第8話 背徳の扉


「……ッう」
 突然強い衝撃が頭部に伝わって、よろりとその場にうずくまった。頭から滴り落ちるドロリとした液体、それに触れるとなにか生暖かい感触がある。
 なんだろうこれは、暗くてよく分からない。それに、頭がすごく痛い。
 まともな思考なんてすでに働いていなかった。明かりの灯っていない暗い部屋の中。リビングの壁を背に頭を抑えて倒れ込んでしまった俺の目の前には、不気味に微笑んで立ちはだかる男が一人。背が高くて身体も自分とは比べ物にならないほど大きい。今までずっと一緒にいたのだ、この人のことはよく知っているつもりだ。力ではまず敵わないことも。
 その人は自分のよく知る人だった。そしてその表情には、俺の好きだったその人の面影などは全く感じられない。まるで別人のようだった。
「唯……」
 そう優しく名前を呼んでくるその男の手には小振りだが花瓶が握られていた。どこにでも売っているような簡単な作りの安いものだが、なぜか不自然に割れている。疑問に思いながら床を見ると、その花瓶の破片らしきものがバラバラと散らばっていた。
 それを見てようやく気づいたのだ。自分が花瓶で殴られたことに。
「良い子だ……そうやって大人しくしていればいいんだよ」
 殴られ、蹴られた身体が痛みを放ち、もう声をあげることも出来ない。それはおろか抵抗する力さえも自分には残されていなかった。頭はぼうっとしていて、かろうじで意識を保っている状態。そのままぐったりと床に倒れ込んでいる俺を見ながら男は満足そうに微笑んでいた。そして軽々と身体を抱き上げられ傍にあったソファへ下ろされたかと思えば、着ていた服を脱がし始める。
「由梨、由梨……」
 晒された素肌に唇が触れる。聞いてるこっちがおかしくなるくらい、その人は何度も名前を呼んでいた。俺の名前ではない、それは亡くなったお母さんの名前だ。お母さんは死んだんだ、もういないのに。それなのに愛おしげに何度も呼ぶ。俺の目の前で、耳元で、優しく囁くその声にゾッとする。
「愛してる、由梨……」
 好き勝手に蹂躙していくその人の手と、異様なまでに高ぶった自分の身体が恐ろしく気持ち悪かった。こんなこと、あっていいはずがない。屈辱以外のなにものでもない。「どうして自分が」と、いつも同じことを考えていた。何でこんな目に遭わなければならないのかと。そしてその信じられない行為の後、残されたのは途方もない悲しみと怒り、そして絶望。
 今こうして俺の身体を貪っているのは、父親でもなんでもない。
 知らない人。俺の知らないヒトだった。



「──やめろ!!」
 おぞましい夢を見て、目を覚ましたのは夜中の3時を回った頃だった。電気のついていない暗い部屋の中を、時計の秒針がコチコチと動いている音だけが聞こえる。
 身体がベタベタとして気持ち悪いと感じたのはすぐのことで、自分が少し汗を掻いていることに気付いて身体を起こすと、ズキッと頭が痛み思わず顔を歪める。昔の傷が痛んだのではなく、ただの頭痛。ここ最近ずっとこの調子だった。
(夢……いつもの……)
 震えている自分の手をギュッと強く握りしめて、気分を落ち着かせる。
 先ほど見た夢は、以前本当にあったことだった。男が自分を抱くようになった初めの頃、思いっきり抵抗して逃げようとしたら花瓶で頭を殴られた。本当に殺されてしまうんじゃないかと、痛みと怖さが頭に焼き付いて今でもたまに夢に見てしまう。
『愛してる、由梨……』
 夢の中で男が言った言葉が脳裏によみがえりゾクッと鳥肌が立った。怖くなって、自分の身体を抱きしめるけれど小さな震えは止まらない。愛してると言ったその声が、壊れたような微笑みが、身体に触れる手が、そのなにもかもが身体に染みついたようにして消えない。不愉快な感覚だけがずっと残されていた。
