件から一晩経った朝のことだった。
 バターとハチミツをたっぷり塗ったトーストをかじっていた梨花は、呟きとも問いかけともとれる響の言葉に手を止めた。
「何か忘れてるの?」
 梨花が尋ねると、響からはなんともいえない苦笑が返ってくる。エリカがまた響の時間を奪って何かしたのだろうかと、深く考えもせずに梨花は内心で思っていた。
 当然、響にはまだそれを言えるタイミングではなかったため、梨花は「うーん」と視線を彷徨わせた。
「一回忘れたことを思い出すのって結構大変なんだよね。あっさり思い出す時もあれば、忘れた頃にころっと思い出しちゃうこともあるし。響君は何か思い出したいことがあるの?」
「うん。でも、それがなんなのか分からないんだけど」
「そういうのって思い出すのが一番難しいんだよねぇ……。でも、思い出してみると意外と大したことじゃなかったりするのよね」
 笑い混じりに何気なく梨花が言うと、響はコーヒーを掻き混ぜながら視線を落とす。思いがけず無反応だったものだから、梨花は「あれ?」と首を傾げた。
「ものすごく大事なことだった気がするんだ」
 忘れていることを思い出そうとしているだけとは思えないほど、響はとても追い詰めたような様子だった。
 何か大事なことを忘れている気がして、それを思い出したい。響の漠然とした悩みに梨花も少しのあいだ一緒になって考える。
「そんなに大事なことなんだ?」
「多分……。思い出せたらこの頭痛とか胸の引っかかりとか、なくなりそうな気がする」
 エリカなら何か知っているかもしれないと梨花は即座に思ったが、エリカは昨日の昼休みにほんの僅かな時間姿を見せたきりだった。
 今日もしエリカが出てきたら響のことを何気なく聞いてみようと梨花は考えて、不安げな響を元気づけるように笑んだ。
「そういう時は無理に思い出そうとしないで、頭を切り換えた方がいいんじゃない?」
「切り替える?」
「今はゆっくり休むとか。ねぇ、本当に身体なんともないの? 休まなくていい?」
 昨日から幾度となく繰り返された問いかけに辟易することもなく、響は淡く微笑んだ。
「本当に大丈夫だよ。身体だって痣とか全然無かったし、りっちゃんだって見たでしょ?」
「そりゃ見たけどさ、やっぱり心配だよ」
 昨日のあの状況を考えると、響本人が無事だと言っても心配になるものだ。それくらいあの時の状況は信じがたいものだった。
 あの時はあまりに突然の出来事にパニックになっていて、周りの状況を冷静に考えられるほど梨花に余裕がなかった。
 駆け付けてくれた人から話を聞くと、倒れた本棚は一つだけではなく、正確には梨花の背後の本棚の更に二つ後ろで、それらがドミノ倒しのように連続して倒れたのだという。一つだけでも相当な重量があるものなのに、倒れたのは三つ。単純計算でも三つ分の重量が響の背中にかかったことになる。
 対する響の身体は決して逞しくも太くもない。どちらかと言えば身長の割に華奢な方で、少なくとも本棚を支えられるような身体の持ち主ではない。むしろ梨花と一緒に潰されてしまう方がしっくりくるほどだ。人は追い詰められた時にとんでもない力を発揮するというが、それで済ませるには些か不満が残った。
「あんな状況でよく私のところに駆け付けたよね。普通怖くて出来ないよ。怪我しちゃうかもしれないのに」
「りっちゃんを助けなきゃって思ったら、身体が勝手に動いてたんだ」
 すごいよね、と響はまるで他人事のように言う。それがおかしくて梨花はつい笑ってしまった。
「うん、すごかったよ。ビックリしたし、格好良かった。私だったら怖くて動けないかも」
「あのとき逆の立場でも、絶対にりっちゃんは助けてくれたよ」
「響君って私のこと買いかぶりすぎてる」
「ううん。俺の好きなりっちゃんは、そういう人だから」
 さも当たり前のように響は言う。その穏やかで優しい表情には照れくささもなく、まるで挨拶でもしたかのような自然さだけがあった。それは響が本当に心の底からそう思っているからこそだった。
 響の中の梨花は、光のように眩しく、ヒーローであり女神のような、絶対的な存在なのだ。
 梨花はぽかんと放心していたが、徐々に響の言ったことが頭の中へ浸透してくると照れくさいようなくすぐったさを覚える。
「ここが学校じゃなくて良かったなぁ」
「え?」
「だって学校でそんなこと言われたら、ファンクラブの人達から何言われるやら……って」
