第30話 サヨナラなんてできない


 ゆっくりとドアに手を掛けて開く。
 その音で中にいた彼は気付いて、窓に向けられていた顔をこちらへ向けた。そして彼の漆黒の双眸が私を見たかと思えば、その瞳は驚いたように大きく見開かれる。けれどそれはすぐに微笑みに変わった。
 彼が私に微笑みかけてくれた。それだけで自分の胸が高鳴っていくのが分かった。ようやく彼に会うことが出来たのだという嬉しさと、彼への愛しさがこみ上げてくる。会う前はあんなにも何を話すべきなのか悩んでいたのに、今やそんな思いなど消えてしまっていた。
「唯君……」
 本人を前にして名を呼ぶのも、彼からこんな風に見つめられるのもすごく久しぶりのことだった。それなのにどうもそんな感じがしなくて、私は少し笑みを浮かべていた。
 言葉も、自然と口から零れていく。
「久しぶりなのに、……おかしいよね、そんな感じがしないの」
 歩み寄りさえすれば互いの距離は縮まるのに、どうしてもその距離を縮める一歩が踏み出せなくて私はドアのところに立ちつくしている。唯君は私に声を掛けることもなく、ただ黙って私の言葉を聞いていた。
 あまりに彼がまっすぐ私を見つめてくるものだからその視線に恥ずかしくなって、私は小さく俯いてしまう。
「夢で、ね……何度も唯君に会ったんだよ。……だからかな……」
 彼を見ただけで胸がいっぱいになって苦しくなって、今にも泣き出してしまいそうになる。けど、それも唇を咬んでなんとか堪えた。そして顔を上げ、精一杯に笑って私は言った。
「……唯君笑っててね、いつも抱きしめてくれて、温かかった」
 太陽の照らすその下で、制服から伝わってくるお日様の香りや体温すべてがリアルで、これは現実なんじゃないかと何度も思った。同時に、現実であってほしいとも。けれど何度そう願ったとしてもそれはやっぱり私の作りだした夢に過ぎない。
 目が覚めた後でそれに気付いて、そう思うと悔しくて悲しかった。
「だから、あんな風に微笑んでほしいと思ったから……唯君が眠ってる間、勝手なことをしてごめんなさい……」
 お父さんを突き放してごめんなさい。周りにずっと隠していた秘密を知られてしまう形になってしまってごめんなさい。力になるからと、守ってあげるからと誓ったくせに、こんなことになってしまって、本当にごめんなさい。
 唯君に向かって頭を下げて、私は瞳を閉じた。病室は物音もなにもせず、ただしんと静まりかえっている。ここは個室だから唯君以外の患者はいないのだ。
 そしてその静寂を消すように口を開いたのは唯君だった。
「それがお父さんと周りのことを言ってるのなら、藤森が謝ることなんてないよ」
 久しぶりに聞いた、現実での彼の声。以前となんら変わらない優しい響きのそれに私は顔をあげる。唯君の瞳はこちらへ向けられておらず、少し俯いて自分の手を見つめている。
「秘密っていつかはバレるものだって、前から自分でも分かってたんだ。こんなことがずっと隠し通せるわけがないって。……それでも、いつか周りに知られるんじゃないかって怖くて、ずっと嘘に嘘を重ねてきて……」
 まるで自分を嘲笑うかのように、彼の口元が小さく笑みの形を作る。
「……俺ってバカなんだ。それが自分にとって余計に負担になるんだってこともちゃんと分かってたのに、いつもとる行動は自分のマイナスになることばっかりで……」
「唯君……」
「でも、それ以外に自分がどうすればいいのか、全然分からなかった……」
「誰だってそうだよ。……どうすればいいのかなんて、分からないよ」
