第14話 賽は投げられた


 人格を消すということは、人間を殺すことと同じである。
 多重人格について調べていた時に、とある本に書かれていた印象的な一文を梨花は思い出していた。
「高藤さんは私に『響君を殺す手伝いをしろ』と、そう言ってるんですか……」
 喉から振り絞るような声で梨花が言うと、電話の向こうで高藤が「あなたは本当に優しい人ですね」と言ったのが聞こえた。梨花の科白に呆れた様子もなく、いつも通りの穏やかな声だった。
『そんなに重苦しく捉えないでください。でも、そうですね……梨花さんにとって人格を消すことは殺すことと同じだというのであれば、僕はあなたにそうお願いしていることになりますね』
「どうして消す必要があるんですか? 別に今のままだって」
『それはあなたの考えですか?』
 今まで梨花の言葉を最後まで優しく聞いてくれていた高藤らしからぬ言葉の遮り方だった。
 その鋭い切り返しに梨花は言葉を詰まらせた。いくら響やエリカのことが分からないとはいえ、今のは二人に対してあまりに軽はずみな発言だったと梨花は自分を諫める。
 けれど間もなくして高藤が申し訳なさそうに謝ってきた。
『すみません、今のは少し意地悪でしたね……。梨花さんは、二人を共存させたいと思っているんですよね』
「……はい」
『僕は専門じゃないのであまり詳しくはお話し出来ないのですが、現状ではエリカは二つの病気を抱えています。一つは梨花さんも知るように、多重人格。正式な名称は解離性同一性障害と言います』
 医者である高藤が口にすると、言葉にずっしりとした重みと信憑性が増したように思えた。
 解離性同一性障害。その名称と大まかな解説は以前調べた時に本で読んだが、梨花にはまだ理解出来ないところが多かった。それくらい精神疾患とは複雑なものだった。
『エリカの主治医は僕の知り合いなんですが、その彼の話によると、多重人格の治療法の中に人格統合というものがあるそうです。セラピストと共に時間をかけて話し合い、交代人格とコミュニケーションをとりながら自身の中にある空白の記憶と体験を結んでいくんです。そうすることで自身の内面を知り、複数の人格を徐々に一つにまとめていくことが出来るそうです。多少時間はかかりますが、治療としては可能だとか』
「そんな治療法がちゃんとあるのに、どうして響君を消そうとするんですか」
『話の分かる、良心的で問題のない人格であれば私も統合すべきだと思います』
「……でも響君はそうじゃないと?」
 梨花は静かに尋ねる。自分で言った言葉なのに胸が痛かった。
 そんな梨花に対し、高藤は残酷なほどにはっきりと肯定する。
『はい。少なくとも私達医者にとって彼は未知数の力を持った危険な人格で、現時点では人格統合は考えられません。そもそも彼に至っては、話の分かる分からない以前に人としての“人格”に問題があります』
 高藤の言い分は手厳しいものだった。変に気を遣われるよりはこうしてはっきり言ってくれた方が救われることもあるだろうが、これはこれでとても残酷だ。
 梨花は怒りで高ぶる自身の感情を抑えながら、手を痛いくらいに握りしめた。
 ここに高藤がいなくて良かったと、梨花は心底思った。もし目の前にいたら間違いなく高藤を引っぱたいていた。それくらい高藤の言葉には頭にきて、同時に悲しかった。響を否定されたことが悔しい。梨花の知っている響は、少し大人しいけど優しくて素直で、笑顔の似合う良い子だ。
 間違っても、危険な人格だからと消されて良いような子ではない。
『人格統合が出来ない理由は他にもいくつかあるのですが、まず一つは、先ほども言ったように彼の保護者人格としての力が常軌を逸していることです』
「力?」
『ええ。元々保護者人格は攻撃的な場合が多いという説もありますし、彼のような力を持った人格というのは過去に前例もあります。ですが、その中でも彼の力は特異です。彼の事を分かりやすく言えば、強い上に攻撃的で、一度スイッチが入ってしまえば人の言うことはまず聞かない。そのうえ内面でも大きな権限──人格の支配権を持っています』
 どれもこれも梨花の知る響には似つかわしくない言葉ばかりで違和感が拭えない。
『これはもう大分前の話になるのですが……。彼、主治医に殴りかかって大怪我を負わせたことがあるんですよ。その時彼はまだ小学生だったにも関わらず、子供とは思えないほどのすごい力で暴れて大人二人がかりでも取り押さえるのに苦労したそうです』
「小学生の頃……?」
『梨花さんが海外へ引っ越した後のことですよ。彼は父親に連れられて、一度精神科へ訪れているんです。主治医からいくつか簡単な質問をされて、その時に突然怒って殴りかかってきたとか。その件は彼の父親がもみ消したので公にはなっていませんが』
 いくら「憶測ではなく事実」だという前置きがあるとはいえ、梨花にとってはどれもにわかには信じがたい話だった。
 そして響の父親は、病院での出来事を簡単にもみ消す事が出来るほどの権力を持っているらしい。
『多重人格者の中には、アドレナリンを自在にコントロールして筋力を強化する能力を持った者もいたそうです。恐らく彼もその力に似たものを持っているのかもしれません』
 高藤からその話を聞いた時、梨花の頭を過ぎったのは先日の図書室での一件だった。梨花が図書室の本棚に潰されそうになった際、響が庇って助けてくれた。その時に背中で本棚を受けとめた響に驚いたが、さらに響はそのあと、大人一人ではとても持ち上げきれるものではない重厚な本棚を苦もなく軽々と立て直してみせた。
 あの時の響の異常な力が、彼の持つ能力の一端だったとしたら納得がいく。
『ただ力が強いというだけならばそこまで危険視はしません。ですが彼の場合、内面での強さが厄介なんです。たった一人で、エリカを数年間内面に拘束しておけるその支配力の強さがね』
