第1話 ウェルカムバック


『りっちゃん。僕ね、りっちゃんのこと大好きだよ』
 硝子が割れるような音と共に、急激に身体が冷えていくのが分かった。
 心が粉々になるというのは、きっとこの時みたいな感覚を言うのかもしれない。まだ幼かったこの頃の自分でさえも、この時の胸の苦しさが何を意味するのか理解出来た。
 小学生だった頃、梨花は大好きだった男の子・響に裏切られた。
「響君、やっぱりやめようよ。こんなことよくないよ」
「どうして? ゆかりちゃんは僕のこと嫌いなの?」
「嫌いじゃないけど……」
 部屋の中から響と、クラスメイトのゆかりの声がして梨花は思わず息を詰めた。
 僅かに開いていたドアから中の様子をそっと覗いてみると、響とゆかりは向き合ってキスをしていた。聞こえてくる声からなんとなく察してはいたものの、実際見てしまうと衝撃は大きい。
 飄々としている響とはうってかわって、ゆかりは不安げな面持ちで響を見た。
「響君は梨花ちゃんのことが好きなんじゃなかったの? 二人ともいつも一緒でしょ?」
 ゆかりの言うように、梨花と響はいつも一緒だった。何をするにも一緒で、今日だって響と一緒に遊ぶ約束をしていたから梨花は学校が終わってすぐにここ──響の家──へ来たのだ。
 それなのに、どうして響はゆかりと一緒にいて、あまつさえはキスをしているのだろうか。疑問を頭の中に浮かべていた梨花だったが、答えは残酷なほどあっさりと響の口から零れ落ちた。
「僕はりっちゃんなんて嫌いだよ」
「そうなの?」
「うん。あんな子大嫌い、全然好きなんかじゃないよ」
 それを聞いた梨花の瞳からはボロボロと涙が出ていた。
 響は梨花のことをいつも「好き」と言ってくれていたのに、それが全部嘘だったのだ。
 同学年の男の子との喧嘩で叩かれても文句を言われても泣かなかった負けん気の強い梨花だったが、大好きな響から気持ちを否定されては一溜まりもない程度にはまだ幼かった。
「……ふっ、うぅ……ッ」
 いくら手で拭っても涙は止まらない。ボタボタと零れていく涙が口に入って少ししょっぱい味がした。ここまで泣いたのは久しぶりだったせいか、溢れてくる涙を止める術を梨花は知らなかった。
 気付けば梨花はドアを思い切り開いて、中にいる響に向かって叫んでいた。
「響君のうそつき!! きらい、きらいっ、響君なんて大嫌い!」
 梨花は大声でそう言い捨てると、走って響の家を飛び出した。
 これが、梨花の最悪な初恋の終わりだった。



『──○○航空よりお知らせいたします。ニューヨーク、ジョン・F・ケネディ国際空港行き47便はまもなく飛行機内へのご案内を開始いたします。今しばらく、ロビー内にてお待ちください。なお、ご搭乗の際にパスポートの──』
 搭乗案内をしている空港のアナウンスが耳に入る。
 遠目から見ても目立つようなディープピンクの大きなキャリーケースを引いて、橘梨花(たちばな りか)は手に持っていたもう一つのバッグから携帯を取り出した。
「あ、ママ? 梨花だけど。今着いたよ。そっちほどじゃないけど、こっちも随分と暑いみたい」
 ゴロゴロとキャリーケースを引く音と一緒に、パンプスのヒールがカツカツと軽快な音を立てる。空港一階の広いロビーは大勢の人が行き交い賑やかだ。
 その人波を縫うように歩いていた梨花は、携帯から聞こえてくる母の声に耳をすませた。
「10時間以上も飛行機の中なんだもん、流石にちょっと疲れちゃった。うん、大丈夫心配ないから。これからマンション行ってゆっくり休むね。色々ありがとねママ、パパにもよろしく伝えといて。それじゃあおやすみ」
 用件のみを伝えて通話を切った梨花は、携帯をバッグへ戻して淀みなく歩く。
 海外での生活が長かったせいか、久しぶりに日本へ帰ってくると違和感が拭えない。
 日本には七年ぶりの帰国で、ここに住んでいたのは梨花が小学四年生──まだ10歳だった頃だ。七年というのは時間にすれば長いけれど実際に過ごしているとあっという間だった。
