第11話 半覚醒 |
「この『いちごスムージー』ってどんな飲み物なのかな」 「凍らせた苺とヨーグルト、牛乳をミキサーにかけたシャーベット状の飲み物になります」 「なるほど。僕はヨーグルトが苦手だからこれは無理だね。じゃあこの『チョコレートミルクティーのバニラアイスのせ』を一つ」 「はい。かしこまりました」 傍から見ても感じの良い微笑みで女性店員と会話をしつつ、高藤のチョイスしたメニューの可愛らしさに梨花は肩の力を抜いた。それでも緊張感と猜疑心が完全に無くなったわけでもなく、梨花は目の前に腰掛ける男性──高藤をジッと見つめていた。 「梨花さんは何にしますか?」 「え? えっと私は……」 高藤からにこやかに促され、梨花は慌ててメニューに目を通す。 レモンティーソーダやアプリコットティー、キャラメルカフェラテ、魅力的なラインナップだ。ミルフィーユやクレープシュゼットも美味しそうで、人前だというのも忘れて梨花は目を輝かせながらメニューを見てしまう。 「急なお誘いに付き合ってくれたお礼に、僕にご馳走させてください」 高藤からさらりと言われたその一言で、梨花の注文はあっさりと決まった。 「じゃあ私はアイスティーで」 それがお店で一番安い飲み物だとすぐに気付いた高藤はクスクスと笑い出す。梨花が怪訝な顔をすると彼は「ごめんごめん」と軽く謝ってくる。 「なんですか」 「いや、エリカとは真逆だなぁと思って」 「エリカと?」 「ええ。彼女とも知り合って間もない頃にここへ来たんですが、その時に僕が同じことを言ったらあの子、この店で一番高いジャンボパフェを頼んでね。その時の食べっぷりがすごくて」 さすがに小悪魔なだけはあって容赦ないなぁと、梨花はジャンボパフェを幸せそうに頬張るエリカの姿を思い浮かべた。違和感が無さすぎて困る。 エリカみたく元から人懐こくて素直だったら、高藤の言葉にだって遠慮なく甘えられるのかもしれない。男の人がそういう女の子に弱いことも梨花は十分知っている。けれども昔から喧嘩早い上に気が強く、しっかりしていた梨花はどちらかと言えば人から「甘えられる」側にいたため親以外の人に甘えるなんてハードルが高すぎた。 梨花はそんなことを考えながら、先ほどの自分の注文の可愛げの無さに凹んでしまう。どんなに外見で女の子らしさを取り繕ったところで、内面はそう簡単には変われない。 「……すみません。可愛げのない注文で」 恥ずかしさに頬を染めながら口を尖らせた梨花に、高藤は目を細めて優しく微笑む。 「いいえ。相手に対して気遣いの出来る、とても優しい方だと思いますよ。少なくとも悪いことではないですし、どちらかと言えばエリカの方が異常です」 あの子はもうちょっと慎みというものを知った方がいい。そう言ってクスリと笑う高藤につられて、梨花はプッと小さく吹き出してしまった。 「ところで梨花さんは甘いものはお好きですか?」 「まぁ、人並みには……」 「そう。それはよかった」 つい控えめに言ったものの、梨花は甘い物が大好きだ。こんな些細なところでも素直になれない自分に嫌気がさしてくるが、高藤はそんな梨花の心境になど気付くわけもなく、再度店員さんを呼ぶとメニューを広げた。 「すみません、ここに書いてあるケーキを一通り持ってきていただけますか?」 「かしこまりました」 突拍子もない高藤の注文に店員も一瞬目を見開いた。 それもそのはず、メニューに書かれたケーキは大まかに数えても二十種類以上はあった。オーソドックスなイチゴショートから始まりミルフィーユにチーズケーキ、ガトーショコラ、タルト、果てやシフォンやロールケーキまで。 いくら甘味好きでもそんなに沢山は食べられないと梨花は焦った。心の中で自分の胃袋を心配していると、 「心配いりませんよ。ここ、テイクアウトも出来るので」 と、高藤から完璧な笑顔で言われてしまいぐうの音も出ない。「テーブルが賑やかになりますね」とこの上なく楽しそうな様子の高藤を見つめながら、さすがエリカの友達なだけはあってこの人もまともな感覚の持ち主ではなさそうだと梨花は苦笑した。 「そういえば、今日は私に何か話があったら来られたんじゃないんですか?」 「いえ、梨花さんに会いに来たのは単純な興味からです。エリカの口から珍しく同世代の女の子の話が出たものだから、どんな子なのかと気になってしまって……。お会いしてみたら想像以上に美人で素敵な方だったので驚きました。エリカがあんなに自慢げに話すのも納得です」 本人の前で美人だとか素敵だと言われても反応に困ってしまい、梨花は曖昧な笑みで誤魔化した。 「エリカは学校でのことはあまり進んで話してくれませんし、友達はいるのかと尋ねても拗ねちゃうんですよ。多分いないからだと思いますけど……。でも、梨花さんのことは別かな。あの子はとても貴方のことを好いているみたいなので、梨花さんさえよければこれからも仲良くしてあげてください」 まるで親のような口ぶりである。