「それにしたって、人格を消すなんてやっぱりおかしいです。高藤さんだってさっき言ってたじゃないですか、多重人格の治療は患者と話し合い、交代人格とコミュニケーションを取ることが大事だって……! 響君と話をすれば、あの子が悪い人格なんかじゃないって高藤さんだって絶対に分かります!」
『その彼が、実の母親を殺していたとしても?』
「!?」
 気持ちの整理が付かないまま、追い打ちを掛けるように放たれた爆弾に梨花は愕然とした。
『私達が彼を危険視するのも、エリカが彼をひどく憎むことになったのも、根底の出来事はそれです。梨花さん、あなたの知っている彼はほんの一部分でしかないんですよ』
「いい加減にしてください!! さっきから聞いてれば響君のことを悪く言ってばかり……!! 響君は……あの子はそんな酷い子じゃありません! デタラメ言わないで!」
 高藤の言葉が信じられず、梨花は我慢出来なくなって電話ごしに声を張り上げた。怒らずにはいられなかった。
 響の母親はとても優しくて綺麗で、家に遊びに来た梨花をいつも微笑んで迎えてくれた。響と二人で仲良く買い物をしている姿だって何度も見かけたことがある。手を繋いで、いつも幸せそうに微笑んでいた二人を知っているからこそ信じたくなかった。
『表向きは事故として処理されましたが、エリカが内面で全てを見ていたそうです。彼が母親を殺す瞬間を』
「それだけは絶対に信じません。響君はそんなことしない」
 梨花は断然と言い返す。
 どこまでが真実でどこからが嘘なのか梨花には分からない。けれど、梨花がいつか帰ってくると信じてずっと待っていた響を、再会してまた梨花と普通に話せることを泣いて喜んでくれた響を、梨花が本棚に潰されて怪我しそうになった時に身体を張って守ってくれた響を、梨花は信じたいと思った。
 高藤の言葉を真っ向から否定する梨花に不快感を示すこともなく、高藤は落ち着いた声色で話す。
『特別親しいあなたには、彼はそういう面を見せないのでしょうね。エリカは彼のことを“悪魔”だと言っていました。彼女は彼のことをとても憎んでいて、人格統合は絶対に嫌だと言っています。これに関しても再三エリカとセラピストが話をしていますが、彼女の意志は崩せません』
「……そうですか……」
『エリカが彼を激しく憎み、拒んでいる。それも人格統合が出来ない理由の一つです』
 高藤は一貫して穏やかな口調で話し、それがブレることはない。話も分かりやすくて丁寧だ。怒った梨花に対して逆ギレすることも、頭ごなしに叱ることもしなかった。そんな高藤の誠実な対応が、話に信憑性を持たせるようで梨花は拒むように頭を振る。
『梨花さん』
 沈黙したまま何も言わない梨花に何かを察したらしい、高藤は優しく話しかけてくる。
『そこまで彼の事を信じたいならば、今すぐに〇〇通り三丁目にある廃工場へ行ってください。詳しい場所はメールで送りますから』
「廃工場……?」
『はい。そこに彼はいますから』
「っ!? どうして高藤さんが響君の居場所を知ってるんですか!?」
 響の居場所を知っているということは、今回の件には高藤も少なからず関与しているということになる。なぜ今まで黙っていたのか。
 高藤に対して一気に不信感を募らせる梨花に、高藤は感情の見えない落ち着いた声で言った。
『彼がどれほど危険な存在か、自身の目で確かめて下さい』



 暗い。寂れた入り口や今にも落ちそうな穴の空いた天井、窓からぼんやりと差し込むネオンの明かりだけが内部を照らしていた。明かりは十分なものではないけれど、全く見えないわけでもない。一日中ほとんどまともな明かりに照らされることのないその場所は、少しひんやりとしていて独特の空気が流れていた。
 そんな廃墟に梨花が足を踏み入れると、無数の呻き声が聞こえてきた。
 声のする方へ視線を向けると同時に、辺りの薄暗さと視界の悪さに梨花は感謝した。それくらい目を背けたくなるような光景が梨花の目の前には広がっていた。
 どんな手段でやられたのかは定かではないが、手酷く暴行され身体中血だらけになって倒れ込む人達が、ざっと数えて八人はいた。まだ僅かに動いている様子から、かろうじで息はあるようで安堵する。それにしたって酷いものだが。
 でもどんなに嫌だと思っても梨花が目を逸らせなかったのは、その中心に響がいたからだ。
 所々壊れた天井から差し込む月明かりが、暗がりに立っていた響の姿を照らし出す。
 響が着ていた制服の白いシャツは血で汚れ、鉄パイプを握っている手も驚くほど真っ赤に染まっていた。それが響自身の血なのか、それとも周りに倒れている人達のものなのかは考えるまでもなかった。
 この場で唯一しっかりと自身の足で立っていた響は、地面に転がる男達を無慈悲に見つめていた。
「響、君……?」
 梨花は動揺を隠せないまま、震える唇はそれでもなんとか響の名を呼んだ。
 呼ばれた響は梨花へと顔を向けると、驚くことも焦ることもなく、この場にはそぐわないほどニコリと優しく微笑みかける。その口は「りっちゃん」と梨花の名を呼んでいた。
「ごめん、もうちょっとで終わるから」
「なにしてるの……」
「なにって、敵討ち」
 涼しい顔でそう言った響は足下でうつ伏せに倒れている男に視線を戻すと、その頭を足でギリッと踏みつける。衝撃に小さく呻いたその男を、響は非情な眼差しで見つめて嘲笑った。
「こいつらが悪いんだよ。俺の大切な悠人を傷つけるから」
「悠人?」
 響が何のことを言っているのか分からない。梨花が疑問符を浮かべて尋ねると、響は廃墟の真ん中へと目配せする。
 その先には一際手酷く暴行され倒れている悠人の姿があった。
「悠人!?」
 梨花は慌てて悠人の元へと駆け寄る。気絶しているらしい悠人は目を瞑ったまま微動だにせず、怪我の状態も酷いものだった。
「悠人! 悠人!? ちょっと、なんでこんな……!」
「こいつら、寄って集って悠人をリンチしてボロボロにしたんだ。悠人は何も悪くないのに。だから今やり返してたとこ」
「リンチ……!? やり返してたって……」
