第15話 モンスター


「そろそろ起きて、朝ご飯出来てるよ」
 梨花はそう言って、眼前で布団にくるまっている身体を揺らすと「んん……」としどけない声を上げてヒビキが寝返りをうった。まだ半分微睡みの中にいるヒビキは眩しそうに目を細めて梨花を見る。
「あ……りっちゃんおはよう……」
「響く……じゃなかった。ヒビキ、おはよう」
 ヒビキはのそりと緩慢な動きでベッドから起き上がると、寝惚け眼で軽く頭を掻いた。着替えのためにシャツを脱ごうとしているヒビキを見てギョッとした梨花は「ご飯出来てるから支度してね」と言って足早に部屋を出た。
(今日はヒビキか)
 昨日の夜にヒビキから話を聞かされた時は驚いたものの、それでも彼が梨花の幼馴染であり大切な人であるということには変わりない。
 梨花は、昨日の高藤の話は断るつもりでいた。梨花にはヒビキを殺すなんてことは出来ないし、その協力だってしたくない。ヒビキの存在がエリカが苦しめていることを考えると辛いが、それでも梨花はヒビキを守りたいという気持ちの方が強かった。
 それはたとえ、エリカとヒビキの立場が逆であったとしても梨花はそう考えただろう。
 厚切りパンのトーストに、ハムエッグとサラダ。それにホットティー。朝ご飯を並べたテーブルの椅子に腰掛けて、梨花は朝から悶々と考える。
(悠人、大丈夫かな……)
 高藤からのメールには「樋口君とその他八人は無事に病院へ搬送しました。詳細はまた明日」と書かれていた。それを見てとりあえずはホッとしたものの、実際に悠人に会うまではまだ安心出来ない。なにせあんなに酷いケガだったのだ、完治するまでには相当な時間がかかるだろう。
 部活に参加出来ないどころか、来月からの地区予選にだって間に合わない。そうヒビキが言っていたことを思い出してなおさら胸が痛んだ。
「えっと、放課後に悠人のお見舞いに行って、高藤さんの話は断って、あとは」
「良いにおいがする」
 やるべきことを整理していた梨花をよそに、支度が終わったらしいヒビキが嬉しそうに顔をほころばせて椅子に腰掛けた。
「やっと来たわね……って、そのピアスどうしたの?」
「え、変? 似合ってない?」
 ヒビキの耳には昨日まではなかったシルバーのカフピアスが光っていた。ほとんど装飾のないシンプルなものだが、今まで何もつけていなかっただけにとても目立つ。
「いやいやいや、変とか似合わないとかじゃなくて……。昨日まで何もつけてなかったからビックリして」
「ちょっと気分転換に。響だって勝手に化粧したり女の子のカッコとかしたりするんだから、俺だって多少は好きにやってもいいかと思って」
「なるほど……言われてみれば確かに」
 ピアスだけかと思いきや、手にはこれまたシンプルなデザインのシルバーリングがちらほら。腕にはバングルまでつけている。この調子だとネックレスもしているに違いないと、梨花は制服で見えない響の胸元に視線を向けた。
 エリカはエリカで女の子らしく可愛いアクセや服を持っていたけれど、ヒビキもそれなりのこだわりがあるのかもしれない。
 反応が芳しくない梨花の様子──梨花は考えに耽っていただけだが──を見て、ヒビキはしょんぼりと悲しげに眉を下げた。
「りっちゃんが変って言うならやめるけど……。おかしいかな?」
「うっ……そんな切なげな顔するのやめてってば」
 梨花はヒビキの悲しげな顔にめっぽう弱い。捨てられた子犬のような目をするのだ。
「分かった。他にもたくさん持ってるから、りっちゃんが気に入ったやつをつけていく。持ってくるからちょっと待ってて」
「エッ!? そんな時間ないしめんどくさいからいいよ!! もう今つけてるやつでいいから!!」
 颯爽と部屋へ戻ろうとしたヒビキの腕を掴んで引き留める。
「っていうか、変じゃないから。似合ってるよ」
 梨花は気恥ずかしさに目を逸らしてボソッと口を尖らせた。こういうのはタイミングを外してしまうと逆に照れくさいのである。
「ほんとに? ああ、よかった」
 梨花に褒められたことがよほど嬉しかったらしく、ヒビキはほんのり頬を染めて柔らかに微笑む。それを見て梨花は迂闊にもキュンとしたが、顔を熱くさせたまま黙って紅茶を啜った。ヒビキも椅子に座ると「いただきます」と両手を合わせてこんがり焼けた食パンにバターを塗って囓りついている。
「ヒビキ」
「うん?」
「お願いだから、学校では昨日みたいな無茶はしないでね」
「昨日みたいな?」
「むやみに人に暴力を振るわないでってこと」
 一晩経った今でも鮮明に思い出すことが出来る。倒れる人達、流れる血、痛々しい傷の数々、呻き声、いくら大切な幼馴染である悠人が暴行されたからとはいえど、これ以上ヒビキに自分を追い詰めるようなことはしてほしくなかった。
 ヒビキの力は異質だ。あまり人に見せていいものではないし、知られすぎるのも良くない。
 そんな気持ちを込めて梨花が告げると、ヒビキは拍子抜けするくらいあっさりと首を縦に振った。
「うん、分かった」
「あと、出来る限り人とは仲良くしてね」
「りっちゃんがそうしてほしいなら」
「……その言い方」
 梨花の言うことをなんでもすぐに肯定するヒビキに多少の居心地の悪さを覚えながらも、ヒビキから「りっちゃん、早く食べないと学校遅刻しちゃうよ」と言われて話を逸らされてしまったため、梨花はそれ以上追求することが出来なかった。



