第9話 真実は闇の中で蠢く


 保健室で彼の手を握りしめている間、少しだけど心が満たされたような気分になった。
 ようやく本当の彼を見つけることが出来たような気がして、それだけが嬉しかった。けれどその彼の姿はとても弱々しく、なにか大きな悩みを抱えているであろうことは私の目から見ても明白だった。「全部知ったら俺のことがますます嫌いになる」と唯君は私に言ったけれど、それがどういう意味を持っていたのか、明らかにならないまま。
 でも自信があったのだ。嫌いになんて絶対にならないと。今までだって唯君の知らないところを知るたびに惹かれてきた。だから、絶対嫌いにはならない。きっと、もっと惹かれて、好きになる。私は愚かにもこの時そう思っていた。そう信じていたのだ。
 彼が隠し続けてきた残酷な真実を知るまでは。



「はぁっ、はぁっ、……っ……」
 昼休みになって十数分経った頃、教室を出た私は屋上への階段をせっせと駆け上がっていた。
 保健室での出来事から数日が過ぎていた。その間、唯君と私は少しずつだけれども話を交わすようになっていた。学校の課題のこと、昨日のテレビ番組のこと、面白かった本のこと、普通の友達のような他愛ない会話。それは本当に些細なことだったが、それでも以前の彼と私のことを考えれば十分すぎるくらいの変化で嬉しかった。
「唯君っ」
 バタンと勢いよく屋上の扉を開くと、やっぱり唯君はそこにいた。だが、彼はその場に寝そべって、読みかけの小説を顔にかぶせて眠っているようだ。
 昼休み、教室にいない時は確実と言っていいほど唯君は屋上にいる。「どうして?」とこの間訊いたら、北川君が前に言ったとおり「一人になりたいから」と唯君は言った。一人になりたいと本人が言ってるのに、そんなところを私は邪魔しているのだから申し訳ないとは思うけど、どうしても彼と話したかった。
 けれど、唯君は寝ていた。なんだまた寝てるのか、とちょっと残念に思いながらも彼に歩み寄ると、声と扉を開ける音で目が覚めたのか、唯君は顔に被せていた本を取るとゆっくりと起きあがる。
「……あ、唯君。……ごめんね、邪魔しちゃって」
 そのまま静かにしているつもりだったのに思わず彼を起こしてしまい私は謝ったが、唯君は特に気にしていないような顔ぶりでクスリと微笑む。
「ううん、別に寝てたわけじゃないからいいよ。それに俺も藤森に用があったから丁度良いし。──で、藤森は何の用?」
 その微笑みは以前の彼──私がまだ何も知らなかった頃の唯君のそれと似てはいるものの、どこか少し違うように感じる。でも悪い気はしないものだったからそこまで気にはならないし、なにより嬉しい。彼が私に対して微笑んでくれることが単純に嬉しいと思えた。
 私は座っていた彼の横に腰掛けると、つられて笑みを浮かべる。
「ううん、特になにもないの。ただ気になって来ただけだから」
 用もないのに来ては彼も迷惑かもしれないと思ったが、唯君は「そう」と言って笑うだけだ。
「唯君は? 私に用って何?」
 訊き返すと途端に唯君は神妙な顔つきになって、着ていたブレザーのポケットから何かを出した。手に治まるくらいの大きさのそれは黒い外装をしている、私が以前見た唯君の携帯だった。
 彼は私の手をとると、手のひらにそれを落とした。
「唯君? これ……」
 私になぜ携帯を渡すのか分からず、顔をあげて彼を見つめると唯君は柔らかな笑みを浮かべる。
「それ、好きにしていいから」
「え?」
「……もう、必要ないから」
 そう言いながら立ち上がった彼は、私に向かってペコッと頭を下げる。
「本当にごめん。今まで……」
 彼が何に対して謝っているのかはすぐに分かった。
「俺、藤森に、……すごく酷いことした」
 すごく酷いこと。あれは忘れもしない、全てが始まったあの日の出来事のことだ。あまりにも酷く常軌を逸した唯君の行動に最初は怯えて、「この人は人間じゃない」と恐ろしく思うと同時に唯君が憎くてたまらなかった。身体と心の両方が悲鳴を上げて、もう彼と顔を合わせたくないと心底願うほどに私は彼に対して失望していたのだ。
「謝って許されることじゃないけど、でも……ごめんなさい」
 それは彼の言うとおり、謝って済むようなことではない。土下座して謝ったとしても絶対に許せないし、そんな甘い謝罪で許されるほどぬるい問題ではない。唯君もそれは分かっているようだ。