「りっちゃんは、理不尽な暴力は許されると思う?」
 疑問を投げかけてきた響の口元からは笑みが消えていた。
 その問いかけは間違いなく悠人の怪我と関係しているのだろう。
「サッカー部、もうすぐ地区予選だったんだ。でもその足の怪我じゃ悠人は間に合わない」
「足の怪我……?」
「正しい行いをしてきた悠人がここまで痛めつけられて、否定されて。今まで努力して一生懸命積み上げてきたものを、全然関係のないやつらから踏みにじられて台無しにされるのって許せる?」
 響の言っていることが本当なら、そんなもの許せるわけがない。梨花はとっさにそう思う。だが、だからといって響のいき過ぎた暴力行為を認めることも出来なかった。
 肯定も否定も出来ない問いかけの答えを賢明に探すが、響を納得させられるような言葉は浮かばなかった。
 響は梨花の返答も待たず、足下に転がっている男の首を掴んで持ち上げた。自分よりも大柄な相手を、大した苦もなく片手だけで軽々と掴み上げる、その異常な力を再び目の当たりにして梨花は息を呑んだ。梨花と大して背丈の変わらない華奢な響が、自分とは真逆の、がっしりとした体付きの男を片手で弄んでいる。そのアンバランスさに梨花は釘付けになっていた。
 男の顔は幾度も殴られたのかあちこち腫れ上がり、歯は折れ、血に塗れていた。そこへさらに響から首を絞められ、消耗しきった体力を振り絞って抵抗している。
 その様子をどこか楽しそうに響は眺め、無情に問いかけた。
「ねぇあんたさ、死にたくないだろ? 答えろよ。悠人があんたらに何したよ」
「うっ……ぐ」
「まだそんなに力入れてないからしゃべろうと思えばしゃべれるだろ。ほら、頑張れ頑張れ」
 首を絞められた状態ではまともにしゃべることなど困難だ。まだ力を入れてないから可能などとふざけたこと言う響に唾でも吐いてやろうかと男は思ったが、自身を見つめる響の冷え切った目を見てゾッとした。
 蛇に睨まれた蛙になった気分だった。
 やばい、殺される。男は今更ながらに恐ろしくなって、逃げようと弱々しく足を動かす。だがそれが地を蹴ることは叶わず、虚しく空回りしただけだった。
 この場において絶対的な強者である響は、そんな男の様子を見てクスクスと残酷に笑う。
「無理だって。足の腱切ってやったんだから逃げられるわけないだろ。さっさと答えろよ。悠人はお前らには何もしてないはずだ。それなのになんで?」
 なおも問いかける響を止めなければいけないはずなのに、驚きと怯えのあまり梨花は声が出なかった。
 男が何も言わないことに失望した響は、まるで人形でも扱うかのようにいとも容易く、男をコンクリートの壁に思いきり叩きつけた。
「っ……!」
 聞いたことのない鈍い音に、梨花は思わず目を瞑ってしまった。
 男は悲鳴をあげることもなく、ドサリと音を立ててその場に崩れ落ちる。
「答えないなら一生寝てろ、バーカ」
 梨花が聞いた事のない声色で、響は冷酷に言い放つ。そのあと振り返った響の冷たい双眸は、次のターゲットに目をつけていた。
 倒れていた男達の内の一人が、それを見て「ヒッ」と上擦った声を上げた。
「ゆ、許してくれ……!! 俺らはただ、金渡されて頼まれただけなんだ……!!」
「ああそう。でもお金を渡されて引き受けて、悠人をここまで痛めつけたのはお前らの意志だろ? さっきまで随分と楽しそうに悠人のことを嬲ってたじゃないか」
 ゆっくりと歩み寄る響の足音はまるで死刑宣告のカウントダウンのようだ。
 そこそこの金額を握らされ、簡単に今回の件を引き受けてしまったことを男は痛烈に後悔していた。学校一の有名人であり美少年と名高い響が、ここまで常軌を逸した化け物だとは思わなかったのだ。
「そもそも、俺の大切な人に手を出した時点でお前らなんて万死に値する」
 容赦なく言い放つ響に男は言葉を失った。とても恐ろしいはずのに、血塗れになりながらも笑みを浮かべる響は壮絶すぎるほど美しかった。
 男は恐怖のあまりだらしなく震えて、やがてパニックに陥ったのか響の足にしがみついて何度も謝り出した。惨めだとか、格好悪いだとか、そんなことは一切思わなかった。
 謝らなけば殺される。男の頭の中はそれだけだった。
 響はそんな男のことをゴミを見るような目で見下し、比較的優しい声色で尋ねた。
「一応聞いといてやるけど、誰の差し金?」
「き、桐沢が……っ! あ、あんたの、あなたのファンクラブの……っ、副会長ですよね!? 三年の桐沢誉……! そっそいつの足だって桐沢がやったんです……! 俺らじゃない!!」
「キリサワ……あぁ、あの気持ちの悪いメガネ」
 思い当たる節でもあるように響は意味深な言葉を零した。そのあと響は男に向かって優しく微笑んだかと思えば、男の顔面を思い切り蹴り上げた。続けざまに手に持っていた鉄パイプを男の口に突っ込む。
「響君やめて!!!」
 見ていられなくなった梨花は思い切り叫んで、響の前に立ちはだかった。こんなことで響が止めてくれるとは思えなかったけれど、それでも何もしないで傍観しているよりはマシだった。
「もうやめて」
 梨花が険しい顔つきで再度そう言えば、響は驚くほど素直に動きを止めて、男の口に突っ込んでいた鉄パイプを引き抜いた。その行動に梨花はとりあえずホッとする。
「もういいでしょ? 響君がここまでする必要なんてない」
「響じゃない」
 静かに、だがきっぱりと響は言った。
 梨花へと向けられる響の眼差しは、血生臭いこの場には不相応なほど優しくて穏やかなものへと変わる。
「もう全部思い出したんだ。俺は響じゃないよ」
 高藤から聞いた時よりも、響本人から聞く事実は梨花の胸に深く突き刺さる。僅かな可能性さえも打ち砕くような響の言葉に全身が戦慄いて、梨花はゴクリと唾を飲み込んだ。
 奥底からわき上がってくる様々な感情を抑え込みながら、梨花は「じゃあ」と言って努めて冷静に響を見つめた。
「あなたは誰?」