 何の前触れもなく突然、自分の最も信頼していた親から肉体的にも精神的にも追い詰められて、逃げることも許されずに、人に打ち明けることも出来ずに。そんな状況下で、自分がどうするべきかなんて分からなくて当然なんじゃないのか。私だっていきなりそんなことになったらどうすればいいのかなんて分からない。
 それは本当に、辛いけれどしょうがないことだったのだ。
「でもさ、そんな風にするのはもうやめようって思ったんだ」
「唯君……」
「嘘をつき続けるのも、一人で抱え込むのも、全部やめようって」
 どこか吹っ切れたような声を出して、唯君は至って冷静にそう言う。
『あいつ……唯、起こったことちゃんと自分で受け止めようとしてるよ』
 唯君の言葉を聞いて頭の中によみがえったのは、先ほど北川君が言ってくれた言葉だった。唯君は本当のことを紺野さん達に全部話したと北川君が言っていた。以前の唯君だったら絶対にそんなことはしない、隠し通そうとするに違いないのだ。北川君の言うように、唯君は自分のことをちゃんと受け止めようとしているのかもしれない。
 唯君は俯いていた顔をあげて、私の方を見て微笑んだ。
「そう思えたのは全部、……藤森のおかげだった」
 笑うと少し顔が幼く見えて可愛いと思っていた、私の大好きな微笑みがあった。そしてあの夢の中の、青空の下で微笑む彼がそれと重なった。
 それは私がずっとずっと望んでいた、恋い焦がれていた彼の姿だった。
 まるで陽の光を纏っているかのように、夢の中の彼は太陽のように温かな、眩しい微笑みを見せていた。笑って、優しく私を抱きしめて、それだけで心の底から幸せだと思った。
 そんな夢にずっと憧れていたの。
 あんな風に現実でも私に向けて微笑みかけてほしい、優しい言葉をかけてほしい、と。ずっとそう思い続けていた。だから。
「今までありがとう。ずっと、側にいてくれて」
 微笑んでそう言う彼を見て、嬉しくて、胸の奥が熱くなった。涙なんてさっき流したばかりだったのに、再び涙が私の頬を伝っていく。
「……ッ……」
 ほとんど彼の力になどなれなかったのに、そんなにも優しい言葉をかけてくれる彼が信じられなくて、私は首を何度も横に振った。ここまで来られたのは私だけの力じゃなかったから。
「……こんなにも誰かのことを求めたのは藤森が初めてだった。一緒にいたいって思ったのも、言葉の一つ一つにドキドキしたのも、全部」
 零れていく涙は、両手で何度拭っても拭いきれないほど止めどなく流れ続けた。つい先ほど北川君の前でも大泣きしたばかりだったのに、また私は泣いてしまっていた。
 けれど先ほどの涙も今流している涙も、いつもの涙とは違う。ここ最近はずっと悲しくて涙を流すばかりだったのに、今日流したそれは嬉しくて零れたもの。
 嬉しくても涙が出るんだと、私は泣きながら思った。
(……私も唯君が初めてだったよ)
 暗くて引っ込み事案で、自分の気持ちもほとんど言えなかった。いつも人の言葉に流されてばかり、人のことを羨んでばかり。好きな人さえも出来たことがなかった。いつも他人に憧れてばかりで、ああなりたいと思うばかりで、自分からは何一つそうなろうと努力したことなど無かった。
 あの人は特別なんだ、でも自分は普通だから、ずっとそう思っていた。自分を変えることを諦めていた。
 そう、貴方に会うまでは。
「わ、たしも……っ」
 泣いてる状態じゃ、声なんて上手く出せない。けれどすぐに泣き止むことも出来ずに私は泣きながらも言葉を紡いでいた。上手く言えなかったけれど、唯君はそんな私を笑うこともなく黙って見つめている。
「私も唯君が初めてだった、……唯君、だったから助けたかった……っ」
 きっと唯君じゃなかったら、自分はここまで必死になることはなかっただろう。私が心から憧れていた人だったから惹かれて、放っておけなくて、真実を知ってもなお側にいたいと思えたのだ。