「ねぇっ、今日の柊君やばくない!?」
「ヤバイ!! すっごいニコニコしてる!! 何アレどうしちゃったの!?」
「頭でも打っちゃったのかな? でももうこのままでいてほしい!」
「めちゃくちゃ優しいよね〜。あと王子様オーラがすごい!」
「私なんて挨拶したら『おはよう』って返されたんだけど! 生きてて良かった……」
「それ言ったら私なんて『その髪留め、似合ってて可愛いね』って柊君から言われたんだから!! 柊君、絶対私のことが好きなんだと思う!! ちょっと結婚してくる!」
 朝から学校は賑やかなものだった。
 むしろ梨花には騒がしいくらいだったのだが、あまり文句を言えた筋ではないので黙っていた。なにせ、
『出来る限り人とは仲良くしてね』
 梨花がヒビキに対してお願いしたことの結果がこれなのだから。
「柊君、おはよう」
 廊下でのすれ違い様に他クラスの女の子が言う。
 今までの響──もといヒビキ──であればツンと無視して通り過ぎたに違いないその挨拶に、ヒビキはしっかりと「おはよう」と返した。それも、昨日までの彼であればあり得なかったであろうキラキラとした微笑み付きで。
 ヒビキのにこやかな挨拶を受けた女の子はその場に固まり、しばらくしてから悶絶し床に倒れてしまった。そのなんとも言えない光景を一部始終見ていた梨花は自分の考えの軽率さを反省した。そうだ、この学校は普通ではなかった、と。
 その後も廊下でヒビキが女の子に挨拶を返す度に狂喜の叫びのような悲鳴が校内に木霊し、梨花は改めて柊響という人物の影響力の大きさを思い知ることとなった。
「り、梨花ちゃん、何があったの?」
「あれ響君の双子の片割れかなにか?」
 朝からどっと疲れた梨花が席に着くなり、麻衣と美幸が心底動揺したような様子で駆け寄ってくる。そんな梨花達の視線の先には、教室の窓際で楽しそうに女の子とおしゃべりをしているヒビキの姿があった。その他のクラスメイトも、直接ヒビキに近寄ったりはしないまでも「アイツは誰だ」と言わんばかりの視線でヒビキを見つめている。
「いや、なんというか……一応同一人物だよ」
「一応て」
 昨日までは誰とも口を聞かない人間不信っぷりを露わにしていた人が、いきなり笑顔を振りまいて話しているのだ、不思議に思うのも無理はない。実際に梨花だって驚いていた。
 ヒビキがここまで忠実に約束を守ってくれるなんて思ってもみなかったのだ。
 にしても、だ。
「響君ってシルバーアクセ好きなんだ。このバングル格好いいね」
「でしょ。ここのブランドが好きなんだ」
「へぇ〜ちょっと触ってもいい? もっと近くで見たいな」
「うん。いいよ」
 それ、どう見てもボディタッチ狙いですよねと言わんばかりの話の持って行き方に梨花は白目になった。
 大げさなほど身体を密着させた女の子はヒビキの手を取って「わ〜ほんとにすごく綺麗」と取り繕ったような甘い声で言っているが、見ているのはバングルではなくてヒビキの白い素肌の方だった。バングルを見るフリをしつつ彼女はヒビキの手をすりすり撫でている。なんということだ。
 それを見ていた周りの女子も内心「それいい!」と言わんばかりに便乗して「指輪が見たい」「ピアス見せて」と言いだす始末で、一瞬にしてそこはサバンナ──まるで獲物に群がる肉食獣のような絵面になってしまった。
「特にこの彫金が細かいところが格好いいんだ」
 そんな女の子の争いには全く気付いていないヒビキはシルバーアクセオタクかと言わんばかりに得意げな様子でペラペラとしゃべっている。女の子からのボディタッチも全く気にする様子はなかった。
 美幸は梨花の肩を抱いてニヤつく。
「梨花〜、あれいいの?」
「……本人が楽しそうだからいいんじゃないの」
「梨花ちゃんすごく怖い顔になってるよ!? 鏡見よう!?」
 戸惑う麻衣とは対称的に美幸は面白そうに笑っていた。
「『私以外の女と仲良くしないで!』って言えばいいのに?」
「そんなこと言えるわけ……って、そんなこと思ってないから!! クラスメイトと仲良くするのは当然だしっ」
「無理しちゃって……」
「してません!」
 ボッと火が出そうなほど顔を赤くして怒る梨花を美幸は「はいはい」と軽くあしらって苦笑した。
 ヒビキは、普段梨花と話す時とまったく同じ様子で女の子達と話していた。同じ声色、口調、優しい目つき、柔らかい態度、なにもかもが梨花の時と同じ。
 それが面白くないと思ってしまうのは傲慢だ。
 梨花は自身の性格の悪さに呆れ、これ以上ヒビキを見るまいと席から立ち上がる。ずっと見ていると嫌なことばかり考えてしまう。
「柊君、今日一緒にお弁当食べない?」
「いいよ。あ、でも俺お弁当持ってきてないから食堂行くけど……」
「じゃあ私も食堂行く〜!! 響君、私も一緒していい?」
「あ、ずるい! 私も私も!」
 教室を出ていこうとする梨花の後ろで、追い討ちをかけるように女の子達の楽しそうな声が嫌でも耳に入ってくる。
(お弁当、作ってきたのにな……。まぁ元々頼まれたわけじゃないし、ヒビキに言ってなかった私が悪いんだけどさ……。ってか、あんだけベタベタ触られてたら普通下心あるんだって分かるよね。分からないのかな。いや仲良くするように言ったのは私だけどね!)