 思えば、少し前にエリカにも同じことを聞いたことがあったっけ。
 それをまさかこの幼馴染に聞く日が来るなんて、あの時は考えもしなかったけれど。
 不安に揺れる瞳で梨花が尋ねると、響は屈託無く微笑んだ。
「ヒビキ」
 梨花のよく知る微笑みで、同じ声で、彼──ヒビキ──は初めて人に名乗った。
「ヒビキ?」
 梨花が復唱するように繰り返すと、ヒビキはこくりと頷き嬉しそうに笑みを零す。
「私が知ってる響君はどこへいったの?」
「あれは俺。ちょっと違うところはあるけど、俺だよ。記憶だってちゃんとある」
 言われてみると確かに、雰囲気や話し方には響っぽさが残っているし、表情も梨花の知る響そのものだ。でも急にそんなことを言われて「はいそうですか」と言ってすぐ順応出来るわけもない。
「私が知ってる響君はこんなことしないよ」
「してたよ」
 間髪を入れずにそう返してくるヒビキは、相変わらず柔らかな笑みを絶やさない。
「りっちゃんが知らないだけ」
「それってどういう……」
 そこまで言って梨花は言葉を止めた。
 こんな大事なこと、大半気絶しているとはいえ見ず知らずの人達の前で軽々しく話すような内容ではない。
 知りたいことは今は後回しにして、梨花は辺りを見た。そして高藤との電話の最後に言われていたことを思い返す。
『もしそこに彼がちゃんといたら、彼を連れてすぐに自宅へ戻ってください。……そうですね、今から一時間ほどしたら僕はその廃工場へ救急車を寄越します。意味が分からないとは思いますが、今だけは僕の言うように動いてください。決して悪いようにはしませんから。梨花さん、そこに誰がいようともあなたは“彼だけ”を連れて帰ってください』
 そこに誰がいようとも、ヒビキだけを連れて帰れ。
 高藤の指示は、まるで悠人がここにいることも全て分かっているような言い方だった。だからこそ、高藤は念押しするようにもう一度同じことを言ったのだろう。
 そんな高藤に言いたいことは沢山あったけれど、何を言っても高藤は「それはまた後日に」と言って取り合ってはくれなかった。おかげで響の居場所を知ることは出来たのだが、まるで高藤の手の平の上で転がされているみたいでいい気はしなかった。
「とりあえず響く……じゃなかった、ヒビキ。家に帰ろう」
 梨花がヒビキの腕を掴んで急き立てると、ヒビキは「ちょっと待って」と言って梨花の手を拒んだ。
「ヒビキ?」
「待ってりっちゃん。まだ終わってない」
 そう言ったヒビキの視線は梨花ではなく、地面にぐったりと倒れ伏した男達へと向けられていた。
「まだ終わってないって……もう十分でしょ!?」
 早く連れ帰ろうとヒビキの腕を引くが、梨花とそこまで背丈も体型も変わらないはずのヒビキの身体は重しのようにビクともしない。アドレナリンを自在にコントロールしてうんたらかんたらと高藤が難しいことを言っていたが、この馬鹿力は一体どんな原理で出ているのだろう。
 懸命に腕を引く梨花のことなんて歯牙にもかけていないヒビキが憎たらしくて、元々短気な梨花はなおのこと苛立った。
「ヒビキってば!」
「まだ全然十分じゃないよ。どんなに謝ろうが俺は絶対にこいつらを許さない。もちろん桐沢とか言うメガネも」
 敵意を剥き出しにした冷血な目で男達を見つめるヒビキの手には、未だ鉄パイプが握られていた。それはまだヒビキの臨戦態勢が解けていないことを物語っているようで、物騒なことこの上ない。
「ちょっ……これ以上やったらほんとに死んじゃうでしょう……!?」
「別にいいよ、それで」
「は……?」
「人の痛みが分からないヤツなんて、死ねばいい」
 響がそう言い捨てた途端、梨花は自分でも無意識に手を上げていた。
 バチンと乾いた音が廃墟内に響き渡り、梨花の手に強い痺れが走る。
「そんなこと軽々しく口にしないでっ! もう十分よ、やりすぎなくらいにね!! だからもうやめて!!」
 声を張り上げすぎて息が上がっていた。言ったあとで冷静になった梨花は、手と口を両方出してしまった自分の気の短さに呆れた。
 でも、それくらいヒビキの言葉にショックを受けてしまった。
 強くて、攻撃的で、人の言うことを聞かない、人としての“人格”に問題がある、危険な人格。ヒビキのことを酷評していた高藤の言葉が、梨花の頭の中で鬱陶しいくらいに甦る。
「やめてよ……。これ以上、自分で自分を追い込まないで……」
 痛切に訴える梨花とは対照的に、ヒビキはとても落ち着いた目で梨花を見つめていた。叩かれたことなど全然気にしていないかのように、しばらくしてヒビキはゆっくりと口を開く。
「りっちゃんがそう言うなら」
 ヒビキの手から鉄パイプが滑り落ちた。カランカランと硬質な音を立て廃墟内に金属音が反響する。
「え?」
 呆気にとられた梨花は思わず間の抜けた声を出してしまう。
「い、いいの? いや、やめてほしいのは確かだけど……、でも、絶対に許さないって言ってたじゃない」
「こいつらのことは許してないよ。でも、俺はりっちゃんを悲しませたいわけじゃないから。りっちゃんがしてほしくないなら、もうやめる」
 こうもあっさりとヒビキが言うことを聞いてくれるとは思わなかった。梨花は全身の力が抜けていくのを感じていた。高藤は「一度スイッチが入れば人の言うことはまず聞かない」と言っていたのに、あれは嘘だったのだろうか。
 とりあえず、今はそんな疑問は頭の隅に追いやって、梨花は溜息を吐くと気まずげに言った。
「あ……えっと、急に叩いてごめんなさい……」
「えっ?」
 怒りに任せて引っぱたいてしまったヒビキの頬に手を触れると、そこはほんのりと熱を持って熱かった。ここでは暗くてよく分からないけれど、おそらく赤くなっているはずだ。ヒビキの肌は白いからきっと目立つ。自分でやっておいて何だが、後で腫れなければいいなと梨花は強く思った。
 しかし、そんな梨花の心中とは裏腹にヒビキはきょとんと目を丸くしている。
「なんで謝るの? りっちゃんは別に悪くないのに」