 重たいキャリーケースを引いて空港の外へ出ると、雲一つない青々とした空が広がっていた。住んでいたところは違えど、こうして見る空はどこも一緒で変わりない。
「あっついなぁ……」
 梨花はかけていたサングラスを手で少し持ち上げ、照りつける日差しに目を細める。
 この日のために両親が用意してくれたマンションへ早く移動しようと、梨花は側に止まっていたタクシーへ乗り込むことにした。
 梨花は七年間アメリカで暮らしていた。
 というのも、父の務めていた会社が本格的に海外へ進出することとなったからだ。突然父の転勤が決まり、あれよこれよという間に母に連れられて10歳の時に梨花はアメリカへ渡った。長い海外暮らしだったためにすっかりアメリカでの生活に慣れてしまっていたのだが、17歳になって将来のことを漠然と考えていた梨花の頭に過ぎったのは、自分が生まれ育った日本での思い出だった。
 海外での暮らしに不満があったわけではない。梨花は生まれつき自己主張が強くハキハキした性格で、物覚えも良かったため友達もすぐに出来たし、多少大変なことはあったけどその分楽しいことも多かった。
 けれど、ここを自分の一生の居場所にしたいかと問われれば答えは「ノー」だった。
 思い立ったが吉日、梨花は「行きたい大学があるから日本へ帰ろうと思う」と両親に話をつけ、こうして一人だけ日本へ戻ってきたのである。これから通う高校もすでに決めてあって、編入試験はパス。梨花が通うのは二週間後で、制服を着られることを思うとすごくワクワクした。
 あとはマンションへ行って部屋の整理をするだけだ。時間に余裕があれば周辺の散策もしたいところである。
(それにしても、この辺に住んでたのに全然覚えてないなぁ……)
 颯爽と都市高速を走り抜けるタクシーから見える景色は、どれも梨花の知らないものばかりだった。七年も離れていればそうなってしまうのも無理はないのだろうが、ほんの少し寂しいと思ってしまう。
 引っ越し先のマンションは梨花が10歳の頃まで住んでいた町にある。
 どうせなら馴染みのある場所がいいだろうと、親が気を利かせてわざわざ探してくれたのだ。梨花自身も昔の友達に会いたいと思っていたから喜んでそれに同意したはいいが、昔の友達とは一切連絡をとっていなかったから忘れられている可能性が高い。小学生の頃の連絡手段なんて電話か手紙しかなかったのだから、疎遠になってしまう方が普通である。
 でもそのうち、ふとした拍子に会えたら嬉しいなと呑気なことを考え、梨花の口元から自然と笑みが零れた。
 けれど、ふいにスッと気持ちが冷める。
 昔の友達には会いたいけれど、そんな中でもただ一人だけ例外がいた。
 梨花にとって、絶対に会いたくない男の子。昔、梨花の事を「大嫌い」と言った響にだけは。



 送られてきた荷物の整理と必要なものの買い出し、その他諸々の手続きなどをしていたら二週間などあっという間に過ぎていった。
 今日は梨花が待ちに待った学校への登校日だ。
 校内へ入った梨花は、偶然通りかかった先生に案内されるがままに理事長室へ連れて来られた。そのまま来客用のソファへ座るように促され腰掛けると、ふわりと身が沈みなんともいえない心地よさが伝わる。
 テーブルを挟んで反対側には理事長らしき壮年の男性が腰掛け、梨花に向かって穏やかに微笑んだ。
「橘梨花さんだね。我が校へようこそ。君のことはご両親から聞いているよ。なんでも、向こうの学校ではとても優秀だったとか」
「!? イイエとんでもないです……」
「橘さんの存在が、我が校の生徒達へ良い刺激になってくれるといいんだが」
「はぁ……」
 一体自分の親は何を言っているのかと梨花は内心焦った。
 梨花自身、頭は決して悪い方ではないし向こうの学校での成績も良い方だったが、理事長からそんなことを言われるほど優秀かと聞かれれば否である。身内贔屓なんてもってのほかだ。
(パパとママってば……後で電話して文句言ってやらなきゃ……)