「……なんでっ……」
 いやだいやだいやだ。もういやなんだ。こんな夢を繰り返し見ることも、思い出して怯えることも。一体いつまでこんなことを続けなくてはいけないんだろう。不等な暴力を振るわれててもなお、相手の言うことを大人しく聞き入れてされるがままになればいいなんて、そんなことなどあり得ない。
 それは終わりの見えない地獄だった。自分の周りには途方もない暗闇が広がり、出ることは許されない。
 そんな絶望の淵で聞こえたのは、とある女の子の言葉だった。
『悲しかったから泣いたんだよね? 前に私にキスした時だって、辛かったから、耐えられなかったから……だから私を抱きしめたんじゃなかったの……?』
 全ては、彼女の言うとおりだった。間違いなんて一つもない。だけど、本心を理解してもらいたいけど、誰にも知られたくないという矛盾した自分の考えが頭の中にはあって、だからこそ言えずに誤魔化すしかなかった。知られたくないという思いの方が強かったのだ。
 そんな愚かな自分だったから、いつも確信に迫るようなことを北川や藤森に訊かれても適当に話を流していた。彼らはいつも本音をぶつけてくれていたのに。俺なんかのために。
 この間も涙を流して、藤森は俺のために怒鳴ってくれた。また泣かせてしまったのだ。つくづく自分は最低な人間だと思う。心配されて嬉しいのに、自分ももっと話せればいいのに、でも知られたくないから冷たいことを言って突き放すことしか出来ない。
 本気で怒ってくれても、泣かせることしか。
「……ふじもり……」
 暗い部屋の中、ぽつりと彼女の名前を紡いだ。それは闇に溶けるように消えて、後には虚しさだけが取り残される。
 もし彼女に本当のことを話したら? それを考えると、なぜだか笑いが零れた。そんな希望を持つこと自体が愚かなのだと。
 暴力を受けていること自体、話を聞いても戸惑うことなのに。それなのに男である自分が男に抱かれているなんて、しかも血の繋がった父親に。そんなことを聞いたって後悔するだけだ。「気持ち悪い」と、普通の人だったら思うところだろう。
 自分はそうなってから後悔したくないし傷つきたくない。だからこれが、言わないことが今の自分への保身だった。言わなければ今のこの状態と人間関係を保つことが出来る。幸いまだ誰にも本当のことは知られていない。けれどそれと同時に、それは単なるエゴでもあった。
(本当に、救いようのない最悪なヤツだな、俺は……)
 こんなことを考えたって、どうせ今日も結論など出ない。だからせめて、今すぐにでも全てを放り出して、そしてどこかへ消えることが出来たなら。そんな甘い夢くらいは見せて欲しい。
 そうすれば俺は、今よりも少しだけど楽になれるような気がするから。



「ねぇ真奈美、真奈美ってば」
 唯君のことを考えながら机に顔を伏せていたところを呼ばれ視線をあげると、目の前には驚いた様子でこちらを見ている頼子の顔があった。
「あ、頼子……」
「どーしたのよ眠いの? さっきからずーっと呼んでたのに」
「……あっ、ごめんね……! 最近寝不足で……」
 どうやら自分は、頼子が呼んでいることにも気づかずにずっと顔を伏せていたらしい。こんな間近で呼ばれていたのに、相当上の空だったんだろう。
 最近の私はいつもこうだ。話しかけられても上の空。幸い自分に話しかけてくるのは頼子か北川君くらいのものだったから、怒られたり不愉快な顔をされることは無さそうで安心する。だけど今度から気を付けなくては。そう思いながら私は教室にいない唯君のことを思った。