 ムスッとした面持ちで黙って歩く梨花の後ろで、麻衣と美幸は顔を見合わせて空笑いした。
 そして、人間不信はどこへいったんだと言わんばかりのヒビキの様子は瞬く間に学校中に広まり、彼は今日一日学校の話題を独り占めすることとなった。



『二人きりで話があるの。放課後に音楽室まで来て。 エリカ』
 朝にエリカから届いたメールを確認した桐沢は、彼女の言いつけどおり放課後に音楽室へと向かっていた。
 中学の時にエリカと交換していたアドレスは、エリカから嫌われて避けられるようになってから使えなくなった。桐沢も携帯を新しいものへ替える過程でアドレスが変わってしまい、エリカと連絡を取り合うことは不可能となっていた。
 それ以降、エリカにアドレスを教えた覚えがなかった桐沢はメールを見てすぐ「怪しい」と思ったが、“エリカ”という名前と人物を知る者なんて校内では片手で足りるほどしかいない。考えたのち、本物である確率が高いと踏んだ桐沢は、素直に誘いに乗ることにした。
 なにせ、悠人は昨日退場させたのだ。あの怪我ではしばらくは動けない。
 桐沢はほくそ笑む。これでもう自分とエリカの仲を邪魔する者はいない。そう思うとはやる気持ちが抑えられず、自然と足取りは速くなっていった。
 さして時間もかからず音楽室へ辿りついた桐沢は努めて冷静に扉を開いた。
 エリカはすでに音楽室に来ていて、グランドピアノの椅子に腰掛けている。後ろ姿だったがそれがエリカであると確信した桐沢は内心舞い上がった。
「もう来ていたのか。待たせてしまったのならすまない」
 桐沢が話しかけながら傍まで歩み寄ると、エリカは振り返り顔を上げた。
 その瞬間、桐沢に得も言われぬ緊張感が走った。桐沢を見るエリカの双眸の強烈な違和感。それはすぐに確信へと変わった。
 これはエリカじゃない。
 けれど、かといって柊響でもない。
 桐沢は動揺を隠せないまま、目の前にいるヒビキから目を離さないまま口を開いた。
「き、君は誰だ?」
 恐る恐るそう言った桐沢にヒビキは目を細めると、ニコリと貼り付けたような笑みを浮かべた。
「センパイってほんとに俺を一目見ただけでどっちか分かるんだ。気持ち悪いなぁ」
「……君は……柊君……ではないね。エリカでもない……三人目の人格……?」
 以前の響ともエリカとも全く違う。目の前で笑みを浮かべるヒビキには言いようのない恐ろしさがあった。
 桐沢がその場から動けずに立ち竦んでいると、ヒビキは椅子からゆっくりと立ち上がる。
「昨日の今日だからエリカの名前使って呼び出せば応じてくれるかなと思ったんだけど、思いの外あっさりセンパイが釣れたから良かったよ。来た時すごく嬉しそうな声だったけど、なに想像してたんだか」
 謀られた、と桐沢は思ってヒビキを軽く睨みつける。
 対するヒビキは、口元こそ楽しそうに笑みを貼り付けてはいるものの、その目は決して笑ってはいなかった。目が、雰囲気が、桐沢を射貫く。お前は敵だと。ヒビキは身体全体で桐沢に対して敵意を放っていた。
 ヒビキはこてんと小首を傾げて問いかける。
「ねぇセンパイ。センパイは樋口悠人って知ってる? 俺の幼馴染なんだけど」
 桐沢はギョッとする。ぎくりと心臓が跳ね上がったような気がした。
 その桐沢の反応を見てヒビキはケラケラとおかしそうに笑った。
「その顔。そんな顔したら『僕がやりました』って言ってるようなもんだよ」
「……だったらどうしたって言うんだ」
「昨日はどうも。俺の大事な親友がセンパイ達に随分お世話になったみたいでさ。──弁解があるなら一応聞いてやるけど?」
 先程までの明るい声とはうってかわって、低いトーンできつく言い放ったヒビキに桐沢は怖気が走る。見開かれたヒビキの目は「言え」と怒りに燃えていた。
 桐沢はゴクリと唾を飲み込み、震える手を握りしめて言った。
「……なんで、なんで樋口なんだ……。アイツがエリカに何をしてやったっていうんだ!! アイツはいっつもエリカを無神経な言葉で傷つけてきただけじゃないか!! 僕は違う!! 僕はいつだってエリカのことを一番に考えて、見守ってきたのに!!」
「はぁ? そんなん誰が見たって一目瞭然だろ。嫉妬に駆られて、金で雇ったクズに頼まないとろくに勝負も出来ない陰険なやつを、誰が好き好んで選ぶかよ。悠人の方が格好いいよ」
「なっ……」
「第一、見た目も全然好みじゃないし、文化系だし陰湿だし気持ち悪いし、おまけに嫉妬深くて若干ストーカー気質って、もうセンパイの何もかもが恋愛対象にはならないの。俺の言ってること分かる?」
「そんな……っ、なんでエリカでもない君にそんなことが分かるんだ!! 勝手なことを」