「唯君だったから、……今までの自分を変えてでも守りたかった……」
 そう言うと、唯君は照れながらも少し苦笑した。
「そう言われるとなんだか俺お姫様っぽいな」
「ごっ、ごめんなさい……っ」
「……でも、ありがとう」
 穏やかに微笑んで、唯君は私に向かって手を差し伸べた。
「なぁ藤森、こっちに来て」
 ずっと病室の入り口のところで立ち竦んでいた私に、彼は優しい口調で促してくる。私は慌てて涙を拭い、ゆっくりと彼のところへ向かって歩き出した。足を一歩、また一歩と踏み出すたびに、彼との距離は縮まっていく。そして唯君の目の前まで来た私は彼へと手を差し伸べて、そのまま優しく握った。そこから伝わる体温、そして、握り返してくれた手。
 零れる涙を片手で拭いて、今自分が出来る精一杯の微笑みを彼に向けて言った。
「……やっと、唯君に会えた」
 そう、やっと、彼に会うことが出来た。それを聞いて唯君はちょっとだけ驚いた様子を見せたけど、しばらくして、泣きそうなほどの笑みを見せる。
「うん。ずっと、……藤森に会いたかった」
「私も……」
「ずっと、『ありがとう』って、言いたかったんだ」
 それを聞くと嬉しくて余計に涙が溢れて、そのまま両手を伸ばして彼を優しく抱きしめた。まるで待ちきれなかったかのようにすぐ唯君も私を抱きしめ返してくれて、私の心は今までにないほど満たされた。
 どれだけこの時を待ち望んでいたんだろう。彼とこうやって抱き合える、この時を。
「ありがとう藤森、本当に、ありがとう」
 私の肩に顔を埋めた彼が呟く。それを聞いた私の瞳からまた涙が溢れた。
「藤森に会えて本当に良かった」



「まだ当分は入院なんだよね?」
 ベッドの側に用意されていた椅子に腰掛けて、私は彼の手を握ったまま話しかけた。外はもうすっかり暗くなってしまっていたが、私は帰ることすら忘れたように唯君とずっと話し込んでいた。
「うん、まだしばらくはね。松葉杖使ってなら病室からも出られるけど、治るのにはもうちょっとかかるって先生が言ってた」
「そっか……。じゃあ今度、私も手伝うから一緒に外に出ようよ。病院のお庭ね、花がいっぱい咲いてて綺麗なんだよ」
 彼がそういうのが好きかどうかは分からないけど、とにかく一緒にいる時間を作りたかった。たまには外の風に当たるのも気持ちいいよ、と付け加えて促すと、唯君はやわらかに微笑んでくれた。
「うん、いいよ」
「! ほんとに?」
 とにかく唯君が私に対して微笑みかけてくれるのが嬉しくて、彼の言葉の一つ一つにおかしなまでに感動してしまう。こんな風に普通に話せることを、ずっと自分が望んでいたからだろうか。そしてそれが叶った今、些細なことでも嬉しくてたまらない。
「藤森が一緒なら俺も嬉しいし」
 そう言ってきた唯君に少し顔が熱くなったが、私も彼につられて笑みを浮かべた。
「そういえばここ個室なんだね。てっきり唯君の他にも患者さんがいるかと思ったんだけど……」
「ああ、なんかおばあちゃんが頼んでくれたみたいでさ」
「おばあちゃん?」
「俺のお母さんの方のね。事情が事情だったから、多分そういうので気を利かせてくれたんだと思う。相部屋だったら話しにくいこともあるし」
 苦笑して言う唯君のその言葉に、なんだかいたたまれなくなってしまう。いくら唯君が全部受け止めようとしていても、やっぱり秘密が漏れたのは私の行動のせいで、そう思うと彼に対して申し訳なくてたまらない。
 唯君のところへ警察の人が来たというのを聞いていたけど、それも関係しているのかもしれない。