 唯君は大変だろうな。色々考えたいことがあっても、彼の周りには常に何人かいる。悩みとかあっても誰かに話したりしないで自分だけでなんとかしていそうな感じがするし。だからこそそういうところで色々気を遣っていそうだ。
「ほんとにごめんね頼子」
「私はいいけど……。でも真奈美ってば最近変なの。そんなボーッとしてるから勇介と付き合ってるんじゃないかとか好き勝手に噂がたつのよー?」
 鞄からお弁当を取り出して、頼子は私の前の席に腰掛けた。そうか、もうそんな時間だったんだ。時間の感覚さえなかったのかと自分の重症っぷりに情けなくなってくる。
 だがしばらくして、頼子が何気なく言ったことを理解して私は「は!?」と言わんばかりに反応した。
「へっ!? ……だ、誰と誰が……?」
 私の聞き間違いでなければ、今頼子はとんでもないことを口にした。
「だから、あんたと勇介が付き合ってるって噂。まぁウチのクラスだけにたってる小規模な話だけどさ」
 私にとってはクラスだけでも大規模だ。これ以上広まらないようにと心の中で祈る。本当に付き合っていたらそういう噂が立つと少し嬉しかったかもしれないが、実際それは噂であって、そんな事実どこにもないのだ。
 しかも、相手は北川君。あんな格好良くて優しい人が私なんかと噂を立てられて、北川君に対して申し訳なさすぎる。
「付き合ってないっ、そんなのデマだよ! っていうかなんで!?」
「や、落ち着いて。私もデマだと思ってるし。でもさあんた達、この間とか二人で授業サボったじゃない。先生が心配してたのに二人でどこに隠れてたんだか」
「……あれは……」
 確かにあの時私は北川君と一緒にいた。唯君と話していたら悲しくなって泣き出してしまった私を北川君が慰めてくれて、優しい彼の気遣いもあってその時間は二人でいた。
 けどあれは違う。付き合ってるからとか、そんな意味じゃないのに。そもそもあれは私のせいで。だから彼の優しい気持ちを、そんなふうに扱わないでほしかった。
「真奈美のその反応からしてデマだろうしね。でもほら、羽野とかに知られたらあっという間にクラス外に広められるわよ、アイツ口軽いから気を付けな」
「うん、ありがと……」
「第一、真奈美が好きなのは勇介じゃなくて唯君だもんね。唯君なら優しいし、顔可愛いし、身長も真奈美と並べばいい感じ。あんたも結構お目が高いよね!」
「! そ、そんなこと……っ」
 思いもよらない頼子の言葉に、恥ずかしくなって思わず俯いてしまう。頼子にそんなことを言ったつもりはなかったが、知らず知らずのうちに悟られてしまっていたらしい。そういうところは唯君を見習いたいものだ。
 色々訊こうと思っているのが分かるくらい怪しげにニコニコとしている頼子の視線に気づかないふりをして、私も鞄からお弁当を出すことにする。
 しかし、そんな微妙なタイミングで北川君がやってきた。
「なぁなぁ藤森、ちょっと」
 彼も頼子のようにニコニコと笑みを見せているが、その微笑みは彼女とは似ても似つかないように見えた。彼はこちらへ来るなり私の手を少し引いてそう言ってくる。
 それを見た頼子は買ってきたらしいジュースのストローを歯でかじって面白く無さそうな顔をしていた。
「──って話してる時に、勇介あんた何の用」
「や、別に小島に用があって来たんじゃないし。藤森に用があんの」
「あんたがそんなだから付き合ってるとか勘違いされんのよ気を付けなよ」
 元々悪いのは私の方なのに、北川君まで頼子に注意されて少し申し訳ない気持ちになった。だが、そんな頼子の言葉にも全く動じていないように、北川君は「ああ」と思いだしたように声をあげる。
「そんなんデマに決まってんじゃん、言いたいやつに勝手に言わせておけばいい」
「あんたねぇ……」