「分かるさ。だって俺とアイツは『柊響』だから」
 頑として言い切ったヒビキに、反論する言葉を失った桐沢はよろりとバランスを崩した。
「だ、だったら……どうすればエリカは僕を好きになってくれるんだ? 君なら分かるんだろ? 教えてくれ……頼む……」
「……センパイ本気で気持ち悪いなぁ」
「そうだ、エリカを出してくれ!! 頼む、彼女と話をさせてくれ!」
「は、やだよ。なんで俺がセンパイの言うことを聞かないといけないの?」
 もっともなことを言われて桐沢はグッと言葉を詰まらせる。
「そんなにエリカと話がしたいなら、力尽くで俺にエリカを出させてみれば? センパイ得意でしょ。やらしい精神攻撃とか」
 冷笑するヒビキに桐沢は心臓が縮み上がった。まさかそのことまで気付かれているとは思わなかったのだ。
 全てを見抜いているようなヒビキの強気な目は、逸らすことなく桐沢へ向けられている。桐沢の背中を嫌な汗が流れた。
「……なんのことかな」
「へぇ、とぼけるんだ? 昔から何かと俺に嫌がらせしてたでしょ。靴に画鋲入れたり、物を盗んだり、イタ電とか、悪口書いた手紙とか。そういうのって精神面に結構くるから、そうやって揺さぶりを掛ければそれだけ俺が不安定になってエリカが出てくる頻度が上がる、そう考えたんでしょセンパイは。実際、あの時の俺にはそれなりに効いてたからセンパイの努力は無駄じゃなかったよ、おめでとう良かったね。でも」
 ヒビキはそこで意味深に言葉を止める。途端、纏う雰囲気がピリピリとしたものへと変わった。
 その張り詰めた空気に桐沢は身の危険を感じて後退りしたが、背中にトンと固いものが当たって壁まで追い詰められたことに気付く。もはや袋のネズミだった。
「俺に直接仕掛けてくるなら無視すればいいだけだから別に構わないんだけど、りっちゃんや悠人に手を出すなら黙ってないから」
 笑みを浮かべてそう言ったヒビキは、次の瞬間、何の躊躇いもなく桐沢の真横の壁を思い切り拳で叩きつけた。
「ッ!??」
 ゴッという轟音が音楽室に響く。
 次いで、桐沢のかけていた眼鏡が衝撃でカシャンと床に落ちた。
 目をこれ以上ないほど見開き、声も出せないほど驚いていた桐沢の顔の真横で、ピシッと、亀裂が入ったような聞き慣れない音がした。まさかと思い、額にびっしりと冷や汗を滲ませた桐沢が恐る恐る目を向けると、桐沢の頬を掠めるように、肌に触れるか触れないかのギリギリのところにヒビキの拳があった。
 そして、その拳が強かに叩きつけた壁には亀裂が走り、破片がぱらぱらと床に落ちている。
 化け物。
 とっさに桐沢はそう思った。化け物じゃなかったらなんだというのだ、これは。
 すぐ傍でゾッとするほど美しく微笑むヒビキは、桐沢の耳元で低く言い放つ。
「もし次、橘梨花と樋口悠人、二人に手を出したら……これをお前の顔面に叩き込んでやる」
 桐沢は驚きと恐怖のあまり声すら出なかった。生きた心地がしないとはこのことを言うのだろう。
 ヒビキの言ったことに対し、桐沢はコクコクと壊れた人形のように何度も首を縦に振る。
「センパイ、返事は?」
「……っ、わ、分かった……二人には、手を出さないと約束する……絶対だ……」
 情けなく震える声でなんとか伝えると、離れたヒビキは満足げに笑みを零した。
 終わったという安堵から、桐沢の身体は壁を背にずるりと滑り落ちる。すっかり腰を抜かしてしまっていた。
「それで、センパイは今回の件、どう落とし前をつけてくれるの?」
「……、……は?」
 これで終わりかと思っていたら、どうやらヒビキはまだ桐沢を解放する気はないらしい。
 今ので寿命が確実に縮んだような気がした桐沢は、眼前で微笑む悪魔のような少年を憔悴しきった面持ちで見上げた。



 病院へ来ると妙に緊張してしまうのはこの独特の匂いのせいだと梨花は思う。
 この辺りの病院の中でも随一の大きさを誇る東名大学医学部付属病院。大怪我を負った悠人が昨夜運ばれた病院だ。
 高藤からの連絡を受けて放課後に病院へ向かった梨花は、事前に聞いていた病室へと足を運んだ。ちなみにヒビキはといえば、一日中女の子に囲まれていて声を掛けられなかったため置いてきた。そのことを思い返すと無性にむしゃくしゃしてくるので梨花は出来る限り考えないようにしている。
 悠人のいる部屋の前まで来て足を止めた梨花は、一つ深呼吸をしてから気持ちを落ち着かせる。悠人がどんな様子でそこにいるのかが分からなくて不安になってくる。
 けれど悠人がどんな状態でも、出来る限りいつも通りの自分を見せようと梨花はドアをノックした。
「失礼します……」