 梨花が固い決意を秘めていた丁度その時、ドアのノック音と共に「失礼します」という控えめな声と共に女性が入ってくる。
「この人は鈴木早苗先生。橘さんのクラスの担任だよ」
 理事長がソファから立ち上がって簡単な紹介をすると、鈴木先生は梨花にペコリとお辞儀をする。梨花も慌てて立ち上がりお辞儀をすると、鈴木先生はクスッと控えめに笑っていた。
「橘梨花さんね。初めまして、鈴木早苗です。梨花さんが今日から編入する2年S組の担任をしてます。よろしくね」
「こちらこそよろしくお願いします」
 おっとりとした優しそうな先生で梨花はそっと安心する。鈴木先生はそれほど若い方でもなく変に着飾った感じもない。落ち着いた色合いの服を纏っていて好印象だ。
 鈴木先生に連れられて理事長室を出ると、向かうはまだ見ぬ教室ということで梨花の緊張が高まった。なにせ五月という中途半端な時期の編入なのだ。今まで人付き合いで苦労したことはないから大丈夫だとは思うけれど、やはり編入初日というのは緊張してしまう。
 さほど時間の経たないうちに教室へ着くと、鈴木先生は梨花に「ちょっとここで待っててね」と言って教室へ入っていった。
 教室の中はまだざわついていて、鈴木先生が出席簿を軽く叩く音がする。
「はいみんな静かにしてね、朝のHRを始めます」
 教壇に立った鈴木先生はみんなを静めると、廊下で待機していた梨花へ手招きをする。鈴木先生の相変わらずの微笑みに少し緊張が解けて、梨花は教室へと足を踏み入れた。
「まずは今日からみんなと一緒にこの学校で勉強することになった編入生を紹介するわね。それじゃあ橘さん、みんなに自己紹介してもらっていいかしら?」
「はい」
 この瞬間ほど緊張するものはない。
 クラス中の視線が全部自分に当たっているような気がして恥ずかしくなってくる。でも第一印象はとても大事である。出来るだけ良い印象を持ってもらおうと梨花はまっすぐに前を見た。
「橘梨花と言います。七年くらい海外で暮らしていて、この間帰ってきたばかりなのでまだ慣れないことが多いです。なので、色々教えてくれると嬉しいです。よろしくお願いします」
 手短にまとめて最後はニコリと微笑み、頭を下げる。割と良い感じだと梨花は自分でも思った。
 だが、そのまま顔を上げてクラスを見据えた時に“それ”は梨花の視界に飛び込んで来た。
 否、惹き付けられたのだ。そのあまりの異質さに。
(うわ……)
 クラスの中でただ一人、異様なほど他とは違った雰囲気を醸し出している男の子がいた。
 色素の抜けた薄茶色の髪の毛に白い肌。顔は教室の窓の方へ向けられていて、その瞳はだるそうに少し伏せられている。そんな物憂い様子が彼の異質な綺麗さを更に際立たせているようだった。
(ものすごい美少年……)
 うっかり梨花が魅入ってしまっていると、彼は窓から教壇へと視線を戻した。
 そして鈴木先生の横に立っていた梨花に気付きお互いの目が合った瞬間、彼の大きな瞳が驚きによってますます大きく見開かれた。
「りっちゃん!!」
 次の瞬間、彼はそう叫んでガタッと席から立ち上がっていた。
 それに対してクラスが異常なほどざわめいた。
 クラスの全員が、梨花と、その綺麗な男の子を交互に見て、それぞれ驚きの表情を刻んでいた。もちろん梨花も驚いていたが、その内容は周りとは全く異なっていた。
 “りっちゃん”
 梨花のことをそう呼んでいたのは過去にたった一人だけだ。
『りっちゃん。僕ね、りっちゃんのこと大好きだよ』
 柊響(ひいらぎ きょう)。梨花が昔大好きだった幼馴染の男の子。
 昔から女の子顔負けの綺麗な顔立ちをしていたけれど、数年経った今はさらにその美貌に磨きがかかったように見えた。異常なほど綺麗な男の子。
 響は、数年経っても変わらないあどけない微笑みを見せて梨花の名前を呼んだ。



「橘さんって背高いよねー、それに足すっごく長くない?」
「私も思った、橘さんスタイルいいよね。教室入ってきた時ビックリしたよ」