 ニコッと眩しいくらいの笑みを見せ爽やかに言ってのけた彼に、私は「流石だなぁ」となぜか感心してしまった。この間「俺って周りからよく頼りないって言われる」と言ってたけど、全然そんなことないのに。十分、私にとって彼は頼りがいのある存在なのに。
「じゃなくて、だから俺藤森に用があるんだってば。藤森ちょっと来て」
「?」
 今からお弁当を食べるところだったが、チラッと頼子の方を見ると彼女はあまり気にしてないようにニコッと微笑んでくる。それを見たらなんだか安心して、「ごめん」と一言頼子に謝って私は北川君の後に続いた。
 どこへ行っているんだろうと思っていたら、北川君は私の腕を引いて階段を上がっていく。3年の教室は3階に並んでいて、それより上にあるのは屋上だけだ。だから彼が階段を上った途端に行き先がハッキリした。屋上には大抵誰もいない。だから他の人に聞かれては困るような話が北川君にはあるのかもしれない。
 そんなことを考えていた私に、彼は苦笑して頬を掻いた。
「それにしても勝手な話だよな、俺と藤森が付き合ってるってさ」
「ごめんね、私のせいで……」
「あ、そういうつもりで言ったんじゃなくって。むしろ俺的にはそれでもいーんだけど」
 そんなのいいわけない。別に興味もない相手の、ましてや私なんかと付き合っているなんて噂されて喜ぶ男の子なんているわけがないよ。北川君は優しいから、きっと私に気を遣ってくれてるんだろう。元は化学室で泣き出してしまった私がいけなかったのに。
 考えているとますます申し訳なくなってきて、階段を上っていた足を止めた。
「よくないっ、……よくないよ……」
「へ?」
「……ほんとに、ごめんなさい……」
 ぺこりと頭を下げると、北川君はしばらくして気まずそうに頭を掻く。
「ん、俺こそ悪い。軽はずみなこと言っちゃって。藤森は唯のことが気になってんだよな、悪かった」
「っ! 違う、そういうことじゃなくて、ただ……」
「あっ、そういや俺、先生に昼休み呼ばれてたの忘れてた! 悪いけど藤森先に行っててくれないか? 俺も後で行くからさ」
 突然慌てた様子でそれだけ言い残すと、北川君は大急ぎで階段を下りていってしまう。残された私はといえば、一瞬唖然としたが彼に言われたように更に階段を上がって屋上へ向かうことにした。



(あ……)
 屋上へついた私は言葉を無くした。そして同時に、北川君がどういう意図で私をここへ連れてきたのかを理解する。これのために、彼は私をここへ連れて来たのだろう。扉を開け、そこに広がった光景を見て私は瞬時にそう悟った。
 天気のいい青空の下。心地よい風が吹く屋上。ここでのんびりと日向ぼっこでもしたらとても気持ちいいに違いない。そんなことを自然と思ってしまう場所だ。そしてそこにはすでに一人先客がいた。
 そこで眠っているらしい彼はネクタイを緩めズボンからはシャツを出し、制服は全体的に着崩されている。そこからはいつもの真面目なイメージなど感じられるわけもなく、はねた黒髪が風に揺れてさらさらと靡いていた。
 そんな彼・唯君は以前私と話した時と全く同じ位置に腰掛けて、フェンスを背にして眠っているようだった。
 もしかして、北川君はこれを狙っていたんだろうか。私に唯君と話す機会をくれた? この光景を見て、私はそう思わずにはいられなかった。
 けど、彼は私と唯君の詳しい事情は全く知らない。彼が知ってるのは、ただ私が唯君のことを気にしているということ、それだけのはずなのに。この間の唯君との出来事以来、気まずくなってなかなか彼に話しかけられないで悩んでいた私に、北川君が機会を作ってくれたのだろうか。
(ありがとう北川君……)
