第13話 レゾンデートル


 自分のために涙を流していた、名も知らない女の子を抱きしめたいと思った。
 そう思って伸ばした手が虚しく空を切ったところで、悠人は正気を取り戻した。
「夢……? っつ……」
 どうして一年前のことなんて思い出してしまったんだろう。
 朦朧としていた意識は、ズキズキとした体中の鈍痛で一気に現実へと引き戻された。身体は鉛のように重く力が入らない。それでも何とか踏ん張って身体を起こそうと動けば、途端に激しい痛みが電流のように全身を駆け巡って悠人は顔を歪めた。
「いってぇ……」
 なんだこれ。なんでこんなに身体が痛いんだ。全身をまわる痛みに悠人は歯を食いしばる。口の中に広がる砂の食感と血の味がたまらなく不快で、切れているらしい口内は唾液を飲む度に酷く染みた。
「……どこだここ」
 痛みに息を荒げながらもなんとか首だけ動かし辺りを見回す。
 薄暗い視界に映し出されたのは錆びたドラム缶、あちこちに散乱した瓦礫や大小様々な鉄パイプ、割れたコンクリートの隙間から生い茂る雑草、水たまり、湿った空気。
 どうやらここはどこかの廃工場らしい。
 なぜ自分がこんな所にいるのか、悠人は少し考えたのち思い出した。
 そうだ、部活の帰りに待ち伏せされていたのだ。響との電話を終えた矢先のことだった。サングラスにマスク、帽子、黒い服。いかにもな出で立ちの男が八人、夜の暗がりに紛れて立っていた。これには激しくデジャブを感じざる得ない。
 一年前の、久我の時と全く同じだった。今度はあいつ──桐沢誉──の仕業だろうか。
 日頃から鍛えているしサッカーのおかげでだいぶ体力もついた。一年前とは違う。四人くらいなら今度はなんとかなると踏んでいた悠人にとって、八人は想定外だった。
(どんだけ根に持ってんだよあの男は……そんなに響のことが好きなのか? どんなに綺麗でも響は男だぞ? いや、そういう趣向のやつもいるってのは分かるけどさ……)
 色々と気になるのは山々だったが今はそんなことを悠長に考えている場合ではなかった。一刻も早くここから出なくてはと再度腕に力を入れたところで、ザッと誰かの足音が聞こえた。
「随分といいザマじゃないか、樋口悠人」
 噂をすればなんとやらだ。悠人はとっさにそう思う。
 悠人の目の前まで歩み寄ってくるなり満足げに口の端をつり上げたのは桐沢だった。
 痛めつけられた身体には全く力が入らず、悠人は地面に倒れ込んだまま桐沢を見上げて睨み付けることしか出来ない。
「今度はあんたかよ……久我先輩の時も大概だったけど、男の嫉妬は女以上に見苦しいよな」
 身体中に痛みが走って上手く笑えなかったけれど、精一杯の皮肉を込めて悠人は言った。桐沢はそれに対して言い返してくることはなく、涼しい顔をしている。
 さすがにこんな苦し紛れの挑発は効かないかと悠人が残念に思ったところで、次の刹那、腹部に大きな衝撃と激痛が走った。
「ぐっ……ごほっ!」
 腹を思い切り蹴られたのだ。胃の中のものがせり上がってくるような苦しさに咳き込んでいると、その隙に桐沢から髪の毛を掴み上げられる。ブチブチと引き千切れるような痛みに悠人が顔を歪めると、そこには冷淡な眼差しでこちらを見下ろす桐沢がいた。
「言葉には気をつけた方がいい。ただでさえ僕は君のことが邪魔で仕方ないのに、これ以上反抗的な態度を取られては抑えられなくなりそうだ」
 暗闇の中で桐沢の眼鏡が不穏に光る。
 悠人の挑発はしっかり効いていたようで、内心「してやったり」と思った。悠人はニヤリと笑う。
「気に入らないなら好きなだけ殴ればいいだろ。でもな、こんなことしたって響はお前のことなんて絶対好きにならねぇからな。最も、アイツは筋金入りの男嫌いだからハナから望みなんて無いと思うけど」
 悠人がさらに挑発するように言えば、何が面白いのか桐沢は声に出してクツクツと笑い出した。先ほどとは違った反応に悠人が怪訝な顔をしていると、桐沢は勝ち誇ったような表情を浮かべて眼鏡のブリッジを押し上げた。