「C組の三瀬さんより絶対綺麗だよねー」
 朝のHRが終わった途端に梨花の席の周りには女の子が集まって、口々に色々な事を聞かれた。
 梨花の第一印象は見た目に大分助けられたものの、編入初日にしては好印象のようで安心する。とりあえずは、友達がいないなんて心配はしなくてもよさそうだと、梨花は内心ホッと胸を撫で下ろしていた。
「ねぇ、橘さんってモデルとかやってたりする?」
「私が? やってないよ」
 とんでもないことを聞かれたのですぐに否定すると、周りの子達は「えー」と意外そうな面持ちで声を上げる。
「橘さん美人なのに勿体なーい。雑誌に載ってても全然違和感ないのに」
「っていうか、下手したら芸能科にいるモデルの子より綺麗だよね」
「髪の毛も超サラサラでふわふわ……! 羨ましい〜」
 ここまで色々聞かれる経験が今までなかったせいか、正直慣れなくてむず痒い。
 アメリカのハイスクールではまず言葉が通じなかったから話しかけられることがなかった。転校初日、梨花に近づいてくる子なんてただの一人もいなかったのだ。でも言葉が通じるところではこうも違う。それがたまらなく嬉しくて「日本に帰ってきたんだなぁ」と梨花に実感させた。
 ついでに言うと、自身の容姿を人から褒められたこともあまり無かったため、ここまで色々言われるとさすがに照れくさい。
「あの、橘さんって……柊君とはどういう関係?」
 一人の女の子がとても言いにくそうな様子で尋ねてきた。絶対聞かれると覚悟していただけに、そのピンポイントな質問には思い切り苦笑いを浮かべてしまう。
「えっと……幼馴染だよ。アメリカに引っ越す前、私この辺に住んでて、その時によく遊んでたの。それがどうかした?」
 梨花が聞き返すと周りの雰囲気が重くなったような気がした。梨花を取り囲んでいた子達は「ねぇ?」とお互いの顔を見合わせて複雑な笑みを浮かべている。
「だって柊君があんな嬉しそうな声上げたの私初めて見たんだもん、ビックリしちゃって」
「柊君って誰が話しかけてもほとんど無視するし、大人しいから」
「無口なんだよね。それに笑ったりも全然しないし」
「いつもやる気がなくて、何をするにもつまらなそうな感じだよねー。授業だって出ない時があるし」
 とりあえず、無茶苦茶な人なんだということは梨花にもよく伝わった。
 でも昔、まだ仲が良かったころは全然そんなことなかったのにと梨花は不思議に思う。あまりの評判の悪さに前方にある響の席を見てみるが、話とは裏腹に彼の周りには六、七人ほど人が集まっている。集まりすぎてて響の姿が見えないほどで、評判の割に嫌われてはいないんだと梨花は首を傾げた。
「でも周りに沢山人いるよね。嫌われてないの?」
 尋ねると周りの子達は可笑しそうに笑い出した。
「柊君が嫌われるわけないよー。だって柊君はこの学校の王子様みたいなものだから」
「……おうじさま?」
 彼女たちの思いがけない台詞に梨花は目が点になった。誇張などではなく本当に。
「あんな綺麗な男の子ってそうそういないから、すっごく人気があるの。校内でもファンクラブがあったりしてすごいんだよ」
「ファンクラブ……?」
「本人はそういうの全然興味ないみたいだけどね。柊君の周りにいる人達はみんなファンクラブの子で、なんていうか……取り巻きみたいなもん? いっつもああなの」
「なんか、誰に対しても無関心なところがまた良いんだって」
 王子様、ファンクラブ、取り巻き。
 今まで自分に縁のなかった言葉が飛び交って梨花は唖然とした。
 確かに響は昔から綺麗な子だったが、小学生の時はそれが原因で男の子から「女顔」や「オカマ」と言われていじめられていた。毎日のようにクラスメイトからからかわれ、泣かされていた響を梨花がいつも助けていたのだ。それを考えると随分な出世だと梨花は頬杖をついた。
(あんな泣き虫だったくせに、すっかり大物になっちゃって)