エリカが高藤のことを「友達というよりはお兄さんかお父さんみたい」と言っていたがまさにその通りのようだった。 「高藤さんはエリカのことをよく知ってるみたいですね」 「まだ知り合って五年ほどですよ。梨花さん達に比べたらまだまだです」 「私?」 「ええ。彼とは幼馴染なのでしょう?」 「響君のことですか? 確かに幼馴染ですけど、私ついこの間まで海外にいたので一緒にいた時間はそこまで長くないんですよ。それに、あの子も自分のことを進んで話したりするタイプじゃないから、まだまだ知らないことも多いし……」 梨花が苦笑していると、高藤は笑みを消し面食らったような顔をしていた。一体いまの話のどこに驚く要素があったのか分かりかねたが、高藤はすぐに微笑を浮かべ「そうですか」と静かに零した。 「梨花さんは彼のことをそう呼んでいるんですね」 そう言う高藤の瞳は穏やかに細められているが、どこか寂しげだ。 「え? なにかおかしいですか?」 「いいえ、名前で呼ぶなんてとても仲が良いんだなぁと、少し驚いてしまいました」 高藤だってエリカのことを名前で呼んでいるし、別段驚くことじゃないはずだ。そう思ったものの、高藤の穏やかな表情に有無を言わさぬ何かを感じ取ってしまい、梨花は言葉を呑み込んだ。 「お待たせしました」 次々にテーブルへと置かれていく見目麗しいケーキに梨花の目が輝く。だが、次第に置き場がなくなってしまうほどテーブルの上に埋め尽くされたケーキの数に、梨花は完全に圧倒された。 「お好きなのをどうぞ」 高藤から勧められるがままに梨花はイチゴのミルフィーユを取り、ザクリとフォークを入れた。が、その拍子に横からカスタードが思い切りはみ出て形が崩れてしまう。 男の人の前でこんな食べにくいケーキを選ぶんじゃなかったと梨花は心底後悔した。 「横に倒した方が食べやすいですよ」 追い打ちをかけるように高藤からクスクスとアドバイスまで受けてしまい、梨花の顔に熱がこもっていく。 高藤はモンブランのてっぺんに添えられた栗の渋皮煮をひょいと口に運びご満悦な様子だ。 「梨花さんから見て、学校でのエリカはどんな感じですか?」 「私もまだ転校してきたばかりなので詳しくは分からないんですけど、あの子成績が良いから学校では授業にもろくに参加しないで好き勝手にやってるみたいです。私もエリカが授業に出てるところはまだ一度も見たことないですし……」 「僕がこのあいだ尋ねた時は『授業にはちゃんと出てる』って言ってたのに、やっぱり嘘だったんですね。困った子だ……」 そんなことを言いながらも、若干笑っているその顔はちっとも困っているような感じでもなく、親馬鹿に通じるものがある。 「この間って、エリカと食事した時ですか?」 先日の、女装した響が迷子になった一件だ。あの時の響は本当に目のやり場に困ったし気の毒だとも思ったけれど、それ以上にあまりの違和感のなさに笑いを堪えるのが大変だった。その時の響を鮮明に思い出してしまい、梨花はつい吹き出しそうになったが手で隠してなんとか誤魔化した。 「そういえばあの日は梨花さんにも大変迷惑を掛けてしまったんですよね、すみませんでした。まさか彼の方が出てくるとは思わなくて」 「高藤さんのせいじゃないですよ。どうせエリカがワガママ言って駄々捏ねたんだろうし……」 「ははっ。さすが、エリカのことをよく知ってますね」 高藤は苦笑している。中らずといえども遠からずといったところらしい。 「響君が『知らない人に追いかけられた』って言ってたんですけど、もしかしてそれって高藤さん?」 「ええ。彼、目を覚ましたときに軽くパニックを起こしていて。あの時の状況を考えれば無理もないことです。私もなんとか彼を落ち着かせようとしたんですが、逃げられてしまいまして……。ドレス姿な上にパンプスなんて履いてるのに、足が速くて驚きましたよ。全然追いつけなくて」 「高藤さんは響君と話をしたことはあるんですか?」 「まともな面識も無い上に話をしたこともありません。彼とも話をしてみたいと思っているんですけど、なかなか機会が無いんですよ。もしかしたら避けられているのかもしれませんね。彼、男嫌いなんでしょう?」 高藤は苦々しく笑ってミルクティーを口にする。エリカとは長い付き合いだというのに、その反面、響とまともな面識が無いのは意外だった。 「高藤さんは、エリカや響君のこと……どう思ってますか」 「梨花さんはどうです?」 質問返しをされて梨花は「え」と間の抜けた声を出してしまう。 「私ですか?」 高藤の涼しげな双眸がまっすぐに梨花へ向けられている。 質問したことをそのまま返されるというのは、相手が嘘や隠し事をしている時だと聞いたことがあって梨花は訝った。しかし、自分の考えも言わずに相手に答えを求めるのも見当違いかと思い、言葉を選びながらゆっくりと口を開く。 「正直『難しいな』って思います。まだ知り合って間もないけどエリカは良い子だし……響君のことだって大事だし……。平等に接しないとって思ってても、二人とも違いすぎて……実際はやっぱり難しいです」 「平等ですか。