「相変わらず君は何も知らないんだな、可哀想に」
「はぁ?」
 以前も言われたことのある言葉に悠人の顔は一気に険しくなる。
『樋口君って本当に何も知らないんだね』
 久我から言われた言葉が甦り、相乗効果となって悠人を苛立たせた。
(なんだよ。久我先輩といいコイツといい、一体俺が何を知らないって言うんだよ。言ってくれなきゃ分かるわけねぇだろ)
 怪訝な顔をして睨みつけてくる悠人へ、桐沢は言葉を続ける。
「『無知なるは罪なり』って言葉を知ってるかい。あれから随分経ったというのに、君は相変わらず何一つ知らないままなんだな。知ろうと思えばすぐに知ることが出来る距離に彼女はいるのに」
「彼女? 何言ってんだあんた」
 桐沢が誰のことを言っているのか分からなくて悠人は顔をしかめる。響のことを話していたつもりだったのに、桐沢の口から出てきた「彼女」という言葉に違和感を覚えた。
 なにも状況が飲みこめていない悠人の様子がよほど滑稽なのか、桐沢は満足げな笑みを崩そうとしない。余裕と優越感からくるその笑みが久我の時と重なって、たまらなく悠人を不愉快にさせた。
 桐沢は手を放すと、悠人を仰向けに転がしてその場からゆっくりと立ち上がった。
「君のような正論や綺麗事だけが取り柄の無知な男が好きだなんて、彼女が哀れで仕方ないよ。誰よりも先に彼女を見つけたのは僕なのに。僕なら彼女の全てを受け入れてあげられるのに」
「っ……彼女、彼女って、さっきからワケわかんねぇことばっかり言いやがって……っ! 誰なんだよそれは!!」
 話が全く見えてこない苛立ちに悠人が怒鳴る。
 途端、桐沢の表情からスッと笑みが消えた。
「誰だ、って。君がそれを言うのかい? 誰よりも一番彼女の近くにいた君が?」
 なにか悪いスイッチでも押してしまったかのように桐沢の態度は豹変し、表情は険しいものへと変わっていく。
 桐沢は履いていたローファーで悠人の膝を思い切り踏みつけると、ギリッと容赦なく力を込めた。
「いっ……!!」
 悠人は激痛に歯を食いしばる。
「長い間あんなに近くにいたんだ、君には今まで気付く機会も知る機会も沢山あったはずだ。それをまざまざと潰してきたのは他の誰でもない、君自身なんだよ」
「な、に言って……、ッうああ……!」
 硬質な靴のかかとでグリグリと膝を踏みにじられ、拷問のような激痛が悠人を襲う。抵抗すらままならない状態で、悠人は地面に顔を伏せて痛みに呻いた。
 しかし、桐沢の力は緩まない。
「僕はすぐに彼女の存在に気付いたよ。彼女はそれをとても喜んでくれた。君さえいなければ、彼女は僕を選んでくれたはずだったんだ……! なのに……!!」
「そっ、そんなん知るか、よッ!」
「なんで何も知らないお前がエリカから愛されるんだ!!!」
 とどめと言わんばかりに思い切り膝を踏み潰され、悠人は目を見開き、声にならない悲鳴を上げた。何か嫌な音を聞いた気がした。
「お前の無神経な言動がどれだけ彼女を傷つけてきたか分からないだろう!? 僕はいつも近くでそれを見てきた! 泣いて、傷付いても健気に笑う彼女を、すぐ傍で見てきたんだ!! そんなことも分からない、彼女の存在にすら気付けないお前が、なんで彼女から愛されるんだ!!」
 逆上した桐沢から立て続けに何度も何度も足で蹴り上げられ、痛みのあまりに動悸を起こす。今にも飛んでしまいそうな悠人の意識はギリギリのところで保たれていた。
「……え、り……か……?」
 どこかで聞き覚えがあると思えば、放課後、音楽室で桐沢が口にした女の子の名前だった。
 エリカなどと言われても、悠人には何一つとしてピンとこない。桐沢がエリカ絡みで悠人を憎んでいることは理解出来ても、肝心な『エリカ』なる人物を悠人は知らなかった。
(誰よりも一番彼女の近くにいた? 気付く機会も知る機会も沢山あった? そんなこと言われたって、分かんねぇよ)
 頭の中で必死に桐沢の言葉の意味を考えようとするけれど、身体中の痛みと苦しさが邪魔をしてまともな思考が働かない。
