第10話 終わりから始まりへ


 これが全て悪い夢だというのなら、今すぐに覚めてくれればいい。
 何度も何度も心の中でそう思っていた。



「っ、う……、……」
 雨が降ってることなんて忘れるくらいに私は無我夢中で走っている。ただ、目の前のものから逃げるために。突きつけられた現実は、自分が思っていたものよりも遙かに残酷だったから。
『……じ、もり……? ……どうして……』
 半分掠れたような、小さな声でそう言った彼の顔が頭から離れなかった。
 あの時何が起ころうとしていたのか、それは彼の今までの言動からしても明白だった。これで分からないほど自分は馬鹿ではない。そして何よりも絶望的に思えたのは、きっとあれは今始まったことじゃないということ。北川君は、唯君が変わりだしたのは母親が亡くなってしばらく経ってからだと言っていた。だからもしかしたら、その時からずっと唯君は。
「……ッ……」
 そう考えていたら突然ぐらりと視界が歪み眩暈がして、こみ上げてきた嘔吐感に足を止めた。口元を抑えるが、気持ち悪さは当然消えない。
 雨は相変わらず降って、容赦なく私を濡らしていった。
(……やだ……私ってば、鞄置いて……)
 鞄も、返すはずだった唯君の携帯も全部、彼の家の玄関に置いてきたままになっていた。そしてそれは愚か靴さえも私は履いていなかった。そんな自分を見て、少し笑いが零れた。いつも後先考えずに突っ込んで、そうしたらいつも悪い方向にしか物事が動かない馬鹿な自分。本当にどうしようもないダメな人間だ。あまりにもドジすぎてどうしようもない自分を笑おうとしたけれど、それはすぐに嗚咽に変わって、顔を滑っていく雨と一緒に涙が混ざった。
 道の端に屈みこんで小さくなって、私は泣いていた。
(……唯君……唯君……)
 私がずっと知りたかった彼の秘密は、あまりにも酷すぎた。あんなこと、隠して当たり前じゃないか。唯君の性格からして、彼は今までずっと必死で隠していたんだ。誰にも悟られないように、心配かけないようにと。
 でも、本当は誰かに分かって欲しくて、気付いて欲しかったのだろう。どうしても言えない自分の秘密を抱え込んで、ずっと一人で苦しんでいたけど耐えられなかったから。
 それを考えると涙が止まらなかった。私を抱きしめた時や手だけを握った時の彼の気持ちを考えると、辛くてたまらない。
 ザーザーと痛いくらいに肌に刺さる雨の中、パシャンと水を踏む音が聞こえた。背後に人の気配を感じる。霞んだ視界で振り返り顔をあげると、そこにいた彼は少し息を切らせて私に手を差し伸べてきてくれた。そのもう片方の彼の手には、置き去りにしてしまった私の鞄と靴が握られている。
 彼も私と同じように、傘を差してはいなかった。
「ゆ、い……君……」
「……藤森、……どうして……」
 力無く言う唯君は、少し笑ってはいたけどすごく悲しそうだった。差し伸べられた手は自分のそれよりも若干大きくて、私はその手をとって立ち上がり彼を見つめる。鞄と靴を受けとると、涙と雨で濡れた目を少し拭った。
「……唯君に、携帯……返そうと思って、行ったら、……中から、すごい音がして、……そしたら……っ……そし」
 ハハッと、とても笑うような雰囲気じゃなかったのに、彼は笑った。楽しそうな感じなど微塵もしない、乾いたような笑いだった。その彼の顔は悲痛に満ちている。
「ああもう……最悪……」
 なんでこんなことになったんだろう、と彼は言う。私は何も言えなかった。
「……こんな……こんなカタチで知られたくなんか……無かったよ……」
 もう何も言わないで欲しかった。こんな時にまで無理して微笑む彼の姿が痛々しくて、それを見ていたら尚更涙が止まらなくなってくる。
「藤森はずっと本当のことを知りたがってたよね、……でも本当は……」