 そう、彼は悪いことなのだと分かっていたのにやってしまったのだ。それほどまでに唯君を追いつめるほどのなにかがあって、彼がおかしくなっているのはきっとそれのせい。でも、だからといって唯君が全く悪くないというわけでもないのだが、私自身、彼に謝って貰おうなどとはすでに思っていなかった。
「いいよ、もう。唯君に謝って欲しいなんて思ってないよ」
 立ち上がり、出来るだけ声を落ち着かせてそう告げると、彼はとても申し訳なさそうな顔をして私を見つめた。不安げだからだろうか、その姿はいつもより少し小さく見えるような気がする。
「大丈夫だから。だからそんな辛そうな顔しないで。もういいんだよ」
「……よくない。全然よくないよ……。ごめん……」
「私の事よりも唯君の事の方が心配だよ……。私でよければ何でも聞くし、傍にいるから」
 彼がいつか打ち明けてくれる時まで待とうと私は思い、今は出来る限り彼が安らげるような居場所を作ってあげるべきだと考えていた。
 そんな私の背中に彼の手が回ったかと思えば、グイッと身体を引き寄せられて唯君が私を抱き寄せてくる。ビックリしたのも束の間、次第に胸がドキドキを音を刻んでいく。ありえないくらい近くに唯君がいて、そして抱きしめられて。もしかしたら私が今ドキドキしてるのバレてるかもしれないと私は内心思っていた。そう思うと恥ずかしくなって、顔が熱を帯びてきた。
「……馬鹿だ……」
「……え?」
 ぽつりと呟いた彼に、私は僅かに首をかしげる。
「……馬鹿だよ、藤森は……」
「……自分でも分かってるよ」
 少し苦笑して彼の背中に手を回すと、抱き締めていた彼の手が強さを増した。唯君に抱きしめられるのはこれが二回目で、あの時と今のそれはなんだかよく似ていて、心地良かった。



 午後の授業も終わり、のんびりと会議室の掃除をしていた私は、一つ息を吐いた。
 唯君から携帯を受け取ったはいいものの、自分でもどうしていいか分からず手元の携帯をずっと弄んでは眺めている。シンプルで真っ黒な外装の携帯は、私も知っている半年くらい前のモデルのものだ。まだあまり傷が無く、唯君の物持ちの良さも感じられる真新しさだった。
 好きにしていい、と持ち主である唯君から言われたはいいものの、どうも扱いに困ってしまう。これが彼のけじめでもあるのなら返すのも悪い気がしてくるし、でも自分としては中の写真を消してくれさえすればそれでいいのだ。
「藤森」
 やっぱり後で唯君にそう言って携帯を返そうかと思っていた矢先に、背後から方をポンッと叩かれて身体が驚きに揺れた。
「!? あっ、北川君……」
「わり、なんか驚かせたみたいだな」
「ううん大丈夫。どうかしたの?」
「いや、藤森が最近機嫌いいみたいだからちょっとさ」
 会議室前の廊下掃除をしていた北川君がニコニコしながらそこにいた。丁度頼子は雑巾を洗いに行っていて、会議室には私一人だけ。北川君の方は掃除する気など全くないのか、手に持っていたほうきを時折軽く振り回したりと弄んでいる。
「え、私?」
 そんなに機嫌良くしているつもりはなかったのに、無意識に顔に出ていたのだろうか。確かに唯君と自然に話を交わせるようになってからは随分と落ち着いた方だと自分でも思ってはいたのだが、他人に言われるまでとは自覚していなかった。
「そうそう、この間までは元気なかったし。こう見えて俺結構心配してたんだぞ」
「本当にね。北川君にはいっぱい迷惑かけちゃったし……ごめんね。この間はありがとう、私に唯君と話す機会をくれて」
「だからもういーって、そう何回も感謝されると俺が照れるから。それに最近唯とも結構話せてるみたいだし、良かったな」
 本当に「良かった」と心から思っているように、北川君はふわりと優しげな微笑みを見せる。詳しい事情は何一つ知らないのに、どうして北川君はこんなに構ってくれるんだろう。
 唯君の友達だからだろうか。北川君、唯君といつも一緒にいるし。それに以前「危なっかしくて放っておけない」と言っていたのもあるし。
「北川君は唯君に優しいね」
「でもそれ以上に、俺は唯に優しくしてもらってるから。あいつは良いヤツだよ」
 あんなに手酷く暴力を振るわれておいてそんなことをにこやかに言われてもどこか説得力に欠けてしまうと、ついつい私は苦笑してしまった。そして私の心中を見透かしたように、北川君は口を開く。