つまり、どちらか一方に肩入れしたり優劣を付けたりするのは梨花さんとしては間違っていると?」 「優劣?」 不穏な言葉を含む、どこか釈然としない高藤の問いかけに梨花はピクリと眉を寄せた。高藤は慌てたように苦笑して「すみません」と何に対してか分からない謝罪を並べる。 「エリカの言っていたとおり、貴方はとても優しい人のようだ」 とてもじゃないが僕には出来ないと、高藤は自嘲気味に零す。 「長く生きているとね、心は汚れていってしまうものなんですよ。病院なんて職場は特にね」 「高藤さんは響君とエリカに優劣を付けているんですか?」 先ほどの言葉は梨花にはそう聞こえた。 高藤は困ったように笑って何かを誤魔化そうとしている。そんな態度を見せられては肯定しているようなものだと梨花はしかめ面のまま思った。高藤もそれをよく分かっているようで、更に困ったように眉をハの字にして微笑む。 「僕が二人のことをどう思っているのか、それを話す以前に梨花さんはまだ二人について知らないことが多すぎる。梨花さんがもう少し二人のことを理解するまで、僕の回答は先延ばしにしてもらえるとありがたいです」 「私、そんなに響君やエリカのこと分かってませんか……?」 二重人格という響の秘密を知っている人が周りにいなかったからか、いつの間にか梨花はその辺の人たちよりも彼らのことを理解しているつもりになっていた。すっかり自惚れていた自分に恥ずかしさを覚えつつ、動揺を隠しきれないまま梨花が尋ねると、高藤からは柔らかな微笑みが返ってくる。 「いいえ。『分かってない』んじゃなくて『知らない』んです。僕もまだまだ二人に関しては知らないこともありますし、エリカからしか情報は得られないのでだいぶ偏っていますが、それでも梨花さんは二人について知っていて欲しい最低限のことをまだ知らない」 「知っていて欲しい、最低限のこと?」 響とエリカ。二人と一緒に過ごし始めてまだ日が浅い。それに、響は幼馴染とはいっても離れていた時間の方が長いくらいだ。過ごした時間で言えば、梨花よりも悠人の方が響のことを理解しているのかもしれない。 仕方のないこととはいえ、あの七年間さえなければと梨花は歯痒い気持ちになりテーブルの下でギュッと手を握りしめる。 そんな梨花の心境を知ってか知らずか、高藤は言葉を続けた。 「知らないのならこれから知っていけばいいんです。少なくともエリカは自分のことを理解してくれる人を求めていますし、貴方のことをとても好いているみたいです。だから、まずは互いの距離を縮めていくことから始めてはどうでしょう」 「……そうですね。まだ時間はあるし、これからきちんと向き合って付き合っていこうと思います」 「それが賢明でしょうね。もしよければ、これからも時々こうして会っていただけますか? 僕も二人のことは何かと気になるし、情報を交換出来る相手がいればと思っていたんです」 高藤の提案は願ってもないことで、梨花は二つ返事で頷いた。響やエリカに関して困ったことがあれば助言をもらえるかもしれない。エリカはなにかと高藤を頼っているようだったし、あらかじめ二人が一緒にいることが分かっていれば、何も知らない時より安心出来る。 梨花がそう考えているとき、高藤が何気なく話題を振った。 「そういえばあの子、学校に好きな子がいるみたいなんですが梨花さん何か心当たりありませんか?」 それを聞いた時、梨花の目が一瞬点になったのは言うまでもない。 ◆ 「随分と派手に動いたのね」 放課後の閑散とした図書室の静けさは好ましく、桐沢の気に入りだ。 そこで壁に凭れながら誰にも邪魔されることなく本を読んでいたところで声を掛けられ、桐沢は顔を上げた。 穏やかでいて気品を感じさせる口調と声の持ち主は、それによく見合う優美な微笑みを浮かべて目の前に立っていた。 「神崎」 「弱味を握ってる女の子に強引に迫って、関係を強要するなんて褒められたものじゃないわ」 「弟相手に姦淫した君が言っても説得力ないけどね」 「失礼ね。ちゃんと和姦よ。強引に迫ったりなんてしてないもの」 神崎は顔こそ微笑みを浮かべているものの、その目は笑っていなかった。おそらく警告のつもりで来たのだろう。独断で動いたとはいえ、まさかこうも早く神崎に知られてしまうとは思わなかった。その情報網に驚きながら、桐沢は読んでいた本をパタンと閉じて小さく息を吐いた。 「卒業まで1年を切ったんだ。焦ってしまうのも無理はないだろう」 「せめて相談くらいはしてほしかったわ。あなた色々抜けてるから心配なのよ」 「それに関しては、すまなかった……」 後ろで両手を組んだ神崎はそのまま本棚へゆるやかに凭れる。 「お父様のツテで聞いた話だけど、最近響君が家に帰っていないみたいなの」 「家に? 柊は確か一人暮らしだったろう」 「ええ。夜になっても部屋に明かりがついていないらしくて、郵便物も溜まっているみたい。ここ数日帰ってないのはまず間違いないって。