 彼の事がもっともっと知りたくて、出来れば苦しむ彼の力になってあげたいと、思っていた。ついさっき、真実を知るまでは。
 ジッと彼を見つめる私の瞳を全く逸らさずに、唯君のまっすぐな視線が私に注がれる。そして彼はゆっくりと、言葉を紡いだ。
「本当はね、知らない方が良いことだってあるんだよ」
 優しい口調。彼が私に向ける優しげな、でも悲しそうな瞳。激しい雨の中、濡れながらも微笑む彼は綺麗だった。素直に、そう思えるほどに。
 嘘でしょ? 冗談だよね? って言ってしまいたい。
 けど当然、そんなことを言うような雰囲気ではなかった。彼は本気だった。
『私の事よりも唯君の事の方が心配だよ……。私でよければ何でも聞くし、傍にいるから』
 今日、私が彼に学校で言った言葉が鮮明によみがえる。そして自分の小ささと、何も分かってなかった自分に恥ずかしくなってますます返す言葉を失った。口で言うのは簡単だ、誰にだって出来るから。難しいのは、それを実行すること。
 心の中で、誰かが囁いた。
 ねぇ、彼の傷を癒してあげることが出来る? 助けてあげることが出来る? 今、こんな悲しそうな彼を前に、何を言ってあげるの? 彼の気持ちが分かるというの?
(……分からない……)
 なにも分からない。そんなの、わかるわけない……。私は出来もしないことを軽々しく口にした最低な女だった。
「ごめんなさい、わたし、私……ごめんなさい……ッ」
「……どうして謝んの」
「……ごめんなさい……」
 彼のことを何も分かっていなかったくせに、どれだけ苦しんでいたのか分からなかったくせに、それなのに勝手に「唯君のことがもっと知りたいから」と勝手に彼の事に踏み込んで、「大丈夫だから」とか「傍にいるよ」とか軽く大口を叩いて。私が彼に傷つけられたのと同じくらいに、私も彼を傷つけていたかもしれないのに。
「藤森……」
 それなのに、唯君は私を抱きしめてくれた。雨の中、完全にずぶ濡れになった私の身体は冷たくて、それなのに抱き寄せてくれた彼の身体は温かい。こんな時でさえも、伝わる彼の体温が心地良いと感じてしまう自分が愚かしかった。
「悪くないよ。藤森は、……最初から何も悪くないから……」
 私の耳元で、彼が小さくそう言ったのが聞こえた。
「謝らなくて、いい……」
 辛そうだというのが痛いくらいに伝わってくる震えた声。もしかしたらこの時彼は、泣いていたのかもしれない。ギュッとまるで縋るように、彼が手に力を込める。
「だから……、……行かないで……」
「……っ……」
 その言葉に、涙が溢れた。
「……頼むから……傍にいて欲しい……」
 雨でもなんでもない、涙が零れては頬を滑っていく。
 人は一人では生きていけない。一人でも心の許せる、傍にいてくれる人が欲しいのだ。それは私だって、もちろん唯君だって例外ではなかった。だからこそ彼は今私を求めてくれているのだ。行かないでくれ、傍にいて欲しい、と。それはずっとずっと、彼が言いたくても言えなかった、救いの言葉だったはずなのに。私が唯君に言って欲しかったはずの、言葉だったのに。それなのに。
「……め、なさい……」
 その言葉が何を示すのか、自分は分かっていて口にした。
「ごめんなさい……っ、私、……今混乱してて、……まともなこと、言えな……っ……」
 彼を抱きしめ返してあげることが出来なかった。真実を知ってしまった以上、いつものようにはもういかない。そんな私の口から出た言葉は「拒否」そのもので。
「……唯君、ごめん、なさ……っ……」
 聞き入れてあげることが出来なかった。行かないで、傍にいて欲しいという彼の望みを聞き入れてあげることは、決して難しいことではなかったのに。