「中学の時からずーっと、嫌な顔一つしないでテスト勉強に何時間も付き合ってくれて、俺が分かるまで何回も説明してくれてさ。俺頭すっげ悪いから赤点とか結構当たり前で、だからテストに関してはちょっと諦めてたんだ。でも、それでも唯は一生懸命教えてくれて、そんで俺が良い点数とれたら一緒に喜んでくれて。それに元カノ絡みで周りから責められた時も唯だけは庇ってくれて、なんつーか、人の気持ちを分かってくれるっていうか……友達を大事にするヤツなんだなぁって思って、俺の憧れで……」
 憧れ。そう言った彼の姿が、なんだか自分と重なった。唯君への想いが私と似ていて驚いたと同時に、ちょっと面白くなって吹き出してしまう。
「えっ、なに? 俺至って真面目なんだけど」
「ご、ごめん……! なんだか北川君が私と似てるように見えたから、つい……」
 決して馬鹿にしているつもりじゃないのだと慌てて言い返したけれど、北川君は恥ずかしそうに少し頬を赤くして頭を掻いた。
「友達に憧れるなんてやっぱ変かな。でも唯ってすげぇと思うし」
「ううん、変じゃないと思うよ。私も北川君と似たようなものだから……」
「でも、すごいんだけどやっぱり俺らと同い年で、アイツはアイツで悩みがあるんだろうなーって思うと、相談相手になってあげられない自分が情けなくなってさ。唯って器用で人付き合いも上手いししっかりしてるから大丈夫みたいな感じにみんなから思われてるけど、本当は誰よりもずっと誰かの支えがいるようなヤツかもしれないのに。だから、これで藤森が唯と上手くいってくれれば友達の俺としても一安心」
 この人は時々怖いくらいに、人を洞察するのが上手いと思う時がある。普段はニコニコしてて穏やかな人だという印象しかなかったのに、唯君のことで色々と関わりを持っていくにつれて、その洞察力のすごさに驚かされることが度々あった。
 彼は彼なりに唯君のことを色々考えているようだ。大事な友達として。
「藤森なら唯をー……って、なんかこう言うと押しつけがましいよな、悪ぃ」
「そんなことないよ。北川君って優しいね……」
「優しいっていうか、おせっかいっつーのかな。俺昔っからそうでさ。じゃあ、また何かあったら遠慮なく言えよ、出来る範囲でなら協力するからさ」
 こんなに優しい人が傍にいたら、私だったら確実に頼りにして甘えてしまう。悩みがあったらすぐに相談してしまいそうなほど頼りたくなる存在。こんな彼がいつも傍にいて、唯君が羨ましいと思った。
 だけど、こんな彼が傍にいても唯君は北川君には何も話していないようだ。それくらい、唯君の悩みは大きいのだろうか。
「うん。北川君もなにかあったら私に言ってね、協力するから」
「え、藤森が? なんか頼りねーな」
 嘲笑するように北川君が言ってくるものだから、私は彼の肩を叩いて怒った。



(……お昼まではあんなに晴れてたのに)
 図書室から本を借りてきた帰り、廊下を歩きながらふと窓の外を見た。掃除の時はまだ曇っているだけで雨など降っていなかったのだが、帰りのHRあたりから本格的に降り出してしまっていた。天気予報も見ていなかったため傘を持ってきていない、少し様子を見てから帰ろうかと考えていた矢先のことだった。
「藤森さん」
 突然声を掛けられて振り返ると、養護教諭の佐倉先生がニコッと微笑みを見せてこちらへ歩いてきていた。
「あ、佐倉先生」
「図書室で本を借りてきたの? 難しそうな本読むのね」
「本読むの好きだからつい色んな本に手出しちゃって……」
 読書好きだが自分で本を買うほどお金は沢山持っていない。そんな私にとって学校の図書室や町の図書館はとてもありがたい場所だった。小学校の頃から色々な本を借りて沢山読んでいるが、未だに飽きたことなどない。むしろ1日1冊は何か読んでいないと落ち着かないほどだ。
 佐倉先生は笑みを浮かべたまま「そう」と言うと、ハッと思い出したように辺りを見回した。まるで何かに警戒しているかのような行動だ。
「そうだわ、ちょっと藤森さんに訊きたいことがあるんだけどいいかしら?」
「はい?」
「桜川君のことなんだけど……、彼、あれから倒れたりはしてない? 調子悪そうにしてたりとか……」
「唯君ですか……?」