 けれど今の響のポジションは梨花にとってはありがたい。一緒の学校、一緒のクラスになってしまいどうしようかと考えていたが、これならば関わることもなさそうだ。普段からあんな取り巻き達がいるのなら、梨花に話しかけたりしてくることもないだろう。
 一緒のクラスになったからといって響と仲良くするつもりはおろか、話すつもりも毛頭なかった。いくら子供の頃のマセた恋愛ごっことはいえ、やっぱりあの男は過去に梨花を振った酷い男なのだ。
(七年前のあのこと、忘れたなんて言わせないんだから……)
 響の席を軽く睨んでいた梨花だったが、ふいにガタッという音が聞こえて響が席から立ち上がった。
 取り巻きの中から出てきた響は一直線に梨花の席へ向かってくる。なんだか嫌な予感がして梨花はこの場から離れたくなった。
(こっちに来てるし……)
 梨花の席の前で響が足を止める。突然の出来事に、梨花の周りにいた子達はいっせいに梨花の背後へと回った。響が「どいて」と言ったわけでもないのに、その迅速すぎる行動に梨花が驚いてしまった。響の後ろには彼の取り巻きの子達もいて、まるで響が引き連れてきたかのような奇妙な光景だ。
 教室はしんと水を打ったように静まりかえった。
「何か用?」
 沈黙に耐えかねた梨花が尋ねると、パッチリとした響の大きな瞳が不安に揺れる。言いたいことがあるならハッキリ言えばいいのにと梨花は焦れた。
「だから、何なの?」
「ちょっと話があるから……来て欲しい」
「もう授業始まっちゃうよ。ここじゃ駄目なの?」
「……だめ」
 七年前にあんなことをしておきながら今更何を話すことがあるのだろうと梨花は苛立ちを募らせる。けれど響があまりに思い詰めた顔をしていたため、このまま断るのも不憫かと思い梨花は彼の話に付き合うことにした。
 何か気に障ることを言われたら言い返してやればいいのだ。そう思った梨花が黙って席から立ち上がると、響が梨花の手を掴んで歩き出す。その響の行動に教室がざわめいて、それがうるさいくらいに梨花の耳に入って鬱陶しかった。
 響に手を引かれるがままに歩いていくと、連れてこられたのは屋上だった。屋上の扉は開いていて、出た途端目が眩むほどの強い日差しに出迎えられて梨花は視線を落とした。
「で、話ってなに? 手短にお願いね」
 日に焼けないようにと、給水タンクの日陰に入って響へ話しかける。一方、響は日陰に入ろうとはせず、日に照らされたまま梨花の前に立っていた。
 自分達以外誰もいない屋上は、たまに鳥の鳴き声が聞こえてくるだけであとは無音だった。お互い黙ったまま重苦しい雰囲気が漂う。
 梨花をここへ連れてきた当の本人は、なにか言いにくそうな様子だったものの重々しく口を開いた。
「七年前……」
 やっと話し出したかと梨花は心中で息を吐く。
 さっき教室で話した時にも思ったが、声変わりしてないんじゃないのかと思うくらい響の声は高い。けれど聞いていて不快ではなく、認めたくなかったが良い声で梨花の好みだった。
「七年前、りっちゃんなんで急に引っ越したの?」
「言おうと思ってたよ。でもその前に響君と私が別れたからじゃない? なんで別れた相手にいちいちそんなこと言わないといけないの」
 疑問をあっさり返すと、それを聞いた響は驚きに目を見張った。
「別れた……!?」
「そうよ」
「どうして……?」
 心底意味が分からないと言うような響の様子に、梨花の中で怒りがふつふつと湧き上がってくる。
 響は梨花の言ったことが理解出来ないようで、当然その顔は納得などしていなかった。だが梨花の方も、響がどうしてそんな風に疑問に思うのかが分からなかった。七年前、梨花を振ったのは他の誰でもない響なのに。
「なんでって、七年前にそう仕向けたのは響君の方だよね? わざわざあんな小細工まで準備してご苦労様。私のこと好きじゃないのならはっきりそう言えばよかったのに」
 身内で湧き上がる怒りを抑えながら梨花は強く言い放つ。昔から気の強い方ではなかった響は梨花の言葉に驚いて、動揺を隠せないまま困惑していた。