 でも、今彼に何も言ってあげることが出来ない。ただ泣いて謝ることしか出来ない私に、一体彼の何が救えるというのだろう。私はそんなに強くないし、強いと思ったこともない。私には誰かを支える力なんてない。それを知った今、無力な私は何もしてあげることが出来なかった。優しく抱きしめてくれていた彼の腕から逃れるように出て、私は俯いたまま、涙か雨か分からないものを手で拭った。まともに彼の顔が見られない。
「ご……ごめんなさいっ……!!」
 しゃくりあげて、それでもなんとかそう言うと、私はその場から逃げるようにして走った。自分がこんなにも臆病で無力だったなんて知らなかった。彼が今ので傷付くことだって分かっていたのに、唯君といると苦しくてたまらない。
「藤森待って、……藤森、藤森ッ!!」
 そしてそれが、彼が本気で私を呼び止めた、最後だった。



 彼の秘密は酷いものだった。こんなの、誰にも知られなくなかっただろうに。
 それなのに私は自分が知りたいからと勝手に彼の心に踏み込んで、酷いことを言った。彼の事を知る前までは、絶対軽蔑なんてしない、もっと好きになれる、そう思ってならなかったのに。秘密を知った途端彼から離れるなんて自分勝手にもほどがあると何度も自分を責めた。本当に最低な自分。
『……頼むから……傍にいて欲しい……』
 とても弱々しくて、不安に揺れていたあの時の彼の声。ああいうことになってから初めてだったのだろう、誰かに対して何かを求めるなんて。あんなこと誰にも言えないはず、私に知られた時、きっと彼は不安でたまらなかったはず。そんな彼の気持ちを私は最も残酷な形で裏切った。
 最後に私を呼び止めた彼の声が頭から離れない。それを聞く度最低だと自分で自分を責め続けた。ごめんなさい、ごめんなさいと、私は幾度も心の中で謝って。
 謝ったところでもうどうしようもないことなど分かっていたにも関わらず。



「もー、急に休むんだもんビックリしちゃったよ。真奈美って見かけによらず結構頑丈なのに珍しいね」
 受話器の向こう側で頼子の明るい声が聞こえる。その声を聞くとなんだか安心出来て私はほんの少し笑みを浮かべる。実際、そんな気分では無かったが。
「ごめんね。昨日傘忘れちゃって雨の中走って帰ったんだけど、それがいけなかったみたい」
「言ってくれたら私の傘に入れてあげたのに。遠慮がちなんだから」
「ごめん」
 私は熱を出して学校を休んでいた。長時間雨に打たれたのがいけなかった上に、帰ってすぐに身体を拭かなかったのもいけなかったらしい。薬を飲んだこともあってか昨日の夜中のような頭痛や吐き気は無くなったものの、まだ少し身体には怠さが残されている。全く自業自得だ。
 今は丁度お昼。頼子は学校から電話をかけてくれているらしく、それを思うとちょっとありがたいと思ってしまう。昨日の豪雨が嘘のように、外はすっかり晴れ晴れとした青空が広がっていた。窓から差し込む太陽の日差しが眩しい。
「私てっきりサボりかと思っちゃった」
「え? どうして?」
 流石に学校をサボるような勇気など無いのに、私はそんなに不真面目に見えるのかと疑問に声をあげた。
「だって唯君も今日欠席なんだよ。真奈美と同じく熱で。だから二人でなんかしてんのかなーって」
 頼子の言葉に私は一瞬黙り込む。ふと脳裏に彼の顔が浮かんだ。昨日唯君もすごく濡れていたから、熱出しちゃったのかな……と考えて、もう一つ、彼が学校を休んでしまう原因が頭を過ぎる。
 あの後、唯君はどうしたんだろう。拒否した私に彼のことを心配する資格なんてないと分かってはいるけど、それでもどうしようもなく彼の事が気がかりだった。
「そうなんだ……唯君も休んだんだね」
 小さくそう答える。電話の向こうはがやがやと騒がしい、きっと教室にいるんだろう。
「うーん、そうなんだよねぇ。唯君って身体弱いのかね、学校では元気なのに急に休んだりするしー。で、真奈美は明日学校来られるの?」