 なんでそんなことを訊いてくるんだろうと疑問に思ったが、相手は養護教諭の佐倉先生だ。この間高熱で倒れたこともあるし、唯君のその後のことを気にしているのかもしれない。
「次の日には元気になってたし、熱も下がったって言ってました。それに学校でも元気ですよ」
「そう。ならいいのだけど……もしまた気分悪そうだったり、怪我したりしてたら保健室に来るように伝えておいてくれる?」
 なにげない様子でそう言ってくる先生に私は頷いて返事をすると、先生は「ありがとう」と一言残して階段を下りて行ってしまった。
 養護教諭として純粋に生徒のことを心配しただけ。それなのになぜだか先生の言葉が私の中で引っかかっていた。そんな深い意味などない、だけど、なんなのだろうこの違和感は。自分の頭の中にあるモヤモヤとした霧を振り払うように私は頭を振った。
 そして、スカートのポケットにしまっていた彼の携帯を取り出す。
(唯君……)
 先ほど、図書室に寄っていく前に唯君と少し話したが、その時も特に変わった様子など見せなかった。ただ屈託なく笑って彼は「じゃあまた明日な」と言って帰っていってしまった。その彼の笑顔を見たら何も言えなくて、携帯を返すつもりで話しかけたのに結局話を切り出すことが出来なかったのだ。
(唯君と話したら、このモヤモヤとした感じは消えるのかな)
 唯君と話していると、酷く安心出来る自分がいる。傍にいると安心出来るのに、離れてしまうとどこか不安で仕方ない。先ほど佐倉先生が唯君のことを心配していたこともあるのだろうが、さっき言葉を交わしたばかりなのにまた唯君と話がしたいと欲が膨れ上がっていく。
 この手にある携帯を口実に、唯君と話すことが出来ないかと思い私は早足で教室へ戻り鞄を取った。そしてそのまま廊下を歩き階段を下りて、靴箱へ足早に向かう。
 だが、急いで靴を履いて学校を飛び出そうとしたものの外はものすごい雨で一瞬怯んでしまった。雨は相変わらずすごい音を立てて降り続け、時折雷も鳴っている。
(……どうしよう)
 いつもならテレビで天気予報を見てから学校へ行くのだが、今日はうっかり見逃してしまい傘を持っていっていなかった。こういう時に限って雨が降るのだと、私はため息を吐く。
 少し落ち着くまで待とうとも考えていたのだが、この調子ではいつになったら止むのか分からない。いつ止むか分からない雨の中を待つことよりも、さっさと走って行く方が早い。唯君の家までは走って10分くらいってところか。
 私はちょっと間を置いてから、無意味に深呼吸までして飛び出した。今日雨が降ることを知らなかった人も割と多く、私のように雨の中走って下校している人もいるし、置き傘してた友達の傘に入れてもらったりしている人もいる。
 雨が酷くてなかなか視界がはっきりしなかったが、そんな人達を横目で通り越して、私は唯君の家へ向かった。
 唯君の家へ来るのは三回目だった。
 一度目は唯君が熱で学校を休んだ時。二度目は先日、どうしても彼のことが知りたくて。そして今日は、彼と話をしたくて。今日彼から受け取った携帯も返そうと思っていた。中に入った画像は確かに消したいけど、それでも勝手に人の携帯の中を持ち続けるというのは気が引ける。それに唯君はちゃんと謝ってくれた。それだけでもういいと思えたのだ。
(……服、すごい濡れちゃった)
 彼の家の玄関の前で立ち止まって、私はびしょ濡れになっている自分の制服を見た。こんな形で唯君と話がしたいなどとはよく言ったものだ。そう思って自分の考え無さに少し後悔する。どうせなら一回家に帰ってから、それから唯君の家に行けばよかったのかもと思ったが、そんなことはもう今更。ここまで来てしまった後にそんなことを思っても仕方ないというものだ。
 雨で濡れた制服が肌にまとわりついて少し気持ちが悪く、体育で使ったタオルで少し拭いたもののやはり肌に張り付く感じは消えない。この際だからもうしょうがないと思い、なるべく唯君に迷惑をかけないうちに携帯を渡して、少し話してから早く帰ろうと思った。
 その、矢先だった。
「っ!」
 なにか、ガラスのようなものが割れる音がした。聞き間違えかとしばらく耳をすませてみると、雨の音に紛れてもう一度、それから間を置かずに何度も。それは全て唯君の家の中から聞こえてくるものだった。
(なに……?)