 言ったあとで梨花は「しまった」と思った。梨花は冗談で言ったつもりだったが、昨日の出来事のせいでそう取れなかった響は表情を曇らせてしまう。
「昨日は本当にごめん」
「だからもう良いって言ってるでしょ。謝らなくていいんだってば。響君のおかげで私どこも怪我してないし、第一響君のせいじゃないんだから」
 慌てて弁明しても響の表情は晴れない。
 確かにあの時、図書室の向かい側の校舎には神崎と桐沢がいたが、あの二人とてたまたまそこに居合わせただけの可能性も十分にある。ただタイミングよくそこにいただけで犯人というのはあまりに安直すぎるというものだ。いくら響のファンクラブの子達が怪しいとしてもだ。
「あっもうこんな時間! 早く片付けないと学校遅刻しちゃう」
 梨花は慌てて立ち上がり、お皿をまとめてキッチンへと向かう。食器をシンクに置きダイニングへと戻ると、響が梨花の鞄を持って待っていた。
「何回も言うけど、本当に響君のせいじゃないからね」
 響の手から鞄を受け取った梨花がお礼ついでに言うと、
「うん、もうあんなことにはならないようにするから」
 と、分かったんだか分かっていないんだかよく分からない返答がくる。響のズレた返事に食いつく時間もなく、梨花は「まぁいいや」と頭を少し掻いて言い捨てた。
「大丈夫、りっちゃんは俺が守るから」
 靴を履いていた梨花の背後で響が言う。昔は梨花の後ろに隠れるほど頼りなかった幼馴染の頼もしい言葉に、梨花は改めて時の流れを実感する。
 梨花はクスクスと笑って「うんよろしくね」と冗談交じりに返す。
「それが俺の役目だから」
 梨花が振り向いた先にいた響は微笑んでいた。それはいつもの、梨花がよく知っている幼馴染の響の顔だった。



 昨日の出来事を思い出して放課後に図書室へ足を運んだ梨花だが、そこには当然のことながら昨日の面影は残っていなかった。ここへ来たのは、もしかしたら何か犯人の手かがりがあるかもと探偵じみた考えからだったが、これではあまり期待出来そうもない。
 響には関係無いと言ったものの、昨日の出来事がもしファンクラブの人達の仕業だとしたら。昨日の朝、梨花はファンクラブの子達と揉めた。そのことが原因だとしたら。
 人から恨みを買うような出来事で身に覚えのあることなど、梨花にはそれしか思い当たらなかった。
「この本棚が倒れたのか!? だいぶ重いぞこれ!」
 真剣に考え込んでいた梨花の横で、静かな図書室には不似合いなほどの声で悠人が言う。
 昨日の今日で、たった一人で行くのも軽率だと思い悠人に付き添ってもらったのだが、やはり悠人は図書室というガラではなかったと梨花は若干後悔した。
「悠人、もうちょっと静かにして。──でさ、どう思う?」
「重いっちゃ重いけど、俺なら全体重かければ倒すくらいならいけるかも。女子なら二人はいるんじゃないか? で、梨花の真後ろの棚を倒しただけじゃ顔を見られると思ったからドミノ倒しって感じか」
 やっぱりそうだよねと梨花は相槌を打った。何度見てもこの本棚は強固な作りで縦にも横にも長く、中に納められている本も相まって相当な重さだ。地震でも起きない限りは絶対に倒れそうにない。
 それ以外で倒れる可能性があるとしたら、人為的なものしか考えられない。
「ちなみにこの本棚が向こうから倒れてきたとして、悠人だったら支えられる?」
 悠人には昨日の出来事を大まかに説明したが、唯一、響が棚を支えて梨花を守ってくれたことだけは言っていない。
 こともなげに聞くと悠人はギョッとして「無茶言うなって!」と顔色を変えた。
「潰れるに決まってんだろ、お前俺を殺す気か! 倒すのと支えるのは別モンだから。そんな芸当出来るとしたらラグビー部とか相撲部ぐらいなもんだろ。それでも前もって倒れることが分かってないと無理じゃねぇの……ってかお前、まさかそんな実験するために俺を呼んだんじゃないよな……」
「そんなバカなことするわけないでしょ、聞いただけよ」
「だよな、良かった……」
 悠人はホッと胸を撫で下ろす。その仕草が無性に癇に障った梨花は目を細めた。
「あんた私のことをなんだと思ってるのよ」
 言ったあと、梨花は再度本棚を見上げた。これが倒れるとどうなるのかなんて昨日恐ろしいほど思い知らされた。実行した人達の目的が梨花にあったとしたら、今回の件は驚かせるつもりだとか警告だとか、そんなものを通り越しているように感じた。
 悠人も大方は梨花と同じ意見らしく、壁にもたれ掛かって腕を組む。