 ろくな抵抗も出来ずされるがままになっていた悠人を滅多打ちにした桐沢は、息を切らせながらしばらく黙った後、悠人を見下しながら冷酷に言い放った。
「愚か者に教えてやることなど何もない。君はそうやってボロ雑巾みたく地べたに転がってる姿がお似合いだよ」
 桐沢に何を言われても、悠人はもう何も言い返せなかった。気力が無かった。
 これは悪夢か何かか。もしそうなら早く覚めて欲しいと思った。しかし遮断されない痛覚が『これは現実なのだ』と悠人に訴えてくる。
 全ては、何も知らない自分が悪かったのだろうか。
 百歩譲ってそう考えたとしても、これはあまりに理不尽なんじゃないか。悠人は弱々しく呼吸を繰り返しながら、地面に爪を立てた。
 悔しさや怒り、憎しみと自己嫌悪、色んな感情が融け合って脳を黒く染め上げていく。
『悠人は』
『ん?』
『もし俺と悠人の立場が逆だったら……暴行を受けたのが俺だったら、それでも悠人は自分を責めない? 誰かのせいにしない? やり返してやりたいって、思ったりしない?』
 突然、脳裏に甦った幼馴染の言葉に、思わず笑いが零れた。
「ちくしょー……、こんな時に……思い出すんじゃねえよ……」
 ああもう、やめてくれよ。こんな時に思い出すのはなんだか狡いだろ。
 桐沢は悠人を完膚なきまでに叩きのめして満足したのか、身を翻してその場から離れていった。次第に遠ざかっていく足音を聞きながら悠人がホッと安心したのも束の間、桐沢と入れ替わるようにして複数の足音が近づいてくる。
 ざりざりという砂を踏む音、鉄パイプを引きずる音、それらを聞いて悠人は完全に肝が冷えた。
 姿を現したのは、先ほど悠人を散々袋叩きにした男達だった。
「……マジか……」
 悠人の口から無意識に掠れた声が出た。もうなにもかも駄目だと思った。
 ただでさえボロボロで立ち上がる気力すらないというのに、まだやる気らしい。殺す気かと、悠人は桐沢の鬼のような所業に愕然とする。
『でもこれでよく分かったよね。正論を振りかざして綺麗事を並べたところで、そんなのは所詮自己満足。言われた方には何の役にも立たない』
 久我の言葉が過ぎる。
 あのとき理解できなかった言葉が、今になってストンと胸に落ちた。
 次いで浮かんだのは、幼馴染への謝罪の言葉だった。
(響、ごめんな)
 お前の気持ちもよく考えないで、偉そうに正論振りかざして説教垂れて悪かったよ。
 そうだよな。俺だって、もしお前がこんな目に遭ってるなんて知ったら、我慢できねぇよ。
 悪いことだって分かってても、どうにもならない時だってあるよな。
 一年前、悠人のために自らの手を汚し先輩達へ報復をした響の気持ちが、この時少しだけ分かった気がした。
 それが果たして正しいことなのか間違ったことなのか、悠人にはもう分からなかった。



『りっちゃんと悠人がいてくれればそれだけでいいのに……なんでそんな簡単なことも上手くいかないんだろう……』
 不可解な言葉を残していなくなった響を梨花はすぐに追いかけたが、マンションを出た時にはもうすでに響の姿はどこにもなかった。梨花は手がかりを求めてしばらく辺りを探し回ったが、以前として響は見つからないまま時間だけが過ぎていく。
(どうしてこんなことに……)
 あのとき響が何を考えていたのか、どうして出て行ったのか、どこへ何をしに行ったのか。響の行動の理由が梨花には何一つ分からない。梨花はギュッと手を握りしめて苦い顔をする。
 最近の響の様子といい、先ほどの元気の無いエリカといい、二人とも変だった。けれど二人が何を隠しているのか、全く検討がつかなくてもどかしい気分になる。
 梨花は手にした携帯を開き、悠人へ電話をかけた。響の行き先に手掛かりがあるとすれば、出て行く前に響が電話で話をしていたらしい悠人の存在だ。話の内容によっては響の行き先も分かるかも知れない。
「早く出てよ……」