「ちゃんと口で言えば分かることだったのに、つい手が出ちゃったから。だから謝ってんの……。ほんと、昔から成長してなくてごめん。直さなきゃって思ってはいるんだけどなかなか直らなくて……」
「りっちゃんの口と手が両方出るのは昔からだし、俺は別に気にしてないよ? 直さなくていいよ」
「そうやって昔っから私のやることなすこと全肯定するのほんとやめてね!?」
 梨花は顔を真っ赤にして怒ったが、ヒビキは呑気に微笑むだけだ。
 梨花は「それとね」と続けた。
「ヒビキのやり方を認めるわけにはいかないけど、でも……悠人を助けてくれてありがとね。なんでこうなったのか理由は分からないけど、仇をとってくれたんでしょ? それに関しては悠人の代わりに私がお礼を言うわ。ヒビキにとって悠人は、兄弟みたいなものだもんね」
 やられたらやりかえすという報復律を肯定するわけではないが、それでも悠人がリンチされたことを思えば多少なりとも救われた気持ちというのは存在する。梨花とて、悠人があんな目に遭ったことを知ったら怒って我慢出来なかったかもしれない。
 そういう気持ちを込めて梨花が言うと、ヒビキは困ったように、眉を八の字にして笑んだ。その表情の真意が読めずに梨花は首を傾げたが、すぐに高藤の言葉を思い出してハッとする。
「って、こんなことしてる場合じゃないんだった」
 梨花は慌ててヒビキの手首を掴むと、早足で出口へと向かう。
「りっちゃん、悠人は? 置いてくの?」
 ヒビキは悠人を一瞥して戸惑ったように尋ねた。
「大丈夫。救急車を呼んでるからもうすぐ来るわ」
 出来ることなら悠人も連れて行きたいが、どのみち悠人は病院へ運ばなければならない。梨花とヒビキがそれに付き添えば、どうして悠人がこんな大怪我を負ったのか事情を説明しなければならなくなる。梨花だけならば上手く誤魔化すことが出来るかもしれないが、ヒビキの出で立ちではそれも難しいだろう。悠人の両親だって間違いなく警察へ被害届けを出すだろうし、そうなるとやっかいだ。
 梨花は足を止めて、確認するように辺りを見回した。
「……誰も殺してないわよね」
「これくらいじゃ人間は死なないよ。クズほど生命力は強いものだから」
 ヒビキの言い分に突っ込みたいのは山々だが、とりあえずは全員生きていることに安心する。
 悠人を守ったとはいえ、これはあまりにも度を過ぎている。もう正当防衛で済まされないことなど誰の目から見ても明らかだった。どちらも自業自得といえばそれまでだが、ここでヒビキの存在を知られるわけにはいかなかった。
 梨花の本意ではないが、ここは「悪いようにはしない」と言った高藤の話に乗っておくのが一番安全かもしれない。
「よし、じゃあ帰ろうか」
「うん」
 ヒビキを守る覚悟を決めた梨花は、ヒビキの手を強く掴んで夜の町を走った。



 梨花がヒビキを連れてマンションへ戻ることが出来たのは、部屋を飛び出してから約三時間後のことだった。
 梨花は半ば強引にヒビキをバスルームへ押し込み、身体のあちこちについた返り血を落とすよう言った。その時に怪我をしていないか確認もしたが、ヒビキは梨花から叩かれた頬を除けば全くの無傷で、それがまたヒビキの異常な強さを物語っているようだった。
 バスルームから聞こえるシャワーの音に耳を澄ませながら、梨花はヒビキの部屋から持ってきた着替えを洗面所のラックの上へ置いた。血で汚れた制服のシャツは漂白剤につけてある。
 そうして洗面所を後にした梨花は、リビングのソファに腰掛けてヒビキが出てくるのを待っていた。その間に高藤から、悠人とその他八人が無事に病院へ搬送された旨のメールが届き、梨花はひとまず胸を撫で下ろす。
 ほどなくして、汚れもすっかり落ち、ルームウェアに着替えたヒビキがタオルで髪の毛を拭きながら出てくる。
 梨花は立ち上がってヒビキへ歩み寄ると、つま先から頭のてっぺんまでしげしげと見る。
「ほんとに怪我してない? 大丈夫?」
 ヒビキは何事もなかったかのように微笑んで見せる。
「あの程度の相手に怪我なんてしないよ」
「悠人はやられまくってたけど……」
「しょうがないよ。悠人は喧嘩慣れしてないんだから」
「そういう問題かなぁ」
 喧嘩慣れ云々以前に、ヒビキが強すぎるのだと梨花は心中で突っ込む。八対一を無傷で切り抜けるだけでなく、相手全員を半殺しにするなんてその辺の高校生にはどう考えても不可能だ。
 考えながら梨花はソファへと戻り腰掛けた。
「もう夜も遅いのに悪いんだけど、ヒビキには聞きたいことがあるの。もうちょっと付き合ってもらってもいい?」
「うん。いいよ」
 嫌な顔一つせずヒビキは了承して梨花の隣に腰掛ける。まだしっとりと水気を含んでいる髪の毛が気になって、梨花はヒビキの肩にかかったタオルを取りあげて髪を拭いた。それに対しヒビキは一瞬目を丸くしたが、すぐに嬉しそうに目を細めてされるがままになっている。
 その様子がまるで犬のようで、梨花はうっかり和んでしまった。
「私がついさっきまで『響君』って呼んでた子は、ヒビキなんだよね?」
「うん。そうだよ」
「じゃあエリカが本当は『柊響』なの?」
 ヒビキは「そう」と言ってコクリと頷いた。あっさりと肯定してくれるものだと梨花は少し驚く。
「でも、そうなると色々おかしくない? だってエリカは自分のこと女の子だって言ってるのに」
「あいつは、響は女だよ」
 ヒビキがけろりと言うものだから、梨花は手を止めると半ば呆れたように息を吐いた。
「女だよって、どこからどう見てもあんたは男でしょ。胸だってないんだから……」
 そう言いながら梨花はヒビキの胸をシャツ越しに触り、手の平で軽く叩く。そこは柔らかくもなければ膨らみもない。
 梨花が「ほらね」と言わんばかりにヒビキを見れば、ヒビキはくすくすと笑っていた。
「違う違う。響はそういう病気なんだってば」
「病気?」