心配で調べてもらったら、どうやら橘さんのところにお世話になってるらしいの」 そう言う神崎は、穏やかな様子こそいつもどおりだが纏う雰囲気が完全に異なっていた。桐沢にとっての敵が悠人なら、神崎にとっての最大の敵は梨花だ。そのうえ、響の梨花への入れ込みようは相当なものときている。 神崎にとって梨花は最大級のイレギュラーだった。脅威だけで言うなら悠人よりも梨花の方が断然上である。 橘梨花。突然転校してきた響の幼馴染。整ったルックスは人目を引くものがあり、男子生徒の間でひそかに話題になっている。この学校の編入試験をパスした上に特進Sクラスとは、そこそこ頭も良いのだろう。転校してまだ間もないうちから響絡みでファンクラブと衝突した件からも、十中八九、売られた喧嘩は全力で買うタイプであることが分かる。 苛められて泣き寝入りするような女だったらどんなに扱いが楽だったかと、神崎は何度思ったことか。 「早いうちに手を打ったほうが良いかもしれないわね。桐沢君が下手なりに布石を打ってくれたことだし……」 「下手は余計だろう。当初は少し話すだけのつもりだったんだ。それなのにエリカがあまりにも諦めが悪いからつい……」 「ムキになっちゃった? 桐沢君ってクールを装ってるけどけっこう熱血漢なところがあるわよね。旧友のよしみでアドバイスするけど、桐沢君は自分の意志や考えで動くと情に流されがちな上にツメが甘くて失敗しがちだから、誰かの言いなりになって動いた方が良いと思うわ」 「うるさいな」 「桐沢君てサドを装ってるマゾだと思うのよね。だから私と気が合うんだわきっと」 「なんの話だ……いやいい。それ以上しゃべるんじゃない」 このままだとおぞましいことを言われそうな気がして、桐沢は片手で神崎の言葉を制する。 「周りの者達も鬱憤が溜まっているようだし、良い機会じゃないか。先日の橘梨花の図書室での一件が良い例だ。あれは僕の指示でも、ましてや君の指示でもない。周りが勝手にやったことだ」 「まさか響君が介入してくるなんてね。しかも私達の仕業だと決めつけているみたいだし、とばっちりもいいところよ。あのまま橘さんが怪我して入院でもしてくれればまだ良かったものを」 さらりと酷いことを言う神崎はよほど梨花の存在が腹立たしいようだ。今まで梨花と会っても嫌悪感など出さず普通に会話をしていたのに、神崎の仮面の徹底ぶりを桐沢は内心恐ろしく思う。 「橘は柊と一緒にいることが多いから動きにくいな。先にやるなら樋口だ。あいつを徹底的に潰す」 「ぼちぼち彼もお役御免ってところかしら。でもどうするつもり? 樋口君に怪我でも負わせようものなら先輩達の二の舞になるわよ。あなたもただじゃ済まないわ」 「そのために今まで準備をしてきたんだ。先輩達と同じ轍は踏まないよ」 「先輩達の時は痛み分けって感じだったけど、今回はどうなるかしらね。楽しみにしているわ」 神崎はにこやかに笑って言う。図書室の窓から差し込むオレンジ色の夕日が、神崎の黒髪を赤く染めてキラキラと光る。でも、その様子を『綺麗』だと思わなかったのは、桐沢が彼女の歪んだ内面をよく知っているせいだろう。 「なに、柊にはファンも多いがアンチも多い。手を貸してくれる連中はたくさんいる。その辺をちょっと利用させてもらうさ」 「それにしたって一人に対して八人なんて、ちょっと過剰すぎると思うけど」 「言ったろ。徹底的に潰すって」 「桐沢君ってほんとに執念深いのね」 怖いわ、と言って神崎は口元を軽く押さえてクスクスと笑う。 「僕はエリカを手に入れるためならなんだってするよ。エリカを心の底から愛せるのも、全てを受け入れてあげられるのも僕だけだから」 「あなたにこんなに想われて、あの子も不憫ね」 「君にだけは言われたくないよ」 ◆ 「ただいまー」 高藤と喫茶店で話したあと、梨花が家へ着く頃にはすっかり辺りは真っ暗になっていた。 携帯の時計は19時過ぎを指している。ここまで遅くなるつもりは無かったのだが、高藤と話し込んでいたら随分時間が経ってしまっていた。 靴を脱ぐ傍ら、返事のないリビングには明かりが灯っていて、微かだがテレビの音声も聞こえた。響かエリカが一足先に帰ってきているのだろうと、手土産を片手に梨花は顔を出した。 「おかえりなさい、梨花ちゃん」 「ただいまエリカ。いるなら返事くらいしてよ」 エリカは制服姿のまま、両手でクッションを抱き抱えながらソファに座っている。梨花を見るなり嬉しそうに微笑んだものの、いつもと比べて些か元気がないように見えた。 「ほらお土産。エリカ甘いもの好きでしょ?」 「ん……」 食べきれずにテイクアウトしたケーキの箱を見せても、エリカはぎこちなく笑みを浮かべるだけだ。甘い物が大好きなエリカらしからぬ反応だ。これはいよいよおかしい。 梨花は心配になって、ガラステーブルにケーキの箱を置くとエリカの顔を覗き込む。 「どうしたの元気ないじゃない。何かあった?」 「え? 何もないよ」 そう言ってニコリと笑って見せられても、やっぱりその笑みはいつものエリカのそれではない。