 中を窺うようにして入ると、そこは完全な個室となっており中にはベッドに横たわる悠人以外誰もいなかった。
 起きていたらしい悠人は、梨花が顔を出すなりぱちぱちと目を瞬かせた。
「梨花? お前なんで」
「怪我したって聞いたから様子見に来たの。これ、ゼリー買ってきたんだけど食べられそうなら食べて」
「おっ、サンキュー。そこの冷蔵庫に入れといて」
 数時間ぶりに見る悠人は手当こそされていたものの、包帯が巻かれた手足や傷だらけの顔は相変わらず痛々しいものだった。
 悠人は身体を起こそうとしたが、余程身体が痛むらしく苦悶の表情を浮かべている。梨花は慌ててそれを止めた。
「ちょっと、無理して起きなくていいから……」
「わり、身体中痛くてさ……今日はこのままで勘弁してくれ。ぶっちゃけ口の中も切れてるからしゃべるのもきついんだわ……」
 苦笑してベッドに横になった悠人は「そういえば」と梨花を見る。
「なんで俺がここにいるって分かったんだ?」
「せ、先生に聞いたのよ。あんたが学校休んでるって聞いたから……」
 咄嗟に聞かれて梨花はぎくっとしたが、なんとか適当に誤魔化すと悠人は「そうか」と納得する。
「一体なにがあったの?」
「部活の帰りにちょっとヤバイやつらに絡まれてさ、このザマだよ。ほんとついてねぇぜ……」
「相手に心当たりはないの? なにか身に覚えっていうか、誰かに恨みを買ったとか。でも悠人に限ってそういうことは無さそうだけど……」
 事の顛末はヒビキから聞いていたため把握しているが、それを今、こんな状態の悠人に話すなんて梨花には出来なかった。悠人はただ巻き込まれてしまっただけだから尚更だ。
 梨花はあえて知らないふりをして悠人に尋ねる。
「エリカ」
「へっ?」
 しかし悠人の口からは思ってもみなかった名前が出てきて、梨花はどきりとした。
 悠人は梨花の方を向くといつになく真剣な面持ちで聞いた。
「なぁ、梨花はエリカって女の子のこと知ってるか?」
「え?」
「いや、やっぱりいいや! なんでもない!」
 梨花の返答を待つことなく言葉を打ち切った悠人に、それ以上何も言えなかった。
(なんで悠人の口からエリカが出てくるの?)
 悠人とエリカは面識があったのだろうか。その可能性は十分あり得る。エリカの口からはそんな話が一度も出て来なかったから、てっきり知らないものだと思っていたが。
 ここで自分はどう言うべきなのか、梨花には判断しかねた。「知っている」といって下手に話してしまい、さらに悠人が事件に巻き込まれてしまうなんてことは避けたかった。
「あのさ梨花……俺がこうなってること、響には言わないでくれるか? 心配かけたくねぇし、熱が出たとか適当に誤魔化しておいてくれると助かるんだけど……」
「熱で誤魔化せるようななりじゃないと思うんだけど……完治にどれだけかかると思ってるのよ」
「……そうだよなぁ……無理があるよなぁ……どうしよ……」
 心底困ったように重々しくため息を吐く悠人は、自分が怪我をしたことよりもヒビキの事を気にしているようだった。
「どうして? 響君に知られたら何かまずいの?」
「いや……うん。……ほらアイツさ、心配性だろ? せっかく梨花が帰ってきて毎日楽しそうなのに、下手に水差したくないっていうか」
 悠人がこんなことになっていることはヒビキはもう知っている。悠人の酷い姿を見て激昂したヒビキは、リンチした人達を完膚無きまでに痛めつけ病院送りにした。
 そんな事実を知らないらしい悠人は、どうしたものかと困ったように頭を掻いている。
「ったく、困っちゃうよなぁ。アイツ俺のこと大好きだからさ」
「そうね……響君は悠人のことをとても大事に想ってるから……」
「いや、今のは突っ込むところだから……。やめろよ恥ずいだろ」
 苦笑いをする悠人を梨花はクスクスと笑う。
「そういえば悠人、足は」
「膝蓋骨骨折。全治8週間だってさ。まぁ2週間くらいで退院は出来るだろうって言われたから良かったよ。こんなところでいつまでも寝てたら筋力落ちるし身体も鈍るし、さっさとリハビリしてぇよ」
「そう……」
「そんなだから地区予選には出られないし、それどころかレギュラーだって取られちまう。……ほんっと、ついてねぇわ」
 悠人はスポーツ推薦で学校へ入学した。いわばサッカーをするために通っているようなものだ。それなのにそれを突然取り上げられて悔しくないわけがない。
 なのにこんな時でも無理矢理笑ってみせる悠人が痛々しくて、梨花は思わず悠人の手をギュッと握ってしまった。一瞬驚いた悠人だったが、辛そうに眉を寄せる梨花を見て困ったように微笑み、それを優しく握り返した。