「お前、昨日の朝に響のことでファンクラブのやつらと揉めたんだろ。それが原因じゃねぇの。つーかそれしか考えられないし」
「私も怪しいとは思ってるけど、何の証拠もないのにそうだとは言い切れないよ。一個人のファンクラブがそこまでするかなぁとも思うし」
「あいつらは響のためならなんだってするさ」
 いやに重々しい言葉だった。真顔で言い放つ悠人の感情を読むことが出来ず、梨花は訝しげな顔で食いつく。
「なんでそこまで言えるの? そういえば、昨日もファンクラブの話をした時気まずそうだったよね。もしかして悠人も前に何かあったりした? だからそんなこと言えるの?」
「それは……」
 問い詰めると悠人は怯んで気まずい顔をする。そんな様子では「何か隠してます」と言っているようなものだと梨花は心中で思ったが、そっちの方が都合が良いので黙っていた。
「悠人」
 教えてと目で訴えると、どこからともなく携帯のバイブレーションが聞こえてきた。梨花がブレザーのポケットから携帯を取り出すと、そこには友人である麻衣の名前が表示されている。
「麻衣、どうしたの?」
『あ、梨花ちゃん。まだ学校にいるよね?』
「うんいるけど」
『あのね、梨花ちゃんに会いたいって人が学校の門で待ってるんだけど』
「私に? 誰だろ……。相手の名前とか聞いてる? あと、どんな人?」
 考えてみても心当たりはない。呼び出しなんて昨日の今日だったものだから、梨花が警戒してしまうのも無理はないだろう。
『高藤さんっていう男の人。背が高くてすごく格好いいよ。エリカのことで、って梨花ちゃんに言えば分かるかもって言ってるけど、分かるかな?』
 エリカのこと。高藤さん。
 その二つのワードで梨花はハッと思い出す。
 エリカと長い付き合いである大学病院の准教授。すごく優しくて良い人で、お兄さんかお父さんみたいな存在だとエリカは言っていた。梨花の頭の中で、その時の嬉しそうなエリカの顔が浮かんだ。
 ひとまず梨花は麻衣に呼ばれるがまま校門へと向かった。悠人が心配して「俺も行く」と言ってくれたものの、高藤は知り合いだから大丈夫と嘘をついて断った。
 高藤は十中八九エリカのことで話があるから梨花に会いに来たのだろう。響の状態について何も知らない悠人がいると話しづらいかもしれないと梨花は考えた。
「えっと……校門付近って言ってたよね……」
 ちょうど下校の時間で外は人が多かったが、さして困ることなく梨花は高藤を見つけた。
 なぜならば、高藤がめちゃくちゃ目立っていたからだ。
 人混みの中で一際注目を集めている一台の車と、そこへ寄りかかっている男の人。車は艶やかに輝くダークシルバーのBMW。それに凭れかかって寛いでもやたらと様になっているスラリと伸びた長い足。全体的に長身で、ビシッと着こなされたネイビーのスリーピーススーツが嫌味なほど似合っている。 
 大人の男としてレベルの高い高藤を、帰り際の女生徒達はこそこそと好奇な目で見ていく。ミーハーな子に至っては彼に挨拶したり手を振ったりもしていた。それに対して高藤は愛想の良い微笑みを浮かべながら手を振って軽く返答している。そんな穏やかな顔も、オールバックに整えられた清潔感のある髪型と相まって好感が持てた。
「梨花ちゃんこっち!」
 高藤の横に立っていた麻衣が梨花に気付いて大きく手を振る。高藤は梨花を見ると柔らかに微笑んで会釈した。
「すみません……まともな面識など無いのに急に呼び出したりしてしまって」
「いえ、エリカから少しだけど話には聞いていたので」
「良かった。エリカがちゃんと僕のことを話してくれていたみたいで。知らなかったらどうしようかと思いました」
 高藤はポケットからシルバーのカードケースを取り出し、一枚の名刺を梨花へ差し出す。
「エリカがどこまで僕のことを話しているのか分からないので、良かったらどうぞ」
「ありがとうございます……」
 いくらエリカの友達とはいえ、高藤と梨花は初対面である。梨花の警戒心を和らげるために高藤が名刺を渡すと、梨花はまじまじと名刺を見つめていた。
 東名大学医学部付属病院心臓外科。准教授・高藤英(たかとう すぐる)。
 名刺にはそう記されていた。
「初めまして梨花さん。エリカからあなたのことはよく聞いていて、一度話してみたいなって思っていたんです。もしよかったら、少しお時間いただけませんか?」
 高藤は人好きのする笑顔を浮かべながら梨花へと手を差し出した。



「来た……!」