「それで、おばあちゃんが『一緒に暮らそう』って言ってくれてるんだけど、どうしようかなーって考えてて。別に俺一人であの家にいても大丈夫だし」
「本当に?」
「うん。それにそっちの方が藤森達にも会えるし。こう見えても俺、家のことは大体出来るから。お金はまぁ、働けばいいし」
 なんとかなるよ、と唯君は至って呑気にそう言い放つ。
 両親がいない今彼は一人で、ここを退院しても帰るべき家には誰もいない。だから彼のおばあちゃんは心配して声をかけたのだろう。退院するのはまだちょっと先の話だと唯君は言っていたけど、それでも彼は当分一人ぼっちになってしまう。
 そこまで考えて、私は頭の中の考えを打ち消すように頭を振った。
「あっ、……わ、私で良かったら一緒にいるから……ッ、その……唯君が迷惑じゃなかったら、だけど……」
 出来ることがあるなら力になってあげたいという彼への想いは未だに変わっていない。彼にとってはこれからがまた大変なのだということも分かっていたからこそ、その想いは強くなっていく。
 私の言葉に唯君は普通に笑って、「ありがと」と言ってくれた。そして、その言葉だけで心底舞い上がってしまう単純な自分がいる。
 本当に些細な会話なのに、好きな人と一緒にいられるということだけで何故こんなにも幸せな気分になれるのか不思議だった。



「今日も会いに行くのか?」
 帰りのHRを終えて、せかせかと帰り支度をしていた私に北川君が話しかけてきてくれた。
 あの突然告白された日から何日か経ったが、私と北川君は特に気まずくなることもなく、今まで通り友達として付き合っていた。それはやっぱり、あの後も普通に話しかけてきてくれた彼の優しさのおかげが大きいだろう。つくづく自分は彼の優しさに救われっぱなしだった。
「うん。毎日行けたらなぁって」
「おお。言ってくれんじゃん」
 机の中に入っている教科書やノートを全部鞄に入れて、昨日の夜に作った唯君への差入れのゼリーが入った紙袋を手に取る。
 私の言ったことに北川君は嬉しそうに微笑んだ。北川君の方も唯君とはこれといって気まずくなることもなく、唯君と話したことを嬉しそうに色々私に教えてくれたりしていた。私よりも二人の方が付き合いが長いし、北川君と唯君ならお互い険悪になることもそうそうないだろう。
 むしろ北川君と唯君の仲の良さに時々嫉妬してしまうこともあるくらいだ。以前はすごく仲の良い印象なんてあんまり受けなかったのに、この間病室でバッタリ北川君と会った時なんて唯君が本当に楽しそうに話をしているものだから軽くショックを受けてしまった。男友達じゃないと話せないこととかもあるんだろうけど、それでも私と話している時よりも唯君は明らかに笑っていた。
「藤森?」
 あまりにも考え込みすぎていて北川君が私の前で手を振っている。
「えっ? あぁっ、ご、ごめんなさいちょっと考え事しちゃってたみたい……!」
「俺と話してる時に考え事とか、流石にちょっと傷つくんですけど……」
「本当にごめんなさいっ、……唯君、北川君と話してる時は本当に楽しそうだなぁって思って。私といる時も笑ってはくれるけど、……あそこまで爆笑はしてくれないし。私の話、笑いどころがないからだけど……。唯君、私といる時は落ち着いてるっていうか……すごく優しくしてくれるのは嬉しいんだけど……」
 私と一緒にいて唯君は本当に楽しいのかな。
 そこまで気にしていないつもりでも、話してみるとちょっとした不満でも止まらない。本当に「ちょっとしたこと」なのだが、心の中では結構気にしていたのだと自分でも驚いた。
「……それって嫉妬? しかも俺に対して、とか」
 私のちょっとした愚痴を聞いた北川君は少し焦った様子だ。