梨花がそう勘繰っている間にもエリカは視線を落として浮かない顔をしていた。そんな顔をしておきながら『何もないよ』とはよく言えたものだ。 なんとなく、エリカは隠し事をするのが上手そうなイメージがあったけれど、案外顔に出やすいタイプなのかもしれない。梨花は認識を改める。 「エリカが元気ないと調子狂うんだけど……。そうだ、お腹空いてない? エリカが食べたいもの作ってあげるよ」 「今はお腹空いてないからいい」 梨花の提案はあっさりと拒否されてしまう。いつも元気なエリカだけに、ここまで消沈しているのを見ると放っておけない。 (そういえば響君もどことなく元気なかったな……) 理由はそれぞれ違うのだろうが、二人のことを理解出来ていないしわ寄せはこういう時にやってくるのだろう。エリカのことをよく分かっている高藤だったら、上手に対処してエリカの不安や悩みを拭い去るのだろうか。 無いものねだりをしたってしょうがないけれど、やはり歯痒い気分になる。 「ねぇエリカ、何があったの? 私には言えないこと?」 エリカは固く口を閉ざしたまま、相変わらずクッションを抱いてソファに座ったまま丸くなっている。梨花の声は届いているのか否か、それすらも分からないほどエリカはぼんやりとしていた。長い睫毛が影を落とし、憂いを帯びた相貌すら蠱惑的だ。 「エリカ。今日私ね、高藤さんと会ったよ。エリカの言ってたとおり優しい人だった。高藤さん、エリカのこと心配してて……それでちょっと聞かれたんだけど」 そこまで言って梨花は躊躇する。元気のない時にこんな話題をするのもどうかと思ったが、なにかしらエリカの反応が欲しかった。梨花自身とても気になっていたというのもあるが。 いくらか間を置いた後、梨花はまっすぐにエリカを見つめて口を開いた。 「エリカ、学校に好きな人がいるの?」 その問いかけに対するエリカの反応といったらなかった。 我に返ったエリカは目を見開いて梨花を見る。その顔はみるみるうちに朱に染まっていき、そのあからさますぎる反応に見ていた梨花の方が驚いた。ここまで素直な反応をするとは思わなかったのだ。 エリカは驚きのあまり声も出ないのか口をパクパクさせていて、その口がようやくまともな言葉を紡いだのは数秒後。 「な、んで高藤さんが知ってるの……エリカ、誰にも言ったことないのに……!」 「あー、うん。あの人なんか妙に鋭いし、エリカ見てたら気付いたんじゃない?」 少なくとも、こんなにも激しい動揺を見せて狼狽えられたら誰にだって分かる。あまりにも新鮮すぎる反応に愛おしさが芽生えて、梨花はついクスリと笑ってしまった。 「そっか、エリカって好きな人いたんだ」 「いないっ! いないからっ!!」 「そんな顔真っ赤にして否定されても」 エリカは動揺のあまり声まで裏返ってしまっている。恋愛ごとには慣れているようなイメージがあったのに、まさかこんなにも初な反応をするとは思わなかった。 高藤の言っていたとおり、梨花はまだエリカのことでは知らない事が多いのだと実感する。 (エリカの好きな人か……そりゃそうだよね、いない方が変か……) 小悪魔なエリカのことだから男の一人や二人を手玉に取るくらい簡単だろうと勝手に思っていたのに、まさかこんなに初だったなんて驚きである。でもそれはそれで、普段の明るい時とのギャップがあって魅力的だと梨花は思う。 「高藤さんすごく気にしてたよ。エリカのパパみたいな人なんでしょ? 教えてあげれば良かったのに」 「いいの。どうせ叶わない恋だから」 静かに、それでいてはっきりと放たれたエリカの言葉。 顔を上げたエリカは先ほどとはうって変わり、皮肉な笑みを浮かべていた。 「エリカの恋愛事情なんて、梨花ちゃんも残酷なこと聞くよね。梨花ちゃんがもしエリカだったら、誰かに恋愛相談なんてしようと思う?」 梨花の返事を待たずして、エリカはさらに続けた。 「しないよね? 出来るわけないよ。だってエリカこんなだよ? 頭も身体も普通じゃないのに、そんなエリカにどうしろって言うの? 仮に誰かに相談したところで、その人が裏切らない保障だってどこにもない」 訴えかけるエリカはとても必死で、梨花は目を逸らすことも言葉を発することも出来なかった。 「絶対に実らない恋だから、誰にも言わないの。梨花ちゃんごめんね。今日ちょっと色々あってエリカ疲れてるみたい……少し休むね」 眉を下げて弱々しく微笑むと、エリカはソファにごろんと横になる。そして、梨花の言葉も待たずに瞳を閉じた。 梨花は、まともな相談相手にすらなれていない自分が虚しくて、床にペタリと座りこむ。 「『今日ちょっと色々あって』って……私には話してくれないの? 相手不足?」 「梨花ちゃんは、私とあの子と、どっちが好き? どっちが大事?」 横になっていたエリカはうっすらと目を開き、梨花へ問いかける。 エリカと響を両天秤にかけたらどちらに傾くかなんて、梨花には答えられるわけがなかった。 『平等ですか。つまり、どちらか一方に肩入れしたり優劣を付けたりするのは梨花さんとしては間違っていると?』 