 三階の音楽室からグラウンドをこっそり眺めていたエリカは、いつもより少し遅く出てきた悠人の姿を見つけて声を弾ませた。
 誰にも邪魔されず好きな人の姿をずっと眺めていられる、エリカの密やかな楽しみの一つである。
(いつも格好いいなぁ、悠人君)
 そんなエリカの熱い視線に気付かないまま、悠人は大きな欠伸をしながらチームメイトとストレッチを始めた。時折楽しそうにじゃれている悠人を見てエリカも一員のようにクスクスと笑う。
 県内屈指の強豪であるサッカー部は朝早くから練習があり、放課後も夜遅くまでやっていることがある。レギュラーである悠人は自主連にも余念がないため疲れが溜まっていないかとエリカは心配だったが、元気そうな悠人を見てそれも杞憂だったかと安心する。
「いつも遅くまでお疲れ様。頑張ってね」
 愛しさに目を細めて、エリカはこっそりと悠人へエールを送る。
 音楽室にいるエリカと、グラウンドにいる悠人。その遠い距離がお互いの心の距離を顕しているようでもどかしい。
 けれど、今はこれがエリカの精一杯だった。
 本当は悠人にもっと触れたいし、話をしたい。ずっと見ていたいし傍にいたい。でもそれが叶うことがないのは誰よりもエリカ自身が一番よく知っていた。
 エリカがやるせない気持ちを抑えながらぼんやりと外を見つめていたところで、悠人がチームメイトから何かを言われて音楽室を見上げた。
「!!」
 悠人とばっちり目が合ってしまい、エリカの心拍数は一気に上がる。
 悠人は眩しい笑顔を惜しむことなく見せながらエリカへ──正確には響へ──ブンブンと両手を振ってくる。
 その姿に耐えられなかったエリカは数歩後ずさり、窓に背を向けて胸を押さえた。
「悠人君……」
 胸が苦しくてたまらないのに心は真逆、幸福で埋め尽くされる。もうどうにも出来ないほど、エリカの悠人に対する気持ちは日に日に募っていくばかりだった。
「そうだ!」
 エリカはふと閃いて、パンッと両手を合わせる。
 せっかく音楽室にいるのだから悠人へ何か曲を贈ろうと閃いたのだ。
(何か、悠人君に似合う曲がいいな。お日様みたいで、ぽかぽかしてて、見ているだけで心が温かくなるような……。でも、悠人君ってクラシックって感じじゃないんだよね)
 ふふっと小さく笑いながら、エリカはピアノの蓋を開けるとゆっくりと息を吐く。
 ゆるやかに指を動かし、静かに、そして優しく始まる旋律。放課後の静かな音楽室とグラウンドの喧噪の中で、透明感のある落ち着いた音色はなおのこと際立った。
(ああ、好き、好き。悠人君が大好き)
 口には出せない分、音色にありったけの気持ちを乗せる。
 悠人に好きと言って、彼が微笑んでエリカの気持ちを受け入れてくれたのなら。そうしたらそれ以上の幸せなどきっとこの世には存在しない。
 エリカは心の底からそう思っていた。
「まだ諦めていないんだね、きみは」
 唐突に降ってきた声にエリカの指が止まった。
 いつの間にか音楽室の扉は開かれ、そこに立っていた桐沢はまっすぐにエリカを見つめていた。エリカは桐沢へ視線を向けることはなく、その目は鍵盤を見つめたままだ。
 大好きな悠人へ贈る曲の演奏を、第三者に、よりにもよって桐沢に中断させられたことが不愉快だった。悠人との時間を邪魔されたような腹立たしい気分になったエリカは、無言でピアノの蓋を閉じて椅子から立ち上がる。
 最後に一目だけグラウンドにいる悠人を見たかったけれど、桐沢がいてはそれも出来ない。エリカは心の中で「バイバイ」と言って音楽室を出ようとした。
「待って」
 横切ろうとしたところでエリカは桐沢に呼び止められ、腕を掴まれた。桐沢の力は強く、振り払って逃げられそうにもない。
「放せ」
 出来る限り響を意識して、エリカは低い声で言って桐沢を睨む。響のフリをすることで誤魔化せないかと淡い期待を抱いたが、桐沢の浮かべた笑みを見てそれが無駄だとすぐに察する。
「それで誤魔化したつもり? 柊響のフリをしたって僕には分かるよ、エリカ」
 梨花や悠人、学校の人達みんなを騙すことは出来ても、ただ一人桐沢だけは欺けない。どういうわけか、桐沢は一目見ただけでエリカと響の区別を付けることが可能だった。
 だからこそエリカが一人でいるところを狙ってやってきたのだろう。
 エリカは観念してため息を吐くと、未だ腕を拘束する桐沢を強く睨み付けた。
「放して、誉君。痛いから」
 桐沢は浮かべていた笑みを一層濃くする。
「何がおかしいの」
「エリカがやっと僕を見て、名前を呼んでくれたんだ。嬉しくないわけないじゃないか」