 電話の向こうで何度も無機質な呼び出し音が鳴るが、一向に悠人が出る気配はない。唯一の手がかりかもしれない悠人は、先ほどから何度携帯に電話をかけても出なかった。
 梨花がお風呂に入っている間、悠人は響と一体何を話したのか。梨花が知りたいのはそこだ。そこにきっと、響が家を飛び出していった理由がある気がした。
『あいつらは響のためならなんだってするさ』
 今日、図書室で悠人は硬い表情で言っていた。悠人も響に関して何か隠してることがあるような様子だった。あの時の話と悠人の言動から推測するに、悠人が隠しているのはファンクラブ絡みの何かだ。
 もしかしたら悠人も、梨花と似たような目に遭ったことがあるのかもしれない。
 でもどんなに考えたところで、悠人本人と話せないならどうすることも出来ない。なおも出る様子のない携帯を切って、梨花は途方に暮れたまま、とりあえずもう一度辺りを探すことにした。
 マンションで響が帰ってくるのを待つという選択肢は梨花には無かった。今響を放っておいてはいけない気がしたのだ。
『梨花ちゃん、あの子がなにかしようとしていたら絶対に止めて。エリカにはたぶん止められないから。お願い』
 追い打ちを掛けるように思い出したエリカの言葉が、梨花をさらに焦らせる。
 梨花はあてもなく走って、夜でも車通りの激しい大通りまで来てしまった。こんな遅い時間でも人の通りは多く、こんな場所に響がいたとしても見つけられるかどうか怪しい。
 そもそも、なんの情報もないこの状況で響を見つけること自体が無理難題なのだが。
(でも早く見つけないと……何か嫌な予感がする)
 それは直感でしかなかった。けれど、最近様子のおかしかった響、眠る前にエリカが言った言葉、連絡がとれない悠人、色々な不安要素が重なって嫌な方向にばかり思考が傾く。
 高藤は、梨花がもう少し響やエリカとの距離を縮めていくことから始めればいいと言った。そうすれば自ずと二人のことが見えてくるはずだから、と。
(でもッ……)
 梨花は意を決して手に持っていた携帯を開き、電話を掛けることにした。相手が出てくれるかどうかは分からないけれど、出てくれと強く願った。今頼りになりそうなのはこの人以外思い浮かばなかった。
 耳元で何度も鳴り続ける無機質なコール音、ほどなくして相手──高藤──は出てくれた。
『もしもし、梨花さん?』
「高藤さん……! すみません、こんな夜遅くに……」
『何かあったんですか?』
 梨花の焦燥した声色でなにかを察したらしく、柔らかだった口調が僅かに鋭くなった。
「あの、私やっぱり無理です! 高藤さんの言い分も分かります、これからゆっくり響君やエリカの事を理解していけばいいって、それが一番だっていうのも分かります。だけど……っ」
『梨花さん落ち着いてください。何があったんです?』
 高藤から宥められ、梨花は冷静さを失くして突拍子もない事を口走っていた自分に気がついた。駄目だ、すごく焦ってしまっている。こういう時こそ落ち着かなければならないのに。
 走ったせいで乱れていた髪の毛を少し掻き上げて、梨花は小さく深呼吸をして自身を落ち着かせた。
「すみません、取り乱したりして……。響君がどこかに行ってしまったんです。最近少し様子がおかしかったのには気付いていたんですけど、こんなことになるなんて思わなくて……。エリカも、今日は元気がなくて、少し話をしたら眠ってしまって。私、本当に二人のことをよく分かっていないんだなって……」
 それを聞いた高藤は何かを考えるように黙り込んだ。その沈黙が妙に落ち着かなくて、梨花は急かすように言葉を続けた。
「教えてください。高藤さんは、どこまで二人のことを知ってるんですか……?」
『つまり梨花さんは、彼を探したいけどどこにいるのか分からない。僕の話を聞けばもしかしたら居場所が分かるかも知れない、そう思っているんですね?』
「……はい」
 梨花が言ったことを手短にまとめた高藤は、少し黙った後「そうですね」と穏やかに話し出した。
『僕の話を聞いても居場所が分かるとは限りませんが……梨花さんの気持ちは分かりました。僕でお話出来ることなら全部話しましょう』