「うん。もう大分良くなったから明日はちゃんと学校行くね」
「なら良かった。んじゃゆっくり休んでね、もうチャイム鳴っちゃうからまた明日」
 そう言って頼子は電話を切った。なんだか部屋が急に静かになったような気がして寂しい。私はカーテンを閉めると、再びベッドの中へ潜った。
 正直、学校へ行く足取りは重い。唯君とどんな顔をして会えばいいというのだ。拒絶しておいて何を言えばいい。それを考えると、唯君は今まであんな酷い目に遭っておきながらよく平然としていられたものだと思った。きっと相当無理をしていたのだろう。
 今まで私は何も気づかなかった。昨日彼の家に行ってそれを目の当たりにするまで、何一つ彼のことを分かっていなかったのだ。目頭が熱くなってきて、私は強く瞳を閉じると何も考えないように頭の中のものを振り払った。
 今は眠ろう。そして明日、学校へ行って唯君に謝ろう。今後悔しているくらいなら、彼に謝って自分の気持ちをちゃんと伝えた方がいい。軽蔑したから逃げたんじゃない、どうすればいいのか分からなかったからだと。許してもらえなくてもいいからそれだけは伝えたい。
 けれど、そんな考えを抱いていた私をよそに、その日も、次の日も、彼は来なかった。ようやく彼が教室へ顔を出したのは、あの雨の日から1週間も経ってからだった。



「唯ー! お前熱とか出してんじゃねぇよ、病弱なんだからよお前はー」
 人一倍ガタイのいい武丸君が、教室へ入ってきた唯君を見るなり喜んで彼の背中を叩いた。傍から見てもかなり思いっきり叩いたのが分かるくらいで、唯君は痛そうに顔を歪めると武丸君に対して怒った。
「痛ッ! お前いきなり暴力かよ」
「ははっ悪ィ!! あんまり久しぶりだから嬉しくなって力が入っちまった、スキンシップだって」
「タケとのスキンシップとかいらないし」
「そう怒るなって。ごめんっつってんじゃん。つーかお前がちっさすぎて力の加減がイマイチ分かんねーし」
 武丸君の豪快な笑い声が教室を包んで、大体いつも唯君と一緒にいるメンバーが彼の周りに集まっていた。その中で、性格があんまり良くないと女子から評判の悪い羽野君が鞄からノートを取り出して誇らしげに掲げる。
「唯が休んでた間、俺自分で宿題やったんだぜ!」
「いや、それが普通だから。あんたいっつも唯に写させてもらってさ、何たまに自分でやったからって偉そうになってんのよ」
 すかさず紺野さんがツッコミを入れると、羽野君はつまらなそうに口を尖らせる。
「んだよ、つばさはいちいちうるせぇなぁ。」
「うるさくて結構。羽野も近藤も勇介もタケも、あんた達ね、これを機に宿題くらい自分でやりなさいよっ」
 唯君が休んでる間紺野さんはどこか元気が無かったのだが、今日は唯君がやっと登校してきたこともあってかいつにも増して元気なように見えた。
 朝から怒鳴りつけてくる紺野さんに、唯君の周りにいた男子は揃いも揃って怪訝な顔をしている。唯君のことが好きだという紺野さんからすれば、それは当然の気遣いなのだろう。まるで自分のことのように紺野さんが男子を一喝して、その後クルリと唯君の方を向く。
「大体唯もねぇ、宿題なんていちいち見せてあげなくていいのよっ」
「えっ、俺?」
「そうよ! 大体唯がみんなを甘やかすからこんなどうしようもないヤツらになるんだから!」
 羽野君達を指さして紺野さんが唯君に怒っている。その様子は傍から見てとても微笑ましいもので、紺野さんの友達は「また始まったよ」と言わんばかりに笑っていた。本当に和やかで、平和に感じられる光景だった。以前と何一つ変わらない、紺野さんが更に怒るのを男子が楽しそうに笑って、唯君も楽しそうに会話に交じっている。笑っている顔も、私が知っている唯君のものだった。