 心の中で私は小さくお礼を言って、唯君に気付かれないように静かに屋上の扉を閉めた。せっかく気持ちよさげに眠っているのだ、起こしては悪い。なるべく音を立てずにそっと近寄って、私は彼の前にちょこんと座る。
 閉じられた彼の瞳を見ながら、唯君は睫毛が長いなぁとどうでもいいことを思った。笑った顔が幼いと思っていたが、眠っている顔もどことなく幼く見えて可愛い。私がこうやってジッと見ていることなど知らないであろう唯君は、相変わらず小さく寝息を立てて眠っていた。
 せっかく二人きりだというのに、肝心の唯君が寝ているのでは話すことなど出来ない。私は彼の横に移動し腰掛けて、唯君が起きるのを待つことにした。
 しかし、そんな私の手にコツンと固い何かが当たってビックリする。視線を下げるとそこには見覚えのある黒い外装をした、そう、唯君の携帯が無造作に置いてあったのだ。
 それを見て私は血の気が引いた。同時に脳裏によみがえってきたのは、あの時の唯君の言葉。
『ほら、記念写真。他にも何枚か撮ったけど、これが一番綺麗に撮れてる』
 残酷に微笑んで、彼はこの携帯で私のとんでもない姿を撮ったのだ。唯君に襲われ、裸で倒れている私の姿を。この携帯の中には、その時のおぞましい写真が入っているんだ。
 震える手で彼の携帯を手にとり、私はどうするべきなのか考えた。どうする、こんな機会もう来ないかもしれない。彼が見ていない今がチャンスだ、消してしまえばいい。勝手に人の携帯を見るなんていけないことだが、それでも彼が私にしたことを思えば可愛いものだと思える。
(でも……)
 そう思っていたのに、手が動かなかった。消さなければいけないという気持ちを邪魔する、もう一つの別の気持ちが私の中に存在している。それが私の手を止めていた。
 これが無くなったら、私と唯君を繋ぐ唯一の物質的な繋がりが無くなってしまうような気がした。そんな事を考えている状況ではないのに。そんな可愛いことが言える事情でもないはずだった。ちょっと前の私だったら迷うことなく中に入っている過去の記録を消したはず。けれど、今はそうじゃない。頭を過ぎる考えが私を鈍らせて、そのままずっと彼の携帯を手に漠然と考えていた。
「……ん……」
 唯君が小さく呻いたのが聞こえて、私はビクッと大げさなまでに驚きそのまま携帯を自分の制服のポケットにしまった。とっさの行動だった。いけないことだと分かっていたのに。
 バクバクと心臓が大きく脈打つ中、彼はうっすらと瞳を開いた。横にいた私の存在にもすぐに気が付いて唯君は一瞬驚いたようだったが、すぐにキッと敵視するように私を睨む。その鋭い眼光に怯んで、私は何を言って良いのか分からなくなって冷や汗を掻いた。
「あ、えっと、その……」
 なんでここにいるんだと言わんばかりの彼を前に、私は何と言えばいいのか分からないでいた。こんな、寝ていた唯君の隣にいて腰を下ろしていて、なんと言えばいいのだろう。
「あっ! ……唯君……この間はごめんなさい。私、酷いこと言って……」
「別に……」
 すぐにそう返してきた彼はなんだか覇気がなくて、いつもよりも少し声が小さいような気がした。心なしか、顔色もあまり良くないように見える。けれど、そんなことを思っていた私をよそに唯君はその場から立ち上がって着衣の乱れを元に戻す。
 私と話す気なんて全くないということなのだろうか、まだ少ししか話していないのに。
「唯君待って!」
 唯君はネクタイを締めると、まるで私の存在などないかのように無視をして屋上を出て行こうとする。
「唯君っ!」
 せっかく北川君が与えてくれたのかもしれない機会を、こんなことで逃すわけにはいかない。出て行こうとする彼の前に大急ぎで立ちはだかって、彼の雰囲気に怯まないよう私はジッと見つめた。
「話があるの、私」
「むかつくんだよお前……」