「エリカは誉君と話しても全然楽しくないし、嬉しくない。だから放して」
「放したらエリカは逃げるだろう」
「当たり前でしょ! エリカ前に言ったよね、嫌いだって。もう顔も見たくないのっ。誉君のそういうところ気持ち悪いの! 大嫌い!」
 エリカが思い切り不快さを込めて桐沢に言い捨てると、強く腕を引かれて壁に押しつけられた。身体が密着するほど間近にある桐沢の顔を見て、エリカの身体を嫌悪感が駆け巡る。
「放して……っ、放してってば!!」
「気持ち悪いって、エリカがそれを言うのか」
 エリカの抵抗をものともしない力で抑え込んだ桐沢は、エリカの両手を頭上で一纏めにしてしまう。そして空いた手で思い切りエリカの顎を掴んだ。
 お互い息がかかりそうな距離で、桐沢は至極楽しそうに言い放つ。
「全部知れば、樋口だってエリカのことを気持ち悪いって思うよ」
「……っ!!」
 ズキリと、胸が痛みを訴えた気がしてエリカは目を見張った。
「なんだ。人には『気持ち悪い』なんて平気で言うくせに、自分が言われたら傷付くなんて酷い話だな」
 桐沢は何食わぬ素振りでエリカに言う。エリカは何も言い返せなかった。その目が徐々に悲しみに染まっていくのを、桐沢は満足げに見つめる。
「少し意地悪だったかな。すまない。どうしてもエリカと話がしたかったんだ」
「……誉君と話すことなんて何もない」
「つれないな。でも僕にはあるんだ。ねぇエリカ、一体いつになったら樋口を諦めるんだ。傍にはいられても、樋口はきみを見ていないのに。樋口悠人は柊響の親友で、それ以上にもそれ以下にもなりえない」
「それが何? 誉君には関係のないことだよね?」
「十分に関係あるよ。だって僕はエリカのことが好きだからね、出会った時からずっと」
「私が好きなのは悠人君だもん。誉君なんて大嫌い」
「ならどうして樋口に告白しないんだ。まさか本当に、見ているだけでいいなんて思っていないだろう。少なくともバレンタインの時、きみは本気で樋口に告白するつもりだったのだろうし」
「ほっといてよ、痛いから放してっ」
 エリカは気丈に振る舞いながら顔を逸らそうとするが、桐沢から顎を強く掴まれているため上手くいかない。もがけばもがくほど桐沢の拘束は力を増すばかりだ。
「エリカ。きみは人のことを簡単に傷つけるくせに、自分が傷つくのはなによりも怖いんだ。違うかい?」
「ちがう、そんなことない」
「結局きみはあの頃からなにも変わっちゃいないんだ。自分が傷つきたくないから殻に閉じこもったまま。これからもずっとそうして生きていくつもりか?」
「やめてっ!!」
 聞くことを拒否するように声を張り上げたエリカを見て、桐沢は溜息をついた。
「それなら僕が協力してあげようか?」
「え?」
 エリカは訝しげな顔で桐沢を見上げる。
「きみが樋口に告白出来るように僕がセッティングしてあげよう。そうだな……手始めに僕が知っていることを全部、樋口に話してみようか。樋口がそれを信じるかどうかは分からないけれど、少なくとも今のままではいられなくなるのは確かだ。そうすれば樋口はエリカのことを見てくれるだろ」
 桐沢のとんでもない提案に、エリカは信じられないといった面持ちで呆然とする。
「どうして、そんなこと……誉君なに言ってるの……?」
「エリカの好きな樋口は優しい男なんだろう? 全て知ればエリカのことを受け入れてくれるかもしれないよ」
 エリカの顔が可哀想なほどみるみるうちに真っ青になっていく。その変化を内心楽しみながら、桐沢はエリカを拘束していた手を離す。
 なぜ拘束が解かれたのか分かっていない様子のエリカをよそに、桐沢は身を翻して音楽室を出て行こうとする。考えがまとまらないエリカだったが、ただ一つ、ここで桐沢を行かせてはいけないことだけははっきりとしていた。
「待って!」
 エリカは桐沢の腕を掴んで引き留める。
「なに?」
「誉君、何しようとしてるの……?」
「言っただろ。今から樋口のところへ行くんだよ、外で部活をやっているようだし」
「やめてよ! 何考えてるのっ」
「ねぇエリカ、渡瀬がもし本当に樋口のことが好きで告白していたら、今もあの二人は続いていたと思うかい? もし続いていたのなら、きみはどうなっていたんだろうね?」
 桐沢の口から出た名前にエリカの顔が強張る。エリカにとっては忘れもしない、忌まわしい名前だ。