 何が起こっているのか分からなくて、私はインターフォンを押すことも忘れてドアノブに手を掛けた。その玄関のドアは、まるで私を誘うかのように鍵がかかっていない。
「唯君……?」
 弱々しく放った私の声は雨にかき消されたように失くなった。そしてガチャ、と私がドアを開けたのと同時に、聞こえたのは彼──唯君の声だった。
「もう嫌なんだよこういうのは! こんなの普通じゃない、俺は……お父さんのものじゃない!!」
 唯君の大きな怒鳴り声が聞こえて私は身体をすくませた。声が聞こえたのは、玄関から見える閉ざされたドアの先、リビングからだ。外は天気が悪くて雨も降っているし、夕方なのもあっていつもよりも少し暗い。それなのに家の中は明かりすらついておらず、でも真っ暗ではない、その微妙な暗さが少し不気味に感じた。
 そしてなにより、リビングの方から聞こえる唯君と、彼のお父さんらしい人との会話はどこか違和感を覚えるものだったから。
「どうしたんだ唯、いつもは良い子じゃないか。学校で何かあったのかい?」
「なにも……なにもない! 触るな、いやだッ」
「唯、静かにしなさい」
 間を置かずに、頬を強く叩いたような音がした。その後はよく分からない。争うような、揉み合うような、そんな感じの音がしている。
「やだっ、やっ……俺は、お母さんの代わりじゃない……ッ!!」
 その唯君の悲痛な叫びの後、殴るような音が幾度か聞こえた。唯君が少し咳き込んで、苦しそうな声をあげているのも微かに聞こえた。それを聞きながらも私の足はガクガクと震えている。
 何が起こってるのかよく分からないけれど、玄関で立ちつくしていた私の頭を何かがよぎった。助けなきゃいけない、と。人の家だということもお構いなしに、ただ彼を助けないといけないという考えだけに支配されて、私は彼の家へあがった。
 そして、何が起こっているのか定かではない不気味なリビングのドアを開いたのだ。
「唯君ッ!!」
 ドアを開け彼の名を呼ぶ。だが自分の目の前に広がっているものを見た瞬間、愕然とした。見てはいけないものを見てしまった気がした。身体はもう動かない。
 私が声をあげて駆けつけたリビングに唯君はいた。けれど目の前の光景は、私の頭の中を瞬時に真っ白にしてしまうくらいの衝撃があった。
「ゆい、くん……?」
 辺りに散らばった、グラスや、テレビのリモコンや、花の入った花瓶。争った後が生々しく残る部屋だ。
 その先には唯君が床に倒れていて、その彼の両腕を大きな男の人が床に押さえつけている。唯君は幾度か殴られたように頬が赤く染まっており、瞳からは涙、口元からは痛々しく血を滲ませていた。そして無理矢理脱がされたような、引き裂かれた制服。そのシャツから露わになった唯君の肩口に舌を這わせている男の人が一人。
 唯君は私を見て、痛みも、怒ることも忘れてただただ驚きに目を張っていた。しばらくの静寂の後、彼の口はゆっくりと言葉を紡いでいった。
「……じ、もり……? ……どうして……」
「あ、……あ……、……ゆい、君……私、……けいた……その、か、勝手に……」
 色んなことが頭の中を交錯しすぎて、何を言っていいのか分からなくなっていた。傍から見ても分かるほどに動揺している私の口からは上手く言葉が出て行ってくれなくて、更にパニックになる。驚きと疑問ばかりが頭を埋め尽くす。
 これはどういうこと? どうしてそんなことになってるの……? これは一体なに……? 疑問が浮かぶが、回答は無い。
「唯の、お友達かい?」
 唯君を押さえ付けていたその人の視線が冷ややかに私を射る。こんな状況であるというのに、その人は微かに笑っているように見えた。それが鳥肌が立つくらいに怖かったけれど、この人は前にどこかで見たことがあると疑問が過ぎり自分の記憶を探る。
 そうだ写真だ。唯君が部屋に飾っていた写真に映っていたんだ。そしてさっき唯君はこの人のことを「お父さん」と言っていた。だから、やっぱり唯君のお父さんなんだ。
(唯君の……お父さん……?)
 疑問が解けたと同時に、ゾクリと悪寒が走った。こんなことがあるはずないと。自分の子供を痛めつけ、服を脱がせて押し倒すなど。
(どうして……? こんなのはおかしいよ……これじゃあまるで、唯君が──……)
 そこまで思った刹那、今まで頭の中に散らばっていたパズルのピースが、全て繋がったような感覚に襲われる。唯君のことで今まで疑問に感じてきた全ての答えがそこにあった。
 怪我の理由も熱を出してまで学校へ来た理由も、頑なに悩みを話そうとしない理由も、全てはこの一つの過ちから始まったものだったのだ。
 そして全てが繋がると同時に、別のモノに軋みが走り。
 なにかが、壊れる音がした。