「仕向けた? 小細工? ちょっと待ってよ、話についていけない」
「ついてこなくていーよ、私達もう終わったんだから。どうでもいいことだし」
「よくない! だって俺りっちゃんのこと好きで、帰ってくるのずっと待ってたのに!」
「私達はもう別れたの! とっくの昔に! だからもういいの!」
「いやだ、俺は別れたくない!」
 梨花がいくら言っても響は納得などしなかった。駄々を捏ねるように首を振り、頑なに梨花とは真逆の気持ちを言ってくる。梨花を見つめる響は悲痛に顔を歪めていて、それを見ているとまるでこちらがいじめているかのような罪悪感が湧く。
「七年間、りっちゃんのことずっと待ってた。いつか帰って来てくれるって……なのに……」
 俯いて、悲しさともどかしさが入り交じったような弱々しい声で響は言う。
 だがそんな彼の様子すら梨花にとっては腹立たしい。七年前のことを勝手に無かったことにしておきながら、梨花の言い分に傷付いた顔をする。
 七年前のあの時、梨花がどんな気持ちだったかなんて響は覚えていないというのに。
「知らないよそんなこと。興味ないし、だからなんなの? ようやく会えたと思ったらとっくの昔に別れたことになっててショックって言いたいの? それなら、七年前に私にしたことをすっかり忘れてる響君はなんなのよ。私があの時どんな気持ちで響君と別れたのか、そんなことも覚えてないんだよね? そっちの方がよっぽど酷いと思うんだけど」
「だって本当に何も知らないから!」
「だからもういいって言ってるでしょ!?」
 何を言っても認めようとしない響にさらに苛立ちが募り、梨花はカッとなって荒々しく言い放った。
「所詮響君にとってあれはその程度のものだったのよね。だったら『知らない』んじゃなくて『忘れた』って素直に言えばいいのよ!」
「忘れてるんじゃない、本当に知らないんだ!!」
 梨花が声を荒げると、響も同じくらい必死で声を上げた。
「本当に、何も知らないんだよ……分かってよ」
 お願いだからと、心の底から振り絞ったような声で響は言う。
 悄然とした面持ちで佇む彼は、今にも泣いてしまうんじゃないかというほど悲しみに染まっていた。
(どうしてそんな顔するのよ。じゃあ七年前のあれはなんだったの)
 お互い理解し合えないもどかしさから、苦渋に満ちた顔をしてしまう。
 その後しばらく黙ったまま、空を流れていく雲のように時間も流れていく。
(もうこれ以上話しても無駄みたい……)
 話してもお互い話がかみ合わないまま、先ほどのやりとりをずっと繰り返すことになりそうだ。そう思った梨花は一つ息を吐き、教室へ戻ろうと踵を返した。
「りっちゃん……?」
「私教室に戻るから。もう響君と話すことなんて何もないし、そっちが何を言ったって、もう全部終わったことなんだよ。七年前に全部」
「でもっ」
「大体さ、七年間連絡もとってなかったし会いもしなかったんだよ。『いつか帰ってきてくれる』なんて普通思わないし、諦めるよ」
 響は何か言いたげに口を開いたが、すぐにそれを呑み込むように口を噤んだ。その顔は相変わらず沈んだままだ。そんな表情でも綺麗に見えるのは小さい頃から変わらないんだなと、梨花は頭の片隅で思う。
「それじゃあ、私もう行くから」
「……分かった。ごめんね、急にこんなとこに連れてきて。──あっ。りっちゃん」
 屋上のドアノブに手を掛けようとしたところを響が呼び止めた。
 まだ何かあるのかと、思わず溜め息まで出そうになるのを堪えて梨花は振り返る。そんな気持ちが大分顔に出ていたのか、響は申し訳なさそうに「ごめん」と小さく謝って言った。
「言うの忘れてた……。りっちゃん、おかえり」
 響は笑ったりなんて全然しないと、クラスの子達が言っていたことを思い出す。
 でも今響は、言葉も失くすくらい美しい笑みを惜しげもなく梨花へ見せていた。先程までの悲しみすら隠すような、完璧な微笑みを。



 響と話をしたこと以外これといって何も起こらずに時間は過ぎて、あっという間に昼休みになった。