「唯があんまり学校休むから、勇介がお前のこと心配しすぎてキモかったぞ」
 羽野君の横にいた近藤君が面白そうに言うと、唯君の傍にいた北川君は「キモいとか言うな!」と怒った。
「『唯大丈夫かな、明日学校に来ると思う? お見舞いとか行った方がいいんじゃないか? 明日も休んだらほんと病院にー』って毎日言っててほんとウザかった」
「ウザイとか言うなよ! だって友達が学校何日も休んでたら普通心配するだろ」
「勇介の場合は極端すぎるんだって。お前の方こそ病院に行った方がいい」
「精神科とか」
「キモイ病かウザイ病、お人好し症候群とか付くかもな」
 羽野君と近藤君に言いたい放題言われて、北川君はキィッと怒っていた。北川君は友達として本当に唯君のことが好きだから心配でたまらなかったのだろう。第一、1週間も休んでいたのだ心配にならないわけがない。
「えーマジでそんなに心配してたの? つーか北キモすぎ」
「唯までそんな笑顔で言うかよフツー!」
 やたら盛り上がっている教室の一郭を、私はジッと見つめていた。一見なんの変哲もないように見えるのだが、真実を知ってしまった以上放ってはおけない。彼はまた無理しているんじゃないかと、それだけが気がかりだった。
「唯はもう大丈夫なの? 最近やけに病弱だから私心配で……」
 心配して紺野さんが唯君に言うと、彼は至って普通な様子で笑った。
「ああ、もう大丈夫。この間傘忘れたから雨の中走って帰ったら風邪ひいたんだ」
「あー、あの時雨すごかったもんね。雷とか落ちてない? 大丈夫?」
「なにそれ本気? 冗談?」
 本当に、ビックリするくらい彼は普通に笑っていた。まるで一週間前の出来事など夢と感じるくらいに、唯君にはあの時の面影など全く残っていなかった。



 あまりにも普通に振る舞って過ごす彼に対して我慢が出来なくなったのは、昼休み。
 どうしても唯君に謝りたくて、先生に呼び出されて職員室にいる彼が出てくるのを待ち伏せしていた。10分程経って、職員室を出てきた彼に私が声を掛けると唯君はこちらを見て笑みを見せる。
「藤森、どうかした?」
 こんな風に普通に接してくる彼を見てると辛くなって、今にも私は泣きそうになって少しだけ顔を歪める。唯君はそんな私を見てちょっと首を傾げた。
「藤森?」
「……来て」
「?」
「話があるの。ここじゃ話せないから、屋上で……」
 唯君としては、もう私の顔すら見たくはないと思っていることだろう。それも私が彼にしたことを思えば無理のない話だ。きっぱり断られるかな……、そう思って緊張していた。
 そして彼がどう出るか、試してもいた。
「話? いいよ、じゃあ屋上に行こ」
 そんな私の予想に反して唯君はあっさりと笑みを零した。まるで何事もないように、彼は普通に快くOKしてくれた。
 昨日もだったが、今日もまた一段と天気がいい。
 雲一つない、晴れ晴れとした青空がそこには広がっていた。太陽の日差しが強くて、まだ6月だが真夏のような暑さが感じられる。
「すっげ天気いーね」
 屋上の扉を開くなり広がったその風景を見て、先に声をあげたのは唯君だった。
「俺ここ好きなんだ、今日みたいに天気が良い日に出ると気持ちいいよ」
 唯君は私の先を歩いて、空を仰ぐ。
 今、私の前で楽しそうに話している彼は、私が憧れていた頃の、あの彼と全く同じで胸が痛くなる。彼が無理をしているのが痛いくらいによく分かっているから。そしてそれが、私のせいでもあるからだ。1週間前、彼の傍にいてあげれば、また苦しませることなんてなかったのかもしれないのに。
 無力で臆病な自分が腹立たしくて、キュッと唇を噛みしめた。もう戻せない時間なのだと分かっていても、歯痒い気持ちを抑えられない。
「唯君……」
「なに?」
 振り返った彼は、フェンスを背にして私を見つめる。その彼の瞳が、ものすごく深く強い意志を持っているように思えて、なんだか怖かった。