「そ、そんな嫉妬とかそんなつもりはないの!」
「でも藤森の話で唯がありえないくらい爆笑してる姿は想像つかねぇなー……っていうかさ、男友達と好きな子に対しては普通態度って違うものじゃないか?」
「……そうかな……」
 私は友達が少ないし、好きな人だって唯君が初めてだからよく分からない。あまり納得していないような返事をすると、北川君は苦笑している。
「藤森の前で唯が馬鹿話しないのと同じで、俺らの前だと唯はそんなに落ち着いてるヤツじゃないよ。そもそも俺に対しても樹に対しても武丸に対しても、そこまで優しくねーし!」
「そうなんだ……」
「だからそんなん気にすることないと思うけど。アイツは藤森のことすごく大事に想ってるよ」
 北川君が優しくそう言ってくれるものだから、一人不安になっていた私が恥ずかしくなって顔が熱くなった。北川君みたいにもうちょっと余裕のある考え方をしたいのに、私はどうも不安になりやすくて良くない。
「本当にありがとね、北川君」
「お礼はもういいって、っていうか藤森からのお礼ってもう聞き飽きたよ。でも俺に対して嫉妬するなんて、話は結構面白かったけど」
 お礼ならもういらないとでも言うように手を振って、いたずらげに笑う彼を見て私も一緒に笑ってしまう。
「それじゃあ私、もう行くね」
「おう。ついでに唯に『明日行く』って伝えといて」
「うんっ」
 軽く走って私は教室を後にする。あんなに不安定だった体調もすっかり良くなって、足取りも軽い。そして全てが、自分や唯君にとって良い方向へ進んでいっているようで、それが嬉しくてたまらなかった。
(唯君ともっともっと一緒にいたい、そして出来たら……)
 その先を考えて、少し笑みがこぼれてしまった。こんなことを考えて幸せになれるくらい、私は今という時間が楽しかった。多分、18年間で今が一番幸せだと胸を張って言えるくらいに。
 好きな人が出来て、その人と一緒にいられるということでここまで周りがキラキラと輝いて見えるなんて知らなかった。
『俺が今まで藤森にしてきたことが、無駄なんかじゃなかったって……証明してよ』
 あの日、私を抱きしめた後で、北川君が優しく微笑んで言ったこと。その笑顔は私が大好きだと思った、あの温かな微笑みだった。
 そして、彼はこう言ったのだ。
『絶対に、唯と幸せになれ』
 そう、全てが。全てが、私の望んでいた方向へ変わりつつあった。
 ただ、一つを除いては。



 いつもどおり、とはいってもここ数日のことだが、あれから毎日病院を訪れては唯君と話していた。そして今日も学校からまっすぐ病院へ向かい、そして彼の病室へと足を運ばせる。
(今日は何を話そう。天気が良いから外に出てみるのもいいかもしれない)
 それに今日は差入れも持ってきたし。唯君に食べて貰おうと昨日の夜フルーツゼリーを作った。手に持っている紙袋に入ったソレを見て、私は思わず笑みを零してしまう。
 とにかく唯君に会うのが最近の楽しみで、それを考えると次第に足取りも軽くなっていく。そして彼の病室のドアに手をかけようとした時に、その声は聞こえた。
「前からそういう勝手なところがあったけど、変わってないよね」
 それは唯君の声だった。誰かと話しているようで、私は思わずドアを開ける手を引っ込めてしまい、中から聞こえる声に耳を澄ませてしまう。
 唯君の口調からは楽しそうな感じなどせず、むしろ機嫌の悪そうな印象さえ受けたから。
「あなたも時々変に頑固なところがあったけど、変わってないわね」
「頑固なんかじゃないよ、おばあちゃんがあんまり勝手なこと言うからだろ」
 唯君の言葉を聞いて気付いた。
(唯君が今話しているのはおばあちゃん……?)