「前に医者が言ってた。あいつは生まれつき、心と体の性別が一致してないんだって。響自身は女として生まれてきたつもりなのに、身体は男だったんだって。ごく稀にそういうことがあるらしいよ」
「心と体の性別が一致してない病気?」
 高藤が電話で言っていた、エリカの抱える病気のもう一つがそれなのかもしれない。もしヒビキの言うことが全て事実なら、そんな病気が本当にあるのなら、梨花は今までとんでもない勘違いをしていたことになる。
『……エリカは女の子なの?』
『そうだよ。だからエリカのこと男の子扱いしないでね。エリカは女の子なんだから』
 エリカは頑なに自分は女だとよく言っていた。だからてっきり梨花は、ヒビキこそが基本人格でエリカはなんらかの理由で後から生まれた人格なのだと思っていた。多重人格というところに重点を置いた考えならば誰だってそう思い込んでしまうだろう。
 なぜなら柊響という人物はいくら綺麗で中性的に見えても、性別は男だとはっきりしていたのだから。
「だったらそう言ってくれたら良かったのに、どうしてエリカは黙ってたんだろ……」
「言っても信じてくれないって思ってるんだ。響は人懐こいふりして人をあまり信じていないから」
「ヒビキはエリカのことならなんでも知ってるのね」
「俺も一応は響の半分だから、響のことは何でも知ってるよ。でもあっちは俺のことなんてほとんど何も知らないけどね」
「そうなの?」
「みんながみんな、相手の行動や内面を理解出来てるわけじゃないから」
 その辺りは個々の人格の能力や役割と関係しているのだろうかと、梨花は顎に手を添えて考える。
「ねぇ、ヒビキは普通の人格とは違って特別多くの力を持ってるって聞いたんだけど」
「高藤から?」
 まさかヒビキの口からその名が出るとは思わず、梨花は驚きに目を丸くする。
「高藤さんのこと知ってるの?」
「相手の行動や内面を理解出来るって、そういうことだよ。だから『何でも知ってる』って言ったの。響の行動は全部把握してるし、記憶も持ってる。あいつが嬉しかったり、悲しかったり、怒ったりした時は俺にも感情の揺れが伝わってくる。あくまで別々の人間だからその感情を共有することはないけど」
 常にないほど饒舌に話すヒビキに、梨花は「へぇ」と言わんばかりに聞き入ってしまった。
「だから響の知り合いは全員知ってる。俺はあいつら全員大嫌いだけど」
「どうして?」
「あいつらはみんな俺を消そうとしてるから。物珍しいからって善人面して近付いて来て、研究に必要な情報を引き出すだけ引き出して、そうすれば俺なんてもう用済み。誰も俺を信じないし、理解しようとはしなかった。みんな根底では響の味方だから」
 悲観することもなく淡々とヒビキは話す。
 高藤達とヒビキ。双方の視点からの話は少し食い違っていて、それが彼らの関係があまり良いものではないのかもしれないということを示唆していた。
「ヒビキに味方はいないの?」
「うーん……いるにはいるのかもしれないけど味方かって言われると……」
 煮え切らない言い方をしてヒビキが考えていると、場にそぐわない明るいメロディ音がリビングに鳴り響いた。
 梨花が視線を向けると、テーブルに置かれたヒビキの黒い携帯が鳴っている。ヒビキは手を伸ばして携帯を取ると、なおも鳴り続ける着信に応じた。
「もしもし。さっきはありがとう」
 ヒビキが抵抗なく人と言葉を交わすことが珍しく思えて、梨花は少し電話の相手が気になってしまう。
『いいのよ、可愛い可愛い弟の頼みだもの。それで、探していたお友達には会えたかしら?』
 部屋が静かだったことと携帯の音量が少し大きかったことも相まって、電話の相手の、どこか聞き覚えのある甘ったるい声が梨花の耳にも届いた。
 梨花がその声の正体に辿り付くよりも早く、ヒビキはこともなげに言う。
「会えたよ。まりやのおかげで仕返しもある程度出来た」
『もう、相変わらずやんちゃなんだから。でもあまり無理しちゃダメよ? あなたの綺麗な顔や身体に傷でもついたら私が悲しいもの』
「怪我なんてしてないから大丈夫だよ」
 優しく艶のある独特の声と、まりやという名前。
 梨花にとって、答えに行き着くにはそれだけで十分だった。思えば、高藤がヒビキの居場所を知っていたこともそうだが、ヒビキは悠人の居場所をどうやって知ったのだろう。悠人があんな危ない場所へヒビキを呼ぶなんてことは考えにくい。
 まさかと梨花が考えを張り巡らせている間にも、ヒビキと神崎の話は進んでいく。
『お友達にちゃんと会えたのなら良かったわ。それじゃあお姉ちゃんとの約束、忘れないでね?』
「うん、分かってる。明後日ちゃんと行くから」
『うふふっ、楽しみにしてるわね。それじゃあおやすみなさい。愛してるわ響君』
 蠱惑的なトーンで愛を囁く神崎に、自分が言われたわけでもないのに梨花はぞわりと鳥肌を立てた。反面、ヒビキは全く意に介せず「おやすみ」と言って何事もなかったかのように通話を切った。
「りっちゃんどうしたの?」
「いや、どうしたのじゃないでしょ! 今の神崎先輩だよね!? なんで電話で普通に会話してるの!? っていうか『弟』って、『お姉ちゃん』ってなに!? いや勝手に会話を聞いちゃったのは申し訳ないと思ってはいるんだけど、でもどういうこと!?」
 血走った目でじりじりと詰め寄る梨花に対して、ヒビキは困った様子もなく一つずつ説明する。
「まりやは響の義理のお姉さん。俺は家族とかよく分からないし正直まりやは苦手だから距離を置きたいんだけど、まりやは響よりも俺の方が好きみたいで何かと世話を焼きたがるんだ。今回の悠人の件はファンクラブ絡みだったからまりやに聞いた方が早いと思って電話で協力してもらっただけ。……とは言っても、今回の件は多分まりやも関わってると思うんだけど」
「じゃあなに……悠人が大怪我をしたのはファンクラブのせいってこと?」
「ファンクラブのせいっていうか、大方は響と桐沢のせい」
「エリカと桐沢先輩の?」