「……え?」
 喉奥から絞り出したような声だった。唯君は小さな声で呟くように言葉を漏らし、苛立ちを抑えきれないような表情を見せて激昂した。
「何も知らないくせに好きだとか、気になるとか、心配だとか……お前みたいなやつ見てると、めちゃくちゃにしてやりたくなる……!!」
 それは確かに怒鳴り声だったけれど、どこか悲鳴のようなものにも聞こえた。見ているこっちが痛々しいと思うくらい辛さが伝わって胸が苦しくなる。それでも私は静かに彼の言葉を黙って聞いていた。思えば、彼のこんな風に逆上している姿を見たのは初めてのような気がする。
「一人で怯えてればいいのに、人のことばっかり気にして、家にまでズカズカ入り込んできて……ふざけるな……! 何も知らないくせに俺に関わるな!!」
 確かに彼の言うように、私には唯君のことなんて全く分からない。唯君が一体何を隠しているのか、何にそんなに耐えているのか、どうしてこんなにも変わってしまったのか。何一つ理由が分からない。私は人の心が読めるわけじゃない、だから。
 だから教えて欲しかった。心の中で思うだけじゃなくて、口に出して欲しい。一人で苦しむのではなく、誰かにそれを相談してほしい。私は唯君の事がもっと知りたいし、なにより彼を理解したいのだ。
「大体……っ」
 思っていたところで、なにか異変に気が付いた。彼の息がなぜか不自然に乱れているのだ。不規則に繰り返されている呼吸。顔はさっきよりもずっと赤くなっていて、見るからに苦しそうだ。
「唯君……?」
「……おまえが……、……っ……」
 その先の言葉が紡がれることはなかった。そのまま唯君は私の方に崩れるようにして倒れ込んで、屋上の固いコンクリートの床に倒れた。あまりにも急のことで何がなんだか分からず放心状態になってしまったけれど、すぐに我に返って倒れた唯君を抱き起こした。
「唯君、唯君っ!? ねぇ、しっかりしてよっ」
「……っ……」
 唯君の意識はあるももの薄くて、ハァハァと荒い息づかいのみが聞こえる。頬は赤くて、若干汗を掻いている。彼の上半身を抱え上げた状態で額に手を当てると、異常なまでに熱かった。
 さっきから調子が悪そうに見えたのは、このせいだったんだきっと。
「唯君っ、唯君っ……!!」



「熱ね」
 保健室のベッドに横になっている彼から体温計を受け取ると、養護教諭の佐倉先生はそう言った。
「……熱?」
 唯君の横に椅子を置いて腰掛けていた私が見上げると、先生は安心させるようにニコッと笑みを浮かべる。
「そ、39度もあるもの。よくこれで平気な顔して授業受けられたわね」
 先生は体温計を片づけると、棚を開けて薬を探しだした。唯君はすでに意識がハッキリしているものの、相変わらずきつそうでまだ息づかいも荒く、見ていて安心出来るような状態ではなかった。
「えーっと、桜川君はB組だったわよね? 担任の先生は大井先生だったかしら」
「あ、はい」
 言葉を交わすことすらきつそうな唯君の代わりに私が返事をすると、先生は机に置いているファイルに何か記入して、再度こちらへやってきた。
「それじゃあ大井先生に伝えて来るから、桜川君今日は早退しなさい」
 それが無難だろうと私も思った。39度なんて学校へ来るようなレベルではないし、このまま学校にいてはまた悪化してしまうかもしれない。どうしてそんな高熱を放ってまで学校へ来たのか、彼の心中が理解出来なかった。
「家には先生が車で送ってあげるから、いいわね?」
「いや、もう大丈夫です……」
 だが、家へ帰るように優しく促してきた先生の言葉を聞き入れず、唯君はゆっくりとベッドから身体を起こした。それを見た先生は驚きに目を丸くしている。