「ありがとうございます!」
『でも一つ、条件を出させていただいてもいいですか?』
 喜ぶ梨花に釘を刺すかの如く、高藤は落ち着いた声色でそう言ってくる。
「条件、ですか? 私に出来ることなら良いですけど……」
『もちろん。というか多分、梨花さんにしか頼めません。これから僕が二人のことを教える代わりに、梨花さんは彼のことを僕に教えてくれませんか?』
「響君のことを?」
 そういえば以前、高藤が「響とまともな面識がない」と言っていたことを思い出した。高藤とてなんでも知っているわけではない。梨花が知っていて高藤が知らないことだってあるのかもしれない。
『僕が知りたいのは、彼の“本当の名前”です。それを彼に直接きいて欲しいんです』
「……本当の名前?」
 高藤の言葉の意味が理解出来なかった。
 だって、梨花にとって響は響だ。響の名前は『柊響』であってそれ以外の何者でもないはずだ。
 訝しむ梨花の反応が予想通りだとでも言うように、高藤の言葉はひどく落ち着いていてブレない。
『梨花さん、これから僕が言うことを落ち着いて聞いてください』
 そう高藤が前置きをした時だった。
 すぐ近くで大きなクラクションが響き渡り、そう間を置かずしてバキバキと何かを破壊する、耳をつんざくような轟音が起こった。次いで大勢の悲鳴と叫び、慌てふためく声が上がる。
 何事かと梨花が慌てて音のした方向へと顔を向けると、大型トラックがガードレールに突っ込み横転していた。その傍には無惨にボンネットが変形している車が一台。接触事故だろうか。
 あまりに非日常な光景に周りの人達も足を止め、慌てて事故の現場へと走って行く。遠巻きに聞こえる人達の声はどれも切迫したもので、どうやら今の事故で通行人が巻き込まれてしまったようだった。
 瞬く間に人が集まり騒がしくなった大通りの中、もう少し静かな所へ移動しようとした梨花の足がふいに止まる。
「響君……?」
 事故現場の騒然とした人だかりの中に響の姿を見つけた。
「高藤さんすみません、響君を見つけたので後でまたかけ直します! 本当にごめんなさい!!」
 あまりに自己中だと梨花は自分でも思ったが、この機を逃したくない。せっかく話をしてくれていた高藤に対して申し訳ない気持ちが募るものの、今ここで響を捕まえておかないと、次逃げられては見つけられる自信がなかった。
 ざわざわと騒がしい人の波を避けながら走り、梨花は呆然と立っている響の腕を力強く掴んだ。
「響君!」
 やっと見つけたと安心した梨花だったが、響の様子がおかしい。
「響君どうしたの……?」
 尋ねても、響は目の前の事故現場から目を離さず、真っ青な顔をして立ち竦んでいた。梨花の声などまるで届いていないようだ。凍り付いたように動かない響を不審に思いながら、梨花も響が目を向けている方へと視線を預けた。
(う……これは……)
 人混みのおかげで大部分は隠されていたが、僅かな隙間から見えたのは地面に広がる大量の血だった。周りの人の話によると、交差点で信号無視をして走ってきた車をトラックが避けようとしたものの避けられず、車と接触した後ガードレールに突っ込んだらしい。それに親子二人が巻き込まれたとか、子供は息があるけど母親はもう駄目だとか、真偽はさておき様々な話が飛び交っている。
 今は人の波であまり見えないけれど、もしかしたら響は梨花よりもっと酷い光景を見たのかも知れない。それで気分が悪くなったのだろうかと、梨花は心配になって響へ再び声を掛けようとした時だった。
「そうだ」
 響が何の感情もこもっていないような声でぽつりと呟く。
 騒然となった大通り、人の群れの中で、事故現場から目を離さないまま響が放った言葉はやけに鮮明に聞こえた。
「思い出した……」



 『少年』が生まれた時から理解していたもの。
 それは自身の存在意義。
 一つ目は、主人格である『あの子』を守り、保護し、『あの子』が受ける苦痛を全て自分が肩代わりすること。