高藤の言葉が頭を過ぎる。 肩入れや優劣が必ずしも間違っているとは言わない。けれどいま自分の目の前で寂しそうに丸くなっている子にそんなことはしたくなかった。それはなんだかとても、梨花には虚しくて可哀想なことに思えた。 「エリカ。私はね、そんな大事な質問にすぐ答えられるほど、響君のこともエリカのことも知らないよ。だから、これからはもっと二人のことを理解していきたいって思ってる。それじゃあ答えには」 「梨花ちゃんにあの子を理解するなんて絶対に無理だよ」 梨花の言葉を遮るようにエリカは言う。 「どういうこと?」 「あの子は梨花ちゃんの理解の範疇を超えた子だから。常識なんて通じない。あの子はね、梨花ちゃんが思ってるほど生易しい子じゃないよ。目的のためなら、精神的にも肉体的にも平気で人を傷つける。信じる信じないは梨花ちゃんの自由だけど」 静まりかえった部屋の中で、テレビの音声だけが鮮明に聞こえた。 梨花は何も言えずにエリカを見つめたまま、エリカが言った言葉を頭の中で咀嚼する。その内容は梨花にはとても信じがたいものだった。 「梨花ちゃん、信じたくないって顔してる」 「だって私、そんな響君知らない」 弱くて泣き虫で、自分に自信がなくて、いつもいじめられていた響。優しいからやり返す事も出来なくて、いつも我慢していた強い子。人見知りが酷いから分かりにくいけど、本当はとても他人思いだってことも梨花は知っている。 それが覆されたような気分だった。にわかには信じがたい話だ。 そもそも、梨花はそんな響を一度たりとも見たことがない。仮にいるのだとしたら、梨花が今日まで接してきた響はなんだというのだろう。 「今はただ、半分眠ってるだけ。今日のでそれがよく分かった」 「眠ってる?」 「梨花ちゃん、あの子がなにかしようとしていたら絶対に止めて。エリカにはたぶん止められないから。お願い」 そう言ってエリカは瞳を閉じて眠ってしまった。 ◆ 響は眠っている時、以前あった出来事を夢に見ることがよくある。 そのどれもが現実と見紛うほどにリアルな夢だ。目覚めるまでそれが夢だと気付かないほどに。 響はとある病院の一室に立っていた。目の前には友人である悠人が真っ白なベッドに横になっている。 「心配するなって、俺は大丈夫だから。お前が気にすることなんて何もねーよ」 まるでなんてことないように、いつものように悠人は笑っていた。裏表のない澄んだ微笑み。その微笑みにいつだって救われてきたはずだったのに、今はその悠人の微笑みを直視することが出来なかった。 どうしてそんな風に笑っていられるのか、響は不思議でたまらない。 それくらい悠人の怪我は酷かった。 痛々しい程に鬱血した口元や頬は、ガーゼで覆われているものの完璧に隠しきれるものではなかった。瞼も切れているらしく、そこにもガーゼが貼られている。頭には包帯が巻かれていて、左腕にはギプスが付けられていた。 ただ唯一、無傷な両足が『彼ら』からの警告のように思えて響はゾッとする。小学生の頃からサッカー一筋な悠人にとって、それはとても大切なものだったから。 悠人の身体に刻まれた幾多もの暴行の痕跡は、見ていていたたまれなくなるほど辛かった。 悠人は昨夜、学校からの帰宅途中で複数人から暴行に遭い、大怪我を負って病院へ搬送された。部活の帰りだったため夜も遅く、辺りも閑散とした住宅街だったため目撃者はいなかった。犯人の男達は帽子にマスク、サングラスを装着し完全に変装していたらしく、悠人は彼らの正体を特定することが出来なかった。 犯人と悠人の関係性を結びつけるような証拠もなく、結果、事件は無差別的なものだろうと判断された。 でも響は信じなかった。 証拠なんて大それたものはないけれど、確信に近いものがあった。 (俺のせいだ) 後先考えずに悠人に相談なんてしたから、こんな取り返しのつかないことになってしまった。あんな相談をすれば、正義感の強い悠人が行動に移さないわけがないのに。 全てを軽率に見ていた自分の責任で、響はギュッと手を握りしめた。 「響、あんまり思い詰めるな。お前は何も悪くないんだから」 悠人から諭すように言われても納得など出来ず、響はゆるゆると首を横に振る。 そんなことない。何も悪くないなんてあり得ない。いっそお前のせいだと責めてくれた方がまだマシだった。 過度な優しさは残酷なだけだと、響はそのとき初めて知った。 「俺スタメンじゃねーし、どのみち試合には出れないからさ」 「……けど練習にも出られない」 「俺だってたまには休みたいの。むしろ部活休めてラッキー」 「そう思ってる人は自主練なんてしない」 ボソリと零せば悠人は困ったように「ああもう」と片手で顔を覆った。 「だーかーら、遅れた分はこれから頑張って取り戻せばいいんだよ! 俺、努力と根性だけは誰にも負けねーから」 「でも」 「っお前のせいじゃねぇ!!!」 あまりにも聞き分けのない響に悠人はカッとなり、大部屋だというのに声を張り上げてしまった。