「橘さん、一緒にご飯食べよ」
「あっ、私も一緒していい?」
 クラスの女の子の誘いに梨花は喜んで頷く。クラスの人達は優しくて、編入初日で分からないことだらけの梨花を色々と気にかけてくれてとてもありがたい存在だった。
 早起きして作ったお弁当を取り出していると、ふいに教室を出て行く響の姿が目に入った。そんな響のあとを取り巻き達が慌てた様子で追いかけて行く。あの人達は一体どこまで響についていくつもりなんだと、呆れた梨花はほんの少しだけ彼を不憫に思ってしまう。
「ねぇ橘さん」
「私のことは『梨花』でいいよ」
 そう言うと彼女は恥ずかしげに頬を染め「じゃあ、梨花ちゃん」と可愛らしい声で言った。小柄な身体やふわっとした短めの髪、控えめで可愛い仕草や声、梨花とはなにもかもが真逆の女の子である。
「私のことは『麻衣』って呼んで。それでね、梨花ちゃんは校内の案内とかまだだよね?」
 コンビニで買ってきたらしいサンドイッチを小動物のように可愛らしく持って食べながら麻衣が尋ねてくる。
「うん、まだだよ」
「ならご飯食べてから私と一緒に校内を少し回らない? この学校大きいから昼休みだけで全部回るのは無理だけど、少し見ておくだけでも違うと思うし」
 願ってもない話に梨花は嬉しくなって「うん」と言って頷いた。
 外から見た時も思ったがこの学校は縦にも横にも大きく、校舎数も他校とは比較にすらならない。国内有数のマンモス校というだけはあって、とにかく驚くほど敷地が広いのだ。学年は各20クラスずつ。特進科4クラスに体育科が2クラス、あとは芸能科等を含めた普通科14クラス。
 生徒数があまりに多すぎて、三年間だけでは同学年の全員を把握するのは不可能に近いだろう。これほどに規模が大きな学校なのに響と一緒のクラスになってしまった自分の不運を恨みながら、梨花は自分の作ったお弁当を口に運んだ。
 和やかな雰囲気で昼食を終えた梨花は、先ほどの麻衣の言葉どおり校内を案内してもらっていた。
「ここが美術室。隣は今は何も使ってないから空き教室になってるの」
「あれ? 美術室ってさっきもなかった?」
「さっきのは第二美術室で、主に彫刻専門。こっちは第一美術室で、絵画専門。でも部活とか専攻科目じゃない限りあまり使うことはないかも」
「……そうなんだ」
 麻衣が職員室で貰ってきてくれた校内見取り図を見ながら一緒に校舎を歩く。
 そこそこ記憶力には自信のある梨花だったが、この学校の規格外の大きさに早くも挫折しそうになっていた。体育館が三つあるだけでも驚いたというのに特別教室も用途に応じて分けてあるらしく、それぞれの位置を覚えるだけでも一苦労である。
 学校の広さにも辟易していたが、噂の広がりが異常に早いことも梨花の気分が降下する一因であった。麻衣に案内されながら梨花が校内を歩いていると、どこのクラスの誰かも分からない子達から響との関係を聞かれたのだ。
 それも、一人からではなく何人も。今日この学校へ来たばかりだというのに、梨花のことは朝の一件のせいですっかり噂の的になっているようだった。
 そんな梨花の耳に、どこからともなくピアノの音色が流れてきた。
「麻衣、この辺り音楽室もあるの?」
「音楽室はここの真下だけど、どうして分かったの?」
「ほんの少しだけどピアノの音が聞こえるから」
 梨花自身あまりクラシックを聴かないため曲名は分からなかったが、微かに聞こえてくる綺麗で優しい音は、昔どこかで聴いたことがあるような懐かしさを感じた。
 麻衣に案内されて階段を下りると、彼女の言うように確かにそこには第二音楽室があった。
 その僅かに開いた扉の隙間から流れてくる音色に導かれるよう、扉の小窓から中の様子を覗いた梨花は心底驚いた。ピアノを弾いていたのは響だった。
(あれ、響君ってピアノなんか弾けたっけ……? 私と別れた後に習ったのかな)