 二つ目は、主人格である『あの子』の『お母さん』の言うことを聞くこと。絶対に『お母さん』を悲しませたり、怒らせたり、困らせたりしてはいけない。『お母さん』は『あの子』にとって絶対の存在だから。
 それが『少年』の本能に刻まれた役割であり、『少年』が生まれた世界のルールだった。
 けれど、橘梨花に出会って全ては狂いだした。
『大丈夫、これからは私が助けるから。私が守ってあげる』
 無邪気な笑顔で梨花がそう言った時、『少年』の中で何かが崩壊した。
 梨花が『少年』を助けるほど、守れば守るほど、『少年』は自身の存在意義が分からなくなっていった。守らなければならないルールが消えていく。
 それがいけないことであると『少年』が気付いたのはずっと後のことである。
 橘梨花は『少年』にとっての初恋で、どんな深い闇も消し飛ばす強い光で、『少年』の世界を壊した女神だった。



「ちょっと……また見失うとか……」
 ありえない。最後は言葉にならず、ゼェゼェと肩で呼吸をしながら梨花はその場にかがみ込んだ。額から汗が伝って、喉はすっかりカラカラだ。
 ここまで走ったのは、否、走らされたのは久しぶりだった。
 あれだけ逃がすまいと強く掴んでいた手を、梨花が事故に気を取られている一瞬の隙を突いて響は「ごめんね」と軽く捻って振り払い、再びどこかへ向かって走り出した。
 ちゃんと一言謝ってから逃げ出すところが非常に憎くて恨めしい。
 体力と足に自信のある梨花も必死で食い下がったものの、どうやらここ数年の間に響とは随分と体力に差が付いてしまったらしい。瞬く間に差を付けられ見失ってしまった。
(あんなに足が速いなんて知らなかった……!)
 男女の差というのもあるだろうが、響の足の速さはそれを抜きにしても異常だと梨花は思う。帰宅部をやめて陸上部にでも入れば良い線いくのではないかと思ってしまうほどだ。
 けれどそんな悠長な考えに浸るほど余裕はあまり無く、別れ際に言った響の言葉が走っている最中もずっと気になっていた。
『思い出した』
 響は確かにそう言った。
 響がここのところ頭痛を訴え、何かを思い出そうとしているのは知っていた。もしかしたら先ほどの事故を目撃したことでフラッシュバックを起こし、自身の奥底にあった記憶が甦ったのかもしれない。
「よし……!」
 推測もほどほどに、先ほどより呼吸も落ち着いてきた梨花は立ち上がって辺りを見回した。
 人気のない路地裏はなんだか不気味で、22時という時間帯もあってか明かりもまばらで薄暗い。大通りから一本入ったこの路地裏を、随分長いこと響と追いかけっこしていた。それも随分と本気な追いかけっこを。
 「待って」と言いたかったけど、あまりに走るのに必死になりすぎて一言言うことすらままならなかった。
 響を見失った方向へと再び走り出そうとしたその時、手に持っていた携帯が鳴った。画面を見ると相手は高藤だった。先ほど中途半端なところで会話を切ってしまったこともあり、半ば「しまった」と思いながら梨花は慌てて電話に出る。
「もしもし、高藤さん……? さっきはすみませんでした」
『いいえ、気にしないでください。それで、彼は見つかりましたか?』
「はい、見つけたには見つけたんですが……また逃げられちゃいました……」
 しゅんとしな垂れながら梨花が言うと、電話の向こうの高藤は少し可笑しそうに笑っていた。
『なかなかやりますね、彼も』
「高藤さん、なんか楽しんでませんか……?」
 拗ねるように口を尖らせると、高藤は「すみません」と言いはするが、声がまだ笑っている。
「さっき大通りでトラックの事故があって、そこに響君がいたんです。でもちょっと様子がおかしくて……」
『トラックの事故?』
 たちまち高藤の声色が真剣みを帯びたものへと変わる。今度の変化はとても顕著だ。
『もしかして、誰か人が巻き込まれたりしませんでしたか。例えば女性とか……親子とか……』