「放課後に響と桐沢が揉めたんだ。響にとって桐沢は初めて出来た友達だったんだけど、色々あって絶交しちゃって。でも桐沢は響のことがずっと好きで忘れられなかったみたいで、隙を見て響に言い寄ったんだ。それを悠人が見つけて桐沢を追い払ったのはいいんだけど、それがかえって桐沢を怒らせたみたいだ」
 スラスラと淀みなくヒビキの口から出る内容の情報量が多すぎて、梨花の頭の中は整理が追いつかない。今日一日で色々なことを知った梨花の頭はもうパンク寸前だった。
「ちょっと待って、桐沢先輩はヒビキの事が好きなんじゃなくて、エリカのことが好きってこと? 桐沢先輩はエリカのことを知っていたの?」
「うん。桐沢はパッと見ただけで俺と響の判別がつくみたいだよ。気持ち悪いやつなんだ」
「いや普通にすごいわよ……。でもいくら悠人に邪魔されたからってあんな大勢でリンチしたりするもんなの……?」
「響はずっと前から悠人のことが好きだったから。桐沢もそれを知っていたから尚更邪魔した悠人が許せなかったんじゃないかな」
「はい!!?」
 ヒビキの口から出た爆弾発言に梨花は声を上げ、ヒビキの両肩を掴んだ。
「エリカの好きな人って悠人だったの!?」



 意識が覚醒するのはいつも突然だ。
 それはまるで眠りから覚める時と似た感覚。けれど眠気というものはないし、意識も混濁しておらずハッキリとしている。
 鮮明な視界に映し出されたのは見慣れた光景、見慣れた場所。目の前にあるスポットライトのような光のサークル──エリカはそれを『スポット』と呼んでいる──から少し外れた位置に置かれた椅子に、エリカは腰掛けていた。
 スポットの外にいる時は意識と身体を支配することは出来ない。外の世界で自由に動き回るための支配権を持つにはスポットの中にいなければならない。そしてスポットには一名しか入れない。比較的単純明快なこの内面世界のルールだ。
 そして現在、スポットにはエリカと酷似した容姿の少年・ヒビキが立っていた。ヒビキは瞑想するように瞳を閉じている。ヒビキがスポットの中にいるということは、今現在外の世界で意識と身体を支配しているのは彼だ。
「最悪……」
 エリカは思わず舌打ちしてしまう。そう不快を示したのも束の間、違和感を覚えた。
 常ならばスポットの中にいなくても外の世界の状況というのはある程度把握出来る。内面世界で自分の意識がある状態であれば、テレビ映像のように脳内に流れ込んで来るはずなのだ。
 けれど今はいつもと違った。外の世界の様子が何も見えてこない。
「あっちの方が力が上ってこと?」
 内面世界で強い支配力を持っている人格は、外の世界に出ている時に外での出来事を内面から意図的に見えないように出来る。けれど以前内面世界でヒビキと会った時、彼はいつ消えてもおかしくないほど支配力が弱まっていたはずだ。この短期間にどうやって力を取り戻したというのだろう。
 いや、兆候はあった。エリカは思い出す。
 放課後に桐沢と揉めていた時、頭の中で声がした。その後に感じた、強制的に意識が沈められそうになる感覚。その時の感覚を鮮明に思い出して、怖くなったエリカは両腕をさすった。
 そうこう考えながらエリカがスポットを睨んでいると、ヒビキがスッと静かに瞳を開いた。その瞳はまるで全てを見透かしているように静かだ。
 ヒビキはクスリと口角を緩める。
「こんにちは、響」
 以前会った時のような弱々しさなんて微塵も感じられないほど、別人のようにヒビキは微笑んでみせた。そして、さりげなくエリカのことを「響」と呼んできたヒビキに、エリカは眦を決する。
 響。それはエリカの名前だった。エリカの両親が付けてくれた大事なものだ。
 そんな大事な名前を、更には“柊響”としての人権を奪っておきながら、今更いらなくなったから返すとでも言うのだろうか。エリカは怒りに手を震わせる。
 ヒビキはスポットから出ると、そばに置かれたアンティークチェアへと腰掛けた。黒い革張りの豪奢なそれは、まるで玉座のような圧倒的な存在感と圧迫感があった。
 スポットを挟んでお互い向き合うような形になると、嫌でも視線が交わってしまう。ヒビキは流れるような仕草で足を組み、肘掛に肘をついた。
「情報が何も入らなかっただろうから教えてあげるけど、今は夜中の2時だよ。出掛けるなら好きにしてもいいけど、りっちゃんに迷惑をかけない程度にしてね」
「……私に何したの?」
 恐る恐るエリカが尋ねると、ヒビキは意味深にうっすら笑う。
「別に何も。俺はただ思い出しただけだよ。『約束』を」
「約束……?」
「アイリーン、仁菜、真麻、圭、ナギ、みんなとの約束」
 ヒビキの口から飛び出した見知らぬ名前に、エリカの頭を嫌な考えが浮かんだ。それらの者達が一体なんなのか、エリカはすぐに大方の予想がついたが認めたくなかった。
 エリカが驚愕に目を見張ったまま絶句しているこどなど気にも留めず、ヒビキは話し出す。
「俺達は響のことなら何でも知ってるよ。だって俺達はお前自身だから。こうして別の人間として姿形を持っていても、元々は響の中にあった一部分だから」
「違う!! 私はあなたなんて知らない!!」
「そう言うと思った。響は俺達のことは何も知らない。知らないならば認めないし、認めていないのなら理解しようとしない」
「む、無理なこと言わないでよ……私のこと何年も閉じ込めておいて、挙げ句の果てに私の名前まで奪ったあなたのことを、どうして認めなきゃいけないのよ。理解なんてしたくもないっ」
「名前は別に奪ってないよ。ただ周りが勝手に俺のことを『柊響』だと認識しただけ。響の両親は特に」
「うるさいッ!!!」
 ついカッとなってヒステリックに叫んでしまうくらい、耳障りな言葉を吐かれた。
 取り乱すエリカを嘲笑うこともなく、ヒビキはただ無表情で椅子に腰掛けている。「やっぱり何も変わってない」と、そう小声で言われた気がした。
「あなたが私のパパとママを奪ったんじゃない!!」