 今の今まで響がピアノを弾いているところなど梨花は見たことがなかったし、響の口から「ピアノ」なんて出てきたこともなかった。不思議に思ったものの、流れてくる音色がなんだかとても心地よくて梨花は黙って聴き入ってしまっていた。
「やっぱり柊君だったんだ」
 麻衣がポツリと言うものだから、梨花は続きを促すように彼女を見た。
「柊君、たまにこうやって音楽室でピアノ弾いてるよ。でもね、弾いてる最中に人が入るとすごく怒るらしいから、ほら、今誰もいないでしょ?」
 苦笑する麻衣に言われて見てみると、確かに音楽室の中には誰もいなかった。そして外にも、梨花と麻衣以外誰もいない。先ほどの取り巻き達はどうしたんだろうと疑問に思っていたところで、どうやら響は弾き終わったらしく、綺麗だった音色が止まった。
 鍵盤をぼんやりと見つめていた響の目がふいに廊下へと向けられ、そこにいた梨花を捉える。目を丸くしてきょとんとしている響の「どうしてこんなところに」とでも言いたげな眼差しに、梨花は正直いたたまれない気分になる。
「梨花ちゃん、柊君が見てるよ?」
「ま、麻衣、もう行こうっ! ねっ!?」
「あー、もしかして梨花ちゃん照れてる?」
「照れてないし違うから!」
 いくらピアノを弾いているのが響と知らなかったとはいえど、ここへ来てしまったのは音色に惹かれたからだ。それがなんだか、響に惹かれて来てしまったみたいで少し悔しい気分になる。ちっぽけなプライドだったが許せなくて、一刻も早くこの場から立ち去ろうと梨花は麻衣の手を引く。
 そんな梨花の複雑な心中とは裏腹に、響は優しく微笑むと梨花に向かって手招きをしてきた。
「ほら梨花ちゃん、柊君呼んでるよっ。行ってきなよ!」
「いいってば、せっかく校内回ってたのに……」
「校内はまた明日回ればいいよ! じゃあ私教室戻ってるから、何があったか後でちょこっとでいいから教えてね!」
 何やら興奮ぎみの麻衣はそうとだけ言うと手を振って走っていってしまった。この様子ではまた後で周りから色々聞かれそうで、憂鬱になった梨花は重い足取りで音楽室へと入った。廊下とはうってかわり、日当たりの良い音楽室の中は暖かい陽気に包まれていた。
「聴いててくれたの?」
 響もまた、この音楽室の雰囲気に合うような穏やかな笑みを浮かべていた。
「聴いてたって言っても、ほんの少しだけどね。響君ってピアノなんて弾けたのね」
「小さい頃習ってたから」
 響の言っていることが嘘だと梨花にはすぐに分かった。ピアノなんて、梨花と一緒にいた頃は一度も弾いていない。響の家にだってピアノなんて無かったし、響とはほぼ毎日遊んでいたから彼が習い事をしていなかった事も知っている。
 だがそれを追求する気にもなれなくて、梨花は「そう」とだけ言って知らないふりをした。
「今の、なんていう曲か知ってる?」
「聴いたことはあるけど、タイトルは知らない。私そんなにクラシックは聴かないから」
「結構有名な曲なんだけどなぁ」
「わ、悪かったわねそんな有名な曲のタイトルも知らないでっ」
 いたずらげに響が笑うものだから、なんだか悔しくなって梨花はついムキになって言い返してしまった。すると響は更にクスクスと可笑しそうに笑って、それが余計にからかわれているようで癪に障った。
「そうやってすぐ怒るところ、変わってないよね」
 屋上で話した時はあんなに気弱だったのに、今梨花の前にいる響にはどこか余裕さえ感じられる。
「七年ぶりだけど本当に変わってない」
 響は独り言のようにぽつりと零す。
 そうしてピアノ椅子から立ち上がった響は梨花をまっすぐに見つめていた。優しげな目と微笑みが綺麗な造作の顔を一層引き立てていて、息を呑むくらいに綺麗だと思った。
 七年前、まだ幼かった梨花の初恋は無惨な形で幕を下ろしたはずだった。けれど、それはまだ終わっていなかったのかもしれない。
「おかえり、“梨花ちゃん”」
 目を細めて、妖しげな微笑みを纏う響は、いつもとはまるで別人のように見えた。
 そしてこれが、梨花の初恋がまだ終わっていなかったことを知らせる合図だった。