 そのままどれくらいそうしていただろう。悠人が唐突に口を開く。
「なぁ梨花、お前、俺に何か言うことないか?」
 不意の問いかけに梨花は顔を上げる。
「……それはこっちの台詞。悠人こそ、私に何か言わなきゃいけないことあるんじゃない? 私の話よりも鮮度悪そうだけど?」
 梨花の言い方に悠人は笑った。
「確かに、鮮度最悪だわ。もう終わったことだから話すつもりなかったんだけど、どのみち事件そのものは他のやつも知ってるからな……。梨花の耳に入るのにもそう時間はかからないだろうと思って、あえて黙ってたんだ。ごめんな」
「私は悠人の口から説明してほしかったよ。私がいなかった七年間、響君のそばにいた悠人から」
 悠人は「そうだな」とぼやくように言って病室の天井を見つめた。何か思うところがあるのだろう。すこし間を置いたのち、決意したような目で梨花に言う。
「全部話すよ、一年前のこと。でも今日はもう遅いし、話すと長くなるから明後日にまた来てもらっていいか? 明日は足のオペが入ってるから面会出来ないと思う」
「え、手術するの?」
「骨折れてるしな。なんか針金突っ込んで骨を固定しなきゃならんらしい。バカだから説明聞いてもピンとこなかったけど、まぁ大したもんじゃないからすぐ終わるよ」
 なんてことないように笑ってみせる悠人を不安にさせまいと、梨花も微笑んだ。
 悠人は強いだけじゃなくて優しい。どんなに自分が辛くても周りに心配をかけないよう振る舞ってくる。そんな悠人の優しさが身に染みるほどよく伝わってきて、退院したらお弁当でも作ってあげようと考える。
「そっか……頑張ってね。それじゃあ明後日にまた来るわ」
「おう。あと、その時に響は連れて来んなよ。あいつには聞かせたくないから」
「分かった」
「それと……響には俺の怪我のこと、まだ何も言わないでおいてくれるか?」
「響君のことばっかりじゃない。あんたどんだけよ」
「なんだなんだヤキモチか?」
「うっさい」
 思わずいつもの調子で悠人を叩こうと手を振り上げたが、ハッとしてそれを引っ込める。バツの悪い顔をしている梨花に悠人はぶはっと吹き出したあと、からからと笑った。
「おいお前やめろよな! 今叩かれたら俺死んじまうから……っああくそ、いてぇ、あんま笑わせんなよ身体痛ぇんだから」
 お腹を押さえて、時折辛そうな顔をしながらも笑う悠人に梨花は「知らないわよっ」とそっぽを向いた。
「悠人の怪我のことは響君には黙っておくけど、そう長続きしないと思うよ」
「ああ、いいんだ。しょうがねぇよこんな怪我じゃ隠しようもないし。明後日お前に話を聞いてもらってから、どうしようか考えるよ」
 悠人の言葉から察するに、彼はまだ自分をリンチした八人が大怪我を負って同じ病院に搬送されたことを知らないようだった。ヒビキが悠人を助けるために廃工場へ来たことも。全ては、悠人が気絶してしまってから起こったことらしい。
 梨花は学校での悠人とヒビキの言葉や、昨日のヒビキの暴力行為、今日の悠人の言動から、一年前に何があったのか大体の検討がついていた。何がきっかけだったのかまでは分からないが、おそらく似たようなことが一年前に起こったのだろう。
 悠人が頑なに怪我のことをヒビキに知られたくないと渋るのも、それが原因なのかもしれない。
「梨花、出来る限り響から目を離さないでくれ」
「どうして?」
「あいつ、たまにとんでもないことするからさ。俺じゃ多分それを止められない。でも、梨花の言うことなら聞くような気がするんだ」
「……それ、もうちょっと早く言ってほしかったかな……」
 梨花が小さな声でボソリと言えば、悠人はよく聞こえなかったようで「なに?」と聞き返してくる。
「ん、なんでもない。悠人の言いたいことは分かったから、後は任せといて。それじゃあ、そろそろ帰るわね」
「おう。気をつけて帰れよ」
 帰るべく椅子から立ち上がった梨花に、悠人はいつものように明るく相好を崩した。
「梨花、あんがとな」



「ただいま」
「おかえりりっちゃん」
 家へ帰ってきた梨花が玄関で靴を脱いでいたところへ、リビングからひょっこりとヒビキが現れる。彼もまだ制服を着ているところからして、放課後も相変わらず女の子としゃべるなり遊ぶなりしていたのだろうかと梨花は胸がチリッとする。
 しかしそんなことはおくびにも出さずに、梨花は笑みを浮かべた。
「ただいまヒビキ。遅くなってごめんね。ご飯もう食べた?」
「ううん、まだだよ」
「じゃあなんか冷蔵庫にあるものでパパッと作っちゃうね。適当に時間潰してて」
 フローリングに鞄を置いた梨花は、制服のブレザーを脱いでソファの背もたれにポイッと投げた。