「あの時きみは、樋口が他の女にとられるのを指を食わえて見ているだけだった。きみは自分を女だと思っているけれど、女としての自分には全く自信がない。だから渡瀬ごときの女にも負けてしまうんだ。そして、きみにとっての樋口は、渡瀬ごときの女にも簡単にくれてやれるほど大した事のない男なんだろ」
 言い終わるやいなや、桐沢の頬を思い切りエリカが打った。
「……悠人君のこと悪く言うのは許さないから」
「そこまで言うのなら、今すぐにでも樋口のところへ行って好きだと告白してきなよ。そうでもしないと僕がきみのことを全部樋口に話してしまうよ」
「脅すつもり……?」
「気づかないかな。僕はきみをいつだってこうして追い詰められたんだよ。それを今までしてこなかったことをきみはもう少し感謝するべきだ」
 まさかこういう形で桐沢から追い詰められることになるとは、最近学校で表に出すぎてしまっていたことをエリカは痛烈に後悔した。響であれば桐沢は近付かないが、だとしてもここで響に変わってしまうと桐沢がどんな行動に出るか分からない。
 なんにせよ、桐沢とこうして一対一の状況になってしまった時点でエリカは積んでしまっていた。
「ほら、きみの大好きな樋口のところへ行くといい」
 桐沢はエリカの腕を掴んで悠人のところへ向かわせようと急かす。
「待って、少し時間を……悠人君いま部活中だから……!」
「何を言ってるんだ。今まで散々僕は待ったよ。もう待てない」
 どうすれば桐沢を止められるのか、エリカはぐるぐると必死で考える。
「言っておくけど、僕は本気だよ。きみがここで樋口に気持ちを伝えないのなら、僕が樋口に全てをばらす」
「どうしてそんな急に……」
「急じゃないさ、ちっとも」
 戸惑っているエリカの肩に触れて、桐沢はエリカを抱きしめる。
「やだっ、いやだってば! 誉く」
「抵抗するなら僕は樋口のところへ行くよ。それでもいいのなら突き飛ばせばいい」
 耳元で囁かれた桐沢の言葉に、今度こそエリカは絶句した。桐沢から離れようと動かしていた手がぴたりと止まる。
 エリカは桐沢のことなど好きではない。だが、ここで抵抗して桐沢を突き放せば悠人に全てを明かされてしまう。拒みたいのに拒めないもどかしさと悔しさと、悠人に秘密を打ち明ける勇気のない臆病な自分に絶望した。
 見開かれたエリカの瞳から一筋の涙が零れる。それと同時にエリカの腕が力なくだらりと落ちた。
 それが答えだと捉えた桐沢は、エリカの背中に回していた手に力を込めた。
「本当に可哀想な人だな、きみは。強がりで、愚かで、臆病で、脆くて怖がりで、誰も信じていない。ずっと想い続けてる樋口でさえ、本当のことを知れば離れていくと思ってる」
 決して長い付き合いではないが、友人として付き合ってきた中で桐沢が知ったことはたくさんあった。明るくて可愛くて、優しくて素直で、たまにちょっと意地悪で、人をからかってくるところもそれを面白そうに笑う顔も、どれも愛しい、桐沢にとっては大切なエリカの一面だ。
 そんなエリカのことを、悠人はなに一つとして知らないのだ。そんな男にエリカを渡す気は桐沢には毛頭無かった。
「エリカがこんなに苦しんでいても樋口は何も知らない。でも僕は違う。きみのことを樋口よりも知ってる。僕はエリカのことが好きだよ」
 桐沢の言葉は優しく重く、毒のようにエリカを冒していく。
「僕のものになってくれるのなら、なにがあっても絶対にエリカを守るよ。きみを傷つける全てから。絶対に後悔させない。柊響を消したいのならそれにだって手を貸す。ねぇエリカ、ありのままのきみを愛せるのは僕だけだ」
 身体を動かすことが出来なかったのは、桐沢の言うことは全てが間違いというわけではなかったからだ。
 以前、響目当てで悠人に近付いた渡瀬という女。エリカは彼女の本音を聞いた時、なんで酷い女だろうと思った。けれどエリカはその時の渡瀬と似たようなことを過去にしていた。
 響のフリをして梨花を振り、彼女を傷つけた。
 自分が傷つくのはなにより恐れているのに、人のことは簡単に傷つけてしまう。それは酷いことじゃないのか。こんな浅ましい自分は、悠人に相応しくない。
 愕然とするエリカの頭の中で、誰かの声がした。
『むかつくなぁ、そいつ』
 今まで感じたことのない現象に、エリカはハッと我に返る。
『替われよ。調子にのってるその気持ち悪い男、ぶっ殺してやる』
「やめて!!」
 その穏やかでない声色に、エリカはとっさに声を上げて桐沢を突き飛ばした。