「俺は奪ってないし、あの二人を親だと思ったことなんてない。俺には家族なんて感覚よく分からないし。でも、そうやって人のせいにしていれば楽になれるのなら今はそれでもいいよ。元より響は悪くないし全ての元凶はあの親だから」
「違う! パパもママも悪くない!! 全部、全部あなたのせいだもん……!」
 言い返せば返すほど、エリカの頭を嫌な思い出がよみがえる。ある程度は克服出来たと思っていたのに、ヒビキから強制的に記憶を引きずり出されるような言動をされると駄目だった。なぜこんな古傷を抉られるような真似をされなきゃいけないのだと、胸がズキズキと痛む中でエリカは思う。
 視界がぐにゃりと歪んで、苦しくて泣いてしまいそうになった。
 ヒビキはエリカの反応にほんの少し目を丸くして、そのあと少し考えるように口元に手を添えた。
「あんな仕打ちを受けといてなんであいつらのことを庇うの?」
「家族ってものが分からないあなたにはこの気持ちなんて分からない……」
 そう返すとヒビキは困ったように「それもそうだね」と言って曖昧な笑みを零した。
「大体、あなたがママを殺したんじゃない! 梨花ちゃんだって、私の方が先に梨花ちゃんと友達になったのに、あなたが奪ったんじゃない。あなたがいるせいで、悠人君は私には気付いてくれない……」
「そんなだから桐沢なんかにつけ込まれるんだ。悠人がアイツからどんな目に遭わされたのかも知らないで」
「!? 悠人君に何があったの!?」
 ヒビキの不穏な物言いに取り乱したエリカは、ガタッと椅子から立ち上がる。
「昔遭ったストーカーの時といい桐沢の時といい、頭は良いのになんでもっと上手く立ち回れない? 今回だって、桐沢との関係をいつまでもなあなあにしていたからあんなことになったんだろ」
「あ、あんなこと……?」
「これなら俺の方が響よりも上手く立ち回れるよ」
 一体悠人の身に何があったというのか。確かに今日の桐沢の様子を見る限り、エリカのことを諦めた様子など微塵も感じられなかった。でも、いくら悠人に邪魔されたからとはいえその日のうちに行動を起こすなんて思ってもみなかった。
 ヒビキの話を聞く限りとても良くないことが起こったようで、エリカは真っ青になった顔を両手で覆う。
「悠人は無事だから安心しなよ。俺は大切なものは全力で守るから。響みたいにヌルい真似はしないし、過ちはもう繰り返さない。俺は二人がいてくれれば他には何もいらない。りっちゃんと悠人が大好きだからずっと一緒にいたいんだ」
「嫌よ! あなたが何を言ったってこの身体は渡さない!!」
「でも、俺が外に出てた方が病気なんてあってないようなものになるのに?」
 病気のことに触れられ、エリカは言葉を詰まらせた。
 性同一性障害と解離性同一性障害。
 それぞれを患う人はいても、二つを同時に患うのはかなり稀なケースだとエリカは主治医から言われた。長い時間を必要とするけれど、治る見込みはちゃんとある、とも。
 でもそんな扱いの難しい病気ですら、ヒビキにとってはほぼ無いに等しいものとなる。
 圧倒的な支配力を持つヒビキであれば、他の人格を内面世界に閉じ込めてしまえる。一時的だが人格を眠らせることすら可能だった。そうなれば解離性同一性障害なんてまず発覚しないし、元より心も体も男としての性別が確立しているヒビキは性同一性障害ではない。
(それに引き替え私は……)
 心も体も未熟で、自分の身体なのに自分の思うように出来ない。大切な人も守れない。
 もどかしさにエリカは涙を滲ませた。
「あなたはズルイよ……私の欲しいものをなんでも持ってる……。私だって梨花ちゃんや悠人君と仲良くなりたいよ……パパにだって会いたいのに……!」
「ずるいもなにも、俺達を生んだのは響だよ」
「知らない!! 私はあなた達なんて知らないっ!! 私は誰の助けもいらない、一人で何でも出来るのっ。あなた達なんてもういらないの!! 消えてっ、今すぐ消えてよ!!」
 癇癪を起こしたように激高して叫ぶと、ヒビキの纏っていた温度がスッと冷えたものへと変わる。その静かな怒りの感覚はエリカにも伝わってきた。
「分かった。それじゃあ今後、何があっても俺は響を助けたりしないし後処理には応じない。自分で蒔いた種は全部自分でなんとかしなよ。『普通の人』はみんなそうしているんだから」
 今までになく煽るようなヒビキの言葉にエリカはカッとなって言い返す。
「言われなくてもそうするつもりよ!」
 思えば今まで、何かめんどくさいことや嫌なことがあれば「あっちに任せてしまおう」とヒビキに身体を委ねることが幾度もあった。自分以外の人格なんて知らない認めないと言っておきながら、行動が矛盾していた自分に気付く。
 ヒビキの言うように、普通の人はそんなこと出来ないのだ。自分の問題は自分でなんとかしているし、そうするしかないのだ。
(大丈夫、ちゃんと一人で出来るもん……)
 押し寄せる不安を振り払うように、エリカはキュッと胸の上で両手を握りしめる。そんなエリカの心許ない様子を見ながら、「少し言い過ぎたかな」とヒビキは自分で言っておきながら心配になった。
「……すごく動揺してるみたいだけど、大丈夫? 不安なら撤回してあげなくもないけど……」
「だっ、大丈夫よ!! 人の感情を読まないでくれる!?」
「嫌でも流れ込んでくるんだからしょうがないよ」
 一つの身体を共有しているのだから相手の感情の機微が伝わってしまうのは致し方ないことで、ヒビキにとっても不可抗力である。
 恥ずかしさから顔を真っ赤にして怒ったエリカにヒビキは苦笑するしかなかった。
「ああ、そうだ。一つ言い忘れてた。もしも響の不手際でりっちゃんや悠人になにかあったら、俺は本気でこの身体を乗っ取るからそのつもりでいてね」
「なっ……!」
 話はそれだけだと、ヒビキは満足げに微笑み椅子から立ち上がる。エリカの返事も待たずに身を翻すと、彼は闇の中へと消えていってしまった。
「この悪魔……」
 エリカはそんなヒビキの後ろ姿を睨み付けながら独りごちた。