悠人はすぐに自分の失態に気付き、同室の人達に謝るとバツが悪そうに頭を掻く。 「とにかく、マジでお前のせいじゃないから。この話はもうおしまい!」 そう言って別の話題を振ってくる悠人に響は何も言えなかった。こんな大怪我ではしばらく部活にも参加出来ず、周りに後れをとってしまう。まだ一年生とはいえど、サッカー一筋な悠人にとってはきついだろう。 それなのに悠人は誰も責めなかった。 元凶である響に対しても、いつものように笑って接してくれる。お前のせいじゃないんだと気遣ってくれる、強くて優しい友人。男なんてクズばかりでろくなもんじゃないと心底嫌悪している響にとって、ただひとり悠人だけは特別だった。 犯人は、そんな悠人を陥れたのだ。 (絶対に許さない) ざわりと、響の中で何かが蠢いた。 (ああ、すごくむかつくなぁ。俺が大切にしているものをこうやって卑劣な形で踏みにじっていくんだから……。人ってのはこれだから信用出来ない) 凄まじい憎悪が渦を巻いて気分が悪くなりそうだった。悠人が楽しそうに話しかけてくるが、響には内容が何一つ頭に入ってこない。自分がどんな顔をして悠人の話を聞いていたのかも分からなかった。 響の中は、どす黒い感情でいっぱいだった。 (見つけ出して、殺してやる) ◆ 電話の鳴る音で響は目が覚めた。 なんだかとても嫌な夢を見ていた気がした。 身体を起こせば、ここ最近の悩みの種である頭痛が襲い響は顔をしかめた。偏頭痛持ちではあるがこんな何日にも渡って症状が続くことは滅多にない。効き目に期待は出来ないが飲まないよりはマシかと、響は薬を飲むべく立ち上がる。 いつの間にかリビングのソファで眠ってしまっていたらしく、そこには響以外誰もおらずテレビは付けっぱなしだった。その間、なおも鳴り続ける電話の音が痛む頭を刺激する。それがたまらなく不愉快で、響は緩慢な動きで電話へ歩み寄り受話器を手に取った。 「はい。柊ですけど」 『あれ? 柊って、もしかして響か?』 「悠人?」 電話の相手は悠人だった。 『なんだ梨花んちに遊びに来てんのか? 仲良いなお前ら。つーかお前、そこ梨花んちだろ柊ですけどじゃねーよ!』 ケラケラと笑う悠人に、ひとまず響はホッとする。 あまりにもしつこく電話が鳴っていたものだからつい出てしまったが、梨花の家の電話に響が我が物顔で出るのはおかしい。悠人から指摘されて気付いた響は、次回からは気をつけなくてはと自分を諫めた。 『なぁそこに梨花いるか? 携帯にかけたんだけどアイツ全然出ないし、家ならいるかと思ってさー』 響はあたりをキョロキョロと見回す。 「りっちゃんなら今いないよ。……あ、もしかしたらお風呂かも」 『風呂!?』 思いついたままに言うと受話器越しで悠人が声を荒げた。なんでそんなに動揺するのか響にはよく分からなかったが、とりあえず相槌を打つ。 『そ、そうかお前らもうそんなところまで……』 「え?」 『いやなんでもない! 梨花にちょっと用があったんだけど、別にお前でもいいから』 「俺?」 『お前さ、明日から放課後は梨花と帰れ。今日みたいなことになったら大変だからな。一人でいるよりも二人でいた方が標的にされにくいだろうし、梨花はしっかりしてるから何か良い案を考えてくれるはずだ』 身に覚えのないことを言われるのはいつになっても慣れないものだ。急速に高鳴る心臓の鼓動を聞きながら響は息を呑んだ。 (放課後?) ゆっくりと気持ちを落ち着かせながら、自身の記憶を遡る。朝ごはんを梨花と一緒に食べて学校へ行って、授業も全部ちゃんと受けた記憶がある、間違いない。それが自分の中に残る最新の記憶だった。 けれど、その後はいくら思い出そうとしても思い出せず、主に放課後の記憶がすっぽりと欠落していた。 (ダメだ思い出せない……) 響は受話器を片手に携帯を開いて日付を確認する。日付は変わっていないし時間もそこまで動いていない。思ったほど記憶が欠落している時間が少なくてホッとした。四時間程度ならまだ軽い。 『おい響、聞いてんのか?』 「ご、ごめん聞いてるよ。えっと、りっちゃんと一緒に帰ればいいの?」 『そ。学校終わったら梨花と一緒にさっさと帰れ。今日みたいに一人で音楽室にいるのはやめろ』 響の心臓はドクンドクンと気持ち悪いくらいに鼓動を打つ。 身に覚えのないことを話され、それを悟られないように話を合わせるのは苦痛だった。自分が何か変なことを言って相手に不信感を抱かせないか、それが怖くてたまらない。変な人間だと思われたくない。 相手が梨花や悠人ならなおさら、その気持ちに拍車がかかる。 (また音楽室……。俺、何してたんだろう……音楽室で何があった……?) 当然そんなことを聞けるわけもなく、悠人から変に思われないように相槌を打つしか出来ない。何かあったにしても大したことじゃなければいいと願っていたが、響の淡い希望は簡単に打ち砕かれた。 『あいつ全然懲りた感じなかったしな。