 頭の中で誰かの声がする。今までになかったそれは、エリカにとてつもない衝撃と動揺、恐怖をもたらした。
「いたっ……」
 途端に頭痛に見舞われ、エリカは頭を押さえてしゃがみ込んでしまう。ハンマーで頭の内側から叩かれているかのような激しい痛みだった。
 桐沢もエリカの様子が普通ではないことに気付き、慌てて駆け寄った。
「エリカ!? 大丈夫か!?」
「誉君、行って……」
「え?」
「あの子が出てきちゃう。このままじゃエリカ、誉君に酷いことしちゃう……。早くどこかへ逃げて!!」
 切迫したエリカの様子はとても演技には見えない。桐沢は何が起こったのか分からず唖然としていると、第三者の足音と共に音楽室の扉が開かれた。
「おい! なにやってんだ!!」
 乗っ取られると思っていたエリカの意識はギリギリのところで引き戻された。
 途端、嘘のように頭痛は消えてエリカは顔を上げる。何が起こったのか分からず、突然上がった第三者の声が誰のものなのかも理解するのに時間がかかった。
 それくらい、エリカには目の前の光景が信じられなかった。
「樋口……」
 桐沢が忌々しげにその名を呼ぶ。その桐沢の視線は、音楽室の入り口に立っているジャージ姿の悠人へ向けられていた。
「なにやってんだよ、あんた……っ」
 悠人は険しい顔のままずかずかと音楽室へ足を踏み入れ、エリカとの間に入るようにして桐沢を突き飛ばす。桐沢は倒れこそしなかったものの、突き飛ばされた衝撃でずれてしまった眼鏡のブリッジを腹立たしげに持ち上げた。
「響、大丈夫か? 立てる?」
 悠人はエリカに声をかけながら手を差し伸べる。エリカにはそれが眩しく見えて、無言で悠人の手を取って立ち上がった。悠人の手は熱くて少し汗ばんでいた。不思議に思って見れば悠人は額にも汗を掻いていて、部活を抜け出して走ってきてくれたことがありありと伝わってくる。
(また助けてくれた)
 悠人はいつだって、エリカを救い出してくれるヒーローだった。エリカはそれが嬉しくてたまらなかった。神様なんて信じていないが、この時ばかりはお礼を言いたくなるほどに。
「あいつに何かされたか?」
 悠人の問いかけにエリカはブンブンと首を横に振る。頑なに口を開かないエリカの様子に、よほど怖い目に遭ったのかと悠人は見当違いなことを考える。外傷はないが、目元が少し赤く、濡れているように見えた。もしかしたら酷いことを言われて泣いたのではないかと、悠人はきつく桐沢を睨み付けた。
「俺は穏健派だからな。響に誠心誠意謝って、今後付きまとったりしないってのなら見逃してやってもいいけど」
「まさか。それで僕が引き下がるとでも思っているのかい」
「だよな。言ってみただけだから安心しろ」
 誰が見てもこの部屋の空気は異質で、重い沈黙が包む。
 桐沢が何を言うのか怖くて、エリカはその中に介入することが出来なかった。悠人に加勢して下手に桐沢の機嫌を損ねればエリカのことを暴露されかねない。
 先に沈黙を破った桐沢の笑い声に、エリカはビクリと肩を揺らしてしまった。
「樋口。きみはエリカという女の子のことを知ってるかい」
「は?」
「そのエリカという女の子、きみのことがとても好きらしい。だけど、振られるのが怖くて告白出来ないそうだよ」
「なんだそれ。今は関係ないだろそんな話」
「僕としては大いに関係あるんだけどね。それにしても、柊響に関わったせいであんな痛い思いをしたというのに、まだ懲りていないなんて君は本当に馬鹿なんだな」
「あれは響のせいじゃねーし。お前らのせいだろが」
 苦々しく言い捨てる悠人へ、桐沢は目を細めて不穏な笑みを浮かべていた。何を企んでいるのか分からないその双眸がエリカにとっては恐ろしかった。
「仕方ない。一応僕の方が年上だしね、今日のところは引き下がってあげるよ。でも、この次はないよ」
 ずれてもいない眼鏡のブリッジを持ち上げて、桐沢は音楽室を出て行く。通り過ぎさまにエリカを見て微笑んだが、エリカは目をそらして気付かないフリをした。悠人は、桐沢の姿が完全に視界から消えるまで安心出来ないのか硬い表情を崩すことはなかった。
「ああそうだ」
 音楽室の入り口で、さも今思い出したと言わんばかりのわざとらしい口調で桐沢は足を止めた。「まだなんかあんのかよ」と、悠人は苛立ったような声色で言葉を零す。
「サッカー部はもうすぐ地区大会だろう? 『あの時』みたいにならないよう夜道には気をつけるんだね」
「……やれるもんならやってみろよ。今度は返り討ちにしてやっから」