「はっきりとは見てないんですけど、親子が巻き込まれたみたいです……。その後のことは分かりません」
 直に見ていないとはいえど、出来ればあまり思い出したくない光景だった。
 医者という職業上、事故のことが気になるのか高藤は再び何かを考えるように黙り込んでしまう。けれどそれもほんの僅かな時間だった。
『先ほどの電話で梨花さんに言いましたよね、彼の名前を聞いて欲しいと』
「はい。でも、どうしてですか?」
『僕もエリカも、おそらく誰一人として、彼の名前を知らないからです』
 高藤の声はいつもどおり落ち着いていた。しかしどういうわけか、この時梨花は高藤の話を「聞きたくない」と思ってしまった。
 嫌な予感がする。これから高藤が話すことは、自分にとってとてもショックを受けるもののような気がした。
『梨花さん。これからあなたにお話することは全て憶測ではなく真実です。どうか落ち着いて聞いてください。そして、それを踏まえた上で梨花さんに折り入ってお願いしたいことがあります』
「お願い……?」
『こんな大事なこと、本当はあなたに直接会ってお話しするべきなのですが、このような形になってしまいすみません』
 高藤の声以外、全てがシャットアウトされたような静けさだった。梨花は何も言わないまま、黙って高藤の声に耳を澄ませた。
『単刀直入に言わせてもらうと、梨花さんが“響君”と呼んで親しんでいる彼は柊響ではありません』
「!? 響君が……響君じゃ、ない……?」
『はい。あれは本来であれば基本人格を守るために生まれ、存在する保護者人格というものです』
 嫌な予感というのは、どうしてこうも当たってしまうものなのだろう。
 キッパリと放たれた『事実』というものに梨花はいとも容易くねじ伏せられた。ドクドクと鬱陶しいくらいに鼓動の音が聞こえ、携帯を持つ手はじっとりと汗ばんでいた。
 あまりに動揺しすぎて、高藤が響のことを『あれ』呼ばわりしていたことも聞き流してしまっていた。
『本来保護者人格は基本人格を守るために存在するのですが、彼の場合は色々と規格外なところが多すぎて主治医も大変手を焼いているんです』
「そんな……だってそうなると色々おかしいじゃないですか! それじゃあエリカは」
『そう、僕や梨花さんの前で“エリカ”と名乗る彼女こそが基本人格であり、柊響その人なんです』
「エリカが、柊響……?」
『エリカの父親から直接話を伺ったので、まず間違いありません』
「父親……?」
 響が母子家庭というのは知っていたが、どうやら父親は存命らしい。幼い頃から響の傍にはいなかったため離婚したのか早くに亡くなったのかどちらかだろうと思ってはいたが、この場合前者だろうか。
 今は情報が多すぎて考えがまとまらない。梨花の、携帯を持つ手は小刻みに震えていた。
『あなたにこれを打ち明けたのは、梨花さんにエリカの……響の力になって欲しいからです。あの子が自分の名と、自分自身を取り戻すために。自分に自信を持てるように。そしてあわよくば──』
 その先の言葉を聞いた時、梨花はこれ以上ないほど目を見開いた。
 高藤の声がどこか遠くに聞こえるほど、それは梨花にかつてない衝撃を与えた。
「ど……して、そんなっ、……どうして、どうしてそんな酷いことを言うんですか!?」
 かろうじて出た声は情けないくらい上擦っていた。
 梨花は二人をどうにかして共存させたい、出来れば仲良くしてほしい、そればかり考えていた。
 一人の人間の中に二人いるということは、心だって二つあるということだろう。そのどちらか一方を受け入れてもう一方を蔑ろにするなんてことは梨花には出来なかった。
 響もエリカも、二人とも受け入れたい。
 気持ちを分かってあげたい。
 それがどれほど甘い考えで、綺麗事で、難しくて不可能に近いことなのかなんて、梨花は考えてもいなかった。エリカの気持ちも響の気持ちも、二人の願いも、梨花は何一つとして分かっていなかった。
 だからこそ、高藤の残酷なお願いに打ちのめされてしまった。
『彼の人格を消すために、協力してくれませんか』