 そんな目に見えない威圧感を振り切るように私はぺこりと彼に向かって頭を下げる。
「ごめんなさい」
「なんで謝るの?」
 言った途端に速攻で返された、この間の雨の日と全く同じ会話。どうして謝るのかと、彼は苦笑して私に対して訊きかえした。私は言わなければいけなかった。この間逃げ出してしまったわけを、そして謝らなければいけない。けど、私の言葉に彼がどう反応するのか分からなくて不安でしょうがない。
 戸惑いながらも頭を上げた私は、ひたすら彼をまっすぐ見つめた。この瞳だけは絶対に逸らしたくなかった。
「そんな平気そうな顔しないで、私、このあいだ……」
「この間? なんかあった?」
 たった一言だった。
 彼のその一言は、私を凍り付かせ落胆させるに十分な言葉だった。まるで『無かったこと』にされているような言い方。彼は動揺一つ見せず、笑みを浮かべて淡々とそう言ったのだ。
 青空の下で、こんなにも日が差しているのに彼だけはどこか陰っているように見えた。
「……唯君」
「ん?」
 私に笑顔を向ける彼にそれ以上踏み込めなかった。「これ以上来るな」と、そう言われているような気がして。こんな風に接してくれるのなら、前のように「うざい」とか「むかつく」とか罵声を浴びせられる方がまだマシだった。それでもあの時の彼の方がまだ近くに感じることが出来たから。
 今は、違う。同一人物なのに全然違う。こんなにも近くにいるのに、今の彼とはどこか途方もないほど遠い。心が遠い。
 そうさせたのは他の誰でもない、私自身だった。
「……なんでもない、ごめんね」
 唯君に言いたかったことは沢山あって、それなのに全て彼に伝えることは出来なかった。私が思っていた以上に、私は唯君を傷つけてしまっていた。
 グッと言葉を押し殺して私は小さな声で言うと、彼は苦笑した。
「変な藤森。じゃあ早く教室戻ろう。次の時間の国語、漢字テストだってさ」
 唯君って笑うと顔が少し幼く見えて可愛くて、そんな笑顔が私大好きだったんだっけ……。そんなことをぼんやり思いながら、どうしようもない思いを胸にしまった。
 悟ってしまったのだ。私は、彼から完全に見放されたと。もう彼は私には何も話してはくれない、私が何を訊いても、きっとしらを通すだろう。私が彼を拒んだあの時から、彼の中で私は消えた。
 不安に揺れていた、雨の日の彼はもういない。以前にも増して心に頑丈な鍵をかけ、仮面を付けた少年が目の前で微笑んでいた。



 あの日突然落とされた暗く長い、終わりの見えないトンネルのような場所。
 最初は一人だと思っていたあの場所には彼もいた。酷く何かを憎んでいるような瞳をして、最初は怖いとさえ思った。そして私よりもずっと辛そうで、苦しんでいた。彼の瞳の、憎しみの中に宿る悲しみの感情に気づいたのはすぐのことで、それからますます私は彼から目が離せなくなった。
 その理由を、私は何度も彼に尋ねた。「なぜそんなところにいるの?」「どうしてそんなに悲しそうな顔をしているの?」と。でも彼は何も答えてはくれなかった。無理強いするつもりはない、何も話したくないのなら今はそれでもいい、けれどせめてこの場所から出してあげたいと思った。だから手を引いた。「一緒に行こうよ、大丈夫だから」と。
 最初は頑なにそれを拒んでいた彼だったけど、次第に受け入れてくれるようになって。私は彼の手を掴んで、一緒に出ようとしたんだ。彼も一度は私の手を握り返してくれた。それが嬉しかった。
 それなのに現実は違った。ようやく抜けた暗闇の先、いたのは私一人だけ。青空の下、ようやく光に当たることが出来たのは私一人。
 貴方はいなかった。
 貴方の手を掴んでいたはずの私の手は、寂しく虚空を握っていた──……。