 親指を下に向けた悠人の挑発を桐沢は鼻で笑う。そしてそのまま何も言わずに去っていった。廊下に響く足音が完全に消えるまで、悠人は音楽室のドアを見つめたまま動かなかった。
「あの……」
 エリカは響のフリをしながらおそるおそる悠人へ声をかける。その声で我に返ったらしい、悠人はバッと振り返ってエリカの両肩を強く掴むと、眉を吊り上げて怒った。
「お前馬鹿か!! こういうことになるから放課後はすぐに帰れって前から言ってただろーが! また音楽室で優雅にピアノなんか弾いてたんだろ、このバカッ」
 ものすごい剣幕で怒った悠人は言葉尻にエリカの頭をバシッと叩く。常のエリカであれば「いたーいっ!」と声高に言っているところだが、なんとか空気を読み声を抑えた。
 悠人はそれ以上怒らず、一息吐いて頭を掻いている。
「ったく、さっさと帰れって言おうと思って来てみれば……あんなやばいヤツにまで好かれてんのかよお前……。マジでご愁傷様だな」
 悠人は苦々しい顔のまま、何かを考えるようにエリカから視線を逸らす。それを見たエリカはどうしようもなく不安に駆られた。
(どうしよう、私のせいで悠人君に迷惑をかけてしまった。それだけは絶対に嫌だったのに……避けたかったのに)
 けれどそんな中でもほんの少しだけ、こうして悠人が傍にいることを嬉しいと思ってしまう自分もいるのだから手に負えない。
「あ、……えっと、その……」
 考えが纏まらない頭の中でエリカは必死で悠人にかける言葉を探す。いつもだったらもう少しまともに話せるのに、今日はなぜか上手くいかない。
 そもそも、遠くから見つめているだけでもドキドキするのにこんな傍にいてはもうときめきは振り切れる寸前である。
 エリカの顔は茹で蛸のように真っ赤になっていた。
「響? どした?」
 口ごもっている響を不審に思ったのか、悠人がひょっこりと顔を覗き込んでくる。
(やめて、そんな風に見つめないで! ああっ、それ以上近寄らないで!)
 エリカは自分の足下を見つめることで出来るだけ悠人を視界に入れないようにした。こうでもしなければ今はまともにしゃべれそうにもない。
「あの……ありがとう」
 エリカがやっとの思いで紡いだ声はとても小さなものだった。一言だけでも情けないほど必死でままならない。
 悠人にちゃんと聞こえたかどうか不安に押しつぶされそうになっていると、頭上でクスクスと笑い声が聞こえた。
「お礼とかいーって、別にそんな大したことしてねぇし。それに梨花ならもっと格好良くお前のこと助けるんだろうけど、俺はあいつみたいにヒーローには向いてないからなぁ」
「そ、そんなことないっ!!」
 まるで条件反射みたいに、エリカは自分でも驚くほど大きな声で反論していた。これには悠人もビックリしていて、パチパチと二・三度瞬きをしたあと、苦笑する。
「てゆーか、今日のお前なんか変。顔赤いし、熱でもあんのか?」
「ね、熱、は……ない……から、だ、大丈夫……」
 さっきの勢いはどこへやら、再びどもってしまうエリカを見て悠人は「やっぱり変だ」と言って笑った。
「本当に、ありがとう」
 再度お礼を言うと、悠人はエリカの大好きな微笑みで言った。
「親友だからな、助けて当然だろ」
 先ほどまでの夢心地から、真水を浴びせられて一気に現実へと引き戻された気分だった。
 柊響は樋口悠人の友達であり幼馴染。
 それは昔から変わらない、変えられない現実だった。
「親友……」
 悠人の言葉をエリカは呆然と反覆する。
「おいおい複雑そうな顔すんなよ傷つくだろうが。まぁとにかく、お前今日はもうさっさと帰れ。もう来ないとは思うけど、あいつ懲りた感じも全然なかったし心配だからな……。一緒に帰ってやりてぇけど俺まだ部活あるから」
 エリカはふらりと後退りすると、その場から走り去った。
「響!!?」
 後ろで悠人が呼び止めていたが、エリカは振り返れなかった。そんな勇気すら持てなかった。成長したのは見せかけだけで中身は昔と何も変わっていない、小さな小さな子供のまま。
 好きな人から「親友」と言われただけで、こんなにも傷ついてしまう自分が信じられない。悠人は何も知らないのだからしょうがないじゃないかと、自分で言い聞かせても駄目だった。
 溢れ出る涙を誰にも見られたくなくて、がむしゃらに走ったエリカは空き教室へと逃げ込んだ。
「……うっ……」
 そのまま扉を閉めてずるりと座り込む。息が切れて苦しい。
 けれどそれよりもずっと、胸の奥が痛くて苦しかった。