今日みたいに俺が止めに入れればいいけど、ありゃマジで何考えてるか分かんねぇからお前も気をつけろよ』 響の、受話器を握る手はじんわりと汗ばみ、携帯を握っているもう片方の手は震えていた。断片的な話だけでは事の全貌など到底見えるものではないが、それでも直感のようにそれは頭を過ぎった。 (もしかして……また悠人に迷惑かけたんじゃ……) 放課後、音楽室に一人残っていて、何が原因かは分からないけど『誰か』と揉めてしまって、そこへ悠人が止めに入ってくれた。 大まかではあるが大体そんなところだろう。 重要なのは響が揉めた相手が誰であるかだ。さすがに「誰だったっけ?」と悠人に聞く勇気はないため、響は少し言い方を変えて探りを入れた。 「分かった、気をつけるよ……。前みたいに悠人が怪我したら嫌だからね」 『そのことはもう忘れろって。今回は大丈夫だよ、ちゃんと手は打ってるから』 その一言で、悠人があまり良い状況下にいないことが分かってしまった。 「……悠人、今どこに」 『そんじゃ、また明日学校でな!』 受話器を耳に当てたまま、響のもう片方の手から携帯が滑り落ちた。 つけっぱなしだったテレビの音声すら響の耳には入らない。まるで隔離された空間にでもいるかのようだった。ガンガンと内側から叩かれるような頭の痛みだけが鮮明で、自分に何かを訴えているような気がした。 悠人が危ないかもしれない、このままだと前みたいなことになるぞ、と。 そんなことになったら、今度こそ響は悠人に合わせる顔がなくなってしまう。悠人だけではなく、この間は梨花まで巻き込んでしまった。大切な二人をもう傷つけたくない。 響が望むのはただ一つ、梨花と悠人が自分の側にいてくれること。それだけだ。 梨花と恋仲になりたいとか、悠人と対等でありたいとか、そんな贅沢なことは望んでいない。欲しいものは望みすぎると離れていってしまうことを、響は7年前に梨花で学んだ。 だから多くは望まない。二人の笑顔がそばにあれば、それだけで。 傷つけるなど、あってはならない。守らなくては。 「こういうとき、どうすればよかったんだっけ……」 響は抑揚のない声でポツリと呟く。 「響君、どうかした?」 背後からふいに肩を叩かれて、響はビクッと身を揺らす。 振り返るとそこには、タオルで髪の毛を拭いている梨花がいた。どうやら本当にお風呂に入っていたらしい。 「りっちゃん……」 「さっきから声掛けてんのに響君ってば全然気付かないんだもん。どうしたのそんな怖い顔して」 梨花の視線は響の手に握られている受話器へと移る。 「電話出てくれたの? 誰からだった?」 「えっと……悠人から」 「悠人? 携帯にかければいいのになんで自宅にかけてくんのよアイツ」 「携帯にもかけたみたいだけどりっちゃんが出なかったから、こっちにかけたんだって」 梨花は「ふーん」と言いながら響の手元から受話器を取って戻す。床に落ちていた携帯にも気付いてそれを拾い、響へと差し出してきた。 その時にふわりと漂ってきたシャンプーの香りが響の鼻孔をくすぐる。 「悠人にはあとで携帯にかけ直すとして、響君お腹空かない? ご飯にしよっか。貰いもののケーキも沢山あるから一緒に食べよ」 ニコッと快活に微笑む梨花はいつもみたく綺麗だと響はぼんやり思う。 「響君? もしかしてまだ頭痛い?」 何も言わない響の顔を、梨花が不安げに覗き込む。梨花は手を伸ばして響の額に手の平を当てた。熱がないか確認しているようだった。 響は、自分を心配してくれている梨花にどうしようもない愛おしさが芽生える。額に当てられている手の平の優しい温度を手放したくないと思った。 梨花の優しい声、微笑み、香り、温度。 それらを感じてしまえばもう駄目で、響は衝動のまま梨花を抱きしめていた。 「え、え? 響君?」 突然のことに梨花は動揺して声を上げる。まだ水気を帯びた長い髪の毛はしっとりと冷たく、響の手を濡らす。それすら構わず、響は梨花の肩口に顔を埋めた。 「りっちゃん」 「……どうしたの?」 「りっちゃんと悠人がいてくれればそれだけでいいのに……なんでそんな簡単なことも上手くいかないんだろう……」 「響君?」 「今度はもっと上手くやらなきゃ……」 そう言った響が抱きしめていた腕を放すと、梨花は不安げに顔を歪めていた。そんな梨花を安心させたくて響は微笑んで見せる。 そして、何も言わずにそのまま走って部屋を飛び出した。 後ろで梨花が響を呼び止めていたが、響は全てを無視した。夜の闇は響の内面を象徴するかのように真っ暗だった。 けれどそんな中にも星は存在した。響にも光が存在するように。 『心配するなって、俺は大丈夫だから。お前が気にすることなんて何もねーよ』 『信じるよ。それが本当なら、響君が信じてほしいって思ってるのなら、……私は信じるから』 いつも無条件で差し出される優しさや温かさを失いたくなかった。梨花と悠人は響にとって、真っ暗な闇を照らしてくれる光だった。響の中でなによりも正しい存在だった。 それを守るためなら、自分の手なんていくら汚しても構わなかった。 今までずっとそうしてきたように。 |