「ダメだよりっちゃん、そんなところに置いたら皺になるから」
 ヒビキはそう言って、どこからかハンガーを持ってくると梨花のブレザーを丁寧にかけた。続けて壁に取り付けられたフックにハンガーをひっかける一連の行動に梨花は笑ってしまう。
「いやいや、奥さんじゃないんだから。でもありがと」
「りっちゃんが相手なら俺はどっちでもいいよ」
 穏やかに微笑むヒビキを見ながら、いつもだったら「男のくせに可愛いこと言うなぁちくしょう」なんて思って和んだのかもしれないが、今日はそういう気分にはなれなかった。
 ヒビキは今日、ほかの女の子にもそういうことを言ったのだろうかと深く考えてしまう。ヒビキから「可愛い」と言われて喜んでいたクラスメイトを思い出して、梨花は少し落ち込んでいる自分に気付いた。
(って、いつまで根に持ってんのよ私は……。自分がお願いしといて機嫌悪くするとか最低……ヒビキはただ私の言った通りにしただけなのに)
 そんなことをつらつらと考えていた梨花だったが、ふと、ぞんざいに包帯が巻かれたヒビキの左手に目がいった。ガシッとヒビキの手首を掴んで凝視していると、ヒビキは「どうしたの?」と言わんばかりに目を丸くする。
「りっちゃん?」
「この手どうしたの? 朝はこんなのなかったでしょ」
「ああこれ……」
「ちょっと……喧嘩とかしてないでしょうね。約束したよね喧嘩はしないって」
 喧嘩というよりも、ヒビキの場合はあまりに一方的すぎるので暴力になるのだが。
 詰め寄る梨花に対してヒビキは慌てて否定する。
「喧嘩はしてないよ! 牽制しただけ。ほんとだよ」
「ならいいけど……いやいいのかな……。とりあえず、あんまり無茶はしないでね。ヒビキの手がこんな風になるの嫌だから」
 せっかく綺麗な肌なのに傷がつくなんて嫌だ。自分のことでもないのに梨花はそう思う。
 梨花が言ったことにヒビキは瞠目していたが、すぐにとても嬉しそうに目元を和ませて「うん」と微笑んだ。それがとても幸せそうなものだったから、見ていて気恥ずかしくなった梨花は視線を逸らしてしまった。
「ご飯の前にまずはその傷の手当てをしなきゃね。ちょっと見せて」
「ごめん。痛みはないからすぐ治るかなと思って、とりあえず包帯だけ巻いたんだ」
「巻いたって言うのもおこがましいくらい適当なんですけど……」
 呆れたように零しながら、ヒビキの手を引いてソファへと座らせる。包帯をほどいていくと、第二関節から第三関節部分の皮がむけて血が滲み、鬱血していた。予想以上に酷い状態で梨花は眉を吊り上げる。
「……なにこれ」
 なにをどうやったらこんな怪我をするんだと梨花が目で訴えると、察したようでヒビキは口を開いた。
「桐沢を呼び出して釘を刺したんだ。次りっちゃんや悠人に手を出したらただじゃおかないからって。で、見せしめに壁を叩いたらこうなって」
 こうなって、じゃない。あっけらかんとしたヒビキの物言いに梨花は心の中で突っ込み、深くため息をついた。
「本当に、痛くないのね? 手はちゃんと動くの?」
「うん大丈夫。動かすのにも支障ないし、だから病院には行かないよ」
「いや、この場合むしろ行ってほしいんですけど……どう見てもレントゲンとか撮った方がいいいような……」
「必要ないよ。だって痛くないんだもん」
「そうかなぁ……」
「必要ない」
「なんか圧力すごくない!? そんなに病院行きたくないの?」
「うん、行きたくない。……あんなとこ、何されるか分かったもんじゃないよ」
「何されるもなにも、手の治療してくれるでしょうよ……。レントゲン撮ってもらいたいし……」
 なにより、ヒビキの「痛くない」はどこか信用出来ないのだ。この手の怪我だって、梨花にはどう見ても痛そうにしか見えないし、これで痛くないのならそれはそれで余計に心配である。
 ヒビキは痛みに対してとても無頓着な気がして怖い。けれど、ここまで拒否的なヒビキを無理に連れて行くこともしたくなかった。
「……エリカが痛いって言ったら病院行くからね。それと……」
 未だ血が滲む患部をガーゼで覆って包帯を綺麗に巻き直したあと、救急箱の蓋をパタンと閉じる。
「あのねヒビキ、この身体はあんただけのものじゃないのよ。エリカは女の子なんだよ。知らない間に自分の身体にこんな傷がついたら驚くし、痛いし、怖くてつらい思いをするの。ヒビキならその気持ちが分かるはずでしょ。その辺をもっと理解してあげてよ」
「……うん」
「それと、ヒビキはもっと自分を大事にして。私や悠人のためとか言って、自分で自分を傷つけないで。ヒビキが私や悠人を大切に想ってくれてるのは嬉しいけど、私達だってヒビキが大事なんだよ。でも、それが暴力を振るっていい正当な理由にはならないことだけは頭に入れてて」