 しかしおばあちゃんにしてはちょっと声に張りがあって若々しさを感じる、なんとも強気な声だった。姿を見たわけではないけれど、厳しくて怖そうな感じがする。唯君は相変わらずどこか怒ったような口調だったが、それは相手も同じようだった。
 私の立っているドアの向こう側では、唯君と彼のおばあちゃんが「何か」でもめているようだった。
「……唯、あなたこの間先生から言われたこと忘れたの? 事情が事情だから、身体よりも心の方が心配だって。出来ればカウンセリング受けた方がいいって言われていたじゃない」
「そんなの受けなくても大丈夫だよ。つーか受けるにしたって家から通えばいいし」
 そこまで聞いてすぐに分かった。二人は今後のことについて話してるのだ。そういえば唯君が「おばあちゃんから一緒に住もうと誘われている」と前に言っていた。あの時彼は断るつもりでいたようだったけど、今の彼のおばあちゃんの言い分を聞くからに、そう簡単にはいかないようだった。
(カウンセリング……)
 確かに私も思っていた。唯君は心が不安定すぎると。物事は良い方向へ進みつつあるけど、やっぱり彼が父親から虐待を受けていたという事実は消えなくて、唯君の心の傷も怪我のように治るわけではないのだ。最近は至って普通で、おかしなことも無かったから安心してしまっていたが、ふとしたことがきっかけで心の均衡を乱してしまうことがあるかもしれない。
 現にあの雪の日、事故に遭う直前の彼は酷くパニックに陥っていた。発作を起こしているんじゃないかというくらい呼吸を乱して、手も酷く震えていたのをよく覚えている。そして北川君が怒って掴みかかろうと時も、彼は父親のことを思い出したのか途端に怯えて震えだしたのだ。
 これからも父親とのことを思い出すたびに、あんな風にパニックに陥ってしまうことがあるかもしれない。そのためにも、確かにカウンセリングは必要なのかもしれない。
「大丈夫って……、あなたの『大丈夫』はもう信用出来ないって、この間おじいちゃんと話してたのよ。あの人も唯のことすごく心配してるし、貴方を引き取ることには賛成してくれているわ。ね? 身体がよくなって、カウンセリングも良い方向へ進めばこっちに帰ってくればいいじゃないの」
「……そんなのいつになるか分からない……」
「? なにをそんなにこっちに残りたがってるの、友達と別れたくないから? 会いたくなったら会いに行けばいいでしょ」
 帰ってくれば。会いたくなったら会いにいけば。
(唯君は、どこかへ行ってしまう?)
 それだけが今の自分の頭の中を占めていた。私はただ呆然と、その病室の二人の会話に聞き入ることしか出来ない。
「男の子に言うのも間違ってるけど、あなた身内に強姦されたようなものなのよ。由梨だっていないのに、そんな孫を一人置いて家に帰って、のうのうと生活なんて出来ません」
「でも……」
「それに、さっき先生から呼ばれて話を聞いたけど、あなた時々夜中に発作起こして嘔吐してるらしいじゃないの」
 思いも寄らない彼のおばあちゃんの言葉に、私は思わず愕然としてしまった。
(……夜中に発作!?)
 そんなの私知らない。全然聞いてないよ。そんな大事なことを全く知らなかった私は、ただ呆然と中の二人の会話に耳を澄ませていた。
「それはただ体調が悪かっただけ」
「ああそう。身体にはなんの異常もなくて、もしかしなくても寝てる間に暴力受けてた時のことを思い出して、それが発作を引き起こしたんじゃないかって、精神的なものかもしれないって先生が言ってたけれど」
 唯君の言うことなどまるで信用していないかのように、彼のおばあちゃんは淡々と言い放った。唯君は返す言葉もないのか、それ以降声が聞こえない。
 ギシッと、椅子が軋む音がして、足音が聞こえた。
 おばあちゃんの方が病室を出て行こうとしているのかもしれない。私はそう感じて慌ててドアから数歩下がった。
「唯には悪いけど、転院の手続きはもうとってあるから……。あなたはもうちょっと自分を大事にした方がいいわ。また明日来るから、よく考えておきなさい」
「俺絶対嫌だから」
「……その口ぶりも頑固さも、自分を大事にしないところも、ほんとに由梨そっくりね」
 唯君が転院してしまうかもしれない。その事実で、周りが急に真っ暗になった気がした。