「なーに? 貴方まさか昼からの授業受けるつもりなの?」
「……そんなにきつくないし、あと2時間で授業も」
「無理するのは止しなさい。さっき倒れたんでしょう? 熱もあるんだから休」
「本当に大丈夫です! ──じゃあ俺、教室に戻りますから」
 先生の言葉を待たずに、唯君は緩めていたネクタイを元に戻すとベッドから降りて、そそくさと逃げるようにして保健室を出て行こうとする。でもその手を、素早く佐倉先生が掴んで止めた。
「待ちなさい。桜川君、貴方3年生で今大事な時期でしょう。そうでなくても、自分の身体は大事にするものよ。……それに貴方……」
 佐倉先生は穏やかで優しい、話しかけやすい柔らかな雰囲気を持つ人だ。そんな先生がいつになく真面目にそう言うものだから、私の方が緊張してくる。当の唯君も少なからず先生に対して怯んでいるようだった。
 先生は一瞬唯君に何か言いかけたようだったが、すぐに口を閉ざして言葉を詰まらせる。それが私の中で少し引っかかったが、唯君が話し出したことによりその違和感はすぐにかき消された。
「でも今はもう大丈夫だし、今度きつくなったら帰ります。だから……」
 家へ帰ることを頑なに拒否する唯君に佐倉先生が困って溜息をついた。先生としては、彼をこのまま家へ帰してゆっくり休ませたいという気持ちが強いのだろう。それに、学校の養護教諭としてはその対処が一番ベストだ。
「強情ねぇ……。それじゃあまだ授業始まるまで時間があるから、薬を飲んで休んでなさい。大井先生にも一応伝えておきます」
「すみません……」
「ほら早くベッドに戻って休んで。まだ5限目始まるまで20分くらいあるから。私は大井先生の所へ行ってくるから、桜川君、薬ちゃんと飲んでおきなさいね」
 先生は唯君にカプセルの薬を渡すと、優しげに微笑んで保健室を出て行ってしまう。先生が出て行ったことで急に静かになった保健室内は、私と唯君以外誰もいなかった。
 唯君は先生に言われたとおりに薬を飲んで、しばらくしてベッドへ戻ってきた。
「唯君、大丈夫……?」
 尋ねたが、彼は何も言ってくれなかった。でもちゃんと声は届いているはずだからと自分に言い聞かせて私は更に話しかける。
「……あ、そうだ。これ……」
 そういえば彼の携帯をポケットに閉まったままだったのを思いだして、私は携帯を取り出すと彼へ差し出した。私が彼の携帯を持っていたことに驚いたのだろうか、唯君は携帯を見つめたまま手を伸ばそうとしない。
 どうしてお前が持っているのかと、そう訊かれる前に私は先に白状することにした。
「ごめんね、その……屋上来た時に唯君の横にあったから、つい……。でも、中は見てないから! ほんとだよ?」
 そう私が言ったところで信じるか否かは彼次第だ。信じてくれない確率の方が高そうだけど。というよりも、私が彼の携帯を持っていた時点で普通の人ならば疑うところだ。ついポケットへしまってしまったのは私のミスだ、何を言われても仕方ないと思う。
 けど、唯君の反応は私の予想とは遙かに違っていた。
「消さなかったの?」
 一言、確認するように私に訊いてきただけ。でも、変に疑われ罵声を浴びせられるよりも、怖いと思った。私はゆっくりと首を縦に振ると、彼は「消せばよかったのに」と小さく呟いて、皮肉に笑う。
「本物の馬鹿だな、お前……」
 消すことを忘れていたわけではなかった。消したくないわけでもなかった。消したいけれど、消せない。
 私の中には、そんな矛盾した思いがあったのだ。
「……だって私……それが目的で唯君にずっと付きまとってたわけじゃないから……」
 私は馬鹿で、どうしようもないくらい愚かな人間だった。