 いっそ暴力を振るわないでくれと言えば話は早かったのかもしれない。ヒビキは梨花の言うことならば高確率で頷いてくれる気がする。
 けれど、それではヒビキのためにならないと梨花は思った。これはヒビキが自分で考えなければならないことだ。これまでのように梨花や悠人のためといってなりふり構わず行動を起こされては擁護出来なくなる可能性もある。
 高藤がどんな立ち位置にいるのか分からない今、ヒビキにはあまり大っぴらな行動は避けてほしかった。なにせ彼らはヒビキを危険な人格だと決めつけ、消そうとしているのだから。
(ヒビキに消えて欲しくない。殺したくない……)
 それになにより、自分たちのためにヒビキに傷ついて欲しくはなかった。この手の怪我だって決して軽いものじゃない。それにも関わらずぞんざいに巻かれていた包帯のいい加減さが、ヒビキの自身の身体への執着の薄さを思わせるようで嫌だった。
「分かった。りっちゃんがそう言うなら……」
「私が言うから、じゃないのよ。ヒビキはどう思ってるの? 嫌だったら無理して頷かなくていいよ」
「無理なんてしてないっ、俺はりっちゃんの言うことを聞きたいんだよ。りっちゃんのお願いならなんだって叶えたいし、そういう俺の気持ちはどうすればいいの?」
 悲しそうに目尻を下げ、切なそうな瞳で訴えられて梨花は言葉を詰まらせる。
「そう言われても……。あんまりなんでもかんでも私の言うことに頷かれるのも、気分が悪いというか居心地悪いというか、ムズムズするというか……。私だって自分の言うことに自信ない時だってあるし、それでヒビキが悪い方向へいっちゃったら申し訳ないし……」
 モゴモゴと言いながら目を逸らし、言葉尻が弱くなっていく梨花をヒビキは強く抱きしめた。
「りっちゃんの言うことを聞くのは俺がそうしたいからで、俺の意志。それじゃあダメなの?」
「それは……っ」
 さきにも述べたが、梨花はヒビキの悲しげな顔にめっぽう弱い。
 それともう一つ、普段梨花に対して決して強く出ないヒビキが、いつになく押してくることにも弱い。
「俺を否定しないで」
 とどめのように放たれたヒビキの悲痛な声と言葉に、梨花は心が奪われそうになる。
 ああだめだ、丸め込まれてしまう。
 そう思って梨花の頭はぐるぐる回る。密着した身体は制服越しでも分かるほど熱くて、息が止まりそうだった。背中に回されたヒビキの手を愛しいと思ってしまう。
 それに応えようと梨花も手を回そうとしたところで、ヒビキの制服から漂う嗅ぎ慣れないきつい香りが鼻を突いた。
(ん……?)
 梨花はぴくりと片眉を上げる。なんだこの匂いは。フローラルなそれは決して男が使うようなものじゃない。十中八九女物だ。しかも色んな匂いが混ざり合っていて余計気持ち悪さに拍車が掛かる。
 うっとりしていたところへ冷や水を浴びせられ、梨花は一気に冷静になった。
「……っていうか、私のお願いなら他の女の子とだってイチャイチャしちゃうわけね」
「え?」
「今日一日、女の子に囲まれてすっごく楽しそうだったよね」
 抑揚のない声でそう洩らす梨花の、能面のような顔を見てヒビキは焦った。
「だって、それはりっちゃんが『出来る限り人とは仲良くしてね』って言ったから」
「私は別に『出来る限り女の子とイチャイチャしてね』なんて言ってない! なにあの距離感! みんなしてベッタリしてさー! どう見ても下心しかないでしょ気付きなさいよ!!」
「イチャイチャなんかしてないよ! 誤解だってば!」
「あれを誤解だって言うなら世の中浮気だらけよ!! 大体ヒビキってば臭いのよ! 離れてっ!」
「えっ!!? そ、そんなぁ……」
 ガビッとこれまでになくショックを受けているヒビキを後目に、立ち上がった梨花は仏頂面で言った。
「脱いで」
「え?」
「洗濯するから制服全部脱いで。あとシャワー浴びてきて。その匂い全部落としてきて」
「あ、ハイ……」
 梨花が急に怒り出した理由がヒビキには全く分からなかった。なんならちょっと良い雰囲気になったような気がしたのだが、どうやらそれは自分の思い違いだったらしいことに気付く。
 女心は海より深いという言葉は本当だなと、ヒビキはてんで的外れなことを思って一人納得していた。
 なんにせよ、これ以上梨花の機嫌を損ねるまいとヒビキは言われるがままにすごすごとバスルームへ向かった。臭いと言われたから今度から身体は念入りに洗わなければ。
 そんな誤解をしたまま、ヒビキはしばらくバスルームから出て来なかった。