 この数週間、ずっとずっと唯君のことに夢中で、彼の事が知りたくて同じことばかり考えていた。写真を撮られたことを、すっかり忘れてしまうほどに。むしろそれよりも彼が隠していることの方が私にとっては大事だったのだ。
 けどそれは、彼のことを知っていくにつれて「唯君ならきっとあの写真を酷いことに使ったりはしない」と自分の中で信じていたからなのかもしれない。そういうことを思う時点で、既に私はおかしいのに。唯君が私にしたことはとても酷いことだったのに。
 それなのにそう思えたのは、そんな彼を私が次第に好きになっていってしまったからなのだろうか。それはまだ分からなかった。頭の中はぐちゃぐちゃで、色々な考えが無造作に散りばめられている。
「ほんと可笑しいよね私、馬鹿だよね……」
 自分で自分が滑稽に思えて、少し笑いながら呟いた。なんだか唯君に顔を合わせていられなくなって私は俯く。無性に目頭が熱くなって涙がでてきて、手の甲で涙を拭った。
「いいよ笑って……自分でもおかしいって思ってるから……」
「……笑えるわけないじゃん……」
 一瞬聞き間違えかと思ってしまうほどにその声は穏やかで優しいものだった。それは確かに、唯君が私に向けて言った言葉。
 そうして視線を上げた先には、彼が優しげに微笑んでいた。
「唯、君……」
「藤森はおかしくないよ、それに悪くもない」
 微笑んでいるのに、それはどこか悲しさを含むもの。時折見せるその不安定な優しさや怖さに、いつしか私は惹かれていた。
「本当におかしいのは俺の方。悪いのも全部」
 彼の手が私へ伸びて、頬を滑っていた涙を拭った。温かな手が心地いい。
「こんな最低なやつのことを全部知ったら藤森はきっと、俺のことがますます嫌いになるよ」
「そんなことない! 嫌いになんてならない、だから教えて欲しいの……」
 唯君が隠していることなど到底分からなかった私はすぐにそう返した。何を知っても嫌いにはならないという強い思いがあったのだ。なんの保証もないのにそんな確信だけが。
 けど唯君はそんな私の思いを否定するように首を横に振る。何か思い詰めたような、不安に揺れている瞳を向けて。
「ごめん、それでも今はまだ話せない」
「唯君……」
「本当にごめん。でもいつかきっと藤森に、……だから」
 私の涙を拭っていた彼の手が私の手を握り、唯君は俯いた。
「……少しの間だけ、このままでいさせて」
 不安げに弱々しく私の手を握っていたその手を包むように、私は両手で優しく握り返した。こうしてあげることしか出来なかったのだ、これ以上追求することは彼を苦しめてしまいそうで嫌だった。手を握ること、ただそれだけで彼がなにかしら救われるのであれば、そうしてあげたいと思った。
 怪我の理由、高熱を出してまで学校へくる理由、友達に暴力を振るう理由、そして、今自分の手を握っている弱々しい彼の姿。その全ては彼の隠している秘密に繋がるのだろうか。「今はまだ話せない」と言ったように、唯君がなにかしら悩みを持っていることは明らかだった。
 その理由を今すぐにでも知りたいが、それは彼を余計に追いつめるだけだろう。彼の言葉を信じて、いつか話してくれるのを待つことが今自分が選ぶべき最善の道なのかもしれない。
(けど、この先唯君の何を知っても、絶対に嫌いになんてならないよ)
 この時はその彼の言葉の真の意味が分からなかったというのもあった。そして、それがどれほど酷いものでも彼の事を嫌いになんて絶対にならないと自信があったのだ。そんな私は、あわよくば彼の力になってあげたいとも思っていた。彼の望むことをしてあげればと。
 だが、それは単なる自分の思い上がりであったことにこの後気づくことになる。
 その後に知る彼のヒミツは、私の考えや思いをいとも簡単に打ち砕くほどに、酷く、悲しいものだったから。